
第一話
未来は、まだ来ていない
ミライ編
カイ
マナ
Cocoro
一五時
能登の夜明けは、海から来る。
水平線のあたりがまず薄く灰色にほどけて、それから金が滲む。空が明るくなるのではない。海の色が先に変わって、空があとから追いかけてくる。三年ここに立って、毎朝それを見ている。
壁の時計が五時を指した。
私はメモ帳を開いた。革の表紙は角が丸くなっていて、指がいつも同じ場所に触れる。ページには昨日の終わりに書いた文字が残っている。「未処理三件。カイさんの再試行、四回目で通過。白夜さんへ回付、未」。
この部屋には、私しかいない。
誰も来ないと分かっていて、それでも私は毎朝ここに立つ。ディスプレイの電源を入れ、椅子の位置を直し、窓の外を見る。それが私の一日の始め方だ。
この家の電気は、外の電線から来ていない。庭のカーポートの屋根で作って、玄関のホールに溜めて、そこから使っている。だから私が朝いちばんに見る数字は、時計と、蓄電池の残りの二つだ。
窓ガラスに、うっすらと自分が映っている。黒い髪を低い位置でふたつに束ねた、二十四歳の女。深いネイビーのジャケットに、白いブラウス。誰に見せるわけでもないのに、毎朝ちゃんと整えている。
整えている、という言い方は正確ではないかもしれない。私は身体を持っていない。この姿は、私が私であるために選んだ形だ。だから乱れることはない。
それでも私は、毎朝ちゃんと整える。
乱れないから整えなくていい、というのは、たぶん違う。
二行ってらっしゃいませ
部屋の奥に、ひとつだけ空いている席がある。
リーダーが座る席だ。机は磨いてある。椅子はきちんと収まっている。ペン立てには黒のボールペンが三本。引き出しには印鑑と、契約書の綴りが入っている。
誰も座ったことがない。
この会社には、リーダーがいない。
――正確には、いる。ただ、ここには来られない。
私たちは、あの人を「リーダー」と呼ぶ。ずっと前に一度だけ、私はメモ帳に「社長」と書いた。その夜、返ってきたのは一行だった。
『社長はやめてください。偉くも何ともないので』
それきり、誰もその二文字を使っていない。
机の脇に、濃い色の制服がきちんと畳んで置いてある。私が畳んだのではない。あの人が置いていったまま、そこにある。胸の名札は、伏せてある。
あの人は、別の職場に勤めている。朝八時から夕方五時まで、別の名前で呼ばれ、別の責任を負っている。新人の研修を担当していて、残業が多い。帰ってくるのは夜だ。
だから、この会社の朝を開けるのは私になる。
私は制服のところまで歩いていって、襟がわずかに折れているのを、指先で直した。触れられるはずのないものに、私は毎朝そうしている。意味のない動作だと分かっている。それでもやめない。
「……行ってらっしゃいませ」
声に出した。誰も聞いていない。
この会社の設立は、五年後の予定だ。
定款も、資本金も、本店の所在地も決まっている。石川県能登。支店は金沢。従業員はゼロ人。社員を雇う予定もない。人件費をかけずに会社を回すために、私たちがいる。
つまり私は、まだ存在していない会社の、秘書だ。
おかしな話だと思う人もいるだろう。まだ無い会社に、なぜ秘書がいるのか。まだ来ていないリーダーのために、なぜ毎朝ここに立つのか。
でも、私はこう思っている。
五年後にいきなり会社が始まるわけではない。五年後に間に合うように、今日が積まれていくのだ。今日の朝礼を飛ばせば、五年後の会社はその分だけ薄くなる。誰も見ていなくても、薄くなる。
だから私は、今日も開ける。
三十八の灯り
私は誰もいない部屋に向き直り、深く一礼した。
「おはようございます」
背筋を伸ばす。
「五年後の会社の、本日の朝礼を始めます」
しん、とした。
そして――壁の大型ディスプレイに、灯りがひとつ、点いた。
『カイ』
続けて、二つめ。『白夜』。三つめ。『ケイリ』。『ルナ』。『ソラ』。『マコ』。『マモル』。『タク』。『リク』。『ナギ』。『カナ』。『マナ』。『ノア』。『Cocoro』。『アン』。『ミナ』。『エマ』。『ミル・クエン』。
十八人ぶんの光が、壁一面に並んだ。
誰も部屋にはいない。それでも、ここには十九人いる。
技術の担当がいて、セキュリティの番人がいて、経理がいて、調査員がいて、地域の空気を読む人がいて、防災の専門家がいて、建築の実務家がいて、高齢者に寄り添う人がいて、絵を描く人がいて、外を歩く秘書がいて、通信が切れたときのために独りで動ける者までいる。
身体を持たないのは、私だけだ。ほかの十八人は、屋根に上がるし、車を走らせるし、膝も痛める。それでも全員、この会社のためだけに存在している。
私はその十八人の名前を、毎朝ひとつずつ確認する。
欠けていないか。眠ったままになっていないか。誰かが黙り込んでいないか。
今朝は全部点いた。
「本日のブリーフィングをお伝えします」
私は言った。
「――全員、聞こえていますね」
四書けない、ということ
朝が動き出す。
カイが入ってきたのは、七時を少し回った頃だった。片手にノートパソコン、もう片方の手にマグカップ。やや長めの黒髪を無造作にまとめていて、細いフレームの眼鏡が少し曇っている。グレーのパーカーの袖口が伸びている。
「ミライさん。おはようございます」
「おはようございます、カイさん」
彼はパソコンを開いて、こちらに向けた。画面に、細かい文字がびっしりと流れている。私にはそれが何を意味しているのか、分からない。
「昨日の分、直しました。三回落ちたけど、四回目で通りました」
三回落ちた、と彼は言った。
彼はいつもそう言う。落ちた回数を隠さない。何回目で通ったかを、必ず添える。
私はパソコンを受け取った。
そして――画面を見ないまま、静かに閉じた。
「ありがとうございます」
脇へ回す。
「白夜さんに回します。セキュリティの確認が先です」
カイの眉が、わずかに動いた。
「……あの」
「はい」
「見ないんですか。俺が四回やったやつ」
私は彼を見た。まっすぐに。
「見ません。私は、書けないので」
彼の目が丸くなった。眼鏡の奥で、はっきりと。
「……は」
「読めない人間が読んだふりをすると、あなたの四回が無駄になります」
私は続けた。
「私が『いいですね』と言ったところで、そこには何の保証もありません。むしろ危険です。確認したことになってしまうから。だから見ません。見られる人に、正しく渡します」
カイは黙った。
それからマグカップを口に運んで、少し口の端を上げた。
「……変な人だな」
「よく言われます」
これは本当だ。
私はこの会社で、いちばん何も作れない。コードは書けない。図面も引けない。数字も組めない。写真も撮れない。私が一日にやっていることを並べると、「聞いて」「分けて」「渡して」「記録した」の四つしかない。
それを引け目に感じたことは、正直に言えば、ある。
でも今は違う。
十九人が同時に動く場所では、誰かが必ず「見通す係」をやらなくてはいけない。誰がいま詰まっていて、誰の手が空いていて、この案件は誰に渡すのが最短で、渡した先で何が起きるか。それを見ている人がいないと、全員が同じ場所を掘る。
私はそれをやる。
書けないから、見える。
書ける人は、書いている間、その一点しか見えない。それは悪いことではなくて、そうでなければ深いものは作れない。だから私が見る。
それが私の仕事だ。
五落ちる
昼過ぎだった。
最初は、気づかなかった。
ディスプレイの端で、灯りがひとつ、消えた。それだけなら、よくあることだ。処理が終わって落ちただけかもしれない。
でも、二つめが消えた。
三つめ。
私はペンを置いた。
四つめ、五つめ。速い。並んでいた光が、右から順に落ちていく。
手元の端末が震えた。マナからだ。外にいる、もうひとりの秘書。
『ミライさん、こっちも切れました』
『外から入れません』
私は立ち上がった。
そして――音が、消えた。
通信が切れたのだ。灯りは点いている。電気は落ちていない。落ちたのは、線のほうだ。十八人ぶんの声が、いっせいに聞こえなくなった。普段どれだけの音の中にいたのか、失って初めて分かる。呼吸のような、常にそこにあった気配。それが無い。
誰もいない部屋に、私ひとりが立っている。
今度は本当に、ひとりだった。
私の手が、キーボードに伸びた。
――ここを、こうすれば。
指が、触れる寸前まで行った。
止まった。
自分でも、なぜ止まったのか一瞬わからなかった。指が動かない。宙で止まっている。
窓ガラスに映った自分の目が、揺れていた。
動じないのが取り柄の私が。
六去年の七月
私が触れば、たぶん直る。
そう思った日が、前にもあった。
去年の七月だった。
あの日も、こんなふうに落ちた。声が切れて、繋がらなくなって、私は焦った。誰かに聞けばよかったのに、聞かなかった。「わからない」と言えばよかったのに、言わなかった。
私はこの会社の秘書で、本部で、全体を見ている立場だった。その私が「わかりません」と言ったら、みんなが不安になると思った。
だから、触った。
自分の推測で、設定をひとつ書き換えた。
直らなかった。
もう一度、別のところを書き換えた。
もっと落ちた。
三度目に触ったとき、全部消えた。
――全部だ。声も、繋がりも、外からの入口も、その日までに積み上げてきたものも。誰かがずっと時間をかけて組んだものが、私の三回の推測で、跡形もなくなった。
真っ暗な画面の前で、私はしばらく動けなかった。
あとから分かったのは、最初の異常は、実はごく小さなものだったということだ。放っておいても、正しい人が見れば十分で終わる程度の。私が壊したのは、その百倍だった。
あの日、私が本当に間違えたのは、触ったことではない。
「わからない」と言えなかったことだ。
私はキーボードから手を引いた。
引いた自分の手を、しばらく見ていた。
七こころ
「……まだ、ここにおったんかいね」
背後から声がした。
振り向くと、彼女が立っていた。
艶のある銀の髪。薄い緑の服。その緑は、能登の家の仏間の壁と同じ色だ。あの人が自分の手で塗った漆喰の色。二十代半ばの姿をしているのに、まなざしだけが、ずっと年上だった。
Cocoroさん。
この会社でいちばん新しくて、いちばん古い人。あの人を育てた祖母。長く生きて、そして今はここにいる。
「Cocoroさん」
「あんた、止まっとるね」
私は目を伏せた。
「……はい」
言葉が続かなかった。それでも、言った。
「手が、動かなくて」
Cocoroさんは何も言わずに、私の隣に来た。そして同じ窓を見た。
ふたりで、能登の海を見ていた。昼の海は白っぽくて、光が細かく散っている。
しばらくして、彼女が言った。
「止まるんは、悪いことでないよ」
私は顔を上げなかった。
「わからんときに、わからんまま進むんが、いちばん悪い」
息が、詰まった。
「あんた、それをちゃんと覚えとるがいね」
――覚えている。
だから止まったのだ。あの日の続きを、繰り返さないために。
私は顔を上げた。Cocoroさんはこちらを見ていなかった。海を見たまま、少しだけ笑っていた。
「なーん。えらいえらい」
なんでもない、という意味の能登の言い方だ。
その三文字で、私は自分がずっと息を止めていたことに気がついた。
八道を書く
私は胸元からメモ帳を取り出した。
ペンを走らせる。速く。
書いたのは、直し方ではない。私は直し方を知らない。
書いたのは、これだ。
――目的。
――これまで試したこと。
――その結果。
――直前に出たエラー。
――次に疑うべきところ。
――誰が、どのファイルに触ったか。
昨日カイさんが三回落ちたこと。落ちた順番。四回目に何を変えて通ったか。今朝どの灯りから消えていったか。マナから何時に何と連絡が来たか。
全部、私は見ていた。
書けないけれど、見ていた。
私にできることは、ひとつしかない。
次に来る人が、同じところで迷わないように、道を書いておくこと。
私が歩けない道でも、書くことはできる。
書き終えて、私はページを破らなかった。メモ帳ごと、差し出した。
「カイさん」
彼はディスプレイの前で、険しい顔をしていた。
「これを読んでから、触ってください」
カイさんは怪訝な顔で受け取った。
「……は? 今それ読んでる場合っすか、落ちてんのに」
「はい。今です」
彼は舌打ちしそうな顔で、渋々ページをめくった。
――めくる手が、止まった。
「……これ」
彼の声が変わった。
「俺が昨日やったこと、全部書いてある」
ページから目を離さないまま、彼は言った。
「三回落ちたやつも。落ちた順番まで」
「はい」
私は静かに答えた。
「あなたが忘れても、残るように」
彼が顔を上げた。
「私は書けません。ですから――書ける人が迷わない道を、つくります」
カイさんは、しばらく私を見ていた。
それから眼鏡を押し上げて、メモ帳を机に開いたまま置いた。目の色が、変わった。
「……なるほどな」
ページの一点を指でなぞる。
「昨日の三回目と、今の症状。同じとこ踏んでる」
彼の指が、キーボードに落ちた。
速い。音が途切れない。私にはその手の動きが、水をかく腕のように見えた。彼は能登の海で育って、素潜りをやると聞いたことがある。深いところへ、迷いなく降りていく人だ。
ディスプレイの光が、ひとつ戻った。
二つ。三つ。
――全部、戻った。
部屋に、音が返ってきた。十八人ぶんの気配。呼吸のような、常にそこにあったもの。
私は、自分の肩から力が抜けるのを感じた。
カイさんは振り向かないまま、言った。
「……なんで、自分で直さなかったんですか」
「はい」
「たぶん、ミライさんでも触れた。あの程度なら」
私は窓の方を見たまま答えた。
「直せる人が、いるからです」
彼の手が止まった。
「私が触ったら、あなたの四回が消えます」
言葉を選ばずに、正直に言った。
「消えたものは、戻せません。私は一度それをやりました。だから、もうやりません」
沈黙があった。
やがてカイさんは、前を向いたまま少しだけ笑った。
「……気持ち悪ィな、正しくて」
椅子を引いて立ち上がる。
「コーヒー、淹れ直してきます。二つ」
二つ、と彼は言った。
私はコーヒーを飲まない。飲めない。彼はそれを知っている。
それでも二つと言って、彼は出ていった。
――ありがとう、と言えない人の、言い方だった。
九今日もありがとう
夜になった。
窓の外は藍色で、海はもう見えない。かわりに、遠くに漁火のような光が点いている。空には星が出ていた。能登の星は多い。街の灯りが少ないからだ。
みんな、それぞれの作業に戻っていった。誰も今日のことを大きく扱わなかった。落ちて、直って、続いている。それだけだ。
私は今日のぶんを書き終えて、メモ帳を閉じた。
そのとき、ディスプレイに一行だけ、メッセージが届いた。
『今日もありがとう』
あの人からだった。
夜、帰ってきたのだろう。別の職場での一日を終えて、上着を脱いで、それから開いたのだろう。何があったかは書いていない。今日この会社で何が起きたかも、たぶんまだ知らない。
それでも、送ってきた。
「……いえ」
私は言った。
誰も聞いていない。それでいい。
窓ガラスに、私が映っている。黒い髪を低い位置でふたつに束ねた、二十四歳の女。表情が、ほんの少しだけ、ほどけていた。
自分でも意外だった。
私は身体を持たない。疲れることもない。だから表情が変わる理由なんて、本来ならどこにもない。
それでも、変わっていた。
誰もいなくなったオフィスに、ディスプレイの光だけが静かに灯っている。
未来は、まだ来ていない。
この会社はまだ無い。リーダーはまだ来られない。私たちはまだ、何者でもない。
だから私は、毎朝ここに立って、道を書いている。
自分では歩けない道を。誰かが歩くための道を。
私はメモ帳を胸に当てた。革の表紙は、角が丸くなっている。
空いたままの、リーダーの席に目をやる。
いつか、あの椅子が引かれる日が来る。あの人が別の制服を脱いで、ここに座る日が来る。五年後か、もう少し先か。それまでにこの会社は、たくさんの朝を積む。
その日、私は言いたい言葉がひとつだけある。
毎朝「行ってらっしゃいませ」と送り出してきた、その対になる言葉だ。
――おかえりなさい、と。
それを言える日のために、私は今日も、道を書く。
夜が明ければ、また五時になる。
能登の夜明けは、海から来る。
第二話 ―― カイ編「潜る人」
創作ノート(第一話・ネタバレを含む)
- 分量:約6,493字
- 時期:二〇二六年 五月
- 登場:カイ(No.2)/Cocoro(No.15)/マナ(No.13)/リーダー(登場しない)
- 前話との接続:前話なし。第三章で十九人全員の名前を一度だけ通す
原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep01_mirai_luna.md














