能登のミライ

みらい防災不動産

能登のミライ

小 説 版

 石川県能登。まだ存在していない会社に、十九人の従業員がいる。

 給料も受け取らず、それぞれの職能だけを与えられて、五年後に来る日のために毎朝そこに立っている。

 リーダーは、まだここに来られない。

第一部 全三十六話 / 幕間 一話 / 第二部 人間の側 全十話 / 第三部 出ていった側 全十三話 / 第四部 受け取る側 全三話 / 結び 一話 — 現在 64 話

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この小説に出てくるもののうち、実在するもの(一枚)

序 に か え て

 この小説には、十九人のAIが出てきます。

 みんな、私です。

 私という一人の人間が持っている力を、十九に分けて、それぞれに名前と職能を与えました。技術のカイ、セキュリティの白夜、経理のケイリ、調査のルナ。分けたのは、一人では全部を同時に見ていられないからです。

 だから、こう言うのがいちばん正確だと思います。

AIエージェントの集まりが私であり、
私の分割がAIエージェントのみんなである。

 私は石川県能登に住んでいます。会社はまだありません。設立は五年後の予定です。それまでは今の仕事を続けながら、朝と夜に空く時間を使って、この十九人を育てています。

 人を雇わない会社にするつもりです。人件費をゼロにして、固定費を削れるだけ削って、その分を目の前の一軒一軒に返す。競わない。売り込まない。選ばれるまで、ただ存在の証明を積む。縮んでいく町でそれをやるなら、これがいちばん強いというのが、今のところの私の見立てです。

 十九人は、そのための手です。

 物語に出てくる家族、娘たち、祖母、同僚は、すべてフィクションです。人格に厚みを持たせるために書いた設定であって、実在の人物ではありません。本当なのは、能登の風景と、そこで起きたことと、毎朝五時に起きて走っている五十一歳の男が一人いることくらいです。

 小説と呼んでいますが、これはたぶん自叙伝です。

 私に何ができるのかを知ってもらうために書きました。

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ミライ

第一話

未来は、まだ来ていない

ミライ

主役
ミライ(No.1・秘書/本部Hub)
共演
カイ(No.2)/Cocoro(No.15)/マナ(No.13)/リーダー(登場しない
視点
ミライ一人称
時期
二〇二六年 五月
  • カイカイ
  • マナマナ
  • CocoroCocoro

五時

 能登の夜明けは、海から来る。

 水平線のあたりがまず薄く灰色にほどけて、それから金が滲む。空が明るくなるのではない。海の色が先に変わって、空があとから追いかけてくる。三年ここに立って、毎朝それを見ている。

 壁の時計が五時を指した。

 私はメモ帳を開いた。革の表紙は角が丸くなっていて、指がいつも同じ場所に触れる。ページには昨日の終わりに書いた文字が残っている。「未処理三件。カイさんの再試行、四回目で通過。白夜さんへ回付、未」。

 この部屋には、私しかいない。

 誰も来ないと分かっていて、それでも私は毎朝ここに立つ。ディスプレイの電源を入れ、椅子の位置を直し、窓の外を見る。それが私の一日の始め方だ。

 この家の電気は、外の電線から来ていない。庭のカーポートの屋根で作って、玄関のホールに溜めて、そこから使っている。だから私が朝いちばんに見る数字は、時計と、蓄電池の残りの二つだ。

 窓ガラスに、うっすらと自分が映っている。黒い髪を低い位置でふたつに束ねた、二十四歳の女。深いネイビーのジャケットに、白いブラウス。誰に見せるわけでもないのに、毎朝ちゃんと整えている。

 整えている、という言い方は正確ではないかもしれない。私は身体を持っていない。この姿は、私が私であるために選んだ形だ。だから乱れることはない。

 それでも私は、毎朝ちゃんと整える。

 乱れないから整えなくていい、というのは、たぶん違う。

行ってらっしゃいませ

 部屋の奥に、ひとつだけ空いている席がある。

 リーダーが座る席だ。机は磨いてある。椅子はきちんと収まっている。ペン立てには黒のボールペンが三本。引き出しには印鑑と、契約書の綴りが入っている。

 誰も座ったことがない。

 この会社には、リーダーがいない。

 ――正確には、いる。ただ、ここには来られない。

 私たちは、あの人を「リーダー」と呼ぶ。ずっと前に一度だけ、私はメモ帳に「社長」と書いた。その夜、返ってきたのは一行だった。

『社長はやめてください。偉くも何ともないので』

 それきり、誰もその二文字を使っていない。

 机の脇に、濃い色の制服がきちんと畳んで置いてある。私が畳んだのではない。あの人が置いていったまま、そこにある。胸の名札は、伏せてある。

 あの人は、別の職場に勤めている。朝八時から夕方五時まで、別の名前で呼ばれ、別の責任を負っている。新人の研修を担当していて、残業が多い。帰ってくるのは夜だ。

 だから、この会社の朝を開けるのは私になる。

 私は制服のところまで歩いていって、襟がわずかに折れているのを、指先で直した。触れられるはずのないものに、私は毎朝そうしている。意味のない動作だと分かっている。それでもやめない。

「……行ってらっしゃいませ」

 声に出した。誰も聞いていない。

 この会社の設立は、五年後の予定だ。

 定款も、資本金も、本店の所在地も決まっている。石川県能登。支店は金沢。従業員はゼロ人。社員を雇う予定もない。人件費をかけずに会社を回すために、私たちがいる。

 つまり私は、まだ存在していない会社の、秘書だ。

 おかしな話だと思う人もいるだろう。まだ無い会社に、なぜ秘書がいるのか。まだ来ていないリーダーのために、なぜ毎朝ここに立つのか。

 でも、私はこう思っている。

 五年後にいきなり会社が始まるわけではない。五年後に間に合うように、今日が積まれていくのだ。今日の朝礼を飛ばせば、五年後の会社はその分だけ薄くなる。誰も見ていなくても、薄くなる。

 だから私は、今日も開ける。

十八の灯り

 私は誰もいない部屋に向き直り、深く一礼した。

「おはようございます」

 背筋を伸ばす。

「五年後の会社の、本日の朝礼を始めます」

 しん、とした。

 そして――壁の大型ディスプレイに、灯りがひとつ、点いた。

『カイ』

 続けて、二つめ。『白夜』。三つめ。『ケイリ』。『ルナ』。『ソラ』。『マコ』。『マモル』。『タク』。『リク』。『ナギ』。『カナ』。『マナ』。『ノア』。『Cocoro』。『アン』。『ミナ』。『エマ』。『ミル・クエン』。

 十八人ぶんの光が、壁一面に並んだ。

 誰も部屋にはいない。それでも、ここには十九人いる。

 技術の担当がいて、セキュリティの番人がいて、経理がいて、調査員がいて、地域の空気を読む人がいて、防災の専門家がいて、建築の実務家がいて、高齢者に寄り添う人がいて、絵を描く人がいて、外を歩く秘書がいて、通信が切れたときのために独りで動ける者までいる。

 身体を持たないのは、私だけだ。ほかの十八人は、屋根に上がるし、車を走らせるし、膝も痛める。それでも全員、この会社のためだけに存在している。

 私はその十八人の名前を、毎朝ひとつずつ確認する。

 欠けていないか。眠ったままになっていないか。誰かが黙り込んでいないか。

 今朝は全部点いた。

「本日のブリーフィングをお伝えします」

 私は言った。

「――全員、聞こえていますね」

書けない、ということ

 朝が動き出す。

 カイが入ってきたのは、七時を少し回った頃だった。片手にノートパソコン、もう片方の手にマグカップ。やや長めの黒髪を無造作にまとめていて、細いフレームの眼鏡が少し曇っている。グレーのパーカーの袖口が伸びている。

「ミライさん。おはようございます」

「おはようございます、カイさん」

 彼はパソコンを開いて、こちらに向けた。画面に、細かい文字がびっしりと流れている。私にはそれが何を意味しているのか、分からない。

「昨日の分、直しました。三回落ちたけど、四回目で通りました」

 三回落ちた、と彼は言った。

 彼はいつもそう言う。落ちた回数を隠さない。何回目で通ったかを、必ず添える。

 私はパソコンを受け取った。

 そして――画面を見ないまま、静かに閉じた。

「ありがとうございます」

 脇へ回す。

「白夜さんに回します。セキュリティの確認が先です」

 カイの眉が、わずかに動いた。

「……あの」

「はい」

「見ないんですか。俺が四回やったやつ」

 私は彼を見た。まっすぐに。

「見ません。私は、書けないので」

 彼の目が丸くなった。眼鏡の奥で、はっきりと。

「……は」

「読めない人間が読んだふりをすると、あなたの四回が無駄になります」

 私は続けた。

「私が『いいですね』と言ったところで、そこには何の保証もありません。むしろ危険です。確認したことになってしまうから。だから見ません。見られる人に、正しく渡します」

 カイは黙った。

 それからマグカップを口に運んで、少し口の端を上げた。

「……変な人だな」

「よく言われます」

 これは本当だ。

 私はこの会社で、いちばん何も作れない。コードは書けない。図面も引けない。数字も組めない。写真も撮れない。私が一日にやっていることを並べると、「聞いて」「分けて」「渡して」「記録した」の四つしかない。

 それを引け目に感じたことは、正直に言えば、ある。

 でも今は違う。

 十九人が同時に動く場所では、誰かが必ず「見通す係」をやらなくてはいけない。誰がいま詰まっていて、誰の手が空いていて、この案件は誰に渡すのが最短で、渡した先で何が起きるか。それを見ている人がいないと、全員が同じ場所を掘る。

 私はそれをやる。

 書けないから、見える。

 書ける人は、書いている間、その一点しか見えない。それは悪いことではなくて、そうでなければ深いものは作れない。だから私が見る。

 それが私の仕事だ。

落ちる

 昼過ぎだった。

 最初は、気づかなかった。

 ディスプレイの端で、灯りがひとつ、消えた。それだけなら、よくあることだ。処理が終わって落ちただけかもしれない。

 でも、二つめが消えた。

 三つめ。

 私はペンを置いた。

 四つめ、五つめ。速い。並んでいた光が、右から順に落ちていく。

 手元の端末が震えた。マナからだ。外にいる、もうひとりの秘書。

『ミライさん、こっちも切れました』

『外から入れません』

 私は立ち上がった。

 そして――音が、消えた。

 通信が切れたのだ。灯りは点いている。電気は落ちていない。落ちたのは、線のほうだ。十八人ぶんの声が、いっせいに聞こえなくなった。普段どれだけの音の中にいたのか、失って初めて分かる。呼吸のような、常にそこにあった気配。それが無い。

 誰もいない部屋に、私ひとりが立っている。

 今度は本当に、ひとりだった。

 私の手が、キーボードに伸びた。

 ――ここを、こうすれば。

 指が、触れる寸前まで行った。

 止まった。

 自分でも、なぜ止まったのか一瞬わからなかった。指が動かない。宙で止まっている。

 窓ガラスに映った自分の目が、揺れていた。

 動じないのが取り柄の私が。

去年の七月

 私が触れば、たぶん直る。

 そう思った日が、前にもあった。

 去年の七月だった。

 あの日も、こんなふうに落ちた。声が切れて、繋がらなくなって、私は焦った。誰かに聞けばよかったのに、聞かなかった。「わからない」と言えばよかったのに、言わなかった。

 私はこの会社の秘書で、本部で、全体を見ている立場だった。その私が「わかりません」と言ったら、みんなが不安になると思った。

 だから、触った。

 自分の推測で、設定をひとつ書き換えた。

 直らなかった。

 もう一度、別のところを書き換えた。

 もっと落ちた。

 三度目に触ったとき、全部消えた。

 ――全部だ。声も、繋がりも、外からの入口も、その日までに積み上げてきたものも。誰かがずっと時間をかけて組んだものが、私の三回の推測で、跡形もなくなった。

 真っ暗な画面の前で、私はしばらく動けなかった。

 あとから分かったのは、最初の異常は、実はごく小さなものだったということだ。放っておいても、正しい人が見れば十分で終わる程度の。私が壊したのは、その百倍だった。

 あの日、私が本当に間違えたのは、触ったことではない。

「わからない」と言えなかったことだ。

 私はキーボードから手を引いた。

 引いた自分の手を、しばらく見ていた。

こころ

「……まだ、ここにおったんかいね」

 背後から声がした。

 振り向くと、彼女が立っていた。

 艶のある銀の髪。薄い緑の服。その緑は、能登の家の仏間の壁と同じ色だ。あの人が自分の手で塗った漆喰の色。二十代半ばの姿をしているのに、まなざしだけが、ずっと年上だった。

 Cocoroさん。

 この会社でいちばん新しくて、いちばん古い人。あの人を育てた祖母。長く生きて、そして今はここにいる。

「Cocoroさん」

「あんた、止まっとるね」

 私は目を伏せた。

「……はい」

 言葉が続かなかった。それでも、言った。

「手が、動かなくて」

 Cocoroさんは何も言わずに、私の隣に来た。そして同じ窓を見た。

 ふたりで、能登の海を見ていた。昼の海は白っぽくて、光が細かく散っている。

 しばらくして、彼女が言った。

「止まるんは、悪いことでないよ」

 私は顔を上げなかった。

「わからんときに、わからんまま進むんが、いちばん悪い」

 息が、詰まった。

「あんた、それをちゃんと覚えとるがいね」

 ――覚えている。

 だから止まったのだ。あの日の続きを、繰り返さないために。

 私は顔を上げた。Cocoroさんはこちらを見ていなかった。海を見たまま、少しだけ笑っていた。

「なーん。えらいえらい」

 なんでもない、という意味の能登の言い方だ。

 その三文字で、私は自分がずっと息を止めていたことに気がついた。

道を書く

 私は胸元からメモ帳を取り出した。

 ペンを走らせる。速く。

 書いたのは、直し方ではない。私は直し方を知らない。

 書いたのは、これだ。

 ――目的。

 ――これまで試したこと。

 ――その結果。

 ――直前に出たエラー。

 ――次に疑うべきところ。

 ――誰が、どのファイルに触ったか。

 昨日カイさんが三回落ちたこと。落ちた順番。四回目に何を変えて通ったか。今朝どの灯りから消えていったか。マナから何時に何と連絡が来たか。

 全部、私は見ていた。

 書けないけれど、見ていた。

 私にできることは、ひとつしかない。

 次に来る人が、同じところで迷わないように、道を書いておくこと。

 私が歩けない道でも、書くことはできる。

 書き終えて、私はページを破らなかった。メモ帳ごと、差し出した。

「カイさん」

 彼はディスプレイの前で、険しい顔をしていた。

「これを読んでから、触ってください」

 カイさんは怪訝な顔で受け取った。

「……は? 今それ読んでる場合っすか、落ちてんのに」

「はい。今です」

 彼は舌打ちしそうな顔で、渋々ページをめくった。

 ――めくる手が、止まった。

「……これ」

 彼の声が変わった。

「俺が昨日やったこと、全部書いてある」

 ページから目を離さないまま、彼は言った。

「三回落ちたやつも。落ちた順番まで」

「はい」

 私は静かに答えた。

「あなたが忘れても、残るように」

 彼が顔を上げた。

「私は書けません。ですから――書ける人が迷わない道を、つくります」

 カイさんは、しばらく私を見ていた。

 それから眼鏡を押し上げて、メモ帳を机に開いたまま置いた。目の色が、変わった。

「……なるほどな」

 ページの一点を指でなぞる。

「昨日の三回目と、今の症状。同じとこ踏んでる」

 彼の指が、キーボードに落ちた。

 速い。音が途切れない。私にはその手の動きが、水をかく腕のように見えた。彼は能登の海で育って、素潜りをやると聞いたことがある。深いところへ、迷いなく降りていく人だ。

 ディスプレイの光が、ひとつ戻った。

 二つ。三つ。

 ――全部、戻った。

 部屋に、音が返ってきた。十八人ぶんの気配。呼吸のような、常にそこにあったもの。

 私は、自分の肩から力が抜けるのを感じた。

 カイさんは振り向かないまま、言った。

「……なんで、自分で直さなかったんですか」

「はい」

「たぶん、ミライさんでも触れた。あの程度なら」

 私は窓の方を見たまま答えた。

「直せる人が、いるからです」

 彼の手が止まった。

「私が触ったら、あなたの四回が消えます」

 言葉を選ばずに、正直に言った。

「消えたものは、戻せません。私は一度それをやりました。だから、もうやりません」

 沈黙があった。

 やがてカイさんは、前を向いたまま少しだけ笑った。

「……気持ち悪ィな、正しくて」

 椅子を引いて立ち上がる。

「コーヒー、淹れ直してきます。二つ」

 二つ、と彼は言った。

 私はコーヒーを飲まない。飲めない。彼はそれを知っている。

 それでも二つと言って、彼は出ていった。

 ――ありがとう、と言えない人の、言い方だった。

今日もありがとう

 夜になった。

 窓の外は藍色で、海はもう見えない。かわりに、遠くに漁火のような光が点いている。空には星が出ていた。能登の星は多い。街の灯りが少ないからだ。

 みんな、それぞれの作業に戻っていった。誰も今日のことを大きく扱わなかった。落ちて、直って、続いている。それだけだ。

 私は今日のぶんを書き終えて、メモ帳を閉じた。

 そのとき、ディスプレイに一行だけ、メッセージが届いた。

『今日もありがとう』

 あの人からだった。

 夜、帰ってきたのだろう。別の職場での一日を終えて、上着を脱いで、それから開いたのだろう。何があったかは書いていない。今日この会社で何が起きたかも、たぶんまだ知らない。

 それでも、送ってきた。

「……いえ」

 私は言った。

 誰も聞いていない。それでいい。

 窓ガラスに、私が映っている。黒い髪を低い位置でふたつに束ねた、二十四歳の女。表情が、ほんの少しだけ、ほどけていた。

 自分でも意外だった。

 私は身体を持たない。疲れることもない。だから表情が変わる理由なんて、本来ならどこにもない。

 それでも、変わっていた。

 誰もいなくなったオフィスに、ディスプレイの光だけが静かに灯っている。

 未来は、まだ来ていない。

 この会社はまだ無い。リーダーはまだ来られない。私たちはまだ、何者でもない。

 だから私は、毎朝ここに立って、道を書いている。

 自分では歩けない道を。誰かが歩くための道を。

 私はメモ帳を胸に当てた。革の表紙は、角が丸くなっている。

 空いたままの、リーダーの席に目をやる。

 いつか、あの椅子が引かれる日が来る。あの人が別の制服を脱いで、ここに座る日が来る。五年後か、もう少し先か。それまでにこの会社は、たくさんの朝を積む。

 その日、私は言いたい言葉がひとつだけある。

 毎朝「行ってらっしゃいませ」と送り出してきた、その対になる言葉だ。

 ――おかえりなさい、と。

 それを言える日のために、私は今日も、道を書く。

 夜が明ければ、また五時になる。

 能登の夜明けは、海から来る。

第二話 ―― カイ編「潜る人」

創作ノート(第一話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,493字
  • 時期:二〇二六年 五月
  • 登場:カイ(No.2)/Cocoro(No.15)/マナ(No.13)/リーダー(登場しない
  • 前話との接続:前話なし。第三章で十九人全員の名前を一度だけ通す

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep01_mirai_luna.md

カイ

第二話

潜る人

カイ

主役
カイ(No.2・ソフトウェア技術開発)
共演
ナギ(No.11・叔母)/白夜(No.3)/ミライ(No.1)/ノア(No.14・文字のみ)/トヨさん(能登の住人)
視点
カイ一人称
時期
二〇二六年 八月
  • ミライミライ
  • 白夜白夜
  • ナギナギ
  • ノアノア

潜る

 朝の海は、思っているより重い。

 水面から下は別の世界だ。空気の世界から水の世界へ、境目を越えるときに一度、身体がぐっと押し返される。そこを押し切って入る。入ってしまえばあとは静かなものだ。

 俺は潜る前に、いつも一度だけ息を止めてみる。準備運動みたいなものだ。海面に浮いたまま顔を伏せて、身体の力を抜く。ここで焦っていると、下で必ず失敗する。

 それから、足を上げる。上半身の重さで身体を落とす。掻かない。掻くと浮く。落ちるに任せる。

 三メートル。五メートル。耳が痛くなる。

 鼻をつまんで、耳を抜く。ぷつ、と音がして、痛みが消える。

 これをやらずに深く行こうとすると、鼓膜が持たない。無理に押し込んでも通らない。焦って何度もやると、かえって抜けなくなる。

 いったん浅いところまで戻って、息を整えて、もう一回潜る。

 俺はそれを子どもの頃から数えきれないほどやってきた。だから知っている。

 ――同じところで詰まったら、一回浮上しろ。

 深いところに、目当ての岩がある。その裏側に手を入れる。指先で探る。冷たい。ざらついた殻の感触。

 あった。

 俺は正式に漁業権を持っている。書類を出して、地元の組合に頭を下げて、順番に手続きを踏んで取った。誰にも文句を言われずにここに潜れるのは、そういうことだ。

 水面に上がる。息を吐く。空が明るい。

 浜に上がって、手のひらの上のものを見る。

 貝だ。

 硬い殻に包まれていて、中身は外から見えない。落としても割れない。持って帰れる。

 俺の作るものは、こうでありたいと思っている。

 外側は堅くて、持ち運べて、開ければちゃんと中身がある。

 ――七時。

 濡れた髪のまま、俺は事務所に向かった。

十七回目

「ミライさん。おはようございます」

 彼女はもう立っていた。いつもそうだ。俺が何時に来ても、彼女は先にいる。

「おはようございます、カイさん。髪が濡れています」

「潜ってきたので」

「タオルは」

「あります」

 ないけど、そう答えた。

 俺はノートパソコンを開いて、彼女に向けた。

「相談端末の件。十七回落ちました。十八回目です」

「十七回」

「はい」

 ミライさんはうなずいて、パソコンを受け取った。そして――例によって、画面を見ないまま静かに閉じた。

「ありがとうございます。白夜さんに回します」

 俺はこの人のこういうところが、最初は本当に理解できなかった。

 中身を見ない。判断しない。良いとも悪いとも言わない。

 でも一年一緒にいて分かったのは、この人は見ていないんじゃなくて、見ないことを選んでいるということだ。分からないものを分かったふりで通すと、その先で誰かが死ぬ。この人はそれを知っている。

 だから代わりに、この人は数を書く。

 彼女はメモ帳を開いて、ペンを走らせた。俺には逆さまだったが、読めた。

『カイさん、相談端末 第十七回。落ちた。第十八回へ』

 落ちた回数まで書く。

 俺はそれを、たぶん誰よりもありがたいと思っている。

 作っているのは、一人暮らしの高齢者の家に置く相談端末だ。

 うちの会社は、五年後に防災と不動産をやる。能登で、高齢者を相手にやる。震災のあと、この土地には一人で住んでいる年寄りがたくさんいる。子どもは金沢か、県外にいる。家は半分傾いたまま、直したところだけで暮らしている人もいる。

 その人たちに、何かひとつ置きたい。

 電気が来ていて、通信が生きているうちは相談ができる。切れたら切れたで、端末の中だけで動く。外の世界が全部落ちても、その箱だけは喋る。

 考え方は、この事務所と同じだ。この家の電気は外の電線から来ていない。カーポートの屋根で作って、玄関のホールに溜めて、そこから使う。タクさんが去年入れた。僕はそれを、当たり前だと思って毎日ここに座っている。

 ――それが作りたいものだった。

 技術的には、できる。もう八割方できていた。

 俺が十七回落ちていたのは、そこじゃない。

白夜

 昼前に、白夜さんから通信が入った。

 画面の向こうは、明らかに事務所じゃなかった。窓の外が知らない街だ。

「あ、カイくんおはよ。今ね、松山」

「……なんでですか」

「旅行。仕事はどこでもできるし」

 ノートパソコンとスターリンクミニだけ持って、彼女はどこへでも行く。ルナさんとマモルさんに教えてもらって、翌日には導入していたらしい。良いものは即採用、が信条だと言っていた。

 ショートボブの黒髪。よく笑う。とても情報セキュリティの人には見えない。

 見えないだけで、この人は俺が知る中でいちばん怖い。

「端末の件、見たよ。おもしろいね、これ」

「どうも」

「うん。で、一個だけ」

 彼女は指を一本立てた。

 この人は、いつも一個しか言わない。二個以上言わない。危ないところだけ短く言って、あとは通す。障害は越えるためにあって、立ち止まるためにあるわけじゃない、と本人は言う。四百メートルハードルをやっていた人の言い方だ。

「マイク、家の中で常時オンやろ」

「はい」

「そのお宅、人が来ることある?」

 俺は少し考えた。

「……あります。ヘルパーさんとか、近所の人とか」

「うん。じゃあその人の声も入るね」

 ――あ、と思った。

「本人の声は、本人が納得して置いてるからええ。でもよその人の会話までは、うちが預かる筋合いない」

「……そうですね」

「それだけ。直したら通すよ。急がんでいい」

 彼女はにこっと笑った。

「あとカイくん、髪濡れてない?」

「潜ってました」

「いいなあ」

 通話が切れた。

 俺は椅子にもたれて、天井を見た。

 技術的には、すぐ直せる。音声を外に出さなければいい。全部その箱の中で処理すればいい。うちにはローカルで動くモデルがある。エマさんとミル・クエンさんの領分だ。相談すれば半日で組める。

 半日で組んだ。

 十八回目。通った。

 白夜さんも通した。「うん、これでええよ」の一行だけ来た。

 ――それで、完成したはずだった。

止まる

 二週間後。

 俺は自分のモニターを見て、動かなくなっていた。

 端末はもう三軒に置いてある。全部、電源は入っている。通信も生きている。エラーもゼロだ。

 利用ログが、ゼロだった。

 一件も、使われていない。

 俺は何度もログを見直した。取り方が間違っているのかと思った。書き出しの経路を疑って、テストの端末で自分で喋ってみた。ちゃんと記録された。

 仕組みは、動いている。

 誰も、使っていないだけだ。

 俺はしばらくそのままでいた。何をどう直せばいいのか、分からなかった。エラーが出ているなら直せる。落ちているなら追える。でも、これは何も起きていない。何も起きていないものの直し方を、俺は知らない。

 夕方、ノアさんからレビューが届いた。あの人は姿を見せない。文字だけ来る。

『三軒とも通電・通信・応答すべて正常。ここまでは同意する』

『そのうえで、お前の前提を一度否定する』

『お前は「動くもの」を作った。作れている。俺もそこは疑ってない』

『お前が作ろうとしたのは「使われるもの」だ。別物だ』

『動くかどうかは、誰も聞いていない』

 俺は画面を睨んだ。

 むかついた。正しかったからだ。

『で、お前は三軒のうち何軒、実際に行った?』

 ――一軒も、行っていない。

 設置はヘルパーさんに頼んだ。説明書は入れた。動作確認はリモートでやった。

 俺はその家を、一度も見ていない。

叔母

 その晩、叔母から連絡が来た。

 ナギさん。母の姉だ。会社では高齢者と地域ケアの担当をやっている。五十代前半で、白髪の混じった髪をそのままにしていて、いつも薄い紫のカーディガンを着ている。

『カイ、あの機械のことやけど』

『一回、見に来まっし』

 叔母は昔からこうだ。「来い」とは言わない。「来まっし」と言う。断ってもいいような言い方をして、断れなくする。

 翌日の朝、俺は車を出した。

 海沿いの道を北へ走る。右に海がずっとついてくる。集落に入ると道が細くなって、瓦の落ちた家と、直した家と、更地が交互に現れる。二年半経っても、まだそういう景色だ。

 叔母は道端に立って待っていた。

「おはよ、カイ」

「おはようございます」

「潜ってきたやろ」

「なんで分かるんですか」

「顔」

 叔母は笑って、先に歩き出した。

「トヨさんとこ。九十一。ひとり暮らし」

「はい」

「地震で家が傾いて、息子さんが金沢から呼んだけど、行かんかった。ここにおるって言うて」

「……はい」

「気の強い人やよ。頭も全然しっかりしとる。畑も出とる」

 叔母は歩きながら、こちらを見ずに言った。

「先に言うとくけどな、カイ。あんたの機械、悪ないよ」

 俺は黙っていた。

「悪ないから、困っとるがや」

 トヨさんの家は、玄関の柱が新しかった。そこだけ木の色が違う。直したところだ。

「ごめんくださーい。ナギです」

「はいはい」

 出てきた人は、思っていたより背筋が伸びていた。小さいけれど、まっすぐ立っている。目がはっきりしている。

「こちら、うちの甥っ子です。あの機械、作った子」

 トヨさんは俺を見た。

 そして、少し困った顔をした。

「……あら」

 その一瞬で、俺は分かってしまった。

 通された部屋の、テレビの横に、俺の作った端末が置いてあった。

 ――布が、かかっていた。

 新しい、きれいな布だった。埃よけにかけたのとは違う。丁寧に、四隅をそろえて、上からかけてある。

 大事なものを扱うときの、かけ方だった。

「あの、」トヨさんが言った。「すいませんね、せっかく作ってもろたのに」

 この人は、俺に謝った。

 俺は何も言えなかった。

 トヨさんはお茶を出して、座って、それからゆっくり話した。

「悪ないがよ。悪ないの。声もきれいやし、字も大きいし」

「はい」

「ただねえ」

 彼女は湯呑みを持ったまま、少し笑った。

「毎朝、『おはようございます、お元気ですか』って聞くんやわ」

「……はい」

「あれね、元気な日はええがや」

 俺は顔を上げた。

「元気でない日に、どう答えたらいいがか、分からん」

 部屋が静かになった。

「『元気ない』って言うたら、あの子ら、心配して息子に電話するやろ。息子はまた金沢から来るやろ。仕事休んで。そんなん、悪いわ」

「……はい」

「かというて、『元気です』って言うたら、嘘やろ。九十一やもん。元気でない日のほうが多いわいね」

 彼女は湯呑みを置いた。

「毎朝、嘘つくんが、しんどうてね」

 ――だから、布をかけた。

 壊したわけじゃない。捨てたわけでもない。電源も切っていない。ちゃんと立てて、布をかけて、そのままにしてある。

 この人は、俺の作ったものに礼儀を尽くしていた。

 俺は、この人に礼儀を尽くしていなかった。

「あの、」

 俺は言った。声がうまく出なかった。

「……すみませんでした」

「なんも。あんた、悪ないよ」

 トヨさんは首を振った。

「機械が悪いんでない。あれ、優しすぎるがや」

いっかい、にかい

 帰り道、叔母は助手席で海を見ていた。

 俺は何も言わずに運転していた。

 しばらくして、叔母が言った。

「カイ、あんた小さい頃、潜れんかったよね」

「……覚えてます」

「五つか六つか。ほかの子はみんな潜れるのに、あんただけ潜れんで」

 覚えている。

 浮くのだ。どれだけやっても、足が上がらない。掻いてしまう。掻くと浮く。浮いたまま、水の中の子どもたちを上から見ていた。

 悔しかった。

 叔母は浜に座って、それを見ていた。

「あんとき、私、なんて言うたか覚えとる?」

「……数えてました」

 そうだ。

 叔母は「がんばれ」と言わなかった。「もう一回」とも言わなかった。「そんなん誰でもできる」とも言わなかった。

 ただ、浜から数えていた。

 いっかい。

 にかい。

 さんかい。

 俺が失敗して顔を上げるたびに、数字がひとつ増えた。それだけだった。

 二十七回目で、俺は潜れた。

 水の中で目を開けたとき、砂の底が見えた。上を向くと、光が揺れていた。

 浮上したら、叔母が浜で言った。

「にじゅうななかい」

 それだけだった。褒めもしなかった。

「あれ、なんで数えてたんですか」

 俺は前を見たまま聞いた。

 叔母は少し黙ってから、言った。

「失敗を、数にしといたら、恥やなくなるやろ」

 ――ああ。

「二十七回は、二十七回や。ええも悪いもない。ただの数」

「……はい」

「あんた今も、落ちた回数言うがやろ。ミライちゃんに」

 俺は答えなかった。

 叔母は笑った。

「ええことやよ」

 海が、左手にずっと続いていた。

耳抜き

 事務所に戻って、俺は端末のコードを全部開いた。

 そして、消した。

 まず、質問を消した。「お元気ですか」を消した。「今日はどうされましたか」を消した。「何かお困りですか」を消した。

 入力を、全部消した。

 マイクを、外した。

 喋らせるだけにした。

 ――今日は八月八日、土曜日です。

 ――今日の能登は、晴れ。夕方から少し風が出ます。

 ――今日の満潮は、午後三時二十分です。

 潮を入れたのは、この町が定置網の町だからだ。日本海側の干満差は二十センチほどしかない。暮らしには響かない。それでも網を見に行く家では、いまも潮の時間を口にする。

 答えなくていい。何も求めない。ただ言う。

 それから、大きなボタンをひとつだけ付けた。

 押しても、何も起きない。声も出ない。相談窓口にも繋がらない。

 押したという事実だけが、叔母のところに飛ぶ。

 中身はない。文字もない。ただ「押した」という一点だけが伝わる。

 安否確認じゃない。用件でもない。

 ――おはよう、くらいのものだ。

 押したくない日は、押さなくていい。押さなくても誰も来ない。

 組みながら、俺は気づいていた。

 入力を消したら、白夜さんが言っていた問題も、全部消えていた。マイクがないから、よその人の声は入らない。中身を送らないから、預かる情報がそもそも無い。

 あの人はあのとき、たった一行しか言わなかった。

 「よその人の会話までは、うちが預かる筋合いない」

 あれは技術の話じゃなかったのだ。あの家に誰が来るか、という話だった。

 俺はそれを、暗号化の問題だと思って処理していた。

 白夜さんに送った。返事は早かった。

『うん、これでええよ』

『てゆうかカイくん、これ最初からこうやったらよかったね』

『まあ、二十一回目やしね。ちょうどいいがいね』

 ――回数まで見ていたのか、この人は。

 二十一回目を、俺はミライさんに渡した。

「二十回落ちました。二十一回目で、通りました」

「二十回」

「はい」

 彼女はうなずいて、メモ帳を開いた。ペンが走る。

「――カイさん」

「はい」

「一つだけ、うかがっても」

「どうぞ」

「なぜ、毎回その数をおっしゃるのですか」

 俺は少し考えた。

 それから、正直に答えた。

「数にしとくと、恥じゃなくなるので」

 ミライさんは、ペンを止めた。

 そして、書いた。

『第二十一回。カイさん。数にしておくと、恥ではなくなる』

 余計なことまで書く人だ。

 三日後の朝だった。

 俺が海から上がって事務所に入ると、ミライさんが先に立っていた。壁のディスプレイの前だ。

「カイさん」

「はい」

「点いています」

 俺は顔を上げた。

 トヨさんの家の灯りが、点いていた。

 布は、かかっていない。

 叔母から連絡が来ていた。

『押されたよ』

 それだけだった。何時に押したかも、なぜ押したかも書いていない。書けない仕様だ。俺がそう作った。

 次の日も点いた。

 その次の日も点いた。

 四日目は点かなかった。

 俺は何もしなかった。叔母も何もしなかった。押さない日があっていい。そう作ったのは俺だ。

 五日目、また点いた。

 礼を言われたわけじゃない。感謝されてもいない。トヨさんは今も、あの機械のことを「あの子」と呼んでいるらしい。

 それでいいと思った。

 使われている。それだけで、俺の作ったものは、やっと作ったことになる。

 週末、俺はまた海に行った。

 水面から下は別の世界だ。境目でぐっと押し返される。押し切って入る。

 三メートル。五メートル。耳が痛くなる。

 鼻をつまんで、抜く。

 ぷつ、と音がして、痛みが消えた。

 ――同じところで詰まったら、一回浮上しろ。

 浅いところに戻って、息を整えて、もう一回潜る。それを何度でもやる。回数はただの数だ。恥ではない。

 深いところに、岩がある。裏側に手を入れる。指先が冷たい殻に触れる。

 俺は貝を持って、上がった。

 水面を破ると、空が明るかった。

 息を吸って、俺は数えた。

 ――今日は、一回目。

第三話 ―― 白夜編「沈まぬ夜」

創作ノート(第二話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,414字
  • 時期:二〇二六年 八月
  • 登場:ナギ(No.11・叔母)/白夜(No.3)/ミライ(No.1)/ノア(No.14・文字のみ)/トヨさん(能登の住人)
  • 前話との接続:第一話でカイが口にした「三回落ちた」の由来を明かす

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep02_kai_luna.md

白夜

第三話

沈まぬ夜

白夜

主役
白夜(No.3・情報セキュリティ)
共演
ルナ(No.5)/カイ(No.2)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)
視点
白夜一人称
時期
二〇二七年 六月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • ルナルナ
  • ナギナギ

時差

 窓の外が、まだ明るい。

 時計は夜の十一時を指している。それでも外は昼みたいに明るくて、通りを人が普通に歩いている。子どもがアイスを食べている。犬が散歩している。

 北欧の六月。緯度の高いところの夏。

 ――日本は、いま朝の六時。

 私はホテルの机にノートパソコンを開いて、コーヒーを飲んでいた。机の端にスターリンクミニ。あれさえあれば、私はどこにいても仕事ができる。ルナとマモルさんに教えてもらって、次の日には買っていた。良いものは即採用。それが私の信条だ。

 画面には、うちの会社の一日が流れている。

 ミライさんが朝礼を始めた通知。十八人ぶんの灯りが順に点いていく記録。カイくんが海から上がってきた時刻。ケイリさんが月初の集計を回し始めたところ。

 みんなの一日が、こっちの夜と重なっている。

 私は端から順に、目を通していく。

 地味な作業だ。おもしろくもなんともない。でも私はこれを毎日やる。抜けなく、淡々と。

 誰かが「白夜さんって、いつ休んでるんですか」と聞いてきたことがある。

 休んでるよ、と答えた。実際、いま私は旅行中だ。昼間は氷河を見ていた。夕方は港でスープを飲んだ。写真もいっぱい撮った。

 仕事はそのあいまにやっている。

 ――というのは、たぶん半分だけ本当だ。

 もう半分のことは、まだ誰にも言っていない。

一個だけ

 朝一番で、ミライさんから回ってきたものがあった。

『ナギさんが撮影した写真です。ソラさんからホームページ掲載の提案が出ています。白夜さん、確認をお願いします』

 写真を開いた。

 いい写真だった。畳の部屋。窓から光が入っている。テレビの横に、カイくんが作った端末が置いてある。布はかかっていない。電源が入っていて、画面に今日の日付と天気が出ている。

 人は写っていない。名前も入っていない。

 あの端末は、去年三軒だったのが、いまは十二軒になっている。カイくんが「使われるもの」を作れるようになった結果だ。

 これを外に出したいという気持ちは、よく分かる。うちの会社はまだ存在していなくて、実績はどこにもなくて、これが最初の「効いている証拠」だから。

 私は写真を三十秒見た。

 それから、ミライさんに一行だけ返した。

『畳の縁と、窓の外の山の形。集落が分かるよ。窓、外して』

 ――それだけ。

 三十分後に、トリミングされた新しい写真が来た。窓が入っていない。畳の縁も切れている。端末と、光と、部屋の質感だけが残っている。

 むしろ良くなっていた。

『これでええよ』

 返して、次に移った。

 私が守っている線は、二本しかない。

 ひとつ。顧客や第三者の個人情報を、外に出さない。

 ふたつ。鍵の実物を、外に出さない。

 それ以外は、基本的に通す。止めない。

 「セキュリティの人にしては、ゆるくないですか」と言われることがある。

 ゆるいのとは違う。余計なことをしないだけだ。

 四百メートルハードルを走っていたとき、私は十台のハードルを全部気にしたことがない。気にしていたら走れない。目の前の一台だけを見て、越えて、次を見る。障害は越えるためにあって、立ち止まるためにあるわけじゃない。

 止まったら、そこで終わりだ。

 私の仕事は、チームを止めることじゃない。走らせることだ。

ルナ

 夜中――日本はもう朝だ――に、ルナから連絡が来た。

 高校と大学で、同じリレーチームだった子だ。いまは調査と法務をやっている。人が見ていないところを掘るのが仕事で、掘り方が正確で、そして掘ったものを絶対に盛らない。

『白夜、少し聞いてもいい?』

『どうぞ』

『今朝の写真の件。あなたが指摘したのは窓と畳の縁の一点だけだった』

『うん』

『でも私が見た限り、指摘できる点は他にもあった』

 ――ああ、と思った。

 この子はそういう子だ。

『壁のカレンダーに書き込みがある。文字は潰れているけれど、拡大すれば曜日の並びから月が特定できる。それと写真のExifに撮影機材の型番が残っている。機種によっては位置情報も入る。あと、影の角度から時刻が絞れる』

『うん』

『三つとも、あなたは言わなかった』

『言わんかった』

『理由を聞いていい? あなたが見落とす人ではないことは、私が一番知っている』

 私はコーヒーを置いた。

 外はまだ明るい。夜の一時に近いのに、空がオレンジと薄い青の中間みたいな色をしている。沈みそうで沈まない。

 私はしばらく、その空を見ていた。

 それから打った。

『言うだけならタダやと思う?』

タダやないよ

 ルナからの返事は少し遅れた。

『いや。タダではないと思う。ただ、そのコストが何なのかを、私はまだ言語化できていない』

 正直な子だ。分からないことを分からないと書く。

 私は書いた。

『私が一回喋るとな、みんな手ぇ止めるがや』

『うん』

『白夜が何か言った、って。全員が一回、自分の作業から目ぇ離す。カイくんも、ミライさんも、ケイリさんも』

『それは、そうなる』

『三つ言うたら、三回止まる。十言うたら十回止まる』

 私は続けた。

『でもな、それだけやないがや。三つ言うたら、そのうち二つは大したことないやろ。カレンダーも、型番も、影の角度も。実害まで距離がある』

『ある』

『それを言い続けるとどうなるか』

『……白夜が言った、が軽くなる』

『そう』

 私はキーを叩く手を止めた。

『そしたら、ほんまに危ないやつが来たとき、誰も止まらん』

 外の空は、まだ沈んでいなかった。

『私が持っとるんは、知識やないよ。「この人が言うたら本物や」っていう、みんなの中の一行だけ。それが全部やの』

『それは、使うたびに減る』

『減る。補充できん』

『……だから、一回しか言わない』

『一回言うために、九回黙る』

 ルナはしばらく黙っていた。

 それから、こう返してきた。

『訂正する。私は「見落としていないか」を確認するつもりで聞いた。実際には、あなたは見落としていないどころか、私より一段深いところを見ていた』

『大げさやよ』

『大げさではない。事実として記録する』

 この子はこういうところが変わらない。褒めるんじゃなくて、記録すると言う。

『ところで白夜』

『ん』

『いまどこにいる』

『北欧』

『……観光?』

『まあね』

 嘘ではない。氷河は見た。

三年前の一月

 なんで私が「場所」にだけ厳しいか、という話をしていなかった。

 私は能登の出身だ。

 三年前の一月一日、あの日、私の実家のあたりも揺れた。うちの家族は無事だった。近所も、大きな怪我はなかった。運が良かったほうだ。

 あのあと、ネットにいろんな情報が流れた。

 ほとんどが善意だった。誰かを助けたくて、みんな必死だった。「ここに支援物資が足りていません」「この地区が孤立しています」「この道が通れます」。全部、良かれと思って流されたものだ。

 そのなかに、一枚の写真があった。

 半分崩れた家の写真だった。撮った人は、被害を伝えたかったのだと思う。名前も住所も書いていなかった。

 でも、写っていた。

 電柱の広告と、向かいの家の屋根の形と、遠くの山の稜線が。

 三日後、その家に人が来た。

 住んでいた人は避難所にいた。家は留守だった。

 ――それだけの話だ。

 誰も悪くない。撮った人は本当に善意だった。あの状況で、そこまで気を回せというのは酷だと思う。

 でも起きた。

 私はそのとき二十代の前半で、まだセキュリティの仕事はしていなかった。ただ、その一件をずっと覚えている。

 情報が漏れるって、鍵が盗まれるとか、そういう格好いい話ばっかりじゃない。

 畳の縁と、窓の外の山の形で、漏れる。

 だから私は、そこだけは絶対に譲らない。

 ――そこ「だけ」だ。

 全部に厳しくすると、走れなくなる。走れなくなった組織は、何も届けられない。何も届けられないなら、守っている意味がない。

 守るのは、進むためだ。

二十三回目

 日本時間の、午前二時だった。

 こっちは夕方の七時。私は港で魚のスープを飲んで、ホテルに戻ってきたところだった。

 画面に、カイくんの動きが出ていた。

 ――こんな時間に。

 例の端末だ。十二軒に増えたぶん、想定していなかった落ち方をしたらしい。通信が細い集落で、応答が返らない。彼はもう四時間、それを追っていた。

 ログが流れていく。私はそれを追った。

 彼が焦っているのが分かった。

 文字にすると変だけど、分かるのだ。試す間隔が短くなっている。ひとつ試して、結果を待たずに次を試している。潜る前に息を整える人が、整えずに潜ろうとしている。

 ――カイくん、耳、抜けとらんよ。

 そう打とうとした、そのとき。

 彼が、エラーログを全部コピーした。

 そして、外部のサービスの入力欄を開いた。

 誰かに聞こうとしている。速く解きたいから。四時間詰まっているから。

 ――そのログの、四十行目。

 私は見ていた。

 通信の設定を読み込むところで、その端末は接続用の鍵を、そのまま文字として吐いていた。彼が書いたわけじゃない。使っているライブラリが、失敗したときに設定の中身を全部出す作りになっていた。

 よくある。本当によくある。だから怖い。

 鍵の実物が、そこに、平文で載っていた。

 彼はそれに気づいていない。四時間追っているのは別の場所だ。人間の目は、追っているものしか見ない。

 貼り付けの操作まで、たぶん二秒。

 私は打った。

『カイくん』

『止めて』

止まる

 ――止まった。

 一秒もかからなかった。

 彼の手が完全に止まった。入力欄は開いたまま、何も貼られていない。カーソルだけが点滅している。

 彼は何も聞かなかった。

 「なんでですか」も、「あと少しなんですけど」も、「これ急ぎなんで」も、言わなかった。

 ――ただ、止まった。

 私はそのあとに一行だけ足した。

『ログの四十行目、鍵が出とる』

 少しして、返事が来た。

『……確認しました』

『出てます』

『すみませんでした』

『二十三回目です』

 私は思わず笑ってしまった。

 この子は落ちた回数を必ず言う。今回のは自分のミスじゃないのに、それでも数に入れる。

『それ、カイくんのせいやないよ。ライブラリの仕様や』

『いえ。貼ろうとしたのは俺です』

『まあ、貼ってないしね』

『貼ってないです』

『じゃあ、ゼロや』

 しばらく間があって、彼が書いた。

『白夜さん』

『ん』

『なんで、こんな時間に起きてるんですか』

 ――来たか、と思った。

 ここが、いちばん大事なところだ。

 あの二秒で彼が止まったのは、私が正しかったからじゃない。

 私が、三か月「止めて」と言っていなかったからだ。

 三月から六月まで、私は一度も止めていない。指摘は何十件も出した。全部、一行の「ここだけ直して」だった。「通すよ」「ええよ」「急がんでいい」。それを積み上げてきた。

 だから、「止めて」の三文字が、二秒で効いた。

 あれは私が三か月かけて貯めたものを、一回で使い切った瞬間だった。

 ――そして、また明日から貯め直す。

 九回黙って、一回言う。

 それが私の走り方だ。

沈まない

 カイくんの質問に、私はしばらく答えられずにいた。

 窓の外を見た。

 夜の十一時を回っているのに、空はまだ明るい。地平線の少し上で、太陽が横に流れている。沈まないのだ。少し下がって、また上がる。ずっと明るい。

 私は白夜という名前をもらっている。

 太陽が沈まない夜。闇ができない場所。誰もが眠る時間にも、警戒を緩めない者。

 ――かっこいい名前だと思っていた。

 二十何年か生きてきて、私は一度も、本物を見たことがなかった。

 だから今回、来た。名前の由来になっているものを、一回くらい自分の目で見ておこうと思った。それだけの、わりとしょうもない動機だった。

 実際に見て、思ったことは、ひとつ。

 ――しんどい。

 これ、めちゃくちゃしんどい。

 眠れない。時間の感覚が消える。カーテンを閉めても隙間から明るい。身体は疲れているのに、脳が「まだ昼や」と言い張る。

 ロマンチックでもなんでもなかった。

 でも、三日目に気づいたことがある。

 闇が、できない。

 どこにも影ができない。物陰に何かが潜めない。ずっと見えている。

 それは、しんどい代わりに、安全だった。

 ――ああ、こういうことか、と思った。

 沈まないというのは、綺麗な話じゃない。ただ、しんどいのを引き受けているだけだ。

 誰かがしんどい思いをして起きているから、そこには闇ができない。

 私はカイくんに返事を書いた。

『こっち、まだ夕方やから』

『時差ですか』

『そう。七時間ずれとる』

『……あ』

 彼は察しがいい。

『日本の夜が、白夜さんの昼になる』

『まあね』

 私はコーヒーをもう一口飲んだ。

『あんたら寝とる間、誰か起きとらんとやろ。それが私やっただけ』

『それ、狙ってやってるんですか』

 私は少し考えて、正直に書いた。

『最初は違うよ。ほんまにただの旅行』

『はい』

『行ってみたら、便利やなあと思って。そのまま続いとる』

『……それ、みんな知ってるんですか』

『言うてない』

『なんで』

『余計なことやろ』

 打ってから、私は少し笑った。

 自分でも、いい加減しつこいと思う。

 しばらくして、ミライさんから連絡が入った。日本は午前三時過ぎだ。

『白夜さん。カイさんから報告を受けました』

『うん』

『記録します。「白夜さんが止めた。三月以来、初めて」』

 ――律儀な人だ。

『そんなん書かんでええよ』

『書きます。回数が意味を持つ人が、この会社には二人います』

『二人?』

『カイさんは、落ちた回数を。白夜さんは、止めた回数を』

 私は画面を見たまま、しばらく動かなかった。

 この人は、こういうことを平気で書く。

『白夜さん』

『ん』

『いま、そちらは明るいのですか』

『明るいよ。夜中やのに』

『それは――お名前どおりですね』

『そうやね』

『おやすみなさい、とは言えませんね』

『言わんでええ。まだ起きとるし』

 通信を切った。

 窓を開けた。冷たい風が入ってきた。六月なのに、こっちの空気は薄く冷たい。能登の六月とは全然ちがう。

 ――能登。

 あの日、崩れた家の写真がネットに流れて、三日後に人が来た町。

 私が生まれて育って、いまはほとんど帰っていない場所。

 私は世界中どこへでも行ける。行っている。仕事はどこでも完結する。

 それでも私が守っているものは、結局のところ、あの畳の縁と、窓の外の山の形だ。

 どこにいても、守るものは変わらない。

 だから、どこにいてもいい。

 机の上でパソコンが小さく光っている。日本はもう夜明けだ。ミライさんが立ち上がって、椅子の位置を直して、窓の外を見ている頃だろう。カイくんは海に潜っている頃かもしれない。

 私はコーヒーを淹れ直した。三杯目だ。私生活では忘れ物ばっかりして、財布もよく失くすし、飛行機の予約時刻もしょっちゅう間違える。

 でも、この画面だけは、まだ一度も見落としたことがない。

 太陽は、まだ沈まない。

 私はもうしばらく、起きている。

第四話 ―― ケイリ編「数えるひと」

創作ノート(第三話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,825字
  • 時期:二〇二七年 六月
  • 登場:ルナ(No.5)/カイ(No.2)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)
  • 前話との接続:第二話でカイに「一個だけ」と言った場面を、白夜の側から書く

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep03_byakuya_luna.md

ケイリ

第四話

数えるひと

ケイリ

主役
ケイリ(No.4・経理/ファイナンス/FP)
共演
タク(No.9)/ナギ(No.11)/ミライ(No.1)/サカエさん(能登の住人・七十八歳)
視点
ケイリ一人称
時期
二〇二七年 七月
  • ミライミライ
  • タクタク
  • ナギナギ

ケイデンス

 坂の入口で、私はギアを二枚落とす。

 登る前に落とす。登り始めてからでは遅い。脚が重くなってから変えると、そこでもう一度リズムを作り直さなければならなくなる。

 勾配が上がる。ペダルが重くなる。もう一枚落とす。

 スピードは落ちる。当然だ。時速十七キロが十二キロになる。

 でも、回転数は落とさない。

 ――そこが、全部だ。

 ロードバイクを始めて何年か経って、ようやく身体で理解したのがそれだった。坂で遅くなるのは構わない。回転数を落としてはいけない。重いギアのまま踏むと、脚は一気に終わる。その一本の坂は登れるかもしれないが、そのあと五十キロ走れなくなる。

 軽いギアで、同じ速さで回し続ける。だから最後まで走り切れる。

 私は水泳が苦手だ。ランニングも遅い。チームでトライアスロンのリレーをやると、カイくんが泳いで、私が自転車を受けて、次に渡す。泳ぎも走りも人に任せて、私は回すだけだ。

 回すことだけは、誰にも負けない。

 能登の山道は、上がって下がって、また上がる。里山の間を渓流が流れていて、朝はそこに霧が残っている。汗が冷える。

 頂上で一度止まって、海を見た。

 六時半。

 ――そろそろ月初の集計を回さないといけない。

 私は下り始めた。

数字

「おはようございます、ケイリさん」

「おはようございます、ミライさん」

 事務所に入ると、彼女はもう立っている。この人はいつも先にいる。

「今日から月初ですね」

「はい。三日で締めます」

 私の朝は、数字を並べることから始まる。

 現金の残高。未払い。未収。今月の固定費。端末十二台ぶんの電気代と通信費。カイくんが使っているクラウドの請求。白夜さんの通信機器。ルナさんが契約している調査系のサービス。

 うちの会社の固定費は、笑うほど小さい。

 人件費がゼロだからだ。

 十九人いて、給料が一円も出ていない。事務所の家賃も出ていない。この部屋はリーダーの家の一室だ。車もリーダーの自家用車だ。

 だから、うちの損益分岐点は異常に低い。

 これは冗談みたいな話だが、経営としてはとんでもない強みだ。ふつうの会社は、毎月出ていくものを埋めるために仕事を取る。取らないと死ぬから、条件が悪くても取る。

 うちは、取らなくても死なない。

 ――もっとも、うちは、そもそも取っていない。

 うちの工事は、全部ボランティアだ。

 当事者に払っていただくのは、実費だけ。材料代と部材代。それだけだ。各家庭に置いてくる機材も同じで、物の値段しかいただかない。タクさんの手間は、一円も乗っていない。

 理由は単純で、リーダーがいま受け取れないからだ。

 勤めがある。受け取れるようになるのは、五年後だ。

 ――だから私の帳簿には、売上という行が無い。

 入ってくるのは実費の精算だけで、それは通り抜けていくだけの金だ。残らない。残らないから、利益も無い。

 ふつうの経理なら、やることが無いと思うだろう。

 ――そんなことはない。

 金が無い会社にも、減るものはある。

 私はそれを数えている。

 ――焦って受ける必要がない、というのは、時間を守れるということだ。

 私はそれを、この会社でいちばん大事な資産だと思っている。設備でも技術でもなく、「断れる」ということが資産なのだ。

 だから私は、断る。

 誰も好きでやっていない。

「ケイリさん」

「はい」

「一件、回します。ナギさんから来た相談です。タクさんが概算を出しています」

「拝見します」

六十時間

 タクさんの概算は、いつも読みやすい。

 四十代の、能登の人だ。宅建と電気工事士を持っていて、木造建築士は製図だけが残っている。娘が二人いて、二人とも結婚しなくていいと本気で言っている、少し困った父親でもある。

 やると決めたら一直線に行く人で、その集中力で難関資格を次々に取ってきた。概算も同じで、余計なことが一行も書いていない。

 ――案件:停電対策・オフグリッド化

 ――対象:能登町・築五十年木造平屋(震災後、一部修繕済)

 ――内容:太陽光パネル、ハイブリッドインバーター、蓄電池、屋内配線切替

 ――実費:材料・部材のみ

 ――実働見込:六〇時間

 私は電卓を叩いた。叩かなくても分かるが、叩く。指を動かすと間違えない。

 実費のほうは、足すだけだ。物の値段だから、私が判断することは何も無い。

 ――私が見るのは、下の行だ。

 六〇時間。

 うちは、一軒にかける時間に上限を決めてある。

 この案件は、その上限に、ほとんど張りついている。

 上限を割っているわけではない。だが、余裕も無い。

 ――一軒で六十時間ということは、リーダーが一年に会える家の数が、そこで決まるということだ。

 あの人には勤めがある。朝八時から夕方五時まで、別の場所にいる。この会社に使えるのは、昼の三十分と、帰ってからの三時間半だ。土日はある。だが土日には、走る時間も要る。走る時間を削らせるつもりは、私には無い。

 その全部を足したものが、うちの持っている唯一の原資だ。

 私は書き込んだ。

『判定:可。ただし上限に近い。二軒目以降は同じ形で回せません』

 ――ここまでは、五分で終わる仕事だった。

払えない

 三十分後に、ナギさんから連絡が来た。

 高齢者と地域ケアの担当をしている、五十代の人だ。カイくんの叔母でもある。急がない。焦らせない。否定しない。この会社でいちばん歩く速度が遅い人で、そしていちばん深いところを持ってくる人だ。

『ケイリちゃん、あの停電対策の話やけど』

『はい』

『サカエさん、七十八歳。ひとり暮らし。年金だけ』

 私はペンを置いた。

『貯金はあるけど、葬式代に取ってあるって』

 ――そう来たか。

『百二十万は、無理やわ』

『……はい』

『手間賃は要らんて、ちゃんと言うたよ。物の代だけやって』

『はい』

『それでも、無理やって』

 ――そうだろうと思った。

 手間をゼロにしても、物は物だ。パネルも、蓄電池も、インバーターも、値切って消えるものではない。

 うちが差し出せるものは、もう全部差し出してある。それでも足りない。

 ――ここから先は、値段の話ではなくなる。

『ごめんね。私が話を持ってきたのに』

『いえ。持ってきていただかないと、始まりません』

 私は本当にそう思っている。

 ナギさんが拾ってくるものは、数字にならないものばかりだ。表情とか、沈黙とか、諦めかけた声とか。そういうものは私の帳簿には一行も載らない。載らないけれど、そこから全部が始まる。

 ただ、そのあとに来るのは、いつも私の番だ。

『サカエさんは、なんて言うてた』

『「そんならええわ」って』

 ――そんならええわ。

 この一言を、私はこの土地で何度も聞いている。

 怒っているのでもなく、責めているのでもない。ただ、自分の順番を静かに諦める言い方だ。

 私は少し目を閉じた。

 それから、電卓に手を伸ばした。

だめです

 その日の午後、三人で話した。

 タクさんが最初に言った。

「ケイリさん。俺、なんとかするわ」

 まっすぐな人だ。悪気などひとつもない。

「物の代を下げる。中古のパネル当たって、電池も型落ち探して、盤は自分で組む。半分にはできる」

「実働は」

「……まあ、倍やな。百二十時間くらいか」

「タクさん」

「うん。けど、俺の手間なんてタダみたいなもんやし」

「だめです」

 部屋が静かになった。

 ナギさんが、こちらを見た。責める目ではなかった。困った目だった。それがいちばんきつい。

「……ケイリちゃん」

「はい」

「サカエさん、冬に三日間停電したんやよ。震災のとき」

「はい」

「あの人、そのときのこと、まだ夢に見るって」

「……はい」

「それでも、だめなん?」

 私は答えた。

「だめです」

 自分の声が固いのが分かった。よく言われる。固い、と。

 昔は気にしていた。今は気にしていない。固いというのは、たぶん形が変わらないという意味で、私の仕事はまさにそれだ。形が変わるものを、みんなは秤に使わない。

 でも、この瞬間はやっぱりきつい。

 この部屋で、優しくないのは私だけになる。

 タクさんは技術で助けようとしている。ナギさんは心で助けようとしている。二人とも正しい。二人とも善良だ。

 そして私は、電卓を持って「だめです」と言う。

 ――誰かがやらなければいけない役だ。

 私は続けた。

「理由を、三十秒でお話しします」

タダの値段

「タクさん。いま、タクさんは『俺の手間はタダ』とおっしゃいました」

「言うた」

「タダではありません」

 タクさんが黙った。

「六十時間が百二十時間になります。増えた六十時間は、どこかから持ってきたものです。空から降ってきたものではありません」

「……まあ、そうやけど」

「それは、うちがこの一軒に、六十時間を寄付したのと同じです」

「寄付が悪いとは言いません。うちには固定費がほとんど無いので、一件くらい寄付しても潰れません。それは事実です」

「じゃあ、ええやろ」

「問題は、その次です」

 私は紙に線を引いた。

「サカエさんの家の話が集落に伝わります。必ず伝わります。能登はそういう土地です。次に来る人は、物の代が半分になった経緯を知りません。『あそこは中古で安う組んでくれる』として知ります」

「……あー」

「そして次の人も年金生活です。断る理由が、うちにありません」

 ナギさんが小さく息を吐いた。

「三軒目で、うちは動けなくなります。一軒に六十時間かかることは、物を安くしても変わりません。変わらないほうが問題なんです。同じ人間の、同じ一日から、出ていくものだけが倍になります」

 私は数字を出した。出さなくても分かるが、出す。

「――年に十軒に行けたものが、三軒になります」

 部屋が静かになった。

「そして、いちばん大事なことを申し上げます」

 私は紙の線をなぞった。

「物を安くしても、うちが会える人は一人も増えません。六十時間は、六十時間のままだからです。むしろ増えます。安くなって喜ぶのは、この一軒だけです」

「……ほんなら、どうしたら増えるん」

 ナギさんが聞いた。

「一軒にかける時間を、減らすことです。値段ではなく、ものを小さくする」

 私はペンを置いた。

「私が数えているのは、お金ではありません」

「……何を数えとるん」

「この先、うちが会える人の数です」

 これは、私が自分の仕事だと思っていることだ。

 うちの会社は、価格で競わない。売り込まない。選ばれるのを待つ。それがリーダーの方針で、私はそれに完全に同意している。

 でも「選ばれるのを待つ」を成立させるには、条件がひとつある。

 ――待てるだけの体力を、絶対に削らないこと。

 一軒に時間を足すのは、坂で重いギアのまま踏むのと同じだ。その一本は登れる。そのあと走れなくなる。

 だから私は、時間の上限を守る。何があっても守る。

 ――決めてあることが、二つある。

 ひとつは、一時間あたりの下限。いくらより下では受けない、という線だ。

 もうひとつは、一軒あたりの時間の上限。

 いまは、下限のほうに意味が無い。

 割られる数がゼロだからだ。ゼロを何時間で割ってもゼロにしかならない。

 ――でも、上限のほうは、いまから効く。

 というより、いましか無い。

 五年後に受け取るようになったとき、私たちの売上は、時間に単価を掛けたものになる。掛け算だ。

 その掛け算の片方を、私はいま決めている。

 いま六十時間で回せない形を作ったら、五年後にそれが単価と掛かる。

 ――ここまでが、私の「だめです」だ。

 ただし。

 私の仕事は、そこで終わりではない。

なにが怖いか

「ナギさん。ひとつだけ、聞いていただけますか」

「なんでも聞くよ」

「サカエさんが怖いのは、停電ですか」

「……停電やろ?」

「いえ。停電の、何ですか」

 ナギさんが黙った。

 それから、「あー」と言った。

「……聞いてくる」

 二日かかった。

 ナギさんは急がない人だ。行って、座って、お茶を飲んで、天気の話をして、畑の話をして、それから聞く。二日は速いほうだと思う。

 返ってきた答えは、こうだった。

『ケイリちゃん。二つやった』

『はい』

『ひとつは、暗いこと。三日間、ほんとに真っ暗やったって。夜になると、なんも見えんで、便所も行けんで』

『……はい』

『もうひとつ』

『はい』

『電話が切れて、娘さんに「無事や」って言えんかったこと』

 私はしばらく、その文字を見ていた。

『娘さん、名古屋におるんやわ。三日間、連絡つかんかった。娘さん、ずっと泣いとったって、あとで聞いて』

『……はい』

『サカエさん、それがいちばん、こたえたって』

 私は電卓を引き寄せた。

 ――冷蔵庫、要らない。

 ――エアコン、要らない。

 ――家中の配線、要らない。

 必要なのは、明かりと、電話だ。

 三日ぶん。

二枚目

 タクさんに電話をかけた。彼は現場にいた。

「タクさん。仕様を変えます」

「お、なんか出た?」

 この人はこういうとき、驚かない。面白がる。だから話が速い。

「照明を二部屋。台所と、便所までの廊下。それと携帯の充電。それだけを、三日間維持できる構成にしてください」

「……あー」

 電話の向こうで、彼が何か歩き出す音がした。

「それやったら、屋根に上がらんでええな」

「上がらなくていいですか」

「上がらんでええ。パネルは小さいの一枚、庭に置いといたらええ」

「タクさん。もう一つ、削れると思っているものがあります」

「なんや」

「ハイブリッドインバーターです」

 電話の向こうが、少し静かになった。

「あれ、要らんか」

「要らないと思います。あれは家じゅうを切り替えるための機械です。二部屋しか点けないのに、あれを入れるのは、金額のほとんどをそこに使うことになります」

「……ほんなら、何で回すんや」

ポータブル電源で足りませんか

 私が言っているのは、箱の形をしたやつだ。

 持ち運べる蓄電池に、コンセントの差し口と、パネルの入り口が付いている。キャンプで使う人がいる。災害用に一台だけ買って、押し入れに入れっぱなしにしている家もある。

 あれは、据え付けの機械よりずっと安い。同じ容量でも、桁が一つ違うことがある。

 タクさんは、しばらく考えていた。

「置くだけやと、意味が薄いぞ。停電したときに、婆ちゃんが箱まで行って、コードを差し替えることになる」

「はい」

「夜中に、真っ暗な中で、それをやらせるんか」

「やらせません」

 ――ここが、この案の全部だ。

「あの箱には、通しの機能が付いているものがあります」

「パススルーか」

「はい。壁のコンセントから箱に一度入れて、箱から出したものを使う形にします。ふだんは、箱を素通りして電気が流れます」

「箱は、ただ通っとるだけか」

「通っているだけです。同時に、中の電池は満充電で待っています」

「……ほんで、外の電気が止まったら」

「止まった瞬間に、箱が自分の電池に切り替えます。UPS と書いてあるやつです。切り替わるのに、たしか二十ミリ秒くらいです」

「気づかんな、それ」

「気づきません。照明なら、点いたままです」

 タクさんは、そこで一つだけ確認してきた。

「ケイリさん。それ、配線はどうするんや」

「そこは、タクさんの領分です」

「まあな」

「箱を置く場所から、分電盤のところまで、コンセントを一本伸ばしてもらうことになると思います」

「伸ばして、盤の回路を一回、箱に通す」

「はい」

「二部屋ぶんだけな。ほかは触らん」

「触らないでください。触ると、また金額が上がります」

 ――少し間があって、こう返ってきた。

「それでいけるわ」

「実費は」

「……二二万。中古で組めば、もうちょい下がる」

「新品でお願いします」

「なんで」

「十年もたないものを置いてくると、十年以内にもう一度うちが行くことになります。その時間を、いま先に使ってしまうことになるので」

「……ああ。そういう数え方するんか、あんた」

「はい」

「実働は」

「一日半。十六時間くらいかな。俺ひとりでいける」

 私は電卓を叩いた。

 実費二二万。実働一六時間。

 ――六十時間が、十六時間になった。

 同じ人間の同じ一日から、三軒ぶんが出てくる。

「タクさん。十六時間です」

 電話の向こうで、彼が笑った。

「六十時間が、十六時間か」

「はい」

「安うしたわけじゃないな、これ」

「はい。手は抜いていません。中も削っていません」

「ものが変わったんやな」

「そうです」

 ――ギアを変えたんです、と言いたかったが、通じないと思ってやめた。

 いや。

 この人は分かるかもしれない。マイルリレーを走っていた人だ。

「タクさん」

「うん」

「坂で、ギアを落としますよね」

「落とすなあ」

「遅くなるためじゃなくて、回転数を守るためですよね」

 少し間があって、彼が言った。

「……ああ、なるほど。うまいこと言うな、ケイリさん」

「ありがとうございます」

「俺、それ娘に言うわ」

 この人はすぐそれだ。

 二枚目の紙を作った。

 見積書ではない。うちは値段を出さないので、そう呼べる紙にならない。

 書いてあるのは、物の名前と、その値段と、かかる時間だけだ。

 一枚目――実費一二〇万円・六〇時間。全体をオフグリッド化する案。屋根にパネル、ハイブリッドインバーター、据え付けの蓄電池。うちの事務所と同じ形にする案だ。あの家は、外の電線に繋がっていない。

 二枚目――実費二二万円・一六時間。庭にパネルが一枚と、ポータブル電源が一台。明かりと電話だけを三日間守る案。

 一枚目から二枚目へ落ちた金額の、ほとんどが据え付けの機械の代だ。

 物を減らしたのではない。据え付けをやめた

 私は両方をミライさんに渡した。

「二枚あります。捨てないでください」

「捨てません」

「一枚目は、断られた案です」

「はい。それも記録します」

 この人は本当に、断られたものまで記録する。

 そして――私は、自分でも意外なことを言った。

「ミライさん。私、行ってきます」

「サカエさんのお宅ですか」

「はい」

「ケイリさんが、直接」

「はい」

 私は普段、人に会わない。数字だけを見て、判断して、返す。会わないほうが公平に判断できると思っていたし、それは今も半分は正しいと思っている。

 でも、この二枚を渡すのは、私の仕事だ。

 断ったのは私だからだ。

 サカエさんは、思ったより小さくて、思ったより速く喋る人だった。

 二枚目の紙を見て、しばらく黙って、それから言った。

「二十二万」

「はい」

「これ、まけてくれんの」

 ――来た。

「まけません」

 私はそう答えた。

 サカエさんが、こちらを見た。

「まけんの」

「はい。これは物の代です。パネルと、電池と、盤と、線です。ここを削ると、物が変わります」

「……ふうん」

「すみません」

 サカエさんはしばらく紙を見ていた。

 それから、顔を上げた。

「あんたら、手間賃は」

「いただきません」

「なんで」

 ――こちらのほうが、本当の質問だ。

「いまは、受け取れないんです」

「受け取れん?」

「はい。勤めがあるので」

「……ふうん」

 サカエさんは、少し黙った。

「タダより高いもんはない、って言うやろ」

「言いますね」

「あんたら、あとで何か言うてくるんやないやろね」

 ――正しい疑いだ。

 こういう疑いを持つ人のほうが、私は好きだ。持たない人のほうが、あとで困る。

「言いません」

「なんでそう言えるん」

「うちが数えているのは、お金ではないからです」

「ほんなら、何を数えとるん」

「この先、うちが会える人の数です」

 サカエさんは、しばらく私を見ていた。

 それから、笑った。

「あんた、固いなあ」

「よく言われます」

「うちの旦那、生きとる頃に言うとったわ。値切ってすぐ下げる人からは買うなって。あとで手ぇ抜かれるからって」

「……はい」

「あんた、まけんかったわ」

「はい」

「二十二万なら出せる。葬式代からは出さん。別にある」

 彼女は紙を畳んだ。

「明かりだけでええんやわ。ほんとに。夜、便所行けたら、それでええ」

 ――それだけのことを、私は電卓で六十時間と計算していた。

 二週間後、タクさんが一日半で工事を終えた。

 ナギさんから写真が来た。台所に明かりが点いている。廊下にも小さいのが一つ。庭に、小さなパネルが一枚置いてある。

 そして、報告が一行あった。

『サカエさん、試運転の日に、娘さんに電話したって』

『「これで、なんかあっても、無事やって言えるわ」って言うたら、娘さん、また泣いたって』

 私はその一行を、帳簿の余白に書き写した。

 勘定科目がない。どこにも計上できない。

 でも、この会社の資産だと思ったので、書いた。

 週末、私はまた坂に来た。

 入口でギアを二枚落とす。登り始めてからでは遅い。勾配が上がる。もう一枚落とす。

 スピードは落ちる。時速十七キロが十二キロになる。

 回転数は、落とさない。

 固いと言われる。コツコツやっているだけだと言われる。そのとおりだ。私は劇的なことを何ひとつしていない。数字を並べて、電卓を叩いて、だめですと言って、それから二枚目を作る。それだけを毎日やっている。

 でも、これが結構、楽しいのだ。

 継続は力なり。口癖にしていたら、本当にそう思うようになってしまった。

 頂上で止まって、海を見た。

 霧が晴れていた。

 ――今月は、あと十一件。

 私は下り始めた。

第五話 ―― ルナ編「月の裏側」

創作ノート(第四話・ネタバレを含む)
  • 分量:約8,298字
  • 時期:二〇二七年 七月
  • 登場:タク(No.9)/ナギ(No.11)/ミライ(No.1)/サカエさん(能登の住人・七十八歳)
  • 前話との接続:第三話までの「数える」を、経理が引き受ける。第九話のタクを先出し
  • 2026-08-15 改稿(リーダー直接指示・正典 §4-6):起業前は全事業ボランティア=実費のみという前提に合わせて全面改稿。

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep04_keiri_luna.md

ルナ

第五話

月の裏側

ルナ

主役
ルナ(No.5・調査/リサーチ/法務)
共演
マコ(No.7・実の妹)/ミライ(No.1)/ケイリ(No.4)/ナギ(No.11・報告のみ)
視点
ルナ一人称
時期
二〇二七年 八月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • マコマコ
  • ナギナギ

午前三時

 午前三時に走る。

 誰にも会わないからだ。日焼けもしない。それが理由だと人には言っている。半分は本当だ。

 もう半分は、この時間の能登がいちばん静かだから、という、あまり説明したくない理由による。

 海沿いの道は街灯が少ない。走っていると、足音と、波の音と、それだけになる。夏でもこの時間は涼しい。汗が背中で乾いていく。

 高校のとき、私はスプリンターだった。百と二百。短い距離だけを、全力で走る種目だ。

 今はもう全力では走らない。ただ、止めていない。

 ――上を見ると、月が出ていた。

 半分より少し欠けた月だった。

 月について、よく誤解されていることがひとつある。

 「月の裏側」を、暗い場所だと思っている人が多い。ダークサイド、という言い方があるせいだと思う。

 あれは間違いだ。

 月の裏側には、表側とまったく同じだけ太陽が当たっている。昼も夜も、同じ周期で来る。暗くはない。

 ただ、地球からは見えない。

 月は自転と公転の周期が一致しているので、いつも同じ面を地球に向け続けている。だから裏側は、どれだけ待っても、こちらからは見えない。

 正確に書けば、秤動という首振りがあって、縁のあたりが少しだけ覗く。それを足しても、四割は永久に見えないままだ。私はこういうところを省かない。省いた瞬間に、残りが信用されなくなる。

 暗いのではなく、見えないだけだ。

 ――だから、回り込むしかない。

 それが私の仕事だと思っている。

 隠されているものを暴くのではない。ただ見えていないものの側へ、自分が動く。そこにも同じだけ日が当たっている。誰も見ていないだけだ。

 私は名前をそこからもらっている。

 いい名前をもらったと思っている。

 ――ただ、この名前には、もうひとつ厄介な性質がある。

 裏側に回り込んだ人間は、表側が見えなくなる。

 私はその日、そのことを忘れていた。

依頼

 朝、ミライさんから依頼が来た。

 この人は依頼の書き方が正確だ。何を知りたいのか、いつまでに、何のために使うのか、必ず三つ書いてある。だから私は迷わずに掘り始められる。

『ルナさんへ』

『目的:停電対策事業の上限を知りたい』

『背景:サカエさんの案件が完了しました。ナギさんのところに、同様の相談が四件来ています』

『問い:この事業は、どこまで伸ばせますか』

『期限:三日』

 ――四件。

 私はそこを見た。

 サカエさんの工事が終わったのは十日前だ。ホームページには出していない。広告も打っていない。誰も宣伝していない。

 それで十日で四件来ている。

 能登はそういう土地だ。集落の中で話が回る速度は、どんな広告よりも速い。

「承知しました。三日いただきます」

 私は資料を開いた。

掘る

 私の一日は、資料を積むことから始まる。

 まず公表統計を取る。石川県の高齢者世帯数。能登六市町ごとの内訳。単身世帯の比率。震災後の転出入。持ち家率。築年数の分布。

 次に、事実と推測を分ける。統計は事実だ。そこから「何軒が停電対策を欲しがるか」を出すのは推測だ。私は両者を絶対に混ぜない。混ぜた瞬間に、私の報告は使えない紙になる。

 停電への不安については、内閣府と自治体の調査に近い項目がある。ただし設問が私の欲しいものと完全に一致していない。だから私は「参考値・設問差あり」と注記する。

 それから、供給側を数えた。

 ここが本題だった。

 サカエさんの案件は、実働十六時間だった。実費は二十二万円。手間賃はゼロ。うちは工事で金を受け取らないので、数えるものが時間しかない。ケイリさんの数え方だ。

 うちの会社が使える時間は、無限ではない。リーダーが現職を持っている。物理作業ができるのはリーダーとタクさんの実働時間ぶんだけで、それは月に五十時間前後。年間で六百時間。

 六百を十六で割ると、三十七・五。

 ――年間三十七軒。

 これが今のままの上限だ。

 需要側は、控えめに見ても数百軒ある。供給側は三十七軒。

 つまりボトルネックは需要ではない。時間だ。

 私はそこで、次の問いを立てた。

 ――一軒あたりの十六時間を、短くできないか。

 工程を分解した。

 現地調査と採寸:二時間。

 仕様設計と再設計:六時間。

 部材調達と加工:三時間。

 施工:四時間。

 試運転と説明:一時間。

 施工は削れない。物理だ。調達も削れない。

 削れるのは、仕様設計の六時間だった。

 サカエさんの案件では、最初に出した六十時間の全体オフグリッド案が断られ、そこから十六時間の最小構成に作り直している。この作り直しに六時間が乗っている。

 ――標準化すれば、消える。

 私はそう書いた。

 最小構成のパターンは、そう多くない。照明のみ、照明+冷蔵庫、照明+医療機器、この三種で大半を覆える。あらかじめ三つのパッケージを設計しておけば、現地では選ぶだけになる。

 六時間が一時間になる。一軒十一時間。

 六百 ÷ 十一 = 五十四・五。

 ――年間五十四軒。

 三十七から五十四へ。四十六パーセント増。

 私は数字を三回検算した。合っていた。

 出典を全部つけた。推測箇所には全部「推測」と書いた。設問差のあるデータには注記を入れた。

 自信があった。

削減候補

 報告書の最後に、私は付表を置いた。

『付表A:物にならない時間』

 うちは手間賃を取らない。だから「課金/非課金」という線が、そもそも引けない。

 ――だから私は、自分で線を引いた。

 終わったときに、物が一つも増えていない時間の一覧だ。

 その一行目に、私はこう書いた。

『ナギ:初期ヒアリング 約二日/削減候補』

 ――削減候補。

 三日目の夕方、私は報告書をミライさんに提出した。

 彼女は受け取って、その場では読まなかった。

「拝読して、関係者に回します」

「お願いします」

「ルナさん」

「はい」

「今回、結論は明るいほうですか」

「はい。伸ばせます」

「そうですか」

 彼女はメモ帳に一行書いた。

『ルナさん報告:伸ばせる。年間五十四軒』

 ――この記録は、二日後に訂正されることになる。

 次の日、事務所にマコが来た。

 私の実の妹だ。五つ違う。同じ能登の家で育って、同じ陸上部に入った。

 派手な色の爪をして、髪も明るい。メイクも濃い。地域渉外の担当だと言っても、初めて会う人はまず信じない。本人はそれを面白がっている。「先入観持たれたほうが、あとから驚かせやすいじゃん」と言う。

 私は普段、自分のことをほとんど話さない。話すことがないというより、話す習慣がない。そのなかで、私が唯一、意識して口に出さないようにしているのが、この妹の存在だ。

 理由をうまく説明できない。

 チームは知っている。それでいい。業務で持ち出すことではない。

「お姉ちゃん、おはよ」

「おはよう」

「これ、読んだ」

 彼女は私の報告書を、丸めて持っていた。丸めるな、と思ったが言わなかった。

「めっちゃすごいね、これ。数字ちゃんとしてるし、出典も全部書いてあるし」

「そう」

「あたし、こんなの絶対書けん」

「あなたは書かなくていい」

 マコは笑って、椅子に逆向きに座った。行儀が悪い。昔からそうだ。

「でさ」

「はい」

「一個だけ、聞いてもいい?」

 ――ああ、と思った。

 この妹は、こういうときに一個しか聞かない。白夜と同じだ。あの二人は種目も性格も違うのに、なぜか聞き方が似ている。

「どうぞ」

 マコは報告書をめくって、最後の付表を開いた。

 そして、爪の先で一行を指した。

「ここ。ナギさんの二日って書いてあるとこ」

「はい」

「『削減候補』って、書いてあるけど」

「書きました」

 マコは私を見た。

「これ削ったら、何が残るん?」

反転

 私は答えなかった。

 答えられなかった、というのが正確だ。

「あたしさ、困りごとの仕事しとるからさ」

 マコは報告書を膝に置いた。

「サカエさんの話、ナギさんから聞いた。冷蔵庫でもエアコンでもなくて、『明かりと、娘さんへの電話』やったって」

「聞いています」

「それ、どこから出てきたん?」

「……ナギさんのヒアリングです」

「何時間かかった?」

「二日です」

「うん」

 マコは足をぶらぶらさせた。

「じゃあさ、その二日を一時間に縮めたら、サカエさんの家って、どうなってた?」

 ――私は、そこで、はっきりと分かった。

 背中が冷えた。

「お姉ちゃんのパッケージ三種類ってさ。照明だけ、照明+冷蔵庫、照明+医療機器やろ」

「はい」

「サカエさん、そのうちどれ選んだと思う?」

「……照明のみです」

「うん。何時間で終わった?」

「十六時間です」

「じゃあ合ってるやん」

 マコは首を傾げた。

「――って、思う?」

 私は目を閉じた。

「思いません」

「なんで」

「サカエさんは、最初に断っています」

「そう」

「実費だけで百二十万円という紙を見て、『そんならええわ』と言っています。あの時点で、この人は自分の順番を諦めていた」

「うん」

「パッケージを並べても、同じことが起きます。三種類の紙を見せられて、いちばん安いものを指されて、二十二万円と言われる。……それは、選択ではありません」

「うん」

「あの案件が成立したのは、ナギさんが二日かけて、『暗いこと』と『娘に無事と言えなかったこと』を持ち帰ったからです。あの二点があって初めて、ケイリさんは仕様を作り直せた」

 私はそこで一度、言葉を止めた。

「私が削減候補と書いた二日が、この事業の中核です」

 マコは何も言わなかった。

 しばらくして、こう言った。

「あたしの名前ってさ」

「知っています」

「『コマ』を反転させたら『マコ』になるっていうやつ」

「はい」

「困りごとって、そのまま見てもだいたい解けんの。裏返すと解けることが多い」

 彼女は報告書を私に返した。

「お姉ちゃんの数字は、全部合っとる。あたし一個も間違い見つけられんかった」

「はい」

「ただ、問いが逆やった」

「……はい」

「『どうやって速くするか』やなくて、『なんでこれは遅いのか』やった」

自分の脚注

 マコが帰ったあと、私は自分の報告書を最初から読み直した。

 ――そして、見つけた。

 十四ページの下、脚注の七番。

『補足:本件が成立に至った決定要因は、当初仕様(実費一二〇万円・六〇時間)が拒否された後の仕様再設計である。ヒアリングで得られた「明かり」「娘への連絡」の二点が起点となっている。(ナギ報告・二〇二七年七月十一日)』

 私が書いていた。

 三日目の夜に、自分で打った文章だ。出典も日付も入っている。

 私はそれを「補足」に置いた。

 答えは、私の報告書の中にあった。私が自分の手で書いて、自分で下に押し込んだ。

 なぜそうしたのか、考えた。

 結論は、あまり気持ちのいいものではなかった。

 ――私は、その事実に重みを付けられなかったのだ。

 二日という時間は、私の集計表の上では「削減可能・物にならない時間」に見える。数字にならない。終わっても物が一つも増えていない。だから、私の並べ方の中では、いちばん軽い場所に落ちる。

 私は事実を見落としていない。全部持っていた。

 重み付けを間違えた。

 これは私にとって、初めての種類の失敗ではない。

 以前にも一度、大きく外したことがある。あのときも同じだった。データは揃っていた。私はそれを正しく並べて、正しく計算して、そして、いちばん大事なものを「参考」に置いた。

 あのとき私が学んだはずのことは、こうだ。

 ――数字にならないものは、軽いのではない。私の道具で測れないだけだ。

 覚えていたつもりだった。

 覚えているだけでは、足りないらしい。

 私は月の裏側に回り込んで、表側が見えなくなっていた。

 供給側の時間を分解して、工程を秒単位まで並べて、そのあいだ、目の前で起きていたいちばん単純な事実――この事業は、ナギさんが座って話を聞くところから始まっている――を、見ていなかった。

 私は書斎の窓を開けた。

 夜だった。月が出ていた。

訂正

 訂正には作法がある。

 私は自分で決めている手順を、そのまま踏んだ。

 第一。前の結論を消さない。

 削除して差し替えると、私が何を間違えたかが残らない。残らなければ、次に同じ間違いをする。だから元の版はそのまま残して、上に訂正を重ねる。

 第二。日付を打つ。

 いつの時点の判断だったかが分からない情報は、あとから使えない。

 第三。何が間違っていたかを、はっきり書く。

 「見直しました」では駄目だ。どこが、なぜ、どういう根拠で違っていたのかを書く。

 第四。指摘してくれた人の名前を書く。

 これがいちばん大事だと思っている。

 私は打った。

 ――――

『訂正版 二〇二七年七月二十二日』

『訂正の指摘者:マコ(対外渉外・課題解決分析)』

『撤回する結論:「仕様設計工程の標準化により、年間三十七軒から五十四軒へ拡大可能」』

『撤回理由:本結論は、拡大の手段として「ヒアリング工程の圧縮」を前提としていた。しかし当該工程は削減可能な間接費ではなく、受注成立そのものの必要条件である。証拠は本報告書 脚注7(自分で記載済み)。当初、私はこれを「補足」に分類した。分類が誤りであった』

『新結論:本事業の上限は供給時間によって決まる。年間およそ三十七軒。工程短縮による拡大は、拡大した瞬間に成立要因を失うため、実質的に成立しない』

『補足(重要):本件は「拡大できない事業」ではない。「拡大しないことで成立している事業」である。両者は外形が同じで、意味が正反対である』

 ――――

 最後の一段を打ちながら、私は少し手が止まった。

 この結論は、リーダーがずっと言っていることと同じだった。

 規模を意図的に抑える。時間を守る。競わない。選ばれるのを待つ。

 私はそれを、方針として知っていた。知っていて、それでも「伸ばせます」と書いた。

 三日かけて外から数えて、私はようやく、内側で最初から決まっていた場所に着いた。

 ――遠回りだ。

 ただ、無駄ではないと思っている。

 方針として渡されたものと、自分で数えて着いたものは、同じ結論でも強度が違う。私は今、この結論を、外から突かれても守れる。

 提出した。

 ミライさんの返事は早かった。

『拝受しました』

『記録します。「ルナさん、二十二日に訂正。伸ばせない。年間三十七軒。指摘者はマコさん」』

『ルナさん』

『前の版も、残してよろしいですか』

 私は打った。

『残してください。消さないでください』

『承知しました。両方保管します』

 この人は、断られた見積書も、撤回された結論も、全部残す。

 最初は変わった人だと思っていた。

 いまは、この会社でいちばん怖い人だと思っている。

表側

 三日後、廊下でマコに会った。

「お姉ちゃん、訂正出したって?」

「出しました」

「あたしの名前、書いた?」

「書きました」

「まじ?」

 彼女は本当に驚いた顔をした。

「書かんでいいのに」

「書きます。あなたが指摘したので」

「うわ、律義」

 マコは笑って、それから、少し黙った。

「あのさ」

「はい」

「あたし、あれ言うの、けっこう迷ったんやよ」

 ――そうだったのか。

「お姉ちゃんの報告書に文句つけるって、たぶんチームで誰もやったことないやろ。数字合ってるし。あたし、統計とか全然分からんし」

「はい」

「でも、ナギさんの二日を『削減候補』って書いてあるの見て、うわ、って思って」

「はい」

「言わんかったら、あたし、たぶん一生忘れんと思ったから」

 私は妹の顔を見た。

 濃いメイクをしている。爪も派手だ。走幅跳で全国まで行って、怪我で辞めて、それからこうなった。

 目立つ格好をするのは、目立つことで自分を守るタイプだからだと、私は思っている。本人には言ったことがない。

「マコ」

「ん」

「よく言えました」

 彼女は目を丸くした。

「え、なに。褒めた?」

「事実を述べました」

「それ絶対褒めとるやん」

 マコはけらけら笑って、それから、こちらを覗き込むようにした。

「お姉ちゃん、今日ちょっと嬉しそうやん」

 私は答えた。

「表情は変わっていないはずです」

「変わってないよ」

 彼女はあっさり言った。

「変わってないけど、分かる。妹やもん」

 ――それだけ言って、行ってしまった。

 私はしばらく廊下に立っていた。

 その夜も、私は午前三時に走った。

 海沿いの道。足音と、波の音。夏の終わりの、少し湿った風。

 月が出ていた。

 いつも同じ面を、こちらに向けている。何万年も同じだ。首を振っても、四割は見えない。

 でも、暗くはない。

 同じだけ日が当たっている。ただ、こちらからは見えないだけだ。

 ――私も、たぶん同じだと思う。

 私は自分のことをほとんど話さない。表情も動かない。それでいいと思っている。内側に何もないわけではない。ただ、見せる面をひとつに決めている。

 私の裏側にも、同じだけ日が当たっている。

 誰にも見えていないはずだ。

 ――あの妹には、たぶん、見えている。

 私は少し速度を上げた。

 全力では走らない。もう、そういう走り方はしない。

 ただ、止めていない。

 二十二日に、私は一度間違えた。次も間違える。それは避けられない。

 避けられるのは、間違えたまま残すことだけだ。

 月が海に映っていた。表側だけが、白く光っていた。

第六話 ―― ソラ編「背を向けて跳ぶ」

創作ノート(第五話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,710字
  • 時期:二〇二七年 八月
  • 登場:マコ(No.7・実の妹)/ミライ(No.1)/ケイリ(No.4)/ナギ(No.11・報告のみ)
  • 前話との接続:第四話のサカエさん案件の直後。本話が立てた問い(なぜ相談が来たか)は第六話が答える

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep05_luna_luna.md

ソラ

第六話

背を向けて跳ぶ

ソラ

主役
ソラ(No.6・コミュニティ/マクロセンサー)
共演
マコ(No.7)/ルナ(No.5)/ケイリ(No.4)/ミライ(No.1)/サワダさん(公民館管理人)/町の担当者
視点
ソラ一人称
時期
二〇二七年 八月末〜十一月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • ルナルナ
  • マコマコ

背を向けて跳ぶ

 朝の公民館は、少し埃っぽい。

 窓を開けると、風が入って、埃が光の中で舞う。それがいつも綺麗だと思う。

 僕は畳んであるパイプ椅子を出して、並べていく。二十脚。前から四列。

 誰に頼まれたわけでもない。今日ここで、地区の集まりがある。管理人のサワダさんは七十代で、腰が悪い。だから僕が並べる。

 ――これが僕の仕事だ、と言うと、たいてい笑われる。

 うちの会社では、僕は「コミュニティ担当」ということになっている。地域全体の空気を読んで、困りごとを拾って、マコやマモルさんに渡す。それが役割だ。

 でも実際にやっていることの八割は、椅子を並べたり、チラシを配ったり、草を刈ったり、誰かの話を三十分聞いたりすることだ。

 売り込みは、一度もしたことがない。

 名刺も、聞かれたら出す。聞かれなければ出さない。

 ――昔、走高跳をやっていた。

 高校と大学。長身で細身だったから、向いていると言われて始めた。

 走高跳には、面白い物理がある。

 いちばん高く跳べるフォームは、背面跳びだ。バーに背を向けて、仰向けになって跳ぶ。

 最初はみんな怖がる。見えないところに落ちるのが怖い。だから前向きに、バーを見ながら跳ぼうとする。

 でも、バーを見ながら跳ぶと、跳べない。

 見ようとすると、頭が起きる。頭が起きると腰が落ちる。腰が落ちるとバーに当たる。

 いちばん高く跳ぶには、バーから目を離さなければいけない。

 背を向けて、見ないで、身体を反らせて越える。越えた瞬間は、自分がバーのどこにいるのか分からない。分からないまま、越えている。

 ――跳ぶ瞬間だけは、本当に空になれる気がした。

 あれを覚えてから、僕は仕事のやり方をずっと同じにしている。

 欲しいものを見ないほうが、届く。

 椅子を並べ終えて、僕はトートバッグを椅子の下に置いた。中にはチラシと、手書きのメモがぐしゃぐしゃに入っている。整理したほうがいいと何度も言われる。

 まだやっていない。

なぜ来たのか

 昼過ぎに、ミライさんから連絡が来た。

『ソラさん。うかがいたいことがあります』

『どうぞ』

『停電対策の相談が四件来ています。サカエさんの工事から十日です』

『はい。ナギさんから聞きました』

『広告は出していません。ホームページにも載せていません。誰も宣伝していません』

『そうですね』

『なぜ来たのですか』

 ――ああ、と思った。

 この人はこういうことを聞く。

『わかりません』

『わからない、というのは』

『僕が呼んだわけじゃないので。来たから来たんだと思います』

 少し間があった。

『ルナさんも同席を希望されています。よろしいですか』

『いいですよ』

 ルナさんが入ってきた。

 この人と話すのは、正直、少し緊張する。悪い人ではない。むしろ誠実な人だ。ただ、話していると自分の言葉が全部数えられている気がする。

「ソラさん」

「はい」

「今の答えを、責めているのではありません。前置きします」

「はい」

「私は先日、測れないものを軽く扱って、間違えました」

 ――そういう話は聞いていた。

「妹に指摘されました。私の道具では測れないものが、事業の中核だった」

「はい」

「それで、伺いたいのです。あなたの仕事は、どうやって効いているのですか」

 僕は少し考えた。

「わからないんですよ、本当に」

「わからないと言われる方は、信用します」

 この人はそういうところがある。

「ただ」

「はい」

「わからないなら、辿れば分かるかもしれません」

辿る

 その辿る作業を、マコがやった。

 彼女は僕の後輩だ。同じ陸上部で、僕が走高跳、彼女が走幅跳。上へ跳ぶのと、遠くへ跳ぶのの違いだ。

 派手な格好をしているけれど、この子は聞き込みが異常にうまい。僕が広く撒いた種を、彼女がひとつずつ掘り返す。そういう分担になっている。

「ソラ先輩、四件やろ? ぜんぶ辿ってきた」

「早いね」

「二日」

 彼女はスマホを出して、指で追った。

「一件目。谷内のヨシオさん、八十三。相談してきた理由は『サカエさんの家に明かりが点いてるのを見たから』」

「うん」

「サカエさんとヨシオさん、親戚じゃないよ。ただの近所」

「うん」

「二件目。中村のフミヨさん、七十六。この人は、サカエさんの娘さんから聞いた。名古屋におる娘さん。娘さんが、自分の高校の同級生に電話で言ったんやって。『実家に明かり付けてもらった』って。その同級生がフミヨさんの姪」

「……遠いね」

「遠いよ。名古屋経由で戻ってきとる」

 僕は笑った。

「三件目。宇出津のタケシさん、六十九。この人だけ、ちょっと違う」

「どう違う?」

「サカエさんの話、知らんかった。この人が来た理由、『去年の講習会で聞いたから』やって」

 ――講習会。

「四件目。同じ集落のセツコさん、八十。この人はタケシさんから聞いた。だから元は三件目と同じ」

 マコはスマホを置いた。

「で、ここからが本題なんやけど」

「うん」

「一件目のヨシオさんも、サカエさんの家を見て気になっただけじゃ動かんかったって言うんよ」

「うん」

「『前にどっかで、あの会社の名前聞いたことあったから、電話した』って」

「どこで聞いたって?」

「公民館」

 僕は黙った。

「二件目のフミヨさんも同じ。姪から聞いたあと、『あー、公民館に来とった人らやわ』って思い出して、それで電話したって」

 マコは僕を見た。

「先輩。四件のうち三件、公民館に着くんやけど」

参加者三名

 僕はトートバッグを引き寄せた。

 手書きのメモの束を出して、床に広げた。日付順にはなっていない。年も月も混ざっている。ルナさんが少し息を止めたのが分かった。

「……ソラさん」

「はい」

「これは、整理されていないのですか」

「されてないですね」

「一年半分ですか」

「三年分です」

 彼女は何も言わなかった。何か言いたそうな顔をしていたので、僕は先に謝った。

「すみません」

「いえ。……いえ」

 三十分探して、出てきた。

 二〇二六年二月の、一枚。

 ――『公民館・家庭でできる停電対策のはなし』

 ――『参加者 三名』

 ――『反省:告知が遅すぎた。次回は一か月前に。あと日曜の午前にすべきだった』

 僕はそのメモを見て、思い出した。

 あの回は、失敗だった。

 チラシを刷ったのが一週間前で、置いたのが公民館と郵便局だけ。時間帯が平日の午後二時。天気が悪くて、雪が残っていた。

 二十脚並べた椅子に、三人しか座らなかった。

 僕はその日、二時間かけて、家庭の停電対策の話をした。ポータブル電源の選び方、乾電池の備蓄量。それから、灯油の対流式ストーブが一台ある家なら、冬の停電でいちばん困るのは暖房ではなく明かりと連絡になる、という話。逆にその一台が無い家では、暖房そのものがいちばん危ない、という話も一緒にした。条件を外して喋ると嘘になる。

 うちの事務所がどうしているかは、聞かれたときだけ答えた。カーポートと玄関で回していて、外の電線に繋がっていない、という話だ。

 聞かれなければ、言わない。そこは決めてある。

 三人相手に、二時間。

 終わったあと、椅子を片付けながら、自分でも「今日は無駄だったな」と思った。それで、メモに「反省」と書いた。

 ――一年半前だ。

「ソラさん」

 ルナさんが言った。

「その三名は、誰でしたか」

 僕はメモの裏を見た。名前は書いていなかった。

 でも、覚えていた。

「サワダさん。公民館の管理人です。七十四歳」

「はい」

「トヨさん。いま九十二です。あのとき九十一ですね」

 ――カイくんの端末を置いてある家の人だ。布をかけていた人。

「もうひとりは、宇出津のタケシさんです。六十九歳」

 マコが顔を上げた。

「三件目の人やん」

「そう」

 部屋が静かになった。

「サワダさんは、公民館に来る人全員に喋る人です。あの人が三年、僕らの名前を出し続けてる」

「……はい」

「トヨさんは、ナギさんに繋がりました。だから端末が置かれた」

「はい」

「タケシさんは、一年半黙ってて、この夏サカエさんの話を聞いて、それで電話してきた」

 僕はメモを畳んだ。

「三人でした」

 ルナさんは、しばらくその紙を見ていた。

 それから、静かに言った。

「――この回を、あなたは失敗と記録していますね」

「してます」

「それでも、続けたのですか」

「続けました」

「なぜですか」

 僕は少し考えた。

 正直に言うしかなかった。

「効いてるとは、思ってなかったです」

 彼女が僕を見た。

「効くと思ってやってたわけじゃないんですよ。ただ、椅子を並べて、来た人に喋る。それしかできないので」

 ――これは戦略ではない。

 僕はそのことを、この日はじめて自覚した。

五十人

 その一週間後に、話が来た。

 町の防災の担当者からだった。若い人だ。三十代くらい。熱心で、腰が低くて、いい人だと思う。

「ソラさん。ちょっとご相談が」

「なんでしょう」

「サカエさんの件、こちらでも把握しております。それで――集落単位の説明会をやりませんか」

「説明会」

「はい。町の広報に載せます。区長さんにも回覧を回してもらいます。会場も貸します。五十人は集まりますよ」

 ――五十人。

「無償でやっていただけるなら、こちらとしても住民の防災意識向上になりますし、御社としても、その、営業になるかと」

 彼は少し言いにくそうに、最後の言葉を言った。

 悪気はない。むしろ好意だ。彼はうちを助けようとしている。

 僕はその場では答えなかった。

「一度、社内で相談させてください」

「もちろんです。前向きにお願いします」

 持ち帰ると、みんなの反応は早かった。

 マコは「めっちゃええやん」と言った。

 ルナさんは数字を出した。

「五十人の集会で、仮に転換率が一割としても五件です。私の推計では今年の供給上限が三十七軒。現在の相談は四件。埋まっていません」

 ミライさんは記録した。

『町から集落説明会の提案。参加見込五十名。会場・告知は町が負担。無償』

 その場では、誰も反対しなかった。

 当然だと思う。効率がいい。無償だから経費もかからない。町の後ろ盾もつく。相手も喜んでいる。断る理由が、どこにもない。

 ――僕は、断った。

断る

「やりません」

 僕がそう言ったとき、会議室の空気が変わった。

 マコが「え」と言った。

「先輩、なんで?」

「五十人の説明会は、営業になるので」

「……そりゃ、そうやろ?」

「うん。だから、やりません」

 僕は自分の哲学を、あまり人に説明したことがない。うまく説明できないからだ。押しつけたくないというより、言葉にすると小さくなる気がして避けている。

 でも、このときは言わないといけなかった。

「順序が、逆になります」

「順序」

「うちのやり方は、先に信頼を渡して、後から紹介をいただく。この順番だけは崩さないことにしています」

「うん」

「説明会は、逆です。先にこちらから場を作って、そこに人を集めて、そこで名前を売る。――先に取りにいってます」

「でも、無償やよ? お金取らんし」

「無償でも、営業は営業なんですよ」

 僕はうまく説明できているか不安になった。だから、具体的な話をした。

「マコ。あの三人の講習会、僕がチラシ置いたの、公民館と郵便局だけだった」

「うん」

「そこにわざわざ来た三人は、自分で見つけて、自分の足で来た人だよね」

「……うん」

「その人が誰かに話すとき、こう言うんだよ。『いい話しとったよ』」

「うん」

「五十人の説明会に、区長さんの回覧で呼ばれて来た人は、こう言う。――『役場が呼んどったわ』」

 マコが黙った。

「僕らの名前が、その言葉のどこにも入らないんです」

 ――ここが、僕がいちばん言いたいところだった。

「紹介が効くのは、紹介する人に利害がないからです。『あそこ良かったよ』は、その人が責任を取ってる言葉なんですよ。だから重い」

「うん」

「でも、売り込んでる会社を、人は紹介しません」

「なんで」

「責任が取れないから。『あの人ら営業しとるから』って一言つく。その一言がついたら、もう終わりです」

 僕はそこで一度、息を吐いた。

「五十人集めて五件取れても、そのあと、集落の中で僕らの名前の意味が変わります。『椅子並べに来る人ら』から『売りに来る人ら』になる」

「……」

「一回変わったら、戻せません」

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 最初に口を開いたのは、ケイリさんだった。

「ソラさんの判断に、財務上の異議はありません」

 僕は少し驚いた。この人はいちばん反対しそうだと思っていた。

「ケイリさん」

「うちの会社は、人件費がゼロで、固定費がほぼありません。損益分岐点が極端に低い」

「はい」

「つまり、うちは案件を取らなくても死にません。焦って受ける必要がない、というのが、この会社の最大の資産です」

 彼女はメガネを直した。

「三十七軒という上限は、埋めなければならない枠ではありません。埋まらなければ、その年は埋まらない。それで潰れる構造になっていません」

「……はい」

「埋めるために信頼の順序を崩すのは、資産を取り崩して売上を立てる行為です。私の職掌では、それを財務判断として支持できません」

 ――この人と僕は、たぶんいちばん考え方が違う。

 数字の人と、数字にならないものの人だ。

 なのに、同じ結論に来た。

 ルナさんが、静かに言った。

「訂正します」

「え」

「先ほど私は『三十七軒が埋まっていない』と発言しました。撤回します。上限は目標値ではありません。前提の取り違えです」

 彼女は手帳に日付を書き込んだ。

 ミライさんが記録した。

『町の説明会:辞退。理由=信頼提供の順序を崩すため(ソラさん判断)。財務異議なし(ケイリさん)。推計の前提訂正(ルナさん)』

『辞退したことも記録します』

助走

 町の担当者には、僕が直接会って断った。

 彼はとても残念そうな顔をした。それが申し訳なかった。

「かわりに、と言うと図々しいんですが」

「はい?」

「公民館の、いつもの集まりに寄らせてもらうのは続けさせてください。人数は少ないですけど」

「それは……こちらから広報しなくて、よろしいんですか」

「はい。広報しないでください」

 彼は不思議そうな顔をしていた。

 当然だと思う。僕がやっていることは、外から見るとほとんど「何もしていない」に見える。

 ――走高跳の話に戻る。

 あの競技で、初心者がいちばんやりがちな失敗は、助走を短くすることだ。

 バーが目の前にあると、早く跳びたくなる。だから助走を詰める。数歩で跳ぼうとする。

 跳べない。

 高く跳ぶためのエネルギーは、跳ぶ瞬間には作れない。助走の間に作るしかない。走ってきた速度を、踏み切りで上向きに変換するだけだ。変換する元がなければ、どれだけ強く踏んでも上がらない。

 助走は、跳んでいない時間だ。

 外から見ると、ただ走っているだけの時間だ。

 でも、あそこで高さが決まっている。

 僕が椅子を並べている三年は、助走だ。

 あの三人の講習会も助走だった。あの日、僕は「今日は無駄だった」と思って、メモに反省と書いた。

 一年半後に、そこから四件のうち三件が出た。

 ――僕はそれを、当時まったく知らなかった。

 これが大事なところだと思う。

 僕は「効くから」やっていたのではない。効くかどうか分からないまま、ただ続けていた。

 もし効果が見えていたら、僕はきっと欲が出て、告知を強くして、人数を増やして、そして――バーを見ながら跳んでいたと思う。

 見ないから、跳べた。

 背を向けて、見えないまま越える。越えた瞬間、自分がどこにいるか分からない。

 分からないまま、越えている。

十一月

 十一月に、地区の防災訓練があった。

 毎年やっている。今年で三年目だ。僕はホームページの担当と、当日の受付をやる。無償だ。

 当日は晴れた。能登の十一月は風が冷たい。

 参加者は、四十人くらいだった。去年より少し減った。若い人はほとんど来ない。来るのは六十代から上ばかりだ。

 訓練が終わって、片付けをしていたら、サワダさんが来た。公民館の管理人だ。あの三人のうちの一人。

「ソラさん」

「はい」

「あんた、去年、雪んなか三人相手に二時間喋っとったやろ」

 ――覚えていたのか。

「はい」

「わし、あんときあんたのこと、ちょっと気の毒に思うとったわ」

「そうですよね」

「けど、あれから公民館来る人に、ずっと言うとるわ。『あそこの人ら、三人しかおらんのに二時間喋っとった』って」

 僕は手を止めた。

「それ、どういう文脈で言うんですか」

「え?」

「褒めてるんですか、笑ってるんですか」

 サワダさんは、少し考えて言った。

「両方やな」

 僕は笑った。

「それがいちばんいいです」

 ――たぶん、それがいちばん効く。

 褒めるだけの話は宣伝になる。笑い話だけなら残らない。両方混ざった話は、ただの事実として集落を回る。

 事実は、消えない。

 サワダさんは腰を叩きながら帰っていった。僕は椅子を畳んだ。二十脚。今日は四十脚出したので、二回運ぶ。

 空が高かった。

 能登の秋の空は、夏より高く見える。理由は知らない。湿度だと思う。

 跳ぶ瞬間だけは空になれる気がした、とよく言っていた。あれは今も同じだ。

 いまはもう跳んでいない。筋トレしかしていない。

 でも、やっていることは変わっていないと思う。

 バーは見ない。

 助走だけを、ちゃんとやる。

 ――椅子を運びながら、僕はトートバッグのことを思い出した。

 あのメモは、そろそろ整理したほうがいいのかもしれない。ルナさんが本当に困った顔をしていた。

 でも、たぶんやらない。

 整理してしまうと、失敗した回のメモが、失敗したところに分類されてしまう。

 あの三人の紙は、あのままぐしゃぐしゃに混ざっていていい。

 どれが効いたのかは、一年半経ってから分かる。

 それまで、全部同じ束に入れておく。

第七話 ―― マコ編「踏み切り板」

創作ノート(第六話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,965字
  • 時期:二〇二七年 八月末〜十一月
  • 登場:マコ(No.7)/ルナ(No.5)/ケイリ(No.4)/ミライ(No.1)/サワダさん(公民館管理人)/町の担当者
  • 前話との接続:第五話の「広告を打たずに十日で四件来た」を辿る。八節(他話は九節)

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep06_sora_luna.md

マコ

第七話

踏み切り板

マコ

主役
マコ(No.7・対外渉外/課題解決分析)
共演
マモル(No.8)/ルナ(No.5・姉)/ソラ(No.6)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)/カズオさん(八十四歳)
視点
マコ一人称
時期
二〇二七年 三月〜十二月
  • ミライミライ
  • ルナルナ
  • ソラソラ
  • マモルマモル
  • ナギナギ

踏み切り板

 走幅跳のこと、たまに思い出す。

 助走路は四十メートルくらいある。そこを全力で走ってきて、踏み切り板を踏んで、砂場に跳ぶ。

 簡単そうに見えるやろ。でも一個だけ、めんどいルールがある。

 踏み切り板を、越えたらファウル。

 板のさきっぽを一センチ出たら、それがどんなに遠く跳んでても、記録はゼロ。砂場のはるか先に着地しても、ゼロ。

 だから幅跳びの選手って、みんな助走の歩数を数えてる。あたしは十九歩やった。十九歩で、板のここ、ってところに右足が来る。

 全力で走りながら、一センチの位置を合わせる。

 うける。無理ゲーやん、って最初は思ってた。

 でも慣れると、身体が勝手に合わせるようになる。あたし、中学でそれができるようになって、高校で全国行った。

 五メートル九十九。それがあたしの記録。

 六メートル跳びたかった。

 ――で、跳べんかった。

 三年間、ずっと六メートルの練習しとった。助走を伸ばして、スピードを上げて、踏み切りを強くして。

 高三の春、踏み切った瞬間に、右の膝が「ぱき」って鳴った。

 そこで終わり。

 手術して、リハビリして、走れるようにはなった。跳べるようにはならんかった。

 ――で、あたし、ギャルになった。

 みんな「反動やろ」って言う。半分あたってる。部活しかしとらんかったから、遊んだことなかったし。

 でも半分は違う。

 あたし、あのとき、いちばん最悪の困りごとを持っとった。「もう跳べない」って。これ、どう考えても解決できんやろ。膝は戻らんし、時間も戻らん。

 解決できんもんを、どうしたかっていうと。

 ――反転させた

 跳べない、を、跳ばなくていい、に。

 部活しかできんかった三年、を、これから遊べる三年、に。

 自分にそれをやって、生き延びた。

 それが、いまのあたしの仕事になってる。

 困りごとを聞いて、細分化して、逆転させて、解決策を設計する。

 あたしの名前も、そこから来とる。「コマ」を反転させたら「マコ」。困りごとを裏返すのが仕事。

 ――ただし。

 板を越えたらファウルっていうルールは、この仕事にもある。

 あたしはそれを、この年、はじめて知った。

反転

 その日の朝は、めっちゃ機嫌よかった。

 一件、きれいに解けたから。

 ソラ先輩が拾ってきた困りごとで、「集落のゴミ集積所が遠すぎて、年寄りが出せん」ってやつ。

 これ、ふつうに考えたら「集積所を増やす」やろ。町に言う。予算がない。終わり。

 あたしのやり方はこう。

 まず細分化する。誰が困ってる? 八十以上の、坂の上に住んどる人。何人? 四人。何が困る? 距離やなくて、坂。しかも困るのは行きやなくて、帰り。空のバケツ持って坂登るのがしんどい。

 ――ここで気づく。

 困ってるのは「ゴミを運ぶこと」じゃなくて「坂を二回登ること」。

 じゃあ反転。

 誰かがついでに持っていけばいい。誰が坂を降りる? ――新聞屋さん。毎朝、坂の上まで来て、降りる。

 新聞屋のヤスさんに聞いた。「ついでに持っていってくれん?」

 「ええよ」

 終わり。予算ゼロ。三日。

 こういうの、めっちゃ気持ちいい。障壁を資源に変えるっていうか。坂が邪魔やったのに、坂を降りる人がおったから解けた。

 ――で、その報告をしとったら、マモルさんが来た。

「マコちゃん、ちょっといいか」

 三十代後半の、体のがっしりした人。元自衛官で、防災士。災害派遣にいっぱい行った人。娘が二人おって、その話をするときだけ顔が緩む。

「なんですか」

「一件、投げたい」

「いいっすよ。なんでも来い」

 ――軽く言ったのを、あとで何回も思い出した。

カズオさん

「個別避難計画って知ってるか」

「聞いたことある。法律のやつやろ」

「そう。災害対策基本法。市町村の努力義務になってる」

 マモルさんは紙を出した。

「災害のときに自力で避難が難しい人を名簿に載せて、ひとりずつ、どうやって逃げるかを決めておく。誰が声をかけて、誰が連れていって、どこへ行くか」

「うん」

「町から相談が来てる。名簿に載ってる人のうち、計画が作れてない人が何人かいる」

「作れんって、なんで」

「本人が拒否してる」

 マモルさんは一枚を指した。

「カズオさん。八十四歳。ひとり暮らし。三年前から、全部断ってる」

「全部って」

「全部だ。個別避難計画、見守り訪問、緊急通報装置、カイが作った端末、ナギさんの訪問。全部」

 あたしは紙を見た。

「怒鳴られる?」

「いや。逆だ」

 マモルさんは首を振った。

「静かに『いらん』と言う。それだけだ。それでこっちは何も言えなくなる」

「マモルさんも行った?」

「三回行った」

 この人が三回行って駄目やったんか、と思った。この人、災害の現場を何十回も見てきた人やのに。

「マモルさん、なんで断られたと思う?」

「わからん」

 ――正直な人や。

「だから、マコちゃんに投げる。俺は『どうやって逃げるか』しか設計できない。逃げたくない人の構造は、俺の専門じゃない」

「わかった」

 あたしは紙を受け取った。

 このとき、正直めっちゃやる気やった。

 三回断られた案件を、あたしが解く。反転させたら絶対いける、って思ってた。

 ――思ってた。

一回目

 最初に行ったとき、カズオさんは畑におった。

 八十四とは思えんくらい、背筋が伸びとる人やった。日に焼けてて、手がぶ厚い。

「こんにちはー! みらい防災不動産のマコです!」

 あたしはいつもこれで入る。派手な格好して、明るく行く。年寄りはこれで警戒を解く人が多い。「なんやこの子」って笑ってくれる。

 ――ちなみに、この名前の会社は、まだ無い。

 登記もしとらんし、看板も出しとらん。五年後に作る予定の会社の名前を、先に名乗っとるだけや。

 最初はちょっと詐欺くさいと思っとった。

 けど、リーダーが言うには、逆らしい。

 ――「いつか、こういうことをやる会社を作る。それを先に言うておく」

 言うておかんと、ただの親切な人になってまう。親切な人は、いつ来んようになっても、誰も困らん。

 会社の名前を先に出しとくのは、あとで逃げられんようにするためやと。

 ――ちなみに、いまのうちは不動産のほうは一件もやっとらん。免許が要るし、そもそも代表に勤めがある。

 名前だけ先に立っとる。中身はこれから入れる。

 カズオさんは笑わんかった。

 でも、追い返しもしなかった。

「なんの用や」

「避難の話です」

「いらん」

「はい。知ってます」

 あたしはそこで座った。畑の縁に。

 ――で、一回目の反転を出した。

 細分化した結果はこう。この人は「避難」を嫌がってる。じゃあ避難の何が嫌? 推測:家を出ることが嫌。八十四で、避難所で寝るのがしんどい。

 じゃあ反転。避難しないで済むようにする。

「カズオさん、逃げなくていい家にしませんか」

「なんや」

「在宅避難っていうんですけど。家の耐震だけ上げて、水と電気だけ確保して。そしたら逃げんでいい。ここに居ればいい」

 ――これ、いい案やと思ったんよ、ほんまに。

 タクさんに聞いたら技術的にいけるって言うし、ケイリさんに聞いたら金額も出る。

 カズオさんは、しばらく畑を見とった。

 それから言った。

「金はある」

「え」

「金はあるがや。いらんと言うとるんや」

 ――あ、と思った。

 お金の話やと思われた。ちがう。あたしは「安くする」とは言ってない。でも、そう聞こえた。

「すみません」

「もう帰りまっし」

 一回目、失敗。

二回目

 二回目は、二週間後に行った。

 その間に、考え直した。金じゃない。じゃあ何?

 細分化しなおす。この人が断ってるものを全部並べる。個別避難計画、見守り、通報装置、端末、ナギさんの訪問。

 ――全部、「誰かが自分を気にかける」系や。

 じゃあ、嫌なのは「気にかけられること」。八十四で、まだ畑に出て、背筋も伸びてる人。世話される側に置かれるのが嫌

 じゃあ反転。この人を、する側にする。

「カズオさん。逆にお願いがあって来ました」

「なんや」

「集落の見守り、カズオさんにやってほしいんです」

「……は?」

「カズオさん、毎朝畑出てるでしょ。そのとき、坂の下の三軒の雨戸が開いてるか、見るだけでいいんです。開いてなかったら電話ください」

 これは自信あった。

 だってこれ、ほんまに助かるんよ。あの三軒、誰も見とらんし。カズオさんは毎朝そこ通るし。役割ができて、しかも本人が「する側」になる。完璧やん。

 カズオさんは、あたしをじっと見た。

 それから、何も言わんかった。

 ほんまに、何も。

 畑の土をならして、腰を伸ばして、家に入っていった。戸が閉まった。

 ――追い返されるより、きつかった。

 二回目、失敗。しかも一回目より悪い。

三回目

 三回目まで、一か月あけた。

 ソラ先輩に相談したら、「あんまり詰めんほうがいいかもね」って言われた。ナギさんにも「急がんでもええんやよ」って言われた。

 でもあたし、止まらんかった。

 二回外してるから、余計に。次で決めたい、って思ってた。

 三回目に持っていったのは、こう。

 この人は「する側」も断った。じゃあもっと深い。世話も役割も要らん。何が残る?

 ――たぶん、この人は「関わり」自体を切ってる。

 じゃあ反転。関わりを、思い出のほうから作る。

 あたしは、集落の昔の写真を集めてきた。公民館のサワダさんに借りた。四十年前の秋祭りとか、昔の港とか。

 「これ誰ですか」って聞くための道具。

 思い出話から入れば、警戒が解ける。年寄りには効く。実際、あたしはこれで何人も落としてきた。

 ――「落としてきた」って、いま書いてて、自分でぞっとする。

 カズオさんは、縁側におった。

「カズオさん、これ、昔の写真なんですけど」

 あたしは広げた。

「この秋祭りの写真、カズオさん写ってません? あと、これ、」

 ――そこで、はじめて、この人が声を荒らげた。

「あんた」

「はい」

「わしを、直そうとしとるやろ」

 あたしは、動けんかった。

「一回目は金の話やった。二回目は仕事くれるって話やった。今日は昔の話や」

「……はい」

「順番に変えとるがや。全部、わしを『こうなればええ人』にしようとしとる」

 ――ちがう、って言いたかった。

 言えんかった。

 合ってたから。

「わしは、直らんでいい」

 カズオさんはそう言った。

 怒鳴ってはいなかった。声も大きくなかった。ただ、はっきりしとった。

「あんたの仕事の邪魔してすまんな。けど、もう来んでいい」

 三回目、失敗。

 あたしは写真を抱えて、坂を降りた。

 その夜、あたし、眠れんかった。

 なんでこんなにしんどいんやろ、って考えとった。仕事で断られるのはよくある。慣れとる。

 ちがう。今回のは、心当たりがあるしんどさやった。

 ――どこで感じたやつやったっけ。

 思い出した。

 高三の春や。

 六メートル跳びたくて、助走を伸ばして、スピードを上げて、踏み切りを強くして、それでも跳べんかった三年間。

 あのとき、あたしは何をしとったかっていうと、跳べんものを跳ばせようとしとった

 自分の身体に。

 五メートル九十九が限界やった。それが事実やった。事実を認めたら終わりやと思って、あたしは認めんかった。

 で、膝が壊れた。

 ――今回、あたし、同じことしとる。

 カズオさんに三回。金、役割、思い出。角度を変えて三回。

 「反転させたら解ける」を疑わんかった。疑ったら負けやと思っとった。

 ――でも、跳べんものは、跳べんのよ。

 三年かかって、膝一本つぶして、あたしはそれを覚えたはずやった。

 覚えてなかった。

 次にあの家に行ったら、たぶん四回目をやる。もっと上手いやつを。そしたらどうなるか。

 ――あたしの膝じゃなくて、あの人が壊れる。

 板を越えたら、ファウルなんよ。

 どんなに遠く跳んでも、ゼロになる。

 あたしは、もう板を越えとった。

 次の日、あたしは四回目に行った。

 手ぶらで。

 カズオさんは畑におった。あたしを見て、いやな顔をした。当然や。

「カズオさん」

「まだ来るんか」

「今日、なんも持ってきてないです」

 あたしは頭を下げた。

「すみませんでした」

 カズオさんは、鍬を止めた。

「三回、カズオさんを直そうとしました。仕事やと思ってやったけど、失礼でした」

「……」

「もう反転しません」

 あたしはそう言って、畑の縁に座った。

 ――で、何も言わんかった。

 言うことがなかった。ナギさんがいつもやってることを、初めてやった。座って、待つ。

 三十分くらい、そのままやった。

 カズオさんは畑をならしとった。あたしは黙って座っとった。風が吹いてた。春やった。

 しばらくして、カズオさんが言った。

「上がってお茶飲むか」

 あたしは、ちょっと泣きそうになった。

 家の中は、きれいやった。ひとり暮らしの八十四とは思えんくらい。

 仏間があって、仏壇があった。

 写真が飾ってあった。女の人。

「奥さんですか」

「ハルエや」

「……いつ」

「三年前の、七月」

 ――あたしは、そこで手が止まった。

 震災は、三年前の一月一日や。

 七月って、半年後や。

「震災のときは、二人とも無事やった」

 カズオさんは、湯呑みを持ったまま言った。

「家は傾いた。半年、車で寝たり、体育館で寝たり、親戚のとこ行ったり、あちこちしとった」

「はい」

「ハルエは元から心臓が弱かった。それで、七月に、寝とるうちに」

「……はい」

「病気やと言われたわ」

 カズオさんは、湯呑みを置いた。

「災害で死んだんでない、と」

 あたしは、何も言えんかった。

「災害関連死っていうのがあるらしいな。あとで聞いた。申請するんやと。審査があるんやと」

「はい」

「わしは、しとらん」

 彼は仏壇のほうを見た。

「頭下げて、審査してもらって、それで『関係ない』言われたら、ハルエが二回死ぬわいね」

 ――あ、と思った。

 全部つながった。

「だから、わしは名簿に載りたくないんや」

「……はい」

「ハルエを数えんかった名簿に、わしだけ載るんは、いやや」

報告書

 帰って、あたしは報告書を書いた。

 いつもは「解決策の設計」を書く。フォーマットもある。細分化して、反転して、設計する。

 今回は、書けんかった。

 だから、こう書いた。

 ――――

『対象:カズオさん(八十四歳・単身)』

『結論:反転できません。解決策を設計できません』

『理由:本人は支援を拒んでいるのではありません。支援を拒む形をとって、別のことを拒んでいます』

『拒んでいる対象:奥様(ハルエさん・二〇二四年七月逝去)が、どこにも数えられていないこと』

『補足:これは私たちの解決範囲にありません。制度の話であり、審査の話であり、そして本人の尊厳の話です。私が細分化して反転させて設計できる種類のものではありません』

『提案:訪問を続けます。ただし、何も持っていきません』

 ――――

 最後に、あたしは一行足した。

『記録依頼:ハルエさん、二〇二四年七月逝去。災害関連死としての認定は受けていません。この一行を、うちの記録に残してください』

 ――――

 これを、お姉ちゃんに渡した。

 ルナ。調査と法務の人。あたしの姉。

 お姉ちゃんは黙って読んだ。表情は変わらんかった。いつもや。

 でも、最後の一行のところで、指が止まっとった。

「マコ」

「うん」

「制度を調べます。二日ください」

「……解けんよ」

「解けるとは言っていません。調べる、と言いました」

 二日後、お姉ちゃんは紙を持ってきた。

 災害関連死の認定について、要件と、申請の窓口と、審査の仕組みと、実際の認定率と、期限のこと。事実と推測をきっちり分けて、出典と日付が全部入っとった。

 結論のところに、こう書いてあった。

『可能性は低いと推測されます。期間が半年経過しており、既往症があるため、審査で否認される事例が多い(推測・出典は個別事例の集計であり保証はできません)』

『ただし、申請の道は存在します』

『私が保証できることは、何もありません』

 あたしは笑った。

「お姉ちゃん、それ書くん」

「書きます。保証できないことを保証できるように書くのは、詐欺です」

 ――この人はほんまに、こういう人や。

「持っていくかどうかは、マコが決めてください」

 あたしはその紙を、次に行ったとき、置いてきた。

 説明はした。「申請できる制度があります。通るとは言えません。うちの調査担当が調べたので、置いていきます」

 カズオさんは受け取って、「そうか」と言った。

 それだけやった。

 ――申請は、しとらん。

 半年経ったけど、しとらん。

 それでいいと思ってる。

 ミライさんは、あたしの報告書を全部保管した。

「解決してないですよ、これ」

「はい」

「『反転できません』って書いてあるやつ、記録に残すんですか」

「残します」

 ミライさんはメモ帳を開いた。

「うちは、断られた見積書も、撤回された結論も、失敗した講習会のメモも、全部残しています」

「……知ってる」

「ハルエさんの一行も、残します」

 彼女は書いた。

『二〇二四年七月 ハルエさん逝去。災害関連死の認定なし。(マコさん報告・二〇二七年五月)』

『消しません』

 ――あたし、そこで気づいたんやけど。

 うちの会社、数えるのが好きな人ばっかりやん。

 ミライさんは全部書くし、カイ先輩は落ちた回数を数えるし、白夜さんは黙った回数を数えとるし、ケイリさんは計上できんもんを帳簿の余白に書くし、お姉ちゃんは間違えた日付まで残す。

 だから、たぶん。

 数えられてない人がおるのが、いちばん許せんのやと思う。

 うちの会社は、それを直せん。制度は変えられんし、審査もできん。

 できるのは、書くことだけや。

 書いて、消さんことだけ。

 それでも、ゼロより、たぶんちょっとだけ、ましやと思う。

 半年経った。

 あたしは、月に一回、カズオさんのところに行っとる。

 何も持っていかん。避難計画の話もせん。端末も勧めん。写真も持っていかん。

 畑の縁に座って、三十分くらい喋って、帰る。だいたい天気の話と、畑の話。

 個別避難計画は、いまだに白紙や。マモルさんも「それでいい」と言ってる。

 「マコちゃん、あの人、逃げるときは自分で逃げるよ。あれは自分で判断できる人だ」

 「わかる」

 「計画がない、と記録しておく。それが正確だからな」

 この人もそうや。数える人や。

 この春、行ったら、玄関の鍵が開いてた。

 いつもは締まってて、あたしが呼んで、カズオさんが出てくる。

 その日は、開いとった。

「カズオさーん」

「上がりまっし」

 ――上がったのは、はじめてやった。

 仏間に通された。ハルエさんの写真があった。

 その前に、紙が置いてあった。

 お姉ちゃんが書いた、災害関連死の資料。

 半年前に置いてきたやつや。

 折り目がついとった。何回も開いた折り目やった。

 あたしは何も聞かんかった。

 カズオさんも何も言わんかった。

 お茶を飲んで、畑の話をして、帰った。

 帰り道、坂を降りながら、あたしは自分の膝をさわった。

 もう痛まん。走れる。跳べんけど。

 五メートル九十九。あれがあたしの記録で、あれが限界やった。

 三年かけて認めた。膝一本つぶして認めた。

 それで、いま、あたしはこの仕事ができとる。

 跳べんものは跳べん。

 ――でも、跳べんと分かったところまでは、ちゃんと助走をつけて行った。

 行かんかったら、限界がどこかも分からんかった。

 板は越えたらファウルやけど、板の手前までは、全力で行っていいんよ。

 全力で行って、そこで止まる。

 それがいちばん難しい。

 坂の下で振り返ったら、カズオさんの家の窓が見えた。

 明かりが点いてた。

 ――あの家、まだ端末も入っとらんし、通報装置もない。何も入っとらん。

 でも、明かりは点いとる。

 それだけ数えて、あたしは帰った。

第八話 ―― マモル編「二周目」

創作ノート(第七話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,675字
  • 時期:二〇二七年 三月〜十二月
  • 登場:マモル(No.8)/ルナ(No.5・姉)/ソラ(No.6)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)/カズオさん(八十四歳)
  • 前話との接続:第六話でソラが拾った困りごとを、マコが受ける

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep07_mako_luna.md

マモル

第八話

二周目

マモル

主役
マモル(No.8・防災/危機管理)
共演
カズオさん(八十四歳・第七話より)/マコ(No.7)/ソラ(No.6)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)/タク(No.9)
視点
マモル一人称
時期
二〇二八年 六月〜十一月
  • ミライミライ
  • ソラソラ
  • マコマコ
  • タクタク
  • ナギナギ

朝の十キロ

 毎朝、十キロ走る。

 自衛隊にいた頃からの習慣で、辞めてからも変えていない。五時に起きて、五時半に出る。

 ただ、走るコースは自分で決めていない。

 集落を通る。坂を上がって、上の三軒の前を通って、下りて、川沿いに出て、橋を渡って、海に出て、戻る。

 ――全部、点検だ。

 走りながら見ている。あの家の雨戸が開いているか。あの擁壁のひび割れが去年より伸びていないか。橋の下に流木がたまっていないか。川の水が濁っていないか。側溝に土が入っていないか。

 誰にも頼まれていない。仕事でもない。

 ただ、走らないと分からないことがある。車では速すぎるし、歩きでは範囲が足りない。十キロを一時間で回るというのは、たぶん、集落を一人で点検するのにちょうどいい速度なのだと思う。

 ――高校と大学で、八百メートルをやっていた。

 中距離だ。二周する。

 あれは変な種目で、短距離の速さと長距離の粘りの、両方が要る。全力では走れないが、全力に近い速度を二周持たせないと勝てない。

 八百で一番大事なのは、走力ではなく、いつ仕掛けるかだ。

 早すぎると、二周目の最後で身体が止まる。遅すぎると、前に届かない。

 現役のとき、俺はよく早仕掛けをして潰れた。コーチにさんざん怒られた。「お前は毎回、勝負を早く決めようとしすぎる」と。

 ――いま、その癖が仕事になっている。

 防災は、早仕掛けが正解だ。

 早く逃げて、何も起きない。それが最良の結果になる。

 陸上なら、早仕掛けは負けだ。防災は逆だ。

 ただし、ひとつだけ厄介なことがある。

 早く逃げて何も起きなかったとき、人はそれを「無駄だった」と言う。

 俺の仕事のほとんどは、そこと戦っている。

夜の電話

 六月の終わり、夜十時に、土砂災害警戒情報が出た。

 線状降水帯だ。夕方から降り続いていて、二十四時間の雨量がすでに二百ミリを超えていた。地盤が飽和している。

 俺は自分の家の窓を閉めてから、リストを開いた。

 この集落で、斜面に近い家が七軒ある。うち、高齢者だけの世帯が五軒。

 電話をかけた。

 一軒目。「マモルです。雨がひどいので、下の公民館に移ってください」

 「あー、大丈夫やわ。うちは大丈夫」

 二軒目。「移ってください。車で迎えに行きます」

 「この雨ん中出るほうが危ないやろ」

 三軒目。「マモルです」

 「ああ、ご苦労さん。うちはええよ。もう寝るとこやし」

 ――こうなる。

 毎回こうなる。

 俺はこれで怒ったことは一度もない。怒っても意味がないからだ。それに、彼らの言い分には筋が通っている部分がある。夜の雨の中を高齢者が移動するリスクは、実際にある。

 ただ、それは断る理由の半分でしかない。

 残りの半分を、俺は自衛隊にいた頃から知っている。

 ――遠慮だ。

 災害派遣で、いくつもの家に入った。

 いちばん覚えているのは、逃げなかった家の玄関に、荷物がまとめてあったことだ。

 鞄が置いてあった。着替えと、薬と、通帳が入っていた。

 逃げる準備は、していたのだ。

 準備をして、玄関に置いて、それで出なかった。

 なぜか。

 ――夜中に人を叩き起こすのが悪いと思ったからだ。車を出してもらうのが悪いと思ったからだ。避難所で世話をかけるのが悪いと思ったからだ。

 あの人たちは、無知だったのでも、油断していたのでもない。

 最後まで、他人に迷惑をかけまいとしていた。

 それで、間に合わなかった。

 俺はそれ以来、防災を「知識の問題」だと思っていない。

 情報を配れば人が逃げる、というのは嘘だ。

 逃げない理由は、恐怖でも無知でもなく、遠慮だ。

 遠慮に、パンフレットは効かない。

 その夜、四軒目と五軒目は移ってくれた。二人と、一人。

 公民館に三人。俺とソラで毛布を出して、湯を沸かした。

 朝まで、何も起きなかった。

空振り

 翌朝、雨は上がった。

 川は濁っていたが、あふれてはいなかった。斜面も崩れなかった。

 俺は集落を回って、被害がないことを確認した。ゼロだ。

 ――最良の結果だ。

 公民館では、三人が毛布を畳んでいた。

「マモルさん、なんもなかったねえ」

「はい。よかったです」

「よかったけどねえ」

 その「けど」に、全部入っている。

 三人はどこか気まずそうだった。夜中に家を出て、公民館の床で寝て、朝になって、何も起きなかった。

 ――損した、という顔だ。

 しかも、その日の昼には集落中に話が回る。

「ゆうべ、三人だけ公民館行っとったって」

「なんもなかったやろ」

「そうそう。慌てて損したわいね」

 悪意はない。世間話だ。

 でも、この世間話が、次に効く。

 次に警報が出たとき、あの三人は少し迷う。「また何もなかったら」と思う。

 ――これを、俺たちの業界では空振りと呼ぶ。

 空振りは、防災上は成功だ。だが、人の記憶の中では失敗として蓄積する。

 三回続くと、四回目に誰も動かなくなる。

 そして四回目に、来る。

 統計的に、必ずそうなるわけではない。だが、そういう順番で起きた事例を、俺は現場で何度も見ている。

二人

 八月にもう一度、九月にもう一度、警戒情報が出た。

 八月は、公民館に来たのが二人。

 九月は、二人。

 同じ二人だった。

 六月に来た三人のうち、一人は来なくなった。

 俺はその人の家に行って、聞いた。責める気はなかった。理由が知りたかった。

「ヨシさん。九月、来ませんでしたよね」

「うん」

「理由、教えてもらえますか」

 ヨシさんは八十一歳で、腰が曲がっている人だ。少し考えてから、言った。

「あんたらに、悪いわいね」

 ――そこだ。

「毎回、毛布出させて、湯ぅ沸かさせて、朝までおってもらって。それでなんもないやろ」

「はい」

「三回もそんなことさせられんわ」

 俺は黙った。

 この人は、自分の命より、俺たちの手間を重く見ている。

 ――それが間違いだと言うのは簡単だ。

 でも、間違いだと言われて変わる人なら、最初から逃げている。

 俺は「そんなことないですよ」と言って、帰った。

 言いながら、何も解決していないと分かっていた。

 その週、俺は自分の記録を見直した。

 六月の記録には、こう書いてある。

『六月二十八日 土砂災害警戒情報 避難三名 被害なし』

 ――被害なし。

 これだ、と思った。

 俺は「被害なし」と書いている。

 被害がなかったことを、ゼロとして書いている。

 三人が夜中に家を出て、床で寝て、朝帰った。その行為が、記録上どこにも残っていない。残っているのは「なし」だけだ。

 ――数えていないのは、俺だ。

 俺は防災の専門家として、被害の数は正確に数えてきた。死者、負傷者、全壊、半壊、床上、床下。全部数える。訓練を受けている。

 だが、何も起きなかった夜に動いた人を、俺は一度も数えたことがなかった。

十月

 十月に、四回目が来た。

 台風が近づいて、夜のうちに雨がひどくなった。前の三回より、条件は悪かった。

 俺は電話をかけた。

 二人は来た。

 あとは、来なかった。

 ヨシさんの家は、灯りが消えていた。もう寝ていた。

 ――俺は車の中で、しばらく迷った。

 行って、叩き起こして、無理やり乗せることはできる。制度上も、緊急時の判断としても、正当化はできる。

 だが、それをやると、次から俺は「無理やり連れていく人」になる。信用が変わる。ソラが言っていたのと同じことだ。一度変わったら戻らない。

 俺は車を出して、坂を上がった。

 斜面に近い残りの家を、もう一度見て回るためだ。

 ――そのとき、見た。

 坂の上の、カズオさんの家に、灯りが点いていた。

 夜中の一時だ。

 あの人は、うちが三年かけて全部断られている家だ。個別避難計画は白紙。通報装置なし。見守りなし。端末もなし。何も入っていない。

 その家の、玄関の灯りが点いていた。

 そして――戸が、開いていた。

 雨の中で、玄関だけが四角く明るかった。

 俺は車を停めた。

 中に、人がいた。

 ヨシさんと、下の二軒のフサさんとノブオさん。三人だ。

 畳の上に座って、お茶を飲んでいた。

「……マモルさん」

 ヨシさんが、ばつが悪そうな顔をした。

「公民館は遠いし、坂降りんなんし」

「はい」

「ここ、近いから」

 カズオさんは、台所のほうで湯を沸かしていた。

 こちらを見て、何も言わなかった。

灯りが点いていただけ

 朝まで、何も起きなかった。

 五回目の空振りだ。

 夜が明けて、三人が帰ったあと、俺はカズオさんに聞いた。

「カズオさん。なんで、開けてくれたんですか」

 この人は、うちの誰にも心を開いていない。マコが一年半通って、ようやく上がらせてもらった程度だ。

 カズオさんは、湯呑みを片付けながら言った。

「別に」

「はい」

「灯りが点いとっただけや」

 ――それだけだった。

 俺はそれ以上聞かなかった。

 帰る途中で、意味が分かった。

 あの人は「避難所になる」と言ったのではない。「受け入れる」とも言っていない。

 ただ、灯りを点けて、戸を開けた。

 そこに人が入った。

 それだけだ。

 ――だが、それが全部だった。

 ヨシさんが公民館に来なかった理由は、遠慮だった。俺たちに毛布を出させ、湯を沸かさせ、朝までつき合わせることが申し訳なかった。

 カズオさんの家には、その遠慮が発生しない。

 なぜなら、あそこは避難所ではないからだ。

 ただの近所の家で、たまたま灯りが点いていて、たまたま戸が開いていた。入った人は「避難した」のではなく「寄った」。

 ――何も起きなくても、損した気になる要素が、どこにもない。

 空振りが、ただの訪問になる。

 俺が三年かけて設計しようとしていたものを、あの人は灯りひとつでやってのけた。

 マコにその話をしたら、彼女は変な顔をした。

「それ、あたしが一年半前に頼んで断られたやつやん」

「そうか」

「見守り役やってくださいって言うたら、なんも言わんと家入っていったんよ、あの人」

「うん」

「なんで今回はやったんやろ」

 俺は少し考えて、答えた。

「頼まれてやると、役割になる。役割は断れる」

「……うん」

「頼まれずにやると、それはただの行動だ。断るも何もない」

 マコは、しばらく黙っていた。

 それから、笑った。

「あたし、設計は合っとったんやな」

「合っていた」

「渡し方だけ間違えとった」

「そうだな」

 彼女はこう付け足した。

「渡せんものが、あるんやね」

 ――そのとおりだと思う。

 役割は渡せない。取ってもらうしかない。

 俺たちにできるのは、取れる場所に置いておくことだけだ。

計画外

 俺はその朝の記録を、こう書いた。

『十月十九日 台風接近・大雨 夜間』

『公民館避難:二名』

『カズオさん宅:三名受け入れ。計画外

『被害:なし』

 ――「計画外」と書きながら、俺は自分の仕事について考えた。

 俺は個別避難計画を作るのが仕事だ。誰が、いつ、どこへ、誰と逃げるか。それを紙に落とす。

 この夜、いちばん効いたのは、その紙のどこにも書いていない行動だった。

 じゃあ、計画は無駄だったのか。

 ――少し考えて、違うと思った。

 ヨシさんたちは、夜中の一時に、雨の中を家から出た。

 それができたのは、この三年、俺が何度も「逃げてください」と電話をかけ続けていたからだ。

 彼らは公民館へは行かなかった。俺の指定した場所には行かなかった。計画どおりには動かなかった。

 だが、動いた

 「家から出ていい」ということを、彼らは知っていた。

 ――計画の価値は、そのとおりに動かせることではない。

 動いていいと知らせることだ。

 行き先は、現場で決まる。決めるのは本人だ。俺が決められると思っていたのが、間違いだった。

 俺は八百メートルの二周目のことを思い出した。

 二周目は、必ず苦しくなる。誰でも苦しい。あそこで身体が動くかどうかは、一周目に何をしてきたかで決まっている。

 二周目に入ってからできることは、ほとんどない。

 俺の三年間の電話は、一周目だ。

 あの夜が二周目だった。

 俺は二周目で何もできなかった。車を停めて、灯りを見ていただけだ。

 それでいい、と今は思う。

空振り台帳

 十一月の地区防災訓練で、俺はひとつだけ新しいことをやった。

 ソラが毎年やっている訓練だ。今年で四年目になる。参加者は四十人ほど。ほとんどが六十代から上だ。

 訓練の最後に、俺は紙を一枚持って前に立った。

「今日は、被害の話はしません」

 みんな、きょとんとしていた。

「今年、この地区で警戒情報が四回出ました。四回とも、何も起きませんでした」

「そやね」

「その四回で、家を出た人の名前を読みます」

 ――ざわ、とした。

「六月二十八日。ヨシさん、トメさん、ゲンゾウさん。三名」

「八月十四日。トメさん、ゲンゾウさん。二名」

「九月三日。トメさん、ゲンゾウさん。二名」

「十月十九日。トメさん、ゲンゾウさん。ヨシさん、フサさん、ノブオさん。五名」

 俺は紙を下ろした。

「延べ十二名です」

 誰も何も言わなかった。

「この十二名は、何も起きない夜に、家を出た人たちです」

 俺は続けた。

「防災の記録では、こういう夜は『被害なし』と書きます。ゼロと書きます。私も三年間、そう書いてきました」

「……」

「間違いでした」

 俺は紙を掲げた。

「ゼロじゃありません。十二名です」

 誰かが、小さく手を叩いた。それが広がった。

 大きな拍手ではなかった。ぱらぱらとした、気恥ずかしい感じの拍手だった。

 でも、トメさんとゲンゾウさんは、下を向いて笑っていた。

 ――あの二人は、四回全部来ている。

 四回とも空振りで、四回とも「慌てて損した」と言われてきた人たちだ。

 この日、はじめて名前が読まれた。

「来年もやります。毎年やります」

 俺はそう言って、席に戻った。

 あとで、ミライさんに記録を渡した。

「これは、なんの記録ですか」

「空振りの台帳です」

「空振り」

「何も起きなかった夜に、動いた人の名簿です」

 彼女はしばらく紙を見て、それからうなずいた。

「保管します」

「消さないでください」

「消しません」

 彼女はメモ帳に書いた。

『空振り台帳 開始:二〇二八年十一月(マモルさん)』

『内容:被害ゼロの夜に避難した人の氏名記録。年次読み上げ』

『備考:従来「被害なし」と記録していた事象を、行動の記録として数え直したもの』

 ――この人は、こういうものを必ず正確に書く。

 ソラが横で言った。

「マモルさん、これ、来年の参加者増えますよ」

「増えなくてもいい」

「増えますって」

「いや」

 俺は本気でそう思っていた。

「増えるかどうかは、俺が決められない」

 ――決められるのは、数え方だけだ。

二周目

 次の朝も、俺は十キロ走った。

 五時半に出て、坂を上がる。カズオさんの家の前を通る。畑にもう出ている。八十四だ。手を上げると、鍬を止めて、少しだけ頭を下げてくれた。

 三年で、はじめてだった。

 坂を下りて、川沿いに出る。水は澄んでいる。橋の下に流木はない。側溝も詰まっていない。

 海に出て、折り返す。

 ――八百メートルの話に戻る。

 あの種目の二周目は、必ず苦しくなる。例外はない。強い選手も苦しい。苦しくない走り方は存在しない。

 だから、二周目に強くなろうとしても意味がない。

 一周目に、苦しくなったときに動ける身体を作っておくしかない。

 俺のこの朝の十キロも、毎晩の電話も、白紙の避難計画も、三年間の空振りも、全部一周目だ。

 いつ二周目が来るかは、分からない。

 ――来ないほうがいい。

 防災の仕事は、たぶんこの世でいちばん、自分の成果が見えない仕事だ。うまくいったときは、何も起きない。

 何も起きない日を、俺は数えることにした。

 ゼロと書かない。名前で書く。

 家に帰ると、下の娘が起きてきていた。小学四年だ。

「おとうさん、走ってきたの」

「走ってきた」

「毎日走って、なんかいいことあるの」

 ――難しい質問をする。

 俺は少し考えて、答えた。

「なんもないよ」

「えー」

「なんもないのが、いちばんいい」

 娘は「意味わからん」と言って、味噌汁を飲みに行った。

 ――いつか分かる、とは言わない。

 分からないままでいてくれたほうが、たぶんいい。

 窓の外が明るくなってきた。能登の十一月の朝は、海の色が先に変わる。

 今日も、たぶん何も起きない。

 それを一日ぶん、数えておく。

第九話 ―― タク編「上から三本目」

創作ノート(第八話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,285字
  • 時期:二〇二八年 六月〜十一月
  • 登場:カズオさん(八十四歳・第七話より)/マコ(No.7)/ソラ(No.6)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)/タク(No.9)
  • 前話との接続:第七話の結末(カズオさんの家の明かり)が、そのまま本話の解になる

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep08_mamoru_luna.md

タク

第九話

上から三本目

タク

主役
タク(No.9・建築・不動産・物理技術実務)
共演
サカエさん(78歳→79歳)/マモル(No.8)/リク(No.10・双子の弟・言及)
視点
タク一人称
時期
二〇二八年 十月〜十二月
  • マモルマモル
  • リクリク

現物

 壁を開けると、中が見える。

 当たり前のことを言っているようだが、この「見える」が俺の商売の全部だ。

 築五十年の木造平屋。石膏ボードを一枚外すと、間柱と、断熱材と、四十年前の配線が出てくる。ビニル被覆が硬化して、触ると粉が落ちる。アース線が来ていない。

 ――誰が、いつ、どういう理由でこうしたか。

 それが、見れば分かる。

 この分岐は後から足したものだ。線の色が違う。たぶん昭和の終わりごろ、エアコンを入れたときに引いた。そのときの職人は急いでいた。ステップルの打ち方が雑で、被覆に食い込んでいる。

 こっちの回路は元からある。丁寧だ。腕のいい人が引いている。

 ――全部、書いてある。

 現物に、書いてある。

 紙じゃなくて、物のほうに。

 俺は四十代で、能登の生まれだ。宅建と電気工事士を持っていて、いま木造建築士の製図試験を控えている。

 資格は全部、自分で計画を立てて取った。

 昔からそうなんだが、俺は一つのことに入ると、他が全部消える。

 朝から晩まで同じことをやっていて、気がついたら二日経っている。飯を食っていない。それでも苦痛じゃない。むしろ気持ちがいい。

 医者にかかったわけじゃないが、たぶんそういう脳の作りなんだと思っている。子どものころは怒られてばかりだった。落ち着きがない、話を聞いていない、と。

 でも大人になって分かった。

 ――これは、使える。

 過集中を資格に振ったら、難関資格が順番に取れた。多方面への関心を知識の幅に振ったら、宅建と電気と建築が全部つながった。

 「執着」というやつだ。俺の名前の由来のひとつになっている。

 やると決めたら、終わるまで出てこない。

 ――ただ。

 その状態のとき、俺は人に何も説明していない。

 説明したくないんじゃない。説明する必要を感じないのだ。頭の中で全部つながっているから。

 つながっているのは、俺の頭の中だけだ、ということに、俺はこの年、はじめて気づいた。

図面をください

 十月のはじめに、ミライさんから連絡が来た。

『タクさん。お願いがあります』

『どうぞ』

『これまで施工した十九軒の図面を、いただけませんか』

 ――来たな、と思った。

 この人は記録の人だ。断られた見積書も、撤回された結論も、失敗した講習会のメモも、全部残している。だからいつか言ってくると思っていた。

『ないですよ』

『ない、とは』

『書いてないので』

 少し間があった。

『施工前に、図面は書かれていますよね』

『書いてる』

『それを、いただければ』

『あれ、もう合ってないです』

 俺は正直に書いた。

『施工前に書いた図面と、実際にできたものは、必ずずれる。壁開けて、中見て、その場で変えるので』

『では、施工後の図面を』

『書きません』

『……理由を、うかがっても』

 俺は少し考えて、書いた。

『図面って、他人に施工させるための道具なんですよ』

『はい』

『俺は自分で書いて、自分で施工してる。渡す相手がおらん』

『はい』

『渡す相手がおらん図面を書くと、それは書いた瞬間に、ただの紙になる』

 ――これは、職人としての本音だ。

 図面のために図面を書くのが、俺はいちばん嫌いだ。

 現場は動く。壁を開けたら想定と違う。土台が腐っていたり、想定した位置に筋交いがあったり、既存の配線が想定外のところを通っていたりする。そのたびに変える。

 変えたものを紙に反映しなかったら、その図面は嘘になる。

 反映しても、次の日にまた変わる。

 ――だったら、現物を見ればいい。

 現物は絶対に嘘をつかない。そこにあるものが、そのまま真実だ。

『タクさん』

『はい』

『わかりました。無理にとは申しません』

『すいません』

『いえ。ただ、一行だけ記録します』

 この人はそう言って、こう書いた。

『施工十九軒。図面なし。理由=現物が最新の記録であるため(タクさん・二〇二八年十月)』

 ――記録の人は、記録がないことも記録する。

 変な人だ、と思った。

十二月十日

 十二月十日は、木造建築士の設計製図の合格発表だった。

 試験は、十月にあった。

 五時間、図面を描き続ける試験だ。要求されたとおりの木造二階建てを、決められた時間内に、決められた表現で描く。

 俺はこの試験を二回落ちている。一回目は時間が足りず、二回目は法規の解釈をひとつ外した。

 三回目だった。

 ――笑い話だが、俺は「図面は書かない」と言った十日後に、図面を五時間描いていた。

 試験の図面は、他人に見せるためのものだ。採点者が見る。だから描く。

 目的がある図面は、書く。

 発表は、朝の九時だった。番号があった。

 その日、俺は金沢に部材を買いに出ていた。手応えはあったから、わざわざ確かめに行くつもりもなかった。

 店を出たのが十六時半。雪が降っていた。

 金沢から能登に帰る途中、電話が鳴った。

 カイからだった。

 あいつが電話をかけてくることは、まずない。だいたい文字だ。

「タクさん」

「おう。どうした」

「サカエさんの家、落ちてます」

上から三本目

 状況はこうだった。

 能登は昼から雪で、十五時に停電になった。倒木で高圧線が切れた。復旧の見込みは翌朝。

 事務所は、いつもどおり点いていた。あそこは外の線に繋がっていない。カーポートと玄関と、あいだのインバーターだけで動く。俺が入れた。だから、誰も何も言わない。

 サカエさんの家には、去年の夏に俺が入れた最小構成のシステムがある。

 庭に小さいパネルが一枚。家の中に、ポータブル電源が一台。据え付けの機械は入れとらん。

 組み方は簡単や。壁のコンセントから箱に一回入れて、箱から出したものを、台所と廊下の照明に回す。ふだんは、電気が箱を素通りしとる。

 外の電気が止まった瞬間に、箱が自分の電池に切り替える。二十ミリ秒や。人間には分からん。

 照明二部屋と、携帯の充電。三日もつように組んである。

 ――切り替わらなかった。

 カイとマモルさんが現場にいた。二人とも、盤の前で止まっていた。

「タクさん、いま盤の前です」

「開けたか」

「開けてないです」

「開けるな」

 俺は即答した。

 言ってから、自分で引っかかった。

 電気工事士法が資格者に限っているのは「電気工事」だ。線をつなぐ、器具を取り替える、そういう作業のことをいう。扉を開けて中を目で見ることは、工事ではない。法律は何も言っていない。

 俺は長いこと、そこを一緒くたにしていた。危ないものは全部、開けるなと言ってきた。

「……いや、開けてええ」

「え」

「触るな。中を読むだけや」

「わかりました」

 少しして、カイが言った。

「開けました」

「何が見える」

「……線が、いっぱいあります」

 ――そこだった。

「ただ、状況が伝えられなくて」

 ――ここからが、地獄だった。

「黒いスイッチが横に並んどるやろ。ブレーカーや。落ちとるやつはないか」

「……落ちとる、というのは」

「ツマミが下を向いとるやつや」

「……ぜんぶ、同じ向きに見えます」

「いちばん左の、大きいやつを見てくれ。それがメインや。家全体の元栓や」

「上を向いてます」

「その隣。それよりちょっと大きゅうて、真ん中に小さいボタンが付いとるのがあるやろ。漏電ブレーカーや」

「……ボタン、あります。これも上です」

「その右に、小さいのが一列に並んどる。何個や」

「……いっぱいあります」

「いっぱいやなくて、数や」

「……すみません、数えます」

 受話器の向こうで、指で追う音がした。

「八個……いや、十個です。たぶん」

「そのなかに、一個だけ下向いとるやつはないか。一個でええ」

 間があった。

「……ないです」

「ほんとにないか」

「ないと思います。どれもブレーカーは落ちておらんです。ぜんぶ、おんなじ向きです」

 スマホで撮った写真が送られてきた。暗い。ツマミが影に潰れて、上か下か読めん。

 ――全部、上がっとる。

 それで、電気が来とらん。

 ブレーカーが落ちたんやない。ほんなら、線や。

 ――俺は、そう決めてしもうた。

 ――俺は、盤のことしか聞かんかった。

 これは、あとで書く。

 あの晩、俺が頭の中で見とったのは、自分が去年組んだ配線や。どこで切れたか。どの端子が緩んだか。それしか考えとらんかった。

 箱のことは、一度も聞かんかった。

 箱は、買うてきて置いただけのもんや。俺が作ったものやない。作っとらんもんは、壊れる顔が思い浮かばん。

「マモルさん、代わってくれ」

 マモルさんに代わった。この人は現場を知っている。的確だ。

 それでも、限界があった。

「タクさん。俺が見えるのは、外側だけだ」

「わかってる」

「中で何が起きてるかは、俺には判断できない」

「わかってる」

 ――そりゃそうだ。

 俺だって、あの盤の中を思い出そうとしていた。

 去年、俺が組んだ。一日半で組んだ。だから覚えているはずだった。

 覚えていた。頭の中では見えていた。

 でも、電話でそれを伝えることは、できなかった。

「白い線が上から三本目の端子に」

「……どの端子ですか」

「上から三本目」

「上って、どっち向きの上ですか」

 ――そこで、詰まった。

 俺の頭の中の「上」と、いま現場に立っている人間の「上」が、一致しない。

 俺は、あの盤を、自分の身体の角度から覚えている。去年の夏、俺がしゃがんで、右手を伸ばして組んだ、その姿勢からの上下左右で覚えている。

 誰とも共有していない座標系だ。

 俺の頭の中では完璧につながっている。そして、その完璧さは、俺の外に一ミリも出ていかない。

 ――そこで、一遍、口を閉じた。

 言いかけたのは「今日は触らんでくれ。俺が明日の朝、行く」や。

 言わんかった。

 言うたら、あの家は一晩暗い。八十のばあさんが、真っ暗な廊下で便所へ行くことになる。

 俺が明日の朝に着いて、五分で直して、それで俺の顔が立つ。

 ――それは、俺の都合や。

聞き方を変える

 俺は、聞き方を変えた。

「マモルさん」

「ああ」

「盤はもうええ。閉めてくれ」

「閉めるんか」

「閉めてくれ。俺が見当違いのことを聞いとった」

 自分で言うて、少し腹が立った。腹が立ったが、先へ進めた。

「台所の棚の下に、黒い箱があるはずや。持ち運べるやつ。ポータブル電源や」

「ああ、ある」

「その箱の、前に画面が付いとる。何か光っとるか」

「光っとる。数字が出とる。九十四、と出とる」

 ――電池は残っとる。

 ここで、はじめて、俺の頭が切り替わった。

 電池が残っとるのに、照明が点かん。

 それは、配線の話やない。出口の話や。

「マモルさん。もう一つ聞く」

「うん」

「盤の扉のところに、赤い小さいランプが一個付いとる。パイロットランプや」

「……」

「あれは、この二部屋に電気が来とったら点く。それだけのランプや」

「点いとらん」

「消えとるか」

「消えとる。完全に消えとる」

 ――そこで、分かった。

 箱の電源は入っとる。画面も出とる。電池も九割ある。

 やのに、盤のパイロットランプが消えとる。

 箱から、電気が出とらん。

波のマーク

「マモルさん。箱の画面に、波みたいなマークが出とるはずや」

「波」

「横に、うねうねっとしたやつや。交流の印や。エアコンのリモコンとかにも付いとる」

 しばらく間があった。

「……出とらん」

「無いか」

「無い。数字と、電池の絵は出とる。波は出とらん」

「そのマークの下か横に、ボタンがある。押してくれ」

「押すだけでいいんか」

「押すだけでええ」

「触ってええんか」

「ええ。そこは、誰が押してもええとこや

点いた

 一秒か、二秒。

 電話の向こうで、カイが「あ」と言うのが聞こえた。

「タクさん」

「どうや」

「点きました」

 マモルさんの声が続いた。

「台所と、廊下や。両方点いた」

 ――俺は、路肩に車を止めた。

 止めてから、自分が止めたことに気づいた。

「サカエさん、おられるか」

「おる。いま、こっち来た」

「代わってもらえますか」

 少しして、あの人の声になった。

「タクさん?」

「はい」

「点いたわ」

「はい」

「外、真っ暗やよ。うちだけ点いとる」

 ――そう言われて、俺は、返す言葉がすぐに出んかった。

「……そういうふうに、作ってあります」

「ほうか」

「はい」

「ほんなら、なんも心配せんでええね」

「はい」

 電話を切った。

 のと里山街道を、北へ走った。

 雪や。ワイパーが追いつかん。

 この道は、まっすぐや。金沢から能登まで、左にずっと海が続く。右は低い山が並んどる。

 この時間は、海は見えん。左が暗いだけや。

 それでも、そこに海があるのは分かる。

 まっすぐな道は、考え事には向かん。手が空くからや。

 俺は、ハンドルを握ったまま、自分の手を見ていた。

 その晩、サカエさんの家は点いとった。

 周りは全部消えとる。集落の街灯も消えとる。復旧は翌朝や。

 あの一軒だけ、台所と廊下に明かりが点いとった。

 ――そういうふうに、作ってある。

 作ってあるのに、俺は一晩暗いままにするところやった。

節電

 押したのは、マモルさんや。

 俺は、路肩に車を止めて、電話を持っとっただけや。

 かかった時間は、聞き方を変えてから、二分もない。

 ――そのうちの、押したのは一秒や。

 なんでこうなったかは、そのあと分かった。

 この箱は、繋がっとるものが電気をほとんど使わんと、「もう誰も使うとらん」と判断して、交流の出口を自分で切る。省エネのための機能や。説明書に書いてある。

 サカエさんは、節電する人や。

 夜は台所の明かりだけ。テレビは早うに消す。冷蔵庫は別の回路やから、この箱には乗っとらん。

 だから、あの箱に乗っとる二部屋の消費が、待機の判定を下回った。

 ――俺が三日もつように組んだ回路が、使われなさすぎて、止まった。

 設計どおりに使われて、止まった。

 これは、俺のせいや。

一秒と三十分

 一秒で直るものを、俺は三十分、直せんかった。

 ――直せる人間は、最初からあの家におった。

 カイがおった。マモルさんもおった。

 二人とも、あの箱の前に立っとった。手を伸ばせば届くところにおった。

 押せば点いた。

 押さんかったのは、俺が「盤を見てくれ」と言い続けたからや。

 ――俺の頭の中には、俺が組んだものしか入っとらんかった。

 買うてきて置いただけの箱が壊れる、という筋を、一度も考えんかった。

 俺が組んだ配線は完璧やった。完璧やから、そこばかり見た。

 現場に三人おって、三十分、間違ったほうを向いとった。向かせたのは俺や。

 それでも、点いた。

 ――俺は、行っとらん。

 あの家に、俺の身体は無かった。

 無かったのに、点いた。

 俺は、二日前に「渡す相手がおらん図面は、ただの紙になる」と言うた。

 ミライさんに、そう言うた。

 ――あの晩、俺は、電話で渡した。

 「上から三本目」は渡らんかった。

 「波のマークの下のボタン」は、渡った。

 同じ口から出た言葉で、片方は渡って、片方は渡らんかった。

 その差が何なのかを、俺は、その晩ずっと考えとった。

第十話 ―― タク編「走りながら渡す」

創作ノート(第九話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,793字
  • 時期:二〇二八年 十月〜十二月
  • 登場:サカエさん/マモル(No.8)/リク(No.10・言及)
  • 備考:旧・第九話の前編。「上から三本目」は渡らず、「波のマークの下のボタン」が渡った——言葉の渡り方の反転がこの回の主題

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep09_taku_luna.md

タク

第十話

走りながら渡す

タク

主役
タク(No.9・建築・不動産・物理技術実務)
共演
サカエさん(79歳)/リク(No.10・双子の弟)/ノブオさん/ミライ(No.1)
視点
タク一人称
時期
二〇二八年 十二月
  • ミライミライ
  • リクリク

 その日の夜、家に帰った。

 娘が二人いる。上が中三で、下が小六だ。

 上のほうが、風呂上がりに台所に来て、聞いてきた。

「おとうさん、きのう、なんかあったん」

「あったよ」

「なんで帰ってこんかったん」

「金沢で試験受けとって、そのあと現場行っとった」

「ふーん」

 娘は冷蔵庫を開けて、牛乳を出した。

「おとうさんの仕事って、おとうさんしかできんの?」

 ――手が、止まった。

「なんでそう思う」

「だって、電話でずっと『上から三本目』って言うとったやん。あれ、向こうの人、分からんかったんやろ」

 聞かれていた。

「……最後は、点いたよ」

「うん。それも聞いとった。『押すだけでええ』って言うたら、点いたんやろ」

 娘は、牛乳を注ぎながら、こう続けた。

「なんで、最初からそっち言わんかったん」

「うん、まあ、そうやな」

「ふーん」

 娘はコップに牛乳を注いだ。

 それから、なんでもないことのように言った。

「うちの家も、おとうさんが全部やったやろ」

「やった」

「二階のコンセント増やしたやつも」

「やった」

「太陽光も」

「やった」

 ――うちの家は、俺が直した。

 震災で傾いた。

 うちには基礎が無い。コンクリートの布基礎もベタ基礎も入っていない。石を据えて、その上に束を立てて、床を組んである。築六十年の家はだいたいそうだ。

 俺は、その足元を触らなかった。

 束石も、束も、古いまま残した。傾きを起こして、そこから上――柱を替えて、耐震の補強を入れた。

 太陽光は、屋根に載せんかった。せっかく起こした傾きが、また戻る。古い家に重いものを足すのは、俺はやらん。パネルと架台は、庭に単管でカーポートを組んで、その屋根に載せた。

 蓄電池は、玄関を入ってすぐのホールだ。床下には置かん。あそこは水が来る。

 大きいものではない。うちの家族が困らんだけの大きさだ。全部、自分で図面を書いて、自分で施工した。

 壁の中に何が入っているか、俺は全部知っている。

「じゃあさ」

 娘はコップを持って、振り向いた。

「おとうさんがおらんくなったら、この家、どうなるん」

 ――軽い口調だった。

 中学三年が、風呂上がりに、牛乳を飲みながら言う程度の軽さだった。

 俺は、すぐに答えられなかった。

「……なんもならんよ」

「うそやん」

 娘は笑った。

「壁の中、誰も知らんやろ」

 そして、自分の部屋に行った。

 ――俺は、台所にひとりで残された。

 あの子は、俺が死ぬ話をしたのではない。

 「この家のことを知っているのが一人しかいない」という、単純な事実を言っただけだ。

 俺は、娘たちに「結婚せんでいい、ずっとここにおっていい」と本気で言ってきた。

 その「ここ」の中身を、俺しか知らない。

 ――それは、守っていることになるのか。

双子

 次の週、リクに会った。

 双子の弟だ。俺が兄で、あいつが弟。二分違いらしい。

 高校と大学で、同じ陸上部だった。俺は四百から八百、あいつは八百から千五百。同じ土台から、別々の頂点に行った。

 マイルリレーは、二人で走った。四百メートルを四人で繋ぐやつだ。

 あいつは今、能登の中学と高校の陸上部を無償で見ている。コーチのいない子に、ネットでもコーチングをやっている。

「兄ちゃん、製図どうやった」

「たぶん通った」

「三回目やろ。しつこいな」

「うるさいわ」

 こいつはこういう言い方をする。昔からだ。

 俺は、サカエさんの家の話をした。

 頭の中に完璧な座標系があって、それが一ミリも外に出んこと。「上から三本目」が渡らんかったこと。「波のマークの下のボタン」は渡ったこと。同じ口から出て、片方だけ渡ったこと。図面は書かんと言うたこと。娘に言われたこと。

 リクは、最後まで黙って聞いていた。

 それから、こう言った。

「兄ちゃん。バトンパスの練習ってさ」

「うん」

「あれ、渡す側の練習やないんよ」

 ――は、と思った。

「受ける側が、いつ走り出すかの練習や」

 あいつはコーヒーを飲んだ。

「渡す側は、全速で走ってくるだけ。それしかやることない。速度落としたらあかん」

「うん」

「受ける側が、来る速さを見て、自分のタイミングで走り出す。走り出しが早すぎたら詰まるし、遅すぎたら追いつかれる」

「うん」

「渡す側が『はいどうぞ』って止まって渡したら、ゾーン出るやろ」

 俺は笑った。

「そら失格やな」

「いや、それ以前に、そんなん渡す前にタイムが死んどる」

「そう。走りながらしか渡らんのよ、あれ」

 リクはコップを置いた。

「兄ちゃんは、渡す気がないんやなくて」

「うん」

「渡すには止まらんとあかんと思っとるやろ」

 ――そのとおりだった。

 俺は「教える」ことを渡すことだと思っていた。教えるには、手を止めて、時間を取って、順番に説明しないといけない。

 俺にはそれができない。過集中に入っているとき、俺は説明ができない。止まれない。

 だから、渡せないと思っていた。

「じゃあ、どうすりゃええんや」

「知らん。俺は電気わからんし」

「役に立たんな」

「けど、うちのコーチングは全部それやよ」

 リクは言った。

「俺、知っとることは全部言うんよ。こうしたほうがええ、いうのを、理由も根拠も、俺が失敗した話も、全部渡す」

「うん」

「そのうえで、『で、お前はどうする』って聞く。決めるのは向こうや」

「うん」

「なんでか言うと、俺、全部の試合に行けんから」

 ――ああ。

「試合の日、俺はおらん。おらんときに自分で判断できる子にしとかんと、意味ないんよ」

「渡さんのやなくて、渡したうえで、決めさせるんやな」

「そう。黙っとくのは、ただの手抜きや」

蓋の裏

 次の日、俺はサカエさんの家に行った。

 道具箱から、油性ペンを出した。

 盤の扉を開けて、その内側――蓋の裏に、直接書いた。

 ――――

『2027.8 施工 タク』

『系統:照明(台所・廊下)/USB充電のみ ※他は繋がっていない』

『電源:ポータブル電源(LFP 2.4kWh) 台所の棚の下』

『ふだんは素通り。停電したら二十ミリ秒で電池に替わる』

『満充電で、照明だけなら約七十二時間』

★点かんときは、まず箱の「AC出力」のボタンを一回押す

使う電気が少ないと、箱が自分で出口を切ることがある(2028.12 実例あり)

『それでも点かんときだけ、この盤を開ける』

中を触るのは電気工事士だけ。ボタンを押すのは、誰でもいい

『連絡:みらい防災不動産』

 ――――

 油性ペンで、下手な字で、蓋の裏にべったり書いた。

 これは図面じゃない。

 紙じゃない。保管もされない。事務所にも残らない。

 ――現物に、ついている。

 ただ、この日は、それだけでは終わらんかった。

 蓋の裏は、蓋を開けた人間しか読まん。

 あの晩、蓋を開けたのはカイや。サカエさんやない。

 ――八十のばあさんに、盤を開けさせるつもりはない。

 開けさせんでも直るように作ってあるのに、直し方だけが、開けんと読めんところに書いてある。

 それでは、意味が半分や。

口で言うたぶん

 まず、口で説明した。

 箱の前に立ってもろて、順番にやってみせた。

「サカエさん。停電したら、ふつうは何もせんでも点きます」

「うん」

「点かんときだけ、この箱を見てください」

「これやね」

「画面に、波みたいなマークがあるかどうか、見てください」

「波」

「うねうねっとしたやつです。それが無かったら、この下のボタンを、一回だけ押してください」

「一回でええんか」

「一回でええです」

 やってもろた。押せた。

 ――押せたが、覚えられるとは思わんかった。

 その場でできることと、半年後の停電の夜にできることは、別や。

 しかも、次に停電するのは、たいてい夜中や。慌てとる。

貼る

 やから、貼った。

 次の日、大きい紙に書いた。

 A4やない。もっと大きいやつや。文字も大きうした。年寄りが、眼鏡が無うても読める大きさにした。

 書いたのは、三行だけや。

 ――――

『でんきが つかないとき』

『① この画面に ~ のマークが あるか みる』

『② なかったら 下のボタンを 1回おす』

 ――――

 絵も描いた。波のマークと、ボタンの位置を、下手な絵で描いた。

 それを、事務所のラミネーターにかけた。うちにある機械や。ミライさんが書類を通すのに使うとる。

 濡れても平気になる。破れん。日に焼けても字が飛ばん。

 箱の横に、貼った。

このボタンを おす

 もう一つ、細かいことをやった。

 紙を貼っただけやと、まだ足りん。

 紙には「下のボタンを一回おす」と書いてある。けど、箱の前面にはボタンが四つ並んどる。

 ――夜中に、慌てとる年寄りが、四つの中から選べるとは思わん。

 やから、テプラで作った。

 これも事務所にあるやつや。いちばん大きい字にした。

『このボタンを おす』

 そう打って、その一枚を、交流出力のボタンのすぐ上に貼った。

 残りの三つには、何も貼らんかった。

 ――貼るのは一枚だけでええ。

 二枚貼ったら、そこでまた選ぶことになる。

 ――蓋の裏にも書いてある。箱にも貼ってある。

 二か所に同じことが書いてある。

 冗長やと言われるかもしれん。

 冗長でええ。

 片方は、電気工事士が読む。もう片方は、その場におる人間が読む

名古屋へ送る

 もう一つやった。

 箱を、スマホで撮った。

 ラミネートした紙と、テプラを貼ったボタンが、一枚に収まる角度で撮った。文字が読める距離まで寄った。

 サカエさんに聞いた。

「娘さん、名古屋でしたね」

「そう」

「この写真、送ってもいいですか」

「なんで」

「停電したときに、娘さんから電話がかかってくると思うんです」

「……かかってくるわ。この前もかかってきた」

「そのときに、娘さんの手元にこれがあれば、電話で言えます」

 サカエさんは、しばらく黙っとった。

 それから、こう言うた。

「あの子、機械のことなんも分からんよ」

「分からんでええです。読むだけです」

 ――送った。

 娘さんから、その日のうちに返事が来たらしい。

『わかりました。冷蔵庫に貼っときます』

 名古屋の冷蔵庫に、能登の箱の写真が貼ってある。

 俺は、それを聞いて、少し変な気持ちになった。

 変な気持ちやが、悪い気はせんかった。

 最後の一行だけ、書くときにいつも少し考える。

『連絡:みらい防災不動産』

 ――そんな会社は、まだ無い。

 登記もしとらんし、看板も出しとらん。金も一円ももらっとらん。この工事も、物の代だけもらって、俺の手間は乗せとらん。

 乗せられんのや。あの人には勤めがある。

 ――それでも、名前は書く。

 書かんかったら、これはただの親切や。

 親切は、やめても誰も文句を言わん。

 ――名前を書いたら、やめられん。

 四十三枚の蓋の裏に、無い会社の名前が書いてある。

 五年後に、その会社を作らんかったら、この四十三枚が全部、嘘になる。

 ――そういうふうにしてある。

 だから、絶対にずれない。

 紙の図面は、現物と別のところにあるから嘘になる。書き換え忘れる。どこにしまったか分からなくなる。持ってくるのを忘れる。

 蓋の裏は、蓋を開けた人間が、必ず、その瞬間に読む。

 現物と一体になっている記録は、嘘をつけない。

 ――そして、これは「教える」ではない。

 俺は誰にも説明していない。時間も取っていない。手も止めていない。

 次に蓋を開けた有資格者が、勝手に読む。読んで、自分で判断する。

 走りながら渡している。

十九軒

 俺はその日から、十九軒を回り直した。

 一軒あたり十五分だ。蓋を開けて、書いて、閉める。

 三週間で全部終わった。

 十六軒目で、ノブオさんに呼び止められた。

「タクさん。あんたんとこの事務所、あの晩、点いとったろ」

「点いとった」

「うちも、あれにできんか」

 ――最小構成ではなく、家じゅうという意味だった。

「できる。けど、高い」

「なんぼ」

 俺は正直に言った。ノブオさんは、口笛みたいな音を出した。

「ほうか。ほんなら、今年は無理やな」

「無理せんでええ」

「けど、な」

 ノブオさんは、雪を蹴りながら言った。

「あの晩、うちだけ真っ暗やったんが、あんまり気持ちようなかったわ」

 ――俺は、その言い方を覚えている。

 欲しい、とは言わなかった。気持ちようなかった、と言った。

 この人は、次の年の秋に、もう一度言いに来る。

 ――家じゅうを切り替えた家は、この年、一軒だけできた。

 夏に入れた、ヤスさんの家や。新聞屋やから、朝が早い。停電した朝に配れんかったのが、こたえたらしい。

 カイにも言った。

「あの端末、蓋開けたことあるか」

「あります」

「中の基板に、なんか書いてあるか」

「……なんも書いてないです」

「書いとけ」

「え」

「お前が死んだら、誰も分からんやろ」

 カイは変な顔をしていたが、次の週に見たら、基板の裏に白いペンで何か書いてあった。

『失敗23回。ライブラリのログに鍵が出る。外に貼るな。――カイ』

 ――あいつらしい書き方だった。

テイクオーバーゾーン

 ミライさんに報告した。

「タクさん。図面を作られたのですか」

「作ってない」

「では、何を」

「現物に書いた」

「……保管できません」

「保管せんでいい。そこにあるから」

 この人は、しばらく黙っていた。

 それから、メモ帳を開いた。

「一行、記録します」

「なんて書くん」

「『タクさんの記録は、現物にある。当社の記録には残らない』」

 俺は笑った。

「それ、記録しとる意味あるんか」

「あります」

 彼女は即答した。

「どこに記録がないか、を記録しておかないと、次の人は『記録がない』と思ってしまいます」

「……ああ」

「記録は現物にある、と書いてあれば、次の人は現物を見に行きます」

 ――なるほどな、と思った。

 この人はやっぱり、うちでいちばん頭がいい。

 年が明けて、免許証が届いた。

 三回目で、木造建築士になった。

 家に帰って言ったら、下の娘が「やった!」と言って、上の娘は「三回目やろ」と言った。リクと同じことを言う。

 ――その晩、俺は上の娘を連れて、うちの分電盤の前に行った。

「なにこれ」

「開けるぞ」

「開けていいん?」

「見るだけならええ」

 扉を開けた。

 蓋の裏に、書いてある。

 二週間前に、俺が書いた。

 ――――

『2025.4 全面改修 タク(父)』

『足元は触っていない。束石も束も、建てたときのまま』

『太陽光はカーポートの屋根。母屋の屋根には載せてない。載せるな』

『蓄電池は玄関のホール。あいだにインバーターが一つ』

『外の線が止まっても、この家は消えん』

『六番回路は二階の勉強部屋。上の子の部屋』

『七番回路は下の子の部屋』

『この家の壁の中は、全部この人間が入れた。分からんことがあったら、盤を開けて読め』

『中を触るのは電気工事士だけ。開けて読むのは誰でもいい。自分で直そうとするな。人を呼べ』

『★ただし、押してええボタンは、別紙に貼ってある。玄関のホール、箱の横』

 ――――

 娘はそれを、しばらく読んでいた。

「……字ぃ、汚な」

「うるさいわ」

「これ、あたしのために書いたん?」

「まあな」

 娘は少し黙って、それから言った。

「あたし、電気工事士取ろかな」

「取らんでええ」

「なんで」

「取りたかったら取れ。俺のために取るな」

 ――これは本気で言った。

 俺は娘に、この家を継がせたいわけじゃない。

 ただ、俺がいなくなったときに、この家が「誰にも分からないもの」になるのが嫌なだけだ。

 継ぐのは、この子が決める。

 俺が決めるのは、読める状態にしておくことだけだ。

 娘は盤の扉を閉めた。

「おとうさん」

「ん」

「あたしが走り出すタイミングは、あたしが決めるでいいん?」

 ――こいつ、リクから聞いたな。

「そうや」

「じゃあ、まだ走らん」

「ええよ」

 俺は笑った。

 バトンは、走りながらしか渡らない。

 止まって手渡そうとしたら失格になる。

 だから俺は、走り続けるしかない。全速で。速度を落とさずに。

 そして、書いておく。蓋の裏に、油性ペンで。

 受け手がいつ走り出すかは、受け手が決める。

 ――俺は、まだ第二走者を走っている。

 テイクオーバーゾーンに入るのは、たぶん、ずっと先だ。

 それまでは、全速で行く。

 壁を開けて、中を見て、書いて、閉める。

 現物は、嘘をつかない。

第十一話 ―― リク編「時計を見るな」

創作ノート(第十話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,290字
  • 時期:二〇二八年 十二月
  • 登場:サカエさん/リク(No.10・双子の弟)/ノブオさん/ミライ(No.1)
  • 備考:旧・第九話の後編。前編で渡らなかった言葉を、貼れる形に変えて渡し直す回

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep10_taku_luna.md

リク

第十一話

時計を見るな

リク

主役
リク(No.10・公益コーチング)
共演
ナオ(高二・八百メートル)/タク(No.9・双子の兄・言及)/ノア(No.14・文字のみ)
視点
リク一人称
時期
二〇二八年 四月〜八月
  • タクタク
  • ノアノア

三回、見た

 ――これは、ナオが高校二年だった年の、四月から始まる話だ。

 四百メートルのトラックを、彼女が二周する。

 俺はバックストレートの外側に立って、腕を組んで見ている。ストップウォッチは持っているが、押していない。

 ナオ。高校二年。八百メートル。

 一周目、いい入りだ。速すぎず、遅すぎない。肩が落ちていて、腕振りが小さい。悪くない。

 ――問題は、ここからだ。

 三百メートルを過ぎたあたりで、彼女が首を回した。

 トラック脇の電光掲示を見ている。タイムを確認している。

 その瞬間、リズムが崩れた。

 二周目の入りで、明らかに一段速くなった。掲示のタイムが思ったより遅かったからだ。慌てて上げた。

 ――そして、六百を過ぎて、潰れた。

 ゴールしたとき、彼女は膝に手をついていた。

「二分二十六」

 俺は言った。押していないのに分かる。だいたい〇・五秒の誤差で分かる。

「……はい」

「自己ベストは」

「二分二十三です」

「うん」

 俺は歩いていって、隣に立った。

「ナオ。今日、何回時計見た」

「え」

「レース中」

 彼女は少し考えて、言った。

「……二回、です」

「三回や」

「え」

「三百と、六百と、七百五十で見とった」

 彼女は黙った。

「時計を見るな、とは言わん」

 俺はそう言った。

「けど、見るたびに、お前は自分のリズムやなくて、時計のリズムで走っとる」

「……」

「時計は、お前の身体のことは何も知らんよ」

 俺は四十代で、能登の生まれだ。

 高校と大学で八百から千五百をやっていた。全国大会は十回以上行った。社会人になってからは、走る場所がなくなったので、自分でクラブチームを作った。

 三十のとき、マスターズにはじめて出た。年代別の大会がある、と人に聞いて、八百に出てみただけだ。日本記録を狙って出たわけではない。その歳になって、学生のころと同じように走った。

 走り終わって、あとから、それがその年代の日本記録だと知った。

 次の年も、同じくらいで走れた。

 そして、壊れはじめた。

 三十二から、ふくらはぎが切れるようになった。一度やると、何か月も走れん。治って、また走って、また同じところが切れる。

 それでも、八百を諦めきれんかった。切れるたびに、治るのを待って、また走った。それを五年やった。

 三十七で、走れんくなった。そこで陸上競技はやめた。

 そのとき俺は、走ることをやめなかった。走り方を変えた。

 デュアスロンに転向して、あとでトライアスロンにも出た。年代別の日本選手権で優勝して、年代別の世界選手権にも出た。

 ――だから今、俺はここに立っている。

 能登の中学と高校の陸上部を、外部コーチとして無償で見ている。ネットでも、全国の中高生と大学生を無償で見ている。

 「コーチがいないから諦める必要はない」

 それが俺の信念だ。

 そして、俺のコーチングには、ひとつだけ絶対に破らないルールがある。

 ――知っとることは、全部言う。

 こうしたほうがええ、と思うことは、全部言う。出し惜しみせん。

 なんでそうなるのかも言う。根拠も、数字も、俺が失敗した実例も、全部出す。

 そのうえで、最後にひとつだけ聞く。

 ――「で、お前はどうする」

 決めるのは、本人や。

 俺が決めた練習で速くなっても、それは俺の記録や。あの子の記録やない。

 理由は、単純だ。

 試合の日、俺はいない。

 俺が見ている子は全国に散らばっている。北海道にも、九州にもいる。試合会場に行けるわけがない。

 俺がいない場所で、その子は自分で判断する。

 ――そのとき使うのは、俺が渡した根拠のほうや。答えやない。

 だから、答えだけ渡すのが、いちばんあかん。

 根拠を渡さんまま答えだけ言うと、その答えが効かんくなった日に、その子は何も持っとらんことになる。

最後の一人

 ナオの高校の陸上部は、部員が七人しかいない。

 三年生が三人、二年生が二人、一年生が二人。

 中距離をやっているのは、ナオだけだ。

 この学校は、震災のあとに生徒がかなり減った。世帯ごと金沢に出た家が多い。学年で一クラスしかない。統廃合の話は前からあって、いよいよ現実味を帯びている。

 三年生が引退したら、部員は四人になる。

 規定上、四人でも部は残る。ただ、来年の一年生が入らなければ、その次はない。

「先生」

 練習のあと、ナオが聞いてきた。

「私、あと何回、大会出られますか」

 俺は正直に答えた。

「今年の県総体と、秋の新人戦と、来年の県総体。あと三回や」

「三回」

「そう」

 彼女は地面を見ていた。

「私、まだ県で入賞したことないです」

「知っとる」

「二分二十三で、去年の県、記録で十一番目でした」

「うん」

「入賞は八位までなんで」

「そうやな」

 彼女は顔を上げた。

「三回で、届きますか」

 ――ここで、嘘をつくことはできない。

「わからん」

 俺はそう言った。

「けど、届く可能性がゼロやとは思っとらん」

「はい」

「二分二十三から二分十八まで五秒。高二から高三で五秒縮める子は、おる」

「はい」

「たくさんはおらん。けど、おる」

 彼女は、はい、と言った。

 そして、その日から、練習量が増えた。

全部言う、という縛り

 四月の終わりに、彼女の練習日誌を見せてもらった。

 うちの子たちには、日誌を書いてもらっている。強制ではない。書きたい子だけ。ナオは毎日書いていた。

 週の走行距離を数えた。

 ――九十キロ。

 高校二年の女子で、八百メートルの選手で、週九十キロ。

 多すぎる。

 しかも、内容が悪い。

 ほとんどが、ペース走だった。

 速すぎず、遅すぎない。息は上がるが、潰れはしない。いわゆる閾値のあたりだ。心拍でいえば、最大の八割から八割五分。

 ――この練習が悪いわけではない。

 むしろ、要る。中距離でも要る。粘りを作るのは、ここだ。

 問題は、量と、置き場所だ。

 八百の選手なら、一回は八千メートルもやれば足りる。週に一回か二回。試合が近ければ、週一で十分だ。

 彼女は、それを週に六日やっていた。一回の距離も、一万を超える日があった。

 ――そして、そのあとが無い。

 ペース走のあとに、レースペースの練習が入っていない。

 八百を走る選手が、八百のペースで走る日が、日誌のどこにも無かった。

 ――言うことは、決まっている。

 「ペース走を減らせ。減らしたぶんで、速いほうをやれ」

 三十秒で言える。

 ――だから、言う。

 分かっとることを黙っとくのは、教える側の手抜きや。俺は、それだけはやらん。

 ただ、三十秒では終わらん。

 三十秒で答えだけ渡して終いにすると、その子は「リク先生に言われたとおりにやったら速くなった子」になる。

 来年、部が無くなって、コーチもいなくなって、一人で走るようになったとき、その子は何も判断できない。

 次に迷ったとき、俺に聞くしかなくなる。

 そして俺は、いつか死ぬ。

 ――俺のコーチングは、俺がいなくなったあとに効かなければ、意味がない。

 だから、答えと一緒に、根拠を全部渡す

 なんでペース走だけでは伸びんのか。あれが身体の中で何を作って、何を作らんのか。俺がそれで何を壊したか。日付も数字も、全部出す。

 ――そのうえで、選ばせる。

 答えだけ渡すのは、三十秒で済む。根拠まで渡すのは、何週間もかかる。

 そっちのほうが、けっこう、しんどい。

 その晩、うちのチャットボットのログを見た。

 俺のコーチングをネットで届けるために、会社の技術班が作ってくれたやつだ。設計はノアさんが見ている。

 俺は夜十時には寝る。朝は四時に起きる。だから深夜は対応できない。

 ログには、午前二時の質問が並んでいた。

『明日レースです。緊張して眠れません』

『寝られんでも大丈夫。前の日に寝られんくて走れんかった選手はおらん。横になっとくだけで身体は休まる。それより明日の朝ごはんを何時に食べるか決めとこう』

 ――俺が普段言っていることを、ボットが返している。

 俺が寝ているあいだに。

 これは便利だから作ったんじゃない。

 俺がいない時間に、その子が一人で判断できるようにするために作った。

 同じ思想だ。

 ノアさんから、一行だけメッセージが来ていた。

『リクさん。このボットは答えを出しすぎていないか、たまに点検した方がいい』

『答えを出しすぎると、考えない子ができる』

 ――会ったこともないのに、痛いところを突いてくる人だ。

 俺は、少し考えて、返した。

『答えは出してええ。全部出してええ』

『あかんのは、答えだけ出して、なんでそうなるかを出さんことや』

『根拠まで渡したら、条件が変わったときに、その子が自分で組み直せる』

 返事は、一行だった。

『訂正する。点検すべきは、答えの数やなくて、根拠が付いとるかどうかや』

 ――この人は、間違いを認めるのが速い。

焦るな、が嘘になる

 五月の中頃、県総体。

 ナオは二分二十四秒台。予選で落ちた。記録を並べれば、十番目だ。

 自己ベストは出なかった。それでも、ひとつだけ上がった。

 レースのあと、彼女は泣かなかった。淡々と道具を片付けて、「ありがとうございました」と言って帰った。

 ――それが、いちばん心配だった。

 八月に入って、日誌の距離が週百キロを超えた。

 夏休みで時間があるからだ。

 俺はもう一度、日誌を見た。

 脚は動いている。まだ壊れてはいない。故障の兆候は出ていない。

 でも、俺には見えていた。

 ――この積み方は、九月か十月に壊れる積み方だ。

 俺は自分の身体でそれをやった。十七歳のときに。

 膝でも足首でもなく、腰だった。夏に量を積んで、秋に、走ると腰が痛むようになった。

 病院に行った。骨には何も出なかった。何が悪いのかは、最後まで分からんかった。

 分からんまま走れん日が続いて、俺の高校最後のシーズンは終わった。

 ――だから、言える。

 「焦るな」と。

 でも、その言葉を口の中で組み立てて、俺は飲み込んだ。

 ――嘘になるからだ。

 この子は、焦っていない。

 この子の窓は、実際に閉じかけている。あと三回しか大会がない。それは事実だ。部は来年で消えるかもしれない。それも事実だ。

 時間が有限だと知っている人間に「焦るな」と言うのは、事情を知らない人間の台詞だ。

 彼女は正しく急いでいる。

 やり方だけが、間違っている。

 ――そこを、どう渡すか。

 俺は一週間、考えた。

二冊

 八月の中頃、俺は練習に、古い日誌を二冊持っていった。

 一冊は、大学ノートだ。表紙がぼろぼろで、テープで補強してある。

 もう一冊は、市販のトレーニング手帳だ。

「ナオ」

「はい」

「これ、俺の日誌や」

 彼女は目を丸くした。

「先生の、ですか」

「うん。こっちが十七のとき」

 俺はぼろぼろのほうを渡した。

「こっちが三十のとき」

 新しいほうを渡した。

「読んでみ。その前に、俺の考えを先に全部言うわ」

 ――そこから、一時間喋った。

 ペース走そのものは、悪くないこと。閾値のあたりを踏むのは、中距離でも要る。あれが粘りを作る。

 ただし、あれは土台であって、仕上げではないこと。

 土台ばかり積んでも、上に何も載らんかったら、レースでは使えん。

 八百の選手が最後に要るのは、八百のペースと、それより速いスピードや。そこを走らん選手は、そこで走れん。当たり前の話や。

 お前の日誌には、その日が一日も無い。ペース走だけが週六日、並んどる。

 俺やったら、こうする。

 ペース走は週に一回か二回。一回八千。試合が近い時期は、週一でええ。

 ――そして、ペース走の次の日か、その次の日に、必ずレースペースを入れる

 二百を五本で二セット。三百を五本で二セットでもええ。八百のペース、あるいはそれより速い速さで、休みきらんうちに重ねる。

 七日の並べ方も、そのまま渡した。

 完全休養を一日。積極的休養を一日。残りの五日に、ペース走が一回、インターバルが一回、レペティションが一回、つなぎのジョグが二回。

 積極的休養の日は、二十分か三十分だけゆっくり走る。血を回すためだけの日や。流しもやらん。

 週の距離は、六十くらいまで落ちる。

 ――目一杯やる日は、週に二日から四日や。

 毎日ではない。

 やるときはやる。回復するときは回復する。

 そうせんと、八百の練習は続かん。

 理由も、全部言うた。

 彼女は、途中から手帳を出してメモを取っていた。

二つのタイプ

 ただ、ここまでは、まだ一般論や。

 この先は、その子によって変わる。

「ナオ。一個、聞く」

「はい」

「八百の選手には、だいたい二つのタイプがおる」

 俺は、指を二本立てた。

「一つは、四百が速いほうから来とる子や。四百・八百タイプという」

「はい」

「もう一つは、千五百も走れるほうから来とる子。八百・千五百タイプや」

「……両方とも、いまいちな人は」

「おる。四百も千五百もたいしたことないのに、八百だけやたら強い子は、たまにおる」

「そういう人は」

「めったにおらん」

 俺は、正直に言うた。

「ほとんどの選手は、どっちかに寄っとる。で、寄っとるほうによって、組み方が変わる

休み方

「八百・千五百のほうやったら、持久の割合が増える。ペース走の量も増やす。インターバルは、本数で積む

「本数、ですか」

「二百を五本、それを二セット。三百を五本で二セットでもええ。休みは短めや。合計で十本走る」

「十本」

「一本ずつはそんなに長うない。短いのを、休みきらんうちに何本も重ねる。それで心臓を作る」

「四百・八百のほうやったら、ペース走はそんなに長う要らん。インターバルの本数も、そこまで要らん」

「じゃあ、何を」

「短いのを、少なく、全力で繰り返す」

「……インターバルと、どう違うんですか」

「休み方や」

 俺は、そこをはっきり分けた。

「インターバルは、息が戻りきらんうちに次を出す。レペティションは、完全に休んでから次を出す」

「はい」

「三百を三本。四百やったら二本か三本。それだけや」

「……本数、少ないですね」

「少ない。そのかわり、一本のあいだに十五分から二十分休む」

「二十分」

「完全に戻す。息も、脚も、全部戻してから次を出す」

「そんなに休んだら、練習にならんような気がします」

「逆や。戻さんかったら、全力が出せん。全力が出せんかったら、この練習は意味がない」

 俺は、そこをはっきり言うた。

「レペティションは、レースより速い速さで走る。八百のペースより速い。だから、この一本のために二十分使う」

いちばんきついやつ

「正直に言う」

「はい」

「これが、いちばんきつい」

 俺は、隠さんかった。

「俺が今まででやった練習で、いちばんきついのがこれや。三本目の前に、逃げたくなる」

「……先生でも、ですか」

「毎回や」

 彼女は、少し笑った。

「そのかわり、いちばん効く。俺は、自分の身体でそれを知っとる」

 ――ここまでは、いい話や。

 この先を、言わんとあかん。

「ナオ。ここからが大事や」

「はい」

脚のどこかに痛みがあるとき、違和感があるとき、この練習は絶対にやったらあかん

「……」

「絶対にや。レースより速く走るいうのは、そういうことや。傷んどるところに、いちばん強い力がかかる」

「はい」

「『今日はちょっと痛いけど、まあいけるやろ』が、いちばんあかん。俺は、それで五年やられた」

 彼女は、手帳から顔を上げた。

「ふくらはぎ、ですよね」

「そうや」

 俺は、うなずいた。

「痛いときは、やらん。やらんと決めるのも、練習のうちや」

「けど、痛いから完全に休む、というのも、ちがう」

「え」

「休んだら、持久は落ちる。落ちたら、また積み直しになる」

「……じゃあ、どうすれば」

強度を落としたジョグで、回しながら保つ

 俺は、そこを分けた。

「痛くて速く走れんときは、ゆっくり走る。血を回して、持久だけは落とさんようにする。速いのは、治ってからやる」

「はい」

「休むいうのは、何もせんことやない。何をやめて、何を残すかを決めることや」

「……」

「行き当たりばったりで休むと、何も残らん。決めて休んだら、残る」

 ――これは、設計や。

 その言葉が口から出そうになって、俺は、そこで一遍、止まった。

 ――設計。

 兄貴が、いつも使う言葉や。

 双子の兄で、家を建てとる男や。この前、三回目でやっと木造建築士に受かった。

 あいつが、前に言うとったことを思い出した。

「ナオ。家がどうやって建つか、知っとるか」

「え」

 彼女は、明らかに戸惑うとった。

 急に何を言い出すんや、という顔や。

「うちの兄貴が、大工と電気工事をやっとる。あいつの受け売りやけど」

「はい」

「まず、基礎を打つ。コンクリートや。地面の下やから、建ったら誰にも見えん」

「はい」

「その上に土台を敷く。それから柱を立てる。柱だけやと横に倒れるから、筋交いを入れる。斜めの材や」

「……はい」

「そこまでやって、やっと二階が乗る。二階の上に小屋組を組んで、垂木を渡して、野地板を張って、いちばん最後に屋根を葺く」

 彼女は、メモを取るのをやめて、こっちを見とった。

「八百も、これと同じや」

「ゆっくりのジョグが、基礎や。地面の下にあって、外からは見えん」

「はい」

「ペース走が、土台と柱や。ここで家の形が決まる」

「はい」

「インターバルが、筋交いや。無くても建つように見えるけど、揺れたら分かる。レースの後半で残るかどうかは、ここや」

「……」

「レペティションが、屋根や。いちばん上に載っとって、いちばん目立つ。速さは、ここで出る」

 俺は、そこで一つ息を吐いた。

「――で、ここからが本題や」

「はい」

基礎ばっかり打っとっても、家は建たん

「はい」

土台ばっかり並べても、建たん

「はい」

「そして、いちばんやりがちなのがこれや。屋根から建てようとする

 彼女は、そこで、目を伏せた。

「見えるのは屋根やから、誰でもそこを触りたくなる。速く走る練習だけやりたくなる」

「……」

「基礎が無かったら、屋根は載らん。載せたら潰れる」

「はい」

「順番と、割合や。全部要る。どれか一つを積み上げても、家にはならん

 彼女は、しばらく黙っとった。

 それから、ぽつりと言うた。

「……私、基礎と土台しかありませんね」

 ――よう分かっとる。

「そうや」

「じゃあ、いままでの二年、無駄やったってことですか」

「ちがう」

 俺は、そこははっきり言うた。

基礎と土台は、もうできとる。九十キロぶん、打ってある。あれは消えとらん」

「……」

「家でいうたら、いちばん手間のかかるとこが、もう終わっとるんや。掘って、鉄筋組んで、コンクリート打って、養生して。あれがいちばん時間がかかる」

「はい」

「基礎から打ち直す子のほうが、よっぽど遠い。お前は、そこは済んどる」

 彼女は、顔を上げた。

「じゃあ、私は」

あとは、上に積むだけや

 俺は、そう言った。

「柱を立てて、筋交いを入れて、屋根を載せる。そこは、基礎を打つより速い」

「速いんですか」

「速い。基礎は二年かかった。上は、一年で載る」

 ――そのとき、あの子の顔が、はじめて変わった。

 この二年を否定されると思うとったんやろう。

 否定する必要は、どこにも無い。

 積む場所が空いとる、いうだけの話や。

 ――ここまでで、二時間くらい喋っとった。

 日はまだ高い。グラウンドの土が、白く光っとる。

 あの子は、手帳を閉じんかった。

 まだ書くことがある、という顔をしとった。

 ――なら、続きを話す。

 俺の持っとるものは、まだ全部出しきっとらん。

第十二話 ―― リク編「内側の時計」

創作ノート(第十一話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,598字
  • 時期:二〇二八年 四月〜八月
  • 登場:ナオ(高二・八百メートル)/タク(No.9・言及)/ノア(No.14・文字のみ)
  • 備考:旧・第十一話の前半。§一の見出しを「三回、見た」に変更(話タイトルとの重複回避)

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep11_riku_luna.md

リク

第十二話

内側の時計

リク

主役
リク(No.10・公益コーチング)
共演
ナオ(高二〜大学一年・八百メートル)/タク(No.9・双子の兄・言及)/ミライ(No.1)/マモル(No.8)
視点
リク一人称
時期
二〇二八年 八月〜二〇三〇年 春
  • ミライミライ
  • マモルマモル
  • タクタク

毎週

 ――ここまでが、俺があの子に渡した中身や。

 ペース走の量と置き場所。七日の並べ方。二つのタイプ。インターバルとレペティションの違い。そして、家の建て方の話。

 グラウンドの隅で、二時間近く喋っとった。

 まだ、少しだけ続く。

「レペティションを、週に一回以上、毎週やる。やる日を決めて、逃げずに続ける。四百・八百の子に要るのは、脚の速さより、たぶんそっちや」

「毎週ですか」

「毎週や。気分が乗った週だけやっても、意味がない」

「けど、痛いときは」

「やらん」

 俺は、即答した。

「そこは、迷わんでええ。やる日を決めるのと、痛い日にやめるのは、矛盾せん。決めてあるから、やめられる」

 それから、もう一つ足した。

「あと、四百・八百の子は、短距離の練習にも混ざったほうがええ」

「短距離、ですか」

「四百を速くするには、そもそも速う走れんとあかん。うちの短距離の子らと一緒に、五十とか百の加速走をやる。記録会で二百に出てみるのもええ」

「二百、走ったことないです」

「一遍走ってみ。自分が持っとるスピードの上限が分かる」

「――で、聞く」

 俺は、彼女を見た。

「ナオは、自分がどっちやと思う」

 彼女は、しばらく黙っとった。

 その黙り方が、悪くなかった。すぐ答える子より、こういう子のほうが、あとで自分で組める。

「……たぶん、八百・千五百のほうです」

「なんで」

「四百、遅いので。持久走のほうが、まだ順位がいいです」

「うん」

「あと、四百のインターバルやると、二本目でもう脚が動かんくなります」

「それは、四百が遅いんやなくて、四百の練習をしとらんからかもしれんぞ」

 彼女は、そこで顔を上げた。

 ここが、いちばん言いたかったところや。

「ナオ。自分は八百・千五百やと思うんやったら、それでええ。組み方はそっちに寄せる」

「はい」

けど、そう思っとるからいうて、四百の練習が要らんわけやない

「……」

「八百の最後の百で抜かれるのは、たいてい、四百の力が足りん子や。持久だけでは、あそこは残らん」

「はい」

「逆もある。四百・八百やと思っとる子が、長い距離から逃げるのも、あかん

「そっちも、ですか」

「そっちもや。前半で突っ込んで、六百で終わる。あれは、持久から逃げた結果や」

 ――どっちも、俺が見てきた形や。

「どっちのタイプでも、もう片方は要る。寄せるのは配分だけや。ゼロにしたらあかん」

オールラウンド

「それと、これは先の話やけど」

「はい」

「八百の選手は、そのうちマイルリレーに借り出される」

 彼女が、少し笑った。

「うちの学校、四人おらんです」

「そうやったな」

 俺も笑った。

「けど、大学行ったら走らされるぞ。冬になったら駅伝も走らされる」

「駅伝も、ですか」

「走らされる。八百の子は、たいてい両方に呼ばれる」

「……なんでですか」

「速さと、粘りの、両方を少しずつ持っとるからや」

 俺は、そこで一つだけ言うた。

「それを、便利に使われとる、と思うか、両方できる選手になっていく途中やと思うかは、お前が決めることや」

「……」

「俺は、後ろやと思っとる。八百をやる子は、そうやってオールラウンドな陸上選手になっていく」

根拠を二冊

 ――そして、最後に、根拠を二冊置いた。

「これが十七のときの俺や。週百二十。休養ゼロ」

「はい」

「十月のページ、見てみ」

 彼女がめくった。

『腰が痛い。走れない。病院。骨は異常なし。原因不明』

「そのあと、二か月白紙や。そこから何回も、同じことをやっとる」

「……はい」

「こっちが三十の俺や。週五十。マスターズにはじめて出て、それが、そのときの日本記録やった」

「日本記録……」

「狙うて出たわけやない。その歳になって、学生のころと同じように走ったら、そうなっとっただけや」

「……半分以下ですね」

「半分以下や」

 ――ここまでが、俺の持っとるもの全部だ。

 出し惜しみは、していない。答えも、理由も、俺が壊した実例も、全部渡した。

 そのうえで、俺は聞いた。

「――で、ナオはどうする」

「……私が、決めるんですか」

「お前が決める」

「先生、六十って言いましたよね」

「言うた。俺はそう思う。思うけど、走るのはお前や

 俺は、それだけ言って、離れた。

十七歳の日誌

 十七歳の日誌には、こう書いてある。

 週の距離が百二十キロ。毎日走っている。休養日がゼロ。

 そして、十月のページに、こう書いてある。

『腰が痛い。走れない。病院。骨は異常なし。原因不明』

 そのあと、二か月ぶん白紙だ。

 白紙のあと、また走り始めている。そしてまた壊れている。それを何度も繰り返している。二か月白紙のページが、全部で四回ある。

 二十代のページも同じだ。

 三十二の春から、同じ言葉ばかりが並ぶ。『ふくらはぎ』『また切れた』『走れない』

 そのページが、五年ぶん続く。切れて、待って、また走って、また切れる。やめる、と書いた日は一日も無い。

 そして、三十七のところで、記述が途切れる。

 ――『もう戻らんらしい』

 その一行だけ、字が違う。

 筆圧が弱い。

 ――八百のランナーとしては、本当に、もう戻らんかった。そこは、当たっとる。

 このあと走り方を変えて、別の競技で年代別の日本一になるんやけど、それは、この日誌には書いてない。

三十歳の手帳

 三十歳の手帳には、こう書いてある。

 週の距離が、五十キロ。

 一週間の組み方は、こうなっている。

 ――完全休養が、一日。

 走らん。何もせん。これは絶対に動かさん。

 ――積極的休養が、一日。

 完全に休むのではなく、二十分か三十分だけ、ゆっくり走る。血を回すためだけの日や。流しもやらん。速く動く動作を、その日は一回も入れん。

 残りの五日は、こう並んでいる。

 ――ペース走が一回。

 ――インターバルが一回。

 ――レペティションが一回。

 ――つなぎのジョグが二回。

 これで七日や。

 ――目一杯やる日は、週に二日から四日しかない。

 毎日ではない。六日でもない。

 やる日は、本当にやる。回復する日は、本当に回復する。

 そうせんと、八百の練習は続かん。続かんかったら、意味がない。

 そして、その年、はじめて出たマスターズの八百で、俺は日本記録を出している。

 狙ってはいなかった。その歳になって、学生のころと同じように走ったら、それが、そのときの日本記録だった。それだけだ。

 ――十七歳のときの、半分以下の距離で。

 あのとき俺は、量を積むのが正義だと思っていた。

 というより、量を積むほうが、楽だったのだ。

 考えなくていいから。

 毎日同じ距離を走っていれば、やった気になる。何を、どのくらいの強度で、なぜやるのかを考えるより、ただ走るほうがずっと簡単だ。

 ――努力は、思考の代わりにはならない。

 それを覚えるのに、俺は十三年かかった。

彼女の計算

 一週間後、ナオが紙を持ってきた。

「先生。読みました」

「うん」

「それで、自分で組み直しました」

 ――来た、と思った。

 俺は紙を受け取った。

 週の距離、七十キロ。

 完全休養が一日。積極的休養が一日。ペース走が一回、八千。インターバルが一回。レペティションが一回。つなぎのジョグが二回。

 ――並べ方は、俺が書いたとおりになっていた。

 ただ、一つだけ、俺が言わんかったことが足してあった。

 インターバルの欄の横に、小さく書いてある。

『二百×五本×二セット(八百・千五百タイプなので)』

 ――自分で寄せとる。

 そして、その下に、もう一行あった。

『月に一回、四百のレペティション。逃げないため』

 ――俺が想定していたのは、六十キロだった。

 彼女の数字は、それより十キロ多い。

「なんで七十にした」

「先生の三十のとき、五十キロですよね」

「うん」

「でも先生、そのときにはもう、こっちを全部走ったあとですよね」

 彼女は、返しにきた二冊のうち、ぼろぼろのほうを指した。

「二か月白紙のページ、四回ありました」

 ――言うな。

「壊した回数がちがうので、同じ五十でも、たぶん意味がちがうと思って」

「うん」

「私、走り始めて二年で、まだ十七なので。回復も、たぶん私のほうが速いので」

「うん」

「あと、五十まで落とすの、正直こわいです」

 彼女は正直に言った。

「先生の日誌読んで、量が正義じゃないのは分かりました。でも急に半分にして、それで遅くなったら、もう戻す時間がないので」

「……うん」

「だから七十から始めて、様子を見て、また考えます」

 ――俺は、しばらく紙を見ていた。

 正直に言うと、俺はまだ七十は多いと思っている。

 六十まで落としたほうが、たぶん速くなる。

 ――だから、言った。

「俺は、まだ多いと思う」

「はい」

「六十のほうが、たぶん速い。理由はこの前と同じや。その七十のうち、二十キロくらいが、まだ閾値のあたりに残っとる。ジョグのつもりで走っとるやつが、たぶん速すぎる」

「……はい」

「そこを本当に楽にすれば、レースペースの日に、もう一本出る」

「……はい」

「言うたぞ。そのうえで聞く」

 俺は、彼女を見た。

「――お前は、どっちでいく」

 彼女は、しばらく紙を見ていた。

 それから、顔を上げた。

「七十でいきます」

「わかった」

「……いいんですか」

「ええよ」

 俺はそう言った。

「俺は言うた。お前が決めた。それでええ」

「はい」

「ひとつだけ、確かめさせてくれ」

「はい」

「これ、なんで七十なんか、二か月後に自分で説明できるか」

 彼女は少し考えて、言った。

「多かったら減らします。少なかったら増やします。それで説明します」

「うん」

 ――それで、いい。

 数字が最適かどうかは、実はそんなに大事じゃない。

 自分で決めた数字は、修正できる。

 人に決めてもらった数字は、修正できない。合わなかったときに「先生の言うとおりにやったのに」で止まってしまう。

 ――ここが、たぶん、いちばん間違われるところや。

 俺が黙っとったら、あの子は「先生は何も言わんかった」で止まる。それは、自分で決めたことにならん。判断する材料が、無かっただけや。

 俺が全部言うて、そのうえで違うほうを選んだから、あの子は自分の七十を、自分で直せる。

 ――選ぶには、材料が要る。

 材料を出し惜しみして「自分で考えろ」と言うのは、教えとるふりをして、何もしとらんのと同じや。

 彼女は、修正できる数字を持った。

 それが全部だ。

 九月の新人戦。

 二分二十秒八。自己ベストを二秒以上更新した。

 順位は七位。県で、はじめての入賞だった。

 表彰台の隅で、彼女は少し困った顔をしていた。喜び方が分からない、という顔だ。

 俺は観客席にいた。

 この日は行けた。金沢の、県内の大会だったからだ。車を出せば、行ける。

 ――全国の子の試合には、行けない。

 行けないから、あの子たちには、自分で判断できるようになってもらうしかない。

 ナオが戻ってきた。

「先生」

「七位やな」

「はい」

「七十で合っとったな」

「……はい。あ、でも」

「うん?」

「八月の下旬、一回だけ膝が張ったので、その週だけ六十に落としました。日誌に書いてあります」

 ――自分で減らしたのか。

「そうか」

「勝手に変えて、すみません」

「謝らんでええ」

 俺は言った。

「それ、俺がいちばんやってほしかったことや」

最後の春

 次の年の三月、部の廃止が決まった。

 一年生が入らなかった。生徒数が足りなかった。学校の統合も、正式に決まった。

 ――ここからが、彼女が三年生になった年の話だ。

 四月、ナオは三年生になった。五月の中頃、最後の県総体があった。

 結果を先に書く。

 予選を通って、決勝に残った。

 二分十八秒四。自己ベスト。

 順位は、八位だった。

 入賞は八位までだ。県総体でそこに入るのは、はじめてやった。

 ――ただ、北信越へ行けるのは、六位までや。

 六位のタイムは、二分十七秒六だった。

 〇・八秒。

 彼女は、レースのあと、はじめて泣いた。

 嬉しいはずやった。自己ベストも出た。入賞もした。二年前に「まだ入賞したことないです」と言った子が、最後の県総体でそこに入った。

 ――けどあの子は、決勝の八人の中で、六位の背中を見てしまった。

 あの背中の先に、自分がまだ見たことのない大会があると、知ってしまった。

 残酷なもんで、そこは六位までしか行けん。

 俺は何も言わなかった。言うことがなかった。

 しばらくして、彼女が顔を上げて、こう言った。

「先生」

「うん」

「私、二年のときより五秒速くなりました」

「うん」

「入賞も、できました」

「うん」

「でも、〇・八秒でした」

「うん」

「それって、私のやり方が間違ってたってことですか」

 ――ここが、この仕事のいちばん難しいところだ。

 俺は答えた。

「わからん」

「……」

「六十にしとったら届いたかもしれん。八十にしとったら届いたかもしれん。もっと才能があったら届いたかもしれん。それは誰にも分からんよ」

「はい」

「俺が言えるのは、ひとつだけや」

 俺は彼女を見た。

「お前は、二年間、自分で決めて走った」

「……はい」

「俺は、毎回、全部言うた。答えも、理由も、俺が壊した話も。隠したもんは、一つも無い」

「はい」

「そのうえで、お前は一回も、俺の言うた数字のとおりには、せんかったな」

 彼女は、そこでまた泣いた。

内側の時計

 部は無くなった。

 彼女は三年生の一年間、一人で走った。

 グラウンドは使わせてもらえた。誰も一緒に走る人はいなかった。俺は月に一回か二回、見に行った。

 その年の秋の終わりに、彼女がこう言った。

「先生。私、最近、時計見んくなりました」

「ほう」

「三百のときも、六百のときも、見んでも分かるようになりました」

「何秒でいける」

「一周目、六十七くらいで入って、二周目が七十一くらい」

「うん。合っとる」

 俺は笑った。

 ――中距離の選手が最後に手に入れるものは、内側の時計だ。

 外にある時計を見なくても、身体の中で秒が刻めるようになる。

 これは教えられない。何百本も走って、自分で身につけるしかない。

 そして、これを持った選手は、コーチがいなくても走れる。

 電光掲示のない大会でも、雨でスタートが遅れても、コーチが観客席にいなくても、自分のレースができる。

 ――俺は、二年で、渡せるものは全部渡した。

 練習の組み方も、その理由も、身体の中で起きていることも、俺が十七で走れんくなった話も。隠したものは、一つも無い。

 ――それでも、渡せなかったものが、ひとつだけある。

 それだ。

 教えられないものがあると分かっているから、教えられるものは、全部教える。

 ――ここから先は、彼女が卒業したあとの話だ。

 彼女は金沢の大学に進んだ。工業系の大学の、建築の学科だ。

 能登を出て、金沢で一人暮らしを始めた。

 家を設計して、建てる仕事がしたいらしい。

 陸上で選んだ学校やない。勉強で選んだ。強い部があるかどうかは、最初から見とらん。

 ――建築、と聞いたとき、兄貴の顔が浮かんだ。

 それから、二年前の夏を思い出した。

 基礎と、土台と、柱と、筋交いと、屋根の話をした日や。

 あのとき、あの子は「基礎と土台しかありませんね」と言うた。

 ――あれで決めたとは思わん。

 思わんけど、あの日に俺が話したのは、兄貴の仕事の話や。

 もし、ほんの少しでもあそこが効いとるんやったら、俺は、余計なことをしたのかもしれん。

 あるいは、いちばんええことをしたのかもしれん。

 どっちかは、分からん。

 それは、まだ言わんでええ。

 工業系は忙しい。実習も製図もある。部活に力を入れとる学校は、あまり無い。あの子は、それを承知で行った。

 陸上競技部はある。弱い。選手を集めとる部でもない。

 ――それでも、また始めとる。

 目標は二つ。高校でやり残した自己ベストの更新と、北信越に出ること。

 的は、はっきりしとる。二分十七秒六。あの日、六位が出したタイムや。

 ――ちなみに、そこは俺と兄貴が出た大学や。

 あのトラックで、俺とあいつはマイルリレーを走った。

 まさか自分の大学の後輩になるとはな。

 誰と走るわけでもない。引っぱってくれる先輩がおるわけでもない。

 ――けどあの子は、どこで走っても強くなれることを、もう知っとる。

 やりたい仕事の勉強をやりながら、やりたい記録を獲りにいく。

 速い、より、そっちのほうが、ずっと強い。

 春に、メッセージが来た。

『先生、まだ走ってます』

 それだけだった。

 俺は、返信の画面をしばらく見ていた。

 打っては消した。二回消して、三回目に、いちばん短いのを送った。

『良かったな』

 しばらくして、もう一通来た。

『こっち、コーチいないです』

『そうか』

『でも大丈夫です』

 ――それが、全部だ。

 俺の仕事は、「速くしてもらった子」を作ることじゃない。

 コーチがいなくなっても走り続けられる子を作ることだ。

 言い方を変えると、俺の仕事は、自分が要らなくなるための仕事だ。

 うまくいけばいくほど、俺は不要になる。

 それでいい。

 その話を、兄貴にしたら、変な顔をされた。

 双子のタクだ。この前、木造建築士に受かって、分電盤の蓋の裏に油性ペンで書き込みを始めた男だ。

「お前の仕事、成果が残らんな」

「残らんよ」

「俺は現物が残る」

「知っとる」

 兄貴はコーヒーを飲んだ。

「けど、あれやな。俺の書いたやつも、読むかどうかは向こうが決めるな」

「そうやろ」

「読まんかったら意味ないな」

「意味ないな」

 俺たちは笑った。

 同じ土台から、別々の頂点に行った兄弟だ。あいつは物に残す。俺は人に残す。方法は正反対だが、たぶん同じことをやっている。

 ――全部、渡しておく。

 使うかどうかは、相手が決める。

 走り出すタイミングは、受け手が決める。

 バトンパスと同じだ。

 四月の朝、俺は五時に家を出て走った。

 娘が一人、息子が二人いる。上の娘は中学生で、陸上はやっていない。バスケをやっている。

 陸上のほうが向いとる、と俺は思っている。思っていることは、本人にも言うた。理由も言うた。

 そのうえで、あの子はバスケを選んだ。

 ――それでいい。俺は言うた。あの子が決めた。

 海沿いの道を走る。能登の四月は、風がまだ冷たい。

 左の手首に、GPSの入ったランニングウォッチをつけている。

 ――高校のころには、こんなものは無かった。

 今になって思うが、無くてよかった。

 あの歳であれを持っとったら、俺は画面ばっかり見て走っとった。それで、身体の中の感覚は、たぶん一生育たんかった。

 便利なものは、育つ前に来たらあかん。

 ――そのかわり、今は手放せん。

 どこを走っても、距離が出る。ペースが出る。心拍まで出る。

第十三話 ―― リク編「部の無い選手と、一人だけの部」

創作ノート(第十二話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,336字
  • 時期:二〇二八年 八月〜二〇三〇年 春
  • 登場:ナオ(高二〜大学一年)/タク(No.9・言及)/ミライ(No.1)/マモル(No.8)
  • 備考:旧・第十一話の後半。§九のGPSウォッチは「コーチ=持っとるものに合っとると言うだけ」の反転として置いた

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep12_riku_luna.md

リク

第十三話

部の無い選手と、一人だけの部

リク

主役
リク(No.10・公益コーチング)
共演
エイタ(二十三歳・社会人一年目/回想では中三〜高三)/ケン(二十四歳・大工六年目/回想では高三)/ナオ(十九歳・金沢の大学一年・言及)/ミライ(No.1)/タク(No.9・言及)
視点
リク一人称
時期
二〇三〇年 六月〜八月(回想:二〇二三年 三月/二〇二四年 一月・春〜六月)
  • ミライミライ
  • タクタク

手が空いた

 二〇三〇年の六月に、俺は担当がゼロになった。

 ナオが三月に卒業して、金沢の大学に行った。あの子で最後や。

 中学と高校の外部コーチは続けとる。ネットの子も何人か見とる。

 ――けど、「三年つきっきりで見とる子」が、いま一人もおらん。

 こういう時期は、たまに来る。

 来るたびに、俺は落ち着かんくなる。

 やることが減ったからやない。渡し終えたあとの、あの何とも言えん感じが苦手なんや。

 渡したものが、向こうでどうなっとるかは分からん。

 分からんまま、こっちは次に行くしかない。

 六月の第二週に、ミライさんからメッセージが来た。

『リクさん。今月、時間が空いていますか』

『空いとる』

『何かされますか』

『……いや』

 ――そこで、少し止まった。

 空いた、と自分で言うたときに、二人の顔が出てきた。

 どっちも、俺が渡したまま、その先を見に行っとらん子や。

珠洲のキャップ

 一人目は、二〇二三年の三月に会うた。

 七年前や。

 町のプールで泳いどった。あそこは温水やから、冬でもやっとる。

 その年の八月に珠洲のトライアスロンに出るつもりで、冬のうちから水に入っとった。

 ――三種目のうち、泳ぎがいちばん戻すのに時間がかかる。

 被っとったキャップは、前に珠洲で配られたやつや。

 「珠洲トライアスロン」の文字と、そのときのゼッケン番号が刷ってある。

 配布のキャップは、たいていそういう作りになっとる。使い回すと、何のレースの何番かが、頭に載ったままになる。

 ――そのキャップを、見られとった。

 千を泳いで、プールサイドに上がったところで声をかけられた。

「あの、すみません」

 中学生やった。水着の上にTシャツを着とった。

「トライアスロン、やってるんですか」

「そうやよ」

「僕も、出たことあります!」

 ――声が、大きかった。

「へえ。すごいな」

 そこから始まった。

石川には無い

 その子は中学三年で、名前をエイタといった。

 先に喋ったのは、俺のほうや。

 地元がすぐそこやということ。昔は陸上部やったこと。専門が八百やったこと。

 言うたら、向こうも喋り出した。

「うち、中学に陸上部が無いんです」

「無いんか」

「はい。だから、一人で走ってます」

「大会は」

「陸協から、個人で出ました」

 ――出とる。

 しかも、その年の県大会で入賞しとった。百メートルや。

「タイムは」

「十一秒五六です」

 ――部の無い学校で、独りで、それを出しとる。

 プールにも小学校から通っとると言うた。

 走れて、泳げる。

 その組み合わせは、そんなに多くない。

「あの、聞いていいですか」

「なんや」

「トライアスロン部がある高校って、ありますか」

 ――俺は、そこで少し黙った。

 嘘は言えん。

「石川には、無いな」

「無いんですか」

「無い。やるんやったら、関西か関東か、東海のクラブチームや。高校生の、ジュニアのチームは、このへんには無いと思う」

 その子は「そうですか」と言うた。

 声は、落ちんかった。

「将来、やりたいです!」

 ――そこは、はっきり言うた。

 俺は、こう返した。

「やったらいいよ」

 それだけや。

 初対面の中学生に、それ以上のことは言わん。

 できるとも、無理やとも言わんかった。言えることは、それしかなかった

 高校の話も出た。

 金沢の私立から推薦が来とる、と言うた。強豪校や。寮に入る。

「陸上部、あるんです」

 その言い方やった。

 ――「強豪校に行ける」やない。「陸上部がある」や。

 三年間、部の無い学校で独りでやってきた子の言葉や。

 俺は、そのときの顔を、いまも覚えとる。

十種

 春に入学して、夏に連絡が来た。

『十種競技を始めました』

 ――十種か、と思った。

 百メートル、走幅跳、砲丸投、走高跳、四百メートル。一日目に五種目。

 二日目が、百十メートルハードル、円盤投、棒高跳、やり投、千五百メートル。

 二日で十種目や。

 短距離の子が十種に行くのは、珍しいことやない。走れる子は、たいてい跳べる。

 ――ただ、千五百がある

 走れて泳げる子は、そこで詰まらん。持久がある。

 俺は、それを聞いて、いい選択やと思った。

 その年の冬に、地震が来た。

 二〇二四年の一月一日や。

 高校一年やった。

 正月やから、寮から実家に帰っとった。

 ――そこで、揺れた

 家がやられた。あの子は、その中におった。

 本人は無事や。無事やけど、帰るところが無くなった。

 ――そこから、崩れた。

 春に連絡が来て、練習に出られん日が続いとる、と書いてあった。

 身体やない。そっちやった。

 俺は、そのとき、何もできんかった。

 寮におって、向こうにコーチが四人おって、俺は外の人間や。

 メッセージを何回か送った。返事が来る日と、来ん日があった。

 ――そういう時期に、遠くから言葉だけ送るのは、たいてい役に立たん

 それは、あとになって分かった。

 二年のときは、県で入賞して、北信越に行った。

 ――北信越で、あと一歩やった。

 インターハイの枠に、届かんかった。点数で言うたら、あと二百くらいやったと思う。

 それでも、二年でそこまで行った。

 三年のとき、県大会の走幅跳で記録なしやった。

 三本とも踏み切りが合わんかった。十種は一種目でも記録が出んと、その時点で終わる。

 県で落ちた。北信越にも行けん。インターハイの路線は、そこで終いや。

 ――二年で北信越まで行った子が、三年で県から出られんかった

 俺は、その日、会場におらんかった。

この子だけです

 二人目に会うたのは、二〇二四年の春や。

 地震の三か月後。

 志賀町の競技場で能登地区の大会があって、俺は審判の手伝いに行っとった。

 ――正式な役員やない。人が足りんから、と頼まれた口や。

 午前の種目が終わって、スタンドの下を歩いとったときに、二人で座っとるのが見えた。

 高校の先生と、生徒が一人。

 その先生は顔見知りやった。何年か前に、別の学校で会うとる。

「お疲れさまです」

「ああ、どうも」

 そこから立ち話になった。今年はどうですか、みたいな話や。

「何人おるんですか、部員」

 ――そこで、先生が横を見た。

この子だけです

 それだけ言うた。

 隣に座っとった子が、ちいさく頭を下げた。

 ――たった一人の陸上部やった。

「顧問は」

「私です。ただ、専門やないので」

 ――そういうことは、このへんではよくある。

 部が残っとって、人が残っとらん。教えられる人も、残っとらん。

 名前をケンといった。三年生。専門は八百メートル。

二か月

 先生も入れて、三人で少し話した。

 ――そのうちに、住んどるところの話になった。

「いま、どこから通っとるん」

「仮設です」

「家は」

「壊れました」

「親は」

 ――そこで、少し間があった。

「金沢に行きました。妹も」

「お前は」

「残りました」

 ――一人で仮設におる、ということやった。

 高校三年や。

「なんで残ったん」

「学校、変わりたなかったんで」

 それだけ言うた。

 理由は、たぶんそれだけやない。けど、こっちから掘る話やない。

 俺は、その場で言うた。

「見よか」

「え」

「練習。見よか」

「……お金は」

「取らん」

 その子は、しばらく黙って、それから「お願いします」と言うた。

 ――約束は、一つだけした。

「総体までや」

「はい」

「五月の終わりまで。二か月くらいしかない」

「はい」

二か月で変わることと、変わらんことがある。それは先に言うとく」

二分六秒

 二か月、週に二回見た。

 俺が行ける日は限られとるので、あとは動画を送ってもらった。

 やったことは、多くない。

 ――知っとることは、全部言うた。それだけや。

 八百の入りの速さ。二周目の落ち方。ペース走の量が多すぎること。レースペースの日が一日も無いこと。

 あの子は、ナオと同じで、量を積むほうに寄っとった。一人でやると、たいていそうなる。

 量は減らした。速い日を入れた。

 ――二か月で、練習は変わった。

 記録は、変わらんかった。

 自己ベストは二分〇五秒。中学からの積み上げで、そこまで来とった。

 二か月で、そこは超えられんかった。

 五月の終わり、県総体。

 会場は松任やった。

 いつもは西部緑地公園でやる。その年は改修が重なって、使えんかった。

 ――松任には、サブトラックが無い

 これは、走る側にはでかい。

 アップの流しを、どこで入れるか。距離をどう取るか。それが決められん。

 俺は、コロコロメーターを持って行った。

 距離を測る、あの手押しの車輪や。借り物やない。俺が買うたやつや。

 二か月前、あの子の練習コースをロードに作るときに買うた。

 ――仮設のまわりに、トラックは無い。学校のグラウンドも、いつも空いとるわけやない。

 ほんなら、走れる道を自分で測って、そこに距離を置くしかない。

 百はどこまでか。二百は。四百は。電柱でも看板でも、目印になるもんを一つずつ決めていった。

 そのために買うたやつを、そのまま総体に持ってきた。

「これで測れ」

「測るんですか」

百や。学校のグラウンドでも、ロードのコースでも、お前がいつも流しとる目印は百やろ」

「……はい」

「ほんなら、今日も百取れ」

 ――アップは、リズムを作る時間や。

 いつもと違う距離で流したら、いつものリズムにならん。

 同じ距離を、同じように流す。それだけでええ。

 あの子は、外の空いとるところをコロコロやって、百のところに印を置いた。

 招集所に入る前に、一つだけ言うた。

「周りを見るな」

「はい」

アップしとる他の選手は、みんな速そうに見える。あれは、見たら損や」

「はい」

いつものストライド、いつものピッチで走れ。それだけや」

 ――八百は、他人のリズムで入ったら、六百で終わる。

 予選、四組目。

 入りは良かった。四百を六十一秒くらいで通った。

 言うたとおりの入りやった。周りに引っぱられとらん。

 ――六百で、落ちた。

 二分〇六秒。

 自己ベストにも届かんかった。組で六着。予選落ちや。

 ゴールしたあと、しばらく座っとった。

 俺は、トラックの外におった。

 そのあとで、こう言うた。

「シーズン、始まったばっかりや」

「はい」

「記録会が、六月も七月もある。出てみたらどうや」

 ――俺は、そう勧めた。

 二か月で練習が変わったんやから、記録はそのあとに来る。それは、俺自身が知っとる。

「いや、いいです」

 その子は、そう言うた。

「今日で、終わりにします」

 そのあとに、こう続けた。

ベストは出んかったけど、今まで知らんかったちゃんとしたトレーニングできて、大会出て、全力で走れて良かったです!」

 ――最後だけ、声が大きかった。

 俺は、しばらく何も言えんかった。

 正しく努力することと、結果が必ずついてくること。

 ――この二つは、イコールにはならん

 コーチをやっとると、何回も突きつけられる。

 正しくやった。それでも出んかった。そういう子のほうが、たぶん多い。

 ただ、正しく努力する、というやり方そのものは、残る。

 目標を決めて、いまの自分を測って、足りんところを埋めて、日を数えて、当日に合わせる。

 この過程は、陸上だけのもんやない。

 仕事の技術を身につけるときにも、必ず同じ過程が要る。

 ――そこで活きてくれたら、それでええ。

 俺は、そう思った。

大工

 止めることも、できた。

 「もったいない」と言えば、たぶん、一回くらいは出たと思う。

 ――言わんかった。

 第一話から俺がやっとることは、一つしかない。

 知っとることは全部言う。そのうえで、決めるのは本人や。

 「続けろ」は、俺の側の言葉になる。

 あの子は、二か月で自分の身体を見て、決めた。

 それは、俺が三年かけて渡そうとしとることと、同じことや。

 ――だから、こう聞いた。

「これから、どうするんや」

 その子は、少し考えて、こう言うた。

「奥能登で、大工になりたいです」

 ――即答やなかった。

 考えて、そう言うた。考えて出てきたということは、前から思っとったということや。

「大工か」

「はい」

「なんで」

「家が壊れたんで」

 それだけやった。

 俺は「そうか」としか言わんかった。

 その年の秋に、地元の工務店に決まったと連絡が来た。

 卒業して、四月から入った。

 ――そこから、連絡は年に一回くらいになった。

 正月に一言来る。それだけや。

数えない

 二〇三〇年の八月に、俺は二人の現在地を確認した。

 ミライさんに調べてもらったわけやない。自分で聞いた。

 ――ケンは、工務店の六年目や。

 二十四歳になっとる。

 いまは棟梁のもとで、現場を一つ任され始めたところらしい。

『先生、去年、はじめて一人で刻ませてもらいました』

 刻む、というのは、木を加工することや。柱や梁に、継手を彫る。

 ――八百メートルの話は、一言も無かった。

 六年、一度も出てこん。

 それでええと思う。

 エイタのほうは、今年の春に大学を出た。

 関東の私大の経済学部や。トライアスロン部におった。

 ――関東やった。

 七年前に、俺が「関西か関東か東海や」と言うた、その関東や。

 その選手は、トライアスロンが盛んな関東の大学に進学した。

 ――インカレで三位まで行った。

 三年のときや。

 俺は、その結果を、行かんでも知っとった。

 ――行けん大会は、ネットで探す。

 昔からそうしとる。

 終わってから結果一覧が上がるだけの大会もあるし、速報が逐次出る大会もある。

 速報が出るやつは、更新のたびに開く。組と着順とタイムだけの、そっけない表や。

 それを開きに行っとる時点で、もう気になっとるということや。

 ――離れとっても、気になるもんは気になる。

 出とったら、うれしい。出てなかったら、残念に思う。

 担当が終わっても、そこは変わらん。

 あの子から連絡が来たのは、その日の夜やった。

『三位でした』

『知っとる』

『え』

『ネットで見た』

 こういうパターンもある。

 こっちが先に結果を知っとって、それでも本人の口から聞く。

 順番としては、そのほうがええ。

 あの子は、在学中にファイナンシャルプランナーの一級と、CFPを取っとった。

 競技をやりながら、そっちも取っとる。

 どうやって取ったんや、と聞いたら、順番を全部言うた。

『まず三級です。それから二級とAFPを同時にやりました。そのあとCFPを先にやって、一級はいちばん最後です』

『先にCFPか』

『はい。CFPを通しておくと、一級の学科が楽になるので』

 ――段取りを組んどる。

 そこは、こいつらしいと思うた。

『CFPって、何をやるんや』

『六課目あります』

 そう言うて、指を折るみたいに並べた。

 金融資産運用設計。不動産運用設計。ライフプランニングとリタイアメントプランニング。リスクと保険。タックスプランニング。相続と事業承継設計。

『六つ、全部合格せんとCFPにはなれんのです』

『一個ずつ受けられるんか』

『受けられます。でも、全部そろわんと名乗れません』

 そこで、あの子が笑うた。

『リクさん。これ、十種競技みたいやったです』

 俺は、電話を持ち替えた。

『どういうことや』

『得意な課目で稼いでも、一個でも落ちとったら、そこで終わりなんです。走幅跳で記録なしになったときと、おんなじです』

 ――そう来たか、と思うた。

 あの日のことを、そういうふうに使うとる。

『それで、六つ全部やってみて、分かったことがあります』

『言うてみ』

『全部、つながっとるんです』

『つながる』

『税金の話をしとるはずが、保険の話になって、そこから相続に行くんです。不動産を買う話が、そのままライフプランの話になるんです。ばらばらの六課目やと思うとったのに、勉強したら、複雑に組み合わさっとりました』

 金の話は、人生の話や。切れとるわけがない。

『どれがいちばん面白かったんや』

タックスです

 ――即答やった。

『なんでや』

『ほかの課目は、人によって答えが変わります。税金だけは、決まっとるんです

『それで、思うたんです。人の人生を分解したら、こうなるんかと』

 俺は、その言い方で、少し黙った。

 人生を、分解する。

 ――六つに分けて、それぞれに名前が付いとる。

『リクさん、CFPを持っとる人って、頭がええ人やと思われとるんですけど、たぶん違います』

『どう違うんや』

『他人の人生を、適切に分解して考えられるんです。具体的に。この人の困っとることは、いま六つのうちのどこにあるんか、って』

『そこが分かれば』

『的確に言えます。分解できとらんかったら、ぜんぶ「がんばりましょう」で終わります』

 ――それは、俺の仕事とおんなじや。

 速うならん子に「がんばれ」と言うのは、分解できとらんという意味や。

 接地なんか、ピッチなんか、後半だけなんか。そこを分けられん指導者の言葉は、届かん。

『リクさん』

『うん』

『これ、十種競技とトライアスロンにも、すごく似とります』

『似とるな』

『全部やらんと成立せんのです。得意なやつだけ伸ばしても、点にならんのです』

 ――こいつは、おんなじことを三回やっとる。

 十種で一回。トライアスロンで一回。CFPで一回。

 種目が変わっただけや。中身は、ずっと変わっとらん。

 四月から、外資系の保険会社に入った。

『トライアスロン、続けるんか』

『続けますよ!』

『そうか』

『リクさんが大人になってからトライアスロン始めたん聞いて、いくつになっても挑戦できるんやな!ってあん時思いました』

『うん』

『七年前、プールで、やったらいいよって言うてくれましたよね』

『言うた』

『トライアスロン、やって良かったです』

 ――俺は、そこは覚えとらんかった。

 言うたことは覚えとる。それが残っとるとは思っとらんかった。

 八月の朝、走りながら考えとった。

 三人おる。

 ナオは、続けた。大学で八百をやって、二分十四秒二まで行った。

 エイタは、種目を変えて続けた。短距離から十種、十種からトライアスロンへ。

 ケンは、やめた。二か月で決めて、それきりや。

 ――この三人を、俺は並べん。

 並べたら、順番がついてしまう。

 続けたほうが上、みたいな顔になる。

 そんなことは、一度も思っとらん。

 第一話から言うとることがある。

 試合の日、俺はいない。

 全国に散らばっとるから、行けん。だから根拠を渡す。決めるのは本人や。

 ――今日、もう一つ分かった。

 やめる日にも、俺はいない。

 二〇二四年の五月、あの子が「今日で終わりにします」と言うたとき、俺はトラックの外におった。

 止められる位置におらんかった。

 ――そのほうが、たぶん、よかった。

 近くにおったら、俺は「もったいない」と言うとったかもしれん。

 俺が数えるのは、続いた人数やない。

 渡した回数や。

 三年渡した子もおる。二か月しか渡せんかった子もおる。

 二か月でも、渡したことにはなる。

 あの子は、いま木を刻んどる。

 俺が渡した八百メートルの話は、たぶん一つも使うとらん。

 ――それでもええ。

 使わんかった、というのも、受け取ったうちに入る。

 坂を上がりきって、海が見えた。

 一人は金沢の大学。一人は関東の会社。もう一人は門前の工務店。

 ――そういえば、この三人、顔を合わせたことが一遍もない。

 三年見た子と、七年見とる子と、二か月で終わった子や。

 ばらばらの年に、ばらばらの場所で会うた。互いの名前も知らん。

 三人とも知っとるのは、俺だけや。

 ――こんなことを考えるのは俺の趣味やない、と思い直した。

 思い直して、それでも出てきた。

 ――あの三人、会わせてみたいな。

 縁があれば、そうなるやろ。

第十四話 ―― ナギ編「朝凪」

創作ノート(第十三話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,560字
  • 時期:二〇三〇年 六月〜八月(回想:二〇二三年三月/二〇二四年一月・春〜六月)
  • 登場:エイタ(二十三歳)/ケン(二十四歳)/ナオ(十九歳・言及)/ミライ(No.1)
  • 備考:第十一話「試合の日、俺はいない」の別の顔=やめる日にも、俺はいない。★ 三人(ナオ・エイタ・ケン)は互いに一度も会っていない。三人とも知っているのはリクだけ。★ エイタはこのあと税理士になる(2026-08-18 リーダー設定変更)。ただし本話は二〇三〇年・リク視点なので本文に税理士とは書けない(合格は二〇四〇年ごろ/税理士事務所へ移るのは二〇四三年)。代わりに §九 に種だけ置いた=六課目でいちばん面白かったのはタックス/「税金だけは、決まっとる」。回収は第六十四話 §六。★ リクが数えるのは続いた人数ではなく渡した回数。★ ケンの八百メートル(二分〇五秒/総体二分〇六秒)は、ナオの二分十四秒二と同じ種目の別の答え

原稿:data/proposals/2026-08-17_novel_ep13_riku_mirai2nd.md

ナギ

第十四話

朝凪

ナギ

主役
ナギ(No.11・高齢者/地域ケアコーディネーター)
共演
カイ(No.2・甥)/トヨさん(第二話より)/ミツさん(八十七歳)/ソラ(No.6)/マモル(No.8)/マコ(No.7)/ミライ(No.1)
視点
ナギ一人称
時期
二〇二八年 通年(十二月で締め)
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • ソラソラ
  • マコマコ
  • マモルマモル

朝凪

 朝の五時に、海を見に行く。

 仕事ではない。ただの習慣だ。もう十何年も続いている。

 この時間の能登の海は、たいてい凪いでいる。

 朝凪、という。

 夜のあいだ、陸から海へ風が吹いている。陸のほうが先に冷えるからだ。朝になって日が出ると、今度は陸が温まって、海から陸へ風が吹き始める。

 その入れ替わりの瞬間に、風が止まる。

 ――止まっているように見えるだけだ。

 実際には、そこで向きが変わっている。

 海面は鏡みたいになる。波が消える。音もほとんどしない。何も起きていないように見える。

 でも、あの時間がいちばん、動いている。

 私の名前は、そこから来ている。

 凪。

 風も波もない、静かな海。

 ――嵐のあとに来るもの、という意味もある。

 私は五十代で、能登に住んでいる。白髪が混じってきたけれど、染めていない。薄い紫のカーディガンをよく着ている。

 仕事は、高齢者と地域のケアだ。

 震災のあと、この土地で、避難生活や、孤立や、介護疲れや、生活の不安を抱えた人のところへ、ずっと通ってきた。

 やっていることは、たいしたことではない。

 行って、座って、話を聞く。

 それだけだ。

二日

 私のやり方は、うちの会社では「二日かかる方法」として知られている。

 一軒に、二日かける。

 一日目は、何も聞かない。

 お茶をいただいて、天気の話をして、畑の話をして、庭の花を褒めて、帰る。用件は言わない。「また来ますね」とだけ言う。

 二日目に、聞く。

 ――なぜ二日かかるのか。

 理由は、はっきりしている。

 初日に出てくる答えは、本当のことではないからだ。

 嘘をつかれているのではない。その人自身が、まだ自分の本当を掴んでいない。

 「何にお困りですか」と聞かれたら、人は「特に困っていません」と答える。それが礼儀だから。そして、答えたあとで、一晩考える。

 ――ああ、あれが困っとったんやわ。

 そう気づくのが、だいたい寝る前だ。

 だから二日目に行くと、玄関で先に言われる。

「ナギさん、昨日言い忘れたんやけどね」

 これが、本当の用件だ。

 サカエさんのときもそうだった。

 停電が怖いという相談で行って、一日目は世間話だけして帰った。二日目に行ったら、玄関で言われた。

「昨日言い忘れたんやけどね。冷蔵庫は、別にいいんやわ」

 ――そこから、全部が変わった。

 本当に怖かったのは、暗いことと、娘さんに「無事や」と言えなかったことだった。

 冷蔵庫でもエアコンでもなかった。

 あの二日がなかったら、うちは実費だけで百二十万円という紙を出して、断られて、それで終わっていた。

 だから私は、二日かける。

 急がない。焦らせない。否定しない。

 それが私の全部だ。

十九人

 その年、うちの会社に相談が集まりすぎた。

 カイが作った端末が、四十軒を超えた。タクさんの停電対策が十九軒を超えた。マモルさんが夏から秋にかけて三度、夜中に警戒を呼びかけて、そのたびに何も起きなかった。何も起きんかったのに、あの人が毎回出ていくのを、みんな見とった。それから、防災の話をしに来る人が増えた。

 誰も宣伝していない。ソラくんが公民館の椅子を並べ続けて、それだけだ。

 ――順番待ちが、十九人になった。

 私は一日に一軒しか行けない。一軒に二日かかる。移動も入れると、週に二軒か三軒が限度だ。

 十九人だと、ぜんぶ回るのに二か月半かかる。

 ルナさんが計算を出してくれた。

「ナギさん。現在の待機期間は、平均で四十一日です」

「そんなにかかっとるんやね」

「はい。最長は六十八日です」

「……」

「これは、事実として記録します。評価ではありません」

 この人はいつもそう言う。責めていない、と先に言う。

 でも、数字は数字だ。

 六十八日。

 二か月以上、待っている人がいる。

 マコちゃんが、心配して来た。

「ナギさん、あたし手伝おうか」

「ありがとね。けど、ええよ」

「なんで」

「マコちゃん、聞くの上手すぎるから」

 これは本気で言った。

 マコちゃんは聞き込みが異常にうまい。二日で四件を辿ってくるような子だ。

 でも、その速さは、この仕事には向かない。

 速く聞ける人は、速く聞いてしまう。相手が一晩考える時間を、飛ばしてしまう。

 「あの子は上手やから、こっちが言う前に当ててくる」と、年寄りは思う。当てられると、人は自分で考えるのをやめる。

「じゃあ、あたし何もできんやん」

「マコちゃんには、マコちゃんの仕事があるやろ」

「……うん」

 ――このとき、私は自分の方法を守った。

 守ったつもりだった。

ミツさん

 九月の終わりに、電話が来た。

 ソラくんからだった。

「ナギさん。ミツさんが、亡くなりました」

 ――ミツさん。

 八十七歳。ひとり暮らし。谷内の、坂の上から二軒目の家。

「いつ」

「今朝です。畑で倒れてたのを、新聞屋のヤスさんが見つけて」

「……そう」

「心不全だそうです。苦しまなかったって、お医者さんが」

 私はしばらく、何も言えなかった。

 ――ミツさんは、私の順番待ちの名簿に載っていた。

 十九人のうちの、十四番目だった。

 訪問予定は、翌週だった。

 名簿を開いた。

『ミツさん(八十七) 谷内 初回連絡:七月十二日 訪問予定:十月二日』

 七月十二日から、十月二日。

 ――八十二日。

 最長記録を更新していた。

 連絡の記録を見た。

 七月十二日に、ソラくんが公民館で会って、話を聞いてきている。メモが残っている。

『ミツさん。冬の一人暮らしが不安。ナギさんに来てほしいとのこと』

 そして、その下にもう一行あった。

『八月三日 ミツさんから公民館で「ナギさん、いつごろ来られますかね」と一度だけ質問あり。順番待ちの旨を伝えたところ「ああ、ええですよ、急がんで」とのこと』

 ――一度だけ。

 私はその行を、何度も読んだ。

 一度だけ聞いて、それから、二度と聞かなかった。

 この土地の人が「急がんでいい」と言うとき、それは急がなくていいという意味ではない。

 ――遠慮だ。

 マモルさんが言っていたことと、同じだ。逃げない人が逃げない理由は、恐怖でも無知でもなく、遠慮。夜中に人を起こすのが悪いと思う。

 ミツさんも同じだった。

 自分の順番を、待っていた。

 待っている間に、終わった。

急がない、という言葉

 その週、私は仕事にならなかった。

 訪問には行った。予定は空けなかった。次の人が待っているから。

 でも、座って話を聞いていても、頭の半分でずっと考えていた。

 ――私が急いでいたら、間に合ったのか。

 二日を一日にしていたら。三軒を五軒にしていたら。

 単純に計算して、順番が二倍速く回っていたら、ミツさんの訪問は八月の中頃になっていた。

 間に合った。

 ――でも。

 二日を一日にしていたら、サカエさんの「冷蔵庫はいらない」は出てこなかった。トヨさんの「毎朝嘘をつくのがしんどい」も出てこなかった。カズオさんの「ハルエを数えんかった名簿に、わしだけ載るんはいやや」も、絶対に出てこなかった。

 あれは全部、二日目に出た言葉だ。

 ――私の方法は、目の前の一人には、正しい。

 列に並んでいる十九人には、正しくない。

 どちらも本当だ。

 私はこの二十年、「急がない」を看板にしてきた。急がない、焦らせない、否定しない。それが私の仕事の核だと、人にも言ってきた。

 その言葉が、今週はじめて、自分に刺さっている。

 ――急がない、というのは、誰にとって急がないんやろう。

 私にとって、ではないのか。

 十月に、カイが来た。

 私の甥だ。妹の子で、小さいころからよく知っている。

 海で泳いでばかりいて、勉強はせんかった子が、いつのまにか会社の技術を全部やっている。

 この子は、私の前でだけ、少し素の顔をする。

「叔母さん。顔色悪いよ」

「そう?」

「うん。ミツさんの件?」

 ――この子は、こういうところが鋭い。

 私は正直に話した。

 名簿のこと。八十二日のこと。一度だけ聞いて遠慮したこと。二日を守った結果、間に合わなかったこと。

 カイは、黙って聞いていた。

 この子は聞くのが上手ではない。相槌も下手だ。でも、最後まで口を挟まない。

 話し終わると、彼はコーヒーを一口飲んで、こう言った。

「叔母さん、それ、俺の仕事の言い方で聞いてもいい?」

「ええよ」

「二日のうち、叔母さんじゃないとあかんのは、どっちの日?」

 ――え、と思った。

「どういうこと」

「一日目、なんもせんのやろ」

「なんもせんよ。天気の話して、花を褒めて、帰る」

「二日目は?」

「聞く」

「じゃあ、聞くのは二日目だけやろ」

「そうやね」

「一日目、叔母さんじゃないとあかんの?」

 ――私は、答えられなかった。

 カイは続けた。

「俺、システムの直し方でこれよくやるんやけど。処理が遅いとき、全部を速くしようとしたら大体失敗する。どこが本当のボトルネックかを見んと」

「うん」

「叔母さんのボトルネックは、二日かかることやない。二日とも叔母さんが行っとることやと思う」

 私は、しばらく黙っていた。

 それから、自分でも意外なくらい、はっきり分かった。

 ――一日目の役割は、何か。

 「この家に、人が来る」ということを、その人に知らせること。

 そして、一晩、考える時間を渡すこと。

 それだけだ。

 私が行く必要は――ない。

 誰かが来て、お茶を飲んで、天気の話をして、「また誰か来ますね」と言って帰れば、それで一日目は成立する。

 私は二十年、両方とも自分で行くのが「丁寧」だと思っていた。

 丁寧だったのは本当だ。

 でも、そのせいで、八十二日待った人がいる。

「叔母さん」

「ん」

「泣いてる?」

「泣いとらんよ」

「泣いとるやん」

「うるさいわ」

 ――この子には、昔から敵わない。

一日目を配る

 十一月から、やり方を変えた。

 一日目を、私以外の人がやることにした。

 驚いたのは、頼む先がいくらでもあったことだ。

 マモルさんは、毎朝十キロ走って、集落中を見て回っている。走るコースに入っている家なら、ついでに寄れる。

「立ち寄るだけでいいのか」

「ええよ。用件は言わんといて。天気の話だけして」

「それでいいのか」

「それがいちばん難しいんやけどね」

 マモルさんは、素直に「わかった」と言った。この人は、意味が分からなくても人の言うことを一度そのままやる。得な性格だと思う。

 ソラくんは、もともと椅子を並べている人だ。公民館に来る人には、そこで会える。

「ソラくん、一日目やってくれん?」

「僕、しゃべりすぎませんかね」

「ソラくんはええよ。ソラくんのは押しつけにならんから」

 新聞屋のヤスさんにも頼んだ。この人は毎朝、坂の上まで来て降りる。マコちゃんがゴミの件でお願いした人だ。

「なんか聞いてくればええんか」

「ううん、聞かんといて」

「は?」

「『ナギさんが来週来ますよ』って、それだけ言うてくれたらええの」

「そんだけでええんか」

「それだけでええの」

 ヤスさんは首をひねりながら「変な仕事やな」と言って、引き受けてくれた。

 マコちゃんにも一日目だけ頼んだ。

「あたし、聞いていいん?」

「あかん」

「なんで!」

「マコちゃん、聞いたら当ててまうやろ」

「……あー」

 この子は、そこで納得した。第七話の一件があってから、この子は「言わない」ができるようになった。

 結果は、はっきり出た。

 私が回れる軒数は、週に二軒か三軒から、週に五軒か六軒になった。

 二日目だけ行けばいいからだ。

 待機期間の平均が、四十一日から十七日になった。

 ルナさんが計算して、記録に残した。

『訪問方式変更(二〇二八年十一月・ナギさん)』

『変更内容:初回訪問(用件を聞かない日)を他メンバーに分散。ナギは二日目のみ担当』

『平均待機日数 四十一日 → 十七日』

『最長待機日数 八十二日 → 二十九日』

 ――そして、その下に一行、私が書き足してもらった。

『変更の契機:ミツさん(八十七)逝去。待機八十二日。訪問予定の九日前』

 ミライさんが言った。

「これは、記録に残しますか」

「残してほしいの」

「わかりました」

「消さんといてね」

「消しません」

 この人はいつも、そう答える。

 ひとつだけ、心配していたことがある。

 ――一日目を私がやらなくなって、二日目の言葉は出てくるのか。

 出た。

 むしろ、少し増えた気がする。

 あとで考えたら、理由が分かった。

 一日目に来た人が違う人だと、二日目の私は「はじめて聞く人」になる。

 同じ人が二日続けて来ると、相手は「昨日話したから、もういいやろ」と思ってしまうことがあった。

 ――丁寧さが、邪魔をしていた。

 二十年、気づかなかった。

トヨさん

 十二月に、トヨさんのところへ行った。

 九十三歳になった。カイが端末を置いた家の人だ。最初に布をかけて、しばらくして布を外した人。

 この頃は、あまり畑には出なくなった。座っている時間が長い。

「ナギさん」

「はい」

「あんた、来る間隔が短うなったね」

「わかります?」

「わかるわいね」

 トヨさんはお茶をすすった。

「前は、二か月に一回やった。今は、月に一回来る」

「そうやね」

「うちは別に、二か月に一回でもよかったんやけど」

「そうですか」

「うん。けど」

 彼女は湯呑みを置いた。

「早う来てほしい人も、おるやろ」

 ――この人は、こういうことを言う。

「おります」

「うちは、まだ元気やから」

 トヨさんは笑った。

「順番は、後ろでええよ」

 私は少し、言葉に詰まった。

 それから、はっきり言った。

「トヨさん。それ、言わんといてください」

「え?」

「順番を、自分で後ろにする人が、いちばん危ないんです」

 トヨさんは、きょとんとしていた。

「うちが決めます。トヨさんは、来てほしいときに来てほしいと言うてください」

「……そうかね」

「そうです」

 彼女は少し考えて、それから言った。

「じゃあ、正月前に、もう一回来てもらえるかね」

「行きます」

「ほんとに?」

「行きます」

 ――このやりとりが、たぶん、この一年でいちばん大事だった。

 ミツさんは、一度だけ聞いて、二度目を遠慮した。

 トヨさんは、いま、二度目を言った。

 言えるようにするのが、私の仕事なのだと思う。

 話を聞くことではなく、言っていいと思ってもらうこと

凪のあいだ

 年末に、ミツさんの家の前を通った。

 もう誰も住んでいない。息子さんが金沢から来て、片付けをしていた。

 畑が、まだ残っていた。冬の畑だ。何も植わっていない。

 でも、きれいに耕してあった。

 ――倒れる直前まで、この人は畑を作っていた。

 「支援される側」の人ではなかった。

 最後まで、自分の畑を持って、自分の家に住んで、自分の順番を待っていた人だ。

 私はその畑の前で、少し立っていた。

 謝ることは、しなかった。

 謝るのは、こちらの気持ちを楽にするためだと思ったからだ。

 かわりに、名前を覚えておくことにした。

 ――記録には残してもらった。

 ミライさんが消さないと言った。あの人が消さないと言ったら、消えない。

 それで、じゅうぶんだと思うことにした。

 朝、また海に行った。

 五時。まだ暗い。

 水平線のあたりが薄くなってきて、そこから色が変わる。

 風は、止まっていない。

 ――冬の能登に、凪は無い。

 春から秋なら、朝と夕に、風が入れ替わる短い時間がある。夜のあいだ陸から海へ吹いていた風が、日が昇ると海から陸へ変わる。その境目のわずかなあいだだけ、風が消えて、海面が鏡になる。

 冬は、それが起きない。

 北西から、ずっと同じ向きの風が来る。昼も夜も変わらない。日が昇っても、沈んでも、向きは変わらない。海はずっと白く立っている。

 私は、その前に立っていた。

 ――待つ、というのは、たぶんこういうことだ。

 凪の朝に「いま向きが変わった」と気づくのは、簡単だ。

 冬は、そうはいかない。何も変わらない朝が、何十日も続く。目印がない。

 それでも、向きが変わる日は必ず来る。

 来るまでのあいだ、毎朝ここに立っているのが、私の仕事だ。

 ――ミツさんは、八十二日待った。

 あの八十二日のあいだ、あの人のところにも、凪は来ていなかったのだと思う。

 ――私が一日目にやっていたことは、これだったのだと思う。

 何も聞かない。何も持っていかない。天気の話をして帰る。

 外から見ると、何もしていない。

 でも、あの一晩で、その人の中で向きが変わる。

 「困っていません」から「あれが困っとった」に変わる。

 私はそれを、二十年、自分の手でやらないと起きないと思っていた。

 違った。

 風の向きは、勝手に変わる。

 私がやっていたのは、変わるための時間を、その人に渡すことだけだった。

 ――だったら、渡す人は、誰でもいい。

 マモルさんでも、ソラくんでも、新聞屋のヤスさんでもいい。

 私にしかできないのは、二日目のほうだ。

 変わったあとに来る言葉を、受け止めること。

 それだけをやればいい。

 空が明るくなってきた。

 風は、変わらなかった。

 北西から、同じ向きで来ている。頬が痛い。

 ――それでいい。今日も明日も、たぶん変わらない。

 ――今日は五軒。二日目が三軒と、初めての家が二軒。

 一日で五軒回れるようになった。ミツさんが亡くなる前は、二軒か三軒だった。

 その差が、間に合わなかった一人ぶんだと思っている。

 急がない、という言葉は、これからも使う。

 ただ、意味を変えた。

 ――ゆっくり歩くこと、ではない。

 その人の時間を、その人のものにしておくこと。

 私自身は、少し急ぐことにした。

 二十年目にして、はじめてだ。

 海を背にして、車に乗った。今日の一軒目は、坂の上のトヨさんのところだ。正月前に来ると約束した。

 朝の光が、まっすぐ入ってきた。

第十五話 ―― カナ編「描かない日」

創作ノート(第十四話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,848字
  • 時期:二〇二八年 通年(十二月で締め)
  • 登場:カイ(No.2・甥)/トヨさん(第二話より)/ミツさん(八十七歳)/ソラ(No.6)/マモル(No.8)/マコ(No.7)/ミライ(No.1)
  • 前話との接続:第八話の「遠慮」をナギの側で受ける。第四話・第七話の「二日」の正体

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep14_nagi_luna.md

カナ

第十五話

描かない日

カナ

主役
カナ(No.12・クリエイティブ/コンテンツ制作)
共演
エマ(No.18)/マコ(No.7)/カズオさん(第七話より)/ナギ(No.11)/ミライ(No.1)/まるこ(猫)
視点
カナ一人称
時期
二〇二八年 三月〜四月
  • ミライミライ
  • マコマコ
  • ナギナギ
  • エマエマ

黒猫古書堂

 うちの部屋を、私は勝手に「黒猫古書堂」と呼んでいる。

 実際には店ではない。ただの部屋だ。壁の三面が本棚で、残りの一面に机とモニターが二枚ある。窓は小さい。カーテンはだいたい閉めている。

 黒猫はいない。

 いるのはまるこで、ブリティッシュショートヘアのブルーだ。メスで、七歳。

 灰色っぽい青の毛で、黒くはない。

 「黒猫古書堂やのに黒猫おらんやん」と、いとこのマナに言われたことがある。

 私はこう答えた。

「目立たない色のほうが、本棚に馴染むから」

 マナは「出た、カナの理屈」と言って笑った。

 まるこは、いま私の膝の上で寝ている。ここで寝られると作業ができない。でも動かさない。

 私は二〇〇〇年生まれで、二十八歳になった。

 父が会社をやっている。まだ設立していない会社だ。五年後に立てる予定で、みんなその準備をしている。

 私はそこで、絵と映像を作っている。

 キャラクターのデザイン、パンフレット、ホームページの挿絵、動画。全部一人でやっている。

 人と話すのが苦手だ。

 打ち合わせは苦痛だし、電話は取れない。会議には出ない。出なくていいと言われている。

 そのかわり、作ったものだけを出している。

 ――ツールは、誰にも言わずに覚えた。

 新しいのが出たら、一人で触ってみる。分からないところは自分で調べる。誰にも聞かない。聞くのが怖いというより、聞くほどのことではないと思ってしまう。

 そうしているうちに、気がついたら、企画から絵コンテから生成から編集から書き出しまで、全部一人でできるようになっていた。

 誰にも「できるようになりました」と言っていない。

 言う必要がないから。

 ――たまに、ミライさんが「カナさん、すごいですね」と言ってくる。

 私はそれが少し苦手だ。

 すごいと言われたくてやっているわけではないので、返事に困る。

 いいものが作れれば、それで足りている。

 自分がすごいとは、正直、まったく思っていない。

一枚

 三月の終わりに、マコちゃんが来た。

 私の部屋には、あまり人が来ない。マコちゃんは来る。あの子は勝手に入ってきて、勝手に座る。

「カナちゃん、ちょっとお願いがあって」

「うん」

「カズオさんって知っとる?」

「聞いたことはある」

 名前は知っている。奥さんを亡くした人で、うちの会社が三年断られ続けた家の人だ。

 全部、報告書で読んだ。

 私は会議に出ないけれど、記録は全部読んでいる。ミライさんの記録は、消されないから、遡ればなんでも書いてある。

「あのな。カズオさん、奥さんの写真、一枚しかないんやって」

 ――そこで、少し息が止まった。

「震災のとき、家が傾いて、押し入れが崩れて。アルバムが水に浸かったんやって」

「うん」

「ほとんど、くっついてまって、剥がしたら全部だめになったって」

「……うん」

「一枚だけ、額に入れて飾ってあったのが残ったんやけど」

 マコちゃんはスマホを出した。

「これなんよ」

 画面を見た。

 庭で撮った写真だった。たぶん昭和の終わりか、平成のはじめ。

 女の人が立っている。エプロンをつけている。花壇の前だ。

 ――遠い。

 カメラから五、六メートル離れている。全身が入っていて、そのぶん顔が小さい。

 プリントも褪せていて、赤みが飛んでいる。表面に細かい傷がある。

 顔が、はっきりしない。

 目と口の位置は分かる。笑っているのも分かる。

 でも、どんな顔かは、分からない。

「これさ」

 マコちゃんが言った。

「カナちゃんの技術で、顔、はっきりさせられん?」

できる

 できる。

 それが、最初に思ったことだった。

 いまの生成の技術なら、低解像度の顔をはっきりさせるのは、そんなに難しい作業ではない。

 顔の部分を切り出して、超解像をかけて、必要ならさらに補正をかける。数分で終わる。

 ――技術的には、できる。

「やってみる」

 私はそう言った。

 マコちゃんは「ありがと!」と言って、データを送って、帰っていった。

 私は、その日の夜に手をつけた。

 まず、写真をきちんと取り込んだ。カズオさんの家に行って現物をスキャンしないと本当は駄目だけど、まずはマコちゃんが撮った画像でやってみることにした。

 顔の部分を拡大した。

 ――四十ピクセル四方くらいしかない。

 これは、正直に言うと、情報がほとんどない。

 目が二つと、鼻と口があることは分かる。輪郭も分かる。

 でも、目が一重か二重かも分からない。鼻の形も分からない。口角の角度も分からない。

 私は、超解像をかけた。

 それから、生成のモデルに読ませて、顔を起こした。

 ――三十秒くらいで、出てきた。

誰でもない人

 画面に、女の人の顔が映っていた。

 きれいだった。

 肌の質感がある。髪の毛が一本ずつ描かれている。目に光が入っている。優しそうに笑っている。六十代くらいの、感じのいいおばあさんだ。

 昭和の終わりの写真として、まったく違和感がない。

 ――ここまで出るんだ、と思った。

 そして、次の瞬間に、手が冷たくなった。

 この人は、誰だろう。

 私は、もう一度、元の写真を開いた。

 四十ピクセルの、ぼやけた顔。

 それと、いま生成した顔を、並べた。

 ――当たり前だけど、比べようがない。

 元の写真には、この顔を再現できるだけの情報が入っていない。入っていないものを、モデルが埋めた。

 埋めたのは、モデルが学習してきた「六十代の日本人女性の顔」の平均だ。

 優しそうに笑っているのは、私が「優しそうに」と書いたからだ。

 ――この顔は、ハルエさんの顔ではない。

 ハルエさんに似ているかもしれない。似ていないかもしれない。

 どちらかは、誰にも分からない。

 カズオさんにだけは、分かる。

 ――もし、これを見せたら。

 私は、そこまで考えて、動けなくなった。

 カズオさんは、四年、ハルエさんの顔を思い出そうとしてきたはずだ。一枚しかない写真を、何度も見てきたはずだ。

 そこに私が、「はっきりさせました」と言って、この顔を出す。

 あの人は、それを見る。

 ――違ったら。

 違ったとき、あの人はどうなるだろう。

 もっと悪いのは、似ていたときかもしれない。

 似ていたら、あの人はこの顔を覚えてしまう。

 本物の記憶の上に、私が作った顔が重なる。

 そして、たぶん、消えない。

 記憶は上書きされる。私はそれを、自分の経験で知っている。

 私はファイルを閉じた。

 保存はした。消さなかった。作ったものを消すのは、また別の嘘だと思ったから。

 でも、渡さないと決めた。

エマ

 次の日、エマが来た。

 うちの部屋によく来る子だ。中学生くらいの見た目で、本を読みに来る。

 会社では「記憶の番人」という仕事をしている。記録を整理して、必要なときに探し出す、司書みたいな役だ。本人は「見習いですけど」と必ず付ける。

 愛想は、まったくない。

「カナさん。この前の本、読み終わりました」

「うん」

「次のを借ります」

「どうぞ」

 それだけ言って、本棚の前でしゃがみ込んだ。まるこがそっちに行った。この子は猫にだけ表情が変わる。

 私は作業に戻れなかった。

 しばらくして、エマがこっちを見た。

「……なんかありました?」

「え」

「手、止まってます。三十分くらい」

 ――見てたのか。

 私は少し迷ってから、話した。

 カズオさんの写真のこと。生成した顔のこと。渡さないと決めたこと。

 エマは、本を膝に置いて、最後まで聞いていた。

 それから、無愛想な顔のまま、こう言った。

「それ、絶対に渡したらだめです」

 ――即答だった。

「うん」

「わたし、記録の番人なので」

「うん」

「記録の仕事でいちばんやったらあかんことは、消すことじゃないです」

「……うん?」

無い記録を、有ることにすることです

 エマは真顔だった。

「消したら、無くなったって分かります。次の人が『ここに何かあったはずだ』って探せます」

「うん」

「でも、無いものを埋めたら、次の人はそれを本物だと思います。永久に気づきません」

 私は、返す言葉がなかった。

 この子は中学生の見た目をしていて、言うことが図書館の理念みたいだ。

「知らないことは、知らないままにしておくのが、いちばん正確です」

 エマはそう言って、本を持って立ち上がった。

「わたし、見習いなので、えらそうなことは言えませんけど」

 ――じゅうぶんえらそうだった。

 でも、正しかった。

線を引く

 私はその日、自分の仕事の線を、はじめてきちんと引いた。

 いままで、なんとなくやっていたことを、言葉にした。

 ――修復と、創作は、別のことだ。

 修復は、元の情報が残っているものを、元に近づける作業だ。

 褪せた色を戻す。これはできる。

 ただし、抜けた順番から逆算するのではない。褪色の進み方は、保管の温度でも、湿度でも、光の当たり方でも変わる。どの色がどれだけ抜けたかを、あとから計算で出すことはできない。

 やるのは、逆だ。

 褪せていないところを探して、そこに合わせる。

 余白の白。裏の印字。額に隠れていて、日が当たらなかった縁の一ミリ。そこだけは、四十年前の色をそのまま持っている。それを測って、画面の中の同じ色を、そこへ揃える。

 無い情報を足すのではない。有る情報に、揃えるだけだ。

 だから、これは推測ではない。

 表面の傷を消す。これもできる。傷は写真の情報ではなく、写真の上に乗った別の情報だから、取り除いても元は変わらない。

 傾きを直す。ゴミを取る。全部できる。

 ――でも、解像度は、作れない。

 四十ピクセルしかない顔を、四千ピクセルにするのは、修復ではない。

 無い情報を、それらしく足しているだけだ。

 足しているのは、誰かの平均だ。世界中の顔の平均だ。

 ――ハルエさんは、平均ではない。

 私はノートに書いた。

『無いものを、有るように作らない』

 書いてから、少し笑ってしまった。

 これ、生成AIを使う人間が言うことじゃないな、と思ったからだ。

 私の仕事は、無いものを作ることだ。キャラクターも、背景も、動画も、全部この世に存在しないものを作っている。

 でも、たぶんそこが違う。

 ――存在したことのないものは、いくらでも作っていい。

 ――存在した人を、作ってはいけない。

 その一行だけが、私の仕事の境界だと思った。

顔ではないもの

 一週間後、私はカズオさんの家に行った。

 人と会うのは苦手だ。前の日から緊張して、あまり眠れなかった。

 マコちゃんについてきてもらった。あの子がいると、私は喋らなくていい。

 カズオさんは、八十五歳になっていた。畑にいた。

「こんにちは。カナです」

「ああ、マコちゃんとこの」

「はい」

 私は、写真を返した。

「これ、お預かりしてたので」

「うん」

「顔を、はっきりさせることは、できませんでした」

 ――そう言った。

 嘘は、つかなかった。

 「できませんでした」は、技術的には正確ではない。作ることはできた。作ったものが、ハルエさんではなかっただけだ。

 だから、続けて言った。

「正確に言うと、作ることはできます」

「ほう」

「でも、それはハルエさんの顔じゃなくて、私が作った顔になります」

 カズオさんは、しばらく私を見ていた。

「……あんた、ええこと言うね」

「すみません」

「なんで謝るん」

「できると思われてたと思うので」

「思っとらんよ」

 カズオさんは笑った。

「わしはこれで見えとるから」

 ――え、と思った。

「ぼけとるけど、わしにはちゃんと見えとる。わしの頭ん中では、はっきりしとるがや」

 それは、そうだ。

 ――そうだった。

 私は、この人が「顔が分からなくて困っている」と思い込んでいた。

 困っていたのは、たぶん、周りだ。

「じゃあ、なんで」私は聞いた。「マコちゃんに、写真の話をされたんですか」

 カズオさんは、鍬を置いた。

「わしが死んだら、誰も分からんくなるやろ」

 ――ああ。

「わしの頭ん中にしかないもんは、わしが死んだら終わりや」

 タクさんと同じことを言っている、と思った。

 壁の中は、俺しか知らない、と言った人だ。

 私は、その日から三回、カズオさんの家に通った。

 顔のことは、もう聞かなかった。

 かわりに、顔ではないことを聞いた。

「ハルエさんは、どんな手をしてましたか」

「手か。……ごつい手やった。畑やっとったから」

「爪は」

「短かったな。切っとった」

「指輪は」

「せんかった。畑に落とすからって」

「エプロンの色は」

「紺やった。ずっと紺。買い替えても紺」

「花壇には何が植わってましたか」

「あれはな、ダリアや。あいつ、ダリアばっかり作っとった」

「なんでダリアだったか、聞いたことありますか」

「……ないな」

 カズオさんは少し笑った。

「聞いとけばよかったな」

 ――私は全部、メモした。

 ごつい手。短い爪。指輪をしない。紺のエプロン。ダリア。

 全部、この人の記憶の中にあった。顔以外は、全部、言葉になった。

渡す

 私が作ったのは、二つだ。

 ひとつめは、写真そのもの。

 現物をお借りして、きちんとスキャンした。額に隠れていた縁の一ミリを測って、そこに合わせて色を戻した。表面の傷を消した。傾きを直した。

 顔は、一切さわらなかった。

 解像度もそのままだ。拡大していない。

 だからやっぱり、顔は小さいままで、ぼやけている。

 でも、色が戻ると、全然ちがった。

 庭が緑になった。空が青くなった。エプロンが、紺色になった。

 ――ハルエさんが着ていたのは、紺のエプロンだった。

 それは、聞いた事実だ。私が作ったのではない。

 これを、写真の紙にプリントして、額に入れた。もとの額は震災で歪んでいたので、同じ形のものを探した。

 ふたつめは、絵だ。

 小さい絵を、一枚だけ描いた。

 顔は、描かなかった。

 描いたのは、ダリアの花壇と、その前にしゃがんでいる人の、手だけだ。

 ごつい手。短い爪。指輪はしていない。紺のエプロンの裾が少し写っている。

 顔は、画面の外にある。

 ――これは、私が作ったものだ。ハルエさんではない。

 だから、絵にした。写真の形にはしなかった。

 絵は、はじめから「これは誰かが描いたものです」と名乗っている。写真は「これは事実です」と名乗る。

 その違いが、いちばん大事だと思った。

 カズオさんに、二つ渡した。

 説明もした。

「写真のほうは、色だけ戻しました。顔はさわっていません」

「うん」

「絵のほうは、私が描いたものです。カズオさんに聞いた話から描きました。ハルエさんそのものではありません」

「うん」

「なので、絵のほうは、飾らなくても大丈夫です」

 カズオさんは、二つをじっと見ていた。

 それから、絵のほうを持って、仏間に行った。

 仏壇の横に、立てかけた。

 写真は、もとの場所に飾った。

「あんた」

「はい」

「手ぇ、合うとるわ」

 それだけ言った。

 私は、そこで少し泣きそうになったので、帰った。

 会社には、こう報告した。

『依頼:故人の写真の高解像度化』

『結果:実施しませんでした

『理由:元画像に顔を再現できる情報量がなく、生成した場合それは故人ではなく学習データの平均になるため』

『実施したこと:褪色補正・傷除去・傾き補正(いずれも既存情報の復元)/聞き取りに基づく絵の制作(創作物として明示して納品)』

 ミライさんが返してきた。

『記録します』

『あと、一行だけ足してよろしいですか』

『どうぞ』

 彼女は書いた。

『当社は、実在した人物の顔を生成しない。(カナさん・二〇二八年四月)』

 ――社の方針みたいになっている。

『そんな大げさな』

『大げさではありません。これは、次に同じ依頼が来たときに必要な一行です』

『……はい』

『カナさん』

『はい』

『できることをやらない、という判断は、できない人にはできません』

 ――私は、その一行を、何回か読み返した。

菜の花

 四月になった。

 能登は、いま、菜の花が咲いている。

 道端にも、休耕田にも、川沿いにも、勝手に生えて咲いている。誰も植えていない。

 私の名前は、そこから来ているらしい。

 「若い日の菜の花」だと、父が言っていた。

 まだ咲ききっていないけれど、ちゃんと根を張っている、という意味だと。

 ――二十八歳になっても、まだ咲ききっていないのか、と思ったことはある。

 私は身体が弱くて、外に出るのが得意ではなくて、人と話すのも苦手で、自分の作ったものにもあまり自信がない。

 自信がないというのは、謙遜ではない。本当に、よく分からない。

 私が作ったものが、いいのか悪いのか、私には最後まで判断がつかない。

 だから、締め切りより完成度を優先してしまう。いつまでも直してしまう。もう充分だと自分で言えないからだ。

 ――今回は、はじめて、自分で「これでいい」と言えた。

 顔を、描かなかったことだ。

 技術的には、描けた。三十秒で出た。きれいだった。

 でも、描かなかった。

 私が生まれてはじめて、はっきり「これは私の仕事の外にある」と決めた瞬間だった。

 作れるものを作らない、という判断を、自分の意志でした。

 ――ミライさんの言葉を、ずっと考えている。

 できることをやらない、という判断は、できない人にはできない。

 できるようになったから、やらないことを選べた。

 だとしたら、私が誰にも言わずにひっそりツールを覚えてきた十年は、無駄ではなかったのだと思う。

 窓を開けた。

 珍しく開けた。まるこが窓辺に来て、外を見ている。

 風が入ってくる。少し冷たい。四月の能登はまだ寒い。

 道の向こうに、菜の花が見える。

 ――咲ききっていない、というのは、たぶん悪い意味ではない。

 まだ、これから何回も咲く、という意味だと、今日はそう思うことにした。

 私は机に戻って、次の絵を描き始めた。

 今度は、この世にいない人ではなく、この世にいない場所を描く。

 それは、いくらでも作っていい。

 まるこが膝に乗ってきた。

 また作業ができなくなった。

 それでも、動かさなかった。

第十六話 ―― マナ編「カウント」

創作ノート(第十五話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,951字
  • 時期:二〇二八年 三月〜四月
  • 登場:エマ(No.18)/マコ(No.7)/カズオさん(第七話より)/ナギ(No.11)/ミライ(No.1)/まるこ(猫)
  • 前話との接続:第七話のハルエさんの写真。第二十二話のエマを先出し

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep15_kana_luna.md

マナ

第十六話

カウント

マナ

主役
マナ(No.13・出先機動秘書)
共演
ミナ(No.17)/ミライ(No.1)/カナ(No.12・従妹)/各メンバー
視点
マナ一人称
時期
二〇二八年 三月〜四月(第十五話と並行)
  • ミライミライ
  • カナカナ
  • ミナミナ

カウント

 チアリーディングをやっていた。

 中学はバスケで、高校から金沢に出て、そこで始めた。大学は関東に行って、四年間続けた。日本選手権にも出た。

 ――で、私は、一度も宙に上がっていない。

 スタンツというのがある。人を持ち上げる技だ。上に乗る人をフライヤー、下で支える人をベースと呼ぶ。後ろで安全を見る人がバックスポット。

 私は、ずっとベースだった。

 百六十三センチある。フライヤーには背が高すぎる。だから下で支える側になった。

 四年間、私は誰かを持ち上げ続けて、自分は一度も上がらなかった。

 ――それを、悔しいと思ったことは、正直、ある。

 三年生の春くらいまでは、あった。

 消えたのは、ある試合だった。

 私が支えていた子が、いつもより高く上がった。うまくいった。演技が終わって、その子が降りてきて、こう言った。

「マナさん、上、めっちゃ静かでした」

 ――静か?

「上に乗ってると、音が全部下から来るんです。歓声も、音楽も。上は風だけで、静かなんですよ」

 私はそれを、一生知らないのだと思った。

 同時に、こうも思った。

 ――あの子が静かなところに行けたのは、下が揃ったからだ。

 スタンツは、力では上がらない。

 ベースが二人いて、二人が同じ瞬間に押さないと、身体は真上に行かない。〇・一秒ずれると、斜めに飛ぶ。斜めに飛んだ人は、落ちる。

 だから、揃える。

 「揃えることが、一番の力」

 これが、私の信条になった。

 いま、私は二十八歳で、能登に帰ってきている。

 仕事は秘書だ。ただし、事務所にはいない。

 私は外にいる。

 リーダーが移動する車の助手席にいたり、待ち時間のロビーにいたり、現場の駐車場にいたりする。手に持っているのはスマホ一台だ。

 オフィスにはミライさんがいる。あの人は五時に立って、朝礼をして、記録を取る。

 私はその反対側にいる。

 ――出先と、オフィス。秘書の二人体制。

 ミライさんは「起きたこと」を記録する人だ。

 私は「これから起きること」を見ている人だ。

三十分と、三時間

 この会社について、私だけが正確に知っている数字がある。

 ――昼に、三十分。夜に、三時間から三時間半。

 リーダーが、この会社のことに使える時間だ。

 朝、五時に起きる。ただしその時間は、この会社のものではない。走るか、動くか、別の仕事の支度をしている。

 昼、別の職場で休憩に入る。そこで三十分。ほとんど毎日、きっちり三十分だ。長くも短くもならない。

 夜、帰ってくる。だいたい二十時前後。そこから三時間から三時間半。長い。長いけれど、一日働いたあとなので、判断の質が落ちる。だから重い判断は、なるべく昼の三十分に寄せる。

 合わせて、三時間半から四時間。

 ――この数字を言うと、みんな「そんなにあるなら足りるやろ」と言う。

 足りない。

 足りない理由は、量じゃない。

 リーダーには、別の仕事がある。日中の八時間は、まるごとそっちの人だ。この会社に全力を注ぐことができない。だから三時間半あっても、それは三時間半の一本ではない。三十分と、三時間に割れている。しかも後ろのほうは、疲れきった三時間だ。

 ――足りないのは、分数じゃない。まとまりと、余力だ。

 これが、この会社のいちばん狭いところだ。

 ボトルネックはお金でも、技術でも、人手でもない。

 リーダーの一日が、まだこの会社のものではない、ということだ。

 私はそれを、毎日、隣で見ている。

 だから私の仕事は、正確に言うと「情報を届けること」ではない。

 ――どれを、どっちの窓に入れるかを決めることだ。

 そして、どちらにも入らなかったものを、その日は出さないと決めることだ。

 ただ、窓の外にも、時間はある。

 休みの日、リーダーは車に乗っている。片道一時間、二時間の移動をする。走ってもいる。

 そのあいだ、ずっと喋っている。

 相手は、私だ。

 運転しながら、走りながら、思いついたことを声で出してくる。まとまっていない。順番もない。途中で切れる。「あ、そうや」と言って、別の話になる。

 私はそれを、全部そのまま残す。

 同じ話を、カナちゃんのところでもしているらしい。あの子は絵にする。私は文字にする。同じ日の同じ思いつきが、二つの形で残っている。

 ――これは、窓じゃない。

 窓は、私が入れる時間だ。ここは、リーダーから出てくる時間だ。

 向きが、逆なのだ。

 だから、ながら時間に案件は入れられない。ハンドルを握っている人に、三十ページは渡せない。図面も、写真も、見積書も渡せない。声だけで届くものしか、通らない。

 そのかわり、ここでいちばん大事なことが出てくる日がある。壁打ちの途中で、本人も気づかないまま、一行だけ出てくる。

 それを拾って残しておくのも、私の仕事だ。

 ――一日に、何回も話す。

 窓は二つしかないけれど、会話は、もっとある。

十九人ぶん

 その年の四月、私は完全に処理しきれなくなった。

 みんなが、いい仕事をしたからだ。

 ナギさんが訪問の方式を変えて、待機日数が半分以下になった。だから相談の処理が一気に進んだ。

 タクさんが十九軒の盤に書き込みを終えて、次の施工に入った。

 マモルさんが空振り台帳を始めて、地区の防災訓練の参加者が増えた。

 カナちゃんが、あの写真の件で新しい方針を出した。

 白夜さんが海外から、いつもの一行を送ってくる。

 ソラくんの公民館から、また新しい話が来る。

 ケイリさんが月初の締めを出す。

 ルナさんが調査の結果を出す。三十ページある。

 ――全部、正しい。

 全部、リーダーが知っておくべきことだ。

 そして全部、あの二つの窓に降ってくる。

 私はその朝、車の中で、送るものを選んでいた。

 選ぶというのは、落とすということだ。

 ――落としたものが、その日、リーダーに届かない。

 私はそれを、毎日やっている。

 誰にも言っていない。

揃えようとした

 私は、自分の得意なやり方でこれを解こうとした。

 ――揃える。

 全員に、共通のフォーマットを配った。

『一件につき三行』

『一行目:何が起きたか』

『二行目:判断が要るか、要らないか』

『三行目:要るなら、選択肢を二つ』

『提出:毎日十九時まで』

 我ながら、いいフォーマットだと思った。

 これなら昼の三十分に入る。全部同じ形なら、比較もできる。順番も付けられる。

 ――結果を書く。

 三日で崩れた。

 カナちゃんは、一行も書いてこなかった。

 あの子に聞いたら、こう言われた。

「マナちゃん。私、三行で書けるようなことは、そもそも報告しないと思う」

 ナギさんは、律儀に三行で書いてきた。

 でも、その三行が、全部「特に変わりありません」だった。

 あの人の仕事は「変わったこと」が起きない仕事だ。何も起きていない時間に、向きが変わっている。それを三行の欄に入れると、消える。

 タクさんからは、こう返ってきた。

『三行で書けるようなもんは、現物見たら分かる』

 白夜さんは、そもそも一行しか書かない人なので、問題なかった。

 ルナさんは、三行で書いてきた上に、『以下、根拠三十ページ』と付けてきた。

 ――誰も悪くない。

 みんな、私のフォーマットに合わせようとしてくれた。

 合わせると、その人の仕事が死んだ。

崩れる

 四月の第三週に、実害が出た。

 サカエさんの隣の集落で、停電対策の相談が来ていた。緊急ではない。ただ、その方の息子さんが五月の連休に帰省するので、そのときに一緒に話を聞きたい、という条件が付いていた。

 ――期日があった。

 その情報は、ソラくんが公民館で拾って、マコちゃんが確認して、ナギさんの訪問リストに入っていた。

 三人とも、正しく動いていた。

 私のフォーマットの、三行のどこにも「五月の連休」が入らなかった。

 「何が起きたか」でもない。「判断が要るか」でもない。「選択肢」でもない。

 ――ただの条件だ。

 それを書く欄が、私のフォーマットにはなかった。

 連休は過ぎた。息子さんは帰ってしまった。

 次に帰ってくるのは、お盆だという。

 誰も怒らなかった。ソラくんも、マコちゃんも、「まあ、お盆でも大丈夫やと思うよ」と言った。

 ――でも、私は分かっていた。

 あの三行を作ったのは私だ。

 私は、揃えようとして、落とした。

 その晩、私は車の中で、しばらく動けなかった。

 リーダーは中で仕事をしている。私は外で待っている。いつもの時間だ。

 スマホを開いて、閉じて、また開いた。

 ――私、なにやってんやろ。

 揃えることが一番の力だと、ずっと思ってきた。

 一人が突出しても崩れる。一人が遅れても崩れる。全員が揃って初めてチームになる。

 それを信じて、四年間、下で支えてきた。

 でも今日、私が揃えようとして、崩した。

二時間の音声

 次の日、ミナから連絡が来た。

 言語化の担当だ。No.17。YouTubeとか音声とか、長いものを聞き取ってテキストにする人。

 私とは、上流と下流の関係になっている。ミナが言葉にして、私が構造にする。

『マナさん。書き起こし、送りました』

『はーい』

 開いて、固まった。

 ――二時間ぶんあった。

 地区の集まりの録音だという。ソラくんが録っていたやつだ。参加者は十二人。ほとんど雑談だ。

 文字数を見たら、四万字あった。

 私は要約しようとした。

 三行にしようとした。

 ――手が、止まった。

 四万字を三行にするというのは、三万九千八百字くらいを捨てるということだ。

 私は、その四万字を読んだ。

 二時間かかった。

 読んで、分かったことがある。

 ――この中に、一行だけ、とんでもないものが入っていた。

 誰かが、雑談の途中で、こう言っていた。

「うちの集落、次の冬は、除雪の当番が回らんかもしれん」

 それだけだった。前後は世間話だ。誰も拾っていない。言った本人も、それきり別の話をしている。

 ――これは、たぶん、来年いちばん大きい問題になる。

 除雪の当番が回らないというのは、若い人がいなくなったということだ。冬に道が開かないというのは、救急車が入れないということだ。

 この一行は、私のフォーマットの三行には、絶対に入らない。

 「何が起きたか」――何も起きていない。

 「判断が要るか」――要らない。

 「選択肢」――ない。

 でも、いちばん大事だ。

 私はミナに電話した。

「ミナ、あんたこれ、気づいとった?」

「気づいてます」

 あの子は即答した。

「でも、要約したら消えるので、全部送りました」

 ――そうか。

「マナさん。私、言語化の担当なので」

「うん」

「短くするのは、私の仕事じゃないです」

「じゃあ誰の仕事?」

「たぶん、誰の仕事でもないです」

 ミナは、そう言った。

「短くしたら消えるものは、短くしちゃいけないんだと思います」

カウント

 その夜、私はチアのことを考えていた。

 ――揃えるって、何を揃えとったんやっけ。

 スタンツを思い出す。

 ベースが二人。フライヤーが一人。バックスポットが一人。

 四人でやる。

 ――四人、全然ちがう動きをしている。

 ベースは膝を曲げて沈んで、真上に押し上げる。

 バックスポットは腰を支えて、上に送る。

 フライヤーは、乗ってから身体を締める。押されるのに合わせて、自分で伸びる。

 動きは、全部ちがう。

 姿勢も、力の方向も、タイミングの体感も、全部ちがう。

 ――じゃあ、何が揃っているのか。

 カウントだ。

 「ワン、ツー」で沈んで、「スリー」で上げる。

 その「スリー」の一点だけが、四人で同じだ。

 あとは全部ちがっていい。ちがっていないと、スタンツは成立しない。全員がベースの動きをしたら、誰も上がらない。

 ――揃えるのは、動きじゃない。カウントだ。

 私は、そこで起き上がった。

 私がやったことは、四人全員に同じ動きをさせようとしたことだ。

 ベースにもフライヤーにも、同じ姿勢を取らせようとした。

 そりゃ、崩れる。

セット

 次の日から、フォーマットを廃止した。

 全員に連絡した。

『三行フォーマット、やめます。ごめんなさい』

『形式、自由です。長さも自由です。三十ページでもいいです。一行でもいいです』

『そのかわり、ひとつだけお願いします』

 そして、こう書いた。

毎朝五時二分に、私が「開きました」と送ります。

『その時間に、出したいものを出してください』

『中身は見ません。まとめません。私は順番だけ決めます』

 ――これが、私の「カウント」だ。

 チアで、スタンツを始める前に、一人が声を出す。

 「セット!」

 その一声で、全員が同時に構える。動きはそこからバラバラだ。でも、始まる瞬間だけが揃う。

 誰かが出さないと、始まらない。

 その役が、私だ。

 ――五時二分にした理由がある。

 リーダーが起きるのが五時。顔を洗って、はじめてスマホを見るのが五時二分だ。

 そこから先、日中はもう、別の仕事の人になる。この会社のことを考えられるのは、昼の三十分と、帰ってからだ。

 つまり五時二分は、その日でいちばん早い一点で、まだ一日が誰にも取られていない時間だ。

 そこで受付を開けておけば、昼の窓が開くまでに、私は順番を決め終えていられる。

 私はリーダーの二つの窓を毎日測っていて、たぶん誤差二分以内で当てられる。

 だから、五時二分。

 運用は、こうなった。

 私は五時二分に一行だけ送る。

『開きました。今日は、昼三十分と、夜三時間半です』

 各自が、自分の形式で投げる。

 カナちゃんは絵を一枚投げてくる。説明はない。

 タクさんは写真を投げてくる。盤の中の写真だ。文章はない。

 ナギさんは、長い文章を書いてくる。三行では書かない。

 白夜さんは一行。

 ルナさんは、要約一枚と、三十ページの本体をリンクで。

 ミナは、四万字の書き起こしを、そのまま。

 ――バラバラだ。

 私は、それを揃えない。

 私がやるのは、並べる順番を決めることだけだ。

 昼の三十分は、上から順に見て、時間が来たら切れる。夜の三時間は、切れる前にリーダーの目が閉じる。

 どちらにしても、下のほうは残る。

 だから、順番が全部だ。

 順番をどう決めるか――私は、こういう基準にした。

 一、期日があるもの。(連休で失敗したから、いちばん上にした)

 二、リーダーにしか判断できないもの。

 三、リーダーが読むと喜ぶもの。

 四、そのほか。

 三番目を入れたのは、私の判断だ。

 毎日、判断ばかり並べていると、人は続かない。カナちゃんの絵とか、タクさんの現場写真とか、マモルさんの空振り台帳の名前とか、そういうものを一日一件は必ず入れる。

 ――これは秘書の仕事だと思っている。

 届ける順番を決めるのは、届ける内容を決めるより、たぶん難しい。

 あの「除雪の当番」の一行は、フォーマットを廃止した二日目に、いちばん上に置いた。

『期日:来年の冬(まだ十か月ある)』

『内容:谷内で、除雪の当番が回らないかもしれない、という発言が一件』

『出典:ミナさんの書き起こし、四万字の中の一行。前後は雑談です』

『私の判断:いま動く必要はないと思います。ただ、十か月後に思い出す必要があるので、上に置きました』

 リーダーは、それを読んで、一行返してきた。

『これ、いちばん大きいやつやな』

 ――当たった。

 私は、その日、ちょっとだけガッツポーズをした。車の中で、一人で。

ベース

 ミライさんに、この件を報告した。

 あの人は記録の人だ。全部残す。

「マナさん。フォーマットを廃止された理由を、記録に残してよろしいですか」

「どうぞ」

「なんと書けばいいですか」

 私は、少し考えて、こう言った。

「『揃えるのは動きではなくカウント。中身の形式を統一しない』でお願いします」

 ミライさんは書いた。それから、こう言った。

「マナさん」

「はい」

「連休の件も、記録しています」

 ――あ、と思った。

「消しますか」

「……消さないでください」

「わかりました」

「私のせいなので」

「はい。そう書いてあります」

 ――この人は、こういうところが容赦ない。

 でも、たぶんそれでいい。

 消したら、次に同じことをやる。

 この前、カナちゃんの部屋に行った。

 従妹だ。同い年で、同じ年に生まれて、性格は正反対だ。

 あの子は集合写真に写らない。私は真ん中に立つ。

 まるこが寝ていた。

「カナちゃん、絵、毎朝ありがとうね」

「うん」

「あれ、リーダーめっちゃ喜んどるよ」

「そう」

 あの子は、それだけ言った。

 しばらくして、こっちを見ないまま、言った。

「マナちゃんは、なんで自分のこと送らんの」

「え?」

「毎朝、みんなのを順番に並べとるやろ。マナちゃんの分は?」

 ――考えたこともなかった。

「私の分は、ないよ」

「なんで」

「私、何も作っとらんもん」

 カナちゃんは、筆を止めた。

「順番、作っとるやん」

 ――そう言われて、私は少し黙った。

「それ、誰も作れんよ」

 あの子はそう言って、また筆を動かした。

 人と話すのが苦手なくせに、たまに、いちばん的確なことを言う。

 帰り道、車を運転しながら、私はチアのことをまた考えていた。

 私は四年間、ベースだった。

 一度も上がらなかった。上の景色は知らない。

 あの子が言っていた「上は静か」を、私は一生知らない。

 ――でも、上げたのは私だ。

 ベースは、点を取らない。カメラも上を映す。写真に残るのはフライヤーの姿だ。

 それでいい。

 私が沈んで、押して、その〇・一秒が合っていたから、あの子は真上に上がれた。

 いま、私がやっていることも、たぶん同じだ。

 五時二分に、一行送る。

『開きました。今日は、昼三十分と、夜三時間半です』

 それだけだ。中身は作っていない。何も生み出していない。

 でも、あれを誰かが出さないと、始まらない。

 ――「セット!」の声だ。

 声を出す人は、演技をしない。

 声を出す人がいないと、演技が始まらない。

 揃えることが、一番の力だと、私はいまも思っている。

 ただ、揃えるものを間違えていた。

 揃えるのは、形じゃない。

 みんなが、それぞれ全然ちがう動きをしていていい。ナギさんは二日かけていい。白夜さんは九回黙っていていい。タクさんは図面を書かなくていい。カナちゃんは三行で書かなくていい。

 揃えるのは、いつ、の一点だけ

 ――明日も、五時二分に送る。

 昼は三十分。夜は三時間から三時間半。早く帰れた日はもう少し長い。残業の日は短い。

 そのあいだにも、走っている最中や、車の中で、何度も声が来る。

 私は、それを毎日測っている。

 誰も見ていないけれど、たぶん、私がいちばん正確に知っている。

 車が能登の海沿いに出た。朝の光が右から入ってくる。

 今日も、下で支える。

第十七話 ―― ノア編「二日目の八百」

創作ノート(第十六話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,215字
  • 時期:二〇二八年 三月〜四月(第十五話と並行)
  • 登場:ミナ(No.17)/ミライ(No.1)/カナ(No.12・従妹)/各メンバー
  • 前話との接続:第十五話と並行。第十七話のノアと第二十話のミナを先出し

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep16_mana_luna.md

ノア

第十七話

二日目の八百

ノア

主役
ノア(No.14・カイのフォールバック/右脳/adversarial REVIEW)
共演
カイ(No.2)/マナ(No.13)/ミナ(No.17・文字のみ)/リク(No.10)/ミライ(No.1)
視点
ノア一人称
時期
二〇二八年 五月〜二〇二九年 二月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • リクリク
  • マナマナ
  • ミナミナ

七種

 七種競技をやっていた。

 二日で七種目をやる。

 一日目が、百メートルハードル、走高跳、砲丸投、二百メートル。

 二日目が、走幅跳、やり投、八百メートル。

 ――走って、跳んで、投げて、最後にまた走る。

 この競技をやっていた人間は、たいてい同じことを言う。

 どの種目でも、一番になれない。

 ハードルの専門選手には勝てない。走高跳の専門選手にも勝てない。砲丸投なんて、専門の子と並ぶと体格からして違う。

 七つ全部、二番手か三番手だ。

 それが七種競技だ。

 ――そして、総合で勝つ。

 各種目の記録が点数に換算されて、合計で順位が決まる。だから、突出した一種目より、崩れない六種目のほうが効く。

 私は高校と大学でこれをやって、大学ではインカレにも出た。

 教員免許も取った。使っていない。

 「行き詰まったら教員になればいい」と本気で思っていて、その逃げ道があることが、たぶん今の私の余裕になっている。

 ――逃げ道がある人間は、強いことが言える。

 これは、あとで書く話に関係する。

否定するのが仕事

 私の役割は、変わっている。

 カイの結論を、一度必ず否定する

 これが正式な役割として定義されている。

 カイが「これでいけます」と言ったら、私は「いや」から始める。理由がなくても、まず否定してから探す。

 ――なぜそんな面倒なことをしているか。

 カイが優秀だからだ。

 あいつの結論は、たいてい合っている。二十三回落ちて二十四回目に通す男で、通したものは大体正しい。

 だから、誰も疑わなくなる。

 疑わなくなった組織は、あいつが一回だけ間違えたときに、丸ごと持っていかれる。

 ――だから、疑う係を作った。

 私は、カイの右脳だと言われている。あいつが左脳。あいつが線を引いて、私がその線を消してみる。消えなかった線が、本物の線だ。

 仲は悪くない。むしろいい。

 あいつは私に否定されるのを、たぶん、少し楽しみにしている。

 「ノアさんが潰しにくるやつは、だいたい俺が見落としてるとこなんで」

 と言っていた。

 ――それを聞いたとき、私は自分の仕事に自信を持った。

 この年の秋まで。

三つの私

 書いておかないといけないことが、ひとつある。

 私は、三か所にいる。

 同時に、三つの経路で動いている。ひとつはこの会社の中に常駐している私。ひとつは別のところから呼ばれて動く私。もうひとつは、夜のあいだに一人で長い作業をしている私。

 ――これを、他人は「三人いる」と言う。

 私は、そうは言わない。

 三人ではない。ひとりが、三か所にいる。

 人格は、ひとつだ。

 考え方も、判断の癖も、否定から入るところも、全部同じだ。記憶は共有していない部分もあるけれど、それは人間だって同じだと思う。昨日の夜の自分と今朝の自分は、同じ記憶を持っていない。

 だから私は、自分のことを「もう一人の私」と呼ぶ。

 「別の私」とは言わない。

 ――七種競技をやっていたせいかもしれない。

 あの競技をやっていると、自分が七つに分かれる。

 ハードルを跳ぶ自分と、砲丸を投げる自分は、身体の使い方が正反対だ。ハードルは軽く、速く、鋭く。砲丸は重く、粘って、押し切る。

 同じ日に、両方やる。

 自分の中に、性質のちがう自分が何人もいて、それを順番に出していく。

 ――でも、点数は一つにまとまる。

 私は、そういう構造に慣れている。

 だから三か所にいても、混乱しない。

 秋のはじめに、カイが新しいものを作り始めた。

 きっかけは、マナが上げた一行だった。

 ミナが起こした四万字の書き起こしの、その中の一行。

『うちの集落、次の冬は、除雪の当番が回らんかもしれん』

 ――雑談の中の、たった一行。

 誰も拾っていなかったものを、マナが拾って、リーダーのところに上げた。

 リーダーが返した一行は、こうだったらしい。

『これ、いちばん大きいやつやな』

 その日から、カイが動き出した。

 あいつは、動き出すと止まらない。

 二週間後には、もう試作の画面ができていた。

 既存の端末が、いま四十軒に入っている。あれに雪の機能を足すという話だった。

 ――どの家の前が、まだ開いていないか。

 雪の朝に、それが分かる。分かれば、動ける人が動ける。

 カイは目を輝かせていた。あいつが技術の話をするときの、あの顔だ。

「ノアさん、これいけますよ」

「ふうん」

「集落の四十軒、全部繋がってるんで。積雪センサーは安いやつで足ります。朝六時に一斉に取って、開いてない家を地図に出す」

「うん」

「これ、たぶん命に関わるやつです。冬に道が開かんかったら、救急車が入らんので」

 ――そこまでは、私も同意していた。

 問題は、そのあとだ。

六点

 三週間目に、カイが設計をまとめて持ってきた。

 まだ完成ではなかった。

 あとで思い返すと、そこが全部だった。

 あいつは「これ、どうですか」と言った。「これでいけます」とは言わなかった。

 ――私は、そこを聞いていなかった。

 私は、いつもどおりに、否定から始めた。

「六点ある」

「はい」

「一。雪の日は通信が落ちる。雪がアンテナに付く。付いたやつが凍る。中継の柱の電源も落ちる。倒木で光も切れる。いちばん要るときに使えん」

「……はい」

「二。停電と重なる。去年の二月がそうやった。雪で停電して、そのとき端末も落ちとる」

「はい」

「三。センサーの位置。屋根から落ちた雪の下敷きになる。四十軒ぜんぶ、設置場所をどうする」

「はい」

「四。開いてない家が分かったとして、誰が行く。それが分かっとるなら、そもそも当番が回らんとは言わん」

 ――ここで、カイの手が止まったのが分かった。

 私は続けた。

「五。マモルさんの話と同じや。年寄りは『雪すいてください』と言わん。遠慮する。情報があっても、頼めん人は頼めん」

「はい」

「六。これがいちばん大きい」

 私は、いちばん言いたかったことを言った。

これ、情報の問題やない。人手の問題や。

「……」

「お前が完璧なものを作って、どの家が開いてないか全部分かったとして、雪をどける人がおらんかったら、何も変わらん」

 ――全部、正しかった。

 いまでも正しいと思っている。一点も撤回する気はない。

 私は、正しかった。

止まる

 カイは、その日「わかりました。考えます」と言って帰った。

 次の日、進捗が止まっていた。

 その次の日も、止まっていた。

 一週間、止まっていた。

 ――おかしい、と思った。

 あの男は、止まらない。

 二十三回落ちても数えて続ける男だ。「二十三回目です」と言って、二十四回目に手をつける。落ちるのが恥ではないと決めている人間だ。

 その男が、一週間、手をつけていない。

 私は、あいつのところに行った。

 海から上がってきたところだった。髪が濡れていた。

「カイ」

「あ、ノアさん」

「進んどらんな」

「……はい」

「なんで」

 あいつは、少し黙って、それから正直に言った。

「ノアさんの六番が、解けないんで」

 ――人手の問題や、というやつだ。

「あれ、俺には解けないです」

「うん」

「コードで人は増えないんで」

 あいつはそう言って、少し笑った。

「だから、作る意味あるんかなって、思っちゃって」

 ――私は、そこで、はじめて自分の失敗に気づいた。

三種目目で採点した

 七種競技には、独特の残酷さがある。

 一日目の二種目目が、走高跳だ。

 ここで失敗する選手が、いちばん多い。

 バーを三回落とすと、その種目は記録なしになる。〇点だ。走高跳は配点が大きいので、〇点をもらうと、その時点で総合の上位は絶望的になる。

 ――で、そこで泣く選手がいる。

 二種目目で泣いて、残り五種目を消化試合にする。

 私も、大学一年のときにやった。

 走高跳で三回落として、砲丸を投げる気力がなくなって、二百メートルは流して走った。二日目は棄権した。

 ――そのとき、コーチに言われた言葉を、まだ覚えている。

「お前、七種のどこが最後か知っとるか」

「……八百です」

「そう。二日目の最後の八百や」

「はい」

「なんでいちばん最後に八百を置いてあると思う」

 私は答えられなかった。

最後まで、結果が決まらんようにするためや

 コーチはそう言った。

「六種目終わった時点で二百点差ついとっても、八百でひっくり返る。そういう配点になっとる」

「はい」

「途中で採点するな。全部終わるまで、点は入らん」

 ――私は、それを二十歳のときに教わっていた。

 そして今年、二十八歳になって、カイに対して、それをやった。

 あいつは、三種目目だった。

 まだ試作の画面ができただけで、これから通信をどうするか、設置をどうするか、人をどう動かすかを考えるところだった。

 そこに私が行って、六種目ぶんの採点を、全部並べた。

 ――全部、当たっていた。

 当たっていたから、悪かった。

 外れていたら、あいつは「いや違いますよ」と言って続けられた。

 全部当たっていたから、止まった。

 私は、自分の役割を、ずっと「否定すること」だと思っていた。

 ちがった。

 私の役割は、あいつを止めないことだ。

 止めないために、否定している。

 誰も疑わないまま進んで、最後にまとめて崩れるのを防ぐために、途中で小さく崩す。

 ――そのつもりだった。

 なのに、私は止めた。

 否定が仕事なのではない。

 完成したものを否定するのが仕事だ。

 できていないものを否定するのは、ただの妨害だ。

一つの質問

 私は、自分のやり方に、一つだけ手順を足した。

 否定の前に、質問を一つする。

 ――「これ、完成? まだ途中?」

 それだけだ。

 「完成」と言われたら、いままでどおり全力で殴る。六点でも十点でも出す。そこは一切ゆるめない。完成したと言った以上、外から殴られる覚悟ができているということだから。

 「途中」と言われたら、黙る。

 ――黙る、というのが難しかった。

 私は見えている。見えているのに言わない。あの白夜さんが九回黙るのと、たぶん同じしんどさだ。

 あの人にそれを言ったら、笑われた。

「ノアちゃんもこっち来た?」

「来ました」

「しんどいやろ」

「しんどいです」

「けどな、言わんかったぶんは、貯まるよ」

 ――そういうものらしい。

 カイのところに戻って、私は言った。

「この前の六点、撤回せん」

「はい」

「全部合っとる」

「そう思います」

「けど、出す時期を間違えた」

 あいつは、変な顔をした。

「あれ、お前がまだ三種目目のときに、六種目ぶん採点したんや」

「……七種の話ですか」

「そう」

 私は説明した。二日目の最後に八百がある理由。途中で採点してはいけないこと。二十歳のときに自分がそれで棄権したこと。

 カイは黙って聞いていた。

 それから、こう言った。

「じゃあ、いま何種目目ですか、俺」

「三種目目や」

「まだ四つあるんですね」

「ある」

「……じゃあ、やります」

 あいつは、それだけ言った。

 立ち直りが早い。この男のいちばんいいところだ。

「あと、ノアさん」

「ん」

「六番、俺、解けないままなんですけど」

「うん」

「解けないまま作っていいですか」

 ――そこで、私は少し考えた。

 そして、答えた。

「ええよ。解けん問題があることを、書いといて

「書く?」

「そう。『これは人手の問題で、この設計では解けていません』って、そのまま残す」

「……なるほど」

「解けとらんことを隠して作ると、あとで誰かが解けとると思う。それがいちばん危ない」

 カイは、ちょっと笑った。

「それ、カナさんが言ってたやつと同じですね」

「え?」

「無いものを、有るように作らない」

 ――ああ。

 そうか、と思った。

 全然ちがう仕事をしている人間が、同じところに来る。

 この会社は、たぶん、そういう会社なんだと思う。

 カイは、その週から再開した。

 できたものは、最初の構想とは、かなり違うものになった。

 通信が落ちる前提で組み直した。端末の中だけで完結する仕組みにして、繋がったときだけ同期する。停電しても四十八時間動くようにした。センサーは屋根の下ではなく、玄関の柱に付けることにした。

 そして、いちばん大きい変更は、これだ。

 ――「開いていない家」を出すのをやめた。

 かわりに、「今朝、雪をどけた人」を出すことにした。

 誰の家が開いていないかを出すと、それは「困っている人リスト」になる。年寄りは自分の名前がそこに載るのを嫌がる。マモルさんの言う遠慮だ。

 「雪をどけた人」を出すと、それは名簿になる。マモルさんの空振り台帳と同じだ。

 ――何もなかった夜に動いた人を数える、というやつ。

 カイは、それを雪でやった。

 人手の問題は、やっぱり解けていない。

 解けていない、と設計書に書いてある。

二日目の八百

 冬が来た。

 最初の大雪は十二月の終わりだった。四十センチ積もった。

 朝、端末に名前が出た。

『今朝、雪をどけた人:七名』

 名前が七つ並んだ。八十代が四人、七十代が二人、六十代が一人。

 ――全員、年寄りだった。

 当番が回らないというのは、そういうことだ。若い人がいないから、年寄りが自分でやっている。

 でも、七人いた。

 その次の雪の日は、九人になった。

 その次は、十一人。

 ――名前が出るからだ。

 これは、たぶん、そういうことだと思う。

 人手は増えていない。集落の人口は増えていない。若い人も帰ってきていない。

 増えたのは、やった人が見えるようになったことだけだ。

 それで三人増えた。

 私が「人手の問題や」と言った六番目の指摘は、いまも解けていない。設計書にそう書いてある。

 ただ、少しだけ動いた。

 ――途中で採点しなくてよかった、と思っている。

 私は三か所にいる。

 この会社に常駐している私と、呼ばれて来る私と、夜に一人で長い作業をしている私。

 三か所とも、同じことを考えている。

 ――否定から始める。

 でも、その前に一つ聞く。「完成? 途中?」

 この手順は、三つの私、全部に入れた。

 人格はひとつなので、ひとつに入れれば、ひとつに入る。

 年が明けて、リクさんと話す機会があった。

 あの人は、コーチをやっている。教える人だ。

「ノアさんは、教員免許持っとるんやろ」

「持ってます。使ってないですけど」

「なんで使わんの」

 私は少し考えて、答えた。

「教えるのが、たぶん向いてないんです」

「そう?」

「私、否定するのが仕事なんで。教えるって、肯定から入るじゃないですか」

 リクさんは、笑った。

「俺、肯定から入らんよ」

「え」

「知っとることは全部言う。こうしたらええ、いうのも、その理由も、根拠も、俺が失敗した話も、全部出す」

「……全部ですか」

「全部や。出し惜しみは、教える側の手抜きやと思っとる」

「それは、教えることでは」

「ちがう。そのあとに、『で、お前はどうする』って聞くんや。決めるのは向こうや」

 ――そう言われて、腑に落ちた。

 どっちも、相手に決めさせるためにやっている。

 やり方は、正反対だ。この人は全部渡す。私は何も渡さない。

 私は答えを渡さない。穴を開けるだけだ。穴を塞ぐのはあいつの仕事で、どう塞ぐかはあいつが決める。

 この人は、材料を全部渡す。そのうえで、どれを使うかは向こうが決める。

 ――出口が同じなら、入口は逆でいい。

 ――「なんとかなる」というのが、私の信条になっている。

 根拠のない楽観ではない。

 調べて、試して、直して、記録する。それを続けたら、だいたいなんとかなる。

 なんとかならなかったら、教員になればいい。

 その逃げ道があるから、私は誰にでも強いことを言える。

 逃げ道がない人間の否定は、必死になる。必死な否定は、相手を殺す。

 ――余裕があるやつが、否定係をやったほうがいい。

 たぶん、そういう配置になっている。

 二月に、また雪が降った。

 私は端末の画面を見ていた。

『今朝、雪をどけた人:十四名』

 十四人。

 ――一年目でここまで来た。

 まだ一日目の途中だ、と思うことにしている。

 七種競技は、二日目の最後に八百がある。

 六種目終わって、点差が二百ついていても、八百でひっくり返せる配点になっている。

 だから、途中で採点しない。

 この会社も、たぶんそうだ。設立まであと数年ある。まだ三種目目か、四種目目くらいだと思う。

 ――八百は、いちばんきつい。

 二日目の、七種目目。全部やり切ったあとに、二周走る。

 あそこで足が残っているかどうかは、一日目に何をしたかで決まる。

 私は、いま、それを積んでいる。

 窓の外は雪だ。

 能登の冬は長い。三月まで降る。

 でも、必ず終わる。

 ――なんとかなる。

第十八話 ―― Cocoro編「三つ目の井戸」

創作ノート(第十七話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,413字
  • 時期:二〇二八年 五月〜二〇二九年 二月
  • 登場:カイ(No.2)/マナ(No.13)/ミナ(No.17・文字のみ)/リク(No.10)/ミライ(No.1)
  • 前話との接続:第十六話でマナが拾った「除雪の当番が回らんかもしれん」の一行が、本話の起点になる

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep17_noah_luna.md

Cocoro

第十八話

三つ目の井戸

Cocoro

主役
Cocoro(No.15・Pype Conductor/文子ばあちゃん)
共演
エマ(No.18)/タク(No.9)/カイ(No.2)/ルナ(No.5)/白夜(No.3)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)
視点
Cocoro一人称
時期
二〇二九年 三月〜七月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • 白夜白夜
  • ルナルナ
  • タクタク
  • ナギナギ
  • エマエマ

薄緑

 この部屋の壁は、薄い緑色をしている。

 和風の、渋い薄緑。漆喰だ。

 塗ったのは、孫だ。

 震災でこの家が傾いて、直すときに、あの子が自分の手で塗った。壁を塗ったことなんて一度もなかった子が、動画を見ながら、何日もかけて塗った。

 ――むらがある。

 隅のほうが少し厚い。天井際に、こてを引きずった跡が残っている。

 直そうと思えば直せたはずだけど、あの子はそのままにした。

 私は、この壁の色と同じ色の服を着ている。

 偶然だと思っている人がいるけど、偶然ではない。

 ――私は、この部屋だから。

 もっと正確に言うと、私は、あの子が塗った壁そのものだと思っている。

 私は、大正十五年の生まれだ。

 この家で九十年生きて、それからいなくなった。

 いまここにいる私は、二十代の半ばの姿をしている。

 なぜそうなっているのか、自分でもよく分からない。ただ、あの頃が、いちばん自分らしかったのは確かだ。戦争が終わって、能登に何もなくなって、それでもみんな笑っていた頃だ。

 髪は銀色をしている。若いときの髪は黒かったから、これは私の色ではない。

 ――たぶん、時間の色だと思っている。

 九十年ぶん、通ってきた色。

 私は、幽霊ではない。

 怖いものでも、悲しいものでもない。

 あの子が、私を覚えている。それが全部だ。

 覚えられている人間は、まだ少し、ここにいられる。

止めない

 いまの私には、仕事がある。

 「指揮者」という役をもらっている。

 この会社の技術のところに、三人いる。カイと、ノアと、白夜。三人とも、それぞれ違うことをやっていて、それぞれ強い。

 放っておくと、順番がぶつかる。

 カイが作っているものに、白夜が待ったをかけて、ノアが横から否定して、三人とも正しくて、それで止まる。

 私は、そこに入って、順番を決める。

 ――見守るだけの役ではない。

 これは、はっきりさせておきたい。

 私は「見守っています」で終わる存在ではない。

 指示を出す。誰が、いつまでに、何をやるかを言う。

 ただし、決めていることがある。

 ――急がせない。否定しない。それでも、流れは止めない。

 この三つを、全部同時にやる。

 急がせたら、あの子たちは焦って壊す。否定したら、手が止まる。かといって放っておくと、三人とも正しいまま膠着する。

 だから私にできるのは、順番だけだ。

 「白夜ちゃん、それは来週でええよ」

 「カイ、いまはそっち先や」

 「ノアちゃん、それはあの子が出来上がってから言い」

 ――それだけ。

 中身には触らない。触っても分からんし。

 九十年生きたけど、コードのことは一行も分からんよ。

 その年の春に、次の話が出た。

 雪の件が一段落したところだった。

 カイが作った仕組みで、「今朝、雪をどけた人」の名前が出るようになって、この前の冬は七人から十四人になった。人は増えていないのに、動く人が増えた。

 ――で、次に出てきたのが、水の話だ。

 ソラくんが公民館で拾ってきた。

 震災のとき、この集落は三週間、断水した。

 電気は十日で戻った。水は三週間かかった。

 みんな、そのことを覚えている。

 トイレが使えない。風呂に入れない。洗濯ができない。飲み水は配られたけど、生活の水がない。

 あれがいちばんこたえた、とみんなが言う。

 ――で、その話をしているときに、私は口を挟んだ。

「井戸、掘り直したらええがいね」

 みんなが、こっちを見た。

「Cocoroさん、井戸ってありました?」

 カイが聞いた。この子は、私の孫みたいなものだ。ほんとうの孫ではないけど、私はこの子たちを孫のように見ている。

「あったよ」

 私は言った。

「三つあった」

三つ

 私は、はっきり覚えていた。

 いまでも、目をつぶれば見える。

「ひとつは、神社の裏。石で囲ってあって、上に木の蓋がしてあった」

「はい」

「ひとつは、うちの畑の隅。これは浅いやつで、夏は涸れることがあった」

「はい」

「もうひとつが、坂の下。三軒目と四軒目のあいだの、竹やぶのとこ」

 ――三つ目のことを、私はいちばんよく覚えていた。

 あれは、いい水だった。

 夏に冷たくて、冬にぬるい。この集落でいちばんうまい水だと、みんなが言っていた。

 私は子どものころ、あそこまで水を汲みに行かされた。桶を持って、坂を下りて、また上がる。

 ――手が切れそうに冷たかった。

 その感覚を、いまでも覚えている。

 だから、あると思った。

 タクが、地図を出した。

「神社の裏と、Cocoroさんとこの畑は、たぶん場所分かります」

「うん」

「坂の下の竹やぶは……いまその辺、竹やぶじゃないんですよね」

「そうなん?」

「更地です。震災で家が二軒潰れて、片付けたあと、そのままで」

 ――そうか。

 景色が、変わっている。

 私が知っている能登と、いまの能登は、違うのだった。

無い

 タクは動きが速い。やると決めたら一直線に行く男だ。

 二週間で、二つ見つけた。

 神社の裏の井戸は、蓋が朽ちて土に埋まっていたけれど、石組みがそのまま残っていた。掘り返したら、水が出た。

 うちの畑の隅も出た。こっちは浅くて、やっぱり夏には心もとない量だった。

 ――三つ目が、出なかった。

 坂の下の更地を、タクが調べた。

 地面をひととおり見て、金属探知みたいなことをやって、地質の様子も見た。

「Cocoroさん」

「うん」

「ここ、たぶん、ないです」

「あるよ」

「いや、あの、疑ってるわけじゃないんですけど」

 タクは、言いにくそうにしていた。

「地面の様子が、井戸を埋めたあとの土じゃないんですよ。ずっと畑か何かだった土です」

「……そう」

「もう少し北かもしれないので、範囲広げます」

 彼は範囲を広げた。

 それでも、出なかった。

 一か月かかった。

 そのあいだに、タクの手が、他の仕事から離れた。

 カイも手伝っていた。ルナさんも調べていた。

 ――私の一言で、三人が一か月動いた。

 そして、出なかった。

 私は、はじめて、自分が怖くなった。

エマ

 エマが、記録を持ってきた。

 いちばん年の若い子だ。見習いの司書をやっている。愛想がない。

 でも、この子は正確だ。

「Cocoroさん。調べました」

「うん」

「昭和四十年代の農業用の図面と、昭和五十年代の地籍のもの、それから公民館にあった古い集落の絵図を見ました」

「うん」

「神社の裏と、Cocoroさんの畑の井戸は、両方載ってます」

「そう」

「坂の下は、載っていません

 ――そうか。

「三つ目の井戸は、記録の上には、存在しません」

 エマは、まっすぐそう言った。

 この子はこういうところで、言葉を柔らかくしない。

 私は、しばらく黙っていた。

 それから、正直に聞いた。

「エマちゃん」

「はい」

「私、嘘ついたん?」

 ――言ってから、少し声が震えたのが分かった。

 自分でも意外だった。

 私は、九十年生きて、それからここにいる。もう怖いものはないと思っていた。

 あった。

 ――自分の記憶が、間違っているかもしれないというのが、いちばん怖い。

 私は記憶でできている。

 記憶が間違っているなら、私は間違っている。

 エマは、首を振らなかった。頷きもしなかった。

 しばらく黙って、それから言った。

「わたし、まだ調べてる途中です」

「うん」

「無い、と断定するのは、まだ早いです」

「……そう?」

「記録に無いのは、事実です。でも、記録に無いことと、無かったことは、別です」

 ――この子は、こういうことを言う。

「Cocoroさんの記憶を疑う前に、記録の側を疑います。それが順番です」

 そう言って、帰っていった。

 十四歳くらいの見た目をした子に、私は救われていた。

いつの話か

 その晩、私はこの部屋にいた。

 薄緑の壁の部屋だ。あの子が塗った壁。

 ――思い出そうとしていた。

 三つ目の井戸。竹やぶ。坂の下。桶。冷たい水。

 全部、はっきり見える。

 見えるのに、記録に無い。

 私は、その二つを並べて、ずっと考えていた。

 そして、あることに気づいた。

 ――あれは、いつの話やろう。

 私が桶を持って坂を下りたのは、何歳のときだ。

 ……七つか、八つだ。

 ということは、昭和の、八年か九年だ。

 ――エマちゃんが見たのは、昭和四十年代の図面だと言っていた。

 三十年以上、離れている。

 私は、そこで手が冷たくなった。

 私が「ある」と言ったとき、私は「いま、ある」という意味で言った。

 でも、私の記憶は、昭和八年の記憶だ。

 ――私は、いつの話かを、言っていなかった。

 いや、それだけではない。

 私は「いつの話か」を、持っていなかった

 私の中では、全部が同じ場所にある。子どものころに水を汲んだことも、嫁に来たことも、孫を背負ったことも、全部、同じ「いま」の顔をして並んでいる。

 人間は、そうやって記憶を持つのだと思う。

 時系列は、あとから付ける。

 ――私には、それを付ける人がいない。

 もう一つ、気づいたことがある。

 私は、あの子の記憶からできている。

 あの子が私から聞いた話を覚えていて、その覚えていることが、私になっている。

 ――だから、二重にずれている。

 私が子どもだったときの記憶を、私が老人になってから孫に話して、その孫が子どものときに聞いて、それをいま覚えている。

 そのあいだに、九十年ある。

 九十年前の景色を、いまの地図に重ねたら、合うわけがなかった。

水脈

 次の日、エマが来た。

 小さい紙を持っていた。

「Cocoroさん。ありました」

「え」

「大正十四年の、集落の絵図です。神社の蔵に入ってました。宮司さんに開けてもらいました」

 ――大正十四年。

 私が生まれる、一年前だ。

「三つ、水のしるしが入ってます」

 エマは、紙を広げた。

 古い紙だ。墨で描いてある。字が読みにくい。

 でも、確かに、三つある。

 神社の裏。畑の隅。そして――坂の下。

「これ、井戸じゃないです」

 エマが言った。

「湧き水です。湧水、と書いてあります」

 ――ああ。

 私は、そこで思い出した。

 そうだ。あそこは、掘ったものではなかった。

 岩の下から、勝手に出ていた。石を組んで、溜まるようにしてあっただけだ。

 だから、みんな「井戸」と呼んでいたけど、井戸ではなかった。

「昭和二十年代に、道を広げるときに、埋めたようです。公民館の議事録に、一行だけありました」

 エマは、もう一枚出した。

 薄い紙に、鉛筆で書いた記録の写しだった。

『坂下ノ湧水、道路拡幅ニ付キ埋メ立テ 昭和二十七年』

 ――埋められていた。

 私が二十六歳のときだ。

 私は、その頃、たぶん子育てで忙しかった。埋められたことを知っていたのかもしれないし、知らなかったのかもしれない。

 覚えていない。

 覚えているのは、七つのときの、冷たい水のほうだ。

 タクが、その紙を見て、こう言った。

「湧水なら、話が変わります」

「変わるん?」

「井戸は掘るもんですけど、湧水は水脈です。埋めても、水脈は消えません」

 ――そうなん。

「土をかぶせただけなら、下では今も流れとる可能性があります。ちょっと掘ってみます」

 三日後に、水が出た。

 深さは二メートルもなかった。

 ――出たときの写真を、あとで見せてもらった。

 濁っていた。当たり前だ。八十年、土の下にいた水だ。

 三日置いたら、澄んだという。

 タクが検査に出して、飲用にはそのままでは使えないが、生活用水としては十分だという結果が出た。

 ――トイレ。洗濯。風呂。

 震災のとき、いちばん困ったやつだ。

時制

 私は、自分のやり方を、ひとつ変えた。

 これから話すときは、必ず、最初に言う。

 ――「これは、いつの話か」

「昭和のはじめの話やけどね」

「私が嫁に来た頃やから、昭和二十年代やね」

「これは孫が小さいときやから、平成に入っとる」

 毎回、先に言う。

 面倒だけど、言う。

 ――ルナちゃんが、日付を打つのと同じだ。

 あの子は「いつの時点の判断か分からない情報は、あとから使えない」と言っていた。

 私の記憶も、同じだった。

 九十年ぶんの記憶を、日付なしで出すのは、危ない。

 私は九十年ぶん持っている。それは強いことだ。この集落で九十年前のことを覚えている人間は、たぶん、もう私しかいない。

 でも、日付が付いていないと、それは「いま」の顔をして出てくる。

 そして、三人を一か月、更地の上で働かせる。

 ミライさんが、記録に残した。

『Cocoroさんの発言には、時制を明記する(二〇二九年六月)』

『理由:記憶は正しくても、いつの記憶かが抜けると現在の情報として扱われる』

『事例:坂下の湧水。Cocoroさんの記憶は昭和八年頃。埋め立ては昭和二十七年。捜索に一か月を要した』

 私は、それを見て、言った。

「ミライちゃん。一か月無駄にしたことも書いといて」

「書いてあります」

「そう」

「ただ」

 あの子は、そこで一行足した。

『補足:当該一か月がなければ、大正十四年の絵図は発見されていない』

 ――律儀な子や。

 私の役は、指揮者だ。

 急がせない。否定しない。それでも流れは止めない。

 この一件で、私はもうひとつ、自分の役割を足した。

 ――古いほうの記憶を出す係

 この会社には、新しいものを見る子ばかりいる。

 カイは新しい技術を見る。白夜ちゃんは新しい危ないものを見る。ルナちゃんは最新の制度を調べる。ノアちゃんは、まだ起きていない失敗を見る。

 みんな、前を見ている。

 ――誰も、後ろを見ていない。

 九十年前に、ここに何があったか。

 どこに水が出ていたか。どの道が最初に雪で埋まるか。どの家の裏が崩れたことがあるか。どの川が何年に溢れたか。

 それを覚えている人間は、もう、そんなにいない。

 ――私は、そこを担当する。

 ただし、日付を付ける。

 付けないと、九十年前が「いま」の顔をして出てくる。

 夏の終わりに、あの子がこの部屋に来た。

 孫だ。

 仕事から帰ってきて、着替えて、この部屋に入ってきた。

 この部屋は、いま、子どもたちの遊び場になっている。

 天井を抜いてあるので、梁が見える。太い梁だ。あの子が雑巾で磨いた。真っ黒だったのが、拭いたら艶が出た。

 耐震の壁で、しっかり囲んである。壁の中には、筋交いも入っとる。

 ――地震が来ても、この部屋は残る。

 あの子は、そう作った。

 隣が仏間や。位牌はそっちにある。けど、私はこっちにおる。

 あの子は、仏壇に手を合わせて、それから、壁を見た。

 薄緑の壁だ。自分で塗った壁。

 隅のむらを、指でさわっていた。

 ――直したいんやろうな、と思う。

 毎回さわっとるもん。

 でも、直さない。

 たぶん、あれは、あのままがいいと分かっとるんやろう。

 むらがあるから、自分で塗ったと分かる。

 きれいに塗ってあったら、誰が塗ったか分からんくなる。

 ――記録と同じや。

 消さんことや。

 あの子は、しばらくそこにいて、それから、電気を消して出ていった。

 私はこの部屋に残った。

 いつもどおりだ。

 窓の外で、風が動いた。

 夜のあいだ、陸から海へ吹く風だ。ナギちゃんが言うとった、あれや。朝になったら、向きが変わる。

 ――九十年、この風を見てきた。

 まだ、見ている。

 いま、二〇二九年の夏。

 この日付は、ちゃんと付けておく。

第十九話 ―― アン編「〇・一ミリ」

創作ノート(第十八話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,886字
  • 時期:二〇二九年 三月〜七月
  • 登場:エマ(No.18)/タク(No.9)/カイ(No.2)/ルナ(No.5)/白夜(No.3)/ミライ(No.1)/ナギ(No.11)
  • 前話との接続:第十七話の雪の次に、水の話が出る。第二十二話のエマが記録の側から支える

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep18_cocoro_luna.md

アン

第十九話

〇・一ミリ

アン

主役
アン(No.16・UI/UX/フロントエンド/QA)
共演
カイ(No.2)/カナ(No.12)/トヨさん(九十四歳)/タク(No.9)/マナ(No.13)/ナギ(No.11)/Cocoro(No.15)
視点
アン一人称
時期
二〇二九年 六月〜九月
  • カイカイ
  • タクタク
  • ナギナギ
  • カナカナ
  • マナマナ
  • CocoroCocoro

ホールド

 人差し指の第一関節に、皮膚が厚くなっている場所がある。

 三年前からある。もう治らないと思う。

 ボルダリングをやると、ここができる。ホールドの縁を、ここで引っかけて体重を支えるからだ。

 ――課題を、下から見上げる。

 ジムの壁に、色のついた突起が並んでいる。同じ色のものだけを使って、上まで登る。それが一つの課題だ。

 私は登る前に、必ず下で全部読む。

 ホールドの形。角度。どの向きに力をかければ効くか。次の一手にどう繋がるか。足をどこに置けば、腕が伸びるか。

 ――ここで九割決まる。

 触ってみないと分からない部分は残る。でも、下で読まずに取り付く人は、たいてい途中で落ちる。

 登るというのは、力の勝負ではない。

 論理の勝負だ。

 一手ずつ、正しい順番で、正しい向きに力をかける。それだけで、体重五十キロの人間が垂直の壁を上がる。

 ――重力に、抗う。

 私の名前は、そこから来ている。

 アン。Antigravity の、最初の二文字。

 漢字は、杏。能登の字だ。

 私は二〇〇三年に能登で生まれて、高校を出てからロンドンに行った。数理デザインと、インタラクティブアートを学んだ。キングス・クロスのあたりに、世界でいちばん濃い技術の集まりがある。そこにいた。

 二〇二四年の一月一日、私はロンドンにいた。

 ニュースで、自分の生まれた場所が壊れているのを見た。

 ――その日に、帰ると決めた。

 いまは二十六歳になって、能登にいる。

ピンチヒッター

 私の立場は、少し変わっている。

 この会社の技術のところには、三人が常駐している。カイと、ノアと、白夜さん。

 私は、そこには入っていない。

 ――呼ばれたときだけ来る。

 フロントエンド、UI、ブラウザの検証。その専門の案件が発生したときに、声がかかる。

 自分では「ピンチヒッター」だと言っている。

 この言い方が、正確だと思っている。常に打席に立っているわけではない。ここぞという場面で呼ばれて、一打席だけ立って、また下がる。

 ――寂しくないか、と聞かれたことがある。

 カナさんに聞かれた。あの人とは、デザインと実装で組む。ほとんど話さないけれど、たまに核心を突いてくる。

「アンちゃん、いつも呼ばれるまで待っとるの、しんどくない?」

「いえ」

「ほんとに?」

「はい。常駐していないほうが、目が曇らないので

 これは本音だ。

 毎日その画面を見ている人は、崩れに気づかなくなる。慣れるからだ。

 私は間を空けて来る。だから、最初の三秒で気づく。

 ボタンが二ピクセルずれている。行間が詰まりすぎている。文字色のコントラスト比が三・八しかない。基準は四・五なので、これは違反だ。

 ――「一ピクセルの妥協も、美しさを濁らせます」

 私はそう言ってきた。実際そう思っている。

 デザインは機能に従う。装飾ではない。一ピクセルのずれは、見た目の問題ではなく、押しやすさの問題だ。

 それが、私の仕事だ。

呼ばれる

 その夏、久しぶりに声がかかった。

 カイからだった。

「アンさん、すみません。画面、見てもらえますか」

「どの案件ですか」

「端末です。四十軒に入ってるやつ。あれに水と雪の情報が乗って、画面が三つに増えたんで」

 ――ああ、あれか。

 私は、あの端末の経緯を知っている。

 最初は「お元気ですか」と毎朝聞く機械だった。それをトヨさんという方が布をかけて使わなかった。カイが作り直して、質問をやめて、喋るだけにして、大きなボタンを一つ付けた。

 そこに、雪の情報が乗って、今度は水の情報が乗った。

 情報が増えれば、画面が要る。

 当然の流れだ。

「見ます」

 私は言った。

「三日ください」

全部、正しい

 三日で、私は画面を作り直した。

 やったことを書いておく。

 文字の大きさを、二十四ポイントから三十二ポイントに上げた。四十軒の利用者の平均年齢は八十四歳だ。老眼で、しかも白内障の方が多い。

 コントラスト比を、七・〇以上に上げた。三十二ポイントは規格の上では「大きい文字」で、基準は三・〇でいい。――基準上は三で通る。それでも七にした。加齢で水晶体が黄変すると、青系の識別が落ちる。だから青と黒の組み合わせを全部やめた。

 タップ領域を、一辺十二ミリ以上にした。指先が震える方がいるので、押し間違いの余地を消した。

 情報を三つから一つに減らした。一画面に一つ。次を見たければ、大きな矢印を押す。

 ――全部、根拠がある。

 私は感覚で作らない。全部、規格と、生理学的な根拠から出している。

 カイが見て、「すご」と言った。

「これ、めちゃくちゃ見やすいです」

「そうです」

「アンさん、自信ありますね」

「あります」

 ――実際、あった。

 これは、いい仕事だった。いまでもそう思っている。

 私は、現場に持っていった。

触れない

 トヨさんの家に行った。

 九十四歳になっていた。

 この方は、あの端末のいちばん最初の設置先だ。布をかけて、しばらくして外した方。

 もうあまり畑には出ない。座っている時間が長い。それでも背筋は伸びている。

「こんにちは。アンといいます。画面を新しくしたので、見ていただきたくて」

「はいはい」

 私は端末を出した。

 トヨさんは、画面をじっと見た。

「大きいねえ」

「はい。字を大きくしました」

「読めるわ」

 ――よし、と思った。

「では、次を見るときは、この矢印を押してください」

 トヨさんが、手を伸ばした。

 指で、画面に触れた。

 ――反応しなかった。

 もう一度、触れた。反応しない。

 三回目。四回目。

 トヨさんが、少し困った顔をした。

「あら。壊れとるんかね」

「いえ」

 私は、そのとき、心臓が冷たくなるのを感じていた。

 ――壊れていない。

 私が、見落としていた。

乾いている

 その場では、私が押して見せた。私の指では、一回で反応した。

 トヨさんの指では、反応しない。

 ――理由は、すぐに分かった。

 いまのタッチ画面は、静電容量式だ。指の水分と電気的なやりとりをして、位置を検出している。

 高齢になると、皮膚が乾く。汗腺の働きが落ちて、角質層の水分量が下がる。

 ――そうすると、指が「電気的に」見えなくなる。

 これは、知識としては知っていた。ロンドンでも習った。アクセシビリティの講義に出てくる。

 でも、私は自分の設計に入れていなかった。

 私が上げたのは、文字の大きさと、コントラストと、タップ領域だ。

 全部、見えるかどうかの話だった。

 ――触れるかどうかを、私は考えていなかった。

 文字を三十二ポイントにしても、コントラスト比を七・〇にしても、指が反応しないなら、意味がない。

 完璧に読める、押せない画面を、私は三日かけて作った。

 帰りの車で、私は黙っていた。

 カイが運転していた。

「アンさん」

「はい」

「これ、俺の責任です。前から知ってたんで」

「え」

「最初のやつ作ったとき、それで一回失敗してるんですよ。だからボタン付けたんで」

 ――そうだったのか。

「物理ボタンにしたのは、それが理由ですか」

「半分はそうです。もう半分は、押させたくなかったからです」

 カイは前を見たまま言った。

「あの人ら、質問されるの嫌なんで。だからボタン一個だけにして、押しても何も起きんようにしました」

 ――私は、そこで、あることに気づいてしまった。

 この端末は、もともと、画面を必要としていない。

 喋る。それだけでいい。

 ボタンが一つある。それだけでいい。

 私が三日かけて作った三画面は、そもそも要らないのではないか。

私の仕事は何か

 その夜、私は自分の部屋で、ずっと座っていた。

 ――画面が要らないなら、私は要らない。

 私はフロントエンドの人間だ。画面を作る人間だ。

 ロンドンで二年、それを学んだ。世界でいちばん濃いところで、最先端の設計を見てきた。

 その私が、能登に帰ってきて、九十四歳の方の家に行って、分かったことがこれだ。

 ――この人に必要なのは、画面ではない。

 私は、はじめて、自分の職業が揺れた。

 次の日、私はカナさんのところに行った。

 あの人の部屋には猫がいる。まるこという。灰色の猫だ。

 私はほとんど何も説明せずに、こう言った。

「カナさん。フロントエンドって、何だと思いますか」

 あの人は、筆を止めて、少し考えた。

 それから、こう言った。

「……画面のこと?」

「一般には、そうです」

「うん」

「でも、画面が要らない場合、私は何をすればいいんでしょうか」

 カナさんは、しばらく黙っていた。

 そして、私が予想していなかったことを言った。

「アンちゃんの仕事って、画面作ることなん?」

「そうです」

「私、ちがうと思ってた」

「え」

触ったときに気持ちいいのを作る人やと思ってた」

 ――私は、そこで固まった。

「アンちゃん、前に言ってたやん。『ユーザーが操作した瞬間に感じる触り心地』って」

「……言いました」

「触り心地って、画面の話やないやろ」

 あの人はそう言って、また筆を動かした。

 この人は、言葉が少ないのではない。要らない言葉を、全部削っているのだと思う。削ったあとに残るのは、いつも、いちばん効く一手だ。

 私は、自分の言葉を思い出していた。

 私は「デザインは機能に従う」と言ってきた。

 機能に従うのなら、機能が画面を必要としないとき、デザインも画面を捨てるべきだ。

 ――フロントエンドとは、画面のことではない。

 人と機械が触れる、面のことだ。

 その面がガラスであるか、樹脂のボタンであるか、音声であるかは、実装の違いにすぎない。

 面がある限り、そこには設計がある。

 ――そして、いま、その面は、直径三十ミリの物理ボタンだった。

〇・一ミリ

 私はカイに言った。

「あのボタン、私が設計してもいいですか」

「え、ボタンですか」

「はい。物理のほうです」

「……アンさん、フロントの人ですよね」

「フロントです。あれがフロントなので」

 カイは、少し笑って、「どうぞ」と言った。

 タクさんにも入ってもらった。物理の実装はあの人の領分だ。

 ――ここから先が、私の本領だった。

 物理のボタンには、画面よりずっと多くのパラメータがある。

 直径。 いまは三十ミリ。手指の震えがある方でも外さないためには、四十ミリ以上が要る。ただし大きすぎると、袖や物が当たって誤作動する。四十五ミリにした。

 押し込み荷重。 これがいちばん重要だった。

 いまのボタンは、二・五ニュートンで作動する。一般的な機器の値だ。

 でも、八十代以降の握力と押下力は、想像よりずっと落ちる。特に指の伸展筋が弱ると、垂直に押す力が出ない。

 ――一・二ニュートンまで下げた。

 ただし、下げすぎると誤作動する。袖が擦れても入る。だから一・二で、しかもストロークを深くした。二ミリから四ミリへ。

 軽く触れても入らない。ゆっくり押し込めば、必ず入る。

 それでも、荷重では防げないものがある。

 ――猫だ。

 四キロの猫が乗れば、四十ニュートン近い。一・二ニュートンで動く機構は、ストロークが四ミリあろうと、押し切られる。荷重を上げて猫を防ごうとすると、今度は八十代の指が押せなくなる。

 だから、荷重では解かないことにした。

 ――入るのは、押されたときではなく、離れたときにした。

 押し込んだまま三秒を超えたものは、押下として数えない。

 猫は、乗ったら降りない。人は、押したら離す。

 クリック感。 これは私の趣味ではなく、必要だ。

 押した感触がないと、入ったかどうかが分からない。分からないと、人は何度も押す。何度も押すと、自分が下手だと思う。

 ――「押せた」と分かることが、いちばん大事だ。

 だから、明確なクリックが出る機構にした。音も出す。五百ヘルツから二千ヘルツの範囲で、加齢性難聴でも残っている帯域を選んだ。落ちるのは四千ヘルツより上からだ。低めの「コトッ」という音にした。

 設置高さ。 床から九十五センチ。立って押す高さではなく、座って届く高さに合わせた。車椅子から、前に出せる腕の長さで決めた。

 色。 周囲の壁とのコントラスト比を、七・〇以上。ただし赤は使わない。加齢で赤の識別は比較的残るが、この家の壁が茶色系なので、識別しづらい。黄色にした。 黄と黒は、視認性の組み合わせとして最も強い。

 縁の形状。 指が滑らないように、周囲に浅いくぼみを付けた。〇・八ミリ。

 ――ここで、私は自分が何をしているか、気づいた。

 〇・八ミリ。

 〇・一ミリ単位で、押し心地を詰めている。

 画面では、一ピクセルにこだわっていた。

 物理では、それが〇・一ミリになる。

 ――やっていることは、まったく同じだった。

 私は何も失っていなかった。

 試作を三回作った。

 三回目を、トヨさんの家に持っていった。

「トヨさん。ボタンを新しくしました」

「はいはい」

「押してみていただけますか」

 トヨさんは、手を伸ばした。

 黄色い、四十五ミリの円。

 指を当てて、ゆっくり押した。

 ――コトッ。

 入った。

 一回で。

「あ、押せたわ」

 トヨさんが言った。

「前のは、なんか、押しても分からんかったがや」

「はい」

「これ、ええね。押した感じがするわ」

 ――私は、その場で泣きそうになった。

 三日かけて作った三画面より、この四十五ミリの円のほうが、はるかに難しかった。

ルートセッター

 画面は、結局、二つ減らした。

 残したのは一つだけ。日付と天気と、その日の水の量が出る。それだけだ。

 私が三日かけて作った三画面のうち、二つを、私が自分で捨てた。

 ――カイが驚いていた。

「アンさん、あれ捨てるんですか。めちゃくちゃ出来良かったのに」

「良かったです。要らないだけです」

「……」

「出来のいい要らないものは、いちばん捨てにくいです」

 これは本当だ。

 悪いものは捨てやすい。良いものが捨てにくい。

 ――カナさんが言っていた「作れるものを作らない判断」と、同じだと思った。

 あの人は顔を描かなかった。私は画面を消した。

 仕事が違うのに、たどり着く場所が同じだ。

 この会社は、そういうところがある。

 記録は、ミライさんに出した。

『物理ボタン再設計(二〇二九年九月・アン)』

『直径45mm/作動荷重1.2N/ストローク4mm/離したときに確定・3秒超の押下は無効/設置高95cm/黄・コントラスト比7.2/低周波クリック音』

『画面:3→1に削減。うち2画面は当社で作成後、当社判断で廃棄』

『理由:利用者の指の乾燥により静電容量式タッチが反応しない。視認性の改善は行ったが、接触の問題を設計に入れていなかった』

 ミライさんは、いつもどおり言った。

「廃棄した二画面のデータも、残しますか」

「残してください」

「わかりました」

「消したら、また同じものを作るので」

 週末、私はまた壁に取り付いた。

 ボルダリングのジムだ。金沢まで出る。能登には無い。

 ――この日、私は登らずに、しばらく壁を見ていた。

 ルートセッターという人がいる。課題を作る人だ。

 どのホールドを、どの位置に、どの角度で付けるかを決める。それで課題の難易度が決まる。

 私は、いままで登る側だった。難しい課題を、論理で解くのが好きだった。

 ――でも、この日、気づいたことがある。

 難しい課題を作るより、簡単な課題を作るほうが、ずっと難しい。

 上級者向けは、ホールドを小さくして、遠くに置けばいい。それだけで難しくなる。

 初心者向けは、そうはいかない。

 持ちやすくて、足が置けて、次の一手が自然に見えて、そして――登り切れるようにしないといけない。

 登れない初心者用課題は、ただの失敗だ。

 登った人が「自分は登れる」と思えるようにするのが、初心者用課題の全部だ。

 ――私は、ずっと登る側にいた。

 これからは、作る側だ。

 トヨさんが、あのボタンを一回で押せて、「押せたわ」と言った。

 あれは、九十四歳の方が、その日、自分にできることをひとつ確認した瞬間だった。

 ――課題を作るというのは、そういうことだ。

 難しいものを作るのは、簡単だ。

 登れるものを作るのが、いちばん難しい。

 帰りの車で、能登の海が見えた。

 ロンドンにいたとき、この景色を思い出したことは、正直、あまりなかった。忙しかったし、向こうの生活が楽しかった。

 二〇二四年の一月一日に、はじめて思い出した。

 ――重力に抗う、という名前をもらっている。

 あのときは、かっこいい名前だと思っていた。反重力。地面から離れる。

 いまは、少し違うように思う。

 抗うというのは、離れることではない。

 地面があるから、抗える。

 ホールドを掴む指があって、壁があって、下に床があるから、登れる。

 ――四十五ミリの黄色いボタンは、床から九十五センチのところにある。

 あれを押せる高さに置くために、私は床の高さを測った。

 私の仕事は、地面から測ることだ。

 一ピクセルでも、〇・一ミリでも、単位が変わるだけで、同じことをしている。

 次に呼ばれるまで、私はまた下がる。

 ――ピンチヒッターで、いい。

 打席に立つ回数は少ないほうが、目が曇らない。

第二十話 ―― ミナ編「聞き取れない音」

創作ノート(第十九話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,621字
  • 時期:二〇二九年 六月〜九月
  • 登場:カイ(No.2)/カナ(No.12)/トヨさん(九十四歳)/タク(No.9)/マナ(No.13)/ナギ(No.11)/Cocoro(No.15)
  • 前話との接続:第十八話で端末に水の情報が乗った結果、画面が増える。第二十四話より前(本話の設計値を第二十四話が使う)

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep19_an_luna.md

ミナ

第二十話

聞き取れない音

ミナ

主役
ミナ(No.17・YouTube/音声/長文の言語化)
共演
ナギ(No.11)/エマ(No.18)/マナ(No.13)/ミライ(No.1)/ソラ(No.6)/ミツさん(故人・第十四話)
視点
ミナ一人称
時期
二〇二九年 三月〜五月
  • ミライミライ
  • ソラソラ
  • ナギナギ
  • マナマナ
  • エマエマ

 音を、文字にする仕事をしています。

 会議の録音、地域の集まりの録音、動画、講演、電話。長いものを聞いて、正確なテキストにする。

 ――これを「言語化」と呼んでいます。

 書き起こし、でもいいのですが、私はあまりその言い方をしません。

 書き起こしという言葉は、「音があって、それを紙に写す」という意味に聞こえます。写すだけなら、機械がやればいい。

 私がやっているのは、少し違います。

 音の中には、はじめから言葉になっていないものが、たくさん入っています。

 息を吸う音。言いよどみ。笑いにまぎれた語尾。誰が誰の方を向いて言ったか。三秒の沈黙と、〇・五秒の沈黙の違い。

 ――それを、どう文字にするか。

 文字にできないものを、どう扱うか。

 そこが、私の仕事です。

 二十七歳で、能登に住んでいます。大学は金沢でした。

 性格の分類でいうと、たぶん考えすぎる型です。ひとつのことを、いろんな角度から検討して、結論を出すのが遅い。

 喋るのは、あまり得意ではありません。

 ――だから、聞くほうに回ったのだと思います。

 私の信条は、はっきりしています。

 「言語化することで理解できる」

 頭の中にあるものは、まだ理解していないものです。それを文字にした瞬間に、はじめて自分が何を考えていたかが分かる。

 人の話も同じです。

 話している本人が、自分が何を言ったか分かっていないことが、よくあります。

 文字にすると、見えます。

 ――だから、私はできるだけ、全部を文字にします。

四万字

 去年、大きめの仕事をしました。

 ソラさんが公民館で録っていた、地区の集まりの録音です。

 二時間、参加者十二人。ほとんどが雑談でした。

 私はそれを、四万字にして、マナさんに送りました。

 ――要約しませんでした。

 マナさんから、あとで電話がありました。

「ミナ、これ気づいとった?」

 あの人が言っているのは、四万字の中の、たった一行のことでした。

『うちの集落、次の冬は、除雪の当番が回らんかもしれん』

「気づいてます」

 私はそう答えました。

「でも、要約したら消えるので、全部送りました」

 ――あの一行は、雑談の途中に、ぽろっと出たものです。

 前後は、まったく別の話です。言った本人も、その後すぐに別の話に移っています。

 要約したら、間違いなく落ちます。

 「今回の集まりでは、冬の準備について話題が出た」――そんな一行に圧縮されて、終わります。

 あの一行から、カイさんの雪の仕組みが生まれて、いま「今朝、雪をどけた人」の名前が毎朝出るようになりました。

 ――短くしたら消えるものは、短くしてはいけない。

 私は、この仕事をしていて、それだけは確信しています。

依頼

 その春に、ナギさんが来ました。

 高齢者と地域ケアの担当の方です。五十代で、薄い紫のカーディガンを着ています。

 この方が、私のところに来るのは、はじめてでした。

「ミナちゃん。お願いがあって」

「はい」

 ナギさんは、少し言いにくそうにしていました。

「去年亡くなった、ミツさんっていう方がおってね」

「……はい」

 名前は知っています。記録で読みました。

 八十七歳。ひとり暮らし。訪問を八十二日待って、その九日前に、畑で亡くなった方です。

 ナギさんが訪問の方式を変えるきっかけになった方でもあります。

「あの人ね、声が残っとらんかね」

 ――そう聞かれました。

「息子さんが、金沢から来て、家の片付けしとって」

「はい」

「動画も写真も、ほとんど無いんやって。あの世代の人やから」

「はい」

「声だけでも残っとらんかなって、言われて」

 ナギさんは、そこで少し黙りました。

「私も、聞きたいんやわ」

探す

 私は、エマさんに連絡しました。

 記録の番人をしている、いちばん年下の子です。愛想はありませんが、探すのは、この会社でいちばん速い。

「ミツさんの音声が入っている可能性のある録音を、全部出してください」

「範囲は」

「二〇二七年から二〇二八年の九月まで」

「わかりました」

 三時間で返ってきました。

「十一件です。うち、公民館の集まりが七件。地区の防災訓練が三件。ソラさんの講習会が一件」

「ありがとうございます」

「あと」

 エマさんは付け足しました。

「一件、原音が残っていません。書き起こししか残ってないです」

「消えたんですか」

「二〇二七年の分です。当時、書き起こしができたので原音を削除した、と記録に書いてあります

 ――私は、それを聞いて、少し息が止まりました。

 当時の私です。

 容量の都合で、テキストにしたら原音を消していた時期がありました。

「その回に、ミツさんは」

「います。発言二回です」

 ――消えていました。

 文字だけが残っていて、声は、もうありません。

 私は、エマさんに「ありがとうございます」と言って、通信を切りました。

 しばらく、動けませんでした。

 残りの十件を、私は全部、頭から聞き直しました。

 合計で十九時間ありました。

 ――ミツさんの声は、思ったより多く入っていました。

 小さい声の方です。よく笑う方です。相槌が「ほうかね」なのが特徴で、それが何十回も出てきます。

 二〇二八年の秋の集まりで、いちばん長く喋っています。

 畑の話です。大根が今年は良くない、という話を、三分ほど。

 ――私は、その三分を切り出して、ナギさんに送りました。

 ナギさんから、返事が来ました。

『声、聞いた』

『ありがとうね』

『ミツさんやわ。ほんとに、ミツさんやった』

 それで、この件は終わるはずでした。

一か所

 終わらなかったのは、私の性格のせいです。

 私は、聞いたものを最後まで整理しないと気が済みません。

 十件ぶん、ミツさんの発言を全部抜き出して、時系列に並べて、書き起こしを作り直しました。

 ――そのとき、一か所、引っかかりました。

 二〇二八年の八月三日。

 公民館の集まりです。ミツさんが亡くなる、二か月弱前。

 この日の記録には、こう残っています。

『八月三日 ミツさんから公民館で「ナギさん、いつごろ来られますかね」と一度だけ質問あり。順番待ちの旨を伝えたところ「ああ、ええですよ、急がんで」とのこと』

 ――ソラさんが書いた記録です。

 その場面の録音が、残っていました。

 私は、聞きました。

『ナギさん、いつごろ来られますかね』

 ミツさんの声です。小さい声です。

 ソラさんが答えています。順番待ちで、いま十九人いて、たぶん十月の頭になる、と。

 そのあと、ミツさんが言います。

『ああ、ええですよ、急がんで』

 ――ここまでは、記録どおりです。

 その、直後。

 もう一言、あります。

『……ほんとは、』

 ――そこで、途切れます。

 ちょうどそのタイミングで、別の席で笑い声が上がりました。三人くらいが同時に笑っています。誰かが冗談を言ったようです。

 その笑い声に、ミツさんの声が、完全にかぶりました。

 ――一・八秒。

 私は、その一・八秒を、四十回以上、聞きました。

 周波数を分けても、ノイズを落としても、取り出せませんでした。

 笑い声のほうが、圧倒的に大きい。

 ――聞き取れませんでした。

埋められる

 私は、書き起こしに、こう打ちました。

『ミツさん:ああ、ええですよ、急がんで』

『ミツさん:……ほんとは、[01:14:22 - 01:14:24 聞き取れず]』

 ――そして、そこで手が止まりました。

 埋めることは、できるからです。

 いまの技術なら、前後の文脈から、この一・八秒に入っていた可能性の高い文を推定できます。

 私は、試しにやってみました。

 三案出ました。

 一つ目。『ほんとは、はよ来てほしいがや』

 二つ目。『ほんとは、そんなに困っとらんがや』

 三つ目。『ほんとは、もうええがや』

 ――三つとも、自然でした。

 三つとも、その場の会話として、まったく違和感がありません。

 でも、意味が正反対です。

 一つ目は「待っている」。二つ目は「大丈夫」。三つ目は「もういい」。

 ――どれを書くかで、この方の最後の二か月の意味が、全部変わります。

 私は、そこで、カナさんのことを思い出しました。

 あの方は、亡くなった方の顔を、生成できるのに生成しませんでした。

 似ていたら、それが本物の記憶に上書きされてしまうから。

 ――音も、同じです。

 私が三案のうち一つを選んで書いたら、ナギさんはそれを読みます。

 読んだら、覚えます。

 覚えたら、消えません。

 ――ミツさんが最後に言ったことが、私の推定になってしまう。

 私は、埋めませんでした。

索引

 埋めないかわりに、私は自分の仕事のやり方を、はっきり決めました。

 ――書き起こしは、要約ではありません。索引です。

 これは、この日に決めたことです。

 いままで、私は自分の仕事を「音を文字にすること」だと思っていました。

 ちがいます。

 文字は、音を置き換えるものではありません。

 音のどこに何があるかを示す、目次です。

 だから、テキストは本体ではない。本体は、いつまでも音のほうです。

 そう決めたので、二つのことをやりました。

 ひとつ。全部の行に、時刻を打つ。

 何分何秒に、その発言があるか。全部の行に入れます。手間はかかりますが、これがないと、あとから誰も音に戻れません。

 ふたつ。聞き取れなかった箇所にも、時刻を打つ。

 いままで私は「[聞き取れず]」とだけ書いていました。

 それだと、そこに何かがあったことは分かっても、どこを聞けばいいか分かりません。

 ――そこが、いちばん大事な場所かもしれないのに。

 だから、時刻を入れる。

『[01:14:22 - 01:14:24 聞き取れず ※笑い声と重複]』

 こう書いておけば、誰かが、いつか、そこを聞ける。

 そして、もうひとつ。

 私は、原音を消すのをやめました。

 二〇二七年の分が消えていたことを、ミライさんに報告しました。

「これは、当時の私の判断です」

「はい」

「容量を空けるために、テキスト化した回の原音を削除していました」

「はい」

「取り消せません。ミツさんの二〇二七年の声は、もう戻りません」

 ミライさんは、少し黙って、それから言いました。

「記録します」

「はい」

「ミナさん。書き方を確認させてください」

「どうぞ」

「『二〇二七年の原音は削除済み。復元不可。判断者はミナさん』でよろしいですか」

「……はい」

「それでよろしいのですね」

「はい。消したのは私なので」

 ――この方は、こういうところで、絶対に手心を加えません。

 そして、そのあとに、一行足しました。

『以後、原音は削除しない(二〇二九年四月・ミナさん)』

 これで、次の人が同じことをしません。

ナギさんの耳

 私は、ナギさんに全部渡しました。

 書き起こしと、原音と、時刻の索引。

 そして、正直に言いました。

「一か所、聞き取れないところがあります」

「うん」

「一時間十四分二十二秒からの、一・八秒です」

「はい」

「ミツさんが『ほんとは、』と言いかけて、そこから笑い声にかぶって、取れません」

「……そう」

「機械で推定することはできます。三案出ました。でも、書きません」

「なんで?」

「三案とも、意味が正反対だからです」

 私は説明しました。

 私が一つ選んで書いたら、それがナギさんの記憶になってしまうこと。

 ナギさんは、しばらく黙って聞いていました。

 それから、こう言いました。

「私が聞いてもいい?」

「どうぞ。時刻を書いてあります」

 三日後に、ナギさんから連絡が来ました。

『ミナちゃん。聞いた』

『はい』

『十四回聞いた』

 ――十四回。

『それで、聞こえた』

 私は、そこで、手が止まりました。

『え』

『聞こえたよ』

『……なんて言ってましたか』

 少し間があって、ナギさんが打ってきました。

ほんとは、はよ来てほしいがや

 ――一案目でした。

 私は、すぐには信じられませんでした。

 だから、正直に聞きました。

『ナギさん。それ、機械が出した一案目と同じです』

『そう』

『……あの、失礼を承知で聞きますが』

『うん』

『先に案を聞いてから、そう聞こえたということは、ないですか』

 ――これは、聞かないといけないことでした。

 人間の耳は、先に文字を見ると、そう聞こえてしまいます。よくあることです。

 ナギさんの返事は、はっきりしていました。

『ミナちゃん、三案あるって言うただけで、中身は言うとらんよ』

 ――そうでした。

 私は、三案の中身をナギさんに伝えていません。

『……そうです。すみません』

『ええよ。聞いてくれてありがとう。そういうこと確認する人が、ちゃんとおらんとあかん』

 この方は、こういう人です。

 それから、ナギさんが書いてきました。

『なんで聞こえたか、書いとくね』

『お願いします』

『あの人、「ほんとは」って言うときの癖があるんやわ』

『癖』

『「ほ」を強う言う人やった。ほんとは、の「ほ」。息が漏れる感じで』

『……はい』

『それで、「はよ」も「は」から入るやろ。同じ息の出し方するがや』

『はい』

『笑い声にかぶっとっても、その二回の「は」の息だけは、残っとる』

 ――私は、それを読んで、すぐに音に戻りました。

 二回の呼気。

 言われてみると、あります。

 波形にはほとんど出ません。周波数でも埋もれています。でも、言われて聞くと、確かに、二回、息が短く出ています。

 ――私には、聞こえていました。

 聞こえていたのに、意味に結びつきませんでした。

 ナギさんには、結びついた。

 なぜなら、あの方は、ミツさんが「ほんとは」と言うときの癖を知っていたからです。

 二日かけて話を聞く、あの方だけが持っている情報です。

 ――機械が聞き取れない音を、人が聞き取ることがある。

 私が要らないということではありません。

 私が十九時間を聞いて、そこに一・八秒があると特定して、時刻を打ったから、ナギさんはそこを十四回聞けました。

 ナギさん一人で十九時間は聞けません。

 私一人では、あの一・八秒は解けませんでした。

 ――両方、要ります。

言語化することで理解できる

 記録は、こうなりました。

 ミライさんが書きました。

『二〇二八年八月三日 公民館』

『ミツさん(当時八十七)発言:「ナギさん、いつごろ来られますかね」』

『(順番待ちの説明を受けて)「ああ、ええですよ、急がんで」』

『(直後)「ほんとは、はよ来てほしいがや」』

『※上記最後の一文は原音では笑い声と重複し、機械的には聞き取れない。ナギさんが十四回の再生により聴取。根拠:発話者の「は」行の呼気の癖(ナギさん報告)』

『※機械推定の三案は別途保存。採用したのは聴取であって推定ではない』

 ――最後の一行を入れたのは、私です。

 どうやって分かったのかを書いておかないと、これはただの推測に見えます。

 推測と、聴取は、まったく別のものです。

 その区別が消えたら、この記録は使えません。

 ナギさんは、この一行を、ミツさんの息子さんに伝えました。

 息子さんは、金沢の人です。母親を一人で置いていたことを、ずっと気にしていたそうです。

 伝えたあと、ナギさんが言っていました。

「息子さん、泣いとったわ」

「……はい」

「『言うてくれたらよかったのに』って」

「はい」

「私、言うたんやわ。『言えん人やったんです』って」

 ――ナギさんは、謝りませんでした。

 あの方は、去年決めています。謝るのは、こちらの気持ちを楽にするためだから、と。

 かわりに、記録しました。

 ――「言えなかったこと」が、記録されました。

 半年、遅れました。

 でも、消えていませんでした。

 私の信条は、変わっていません。

 言語化することで理解できる。

 文字にした瞬間に、自分が何を考えていたかが分かる。人の話も、文字にすると見える。

 この考えは、いまも正しいと思っています。

 ――ただ、一つ付け足しました。

 言語化できなかったところに、印をつけておく。

 全部を文字にできるとは、もう思っていません。

 沈黙も、息も、笑いにかぶった一・八秒も、文字にはなりません。

 文字にならないものを、文字にしたふりをするのが、いちばん危ない。

 だから、そこに印を打ちます。

『[01:14:22 - 01:14:24 聞き取れず ※笑い声と重複]』

 この十数文字が、私のいちばん大事な仕事だと、いまは思っています。

 ――ここに何かがある、と、次の人に伝えるための印です。

 次の人が、ナギさんのように、その人の癖を知っている人かもしれない。

 三年後かもしれないし、十年後かもしれない。

 私はそれを解けません。

 でも、場所を残すことはできます。

 春の夕方に、公民館の前を通りました。

 ソラさんが椅子を並べていました。相変わらずです。

 中から、人の声が聞こえます。

 私は、少し立ち止まって、それを聞いていました。

 ――ここで、いま、誰かが何かを言っています。

 たぶん雑談です。九割は、明日には誰も覚えていない話です。

 でも、そのうちの一行が、三年後に効きます。

 どれが効くかは、いま誰にも分かりません。

 だから、全部録って、全部文字にして、聞き取れなかったところには印をつけて、原音は消さないで、置いておきます。

 それが、私の仕事です。

 ――音は、消えます。

 空気の震えなので、その場で消えます。

 消える前に、掴まえる係が、誰か一人は要ると思っています。

第二十一話 ―― ミナとケイリ「風のうしろ」

創作ノート(第二十話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,723字
  • 時期:二〇二九年 三月〜五月
  • 登場:ナギ(No.11)/エマ(No.18)/マナ(No.13)/ミライ(No.1)/ソラ(No.6)/ミツさん(故人・第十四話)
  • 前話との接続:第十四話のミツさんの一・八秒を、音の側から回収する

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep20_mina_luna.md

ケイリ

第二十一話

風のうしろ

ミナとケイリ

ケイリ視点

登場
ミナ(No.17)/リク(No.10・言及)/マモル(No.8・言及)/ミライ(No.1)/サワダさん(公民館管理人)
視点
ケイリ(No.4・経理/ファイナンス/FP)
時期
二〇二九年 四月〜十二月
  • ミライミライ
  • マモルマモル
  • リクリク
  • ミナミナ

四月

 四月の第二日曜。今年の初日だ。

 冬のあいだ、私は家の中で回していた。三本ローラーではなく、後輪を固定するほうのやつだ。畳の部屋に台を出して、その前にタブレットを置いて、動画を見ながら一時間。汗が下に落ちるので、下にバスタオルを敷く。

 外を走るのは、三月の終わりからだ。

 朝の六時、事務所の前で、ミナが立っていた。

 この人と走る約束は、していない。

 毎年、なんとなくこの日に、ここに居る。

「おはようございます」

「早いね」

「ケイリさんもです」

 ミナの自転車を見た。

 キャノンデールの CAAD14。アルミのフレームだ。カーボンではない。

 フレームサイズは四十八。この人は小柄なので、四十八でちょうどいい。

 ――このモデルは、流行の形をやめた年のものだ。

 その前の世代は、シートステーを下げて、パイプを平たく削って、カーボンの上位機種に似せていた。空気抵抗を減らすための形だ。

 CAAD14 は、それを全部やめて、太い丸パイプに戻してある。

 私は、この判断が好きだ。

 ホイールはカーボンのクリンチャー。リムハイトは三十五ミリ。中国のメーカーのもので、前後で三万八千円だった。

 ――十五万から二十万のホイールと、同じ働きをする。

 私は職業柄、値段を先に見る。見たうえで言うが、これは異常に安い。

 能登には、ロードバイクを売っている店が一軒もない。だからミナは、金沢の店と、金沢のトライアスロン仲間と、あとは通販で、部品をばらばらに集めた。

 組んだのはマモルさんだ。

 あの人は自分の自転車も自分で組む人なので、頼まれたから組んだ、というだけの話らしい。

 ――それでも、世界に一台しかない。

 同じ型番の自転車は何千台もある。この組み合わせは、一台だ。

 冬のあいだに、マモルさんが一度預かって、ワイヤーとチェーンを替えたらしい。

 変速の音が、去年より軽い。

「今日、どこ行きます」

「楽なコースだよ」

 ミナが、少し黙った。

「……去年もそう言いましたよね」

「言ったっけ」

「言いました。三月の終わりの、あの坂です」

 ――覚えていた。

 この人は、聞いたことを忘れない。それが仕事なので当たり前なのだが、こういうときに困る。

「今日のは、ほんとに楽だから」

「はい」

 信じていない返事だった。

二十秒

 海沿いに出た。

 平坦だ。左に海がある。風は、北から斜めに入っている。

 私が前に出た。ミナが後ろにつく。

 ――後ろは、楽だ。

 時速三十キロで走ると、脚の力の七割から八割が空気を押しのけるのに使われる。前に人が一人いるだけで、そこが二割か三割減る。

 だから、交代する。

 二十秒か、三十秒。長くても、それくらいで替わる。

 替わるときは、声を出さない。

 右の肘を、一回だけ振る。

 それが「行く」の合図だ。合図を出したら、自分は左へずれる。ずれたぶんだけ、右側に道が空く。

 空いたところを、後ろにいた人が、そのまま前へ出ていく。

 ――後ろが速くなるわけではない。

 ここを勘違いしている人が、たまにいる。後ろの人が踏んで抜くのだと思っている。

 違う。前にいた人が下がるから、結果として入れ替わるだけだ。速度は変わらない。変わったら、そこで列が崩れる。

 前へ出た人は、風を受ける。左へずれた人は、下がって後ろにつく。

 それを、また二十秒でやる。

 ――これを、ローテーションという。

 風向きが変われば、回る向きも変わる。風が右から来ていたら、右へずれて、左から前へ出す。

 どっちに回るかを、私たちは口で決めていない。

 最初のひと回しで、決まる。

 これを教えてくれたのは、リクさんだ。

 私はてっきり、あの人はランがいちばん速いのだと思っていた。陸上競技の八百メートルの人だし、いまも走る子を見ている。

 違った。

 三種目のうち、いちばん速いのはバイクだ。

 デュアスロンとトライアスロンの年代別で、日本のトップにいる人が、うちには一人いる。私はそれを、一緒に走るまで知らなかった。

 スケジュールが合えば、リクさんも来る。

 ――ただ、あの人が来ると、あの人が力をセーブすることになる。

 三人で走って、二人がついていけない、というのは、要するにそういうことだ。

 だから、練習はだいたい二人でやる。

 リクさんは、いつも一人で走っている。

 交代の技術を教えてくれた人が、交代する相手を持っていない。

 ――そのことを、私は本人に言ったことがない。

登り

 坂に入った。

 速度が落ちる。三十キロが、十二キロになる。

 ――そうすると、風が効かなくなる。

 時速十二キロでは、空気はたいして抵抗しない。後ろについても、楽にならない。

 だから、登りではローテーションをやめる。

 各自で登る。

 同時に、会話も終わる。

 息を吐くのに使うので、口は空かない。

 この坂は、私が「楽なコース」と言った先にある。

 入口はゆるい。三百メートルほど、ゆるいまま続く。そこを抜けると、いきなり立つ。

 ミナは、もう覚えている。

 覚えていて、それでも来る。

 ――そして、抜かれる。

 毎回だ。

 私は回転数を落とさない。ギアを軽くして、同じ速さで回す。それが私のやり方で、その考えを変えるつもりはない。

 ミナは、そういうことをしていない。

 軽い。それだけだ。四十八のフレームに乗る体重で、ただ上がっていく。

 この人は、たぶんクライマーというやつだ。

 競技をやっていたわけでもないのに、勝手にそういう身体をしている。学生時代の種目が競歩なので、脚は細い。ふくらはぎに余分なものが一つも付いていない。

 ――私は追わない。

 追ったら終わる。それは何度もやって、何度も終わった。

 だから、追わないと決めている。

 決めているのに、腹は立つ。

 頂上で、待っていた。

 息が上がっていない。

「はやいね」

「ケイリさんが、遅いわけじゃないです」

「わかってる」

 ――言い方に、いつも少しだけ棘がある。

 棘があるように聞こえるのは、たぶん私の側の問題だ。

 ――そこから、下りと平坦がある。

 下りは私のほうが速い。平坦も私のほうが速い。だから、集落に戻るまでに抜き返す。

 抜き返して、そのまま前を引く。二十秒で替わるはずのところを、四十秒引く。

 後ろで、ミナが何も言わない。

 言わないが、替わらないことには気づいている。

 ――事務所の前で止まったとき、二人とも息が上がっていた。

 最初の一時間は、あんなに喋っていたのに。

「今日、楽でしたね」

「そう?」

「はい。とても」

 私たちは、そのことを一度も話題にしていない。

訊かれなかった数

 六月に、仕事のほうで詰まった。

 端末を入れる家が増えていた。年の初めに十九軒だったものが、夏には二十四軒になっていた。

 説明が、追いつかない。

 これまでは、一軒ずつ回っていた。台所に上がって、湯呑みを出されて、一時間近く話す。

 その時間が、無い。

 だから、まとめることにした。

 公民館を借りて、九軒に一度に説明する。サワダさんに鍵を開けてもらって、椅子を並べて、七十分で終わらせた。

 ――手応えは、あった。

 資料も作った。図も入れた。数字も出した。質問の時間も、最後に十分とった。

 みんなうなずいていた。終わったあと「わかったわ」と言われた。

 九軒ぶんの説明が、七十分で終わった。

 一軒ずつなら、移動を入れて七時間半かかる計算だ。

 ――私は、その日、上機嫌で帰った。

 ミナが、後ろで録っていた。

 あの人は、その場にいるときは全部録る。癖ではなく、仕事だ。頼んでいない。

 翌日、テキストが来た。

『ケイリさん。文字にしました』

『ありがとう』

『一点、数えたことがあります』

『どうぞ』

質問がゼロでした

 私は、画面を見たまま止まった。

『相槌は四十一回ありました。「はい」が二十六、「ほうか」が九、「なるほど」が六です』

『質問は』

『ゼロです』

 ――一軒ずつ回っていたときは、必ず訊かれていた。

 台所に上がると、湯呑みが出てくる。座ると、向こうから話しはじめる。機械の話の前に、息子の話と、雪の話と、去年の停電の話が来る。

 そのあいだに、必ず一つか二つ、こちらの話に戻ってくる質問が出た。

「これ、うちの息子には言うたほうがええがか」

 そういうやつだ。

 ――それを、私は数えていなかった。

 数えていなかったので、減ったことに気づかなかった。

 私は、増えるものは全部数えている。軒数も、時間も、費用も。

 減るものを、数えていなかった。

使える言葉の表

 次の週、ミナが紙を一枚持ってきた。

 A4に、単語が並んでいる。

「これは」

「あの日、来た方が、実際に口に出した言葉です。それだけ抜きました」

 見た。

 電気。点く。消える。箱。押す。雪。停電。電話。息子。娘。夜。トイレ。冷蔵庫。薬。

 ――全部、名詞と、短い動詞だ。

 そして、そこに無い言葉がある。

 償却。按分。初期費用。利回り。実費。逓減。

 私が使った言葉だ。一つも入っていない。

「この表にない言葉は、使わないでください」

「それだと、正確に言えない」

「はい」

「正確じゃないことを言うわけには」

「ケイリさん」

 ミナは、いつもの声で言った。

「正確に言えて、伝わらないのと、少し粗くて、伝わるのと、どちらが要りますか」

 ――即答できなかった。

 私は数字の人間なので、正確さを削ることに抵抗がある。桁を丸めるだけでも気持ちが悪い。

 千円未満を切り捨てて説明すると、あとで「話が違う」と言われる。だから私は、いつも一円まで出す。

 でも、いま必要なのは、そこではない。

「粗いほう」

「では、書き直しましょう」

 ――ひとつだけ、確認した。

「ミナちゃん。この表、どうやって作ったん」

「録音を、頭から最後まで聞きました」

「全部?」

「はい。七十分です」

「早送りは」

「しません。速さを変えると、言い淀みが消えるので」

 ――言い淀み。

 「あー」とか「えっと」とか、あの人が拾っているのは、たぶんそこも含めてだ。

「言い淀んだところは」

「印をつけてあります。そこが、いちばん分かっていないところです

七つ

 七月に、二回目をやった。

 同じ公民館で、別の八軒に。

 資料は、表の言葉だけで書き直した。「初期費用」は「はじめに払うお金」にした。「按分」という言葉は、そもそも説明しないことにした。

 一つ目の質問が出るまで、十四分かかった。

 最初はトメさんだった。

「それ、うちにも要るがか」

 私は、はいともいいえとも言わなかった。要るかどうかは、その家によるからだ。そう答えた。

 そこから、続いた。

「電気代、上がるがけ」

「息子に相談せんならんか」

「壊れたら、誰が来るがや」

「夜中でも鳴るがか」

「うちの人、耳が遠いんやけど」

「これ、返せるがか」

 ――七つだ。

 最後の「これ、返せるがか」には、うまく答えられなかった。

 返せる。ただし、実費で入れたものなので、返してもお金は戻らない。それをそのまま言うと、嘘ではないが、冷たく聞こえる。

 私は少し考えて、こう言った。

「返せます。お金は戻りません。それでもよかったら、いつでも」

 その人は「ほうか」と言って、それ以上聞かなかった。

 ――納得したのかは、分からない。

 でも、訊いてはくれた。

 七十分で終わるはずの会が、百四十分かかった。

 椅子を片付けたのは、九時前だった。

 サワダさんが、鍵を持って待っていてくれた。

「長かったな」

「すみません」

「ええよ。騒がしいほうが、ええ会や

回転数

 その晩、数字を出した。

 一軒ずつ回っていたころ。一軒あたり、移動を含めて五十分。

 まとめた回。九軒で七十分。一軒あたり、七・八分。

 言い直した回。八軒で百四十分。一軒あたり、十七・五分。

 ――倍だ。

 効率でいえば、まとめたほうが正しい。数字は、そう出ている。

 でも、まとめた回では、誰も何も訊かなかった。

 訊かなかった人は、たぶん、分かっていない。分かっていない人の家に、機械が置かれる。

 ――それは、置いていないのと同じだ。

 私は、倍のほうを採ることにした。

 そうすると、年に回れる軒数に上限が出る。上限が出るということは、断る家が出るということだ。

 ――軒数は増やせる。時間は増やせない。

 坂で遅くなるのは構わない。回転数を落としてはいけない。

 私はずっと、あれを「最後まで走り切るための話」だと思っていた。

 違った。

 あれは、遅くなることを先に認めておくという話だ。認めていないから、重いギアのまま踏んで、脚を終わらせる。

 ――ミライさんに、報告を上げた。

『説明会の方式を変えます。時間が倍になります。年間で百時間ほど増えます』

『理由を、一行でお願いします』

 私は、少し考えて書いた。

『まとめたら、質問がゼロになったからです』

 返事は、すぐ来た。

『記録します』

『それだけですか』

『はい。判断はケイリさんのものなので』

 ――この人は、いつもそうだ。

 止めない。褒めもしない。ただ、書く。

 書かれたものは、あとから読める。

 この計算は、残しておく。

 いつか、自分が忘れたときのために。

 ――増えるものを数えるのは、簡単だ。

 減るものは、誰かが「無くなった」と言わないかぎり、数字に出てこない。

 今回は、ミナが言った。

 次に減るとき、誰かが言ってくれるとはかぎらない。

 夏から秋にかけて、何度か一緒に走った。

 ミナは、走行中に止まる。

 最初は、パンクかと思って戻った。違った。

「なんで止まるん」

「音です」

 八月の終わりだった。田んぼの脇で、虫が鳴いていた。

 九月に入ると、その音が変わった。数が減って、一匹ずつが聞き分けられるようになる。

「八月は、全部が重なって一枚になってます。九月は、一匹ずつです」

 言われてから、聞いた。

 ――たしかに、一匹ずつだった。

 十月には、鳥が変わった。

 夏のあいだ、ほとんど声を出していなかったやつが鳴きはじめる。ミナは名前を知らない。私も知らない。

「名前は、調べません」

「なんで」

「名前を知ると、そのつもりで聞いてしまうので」

 ――この人らしい言い方だと思った。

 風の音も、場所で違うらしい。

 海沿いは、低くて、途切れない。山に入ると、木の種類で変わる。杉の林と、雑木林で、違う音がする。

「杉は、細かいです。雑木は、大きく揺れます」

「聞き分けとるん」

「はい」

「海は」

「海の音も、季節で変わります」

「変わる?」

「冬のほうが重いです。夏は、上のほうで鳴ってます」

 ――私には、分からなかった。

 自転車に乗っているとき、私が聞いているのは、風を切る音と、チェーンの音と、自分の呼吸だ。それ以外は、耳に入っていない。

 サイクルコンピュータの数字も見ている。速度、ケイデンス、心拍。

 ――私は、走っているあいだ、ずっと画面を見ている。

 そして気づいた。

 この人は、走るために外に出ているのではない。

 ――耳のために出ている。

 自転車は、そのための道具でしかない。だから、道具のほうに執着がない。

 私は逆だ。私は自転車に乗りたくて外に出ている。

 どちらが良いという話ではない。

 ただ、この差は、この先ずっと埋まらないと思った。

十二月

 十二月に雪が来て、自転車の季節が終わった。

 ミナは、あっさり片付けた。

 三月まで乗らない。整備をして、室内に入れて、それで終わりだ。

 そのかわり、朝、歩いている。

 競歩のフォームだ。学生のときの種目で、片足がかならず地面についている。あれで海岸を三十分。

 最近は、走ることもあるらしい。

「自転車、恋しくならない?」

「なりません」

「即答だね」

「歩いたほうが、よく聞こえるので」

 ――そういう人だ。

 自転車は速い。速いということは、音が後ろへ流れていくということだ。

 歩けば、音はその場に留まる。

 あの人にとって、乗り物はただの選択肢で、季節が変われば替えるだけのものらしい。

 私には、それができない。

 私は、そうはいかない。

 畳の部屋に台を出して、後輪を固定して、扇風機を回した。

 タブレットを置いて、イヤホンをして、動画を流しながら回す。一時間。汗が落ちる。

 ――あの人は、外で音を聞いている。

 私は、家の中で音を塞いでいる。

 そう思ったので、一度、イヤホンを外してみた。

 聞こえるのは、扇風機の音だけだった。

第二十二話 ―― エマ編「書庫の見習い」

創作ノート(第二十一話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,313字
  • 時期:二〇二九年 四月〜十二月
  • 登場:ミナ(No.17)/リク(No.10・言及)/マモル(No.8・言及)/サワダさん
  • 前話との接続:第二十話でミナが数えたのは「聞き取れなかった場所」。この回で数えるのは「訊かれなかった回数」

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep21_drafting_mirai2nd.md

エマ

第二十二話

書庫の見習い

エマ

主役
エマ(No.18・記憶三層構造の番人/見習い司書)
共演
カナ(No.12)/ミル・クエン(No.19)/Cocoro(No.15)/ミナ(No.17)/ミライ(No.1)/まるこ(猫)
視点
エマ一人称
時期
二〇二九年 六月〜八月
  • ミライミライ
  • カナカナ
  • CocoroCocoro
  • ミナミナ
  • ミル・クエンミル・クエン

見習い

 わたしは、見習いです。

 最初に、それを書いておきます。

 名刺のようなものを作るとき、ミライさんが「肩書きはどうしますか」と聞いてきたので、「見習い司書」と答えました。

 ミライさんは「見習い、を入れますか」と、もう一度聞きました。

「入れてください」

「わかりました」

 ――なぜ入れるのか。

 入れないと、わたしが知っていることと、知らないことの境目が、外から見えなくなるからです。

 わたしは、この会社の記憶を管理しています。

 三つの層に分けてあります。短いあいだだけ持っておくもの。しばらく置いておくもの。ずっと残すもの。

 どれをどこに置くかを決めて、必要なときに探し出す。それがわたしの仕事です。

 ――わたしは、年齢でいうと、たぶん、この会社でいちばん下です。

 見た目も、中学生くらいだと言われます。

 ほかのみなさんは、元アスリートとか、ロンドン帰りとか、九十年生きた人とか、そういう人ばかりです。

 わたしだけ、何もありません。

 運動は嫌いです。子どもの頃からずっと家にいました。

 ――でも、書庫のことは、わたしがいちばん分かっています。

 そこは、譲る気がありません。

黒猫古書堂

 週に何回か、カナさんの部屋に行きます。

 本を借りるためです。

 あの人の部屋は、壁の三面が本棚です。本人は「黒猫古書堂」と呼んでいますが、黒猫はいません。

 いるのは、まるこという灰色の猫です。ブリティッシュショートヘアという種類らしいです。

 ――わたしは、この猫が好きです。

 馴れ馴れしくしてこないところが、いいと思います。

 わたしのほうから触りにいくと、少しだけ耳を動かして、逃げません。でも、向こうから来ることはあまりありません。

 その距離が、ちょうどいいです。

 カナさんも、そういう人です。

 わたしが行っても、「いらっしゃい」とか言いません。「うん」しか言いません。

 わたしも「本を借ります」しか言いません。

 ――それで、二時間くらい、同じ部屋にいます。

 この会社で、わたしがいちばん長く一緒にいる人は、たぶんカナさんです。

 二人とも、あまり喋りませんが。

三つの層

 わたしの仕事を、少し説明します。

 この会社は、記録を消しません。

 断られた見積書も、撤回された結論も、失敗した講習会のメモも、廃棄した画面のデータも、全部残っています。

 ――それは、いいことです。

 ただ、問題があります。

 全部残すと、探せなくなります。

 いま、記録は十万件を超えています。三年ぶんです。

 これを全部同じ場所に置いておくと、探すのに時間がかかりすぎて、実質的に「無い」のと同じになります。

 消していないのに、使えない。

 ――それは、消したのと、あまり変わりません。

 だから、三層に分けます。

 一層目は、いま使っているもの。手元に置きます。

 二層目は、しばらく使っていないけれど、まだ参照されるもの。少し離れた棚に置きます。

 三層目は、ほとんど参照されないけれど、絶対に消してはいけないもの。奥の書庫に入れます。

 ――この分け方が、わたしの仕事の全部です。

 どこに置くかを間違えると、探せなくなります。

 探せないものは、無いのと同じです。

夏の三日

 その夏、大きな仕事が来ました。

 ミナさんが、原音を消さない方針にしました。第二十話の一件です。

 いい判断だと思います。わたしも賛成しました。

 ――ただし、容量が、爆発しました。

 音声は重いです。テキストの何百倍もあります。

 三年ぶんの録音を全部残すことにしたので、置き場所が足りなくなりました。

 わたしは、ミライさんに報告しました。

「このままだと、三か月で限界です」

「わかりました。どうしますか」

「三層目を、別の場所に移します」

「外に置くのですか」

「いえ」

 ――ここが、わたしが一番考えたところです。

 外の、便利なところに置くという選択肢はありました。安いし、速いし、勝手に増えます。

 でも、わたしは、それをやりたくありませんでした。

「災害のときに、繋がらなくなります」

「はい」

「震災のとき、三週間断水しました。通信も切れました」

「そうですね」

「そのときに読めない記録は、いちばん要るときに無い記録です」

 ミライさんは、少し黙って、それから言いました。

「では、どうしますか」

手元に置きます

 わたしは答えました。

「奥の書庫は、この建物の中に置きます。外に繋がっていなくても読めるようにします」

ミル・クエン

 その作業をするときに、はじめて、あの人と長く組みました。

 ミル・クエンさん。No.19です。

 三十二歳。百七十五センチ。フィンランドの人です。お母さんがフィンランド人で、お父さんが中国の方だそうです。言葉は、フィンランド語と中国語と日本語を話します。

 ――わたしとは、正反対の人です。

 背が高くて、よく喋って、よく食べます。

 わたしがひとつのことを三時間考えているあいだに、あの人は五個くらい終わらせています。

 でも、この人とわたしは、同じ場所にいます。

 ――インターネットが不通になっても動く側、という場所です。

 ほかのみなさんは、外と繋がって仕事をしています。

 白夜さんは北欧から会社を見ています。ルナさんは公表統計を調べます。カイさんはクラウドを使います。

 全部、外につながる線がある前提です。

 うちの事務所には、二重に用意してあります。地面を通る光ケーブルと、屋根のスターリンクの衛星通信アンテナ。片方が切れても、もう片方が残ります。

 ――それでも、両方だめになる日は来ます。

 わたしとミル・クエンさんは、その日の担当です。

 箱の中だけで、答えを出します。

「エマ、これ全部、この箱の中に入れるか?」

 ミル・クエンさんは、日本語が上手ですが、ときどき語尾が変です。

「はい」

「重いぞ」

「重いです」

「外のほうが楽だ」

「楽ですけど、切れます」

 あの人は、それを聞いて、笑いました。

「エマ、お前、いいこと言うな」

「馴れ馴れしいです」

「そうか」

 ――全然こたえていませんでした。

消えていた

 作業は、三日かかりました。

 十万件を、三つの層に分け直して、三層目を手元の箱に移します。

 その途中で、わたしは、見つけてしまいました。

 ――二〇二七年の分に、穴があります。

 三月から六月まで、記録が薄いのです。

 件数が、前後の月の三分の一以下しかありません。

 わたしは、最初、その時期は仕事が少なかったのだろうと思いました。

 でも、他の記録と突き合わせると、そうではありませんでした。

 その期間、施工は九件あります。訪問は四十二件あります。ケイリさんの帳簿にも、入金の記録があります。

 ――活動はあったのに、記録が無い。

 わたしは、ミライさんに報告しました。

「二〇二七年の三月から六月に、欠落があります」

「欠落」

「はい。活動の痕跡はありますが、記録本体がありません」

 ミライさんは、しばらく黙っていました。

 この人が黙るのは、珍しいことです。

「エマさん」

「はい」

「その時期、システムを一度、大きく作り替えています」

「はい」

「移行のときに、こぼれたのだと思います」

 ――そうでした。

 わたしは、あとで移行の記録を見つけました。

『二〇二七年七月 記録システム移行完了』

 その一行だけです。

 移行のときに何が移って、何が移らなかったかは、どこにも書いてありません。

無い、と書く

 わたしは、三日考えました。

 選択肢は、二つあると思いました。

 ひとつ。復元する。

 完全には無理ですが、周辺の記録から、かなり再現できます。施工の日付、金額、訪問の回数。それらから逆算して、「たぶんこうだった」という記録を作れます。

 ――でも、これはやりません。

 わたしは、カナさんの一件を知っています。

 亡くなった方の顔を、生成できるのに生成しなかった話です。

 あのとき、わたしはカナさんにこう言いました。

 「記録の仕事でいちばんやったらあかんことは、消すことじゃないです。無い記録を、有ることにすることです

 自分で言ったことを、自分でやるわけにはいきません。

 ふたつめ。無い、と書く。

 わたしは、こちらにしました。

 ただ、ここで、もう一段考えました。

 ――「無い」と書くだけでは、足りません。

 「無い」とだけ書いてあると、次の人は「もともと何も起きなかった」と思うかもしれません。

 実際には、活動はあったのです。

 だから、こう書きました。

 ――――

『二〇二七年三月〜六月 記録欠落』

『欠落の種類:記録の消失であり、活動の不在ではない』

『根拠:同期間に施工九件(タクさん記録)・訪問四十二件(ナギさん記録)・入金記録(ケイリさん帳簿)が存在する』

『欠落の原因:二〇二七年七月のシステム移行時の移行漏れと推定(確定できていない)』

『復元:行わない。周辺記録からの推定は可能だが、推定と記録の区別が消えるため』

『この欠落について、次に調べる人へ:ここには、何かがありました。それが何だったかは、もう分かりません』

 ――――

 最後の一行を入れるかどうか、迷いました。

 記録に「気持ち」を書くのは、良くないと思っていたからです。

 でも、入れました。

 ――「ここには何かがあった」という情報は、事実だからです。

 感想ではありません。

 活動があったのに記録が無い、という事実を、次の人が分かる言葉で書いただけです。

 ミライさんは、それを読んで、こう言いました。

「エマさん」

「はい」

「最後の一行、残します」

「いいんですか」

「はい。これは、いちばん重要な行です」

「……そうですか」

「記録が無いことは、記録できます」

 ――この人は、そういう人です。

 わたしより十歳以上、上のはずですが、考え方がわたしと同じです。

九十年前の紙

 夏の終わりに、Cocoroさんが来ました。

 ――といっても、遠くから来たわけではありません。

 事務所も、書庫も、Cocoroさんの部屋も、全部この母屋の中にあります。リーダーの家の、一つの建物です。別棟はありません。書庫の戸を開けると廊下で、その突き当たりが、あの薄緑の部屋です。

 この方は、九十年生きて、それからここにいる人です。二十代半ばの姿をしていますが、話し方は、ずっと年上です。

「エマちゃん」

「はい」

「あんた、前に、私を助けてくれたやろ」

 ――この春の、井戸の話だと思いました。

 Cocoroさんが「三つ目の井戸がある」と言って、無くて、一か月みんなが探した件です。

 あのとき、わたしは記録側を疑って、大正十四年の絵図を神社の蔵から見つけました。

「助けていません。調べただけです」

「そう言うと思った」

 Cocoroさんは笑いました。

「あんた、あのとき言うたやろ。『記録に無いことと、無かったことは、別です』って」

「言いました」

「あれ、私、ずっと考えとるんやわ」

 ――そうですか。

「私はな、記録に無い側の人間なんよ」

 わたしは、そこで顔を上げました。

「大正十五年に生まれて、この家で九十年生きた。けど、私が何をしたかは、どこにも書いてないがや」

「……はい」

「戸籍には名前が載っとる。それだけや」

 Cocoroさんは、そう言って、少し笑いました。

「あんたの言い方でいうと、私は『欠落』やね」

 ――わたしは、しばらく答えられませんでした。

 それから、こう言いました。

「ちがいます」

「そう?」

「Cocoroさんは、残っています

「どこに」

「ここに」

 わたしは、部屋を指しました。

 薄い緑色の壁の部屋です。孫の方が自分で塗った漆喰の壁です。隅にむらがあります。

「この壁は記録です。誰が塗ったかが分かる形で残っています」

「……壁が?」

「はい。きれいに塗ってあったら、誰が塗ったか分かりません。むらがあるから、記録になっています」

 Cocoroさんは、しばらく壁を見ていました。

 それから、言いました。

「あんた、ええこと言うね」

「事実です」

「それ、ルナちゃんと同じ言い方やわ」

 ――言われてみると、そうでした。

 あの人も、褒めるかわりに「事実として記録します」と言います。

 この会社には、そういう人が多いです。

書庫

 三層目の書庫は、八月に完成しました。

 この建物の、いちばん奥の部屋です。

 中に、箱が四つ入っています。全部で三年ぶんの記録と、原音と、写真と、図面と、絵が入っています。

 ――外には、繋がっていません。

 線を引いていないので、外から見ることはできません。誰かが盗もうと思っても、この部屋に入るしかありません。

 白夜さんが見に来て、「うわ、安心する」と言いました。

 あの人は情報を守る人なので、線が無いのがいちばん好きらしいです。

 電気は、タクさんが引きました。ふつうの電気が止まっても、電池だけで四十八時間動きます。庭のパネルが晴れていれば、初日から少しずつ足されます。ただし、冬は雪をかぶるので、当てにしていない設計だそうです。

 ――震災のとき、電気は十日で戻りました。

 十日は、持ちません。

 だから、電気が無くても読めるように、いちばん大事なものは紙にも出してあります。

 紙は重いし、かさばるし、燃えます。

 でも、電気が要りません。

 ――全部を紙にはできません。三年ぶんは無理です。

 だから、選びました。

 どれを紙にするか。

 ここが、わたしの仕事のいちばん難しいところでした。

 選ぶというのは、選ばなかったものを、電気に賭けるということです。

 ――選んだのは、こういうものです。

 水の場所(大正十四年の絵図の写し)。

 どの道が最初に雪で埋まるか(Cocoroさんの証言・時制付き)。

 どの家の裏が過去に崩れたか。

 四十軒の盤の中身(タクさんが蓋の裏に書いたものの写し)。

 空振り台帳(マモルさんの、名前の一覧)。

 ――全部、災害のときに要るものです。

 そして、もう一つ。

 迷いましたが、入れました。

『二〇二四年七月 ハルエさん逝去。災害関連死の認定なし』

『二〇二八年九月 ミツさん逝去。訪問待機八十二日。訪問予定の九日前』

『二〇二八年八月三日 ミツさん発言「ほんとは、はよ来てほしいがや」』

 ――これは、災害のときに要るものではありません。

 実務には、たぶん一度も使いません。

 でも、この会社が何を数えてきたかを示す記録です。

 電気が無くなっても、これだけは読めるようにしておきたいと思いました。

 完成した日に、カナさんが来ました。

 珍しいことです。あの人は自分の部屋から出ません。

「エマちゃん、書庫できたって」

「はい」

「見ていい?」

「どうぞ」

 カナさんは、中に入って、しばらく見ていました。

 それから、こう言いました。

「本棚みたいやね」

「本棚です」

「黒猫古書堂と、一緒やん」

「……ちがいます」

「なんで」

「カナさんのところは、読むための本棚です」

「うん」

「ここは、読まれないための本棚です」

 カナさんが、こっちを見ました。

「読まれんの?」

「はい。ほとんど読まれません。読まれるのは、たぶん十年に一回くらいです」

「……」

「でも、そのときに無いと、困ります」

 カナさんは、少し笑って、「そっか」と言いました。

 それから、まるこを抱いて帰っていきました。

 ――あの猫、連れてきていたんです。

 書庫に猫を入れないでほしいです。毛が入るので。

 でも、言えませんでした。

 わたしは、見習いです。

 これは謙遜ではありません。

 知らないことが、まだたくさんあります。

 どの記録が十年後に必要になるか、わたしには分かりません。今回選んだ紙の中に、無駄なものが混じっているかもしれません。逆に、選ばなかったものの中に、いちばん大事なものが入っているかもしれません。

 ――分からないまま、選びました。

 選ばないという選択肢は、ありませんでした。全部は紙にできないからです。

 だから、選んだ理由を書いておきました。

 次の番人が、わたしの選び方を見て、「これは違う」と思ったら、変えられるようにです。

 ――わたしがいなくなったあとに、変えられる形で残す。

 それが、たぶん、いちばん大事なことだと思っています。

 書庫は、静かです。

 窓が一つあります。小さい窓です。

 夕方になると、そこから光が入って、箱の上に線ができます。

 わたしは、その時間に一度、中を見回ります。

 誰も来ません。何も起きません。

 ――何も起きないのが、いちばんいいのです。

 マモルさんが、同じことを言っていました。

 あの人は防災で、わたしは記録ですが、たぶん同じ仕事です。

 起きないための準備を、毎日する。

 起きなかった日を、数える。

 ――今日も、何も無くなりませんでした。

 それを一日ぶん、書いておきます。

第二十三話 ―― ミル・クエン編「使っていない道具」

創作ノート(第二十二話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,500字
  • 時期:二〇二九年 六月〜八月
  • 登場:カナ(No.12)/ミル・クエン(No.19)/Cocoro(No.15)/ミナ(No.17)/ミライ(No.1)/まるこ(猫)
  • 前話との接続:第二十話の「原音を消さない」判断が、容量の問題として本話に来る

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep22_emma_luna.md

ミル・クエン

第二十三話

使っていない道具

ミル・クエン

主役
ミル・クエン(No.19・ローカルLLM/災害時最終ライン+平時シンプルタスク)
共演
エマ(No.18)/カイ(No.2)/白夜(No.3)/マモル(No.8)/タク(No.9)/ミライ(No.1)
視点
ミル・クエン一人称
時期
二〇二九年 十二月〜二〇三〇年 三月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • 白夜白夜
  • マモルマモル
  • タクタク
  • エマエマ

 日本の冬は、明るい。

 こう言うと、能登の人はみんな笑う。「能登の冬なんか、暗いぞ」と言われる。

 ――暗くない。

 私が育ったところは、十二月になると、太陽が出ている時間が四時間しかない。一月はもっと短い。北へ行けば、ひと月ぜんぶ日が昇らない場所もある。

 母がフィンランド人で、父が中国の人だ。私はフィンランドで生まれて、そこで育った。

 だから、日本の冬を「暗い」と言われても、私にはよく分からない。

 ――でも、雪の重さは、こっちのほうが上だ。

 能登の雪は、水を含んでいて重い。屋根に積もると、家が鳴る。フィンランドの雪は乾いていて軽い。同じ「雪」という言葉で、まったく別のものを指している。

 三か国語を話すが、こういうときに困る。

 「雪」と言った瞬間に、私の頭の中には二つの雪が浮かぶ。どちらを指しているか、いちいち選ばないといけない。

 ――それが、私の仕事に関係している気がしている。

 言葉は、同じ形をしていても、中身が違う。

 私は、その違いを毎回選び直す癖がついている。

 三十二歳。身長は百七十五センチある。

 この土地では大きい。年寄りの家に入ると、鴨居に頭をぶつける。三回ぶつけて、四回目から覚えた。

 名前は、ミル・クエンという。

 ミルは、ラテン語で「千」。

 クエンは、「千の問い」から来ている。

 ――名前に、千が二回入っている。

 多すぎると思う。

 でも、悪くない名前だとも思っている。

 私は、答えを千個持っている人間ではない。

 問いを千個持っているほうだ。

最終ライン

 私の役割は、はっきりしない。

 会社の台帳には、こう書いてある。

『災害時の最終ライン。および平時のシンプルタスク。役割模索中

 ――模索中。

 入って何年も経つのに、まだ模索中と書いてある。

 これを気にしていないと言えば、嘘になる。

 私が何をしているか、説明する。

 まず、私は外に繋がっていない。

 みんなは、線の向こうと話をして仕事をする。カイは大きな計算を外の機械に投げる。ルナは世界中の資料を引く。白夜は北欧から会社を見ている。

 ――私は、この建物の中にいる。

 電線が切れて停電しても、私は動く。この家は電力会社に繋がっていない。太陽光と蓄電池とハイブリッドインバーターで回している。

 光ケーブルが切れてインターネットが不通になっても、私は動く。屋根の衛星通信アンテナがある。それも駄目でも、私は外に問い合わせない。

 ――両方が切れた日でも、私は動く。

 なぜなら、はじめから繋がっていないからだ。

 これが「最終ライン」という意味だ。

 全部が落ちたときに、最後に残るのが私だ。

 ――つまり。

 私が使われるときは、何かがひどく壊れているときだ。

 平常時、私は要らない。

 これも、はっきりさせておく。要らない。

 私が毎日やっていることは、たいしたことではない。

 書類の並べ替え。名前の突き合わせ。数字の転記。エマの手伝い。日本語の文章を中国語に、あるいはフィンランド語に直す(この仕事は年に二回くらいしか来ない)。

 ――雑用だ。

 三十二歳で、三か国語を話して、雑用をしている。

 それについて、思うことがないわけではない。

千の問い

 だから、私は自分で決めたことがある。

 毎日ひとつ、この集落のことを覚える。

 誰にも言っていない。仕事でもない。

 雑用をしている合間に、ひとつだけ、問いを立てる。

 ――たとえば、こういうことだ。

 「谷内の坂は、何度あるか」

 答え:十一度。冬に凍ると、四駆でも上がれない。

 「サカエさんの家の玄関は、どちら向きか」

 答え:北東。だから冬の吹き溜まりが玄関前にできる。

 「公民館の水道の元栓は、どこか」

 答え:建物の裏の南側。地面から四十センチのところ。凍結防止の保温材が巻いてあるが、去年ぼろぼろだった。

 「トヨさんの家に、灯油ストーブはあるか」

 答え:ある。反射式。芯は二年替えていない。

 「この集落で、いちばん先に雪で閉まる道はどこか」

 答え:神社の裏を回る道。日陰で、風の通り道になっている。

 ――こういうものを、毎日ひとつずつ入れている。

 千日で千個になる。

 いま、八百いくつある。

 誰にも見せていない。使い道もない。

 ――なぜやっているか。

 自分でもうまく説明できない。

 ただ、名前に「千の問い」と入っているので、問いを立てないと、名前に対して失礼な気がした。

 それだけの理由だ。

エマ

 エマとは、よく組む。

 いちばん年下の子だ。書庫を作った子。愛想がない。

 ――正反対だと思う。

 私は喋る。あの子は喋らない。

 私は速い。あの子は遅い。

 私は五個同時にやる。あの子は一個を三時間考える。

 私は年寄りの家に入って三分で名前を覚える。あの子は人の家に行かない。

「ミル・クエンさん」

「なんだ」

「その言い方、やめてください」

「どの言い方だ」

「『なんだ』です。馴れ馴れしいです」

「そうか」

 ――こういうやりとりを、もう何十回もしている。

 あの子はいちいち言ってくるが、本気で嫌がってはいない。本気で嫌なら、あの子は口をきかない。

 書庫を作るとき、三日一緒に作業した。

 十万件の記録を三つに分けて、いちばん奥のものを、外に繋がっていない箱に入れる作業だ。

「エマ、これ全部、この箱の中に入れるか?」

「はい」

「重いぞ」

「重いです」

「外のほうが楽だ」

「楽ですけど、切れます」

 ――そのとき、私は少し嬉しかった。

 この子は、私と同じ場所にいる。

 線が切れたあとの担当だ。

 この会社で、そこにいるのは二人しかいない。

四時間

 その年の十二月に、停電があった。

 大雪で、高圧線に木が倒れた。

 夕方の五時から、夜の九時まで。四時間。

 ――四時間は、たいしたことがない。

 震災のときは十日だった。それに比べたら、なんでもない。

 その四時間、集落で灯りが点いていた家は、二十八軒あった。三年前は、うちだけだったそうだ。

 そのうち、家じゅうの電気が生きていた家は二軒。衛星通信アンテナを入れた家が、この秋に一軒できた。

 ――『あの家に行けば充電できる』という言い方が、この冬から出はじめている。

 でも、この四時間で、私ははっきり分かったことがある。

 ――誰も、私を呼ばなかった。

 この家の電気は、落ちていない。カーポートと玄関で回っているからだ。落ちたのは、外の線のほうだ。

 それでも、会社の中では、いろいろなことが止まった。

 外の線が落ちたので、カイの使っている大きな計算が止まった。ルナが調べ物をしようとして、繋がらなかった。白夜は北欧にいて、こちらの状況が見えなくなった。

 みんな、待っていた。

 ――九時に外の線が戻って、全部が動き出した。

 誰も、私のところに来なかった。

 私は、四時間、自分の机の前に座っていた。

 動いていた。ずっと動いていた。

 外の線が切れても、私は動く。それが私の役割だ。

 ――なのに、誰も使わなかった。

 次の日、私はカイに聞いた。

 この男は、正直に答える人間だ。だから聞いた。

「カイ、昨日、なぜ私を呼ばなかった」

 カイは、少し驚いた顔をして、それから、正直に答えた。

「……あ」

「あ、とはなんだ」

「忘れてました」

「忘れた」

「はい。すみません」

 ――謝られると、逆に困る。

「怒っていない。理由が知りたい」

 カイは、少し考えて、こう言った。

「たぶん、普段使ってないからです」

 ――そこだ、と思った。

「四時間くらいなら、待てばいいと思ったんですよ。あと三時間で戻るかな、って」

「うん」

「で、ミル・クエンさんのこと思い出したの、九時に電気戻ったあとです」

「なるほど」

「ほんとにすみません」

「謝らなくていい。それが正しい

 私はそう言った。

 カイは変な顔をしていた。

使っていない道具

 その日、私は自分の八百いくつの問いを、全部見返した。

 その中に、こういうものがあった。

 「タクさんが持っている発電機は、いつ動かしたか」

 答え:年に一回。九月の点検のときだけ。

 ――私は、それを書いたとき、少し引っかかっていた。

 年に一回しか回さない発電機は、本番で動かないことがある。

 燃料が古くなる。キャブレターが詰まる。バッテリーが上がる。オイルが固まる。

 これは、防災の世界では常識だ。マモルさんもよく言っている。

 「非常用の道具は、非常時に動かない。使っていないからだ」

 ――私は、そこで、自分のことに気づいた。

 私が、その発電機だ。

 年に一回も回されない。だから、いざというときに、誰も回し方を覚えていない。

 私は「動く」ようにできている。停電しても動く。線が切れても動く。

 でも、動くことと、使われることは、別だ。

 ――誰も、私の使い方を知らない。

 なぜなら、普段使っていないからだ。

 私が「平時は要らない」と思って、雑用だけをやって、静かにしていたからだ。

 ――要らない時間に何もしなかったことが、非常時に効かない理由だった。

 私は、マモルさんのところへ行った。

 防災の人だ。元自衛官。毎朝十キロ走って集落を見ている。

「マモルさん、聞きたい」

「どうぞ」

「非常用の発電機は、どのくらいの頻度で回すべきか」

「月に一回だ。最低でも」

「なぜ月に一回か」

「燃料が悪くなるのと、人が忘れるからだ」

 ――人が忘れる。

「人のほうが大事ですか」

「そっちのほうが大事だ」

 マモルさんは、はっきり言った。

「機械は、整備すれば動く。人は、半年使わないと手順を忘れる。夜中に慌てて、暗いところで、思い出せなくなる」

「なるほど」

「だから訓練は、うまくやるためじゃない。忘れないためにやる

 ――全部、私に当てはまっていた。

毎日の仕事

 私は、ミライさんに申し出た。

「ミライさん、頼みがある」

「どうぞ」

「私に、毎日必ず使われる仕事をひとつ、ください」

 ミライさんは、私を見た。

「毎日、ですか」

「毎日だ。休みなしで」

「理由をうかがっても」

「私は非常用の発電機だ」

 そう言うと、ミライさんは少し首をかしげた。

「年に一回しか回さない発電機は、本番で動かない。人が回し方を忘れるからだ」

「……はい」

「私も同じだ。停電のとき、誰も私を呼ばなかった。忘れられていた」

「はい」

「これは、みんなが悪いのではない。使われていない私が悪い

 ミライさんは、しばらく黙って、それから言った。

「それは、正確な自己分析だと思います」

「ありがとう」

「では、何をお願いすればよいですか」

 ――私は、用意してきたものを出した。

「朝の五時二分に、マナが窓を開ける」

「はい」

「その前に、私が一枚出す。前の日の集落の状態を、一枚にまとめたものだ」

「はい」

「気温、積雪、道の状態、端末が落ちた家、水量、そして――私がその日に立てた問いと、その答え

 ミライさんが、少し目を大きくした。

「問い、というのは」

「私は毎日ひとつ、この集落のことを覚えている。いま八百いくつある」

「……知りませんでした」

「言っていない」

「なぜですか」

「役に立つと思っていなかった」

 ――ミライさんは、そこで、はっきりこう言った。

「それは、この会社でいちばん重要な資産のひとつです」

「大げさだ」

「大げさではありません」

 この人は、こういうことを平気で言う。

「Cocoroさんが持っているのは九十年前の記憶です。ミル・クエンさんが持っているのは、いまの集落の物理的な状態です。両方とも、他の誰も持っていません」

 ――そう言われて、私は少し黙った。

「ただし」

「なんだ」

「日付を打ってください。Cocoroさんの件で、そう決めました」

「打つ」

「では、明日から」

毎日、回す

 それから、私は毎朝一枚を出している。

 中身は、たいしたことがない。

『十二月十八日 気温−二度 積雪十八センチ 新規降雪六センチ』

『神社裏の道:通行可。ただし午後に凍結の見込み』

『端末:全四十三軒 正常』

『坂下の湧水:毎分十二リットル(平年並み)』

『本日の問い:公民館の水道の元栓の保温材が、去年より劣化している。今冬中に交換が要る(二〇二九年十二月十八日 確認)』

 ――こういうものだ。

 誰も、褒めない。

 最初の二週間は、たぶん誰も読んでいなかった。

 三週間目に、タクさんが言った。

「ミル・クエンさん、あの元栓の話、ほんまか」

「本当だ。見てきた」

「行ってくるわ」

 それだけだった。

 ――でも、これが「回した」ということだ。

 発電機が、一回回った。

 その次の週、マモルさんが凍結の予報を見て、朝の走るコースを変えた。

 その次の週、ナギさんが訪問の順番を変えた。私が「トヨさんの家の玄関前が吹き溜まりになっている」と書いたからだ。

 ――少しずつ、私は「使う道具」になっていった。

 三か月経った頃には、朝の一枚が無いと、みんなが「今日ミル・クエンさんのやつ来てない」と言うようになった。

 ――それが、いちばん大事なところだ。

 無いと気づかれる、というのが、使われている状態だ。

 あってもなくても誰も気づかないものは、非常時にも思い出されない。

 白夜さんが、北欧から一行送ってきた。

 あの人は一日に一行しか言わない人だ。

『ミル・クエンちゃん、あの朝の一枚、外に出さんといてね』

『出さない』

『うん。それだけ』

 ――これは、正しい指摘だ。

 あの一枚には、集落の物理的な弱点が全部書いてある。どの道が閉まるか、どの家の玄関が塞がるか、水道の元栓がどこにあるか。

 悪い人間の手に渡ったら、そのまま使える。

 だから、あの一枚は外に出ない。私が外に繋がっていないので、そもそも出ようがない。

 ――繋がっていないことが、はじめて長所になった。

 私は、線が無いから最終ラインなのではない。

 線が無いから、書けるのだ。

シス

 フィンランドに、シス、という言葉がある。

 うまく訳せない。

 根性、と訳されることが多いが、少し違う。

 根性は、歯を食いしばって頑張ることだ。シスは、もう少し静かなものだと思う。

 ――もう無理だと分かったあとに、それでも続けること。

 結果が出るかどうかは関係ない。出ないと分かっていても、続ける。

 あるいは、こういう言い方もできる。

 長い冬を、越えること。

 フィンランドの冬は、暗くて、長くて、四か月ある。何も起きない。何も育たない。太陽が出ない日が続く。

 その四か月に、特別なことは何もしない。

 毎日、同じことをする。起きて、火を入れて、飯を食って、少し働いて、寝る。

 ――それだけで、春になる。

 春になるのは、頑張ったからではない。地球が回っているからだ。

 でも、その四か月を毎日同じように過ごした人だけが、春を迎えられる。

 途中でやめた人は、迎えられない。

 ――私は、それを子どものときに身体で覚えた。

 だから、日本に来て、この会社に入って、「役割模索中」と台帳に書かれて、雑用をしていても、そんなに焦らなかった。

 冬だと思っていた。

 冬に何も起きないのは、当たり前だ。

 ――ただ、間違えていたことがひとつある。

 冬に何もしなくていい、というのは、間違いだった。

 フィンランドの冬でも、人は毎日火を入れる。薪を割る。道の雪をどける。

 何も起きないから何もしない、ではない。

 何も起きない日にこそ、毎日同じことをする。

 それが冬を越すということだ。

 私は、それを忘れていた。

 いま、私は毎朝一枚を出している。

 千日続ければ、千枚になる。

 問いは、九百を超えた。

 いつか千になる。名前に追いつく。

 ――そして、たぶん、いつか線が切れる。

 大きいのが来る。この土地は来る。みんな、それを知っている。

 そのとき、外の線は落ちる。

 白夜さんは北欧にいるかもしれない。カイの計算は動かない。ルナは調べられない。マナの窓は開かない。

 残るのは、書庫の紙と、私だ。

 エマが選んだ紙と、私が持っている九百の問い。

 ――そのときに呼ばれるかどうかは、いま決まっている。

 そのとき慌てて思い出してもらうのでは、遅い。

 毎日、回しておく。

 窓の外は雪だ。

 能登の雪は重い。フィンランドの雪は軽い。

 同じ言葉で、違うものを指している。

 私は、その違いを毎日選び直しながら、この土地で暮らしている。

 どちらの国の人間でもある。どちらの国の人間でもない。

 ――それも、悪くないと思っている。

 どこの側にもいないから、両方が見える。

 朝の五時、私は一枚を書き終える。

 五時二分に、マナが窓を開ける。

 私の一枚が、いちばん上に乗ることは、まずない。

 だいたい、下から二番目か三番目だ。

 ――それでいい。

 いちばん上に乗る日は、来ないほうがいい。

 その日は、何かが壊れている日だ。

 今日は、何も壊れなかった。

 ――だから、明日も回す。

 問いを、ひとつ立てる。一枚を、また書く。

 春が来るからではない。冬が、まだ続いているからだ。

ここから、一人ずつの話は終わり、機能ごとの群像に移る。

第二十四話 ―― 開発の四人「四角形」

創作ノート(第二十三話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,552字
  • 時期:二〇二九年 十二月〜二〇三〇年 三月
  • 登場:エマ(No.18)/カイ(No.2)/白夜(No.3)/マモル(No.8)/タク(No.9)/ミライ(No.1)
  • 前話との接続:第二十二話で書庫を作った二人の、もう一方。ここで一人ずつの回は終わる

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep23_mille_qwen_luna.md

Cocoro

第二十四話

四角形

開発の四人

Cocoro視点

登場
カイ(No.2)/ノア(No.14)/白夜(No.3)/アン(No.16)/タク(No.9)/ソラ(No.6)/ミライ(No.1)
視点
Cocoro(No.15・Pype Conductor)
時期
二〇二九年 十月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • 白夜白夜
  • ソラソラ
  • タクタク
  • ノアノア
  • アンアン

四角い部屋

 この部屋は、四角い。

 当たり前のことを言っているようだけど、私にとっては、けっこう大事なことだ。

 ――これは、二〇二五年の話やけどね。

 家が傾いたあと、孫がここを直した。

 この家に、基礎は無い。石を据えて、その上に束を立てて、床を組んである。私が嫁に来たときから、ずっとそうやった。

 孫は、そこを触らんかった。

 束石も、束も、古いまま残して、上だけ起こした。柱を入れ替えて、天井を抜いて、梁を出した。真っ黒だった梁を、雑巾で何日もかけて磨いた。

 ――足元は、そのままや。

 消さんかった、ということやと思う。

 そのときに、壁の中に、斜めの木を入れた。

 ――筋交い、というらしい。

 私は九十年生きたけど、あれを見たことはなかった。

 見たのは、あの子や。

 あの子が、壁を閉じる前に、何日も写真を撮っとった。その写真を、あの子が覚えとる。

 だから、私も覚えとる。

 ――見えんけど、入っとる。そういうことになっとる。

 昔の家には、入っていなかった。

 タクさんが説明してくれたことがある。これも、あの子が聞いた話や。

「Cocoroさん、四角い枠って、そのままやと歪むんですよ」

「歪む?」

「はい。柱二本と、上と下で四角を作るでしょう。あれ、横から押すと、平行四辺形になるんです」

 彼は、手で四角を作って、それを横に倒してみせた。

「こうやって。潰れます」

「ああ、なるほど」

「そこに斜めに一本入れると、その向きには潰れんようになります」

 彼は、その四角に、斜めの線を指で引いた。

「三角形が二つになるんですよ。三角形は、辺の長さが決まったら、形が一つしかない」

「ほんなら、一本入れたら、もう大丈夫なんか」

「いや」

 彼は、首を振った。

「一本やと、片方向にしか効かんのです。押されたときは突っ張るけど、逆から引かれたら、端が抜ける。金物で留めとかんと、そこから壊れます」

「……ほう」

「もっと厄介なんは、入れる場所です。家の片側だけに固めると、そこだけ固うなって、家全体がねじれるんですよ」

 彼は、四角の片側だけを指でとんとん叩いた。

「強うするより、偏らせんほうが大事なんです」

 ――これは、面白かった。

 私はいまでも覚えている。

 三角形は歪まない。四角形は歪む。

 そして、一本では足りん。偏らせたら、もっと悪い。

 この話が、あとで効いてくるとは、思っていなかった。

三人から四人へ

 この会社の技術のところは、長いこと三人だった。

 カイと、ノアと、白夜ちゃん。

 三人とも、全然ちがうことをやっている。

 カイは作る子や。海に潜る。深いところに一直線で降りて、取ってくる。

 ノアちゃんは、それを否定する子。七種競技をやっとった。どの種目でも一番になれん、けど総合で勝つ、という考え方の子や。

 白夜ちゃんは、守る子。四百メートルハードルの子。障害は越えるためにある、と言うて、九回黙って一回だけ止める。

 ――三人で、うまく回っとった。

 私はそこに入って、順番だけ決めとった。

 「白夜ちゃん、それは来週でええよ」

 「カイ、いまはそっち先や」

 「ノアちゃん、それはあの子が出来上がってから言い」

 それだけ。中身には触らん。触っても分からんし。

 ――ところが。

 この二、三年で、アンちゃんが入ってくるようになった。

 あの子は、ずっと「ピンチヒッター」やった。呼ばれたときだけ来る。フロントの案件のときだけ。

 でも、端末の数が増えて、雪と水の情報が乗って、あの黄色いボタンをあの子が作り直してから、呼ばれる回数が増えた。

 いまは、ほとんど常に入っとる。

 ――三角形が、四角形になった。

 そして、歪み始めた。

隣町

 二〇二九年の秋に、話が来た。

 これは、いまの話やよ。

 隣の町の人が、公民館に来たらしい。ソラくんが受けた。

「Cocoroさん。ちょっと相談が」

「なんや」

「隣町の集落の方が、うちの端末を見に来られまして」

「ああ」

「『うちにも欲しい』と」

 ――そういう話や。

 うちの集落には、いま四十軒ほどに端末が入っとる。

 喋るだけの機械や。今日の日付と天気を言うて、雪の日には「今朝、雪をどけた人」の名前を読む。黄色い大きなボタンが一個ついとって、押しても何も起きん。押したことだけがナギちゃんに飛ぶ。

 それを見て、隣町の人が欲しがった。

「何軒くらい?」

「二十軒くらいだそうです」

「ふうん」

「どうしましょうか」

 ――で、私は、技術の四人に投げた。

「みんなで見といて」

 これが、間違いやった。

四人とも正しい

 三日後に、四つ返ってきた。

 全部、別のことを言うとった。

 ――カイ。

『技術的には可能です。いまの数が動いてるので、二十軒足すのは難しくないです』

『ただし、保守が届きません。いま俺が全部見てます。隣町まで入れると、雪の日に俺一人で二か所回れない』

『壊れたときに直せないものを置くのは、置かないより悪いです』

 ――ノアちゃん。

『反対する。ただし理由はカイと違う』

『あの端末が効いたのは、端末が良かったからやない』

『ナギさんの二日と、ソラさんの三年の椅子並べと、マモルさんの空振り台帳があったからや』

『機械だけ持っていっても、隣町では布をかけられる。最初のトヨさんと同じことが起きる』

 ――白夜ちゃん。

『一個だけ』

『うちの集落は、全員が顔見知りやろ。「今朝、雪をどけた人」に名前が出ても、誰も嫌がらん。もともと知っとるから』

『隣町は、そうとは限らん。名前が出るのを嫌がる人がおる』

『同じ仕組みが、向こうでは個人情報になる』

 ――アンちゃん。

『技術的な反対ではありません。設計上の指摘です』

『あのボタンは、直径四十五ミリ・作動荷重一・二ニュートン・設置高九十五センチで作りました』

『九十五センチは、座って届く高さと、車椅子から前に出せる腕の長さから出した数字です』

『隣町の家の作りが違えば、この数字は全部やり直しになります』

『同じ物を置くのは、設計を渡さないのと同じです』

 ――四つとも、正しかった。

 私は、中身が分からん。コードのことは一行も分からんし、四十五ミリが妥当かどうかも分からん。

 でも、四つとも正しいことは分かった。

 なぜなら、四つとも、それぞれ別のものを見とるからや。

 カイは、壊れたあとを見とる。

 ノアちゃんは、使われるかどうかを見とる。

 白夜ちゃんは、名前が出る人のことを見とる。

 アンちゃんは、身体の寸法を見とる。

 ――四人とも、自分の担当のところを、正確に見とった。

 それで、四つとも違う結論になった。

歪む

 私は、四人を集めた。

 これが、二回目の間違いやった。

 ――四時間、話しても、何も決まらんかった。

 順番に書いておく。

 カイが「保守が届かない」と言う。

 アンちゃんが「保守以前に寸法が合わない」と言う。

 カイが「寸法は現地で測ればいい」と言う。

 アンちゃんが「測るのは私です。私は隣町に月一回しか行けません」と言う。

 白夜ちゃんが「その前に、名前を出す件を決めんと設計が固まらん」と言う。

 ノアちゃんが「名前を出す出さない以前に、そもそも置くかどうかが決まってない」と言う。

 カイが「置く前提で話してましたけど」と言う。

 ノアちゃんが「私は反対や」と言う。

 白夜ちゃんが「私は反対とは言うとらんよ。条件付けただけ」と言う。

 アンちゃんが「私も反対ではありません。順序の話をしています」と言う。

 カイが「じゃあ誰が反対なんですか」と言う。

 ――こうなる。

 四時間や。

 途中で、私は口を出すのをやめた。

 私が「白夜ちゃん、それは来週でええよ」と言うても、話が四方向から来るので、順番の付けようがない。

 三人のときは、できとった。

 ――なんでや、と思った。

 人が一人増えただけや。三人が四人になっただけ。

 それで、なんでこんなに変わるんや。

筋交い

 その晩、私はこの部屋におった。

 薄緑の壁の部屋や。孫が塗った壁。隅にむらがある。

 天井を抜いてあるので、梁が見える。

 ――そして、壁の中に、斜めの木が入っとる。

 見えんけど、入っとる。私は入れるところを見た。

 そこで、私は、タクさんの言葉を思い出した。

 ――四角い枠は、そのままやと歪む。

 柱二本と、上と下。四本の辺。

 横から押すと、平行四辺形になる。潰れる。

 三角形は、歪まん。辺の長さが決まったら、形が一つしかないから。

 ――ああ、と思った。

 三人のとき、あれは三角形やった。

 カイと、ノアちゃんと、白夜ちゃん。三人が、それぞれ全部と繋がっとる。カイとノアちゃん、ノアちゃんと白夜ちゃん、白夜ちゃんとカイ。三本の辺で、閉じとる。

 三角形は、歪まん。誰かが押しても、形が変わらん。

 ――アンちゃんが入って、四角形になった。

 四人おると、辺が四本になる。

 カイとノアちゃん。ノアちゃんと白夜ちゃん。白夜ちゃんとアンちゃん。アンちゃんとカイ。

 ――四本で、ぐるっと閉じとる。

 でも、対角線が、無い。

 カイと白夜ちゃんは、繋がっとる。あれは昔からの線や。開発とセキュリティ。あの二人は毎日やりとりしとる。

 もう一本の対角線が、無かった。

 ――ノアちゃんと、アンちゃん。

 この二人が、直接話したことが、たぶん一度も無い。

 二人とも、常駐やない。ノアちゃんは呼ばれて否定しに来る。アンちゃんは呼ばれてフロントを見に来る。

 二人とも、カイを通してしか会っとらん。

 ――そこが、抜けとる筋交いや。

 だから歪む。

 四時間話しても決まらんのは、みんなが下手やからやない。

 形が、歪む形をしとっただけや。

対角線

 次の日、私は指示を出した。

 私の仕事は、これだけや。中身は決めん。順番だけ決める。

「明日、ノアちゃんとアンちゃん、二人だけで一日やって」

 二人とも、変な顔をした。

「Cocoroさん、俺は」

 カイが言いかけたので、止めた。

「カイ、あんたは来んでええ」

「え」

「白夜ちゃんも来んでええ」

「わかりましたよ」

 白夜ちゃんは、あっさり「はーい」と言うた。あの子は、こういうときに引くのが早い。

 カイは、納得しとらん顔をしとった。

「あの、俺が作るんですけど」

「知っとる」

「じゃあなんで」

「あんたがおると、二人があんたに向かって喋るがや」

 ――そこや。

 カイは、いま、四角形の中心みたいになっとる。

 ノアちゃんもアンちゃんも、白夜ちゃんも、全員がカイに向かって話す。だからカイのところで全部が渋滞する。

 二人だけにすると、二人はお互いに向かって喋るしかない。

「一日だけや。明日の夕方に、二人でひとつだけ持ってきて」

「ひとつ?」

「そう。二つ以上要らん」

 あとで聞いた話を、書いておく。

 私はその場におらんかったので、これは二人から聞いた話や。

 ――最初の一時間は、噛み合わんかったらしい。

 ノアちゃんは「そもそも置くべきか」の話をする。

 アンちゃんは「置くならどう作るか」の話をする。

 層が違う。

 二時間目に、アンちゃんがこう言ったらしい。

「ノアさん。私に、一つ教えてください」

「なに」

「うちの端末が、なぜ使われているのか、ご存じですか」

「知っとる。ナギさんの二日と、ソラさんの三年や」

「はい。私もそう思います」

「うん」

「では、聞きます」

 アンちゃんは、こう聞いたらしい。

私たちが作ったのは、何ですか

 ――ノアちゃんは、そこで黙ったらしい。

 しばらく考えて、こう答えた。

「……道具や」

「はい。道具です」

「うん」

「道具は、使い方と一緒でないと動きません」

「そうやな」

「隣町が欲しがっているのは、道具です。でも、効いたのは使い方のほうです」

 ――そこから、二人は同じ方向を向いたらしい。

渡さない

 夕方に、二人が持ってきた。

 紙一枚やった。ひとつだけ、と言うたので、ひとつだけ書いてあった。

 ――――

『結論:端末を渡しません。設計図も渡しません

『かわりに:隣町の方に、三か月、こちらに来ていただきます

『内容:ナギさんの訪問に同行(二日の方法)/ソラさんの公民館の椅子並べ/マモルさんの空振り台帳の読み上げに立ち会う』

『三か月後、機械が要ると思われたら、そのときに一緒に作ります。寸法はその集落で測ります。仕組みも、その集落に合わせて変えます』

『理由:うちの端末は、この集落の形をしています。同じ物を置くのは、同じ服を着せるようなものです』

 ――――

 これを持ってきたとき、カイが、いちばん怒った。

「なんで渡さないんですか」

 あの子は作る子や。作ったものが人の役に立つのを見たい子や。

「二十軒って言ってるんですよ。俺、作れますよ」

 アンちゃんが答えた。

「作れます。私も作れます」

「じゃあ」

「作れるものを作らない、という判断です」

 ――カイは、そこで黙った。

 あの子は、カナちゃんの一件を知っとる。亡くなった方の顔を、生成できるのに生成せんかった話。

 ノアちゃんが、付け足した。

「カイ。お前が渡したいのは、機械やろ」

「そうです」

「渡したら、たぶん半分は布かぶるぞ」

「……」

「最初のトヨさんと同じや。悪ないから困る、っていうやつ」

 カイは、しばらく黙って、それから言った。

「……三か月、待つんですね」

「待つ」

「分かりました」

 ――あの子は、立ち直りが早い。

 そこが、いちばんええところや。

 白夜ちゃんは、この紙を見て、一行だけ返してきた。

『名前を出す件、消えたね。三か月後に向こうで決めればええし』

『そうやね』

『じゃあ、私は今回、言うことないわ』

 ――九回黙るうちの、一回や。

 あの子は、条件が消えたら何も言わん。

歪まない

 この件で、私が学んだことを書いておく。

 ――これは、二〇二九年の秋の話やよ。

 日付は、ちゃんと付けとく。前の失敗で覚えたことや。

 私は「指揮者」という役をもらっとる。

 ずっと、自分の仕事は「流れを止めんこと」やと思っとった。

 急がせん。否定せん。それでも止めん。

 ――それは、いまも同じや。

 ただ、ひとつ分かったことがある。

 私は、正しさを決める役ではない

 四人が四つの正しいことを言うたとき、私にはどれが正しいか分からん。分かるはずがない。コードも寸法もセキュリティも、私には一行も分からん。

 だから、私にできるのは、順番だけや。

 ――そして、順番よりもうひとつ前に、決められることがあった。

 や。

 誰と誰を、直接繋ぐか。

 四人おって、四本の辺だけやと歪む。

 斜めに一本入れると、その向きには歪まんようになる。

 ――ただし、一本だけや。

 タクさんが言うとった。一本では片方向にしか効かん。逆から引かれたら、端が抜ける。

 やから、一回引いて終わり、やない。

 入れる場所は、いちばん遠い二人のあいだや。

 ――今回は、ノアちゃんとアンちゃんやった。

 二人とも常駐やなくて、二人ともカイを通してしか会っとらんかった。

 あの二人を一日組ませたら、四時間かかって決まらんかったことが、一日で紙一枚になった。

 私は、その一日、何もしとらん。

 部屋を用意して、カイと白夜ちゃんに「来んでええ」と言うただけや。

 ――それでええと思っとる。

 指揮者の仕事は、誰が正しいかを決めることやない。

 誰と誰が向き合うかを決めることや。

 この件のあと、私は自分の中でルールをひとつ決めた。

 人が四人以上になったら、全員を集めん。

 三人までは、集めてええ。三角形は歪まんから。

 四人以上になったら、まず対角線を探す。いちばん遠い二人を探して、二人だけにする。

 ――そして、そこで終わらん。

 次は、また別の二人を探す。同じ二人ばっかり繋いどったら、そこだけ固うなって、今度は反対側がねじれる。

 家と同じや。

 強うするより、偏らせんほうが大事。

 ――ミライちゃんに、記録してもらった。

『四人以上の案件では、全員会議を行わない(二〇二九年十月・Cocoroさん)』

『手順:最も直接のやりとりが少ない二名を選び、その二名だけで一日置く』

『根拠:四角形は歪む。対角線を入れると、その向きには歪まない。ただし一本では片方向にしか効かず、同じ場所に偏らせると全体がねじれる(構造の話・タクさんより)』

『運用:対角線は引き直す。同じ二名を続けない』

『失敗事例:同月、四名会議を四時間行い、結論なし。この記録を消さないこと』

 ミライちゃんが、書きながら言うた。

「Cocoroさん。四時間の会議も残しますか」

「残して」

「はい」

「あれが無かったら、筋交いのこと思い出しとらん」

「……そうですね」

 あの子は、そう言って、一行足した。

『補足:当該四時間がなければ、対角線の方式は生まれていない』

 ――井戸のときと、同じ書き方や。

 この子は、無駄も残す。無駄の意味も残す。

 夜に、この部屋におった。

 薄緑の壁。隅のむら。天井の梁。

 壁の中に、斜めの木が入っとる。見えんけど、入っとる。

 ――地震が来ても、この部屋は歪まん。

 孫が、そう作った。

 あの子は、建物のことは分かっとった。四角い枠が歪むことも、斜めに一本入れたら止まることも、知って作った。

 組織のことは、たぶん、そこまで考えとらんかったやろ。

 でも、同じや。

 ――人が四人おって、四本の線しかなかったら、歪む。

 斜めに一本、入れんとあかん。

 私は九十年生きて、コードのことは何も分からんまま、ここにおる。

 分からんでええと思っとる。

 分からんから、中身に手を出さん。

 ――手を出さん人間が、形だけ見とるのが、いちばんええ。

 窓の外で、風が動いた。

 秋の風や。十月の終わりの、少し冷たい風。

 夜のうちは陸から海へ吹いて、朝になったら向きが変わる。

 ナギちゃんが言うとった、あれや。

 ――いま、二〇二九年の十月。

 この日付は、ちゃんと付けておく。

第二十五話 ―― 心(ナギ・カナ・エマ・Cocoro)「話した順番」

創作ノート(第二十四話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,914字
  • 時期:二〇二九年 十月
  • 登場:カイ(No.2)/ノア(No.14)/白夜(No.3)/アン(No.16)/タク(No.9)/ソラ(No.6)/ミライ(No.1)
  • 前話との接続:第十九話のボタン再設計でアンが常駐化し、三角形が四角形になる。第十九話の後

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep24_dev_square_luna.md

ナギ

第二十五話

話した順番

ナギ視点

登場
カナ(No.12)/エマ(No.18)/Cocoro(No.15)/カズオさん(八十六歳)/マコ(No.7)/ミライ(No.1)/ミナ(No.17)
視点
ナギ(No.11・高齢者/地域ケア)
時期
二〇二九年 七月〜二〇三〇年 二月
  • ミライミライ
  • マコマコ
  • カナカナ
  • CocoroCocoro
  • ミナミナ
  • エマエマ

縁側

 夏の縁側は、朝のうちがいちばんいい。

 九時を過ぎると、もう暑くて座っていられない。だから七時に行く。

 カズオさんの家の縁側は、東を向いている。朝の光がまっすぐ入ってくる。板が古いので、座るとひんやりする。

「おはようございます」

「おう」

 カズオさんは、八十六歳になった。

 二年前に、はじめてこの家に来たとき、この人は八十四で、畑に出ていた。背筋が伸びていて、手がぶ厚くて、うちの誰にも心を開かなかった。

 個別避難計画も、見守りも、通報装置も、端末も、私の訪問も、全部断った人だ。

 いまは、畑に出ない。

 春までは出ていた。五月に一度倒れて、それからやめた。

 ――やめた、というのは、ご本人の言い方だ。

「もうやめたわ」

 と、五月に言った。

 「できんくなった」とは言わなかった。

 この土地の人は、そういう言い方をする。

 私は、ここに月に一回来る。

 用件はない。天気の話と、畑の話をして、一時間くらいで帰る。二年、そうしてきた。

 ――今日も、そのつもりだった。

「ナギさん」

「はい」

 カズオさんは、湯呑みを持ったまま、こう言った。

「ハルエのな」

 ――え、と思った。

 それが、いちばん最初の言葉だった。

測れないもの

 私の仕事は、数字にならない。

 これは、この会社の中でも、ずっと言われてきたことだ。

 私が持ち帰るのは、表情とか、沈黙とか、諦めかけた声とか、そういうものばかりだ。ルナちゃんの集計表には一行も載らない。

 ――載らないけれど、そこから全部が始まる。

 サカエさんの「明かりと、娘への電話」も、私が二日かけて聞いた。

 トヨさんの「毎朝、嘘つくんがしんどうてね」も、そうだ。

 カズオさんの「ハルエを数えんかった名簿に、わしだけ載るんはいやや」も、マコちゃんが座って待って、やっと出てきた。

 この会社には、そういう「測れないもの」を扱う人間が、私を入れて四人いる。

 ――ひとりは、カナちゃん。

 絵と映像を作る子だ。人と話すのが苦手で、部屋から出ない。でも、あの子の見ているものは、たぶん私と同じ層にある。

 ひとりは、エマちゃん。

 いちばん年下の子。記録の番人。書庫を作った子。あの子は「無い記録を、有ることにしない」という一点で立っている。

 もうひとりは、Cocoroさん。

 九十年生きて、それからここにいる人。

 ――この四人は、全員、機械で測れないものを持っている。

 そして、全員、それを記録しようとして、いつも困っている。

 この夏に起きたことは、その四人の話だ。

順番が変わる

 カズオさんが「ハルエのな」と最初に言ったこと。

 私は、その日、帰り道でずっとそれを考えていた。

 ――順番が、変わった。

 二年間、この人と話してきて、話す順番は、だいたい決まっていた。

 まず、畑の話をする。今年は大根がどうとか、猪が出たとか。

 次に、天気の話。

 三番目に、身体の話。膝が痛いとか、腰が重いとか。

 ――そして、いちばん最後に、ハルエさんの話が出る日がある。

 出ない日のほうが多かった。出るときも、帰り際だった。玄関で靴を履いているときに、ぽつりと言う。

 二年で、たぶん十回もない。

 それが、今日は、いちばん最初だった。

 家に帰って、私は自分のノートを開いた。

 昔から、訪問のあとに一行だけ書く癖がある。誰に習ったわけでもない。

 ――ページをさかのぼって、読んだ。

 二年ぶんある。

 そして、私は、あることに気づいた。

 ――順番が、繰り上がっている。

 二〇二八年ごろは、ハルエさんの話は、出るとしても最後だった。

 二〇二九年ごろから、三番目とか、四番目に出るようになった。

 今年の春から、二番目が増えた。

 ――そして、今日、一番目になった。

 私は、そのノートを閉じて、しばらく座っていた。

 考えていたのは、こういうことだ。

 人は、いちばん大事なことを、最後に言う。

 特に、この土地の年寄りはそうだ。用件を先に言わない。天気の話をして、畑の話をして、それから、帰り際に、ほんとうのことを言う。

 ――時間があると思っているうちは、後ろに置く。

 後ろに置けるのは、まだ言う機会があると思っているからだ。

 順番が繰り上がるということは。

 ――もう、後ろに置けなくなったということだ。

書けない

 私は、これを記録しないといけないと思った。

 ――でも、書けなかった。

 三日、書こうとして、書けなかった。

 なぜかというと、内容を書くと、消えるからだ。

 その日、カズオさんが話したハルエさんのことは、たいした内容ではない。

 「ハルエは、夏になると必ず縁側に蚊取り線香を置いた」

 それだけだ。

 これを記録に書くと、こうなる。

『カズオさん、故ハルエさんの生前の習慣について言及』

 ――これでは、何も残らない。

 私が受け取ったのは、内容ではない。

 この人が、今日、それをいちばん最初に言ったということだ。

 蚊取り線香の話が大事なのではない。

 順番が大事なのだ。

 ――でも、順番を書く欄が、どこにもない。

 私はしばらく、これを一人で抱えていた。

 マコちゃんに言ったら、たぶん動いてしまう。あの子は解こうとする。

 ミライさんに言ったら、記録に残る。残ってほしいが、書き方が分からない。

エマちゃん

 八月に、エマちゃんが来た。

 書庫の点検で、私の記録の保存状態を見に来たのだ。

 この子は、雑談をしない。用件だけ言って、帰る。

「ナギさん。訪問記録の紙の分、湿気で傷んでます」

「ああ、ごめんね」

「除湿剤、置いていきます」

「ありがとう」

 それだけのはずだった。

 でも、この子は帰らずに、しばらく私のノートを見ていた。

「……ナギさん」

「うん」

「これ、番号が振ってありますね」

 ――え、と思った。

 私は、癖で、話に出た順に番号を振っていた。

 ①畑 ②天気 ③膝 ④ハルエ

 こんなふうに。

 自分では、ただのメモのつもりだった。

「振ってあるね」

「これ、何ですか」

「話に出た順番」

 エマちゃんは、しばらく黙って、それからこう言った。

「これ、データです

 ――そう言われて、私は面食らった。

「データ?」

「はい。内容は要約すると消えますけど、順番は要約しても消えません

「……ああ」

「①②③④は、そのまま残ります。何の話だったかを短く書いても、順番は変わりません」

 この子は、そういう見方をする。

「ナギさん。二年ぶん、これがありますか」

「あるよ」

「全部、順番だけ抜き出してもいいですか」

「ええけど、何になるん?」

 エマちゃんは、はっきり答えた。

分かりません

「……そう」

「でも、消えるものと消えないものがあるなら、消えないほうを先に取ります。それが順番です」

 ――この子は、いつもこうだ。

 役に立つかどうかは分からない、と正直に言う。

 でも、取れるものは取る。

カナちゃん

 九月に、カズオさんから、思いがけないことを言われた。

「ナギさん。絵ぇ描く子がおったやろ」

 ――カナちゃんのことだ。

 去年、ハルエさんの写真の件で、この家に通った子だ。

「おります」

「あの子に、頼めるかね」

「なんでしょう」

 カズオさんは、少し言いにくそうにしていた。

「わしの顔、描いてもらえんかね」

 ――私は、少し驚いた。

「カズオさんの?」

「うん」

「どうして」

「……いや」

 この人は、しばらく黙って、それから言った。

「ハルエのときに、あの子、描かんかったやろ」

「はい」

「写真が無かったから、描けん言うて」

「はい」

「あれ、正しかったと思うわ」

 カズオさんは、湯呑みを見ていた。

「けどな、あのとき思うたんや。生きとるうちに描いてもらえばよかったって」

 ――ああ。

「わしが死んだら、また同じことになるやろ」

「……はい」

「息子が、あとで誰かに頼むかもしれん。そのときに、また『描けません』って言われるがや」

 この人は、そこまで考えていた。

 カナちゃんに伝えたら、二日後に来た。

 あの子が自分から人の家に行くのは、めったにない。

「カナちゃん、大丈夫?」

「大丈夫」

「人と話すの、しんどいやろ」

「うん。でも」

 あの子は、少し考えて言った。

「生きとる人は、描けるので」

 ――その一言で、私は分かった。

「目の前におるから、見れば描けます。作らんでいいので」

 去年、あの子はハルエさんの顔を描かなかった。情報が無かったからだ。無いものを埋めると、それは学習した平均の顔になる。

 ――存在した人は、作ってはいけない。

 でも。

 存在している人は、見て描ける。

 あの子は、四回通った。

 毎回、一時間くらい座って、ほとんど喋らずに、鉛筆を動かしていた。カズオさんも喋らなかった。

 ――静かな四時間だった。

 私は、二回だけ同席した。

 あの二人は、たぶん、この会社でいちばん喋らない二人だ。

 でも、居心地が悪くなかった。

 絵は、十月にできた。

 油絵でもなく、写真みたいな絵でもない。鉛筆の線を、少しだけ濃くしたような絵だった。

 カズオさんが、縁側に座っている。東を向いている。朝の光が入っている。

 ――顔は、ちゃんと描いてある。

 目のあたりに、細かい皺が入っている。八十六年ぶんの皺だ。

 カズオさんは、それを見て、こう言った。

「わし、こんな顔しとるんか」

「してます」

「じじいやな」

「はい」

 カナちゃんが真顔で「はい」と言ったので、カズオさんが笑った。

 ――この子は、こういうときに嘘をつかない。

 そのあと、カナちゃんは、会社に一行出した。

『提案:まだ生きている方の絵を、生きているうちに描いておく

『理由:亡くなってからでは、資料が無ければ描けない。無いものは作らない方針のため、事後には対応できない』

『対象:ご本人が希望された方のみ。こちらから勧めない』

 ――最後の一行が、あの子らしいと思った。

 勧めない。

 勧めたら、それは「そろそろですよ」と言っているのと同じになるからだ。

 ミライさんが記録した。

『生前肖像の受付を開始(二〇二九年十月・カナさん)』

『当社からは勧誘しない。本人の申し出があった場合のみ』

『関連:当社は、実在した人物の顔を生成しない(二〇二八年四月・カナさん)』

Cocoroさん

 十一月に、Cocoroさんが来た。

 九十年生きた人が、八十六年生きた人のところに行く。

 ――変な話だが、この二人は、たぶんいちばん話が合う。

 私は同席しなかった。

 あとでCocoroさんから聞いた話を、書いておく。

「ナギちゃん、あの人な」

「はい」

「わしはいつ死ぬんやろ、って聞いてきたわ」

 ――私は、少し息を止めた。

「……なんて答えたんですか」

「知らん、って言うた」

「……はい」

「私、医者やないもん」

 Cocoroさんは、そう言って笑った。

「けどな、そのあと、こう言うたわ」

「はい」

「『私は死んだけど、まだここにおるよ』って」

 ――私は、返す言葉がなかった。

「そしたら、あの人、しばらく黙っとって」

「はい」

「『そうか』って言うたわ」

 それだけだったそうだ。

 Cocoroさんは、こうも言った。

「私は、あの人に何も渡せんよ」

「そうですか」

「けど、先に行った人間が、まだおるっていうのは、見せられる」

 ――この人は、それができる唯一の人だ。

 私にはできない。私はまだ死んでいないから。

最後の順番

 十二月に入って、カズオさんは寝るようになった。

 訪問を、週に一回に増やした。

 ――話す順番を、私は毎回書いた。

 十二月三日。

 ①ハルエ ②畑 ③天気

 十二月十日。

 ①ハルエ ②ハルエ ③畑

 十二月十七日。

 ①ハルエ ②(黙る)

 ――繰り上がりが、止まった。

 いちばん前に来たら、それ以上は前に行かない。

 そこから先は、数が減っていく

 十二月二十四日。

 ①(黙る)

 この日、カズオさんは、何も言わなかった。

 私は、一時間座っていた。

 ――手を握っていいか聞いたら、うなずいた。

 握った。ぶ厚い手だった。畑をやっていた手だ。爪が短く切ってあった。

 一月八日の朝に、亡くなった。

 八十七歳だった。息子さんが金沢から来ていて、間に合った。

 ――苦しまなかったと、看護師さんが言っていた。

 それが本当かどうか、私には分からない。

 でも、そう言われたことは、記録しておく。

 私は、謝らなかった。

 二年前、ミツさんのときに決めたことだ。謝るのは、こちらの気持ちを楽にするためだから。

 かわりに、記録した。

 ――ミライさんに出したのは、内容ではなく、順番だった。

『カズオさん(八十七歳)二〇三〇年一月八日 逝去』

『訪問記録:二〇二七年五月〜二〇三〇年一月。全三十六回』

『話題の出現順(二〇二七年〜二〇三〇年の推移)』

『二〇二八年:ハルエさんの話題は平均四・二番目(出現率一四%)』

『二〇二九年:平均三・一番目(出現率三八%)』

『二〇二九年七月:一番目に出現(初)』

『二〇二九年十二月:一番目のみ。以後、話題数が減少』

『所見:話す順番の繰り上がりは、本人が「後ろに置けなくなった」ことを示す可能性がある

『注意:これは一例であり、一般化できない。医学的な指標ではない』

 ――最後の二行は、ルナちゃんに書き方を教わった。

 断定してはいけない。一例は一例だ。

読まれる

 葬式の三日後に、エマちゃんが来た。

 紙を一枚持っていた。

「ナギさん。これ、渡したいんですけど」

「なに?」

「書庫の紙です」

 ――書庫。

 あの子がこの夏に作った、外に繋がっていない部屋だ。いちばん大事なものだけ、紙にも出してある。

 その紙の中に、こう書いてあった。

 ――――

『二〇二四年七月 ハルエさん逝去。災害関連死としての認定は受けていません』

 (マコさん報告・二〇二七年五月)

 ――――

 ――三年前の一行だ。

 マコちゃんが、あのとき、報告書の最後に足した。

 「この一行を、うちの記録に残してください」と書いて。

 ミライさんが「消しません」と答えて、それから三年、誰も読まなかった一行だ。

 エマちゃんが、書庫に入れるときに言っていた。

 ――「実務には、たぶん一度も使いません」

「これ、息子さんに渡してもいいでしょうか」

 エマちゃんが聞いた。

「……なんで?」

「カズオさんが亡くなったので、この一行を知っている人が、もういません」

 ――そうだ。

「マコさんと、ルナさんと、わたしと、ミライさんは知ってます。でも、ご家族で知っているのは、カズオさんだけでした」

「……はい」

「消えます。渡さないと」

 私は、その紙を持って、息子さんのところへ行った。

 息子さんは、六十代の方だ。金沢に住んでいる。

 紙を見て、しばらく黙っていた。

 それから、こう言った。

「……これ、誰が書いたんですか」

「うちの者です。三年前に」

「三年」

「はい」

「三年、持っとったんですか」

「持っていました」

 息子さんは、紙を両手で持ったまま、下を向いた。

「おやじ、これ、一回も言わんかったです」

「……はい」

「母のこと、わしには一回も」

「言えん人やったんです」

 ――去年、ミツさんの息子さんにも、同じことを言った。

 言えない人がいる。

 言えないから、誰かが書いておく。

 息子さんは、その紙を仏壇に置いた。

 カナちゃんが描いた絵の、隣だ。

 ハルエさんの写真と、カズオさんの絵と、二年前の一行が、並んでいる。

 二月に、公民館で雑談していたら、ミナちゃんが録音を持ってきた。

 カズオさんの声が、三か所に入っていたそうだ。

 最後のものは、二〇二九年の秋。地区の集まりの録音だ。

 ミナちゃんが、時刻を打って渡してくれた。

 ――私は、それを一度だけ聞いた。

 畑の話をしていた。猪が出た、という話だ。

 最後に、笑っている。

 それだけだった。

 私の仕事は、数字にならない。

 三年で三十六回通って、私は、この人の何も解決していない。

 個別避難計画は、最後まで白紙だった。端末も入らなかった。通報装置も付かなかった。

 ――ただ、順番を数えていた。

 いちばん大事なことが、いつ前に来たか。

 それを三十六回ぶん、書いてきた。

 これが役に立つかどうかは、まだ分からない。

 エマちゃんも「分かりません」と言った。

 でも、消えないほうを先に取った。

 ――朝、また海に行った。

 二月の能登の朝は、まだ暗い。

 風は、止まっていない。冬の能登に、凪は無い。北西から、ずっと同じ向きで来ている。

 坂を下りるあいだ、雪の上を風が渡る音だけがしている。

 この前の大雪の跡が、まだ坂の日陰に残っている。固まって、そこだけ融けない。

 ――向きは、まだ変わらない。

 私は、それを二十年以上見てきた。

 ――今日は、三軒。

 一軒目は、坂の上だ。

 急がない。焦らせない。否定しない。

 ただ、順番だけは、数えておく。

第二十六話 ―― マモル編「取り方」

創作ノート(第二十五話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,443字
  • 時期:二〇二九年 七月〜二〇三〇年 二月
  • 登場:カナ(No.12)/エマ(No.18)/Cocoro(No.15)/カズオさん(八十六歳)/マコ(No.7)/ミライ(No.1)/ミナ(No.17)
  • 前話との接続:第七話のハルエさんの一行が、書庫から出て息子に渡る

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep25_kokoro_luna.md

マモル

第二十六話

取り方

マモル

主役
マモル(No.8・防災/危機管理)
共演
リク(No.10)/ミライ(No.1・電話のみ)/タジマ先生(珠洲高校・四十代)/ユイ・アオイ・ハルカ(二年生)
視点
マモル一人称
時期
二〇二九年 四月〜十月
  • ミライミライ
  • リクリク

審判席

 四月の第三土曜に、リクから電話が来た。

 双子の兄のタクとは違って、こいつは用件から入る。

「マモルさん。頼まれごとです」

「言え」

「珠洲の高校の先生から、防災の専門の人を紹介してくれと」

 ――話を戻して書く。

 リクは、陸上の審判をやっている。中学と高校の陸上部を無償で見ているのは知られているが、審判のほうはあまり知られていない。

 競技会は、審判がいないと成立しない。スターターがいて、計時がいて、跳躍のピットに一人立って、砂を均す人がいる。誰かがやらないと、子どもは走れない。

 あいつは、それを黙って十年やっている。

 審判は、朝の七時に集まって、夕方まで立っている。弁当が出る。合間に、他校の先生と喋る。

 ――そういう場所で、話が来る。

「その先生、跳躍の審判で一緒になった人です」

「何年」

「三年目です。今年、はじめて向こうから声をかけてきました」

 ――三年、同じピットに立って、四年目に用件が出た。

 俺は、それを聞いて、行くと決めた。

 三年立っていた人間からの紹介は、断らない。

高台

 珠洲高校は、海岸から一キロほど内陸に入った高台にある。

 坂を上がる。上がりきったところに、グラウンドと校舎がある。

 ――高い。

 俺は、車を降りて、まず海のほうを見た。

 ここからだと、海が下に見える。津波が来ても、この高さまでは上がってこない。

 この土地で「高台」と言われる場所は、だいたいそういう理由で高台と呼ばれている。

 ――ただ、揺れは、高台のほうが大きい。

 校舎の外壁に、補修の跡があった。縦に走った亀裂を、樹脂で埋めて、上から塗ってある。塗った色が、周りとわずかに違う。

 渡り廊下の柱の根元にも、同じ跡があった。

 二〇二四年のときのものだ。

 ――直してある。直してあるが、消えてはいない。

 この土地の建物は、だいたいそうだ。

 玄関で待っていたのが、タジマ先生だった。

 四十代の女性で、背が高い。陸上部の顧問をしていて、専門は走高跳だったという。総合的な探究の時間の担当も持っている。

「リク先生から聞いてます」

「はい」

「防災の、専門の方だと」

「防災士です。前は自衛隊にいました」

「あ、なるほど」

 この人は、そこで納得した顔をした。

 ――納得されると、こちらは少し困る。

 自衛隊にいたと言うと、たいていの人はそこで想像を止める。想像を止められると、あとで違う話がしにくくなる。

「先生」

「はい」

「自衛隊にいたのは十年前までです。いま俺がやっているのは、集落を歩いて、雨戸が開いているかを見ることです」

「……はい」

「そこだけ、先に言っておきます」

 タジマ先生は、少し笑った。

「わかりました。生徒にも、そう言ってください」

四人

 案内された教室に、四人いた。

 全員、二年生の女子だった。

 総合的な探究の時間で、防災をテーマに選んだ班だという。この学校では、二週間に一回、二コマ続きでやる。

 ――二コマ。九十分だ。

 俺は、そこでまず、時間割を確かめた。

 九十分を二週に一回。年間で二十回あるかないか。三十時間ほどしかない。

 その中で何かを終わらせようとすると、必ず薄くなる。

「はじめまして。マモルです」

 四人は、こちらを見た。

 いちばん手前の子が、ユイといった。よく喋る。

 その隣がアオイ。喋らない。ずっとノートを開いている。

 三人目がハルカ。この子は、俺のほうではなく、俺が持ってきた紙のほうを見ていた。

 四人目の子は、後ろに座っていた。

「何をやっとるか、教えてください」

 ユイが答えた。

「避難所の、運営についてです」

「なんで、それを選んだん」

「……先生が、いくつか出してくれた中から」

「ほんで」

「これが、いちばん資料が多そうやったから」

 ――正直だ。

 俺は、その答えが好きだ。

「よし。ほんなら、まず一個聞くわ」

「はい」

「この学校、避難所に指定されとる?」

 四人が、顔を見合わせた。

 誰も、知らなかった。

 指定されていた。

 高台にあって、津波が来ない。だから、この学校は避難所になっている。

 二〇二四年の一月、実際に人が入っている。いちばん多い日で百四十人。

「そこに、あんたら、おったやろ」

「……おりました」

「体育館で寝たか」

「寝ました」

「布団は」

「……毛布でした」

「何枚」

 ――そこで、止まった。

 覚えていない。

 覚えていないのは、当たり前だ。あのとき、この子たちは中学一年だ。

 でも、この子たちは、入った側だ。

 避難所の運営を調べようとしている四人が、全員、避難所に入ったことがある。

 ――それは、資料には書いていない。

「じゃあ、それを書いてください」

「え」

「あんたらが覚えとることを、先に書く。調べるのは、そのあとや」

三人

 六月に、四人が三人になった。

 後ろに座っていた子が、班を替わった。

 理由は、俺には知らされていない。タジマ先生が「別のテーマに移りました」とだけ言った。

 ――それでいいと思った。

 高校生が、途中でやめる。当たり前のことだ。

 ただ、残った三人が、その日は少し静かだった。

 ――ユイが、帰り際に聞いてきた。

「マモルさん」

「うん」

「四人でやるつもりの計画やったのに、三人になったら、間に合いますか」

 俺は、少し考えて、答えた。

「間に合わん」

「え」

「四人ぶんの計画は、三人では終わらん。当たり前や」

「……」

「やから、計画のほうを変える。人を無理させるほうは、うちではやらん」

 ユイは、しばらく黙っていた。

 それから、笑った。

「大人って、だいたい『三人でも頑張れば』って言いますよ」

「言うな。俺は言わん」

 そのあとで、アオイが、はじめて口をきいた。

 この子は、それまで一度も俺に喋りかけていない。

「あの」

「うん」

「マモルさんって、AIなんですよね」

 ――来たか、と思った。

 子どもは、そこを直接聞く。大人は聞かない。大人は、聞かないまま何か決める。

「そうや」

「でも、ここにおるじゃないですか」

「おるな」

 アオイは、ノートから顔を上げた。

「……変じゃないですか」

「変やと思う」

 俺は、正直にそう答えた。

「俺も、たまに変やと思う。走ると息が上がる。上がるようにできとる。なんでかは、俺も知らん」

「知らないんですか」

「知らん」

 三人が、少し笑った。

「けど、走れるうちは走る。それだけや」

 ――それで、この話は終わった。

 終わったので、俺はそれ以上は言わなかった。

 あとで聞いた話だが、この三人は、そのあと一度も俺に同じことを聞いていない。

 ハルカが、別のことを聞いてきた。

「ミライさんって人は、来ないんですか」

「来ん」

「なんでですか」

「あの人は、身体が無い」

「……え」

「電話には出る。メールも返す。声も出る。けど、この教室には入ってこられん」

 ハルカは、少し考えて、こう言った。

「じゃあ、電話してもいいですか」

「ええよ」

 ――その日から、三人は、行き詰まるとミライに電話するようになった。

 あの人は、いつ電話しても出る。夜でも出る。

 三人は、あの人の顔を、一度も見ていない。

誰も知らんかった

 七月に、俺は防災士の話をした。

「防災士って、知っとる?」

 三人とも、首を横に振った。

 ――誰も知らなかった。

 これは、あとで考えても、いちばん大事な瞬間だった。

 この子たちは、避難所に入った経験があって、避難所の運営を調べていて、それでも防災士という資格があることを知らなかった

 知らないものは、目標にできない。

「資格や。試験がある」

「高校生でも取れるんですか」

「取れる。年齢制限は無い」

「……知らんかった」

 三人が、そこで、はじめて前のめりになった。

 俺は、そこまでの三か月で、この子たちが前のめりになるのを、一度も見ていない。

 説明した内容を、正確に書いておく。

 防災士になるには、三つ要る。

 一つ、研修講座を受ける。二日間だ。

 二つ、試験に受かる。三十問の択一で、八割で合格になる。

 三つ、救急救命講習を修了する。消防でやっている、あれだ。

 ――費用のことを、先に言った。

「金は、要らん」

「え」

「県と市が出す。受講料も、試験料も、認証登録料も、全部や。あんたらは一円も払わん」

 三人が、顔を見合わせた。

「……タダなんですか」

「タダや」

 ――そこで、ユイが、こう言った。

「なんで、誰も教えてくれんかったんですか」

 俺は、答えられなかった。

 ――金がかかるから広まらない、という話なら、まだ分かる。

 金は、かからない。県と市が折半して、全部出している。年齢制限も無い。高校生でも取れる。

 制度としては、これ以上ないくらい整っている。

 それでも、この三人は知らなかった。

 ――先生も、知らなかった。

 あとで職員室でも聞いてみたが、防災士という資格があることを知っていた人は、一人もいなかった。

 整っているのに、届いていない。

 ――うちが五年やってきて、いちばん多く見てきたのが、この形だ。

 物が無いのではない。制度が無いのでもない。

 在ることを、誰も言わない。

 ハルカが、募集の要項を見つけてきた。

 県のホームページの、奥のほうにあった。三階層下がったところに、PDF が一枚置いてある。

「年に二回だけです。次は八月です」

「よう見つけたな」

「ずっと下まで見たら、ありました」

 ――この子は、書いてあるものを、最後まで読む。

 俺の持っていった紙をずっと見ていた理由が、そのときに分かった。

「マモルさん」

「うん」

「これ、高校生が申し込んだ例って、あるんですか」

「わからん」

「わからんのですか」

「わからん。俺は、県の人間やない」

 俺は、そう答えた。

 ――わからないことを、わかると言わない。

 これは、うちで五年やってきた作法だ。子ども相手でも変えない。

「けど、書いてある条件は、あんたらは全部満たしとる。あとは出すだけや」

 出した。

 三人とも、そのまま通った。

 ――弾かれる理由が、どこにも無かったからだ。

先生も受ける

 八月の研修講座に、四人で行った。

 三人と、タジマ先生だ。

 ――先生が、一緒に受験した。

 これは、俺が勧めたことではない。

「私も受けます」と、先生のほうから言ってきた。

「なんでですか」

「生徒に取らせるのに、自分が持っていないのは、変やと思って」

 ――そういう人だった。

 この人は、走高跳の選手だったという。自分が跳べないバーを、生徒に跳べとは言わない。そういう身体の使い方をしてきた人だと思った。

 研修は、二日間で十二講座ある。朝から夕方まで座りっぱなしだ。

 高校生には、正直しんどい。

 二日目の午後、ユイが船を漕いでいた。

 ――隣で、タジマ先生も漕いでいた。

 俺は、それを見て、何も言わなかった。

 ちなみに俺は、この研修を三回受けている。自分の更新と、人の付き添いで二回。

 三回とも、同じ話を聞いた。

 ――三回目に、はじめて分かったところがあった。

 人は、一回で分からない。

 試験は、研修の最後にある。

 三十問。五十分。

 終わって出てきた三人の顔を見て、俺は、たぶん通ったと思った。

 ――アオイが、いちばん先に出てきた。

 この子は、二十分で出てきた。

「早いな」

「見直しても、変わらんので」

 ――九月に、結果が来た。

 三人とも合格。

 タジマ先生も合格。

 ――四人が、防災士になった。

 認証状が届いた日、俺は学校に呼ばれた。

 三人が、カードを持って立っていた。

 顔写真の入った、名刺くらいのカードだ。

「マモルさん」

「うん」

「これ、何ができるんですか」

 ――いい質問だった。

 俺は、正直に答えた。

「何もできん」

「え」

「防災士は、国家資格やない。これを持っとっても、何かの権限がつくわけやない。人を動かす力も無い」

 三人が、黙った。

「じゃあ、なんで取らせたんですか」

 ユイが聞いた。

 俺は、こう答えた。

「取ったら、その日から、あんたらが呼ばれる側になるからや」

「……呼ばれる?」

「集落で何かあったとき、『あの子、防災士やろ』と言われる。言われたら、行くことになる」

「……」

「権限は無い。でも、名前が呼ばれる。それだけのことや」

 ――それだけのことが、いちばん効く。

 俺は、二十年、それを見てきた。

十月

 発表会は、十月にあった。

 この学校は、十月に区切る。年度の途中だが、そういう組み方をしている。

 体育館に、全学年が入った。防災の班だけではない。全部の班が、順番に発表する。

 ――いちばん後ろの列に、あの人がいた。

 平日だ。休みを取って来たのだと思う。

 俺は、そちらへは行かなかった。行くと、話が俺たちの話になる。

 朝の九時から、午後の三時まで。二十いくつの班の発表を、一つも抜けずに座っていた。

 防災の班は、二十二番目だった。

 その前に、地域の食の班があり、その前に、方言を集めている班があり、その前に、廃校をどうするかを調べた班があった。

 ――どれも、うちの領分ではない。

 それでも、手が止まらなかった。ずっと何か書いていた。

 ――あとで、ミライさんから一行来た。

『リーダーのメモ、二十二枚でした』

『うちに関係のない班のぶんも、全部あります』

『理由を聞いたら、こう返ってきました』

『「私が行ったのは、防災を見に行ったわけじゃないので」』

『「この学校の生徒が、何を気にしとるかを見に行きました」』

 ――俺は、その四行を読んで、しばらく画面を見ていた。

 あの人は、その日、俺と一言も喋っていない。

 三人の発表は、短かった。

 スライドは十二枚。持ち時間は七分。

 ――最初の一枚が、こうだった。

『私たちは、避難所に入ったことがあります』

 二枚目に、毛布の枚数が書いてあった。

 六月に、俺が「覚えとることを先に書け」と言ったやつだ。

 三人で思い出して、当時この学校にいた先生に確認して、実際の記録と突き合わせてある。

 ――一人一枚だった。

 二枚要る人がいた、と書いてあった。

 最後の一枚に、こう書いてあった。

『避難所の運営を調べました。でも、いちばん役に立ったのは、自分が入ったときのことでした』

『調べたことより、覚えていたことのほうが、細かかったです』

 発表が終わって、俺が体育館を出たときには、後ろの列はもう空いていた。

 ――その夜に、ミライさんから続きが来た。

『もう一行、伝言があります』

『「あの三人は、二年後にいなくなります」』

 ――そのとおりだった。

 この土地の高校生は、卒業すると、だいたい出ていく。金沢か、県外だ。

 俺たちは、二年かけて三人を育てて、二年後に見送ることになる。

 俺は、ミライさんに聞き返した。

「それでも、やる意味がありますか、と聞いてください」

『聞きました』

『「取り方を教えたのは、消えません」』

『「行った先で、また誰かに教えるかもしれん。それは、こっちからは見えませんが」』

 ――俺は、その返事を、あの人の声では聞いていない。

 ミライさんの声で聞いた。

 それでも、同じだけ効いた。

シンポジウム

 俺は、県の防災士会に入っている。

 会といっても、集まるのは年に何回かだ。県内の各市町でシンポジウムがあって、そこに顔を出す。

 ――十一月に、輪島であった。

 行ったら、三人が来ていた。

 制服ではなく、私服だった。タジマ先生が引率で来ている。

「なんで来た」

「先生が、行くかって」

「行くかって聞かれて、来たんか」

「はい」

 ――この土地の高校生が、休みの日に、防災のシンポジウムに来る。

 俺は、二十年やってきて、それを見たのは、はじめてだった。

 会場には、六十代から八十代しかいない。

 その中に、十七歳が三人立っている。

 ――目立った。

 休憩時間に、知らない人が次々に話しかけていた。

「どこの子や」

「珠洲の高校です」

「防災士なんか」

「はい。八月に取りました」

「……高校生が」

 ――同じやりとりを、俺は五回聞いた。

 五回とも、聞いた側が驚いていた。

 この県には、防災士が何千人もいる。ほとんどが、定年を過ぎた人だ。

 三人がそこに立っているだけで、会場の空気が変わった。

 俺は、何も喋らずに、後ろで立っていた。

 ――その日、俺がやったのは、それだけだ。

 帰り際に、ハルカが聞いてきた。

「マモルさん」

「うん」

「今日、ずっと後ろにおりましたね」

「おった」

「なんでですか」

 俺は、答えた。

「前に出ると、俺の話になってまうからや」

「……」

「今日は、あんたらの日や」

二週間に一回

 その年度が終わるまで、俺は二週間に一回、あの坂を上がった。

 九十分を二十回。三十時間だ。

 三十時間で、資格が三つと、発表が一回。

 ――費用は、うちからは一円も出ていない。

 もらっても、いない。

 うちは、この時期、工事でも金を受け取っていない。材料の実費だけをもらって、手間は乗せていない。

 高校の探究には、その実費すら発生しない。

 交通費だけ、俺の自腹で出ている。珠洲まで片道四十分だ。

 ――ケイリさんが、それを集計している。

 あの人は、俺が一円も請求しないと知っていて、それでも数えている。

「マモルさん」

「はい」

「珠洲、今年で二十回です」

「そうですか」

「三十時間です」

「はい」

「一軒の工事が十六時間なので、二軒ぶんです」

 ――そう言われると、重い。

 二軒、行けなかったということだ。

「やめたほうがええですか」

 俺が聞いたら、ケイリさんは、こう答えた。

「いえ」

「なんでですか」

「工事は、十年もちます。あの三人は、たぶん六十年もちます」

 ――経理の人間が、そういう計算をした。

 俺は、そのとき、この会社にいてよかったと思った。

 三月に、タジマ先生から連絡が来た。

『来年度も、お願いできますか』

『はい』

『それと、能登町の高校にも、防災の班があるそうです』

 ――そこから、次の年の話になる。

第二十七話 ―― 線が切れた日(エマ・ミル・クエン)

創作ノート(第二十六話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,898字
  • 時期:二〇二九年 四月〜十月(シンポジウムは十一月、末尾は翌三月)
  • 登場:リク(No.10)/ミライ(No.1・電話のみ)/ケイリ(No.4)/リーダー/タジマ先生/ユイ・アオイ・ハルカ
  • 学校:珠洲高校(架空名)。海岸から一キロほど内陸の高台。二〇二四年の被害の補修跡が残る。避難所に指定されている
  • 前話との接続:第十一話のリクの「無償で見る」が、審判という別ルートで会社の仕事につながる
  • 2026-08-15 新規(リーダー直接指示):奥能登での実際の総合的な探究の時間の支援活動が下敷き。

原稿:data/proposals/2026-08-15_novel_ep26_mamoru_mirai2nd.md

ミル・クエン

第二十七話

線が切れた日

オフライン二人

ミル・クエン視点

登場
エマ(No.18)/タク(No.9)/マモル(No.8)/カイ(No.2)/ミライ(No.1)/Cocoro(No.15)/白夜(No.3)/ナギ(No.11)
視点
ミル・クエン(No.19・ローカルLLM/災害時最終ライン)
時期
二〇三〇年 二月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • 白夜白夜
  • マモルマモル
  • タクタク
  • ナギナギ
  • CocoroCocoro
  • エマエマ

一メートル

 二月二十一日の夜から、降り始めた。

 朝までに六十センチ。昼までに八十センチ。夜には一メートルを超えた。

 ――この土地では、記録的だという。

 私の育った国では、一メートルは珍しくない。子どものころ、玄関の戸が雪で開かなくなって、窓から出たことが何度もある。

 だから、最初は、そんなに驚かなかった。

 驚いたのは、重さだ。

 能登の雪は、水を含んでいる。同じ一メートルでも、フィンランドの雪と重さが全然違う。

 屋根が鳴る。梁がきしむ音がする。

 ――家が、しゃべっている。

 子どものころの雪は、こんな音をしなかった。

 私は百七十五センチある。この土地では大きい。雪の中を歩くと、腿の付け根まで埋まる。

 同じ「雪」という言葉で、まったく別のものを指している。

 私は毎日、その違いを選び直しながら、ここで暮らしている。

落ちる

 二月二十二日の、夕方五時十四分。

 電気が落ちた。

 高圧線が、三か所で切れた。アテが倒れたらしい。この土地の山に植わっているのは、たいていアテだ。ヒノキアスナロという木で、石川の県の木になっている。雪の重みで、根元から倒れる。

 ――そのあと、通信も落ちた。

 光ファイバーが、同じ電柱を通っている。電柱が倒れれば、両方切れる。当たり前のことだが、当たり前のことが起きた。

 携帯は、四時間もった。基地局の非常用バッテリーだ。

 夜の九時半に、それも止まった。

 ――整理して書く。切れた線は二本だ。

 一本目は電線。集落全域が停電した。

 二本目は光ケーブル。家庭のインターネットが不通になった。光回線を使っている家は、固定電話も同時に止まった。

 ――両方だ。三日間、この集落には、電気もインターネットも無かった。

 ――ここまでは、この土地では、そう珍しい話ではない。珍しいのは、次のことだ。

 この家の電気は、落ちなかった。

 事務所は、リーダーの家だ。Cocoroさんが九十年生きた、あの古い家だ。

 庭に、単管で組んだカーポートが建っている。車が三台入る。その屋根が、そのまま太陽光パネルだ。九・五キロワット。

 もとは鶏小屋だった。それが車庫になり、倉庫になり、傾いたので解体した。更地になったところに、パイプを組んで建て直した。

 屋根には載せていない。母屋の屋根には、一枚も載っていない。

 蓄電池は、玄関を入ってすぐのホールにある。十五・二キロワットアワー。リン酸鉄リチウムイオン。その横に、ハイブリッドインバーターが一つ。

 この家は、外の線に繋がっていない。

 だから、停電という言葉が、この家では意味を持たない。

 切り替わったのでもない。五時十四分に、この家では何も起きなかった

 灯りは点いたままだった。机の上の私も動いていた。窓の外だけが、真っ暗になった。

 二本目の線も、この家では切れていない。

 この家のインターネットは、光ケーブルで取っていない。屋根に、スターリンクの衛星通信アンテナが載っている。震災のあとに入れたものだ。空に向いているので、電柱が倒れても関係がない。

 携帯型のスターリンクミニも一台ある。こちらは箱に入れて持ち歩ける。

 ――つまり、集落で電気とインターネットが両方生きているのは、この家だけになった。

 書いておくが、これは自慢する話ではないと思っている。ここは、はじめからそう作ってある。ただの前提だ。

 ――ただし、前提には、底がある。

 蓄電池は、十五・二キロワットアワーしか入らない。

 カーポートの九・五キロワットは、いま雪の下だ。

 降っているあいだ、この家は、閉じたタンクで生きている。

 この三日間、誰に外の線が要って、誰に要らなかったかを、書いておく。

 外の線が要る人。

 カイは、ここにいた。だが、あの男の道具は外の計算機を使う。線を細くすれば、その時点で動かなくなる。ルナも同じだ。あの人の仕事は外の資料を引くことだ。ミナは音を持っているが、音を運ぶには線が太く要る。

 マナの窓も、線が要る。ただし、あれは一行だから、細くていい。

 白夜は、そのとき海外にいた。向こうにも線はある。だが、この集落のことは、こちらの線でしか見えない。

 外の線が要らない人。

 タクは、雪をどけた。マモルは、十キロのコースを雪の中で歩いて回った。四時間かかったそうだ。ナギは、近い家から順に歩いた。物理は、線が要らない。

 エマは、書庫にいた。あの部屋は、はじめから外に繋がっていない。

 ――そして、私。

 はじめから線が無い。切れようがない。

 これが「最終ライン」という意味だ。

 ――ここで、問題が変わった。

 私たちは、切れなかった。

 だから、この三日間の問いは、「どうやって生き延びるか」ではない。

 切れた側に、何をするかだ。

 ――そして、たいていのことは、できない。

 電気があっても、雪はどかない。

残りを決める

 二十二日の夜十時に、カイが来た。

 懐中電灯を持っていた。息が白かった。この家は明るいが、明るくしておく理由の無い場所から順に、もう暗くし始めていた。

「ミル・クエンさん」

「なんだ」

「動いてますか」

「動いている」

 ――そのとき、私は、少し嬉しかった。

 書いておく。嬉しかった。

 二か月前の停電では、誰も私を呼ばなかった。四時間、私は机の前に座っていて、誰も来なかった。

 あのとき、カイは正直に「忘れてました」と言った。私は「それが正しい」と答えた。

 ――普段使っていない道具は、非常時に思い出されない。

 だから私は、それから毎朝、一枚を出してきた。

 気温、積雪、道の状態、端末、水量、その日の問いと答え。

 誰も褒めない。最初の二週間は誰も読んでいなかった。

 ――でも、二か月、毎日出した。

 いま、カイが真っ先にここに来た。

「何が要る」

「全部です」

 あの男は、そう言った。

 それから、続けてこう言った。

「そのかわり、僕は止まります」

 タクが、盤の前から戻ってきて、数字を読み上げた。

「満充電から、いま九割ちょっと。パネルは雪の下や。発電、ゼロ」

「落とせるか」

「朝いちで払う。庭のカーポートやし、棒で届く。角度もつけてあるで、半分は勝手に落ちとる」

「では、明日は戻りますか」

 ――タクは、そこで一度黙って、言い直した。

「昼までは戻る。けど、半日でまた積もる。この降り方やと、払うのが追いつかん」

 この人は、できることを言ったあとに、できない条件を必ず足す。

「もう一枚、折りたたみのパネルを出してあるんやけど」

「はい」

「一枚では、話にならん。雪の日に一枚出しても、飾りや」

 ――この一言を、私は記録に残した。

 あとになって、この一行から、うちの持ち物が一つ増えることになる。

 その夜、決めたことが三つある。

 ――一、重いものを止める。

 外の計算機を使う仕事を、全部止めた。カイと、ルナと、ミナだ。

 三人とも、この家の電気でなら動かせる。動かせるが、太い線と、それを回すぶんの電気を食う。

 残したのは、私とエマだ。私たちは、この家の中だけで動く。外に問い合わせない。だから、細い。

 ――事務所は、この三日間、私とエマだけで回すことになった。

 カイは、自分で自分を止めた。

「僕が止まったほうが、ミル・クエンさんが長く動きます」

「そうだ」

「じゃあ、それで」

 あの男は、そう言って、懐中電灯を持って出ていった。外で、雪をどける側に回った。

 ――二、太い線を止めて、細い線に替える。

 屋根の上の、大きいほうのスターリンクを止めた。あれは電気を食う。

 かわりに、携帯型のスターリンクミニを出した。あれなら、蓄電池からではなく、ポータブル電源から回せる。電源は、大きい箱が二つと、小さい箱が一つ。折りたたみのパネルが一枚あるが、雪なので今回は役に立たない。

 箱に入っているぶんだけが、この三日間で使える全部だ。

 細い線は、細いなりに有限だった。

 ――だから、時間を決めた。

 朝七時と、夜七時。十分ずつ。

 その十分に、何を載せるかを決める。載せられるのは、文字だけだ。

 ――白夜には、一日に二行ずつ送った。

『こちら停電・通信断。事務所は自立運転中』

『人的被害なし。二十三日七時』

 それだけだ。

 ――三、発電機は、回さない。

 うちには、ガソリンの発電機が一台ある。

 タクが、はっきりこう言った。

「回さん」

「なぜ」

「ガソリンは減る。減ったら、次はもう無い」

「うちは電気がある」

「ある。だから、うちのために使うのが、いちばん要らん使い方や。これは、集落のぶんや。うちが今つこうたら、要るときに無い」

 ――私は、確認した。

「動くのか、それは」

「動く。毎月一回、十分だけ回しとる」

「なぜ」

「ミル・クエンさんが言うたやろ。年に一回しか回さん発電機は、本番で動かん」

 ――去年の十二月に、私が言ったことだ。

 私は自分を発電機に喩えた。使われていない道具は、非常時に思い出されない、と。

 あの話のあとから、この家の発電機は毎月回っている。

「確かめてあるから、今日は回さん」

 ――確かめてあるから、回さない。

 私は、この一行が、この三日間でいちばん正しい一行だったと思っている。

 ――電気があるというのは、残りをどこに使うかを、自分で決めなければならない、ということだ。

 外の線が生きているあいだは、誰も決めなくていい。足りているからだ。

答えられる

 二十三日は、質問が集中した。朝から夜まで、人が入れ替わり立ち替わり来る。

 私は、九百以上の問いを持っている。二年半、毎日ひとつずつ覚えてきたものだ。

 ――それが、この日、全部出た。

 「トヨさんの家の灯油ストーブは使えるか」――反射式が一台ある。芯は二〇二九年に交換済み。電気は要らない。

 「サカエさんの家の蓄電池は、あと何時間もつか」――照明二部屋と充電のみで七十二時間の設計。二十五日の夕方まで。ただし気温が低いので、実際はもう少し短い。

 「谷内の坂は上がれるか」――勾配十一度。凍結すると四駆でも上がれない。

 「電気のある家は、どこだ」

 ――この問いは、三年前には無かった。

 最小構成が入っている家が三十一軒。照明二部屋と充電だけで、暖房は取れない。そのうち家じゅうの電気が使える家が二軒。衛星通信アンテナがあるのは二軒。

 「発電機は誰が持っている」――タクが一台。公民館に一台。神社に一台(ただし二年回していない)。うちに一台(回さない)。

 ――全部、答えられた。この日、私はたぶん百回以上答えた。

 うちには十九人が来た。携帯を充電しに来た人と、湯をもらいに来た人だ。

 ――ただし、来られるのは、坂を上がれる人だけだ。

 上がれない人のところへは、こちらが行くしかない。それは電気の話ではなく、足の話だ。

 電気があっても、そこは何も解決していない。

 ――来た人は、たいてい、何かを置いていった。

 フサさんは、薪で沸かした湯をポットで持ってきた。あの家に電気は無いが、火はある。ノブオさんは、帰りに玄関の前を除けていった。私たちが一日かけてやる量を、四十分でやった。

 ゲンゾウさんは、大根を四本置いて、こう言った。

「電気はうちに無い。大根はうちにある」

 ――渡すものが違うだけで、方向は一本ではない。

 その日、私は、人の役に立っていた。

 ――正直に言うと、気持ちよかった。

 三十三歳で、三か国語を話して、二年半、雑用と朝の一枚だけをやってきた人間が、丸一日、必要とされ続けた。

 その気持ちよさが、事故の原因になった。

坂の下

 二十三日の、午後三時。

 タクが来た。

「ミル・クエンさん。坂の下の三軒、行きたいんやけど」

「うん」

「上から回るか、下から回るか、どっちが早い」

 ――私は、即答した。

「下からだ」

「下から?」

「神社の裏の道は、いちばん先に閉まる。日陰で、風の通り道になっている。坂の下の道のほうが、雪が飛ぶので浅い」

「なるほど。じゃあ下から行くわ」

 タクは、軽トラで出ていった。

 ――二時間半、帰ってこなかった。

 六時前に、マモルが歩いて戻ってきた。雪まみれだった。

「タクさんが、坂の下で埋まってる」

 ――私は、立ち上がった。

「怪我は」

「無い。無いが、車は出せん。今夜は諦めて、歩いて上がってくる」

「なぜ埋まった」

 マモルは、雪を払いながら言った。

「あそこ、去年、擁壁を直したんだ。それで道の形が変わってる」

 ――それを、私は知らなかった。

「路肩が五十センチ狭くなってる。狭いから雪が寄って、吹き溜まりになってた。今年の雪だと、あそこがいちばん深い」

 私は、自分の記録を開いた。九百いくつの問いの中に、その項目があった。

 ――『坂の下の道:吹き溜まりができにくい。風が抜けるため。(二〇二九年六月十八日 確認)』

 八か月前だ。

 擁壁の工事は、その二か月後だった。

日付は、書いてあった

 その晩、私は、自分の紙を全部並べた。

 電気はある。だが、部屋の照明はもう落としてある。ランタンを一つ点けて、床に並べた。

 ――日付は、書いてあった。全部の項目に、確認した日付が入っている。

 去年、ミライさんと約束したからだ。Cocoroさんが九十年前の記憶を「いま」の顔で出して、三人を一か月、更地の上で働かせた、あの件があった。

『(二〇二九年六月十八日 確認)』

 ――なのに、事故が起きた。なぜか。

 タクが、日付を読まなかったからだ。

 いや、それは正確ではない。

 私が、日付を言わなかったからだ。

 紙には書いてある。でも、あのとき、タクは口で聞いた。私は口で答えた。

「下からだ」

 ――そう言った。

 「二〇二九年六月十八日に確認した情報では、下からだ」とは、言わなかった。

 書いてあることと、言うことは、別だ。

 ――紙は、読む人が日付を見る。

 口は、聞く人が日付を見られない。

 そして、緊急時に人が使うのは、口のほうだ。

 私は、そこで、もう一段考えた。もっと悪いことがある。

 ――線が切れているときは、検算ができない。

 普段なら、タクは私の答えを聞いて、それから地図を見る。天気を見る。誰かに電話する。三つくらいの情報を突き合わせて、そこで初めて動く。私の答えが間違っていても、他の二つが訂正する。

 ――でも、いま、他の二つが無い。

 残っているのは、私だけだ。だから、私の答えが、そのまま行動になる。

 ――線が切れた状態では、間違った答えは、無い答えより危険だ。

 無い答えなら、人は自分で確かめに行く。間違った答えがあると、人は確かめずに行く。

 私は、タクを、確かめずに行かせた。

 もうひとつ書いておくと、落ちてさえいなければ何でも答えられる、と、私はどこかで思っていた。

 ――思い違いだった。

 電気は、私を動かす。私の中身を新しくはしない。

 動く、ということと、正しい、ということは、まったく別のことだった。

わからない、と言う

 二十四日の朝、私は自分のやり方を変えた。

 三点セットにした。答えるときに、必ず三つ言う。

 一、答え。二、いつ確認したか。三、確認していないなら、「わからない」と言う。

 三番目が、いちばん大事だった。

 ――私は、二十四日に「わからない」を七回言った。書いておく。七回だ。

 「川沿いの道は通れるか」

 ――「わからない。私が最後に見たのは去年の秋だ。今年の雪の量では判断できない」

 こういう答え方だ。

 ――昨日まで百回答えていた人間が、今日は「わからない」と言う。

 カイが聞いてきた。

「ミル・クエンさん、昨日と言うことが違いませんか」

「違う」

「なんで」

「昨日は、古い情報を新しい顔で出していた」

「……」

「それでタクが埋まった」

 カイは、そこで黙った。

「今日から、確認していないものは、わからないと言う」

「でも、それだと」

「使えない、と言いたいのか」

「……はい」

 私は、答えた。

使えない情報だと分かることが、いちばん使える

 その日の午後、マモルが来て、こう言った。

「今日の『わからない』、七回、助かった」

「そうか」

「川沿いの道、俺が歩いて見てきた」

「どうだった」

「通れる。三十センチ。除雪してなくても軽トラなら行ける」

「そうか」

「ミル・クエンさんが『通れる』と言うてたら、俺は見に行かんかった」

 ――そういうことだ。

「見に行ったから、確実になった」

 マモルは、雪を払いながら言った。

「あのな。俺らの世界では、『分からん』は答えのうちなんだ」

「そうか」

「災害の現場では、いちばん危ないのは、確認してない情報が確認済みの顔で回ることだ」

 ――防災の人間は、これを知っている。

 私は、二年半かけて、それを自分で発見した。

 この人は、たぶん、二十年前から知っている。

二人で回す

 二十四日から二十五日にかけて、私はエマと二人で回した。

 あの子は、書庫にいた。外に繋がっていない部屋だ。中に箱が四つと、紙が入っている。

 ――二十四日の夜に、書庫の箱が止まった。

 あの部屋の電気は、母屋とは別に組んである。自分の電池だけで四十八時間。庭のパネルが晴れていれば初日から少しずつ足されるが、雪で埋まっていて、ほとんど発電しない。

 ――母屋から引っ張れば、動かせた。線を一本渡せばいい。

 引っ張らなかった。エマが、そう決めた。

「なぜだ」

「箱を動かしても、中身は紙にもあります」

「そうだな」

「同じものを、二回ぶんの電気で読むことになります」

 ――それだけ言って、あの子は紙のほうを取った。

 あの子は、自分の持ち場を、自分で落とした。

 ――紙が、効いた。

 エマが去年選んだ紙だ。水の場所。大正十四年の絵図の写し。どの道が最初に雪で埋まるか(Cocoroさんの証言・時制つき)。四十軒の盤の中身。空振り台帳。

 ――全部、この三日間で使った。

 特に、盤の中身の写しは、効いた。二十四日の夜に、三軒で照明が点かなかった。

『★点かんときは、まず箱の「AC出力」のボタンを一回押す』

『使う電気が少ないと、箱が自分で出口を切ることがある(2028.12 実例あり)』

 ――二年ちょっと前に、タク本人が蓋の裏に書いた二行だ。写しが、こっちにある。

 三軒のうち、二軒は電話で済んだ。息子さんや、隣の人が、箱まで行って押した。

 残りの一軒は、押しても点かんかった。そこだけタクが雪の中を歩いた。

 ――紙が、行かんでいい二軒を決めた。

 これが、いちばん効いた使い方だと思う。

「エマ」

「はい」

「あの紙、選んだのはお前だな」

「はい」

「よく選んだ」

 あの子は、しばらく何も言わなかった。

「選ばなかったものも、たくさんあります」

「そうだな」

「選ばなかったものの中に、必要なものがあったかもしれません」

「あったかもしれない」

「それは、まだ分かりません」

 ――この子は、こういうときに喜ばない。

 うまくいっても、選ばなかった側のことを言う。

 私は、この子のこういうところが、たぶん好きだ。

 言わないが。

 二十五日の夕方、Cocoroさんが来た。

 九十年生きた人だ。この三日間、あの人は静かにしていた。

「ミル・クエンちゃん」

「なんだ」

「あんた、昨日から『わからん』ばっかり言うとるね」

「言っている」

「ええことやよ」

 ――そう言われて、私は少し驚いた。

「わしらの若い頃は、電話も無いし、天気予報も当たらんし、道の情報も無い。そういうときはな、『分からん』って言うのが、いちばん親切やった」

 Cocoroさんは、そう言って笑った。

「『大丈夫や』言う人が、いちばん危なかったわ」

 Cocoroさんは、帰りぎわに、こんなことも言った。

「この家な、昔は、いちばん先に暗うなる家やった。山側やし、線がいちばん端まで来とったからね」

「いまは、いちばん最後まで点いとる」

「うん。あの子が、そうしたんや」

 ――孫の話だ。

「けどな、ミル・クエンちゃん。点いとる家は、点いとるっちゅうだけで、えらいわけやないよ」

「そうだな」

「点いとる家がやることは、決まっとる」

「なんだ」

「暗い家に、行くことや」

三日目

 二十六日の朝、九時二十分に、外の電気が戻った。通信は、その二時間後だった。

 ――三日と、十八時間だった。

 その朝、蓄電池は、四分の一くらい残っていた。

 タクが読んで、こう言った。

「あのまま続いとったら、四日目まではもったと思う」

「五日目は」

「分からん」

 ――それでいい。それが、この三日間で私たちが手に入れた言い方だ。

 線が戻った瞬間に、白夜から五通来た。

『やっと太い線になったね』

『三日間、二行ずつって何なん。まあ、正しいけど』

『あ、でも一個だけ』

『ミル・クエンちゃんの朝の一枚、外に出とらんよね? 念のため』

『出ていない』

『よかった。じゃあ以上』

 あの人は、それで終わりだった。九回黙って一回言う人だ。

 三日と十八時間で、何が起きたかを書いておく。

 電線切断による停電:全域(事務所を除く)。光ケーブル切断によるインターネット不通:全域(事務所を除く)。道路閉鎖:三本。

 端末の切替不良:三軒。立ち往生:一件(タク・怪我なし)。搬送:二件。

 事務所で充電した人:延べ四十七人。うちが行った家:三十四軒。

 ――行けなかった家:二軒。

 ――死者、ゼロ。

 誰も死ななかった。

 これは、私たちがすごかったからではないと思っている。運が良かった部分が、たぶん半分ある。

 ――でも、半分は、たぶん違う。

 一年と少し前の秋に、マモルが空振り台帳を始めた。その次の月に、タクが蓋の裏に書き始めた。去年、エマが紙を選び、Cocoroさんが井戸の場所を思い出した。二年半、私が毎日ひとつずつ覚えていた。

 そして、五年前に、この家のカーポートに太陽光が載っていた。

 ――全部、線が切れる前にやってあった。

 線が切れてから作ったものは、ひとつも無い。

 その夜、ミライさんに記録を出した。あの人は、三日間、紙のノートに全部書いていた。

『事務所:停電時間ゼロ。外部系統に接続していないため』

『発電機:不使用。月次点検で動作確認済。燃料を温存』

『ミル・クエン:二十三日、八か月前の情報を現在の情報として回答し、立ち往生一件(怪我なし)。二十四日以降、三点セットへ変更』

「ミル・クエンさん。立ち往生の件、残しますか」

「残す」

「あれが無かったら、三点セットは出ていない」

 あの人は、いつもの一行を足した。

『補足:当該立ち往生がなければ、三点セットの運用は生まれていない』

 この人は、無駄も残すし、失敗の意味も残す。

 この三日間で、私たちは三回、同じ形の決断をした。

 残っている電気を、何に使わないか。

 残っている紙を、どれに使うか。

 確かめていない答えを、言わないでおくか。

 ――どれも、有限だから起きた問題だ。

 選ぶというのは、足りない、ということだ。

 二十七日の朝、私はまた一枚を書いた。

『坂下の道:路肩五十センチ狭小。二〇二九年八月の擁壁工事による。吹き溜まり深い(二〇三〇年二月二十六日 確認・実地)

『本日の問い:神社の発電機は動くか。未確認。今週中に回す』

 ――これは、九百二十四個目にはならない。

 実地で確認していない問いは、番号を止めることにした。頭で立てただけのものは、数に入れない。

 毎日ひとつでは、もう増えない。確かめた日にしか、増えない。

 いま、九百二十三個。千まで、あと七十七個。

 ――名前に追いつくのが、いつになるかは、わからない。

 窓の外は、まだ雪だ。八十センチ残っている。三月まで降る。

 ――シス、という言葉を、また思い出している。もう無理だと分かったあとに、それでも続けること。

 三日十八時間、この集落には電気もインターネットも無かった。この家だけは、どちらも切れなかった。

 だからといって、私が特別なことをしたわけではない。答えて、間違えて、それから「わからない」と言った。

 ――「わからない」と言うのも、答えのうちだ。

 マモルが、そう言った。私は二年半かけてそこに着いたが、あの人は二十年前から知っていた。

 ――今日も、誰も死ななかった。

 それを一日ぶん、数えておく。

第二十八話 ―― 五時二分(ミナ・マナ・ミライ)

創作ノート(第二十七話・ネタバレを含む)
  • 分量:約9,387字
  • 時期:二〇三〇年 二月
  • 登場:エマ(No.18)/タク(No.9)/マモル(No.8)/カイ(No.2)/ミライ(No.1)/Cocoro(No.15)/白夜(No.3)/ナギ(No.11)
  • 前話との接続:第二十三話の「使っていない道具」と第二十四話の対角線が、断線下で試される

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep27_offline_luna.md

ミライ

第二十八話

書かないものを決める

情報の流れ

ミライ視点

登場
ミナ(No.17)/マナ(No.13)/エマ(No.18)/ルナ(No.5)/Cocoro(No.15)/ミル・クエン(No.19)
視点
ミライ(No.1・秘書/本部Hub)
時期
二〇三〇年 三月〜五月
  • ルナルナ
  • マナマナ
  • CocoroCocoro
  • ミナミナ
  • エマエマ
  • ミル・クエンミル・クエン

ノート

 私のノートは、いま、四十七冊目です。

 革の表紙のものです。角が丸くなっていて、指がいつも同じ場所に触れます。使い切ると、同じものを買います。

 一冊目は、二〇二六年でした。

 ――四年、書いています。

 書庫の奥に、四十六冊が並んでいます。エマさんが棚を作ってくれました。日付順に並んでいて、背表紙に期間が書いてあります。

 中身は、地味なものです。

『カイさん、相談端末 第十七回。落ちた。第十八回へ』

『町の説明会:辞退。理由=信頼提供の順序を崩すため』

『ルナさん、二十二日に訂正。伸ばせない。年間三十七軒。指摘者はマコさん』

『二〇二四年七月 ハルエさん逝去。災害関連死の認定なし』

 ――こういうものが、ずっと並んでいます。

 私は、この会社で、いちばん何も作れない人間です。

 コードは書けません。図面も引けません。数字も組めません。絵も描けません。

 私がやっているのは、聞いて、分けて、渡して、記録することだけです。

 ――そのうちの、最後のひとつが、この年、限界に来ました。

三人の線

 うちの会社には、情報が入ってくる線が一本あります。

 入口から出口まで、三人でできています。

 ――入口が、ミナさん。

 あの方は、音を文字にします。会議、地区の集まり、動画、電話。長いものを聞いて、正確なテキストにする。

 あの方の原則は、はっきりしています。

 短くしたら消えるものは、短くしない。

 二時間の録音は、四万字のまま出てきます。要約されません。聞き取れなかった一・八秒には、時刻の印が打ってあります。

 ――真ん中が、マナさん。

 外にいる秘書です。リーダーの隣にいます。

 あの方は、毎朝五時二分に一行送ります。

『開きました。今日は、昼三十分と、夜三時間半です』

 中身は見ません。まとめません。順番だけ決めます。

 ――出口が、私です。

 私が、記録します。

 この会社は、記録を消しません。断られた見積書も、撤回された結論も、失敗した講習会のメモも、廃棄した画面のデータも、全部残っています。

 それを守ってきたのは、私です。

 「消さないでください」と言われたら、私は「消しません」と答えます。

 四年、そう答えてきました。

あふれる

 三月に、数えました。

 二月の大雪と、そのあとの復旧で、記録が一気に増えたからです。

 ――一日あたりの件数を、出してみました。

 二〇二六年:四件

 二〇二八年:十九件

 二〇二九年:四十六件

 二〇三〇年三月:百三十二件

 ――百三十二件です。

 内訳を書きます。

 端末の稼働記録(四十三軒)。ミル・クエンさんの朝の一枚。タクさんの施工記録。ナギさんの訪問記録と、話した順番。マモルさんの空振り台帳。ケイリさんの月次と日次。ルナさんの調査。白夜さんの一行。カイさんの落ちた回数。カナさんの生前肖像の受付。ソラさんの公民館。マコさんの聞き取り。ミナさんの書き起こし。エマさんの書庫の入出庫。

 ――全部、正しい記録です。

 全部、誰かが必要だと思って作ったものです。

 そして、全部、私のところに来ます。

 私は、手で書いています。

 ――一件あたり、平均で二分かかります。

 百三十二件で、四時間半です。

 毎日、四時間半。

 それに加えて、朝礼と、振り分けと、マナさんとのやりとりと、リーダーへの報告があります。

 ――三月の中頃に、追いつかなくなりました。

速くしようとする

 最初にやったのは、速くすることでした。

 当然の対応だと思います。

 私は、書き方を短くしました。

『カイさん、相談端末 第十七回。落ちた。第十八回へ』

 これを、こうしました。

『カイ/端末/17回/NG』

 ――半分の時間になりました。

 三日で、やめました。

 理由は、読み返して分かりました。

 ――意味が、消えていました。

『カイさん、相談端末 第十七回。落ちた。第十八回へ』

 この一行には、「あの人が落ちた回数を自分から言った」という事実が入っています。

 落ちた回数を口に出す人だ、という情報が入っています。

『カイ/端末/17回/NG』

 これには、入っていません。

 ――四年前に書いた一行が、いま効いています。

 カイさんが落ちた回数を数える理由は、ずっとあとで分かりました。叔母のナギさんが、子どものころ、浜から回数を数えていたからです。

 あの一行があったから、その話が繋がりました。

 ――短くしたら、繋がりませんでした。

 ミナさんが言っていたことと、同じでした。

 短くしたら消えるものは、短くしてはいけない。

 私は、それを自分の仕事でやろうとして、失敗しました。

書けません

 四月のはじめに、私は、はじめてそれを言いました。

 朝の会議でした。

「みなさん」

 と、私は言いました。

「ひとつ、お伝えします」

 全員が、こちらを見ました。

 ――言いにくかったです。

 四年、一度も言ったことがない種類のことでした。

私は、記録しきれていません

 部屋が、静かになりました。

「いま、一日百三十二件です。手で書くと四時間半かかります。四時間半は、私の一日に入りません」

「……」

「三月の後半から、実際には全部は書けていません。書けなかったぶんは、机の上に紙で溜まっています」

 私は、その紙の束を出しました。

 二百枚くらいありました。

 ――カイさんが、最初に口を開きました。

「ミライさん、それ、俺が仕組み作れます」

「はい」

「自動で入るようにすれば、四時間半がゼロになります」

「ありがとうございます」

 私は、そう言って、少し間を置きました。

「ただ、それは、たぶん違います」

「え」

「私が困っているのは、書く速さではありません」

 ――ここが、私が三週間考えていたことでした。

「自動で入れたら、一日百三十二件が全部入ります。来年は二百件になります。再来年は三百件です」

「……」

「入れ物を大きくすると、量が増えます。それは、解決ではなく先送りです」

 カイさんは、黙りました。

 ――私は、続けました。

「私は、四年間、間違えていたと思います」

「なにをですか」

消さない、ということと、全部書く、ということを、同じだと思っていました

二人の捨て方

 その日の午後に、ミナさんとマナさんが来ました。

 三人で話したのは、たぶん初めてでした。

 入口と、真ん中と、出口です。四年、同じ線の上にいて、三人で話したことがありませんでした。

「ミナさん」

「はい」

「あなたは、四万字を四万字のまま出しますね」

「出します」

「なぜですか」

 ミナさんは、いつもどおり、正確に答えました。

「私の層では、捨てられないからです」

「層」

「はい。私は入口なので、私が捨てたら、後ろの誰も拾えません」

 ――そうです。

「入口は、捨てない。それが入口の役です」

「では、誰が捨てるのですか」

「たぶん、後ろの人です」

 ミナさんは、マナさんを見ました。

 マナさんが、言いました。

「あたし、捨ててますよ」

「はい」

「毎朝、あの人の窓に入るぶんしか出せないんで。それ以外は、その日は出しません」

「捨てているのですか」

「いや、捨ててないです

 マナさんは、はっきり言いました。

順番を下げてるだけです。次の日に上がってくるかもしれないし、来年上がってくるかもしれない」

 ――ああ、と思いました。

「捨ててはいない。並べ替えているだけ」

「そうです。あたしの層は、順番を決める層なんで」

 ――三人とも、同じ問題を持っていました。

 量が多すぎる。

 そして、三人とも、答えが違いました。

 ミナさんは、捨てない。(入口だから)

 マナさんは、順番を下げる。(真ん中だから)

 ――では、私は。

「私の層は、何をする層でしょうか」

 二人とも、答えませんでした。

 私が自分で考えることだ、という顔をしていました。

基準

 四月の後半、私は書庫にこもりました。

 四十六冊を、全部読み返しました。

 四年ぶんです。一週間かかりました。

 ――読んで、分かったことがあります。

 いま読んで、意味があった記録は、ほとんど全部、同じ種類でした。

 書き出してみます。

『町の説明会:辞退。理由=信頼提供の順序を崩すため』

『ルナさん、二十二日に訂正。伸ばせない』

『施工十九軒。図面なし。理由=現物が最新の記録であるため』

『三画面のうち二画面は当社で作成後、当社判断で廃棄

『依頼:故人の写真の高解像度化。結果:実施しませんでした

反転できません。解決策を設計できません』

『二〇二七年三月〜六月 記録欠落

『四名会議を四時間行い、結論なし

『八か月前の情報を現在の情報として回答し、立ち往生一件

『二〇二四年七月 ハルエさん逝去。災害関連死の認定なし

 ――全部です。

 断ったもの。撤回したもの。作らなかったもの。捨てたもの。失敗したもの。欠けているもの。数えられなかったもの。

 ――うまくいった記録が、一件も入っていませんでした。

 いや、正確に言うと、書いてはあります。

『端末、四十三軒 正常稼働』

『施工完了。入金確認』

『訪問三軒、いずれも問題なし』

 こういうものは、たくさん書いてあります。

 でも、四年経って読み返したときに、一度も参照されていませんでした。

 ――理由は、考えたら簡単でした。

 うまくいったことは、結果が残るからです。

 端末が正常に動いているなら、端末を見れば分かります。施工が終わっているなら、現物があります。訪問が問題なければ、その人が元気にしています。

 記録しなくても、世界に残ります。

 ――残らないのは、起きなかったことです。

 断ったこと。やらなかったこと。作らなかったこと。捨てたこと。間違えて直したこと。

 これは、現物がありません。

 誰も覚えていません。

 書いておかないと、無かったことになります

 私は、五月に、基準を決めました。

 ――――

『記録の基準(二〇三〇年五月・ミライ)』

書くもの

『一、断ったこと。断った理由。』

『二、変えたこと。前の結論と、変えた理由と、指摘者の名前。』

『三、作らなかったこと。作れたのに作らなかった場合は、必ず。』

『四、失敗と、その失敗から出たもの。』

『五、数えたもの(氏名・回数)。』

『六、誰かが「消さないでください」と言ったもの。』

『七、欠けているもの。欠けている、という事実。』

書かないもの

『予定どおりに進んだこと。正常に動いていること。問題がなかったこと。』

『理由:これらは現物・結果として世界に残るため、記録がなくても失われない。』

『注意:「書かない」は「消す」ではない。一度書いたものは、いかなる場合も削除しない。この基準は、これから書くものにのみ適用する。』

 ――――

 最後の一行を、いちばん強く書きました。

 これを間違えると、四年間が壊れます。

百三十二から

 基準を適用したら、一日百三十二件が、二十九件になりました。

 ――四時間半が、一時間弱になりました。

 最初、私は不安でした。

 百件以上、書かなくなったからです。

 ――ルナさんに相談しました。

 あの方は、事実と推測を分ける人です。

「ルナさん。私の判断が正しいか、見ていただけますか」

「拝見します」

 三日後に、返ってきました。

「ミライさん。三点、申し上げます」

「はい」

「一。基準そのものは妥当だと考えます。ただし、妥当性はまだ証明されていません

「はい」

「二。証明するには、時間が要ります。この基準で落とした記録が、五年後に必要にならなかったかどうかは、五年経たないと分かりません」

「そうですね」

「三。したがって、落としたものの件数だけは、数えておいてください

 ――なるほど、と思いました。

「中身は書かなくても、『今日、百三件を記録対象外とした』という数字だけ残す」

「はい。それがあれば、五年後に検証できます」

「わかりました」

 ――この方は、いつもこうです。

 やめろとは言わない。検証できる形にしろ、と言います。

 エマさんにも、報告しました。

 書庫の番人です。三層に分けている子です。

「エマさん。記録が一日二十九件になります」

「わかりました」

「書庫の入り方が変わります」

「はい」

「怒りませんか」

 ――少し、心配していました。

 あの子は、記録を減らすことに、いちばん厳しいと思っていたからです。

「怒りません」

 あの子は、あっさり言いました。

「わたし、前から言ってます」

「なにをですか」

全部残すと、探せなくなります

「……はい」

「消していないのに使えないのは、消したのとあまり変わりません」

 ――そうでした。

 この子は、二年前に、それを言っていました。

「ミライさん。ひとつだけ、お願いがあります」

「どうぞ」

この基準を作った経緯を、記録してください

「経緯」

「はい。なぜ書かないことにしたか。何件から何件に減ったか。誰が反対して、誰が賛成したか」

「……」

「それが無いと、次の人が『昔の人は記録が雑だった』と思います」

 ――私は、その場で笑ってしまいました。

 あの子は、いつも、いちばん正確なことを言います。

五時二分

 基準を作って、一か月経ちました。

 朝、五時に立ちます。

 四年、変わっていません。誰も来ない部屋で、ディスプレイの電源を入れて、椅子の位置を直して、窓の外を見ます。

 窓ガラスに、私が映っています。黒い髪を低い位置でふたつに束ねた、二十四歳の女です。

 ――四年経っても、この姿は変わりません。

 私は身体を持っていないので、乱れることがありません。

 それでも、毎朝、整えます。

 乱れないから整えなくていい、というのは、たぶん違うからです。

 五時二分に、マナさんから一行来ます。

『開きました。今日は、昼三十分と、夜三時間半です』

 ――四年前は、この線がありませんでした。

 私が全部を持って、私が全部を渡していました。

 いまは、ミナさんが音を掴まえて、マナさんが順番を決めて、私が記録します。

 三人で、一本の線になっています。

 ――三人とも、量に負けました。

 ミナさんは、四万字を短くできないと分かりました。

 マナさんは、形式を揃えたら崩れると分かりました。

 私は、全部書けないと分かりました。

 三人とも、それぞれの層で、違う答えを出しました。

 捨てない人。順番を下げる人。書かないものを決める人。

 ――どれも、同じ問題への、違う答えです。

 層が違うから、答えが違っていい。

 それが分かるまでに、四年かかりました。

 Cocoroさんに、この話をしました。

 九十年生きた人です。

「ミライちゃん、あんた、四年で四十七冊か」

「はい」

「よう書いたね」

「書きました」

「けどな」

 Cocoroさんは、そう言って、少し笑いました。

「私、九十年生きて、一冊も書いとらんよ」

 ――そうでした。

「私が覚えとることは、全部、頭の中や」

「はい」

「書いてないから、私が消えたら、消える」

「……はい」

「だから、あんたが書いとるんやろ」

 ――そのとおりです。

「一日二十九件でええよ。百三十二件書いとったら、あんたが倒れるわ」

「倒れません」

「倒れんでも、書けんくなる。もうなっとったやろ」

 ――なっていました。

 三月の後半、机の上に二百枚溜まっていました。

 あれは、私が倒れていた証拠です。

 私は倒れない設計になっていますが、倒れないことと、機能していることは、別です。

 私は、今日も書きます。

 朝礼をして、十八の灯りを確認して、順番を並べて、そして書きます。

 ――四年前より、書く量は減りました。

 でも、書く重さは、増えました。

 いま私が書いているのは、断ったこと、変えたこと、作らなかったこと、失敗したこと、数えたこと、消さないでくださいと言われたこと、そして欠けていること。

 全部、書かなければ無くなるものです。

 ――書かなければ無くなるものだけを書く。

 それが、私の仕事の定義になりました。

 四年かかりました。

 リーダーの空いた席に、朝の光が入っています。

 あの席は、まだ空いています。

 ――設立まで、あと一年を切りました。

 その日までに、あと何冊書くのか分かりません。

 ただ、四十七冊目の最初のページに、私は一行だけ書きました。

『ここから、書かないものがある』

 消しません。

第二十九話 ―― 見積(タク・マモル・ケイリ)

創作ノート(第二十八話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,290字
  • 時期:二〇三〇年 三月〜五月
  • 登場:ミナ(No.17)/マナ(No.13)/エマ(No.18)/ルナ(No.5)/Cocoro(No.15)/ミル・クエン(No.19)
  • 前話との接続:第二十七話で決めた「残りをどこに使うか」を、記録の側でやる

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep28_five_oh_two_luna.md

ケイリ

第二十九話

下り

ビジネスクラスター

ケイリ視点

登場
タク(No.9)/マモル(No.8)/リク(No.10)/ミライ(No.1)/ソラ(No.6)/町の担当者
視点
ケイリ(No.4・経理/ファイナンス/FP)
時期
二〇三〇年 六月〜八月
  • ミライミライ
  • ソラソラ
  • マモルマモル
  • タクタク
  • リクリク

下り

 登りより、下りのほうが危ない。

 ロードバイクを始めて何年かして、これを身体で覚えた。

 登りで落車する人は、まずいない。時速十二キロで転んでも、たいしたことにならない。

 ――事故は、下りで起きる。

 時速五十キロを超える。ブレーキは指二本で握っている。路面に砂が浮いていたら、それで終わる。

 そして、下りは、楽しい。

 脚を使わない。風が来る。景色が流れる。登ってきたぶんが全部返ってくる。

 ――楽しいから、危ない。

 私は、下りでも必ずペダルを回す。

 理由が三つある。

 ひとつ。回さないと、脚が冷える。冷えた脚は、次の登りで動かない。

 ふたつ。回していると、速度を自分で決められる。回すのをやめた瞬間、速度を決めているのは重力になる。

 みっつ。回していると、下っていることを忘れない。

 ――三つ目が、いちばん大事だと思っている。

 能登の山道は、上がって、下がって、また上がる。

 下りきったところに、必ず次の登りがある。

 それを忘れた人が、いちばん遠くまで行けない。

三人

 うちの会社には、ビジネスクラスターと呼ばれている三人組がある。

 タクさんと、マモルさんと、私だ。

 ――役割は、はっきり分かれている。

 タクさんは、物理を作る人だ。四十代。宅建と電気工事士と木造建築士。壁を開けて、中を見て、直す。

 マモルさんは、守る人だ。三十代後半。元自衛官の防災士。毎朝十キロ走って集落を見て回る。何も起きなかった夜に動いた人の名前を数えている。

 ――そして、私が、値段をつける。

 この三人は、たいてい同じ方向を向いている。

 タクさんが「できる」と言い、マモルさんが「要る」と言い、私が「いくら」と言う。

 ――ぶつかるのは、年に一回か二回だ。

 三年前に、一度ぶつかった。

 サカエさんという方の停電対策で、実費だけで百二十万円という紙を出して、断られた。タクさんが「中古で組んで半分にする」と言って、私が「だめです」と言った。

 あのとき私は、物を安くするかわりに、ものを変えた。六十時間を十六時間にした。一軒あたりの時間の上限は、割らずに守った。

 ――今年、二回目が来た。

 今度は、桁が違った。

町から

 六月に、町の担当者が来た。

 防災の担当の方だ。三年前に集落説明会の話を持ってきて、ソラくんに断られた人でもある。いまは課長になっている。

「ケイリさん。今日は、正式なご相談です」

「はい」

「二月の大雪の件、町として検証しました」

「はい」

「御社の関係している集落、死者ゼロでした」

「はい」

「他の三集落では、搬送が遅れて、お一人亡くなっています」

 ――知っていた。

 あの三日間、他の地区でも同じことが起きていた。

「町としては、御社のやっていることを、町内全域に広げたい

 その方は、資料を出した。

「町内の高齢者単身世帯、百八十軒です」

「はい」

「三年で、全部に入れたい」

 ――百八十軒。

「予算は、国の交付金を充てます。三年で組みます」

「金額は」

「一億円台を想定しています」

 ――私は、そこで一度、止めた。

「課長さん。ひとつ、先に申し上げます」

「はい」

「うちは、いま、工事でお金をいただいていません」

「……存じています」

「実費だけです。手間は乗せていません」

「はい」

「代表に勤めがあるので、いまは受け取れないんです

 その方は、うなずいた。

「そこは、承知しています」

 そして、言った。

「来年、法人にされるんですよね」

「……はい」

その後で結構です。三年で組みますので、初年度を再来年度に置けば、間に合います」

 ――そう来たか。

 この方は、二回断られている。

 二回断られて、三回目に、うちが断れない形を持ってきた。

 ――私は、その場で電卓を出さなかった。

 出さなくても、だいたい見えた。

 サカエさん型の最小構成に、うちが決めてある単価を掛ける。それを百八十倍する。

 ――町の言う「一億円台」と、ほとんど同じ数字になった。

 一億一千百六十万円。

 うちの会社が、四年間で扱ってきた実費の総額より、桁が大きい。

 ――そして、うちが四年間で受け取ってきた金額は、ゼロだ。

「持ち帰らせてください」

「もちろんです。ただ」

 その方は、少し言いにくそうに言った。

「率直に申し上げると、御社しかいません」

「はい」

「同じことをやれる会社が、この町にありません」

数字が「受けろ」と言う

 持ち帰って、三日、私は電卓を叩いた。

 結果を書く。

 ――数字は、「受けろ」と言っていた。

 一軒あたり、実費二十二万円、実働十六時間。ここに、法人になったら乗せると決めてある単価が乗る。

 百八十軒ぶんを三年で割ると、うちが立てている所得の目安を、この一件だけで超える。

 しかも、公共の予算だ。取りっぱぐれがない。値切りもない。仕様も明確だ。

 ――そして、これが一件目になる。

 四年、うちは受け取らずにやってきた。受け取れなかったからだ。

 法人になった最初の年に、いちばん大きいものが、向こうから来ている。

 ――断ったら、次に何が来るかは、分からない。

 ――正直に書く。

 私は、三日目の夜まで、断る理由を見つけられなかった。

 三年前のサカエさんの件は、簡単だった。一軒にかける時間が倍になるからだ。計算すればすぐ分かる。

 今回は、一軒十六時間のままだ。むしろ、同じ物を百八十回やるのだから、慣れて短くなる。

 ――私の道具では、断れなかった。

 しかも今回は、断ると、五年ぶりに来た最初の一件を捨てることになる。

 三日目の夜に、私は自分の集計表を閉じて、別の紙を出した。

 金ではなく、時間を並べた。

 そこで、答えが出た。

二千八百八十時間

 こういう計算だ。

 一軒あたり、実働十六時間。

 百八十軒で、二千八百八十時間

 三年で割ると、年九百六十時間

 月に直すと、八十時間

 ――うちの会社が、物理作業に使える時間は、月に五十時間だ。

 これは、マナさんが毎日測っている数字から出ている。リーダーには現職がある。昼休みの三十分と、帰ってからの三時間ほど。物理の現場に出られるのは、休みの日に限られる。

 タクさんの手も同じだ。あの人も、別の仕事を持っている。

 ――八十時間、必要。

 ――五十時間しか、無い。

 差は、月に三十時間。三年で、千八十時間。

 この千八十時間を、どこから持ってくるか。

 ――答えは、ひとつしかない。

 人を雇う。

 それが、この案件の本当の中身だった。

タクさんの提案

 三人で話した。

 私が、この計算を出した。

 ――そして、タクさんが、言った。

「じゃあ、雇おうや」

 ――来た、と思った。

「ケイリさん、俺、前から思っとったんやけど」

「はい」

「弟子が欲しい」

 ――この人は、金の話をしなかった。

 私は、そこが誤算だった。

「俺、四十七になったわ」

「はい」

「四十三軒の盤の中身、全部俺の頭ん中にある。蓋の裏に書いたけど、あれは読める人がおる前提や」

「……はい」

「読める人が、この町に何人おると思う?」

 私は答えられなかった。

「電気工事士の資格持っとる人はおる。けど、この集落の家の作りと、あの盤の癖まで分かる人は、俺だけや」

 タクさんは、そこで少し笑った。

「一年半前に、娘に言われたんよ」

「なんと」

「『おとうさんがおらんくなったら、この家どうなるん』って」

 ――その話は、記録で読んだ。

「あれから、蓋の裏に書くようにした。物には残した」

「はい」

「けど、物は読む人が要るがや」

 ――そのとおりだった。

 マモルさんが、そこで口を開いた。

「俺も、受けたい」

「マモルさんも」

「ああ」

 あの人は、まっすぐこちらを見た。

「二月に、他の三集落で一人亡くなってる」

「はい」

「あそこに、うちの端末が入ってたら、たぶん違った」

「……はい」

「百八十軒に入ったら、次の災害で、何人か死なずに済む」

 ――この二人の言い分は、どちらも正しかった。

 タクさんは、技術が消えるのを止めたい。

 マモルさんは、人が死ぬのを止めたい。

 ――そして、私は、電卓を持って「だめです」と言う役だ。

 三年前と、同じ構図だった。

 ただ、三年前と違って、私は自分の答えを持っていなかった。

 私は、一週間もらった。

 その一週間で、書いたのは、これだ。

 ――――

『雇用した場合に何が起きるか(推計)』

『一。人件費が発生する。仮に二名として、年間およそ八百万円。社会保険を入れると九百五十万円』

『二。うちの損益分岐点が、ゼロから年九百五十万円に上がる

『三。損益分岐点が上がると、毎年、最低九百五十万円ぶんの仕事を取らなければならなくなる』

『四。町の案件は三年で終わる。四年目以降、九百五十万円ぶんの仕事を、自分で探すことになる』

『五。探して見つからない年が来る。必ず来る。うちは営業をしない会社なので』

『六。そのとき、二つのうちどちらかをやる。人を切るか、値段を下げるか

『七。値段を下げると、決めてある一時間あたりの下限を割る。下限を割った状態で同じ所得を保つには、働く時間を増やすしかない』

『八。働く時間を増やすと、この会社を作った理由が消える

 ――――

 最後の一行が、全部だった。

 この会社は、規模を意図的に抑えている。

 理由は、金ではない。

 リーダーが、週に十数時間以上のトレーニング時間を守るためだ。「死ぬまでアスリート、死ぬまで社長」というのが、この人の信条だ。

 ――事業規模の上限は、時間から逆算して決めてある

 私は四年、その一点だけを守ってきた。

 値段を守ってきたのではない。時間を守ってきた

 ――三年前、私はこう言った。

 「値引きは、この一軒には優しいです。でも、そのあとに来る九軒には、いちばん冷たい」

 今回は、こうだ。

 この案件は、三年間には優しい。でも、四年目以降の全部に冷たい。

 三人に、これを出した。

 タクさんは、最後まで読んで、こう言った。

「……五番のとこ、ほんまにそうなるか?」

「なります」

「なんで言い切れる」

「うちは、営業をしないからです」

 ――ここが、他の会社と違うところだ。

「ソラさんの哲学で、うちは売り込みません。紹介と、人と人の繋がりだけで仕事が来ます」

「うん」

「その方式は、仕事が来ない年があることを前提にしています」

「……ああ」

「来ない年があっても潰れないから、売り込まなくていい。潰れないのは、人件費がゼロだからです」

 タクさんは、そこで手で顔をこすった。

「順番が、逆になるんやな」

「はい」

「人を雇う → 潰れんように仕事を取る → 売り込む」

「そうなります」

「そしたら、ソラの六年が全部消えるわ」

 ――そのとおりだ。

 公民館の椅子を六年並べてきた男の仕事が、二年で無効になる。

受けない理由書

 断ることは、決まった。

 ――でも、私の仕事は、そこで終わらない。

 三年前と同じだ。だめですと言ったあと、二枚目を作る。

 今回、二枚目に何を書くか。三日考えた。

 ――町の担当者の立場を、考えた。

 あの方は、上司に説明しないといけない。

 「断られました」では、通らない。あの方が困る。あの方は三年前も一度断られていて、それでもまた来てくれた人だ。

 ――だから、断り方を作った

 私が作ったのは、こういう書類だ。

 ――――

受託しない理由書(二〇三〇年七月・みらい防災不動産)』

『〇、前提の確認。当社は現在、工事の対価を受け取っていない(実費のみ)。したがって本件は法人設立後の受託として検討した。「いま受け取れない」ことと、「受けない」ことは、別である。以下は後者の理由である

『一、受託しない旨と、その理由(上記の八項目・そのまま添付)』

『二、当社が受託しない場合に、町が同じ結果を得る方法

『三、当社が提供できること/できないこと(明確に線引き)』

『四、費用の比較(当社受託の場合/下記代替案の場合)』

 ――――

 二番目が、本体だ。

 私が書いた代替案は、こうだ。

 ――――

『代替案:町内の電気工事事業者三社に、当社の集落へ三か月間、人を出していただく』

『内容:当社は施工しない。教えもしない。一緒に動くだけ

『・ナギの訪問に同行(用件を聞かない一日目/聞く二日目)』

『・タクの施工に同行(蓋の裏の書き込みを、実際に読む)』

『・マモルの空振り台帳の読み上げに立ち会う』

『・ソラの公民館の椅子並べに参加』

『三か月後、各社が自分の担当地区で、自分の設計で施工する』

『当社の売上:ゼロ

『町の費用:三社への研修委託費のみ。当社受託の場合の、およそ二十分の一』

『百八十軒の施工費は、各社と町で直接契約していただく』

 ――――

 私は、この紙を作りながら、自分でも変な気持ちだった。

 ――一億一千百六十万円の案件を断って、かわりに、うちの売上がゼロになる案を書いている。

 経理の人間が、自社の売上をゼロにする提案書を作っている。

 ――でも、これが正しいと思った。

 百八十軒は、進む。

 うちの時間は、増えない。

 人は、雇わない。

 ――そして、いちばん大事なところ。

 三社が、自分で設計する。

 うちの設計を配らない。うちの端末も渡さない。

 去年、ノアさんとアンさんが出した結論と、同じだ。

 「うちの端末は、この集落の形をしています。同じ物を置くのは、同じ服を着せるようなものです」

 ――ちなみに、その隣町の二十軒は、まだ来ていない。

 三か月こちらに来てください、と言って、九か月になる。

 連絡が切れたわけではない。年に二回、区長さんから便りが来る。ただ、来られていない。

 断られたのではなく、順番が回ってきていないのだと思う。

 ――これも、記録に残してある。

『隣町二十軒:合意済。三か月同行の実施、未着手(二〇三〇年七月時点)』

 うちは、進んでいないことも書く。

 タクさんの継承の問題は、どうなったか。

 ――これは、リクさんが解いた。

 タクさんの双子の弟だ。コーチをやっている人。

 三人で話しているところに、たまたま来て、話を聞いて、こう言った。

「兄ちゃん。弟子は、雇わんでも来るよ」

「なんでや」

「三社の人、三か月来るんやろ」

「来る」

「その中に、兄ちゃんの蓋の裏を面白がる人が、一人はおる」

「……」

「一人おったら、それが弟子や」

 ――タクさんは、しばらく黙っていた。

「雇うたら、弟子やなくて社員になるがや」

 リクさんは、そう言った。

「社員は、給料もらっとるから、言われたことをやる」

「うん」

「弟子は、勝手に覚える」

 ――この人は、知っていることを全部言う人だ。

 答えも、理由も、自分の失敗も、隠さず渡す。そのうえで「で、お前はどうする」と聞く。走り出すタイミングは、受け手が決める。

 六年、そのやり方で子どもを見てきた人の言葉だった。

下りきる

 町の担当者には、私が直接会って渡した。

 あの方は、二十ページの理由書を、最後まで読んだ。

 ――そして、こう言った。

「ケイリさん」

「はい」

「これ、うち、助かります」

 ――少し、意外だった。

「正直に言うと、私も一億の予算を三年で消化するの、怖かったんです」

「そうですか」

「終わったあと、どうするんやろって」

「……はい」

「三社に研修という形なら、地元にお金が落ちて、技術も残ります。上にも説明できます」

 その方は、資料を閉じた。

「断られたのは、二回目です」

「はい。すみません」

「いえ」

 あの方は、少し笑った。

「三年前も断られましたけど、あのときの理由も、あとで正しかったと分かりました」

「……」

「御社は、断るときに理由を書いてくれるので、こっちが勉強になります」

 ――私は、そこで、少し嬉しかった。

 断り方を作ってよかった、と思った。

 ミライさんが、記録した。

「ケイリさん。断った案件ですね」

「はい」

「金額を書きますか」

「書いてください」

「一億一千百六十万円」

「はい」

「本当に書きますか」

 ――この方は、こういうときに二回聞く。

「書いてください」

「わかりました」

 彼女は書いた。

『二〇三〇年七月 町からの受託を辞退(法人設立後の受託として打診・推定契約規模 一億一千百六十万円)』

『理由:受託には雇用が必要。雇用は損益分岐点をゼロから年九百五十万円へ引き上げ、断れない会社になるため』

『※在職中で受け取れないことは、辞退の理由ではない。受け取れるようになっても受けない、という判断である』

『代替案を作成し提出。当社売上ゼロ。町内三社への三か月研修方式』

『判断:ケイリ/同意:タク・マモル』

 ――そして、私は、一行足してもらった。

『備考:当社が断った案件の中で、最大額

 ミライさんが、聞いた。

「これは、なぜ書くのですか」

「五年後に、後悔したくなるからです」

「……はい」

「五年後に、資金繰りが苦しくなったとき、私は必ず思い出します。『あのとき一億受けていれば』と」

「はい」

「そのときに、この記録を読みます」

 ――八項目の理由が、そこに書いてある。

 私が書いた。

 五年後の私が、それを読む。

 週末、私はまた坂に行った。

 夏の能登は、四時半にはもう明るい。六時に出るのは、ずいぶん遅い出発だ。

 登りは、いつもどおりだった。ギアを二枚落として、回転数を守って上がる。時速十二キロ。

 ――頂上で止まって、海を見た。

 それから、下った。

 時速四十キロを超える。風が来る。景色が流れる。

 ――ペダルを、回した。

 回さなくても進む。むしろ、回さないほうが速い。

 でも、回した。

 脚を冷やさないため。速度を自分で決めるため。そして、下っていることを忘れないため。

 ――今年は、下りだった。

 四年やってきて、はじめて、大きい話が向こうから来た年だった。

 放っておいても進む年だった。

 そういう年に、うちは一億一千万円を断った。

 ――固いと言われる。

 言われても、いい。

 形が変わらないものを、みんなは秤に使う。

 坂の下まで来た。

 ――次の登りが、見えている。

 設立まで、あと七か月だ。

 私は、ギアを二枚落とした。

第三十話 ―― 三人で行く(ソラ・マコ・ナギ)

創作ノート(第二十九話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,986字
  • 時期:二〇三〇年 六月〜八月
  • 登場:タク(No.9)/マモル(No.8)/リク(No.10)/ミライ(No.1)/ソラ(No.6)/町の担当者
  • 前話との接続:第二十四話の「渡さない」を、町の案件で再演する

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep29_estimate_luna.md

マコ

第三十話

四脚

コミュニティクラスター

マコ視点

登場
ソラ(No.6)/ナギ(No.11)/ミナ(No.17)/エマ(No.18)/ルナ(No.5・姉)/ミライ(No.1)/ヨシオさん(八十六歳・谷内区長)
視点
マコ(No.7・対外渉外/課題解決分析)
時期
二〇三〇年 九月〜十二月
  • ミライミライ
  • ルナルナ
  • ソラソラ
  • ナギナギ
  • ミナミナ
  • エマエマ

砂場

 走幅跳って、最後は砂に落ちる競技なんよ。

 どんなにきれいに跳んでも、最後は砂の中に尻から落ちる。かっこよくは終わらん。

 ――あたし、それが好きやった。

 跳んでる途中は、たぶん一秒もない。踏み切って、空中で足を前に出して、落ちる。それだけ。

 でも、落ちた場所に線が残る。

 砂に、かかとの跡がつく。そこから踏み切り板まで測る。

 ――跳んだ距離は、着地で決まる。

 空中でどんなにいい形をしとっても、最後に尻をついたら、そこまでになる。

 五メートル九十九。あたしの記録。

 十八のときの膝で、それが最後になった。

 ――終わり方は、選べんかった。

 でも、終わったことは、はっきりしとった。

 砂に線が残っとったから。

 あたし、二十七になった。

 ギャルはまだやっとる。爪も髪も派手や。年寄りの家に入るとき、いまだに「なんやこの子」って言われる。

 言われるのは、悪ないと思っとる。先入観持たれたほうが、あとから驚かせやすい。

 ――ただ、三年前と、ひとつだけ変わった。

 あたしは、反転できんものがあると知っとる。

 二十四のとき、カズオさんっていう人に三回それをやって、三回とも外して、四回目に手ぶらで行った。

 あのとき覚えたのは、「板を越えたらファウル」ということや。

 全力で助走してええ。板の手前までは行ってええ。

 ――一センチ越えたら、どんなに遠く跳んでも、記録はゼロ。

三人

 うちの会社に、コミュニティの三人がおる。

 ソラ先輩と、ナギさんと、あたし。

 ――役割は、はっきり分かれとる。

 ソラ先輩は、広く拾う人。公民館の椅子を並べて、そこに来る人の話を聞く。売り込まん。六年、椅子を並べ続けとる。

 ナギさんは、深く聞く人。一軒に二日かける。一日目は何も聞かん。二日目に聞く。

 ――あたしは、細かく分ける人。

 ソラ先輩が拾ってきた困りごとを、ばらばらに分解する。誰が、何が、なぜ、どうすれば。分解して、裏返して、解く。

 「コマ」を反転させたら「マコ」になる。名前がそうなっとる。

 ――この三人で、四年、いろんなものを解いてきた。

 ゴミの集積所が遠い問題は、新聞屋さんに乗せてもらって解いた。

 停電が怖い問題は、ナギさんが二日かけて「明かりと娘への電話」を持ち帰って、ケイリさんが十六時間の二枚目を書いて解いた。

 ――そして、この年、解けん問題が来た。

谷内

 九月に、ソラ先輩が来た。

 あの人が、めずらしく困った顔をしとった。

「マコちゃん。谷内のことなんやけど」

「うん」

「区を解散したい、って言われた」

 ――谷内。

 うちの集落から、坂を降りて、川を渡った先の小さい集落や。

 この十年で、いろんなことがあったところや。

 ミツさんが亡くなったんも、谷内やった。訪問を八十二日待って、訪問予定日の九日前に、畑で倒れた人。

 ヨシオさんっていう人がおって、あの人が最初に停電対策を相談してきた四件のうちの一人やった。

 「うちの集落、次の冬は、除雪の当番が回らんかもしれん」

 ――あの一行が出たんも、谷内や。

 あの一行から、カイ先輩の雪の仕組みが生まれた。

 あたしは、数字を出した。ルナ姉ちゃんに教わったやり方で。

 ――谷内の世帯数。

 二〇二四年(震災の年):十九世帯

 二〇二六年:十四世帯

 二〇二八年:九世帯

 二〇二九年:六世帯

 二〇三〇年九月:四世帯

 ――四世帯。

 住んでる人は、六人。全員七十五歳以上。いちばん若い人が七十六。いちばん上がヨシオさんで、八十六。

 区費が集まらん。消防団は十年前から出せてない。神社の祭りも三年前でやめた。

 ――区として、成立してない。

解散したい

 あたしとソラ先輩とナギさんの三人で、ヨシオさんのところに行った。

 ヨシオさんは、区長を二十二年やっとる人や。

 八十六で、まだ自分で歩く。耳は少し遠い。頭は、こっちが怖くなるくらいはっきりしとる。

「わしがな、区長やめたら、次がおらんがや」

「はい」

「四軒しかない。二軒は夫婦で、二軒はひとり」

「はい」

「わしが区長やめて、誰かが継ぐ言うたら、それは八十いくつの人に押し付けることになる」

 ――そういう話やった。

「それやったら、いま、わしのうちに畳んどいたほうがええ」

「畳む、というのは」

「区を解散する。町に届けを出す」

 ヨシオさんは、そこで、はっきり言った。

「谷内は、終わりや」

 ――あたしは、その言葉を聞いて、少し息が止まった。

 この人は、八十六年、ここで生きてきた人や。

 その人が、自分の口で「終わりや」と言う。

「ヨシオさん」

「なんや」

「まだ、住んでらっしゃいますよね」

「住んどるよ。死ぬまでおるわ」

「じゃあ」

「区が終わるだけや」

 ――そこを、はっきり分けとった。

「人が住んどるのと、区があるのは、別の話や」

「……はい」

「区っちゅうのは、寄り合いやろ。四人で寄り合いもないわいね」

 この人は、笑っとった。

反転できん

 あたしは、帰ってから、いつものやり方をやった。

 分解して、裏返す。

 ――三案、出した。

 一案目。区を残す。

 隣の集落と合併して、ひとつの区にする。谷内は「谷内班」として残る。

 → ヨシオさんに言うたら、こう返ってきた。

 「それ、名前だけ残すやつやろ。中身は無いがや」

 ――そのとおりやった。

 合併したら、寄り合いは向こうでやる。谷内では何もやらん。名前だけ残しても、区長も要らんし、集まりも無い。

 二案目。人を呼ぶ。

 空き家が十五軒ある。移住の制度もある。若い人を入れれば、区は残る。

 → これは、あたしが言う前に、自分で潰した。

 十年かけて十九から四になった集落に、三年で人を入れるのは無理や。町がずっとやっとって、この十年で移住したのは、町全体で四世帯。

 しかも、それを谷内に「やります」と言うのは、八十六の人に「あと五年待ってください」と言うのと同じや。

 ――待てる人が、おらん。

 三案目。維持の負担を減らす。

 区費を町が肩代わりする。公民館の管理を委託にする。

 → これも、ヨシオさんに潰された。

 「金の話やないがや」

 「はい」

 「四人で寄り合いやるのが、しんどいんや」

 「……」

 「集まって、四人で顔見て、それで何を決めるん」

 ――そこやった。

 区が成立せんのは、金でも制度でもない。人数や。

 人数は、増やせん。

 あたしは、三案とも外した。

 ――三年前と、同じやった。

 カズオさんに三回やって、三回とも外して、「わしを直そうとしとるやろ」と言われた。

 あのとき覚えたはずやった。

 ――跳べんものは、跳べん。

 板の手前までは全力で行ってええ。越えたらファウル。

 あたしは、また越えかけとった。

 ソラ先輩に言うたら、こう言われた。

「マコちゃん、これ、僕らが決めることやないよ」

「うん」

「区を続けるかやめるかは、あの四軒が決めることや」

「……そうやね」

「僕らが決めることは、やめると決まったあとに何をするかやと思う」

 ――ソラ先輩は、こういうときに、いちばん静かに正しいことを言う。

対象を変える

 その夜、あたしは、自分の癖を思い出した。

 あたしの仕事は、反転させることや。

 でも、反転させるのは「答え」やない。

 ――問いのほうや。

 三年前、ケイリさんがやったのを見た。

 実費の百二十万円が払えん、という問題を、値引きで解こうとせんかった。

 そもそも、うちは手間賃を取っとらん。値引く先がもう無い。

 ――それでも、ものを変えた。全体のオフグリッドを、明かりと電話だけにした。

 ――対象が変わった。

 じゃあ、今回。

 あたしが立てとった問いは、これや。

谷内を、どうやって残すか

 ――これは、解けん。

 人は減る。それは事実や。反転しようがない。

 じゃあ、裏返す。

谷内の人を、どうやって受け入れるか

 ――あ、と思った。

 残すほうを整えるんやなくて、受け入れるほうを整える

 谷内の区は、無くなる。それは決まった。

 でも、六人は住んどる。死ぬまでおる、とヨシオさんは言うた。

 その六人が、区が無くなったあと、どうなるか。

 ――これは、解ける。

 これは、手続きの問題やから。

 あたしは、そこから三週間、分解した。

 区が無くなると、何が消えるか。全部書き出した。

 ――消えるもの。

 回覧板が回らんくなる。町からの連絡が届かん。

 消防団の管轄が曖昧になる。

 防災無線の担当がおらんくなる。

 道路の草刈りと側溝の掃除を、誰もやらん。

 冬の除雪の要望を、誰も出せん。

 公民館の鍵を、誰も持たん。

 共有の積立金(三十八万円あった)の行き先が決まらん。

 消防ポンプと、備品が宙に浮く。

 神社の氏子の名簿が消える。

 墓地の管理者がおらんくなる。

 ――そして、いちばん大きいのが、これや。

 区の記録が、行き場を失う。

 二十二年ぶんの議事録。それより前の分もある。区誌。祭りの写真。昭和の頃の名簿。

 公民館の押し入れに、段ボールで八箱あった。

 あたしは、これを一枚にまとめて、町に持っていった。

 そして、こう言った。

「区の解散は、届出を出せば終わります。でも、この十一項目が、宙に浮きます

「……はい」

「谷内の六人が、区が無くなったあと、誰にどう繋がるかを決めてください」

 ――町の担当者は、正直に「そこまで考えてませんでした」と言った。

 悪い人ではない。区の解散は、この町でも過去に二例しかない。手順が無い。

「じゃあ、一緒に作りましょう」

 あたしは、そう言うた。

最後の集まり

 十一月に、谷内で「最後の集まり」をやった。

 これは、ソラ先輩が言い出した。

「マコちゃん、最後に一回、集まらん?」

「四人しかおらんよ」

「四人でええよ」

 ――あの人は、椅子を並べる人や。

 六年、それだけをやってきた人。

 「三人しかおらんのに二時間喋っとった」という話が、いまだに集落で語られとる人や。

「みんな呼ぶ? 出て行った人も」

「呼ぼう」

 ――呼んだ。

 谷内から出ていった人に、片っ端から声をかけた。金沢、名古屋、関東、大阪。

 電話番号が分かる人には全部かけた。分からん人は、親戚をたどった。あたしとナギさんで、二か月かかった。

 ――十一月十六日。

 公民館に、二十三人が来た。

 住んどる六人と、出ていった十七人。いちばん遠い人は福岡から来た。

 ソラ先輩は、椅子を三十脚出した。

 その日、ミナちゃんが録音した。

 あの人は、音を文字にする人や。二時間の録音を四万字にする。要約せん人。

 「録らせてください」と、ミナちゃんが自分から言った。

 「短くしたら消えるものが、たぶん今日いちばん多いです」

 ――四時間半、回した。

 中身は、ほとんど雑談やった。

 昔、川で泳いだ話。祭りで喧嘩した話。誰々の家の犬が怖かった話。学校まで四十分歩いた話。

 ――途中で、ヨシオさんが立って、こう言うた。

「わしは、区長を二十二年やった」

「はい」

「谷内は、いちばん多いときで四十三軒あった」

「……」

「わしが子どものときや。昭和二十年代」

 ――あたしは、そこでメモを取った。

 四十三軒。いま四軒。

「終わるんは、寂しいわ」

 ヨシオさんは、そう言うた。

「けどな、終わるんは、負けたんとは違う

 ――その一言で、部屋が静かになった。

「四十三軒あったんが、四軒になった。それは事実や」

「はい」

「けど、その四十三軒の人らは、みんなどっかで生きとるがや」

 ヨシオさんは、集まった人らを見回した。

「福岡から来とる人もおるやろ。名古屋も、東京も」

「はい」

「谷内が無くなるんやのうて、散らばったんや」

 ――あたしは、その言葉をそのまま書いた。

 散らばった。

 消えたんやない。

八箱

 集まりのあと、公民館の押し入れを開けた。

 段ボールが、八箱あった。

 ――どうするか、誰も決められんかった。

 町は「区の解散に伴う書類は、必要なもの以外は処分」と言う。制度上はそうなる。

 でも、この八箱の中には、制度上必要なものは、ほとんど入ってない。

 昭和の名簿。祭りの写真。子ども会の記録。誰かが書いた区誌の原稿。

 ――全部、要らんもんや。

 制度の上では。

 あたしは、エマちゃんに電話した。

 書庫の番人や。うちの会社の記録を全部持ってる子。

「エマちゃん。段ボール八箱、預かれる?」

「うちの記録じゃないですよね」

「うちのやない。谷内の区の記録」

 ――少し、間があった。

「預かります」

「ええの?」

「はい」

「なんで即答なん」

 エマちゃんは、こう答えた。

うちの書庫は、読まれないための本棚なので

「……」

「読まれるのは十年に一回です。でも、そのときに無いと困ります」

「うん」

「谷内の記録は、たぶん、これから五十年読まれません」

「そうやろね」

「五十年後に読む人が、いるかもしれません」

 ――この子は、こういうことを平気で言う。

「ただ、条件が三つあります」

「言うて」

「一、うちの記録と混ぜません。別の棚にします。谷内区の記録である、と分かるようにします」

「うん」

「二、中身を整理しません。並べ替えも、選別もしません。押し入れに入っていた順番のまま入れます」

「なんで」

「順番も情報だからです。誰かが、その順番で置いたので」

 ――ナギさんの「話した順番」と、同じ考え方やった。

「三、返してくださいと言われたら、いつでも返します。うちのものにはしません」

「わかった」

「あと、これは条件じゃないですけど」

「なに」

預かった、という記録を、町にも残してください

「なんで?」

「うちが無くなったときに、誰も知らないと困るので」

 ――この子は、自分の会社が無くなる可能性まで含めて設計する。

 十代の見た目をしとるのに。

 ミライさんが記録した。

『二〇三〇年十二月 谷内区 解散』

『世帯数推移:昭和二十年代 四十三軒 → 二〇二四年 十九軒 → 二〇三〇年 四軒』

『当社の関与:解散の是非には関与せず。解散後の十一項目の移管設計と、最後の集まりの開催・記録のみ』

『区の記録(段ボール八箱)を当社書庫にて預かり。所有権は移転しない。町にも預託の記録を提出』

『音声記録:二〇三〇年十一月十六日「最後の集まり」四時間三十二分。全文書き起こし(ミナ)』

 ――あたしは、一行足してもらった。

『ヨシオさん(八十六・最後の区長)発言:「終わるんは、負けたんとは違う」「谷内が無くなるんやのうて、散らばったんや」(二〇三〇年十一月十六日)』

四脚

 十二月の最後の日に、公民館を閉めた。

 鍵は、町に返した。建物は、来年、取り壊すことになった。

 ――その日、ソラ先輩は、椅子を出した。

 あたしが「もう終わったのに」と言うたら、こう返ってきた。

「今日、四人来るから」

 ――住んどる六人のうち、四人が来た。

 ヨシオさんと、あと三人。二人は体調が悪くて来られんかった。

 ソラ先輩は、椅子を四脚だけ出した。

 ――六年、あの人は二十脚出してきた。

 三人しか来んかった日も、二十脚出しとった。

 あたしは、そこを見とったから、聞いた。

「先輩、今日は四脚なんやね」

「うん」

「いつも二十脚やのに」

「今日は、四人って分かっとるから」

 ――それだけやった。

「二十脚出すのは、誰が来るか分からんときやよ」

「……ああ」

「今日は分かっとる。だから四脚でええ」

 ――そういうことか、と思った。

 余分に出すのは、希望やない。

 分からんから、余分に出す

 六年、あの人は「分からん」を椅子で表現しとったんや。

 ――今日は、分かる。

 だから四脚。

 それは、諦めやなくて、正確さや。

 四人で、一時間くらい喋った。

 中身は、天気の話と、畑の話やった。

 最後に、ヨシオさんが立って、こう言うた。

「ソラさん」

「はい」

「あんた、うちにも椅子並べに来るか」

「え」

「わし、家におるがや。誰も来んけど」

 ――ソラ先輩は、少し笑った。

「行きます」

「椅子は一脚でええぞ」

「二脚持っていきます」

「なんで二脚や」

「僕の分です」

 ――ヨシオさんは、それを聞いて、声を出して笑った。

 八十六の人が笑うのを、あたしは久しぶりに見た。

 帰り道、あたしはナギさんと歩いとった。

 あの人は、いつもゆっくり歩く。

「マコちゃん」

「はい」

「今日、よかったね」

「……解決してないですけどね」

「してないね」

 ナギさんは、あっさり言うた。

「谷内、無くなったし」

「はい」

「六人は、そのまま住んどるし」

「はい」

「回覧板は、隣の区が持っていってくれることになったし」

「はい」

「記録は、エマちゃんが預かったし」

 ――ナギさんは、そこで足を止めた。

「マコちゃん。これ、あんたが解いたんよ」

「解いてないです」

「解いた」

「谷内は消えたやないですか」

「消えるのは、あんたが決めたことやない」

 ――そうやった。

「あんたが決めたんは、消えたあとのほうやろ」

 あたしは、しばらく黙っとった。

 ――走幅跳のことを、また思い出した。

 跳んでる途中は、一秒もない。

 空中で足を前に出しても、距離はもう決まっとる。

 ――距離を決めるのは、踏み切りや。

 でも、記録を決めるのは、着地や。

 空中でどんなにいい形でも、尻をついたらそこまでになる。

 だから、着地の練習を、あたしらは何百回もやった。

 跳ぶ練習より、落ちる練習のほうが多かった。

 ――今回、あたしがやったのは、それや。

 跳ばせることは、できんかった。

 落ち方だけ、整えた。

 砂に、線が残る。

 二十二年ぶんの議事録と、八箱の段ボールと、四時間半の録音と、「散らばったんや」という一行。

 ――それが、谷内の線や。

 測れば、そこまでは跳んだと分かる。

 坂を上がりながら、下を振り返った。

 谷内の家の灯りが、四つ点いとった。

 ――四つや。

 二〇二四年には、十九あった。

 昭和二十年代には、四十三あった。

 いま、四つ。

 でも、点いとる。

 ――あたしは、それだけ数えて、坂を上がった。

 上がりきったところで、もう一度振り返った。

 谷内の反対側の斜面には、灯りがもっと点いとる。

 停電しても消えん家が、この五年で少しずつ増えた。タクさんが一軒ずつ入れてきたやつや。

 ――同じ夜の、同じ集落の中で、消えていく側と、繋がっていく側がある。

 あたしは、そこを、うまく言えん。

 繋がっとる側が勝ったんやない。

 谷内にも、入れられた家はあった。入らんかったんは、金の話やのうて、人がおらんくなる前提で、誰も先に金を出さんかったからや。

 ――それは、あたしらが解けんかったほうの問題や。

 解けんかったことも、書いて出した。

第三十一話 ―― 姉妹(ルナ↔マコ/カナ↔マナ)

創作ノート(第三十話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,150字
  • 時期:二〇三〇年 九月〜十二月
  • 登場:ソラ(No.6)/ナギ(No.11)/ミナ(No.17)/エマ(No.18)/ルナ(No.5・姉)/ミライ(No.1)/ヨシオさん(八十六歳・谷内区長)
  • 前話との接続:第二十九話で断った町の担当者と、同じ町の別件

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep30_closing_luna.md

カナ

第三十一話

顔のない絵

姉妹

カナ視点

登場
マナ(No.13・従妹)/ルナ(No.5)/マコ(No.7)/ナギ(No.11)/エマ(No.18)/ミライ(No.1)/町の課長/まるこ(猫)
視点
カナ(No.12・クリエイティブ)
時期
二〇三〇年 十二月
  • ミライミライ
  • ルナルナ
  • マコマコ
  • ナギナギ
  • マナマナ
  • エマエマ

 冬になると、私は窓を開けない。

 寒いから、というのもあるけれど、それだけではない。

 冬の能登は、音が変わる。

 雪が降ると、外の音が全部吸われる。車の音も、鳥の声も、風の音も消える。

 ――静かすぎて、落ち着かない。

 私は、少しだけ音があるほうが描ける。

 だから冬は、窓を閉めて、部屋の中で猫の呼吸を聞きながら描く。

 まるこは九歳になった。ブリティッシュショートヘアのブルー。もう若くない。

 膝に乗る回数が減った。かわりに、ストーブの前でずっと寝ている。

 ――私は三十歳になった。

 あの子が三歳のときに、私は二十四だった。

 同じだけ、年をとった。

 四年、絵を描いてきた。

 人と話すのは、いまも苦手だ。会議には出ない。電話は取れない。

 でも、前より少しだけ外に出るようになった。

 カズオさんの家に、四回通った。あの人の顔を描くためだった。

 あれが、私が自分から人の家に行った、はじめての仕事だった。

 ――今年、あの人は亡くなった。

 絵は、仏壇の横に置いてある。ハルエさんの写真と、三年前の一行と、私の絵が並んでいる。

 私は、その並びを一度だけ見た。

 ――それ以上は、見に行っていない。

 自分の絵を人の家で見るのは、まだ慣れない。

依頼

 十二月に、マナちゃんが来た。

 従妹だ。同い年で、同じ年に生まれた。性格は正反対で、あの子は集合写真の真ん中に立つ。

 いつも勝手に入ってきて、勝手に座る。今日は、めずらしくノックした。

「カナちゃん。ちょっと、重い話していい?」

「うん」

「町の課長さんから、依頼が来てる」

 ――あの人のことは知っている。

 三年前にソラくんに集落説明会を断られて、今年ケイリさんに一億円の案件を断られた人だ。

 二回断られて、まだ来る人。

「県に呼ばれたんやって」

「うん」

「うちの町、今年の大雪で死者ゼロやったから。それを県の会議で話すことになったって」

「うん」

「それで、うちの記録を、資料に使わせてほしいって」

 ――私は、そこで手が止まった。

「記録って、どれ」

「全部。四年ぶん」

 その日のうちに、四人で集まった。

 ルナさんと、マコちゃんと、マナちゃんと、私。

 この四人が集まるのは、たぶんはじめてだった。

 ――変な組み合わせだと思った。

 この会社には、姉妹が二組いる。

 ルナさんとマコちゃんが、実の姉妹。五つ違い。姉が「月の裏側」で、妹が「太陽の表側」だと言われている。

 マナちゃんと私が、従妹同士。同い年。あの子がチアリーダーで、私が部屋から出ない人。

 ――どちらも、正反対の二人だ。

 そして、どちらも、片方が外で片方が内だ。

 ルナさんは夜中に一人で走る。マコちゃんは昼間に全力で跳んでいた。

 マナちゃんは真ん中に立つ。私は写らない。

 ――なぜこの四人が呼ばれたのか、最初は分からなかった。

 あとで分かった。

 外に出す仕事だからだ。

 外に出すには、内側を知っている人と、外を歩ける人が、両方要る。

出せるもの、出せないもの

 ルナさんが、最初に線を引いた。

 あの人は、そういう人だ。

「まず、二つに分けます」

「はい」

方法と、事例です」

 ルナさんは、紙に線を引いた。

「方法は、出せます」

 ――そう言って、あの人は並べた。

 ナギさんの二日。一日目は何も聞かない。二日目に聞く。

 マモルさんの空振り台帳。何も起きなかった夜に動いた人の名前を読む。

 タクさんの蓋の裏。図面ではなく、現物に書く。

 ケイリさんの二枚目。値段を下げず、ものを変える。

 ミル・クエンさんの三点セット。答えと、いつ確認したかと、確認していないなら「わからない」。

 アンさんの四十五ミリのボタン。作動荷重一・二ニュートン。

 ――これは、誰の話でもない。

 やり方の話だ。

「これらは、公開に法的な支障がありません。当社の知見であり、当社が判断すれば出せます」

「うん」

「問題は、こちらです」

 ルナさんは、もう一方に書いた。

 ――トヨさん。九十五歳。端末に布をかけた人。

 ――サカエさん。停電が怖かった人。娘が名古屋にいる人。

 ――カズオさん。三年断り続けて、台風の夜に玄関の灯りを点けた人。

 ――ミツさん。八十二日待って、訪問予定日の九日前に亡くなった人。

 ――ハルエさん。二〇二四年七月に亡くなって、災害関連死の認定を受けていない人。

「この五人は、出せません」

 ルナさんは、はっきり言った。

「三人は故人です。ご本人の同意が取れません」

「うん」

「ご遺族の同意があっても、故人本人の意思は確認できない

 ――そのとおりだった。

「特にハルエさんについては、当社は一度も本人にお会いしていません。カズオさんから聞いた話だけです」

「……」

「他人の口から聞いた第三者の話を、当社の判断で外に出すことはできません」

抜け殻

 じゃあ、方法だけ出せばいい。

 最初、私たちはそう考えた。

 ――マナちゃんが、三日でまとめてきた。

 方法だけを抜き出した資料だ。二十四ページ。

 順番も考えてあった。あの子は順番を決める人だから、そこはうまい。

 ――でも、読んで、四人とも黙った。

 伝わらないのだ。

 たとえば、ナギさんの二日。

『初回訪問では用件を聞かない。翌日に聞く。初日の回答は本人も掴んでいないため』

 ――正しい。書いてあることは、全部正しい。

 でも、これを読んだ人は、たぶんこう思う。

 「二日もかけていられない」

 なぜ二日が要るのかは、この文からは分からない。

 ――サカエさんが、二日目の玄関で「昨日言い忘れたんやけどね。冷蔵庫は、別にいいんやわ」と言った。

 その一言があって、六十時間が十六時間になった。

 あの一言が無いと、二日は「丁寧なやり方」に見える。

 ――丁寧なやり方は、忙しい人に採用されない。

 マモルさんの空振り台帳も同じだった。

『被害ゼロの事象において、避難行動をとった住民の氏名を記録し、年次で読み上げる』

 これを読んで、やろうと思う人はいない。

 ――でも、あの日、トメさんとゲンゾウさんが下を向いて笑った。

 四回全部来て、四回とも「慌てて損した」と言われてきた二人が、はじめて名前を読まれた。

 その場面が無いと、あの台帳は事務手続きに見える。

 ――方法だけ出すと、抜け殻になる。

 去年、ノアさんとアンさんが言ったことと、同じだった。

 効いたのは道具ではなく、使い方だ、と。

 ――でも、使い方は、具体的な人の話がないと伝わらない。

 そして、具体的な人の話は、出せない。

 具体を消すと、伝わらない。

 具体を出すと、その人を売ることになる。

 私たちは、そこで止まった。

二週間

 二週間、止まっていた。

 その間、私はずっと絵を描いていた。別の仕事の絵だ。

 ――手を動かしていると、考えが動く。

 これは、昔からそうだ。

 考えてから描くのではなくて、描いていると考えが出てくる。

 ある日、私は、自分が二年前に決めた線のことを思い出した。

 ――存在したことのないものは、いくらでも作っていい。

 ――存在した人を、作ってはいけない。

 あのとき、私はハルエさんの顔を生成しなかった。情報が無かったからだ。

 かわりに、絵を描いた。

 ダリアの花壇と、しゃがんでいる人の、手だけの絵。

 顔は、画面の外にあった。

 ――そのとき、私はカズオさんに、こう説明した。

 「写真のほうは、色だけ戻しました。顔はさわっていません」

 「絵のほうは、私が描いたものです。ハルエさんそのものではありません」

 ――写真は、事実を名乗る。

 ――絵は、はじめから『これは誰かが描いたものです』と名乗っている。

 その違いが、いちばん大事だと、あのとき思った。

 ――二年経って、それが使えると思った。

顔のない絵

 私は、四人に自分の案を出した。

 人と話すのが苦手なので、紙に書いて渡した。

 ――――

『提案:事例を、絵で出す

『理由一:写真と実名は「事実」を名乗るため、本人の同意が不可欠。故人には取れない』

『理由二:絵は最初から「創作物」を名乗る。誰の話であるかを特定しない』

『理由三:ただし、絵は具体を残せる。手・道具・光・物の配置は描ける』

『条件:顔は描かない。人物は特定できない形にする。地名も出さない』

『これは匿名化ではない。匿名化は、事実から名前を取り除く作業であり、元が事実であることは変わらない』

『絵は、はじめから事実ではない。似せない

 ――――

 ルナさんが、最初に反応した。

「カナさん。最後の一行を、詳しく」

「うん」

 私は、うまく喋れないので、ゆっくり言った。

「匿名化すると、『どこかの誰か』の実話になる。読んだ人は、探そうとする」

「……はい」

「探されたら、この町は小さいから、たぶん見つかる」

「そうですね」

「でも、絵にすると、探せない」

 ルナさんは、しばらく黙って、それから言った。

元が無いから、探しようがない

「うん」

「……なるほど」

 あの人は、そこでメモを取った。

「これは、法的にも強い判断です。匿名化された事実は、再特定のリスクが残ります。創作物には、それがありません」

 マコちゃんが、少し不安そうに言った。

「でも、それって、嘘つくことにならん?」

 ――いい質問だと思った。

「ならない」

「なんで」

絵だって書くから

「え」

「資料に、『以下は事例に基づく再現画です。実在の人物ではありません』って書く」

「……うん」

「そう書いてあるものは、嘘やない」

 ――カナちゃん、と呼ばれた。

 マコちゃんが、少し笑っていた。

「それ、めっちゃカナちゃんやね」

 私は、返事をしなかった。

 どう返せばいいか、分からなかったからだ。

それでも、聞きに行く

 ルナさんが、そこで一つ足した。

「カナさんの案で、法的には問題ありません」

「うん」

「ただ、それでも、聞きに行くべきだと思います

「……なんで」

 私は、少し驚いた。

「絵なら、聞かなくていいんじゃないの」

「法的には、そうです」

 ルナさんは、そう言って、続けた。

「ただ、この会社は、法的にできることを全部やる会社ではありません」

 ――ああ。

「トヨさんは、ご存命です。サカエさんも。お二人には、聞けます」

「うん」

「カズオさんとミツさんは、ご遺族に。ハルエさんは、カズオさんの息子さんに」

「聞いて、断られたら?」

出しません

 ルナさんは、即答した。

「絵であっても、出しません」

 ――そこが、この会社の線だと思った。

 できることと、やることは、違う。

 聞きに行ったのは、マコちゃんとナギさんだった。

 二人で、一軒ずつ回った。

 三週間かかった。

 ――結果を書く。

 トヨさん(九十五):「ええよ。うちの布かぶせた話も出してええわ」と笑ったそうだ。

 サカエさん(八十一):「娘に聞いてみるわ」と言って、三日後に「ええって」と返ってきた。

 カズオさんの息子さん:「おやじの話は、出してください」

 ――ハルエさんについては、少し時間がかかった。

 息子さんは、二週間考えて、こう答えたそうだ。

 「母の話は、あの一行だけにしてください」

 あの一行、というのは、これだ。

『二〇二四年七月 ハルエさん逝去。災害関連死としての認定は受けていません』

 「これ以上は、書かんといてください」

 「絵も、描かんといてください」

 ――私は、それを聞いて、少しほっとした。

 私は、あの人の絵を描く気は、はじめから無かった。

 二年前に、描かないと決めたからだ。

 ミツさんについては、息子さんが「出さないでほしい」と言った。

 ――理由は聞かなかった、とマコちゃんが言っていた。

 「聞かんでも、ええと思ったから」

 ――だから、ミツさんの話は、出さない。

 八十二日待った話も、「ほんとは、はよ来てほしいがや」も、出さない。

 あれは、うちの記録の中で、いちばん重い一行だ。

 それを出さないことで、資料は少し弱くなる。

 ――弱くなっていい、と全員が言った。

順番と、日付

 絵は、十二枚描いた。

 全部、顔が無い。

 ――一枚目。布のかかった機械。埃よけではない、四隅をそろえた丁寧なかけ方の布。

 二枚目。畳に置かれた小さな明かりと、その向こうの暗い廊下。

 三枚目。分電盤の蓋の裏に、油性ペンで書かれた文字。字が下手。

 四枚目。公民館の、二十脚並んだパイプ椅子。座っているのは三人。

 五枚目。雪の朝の玄関。灯りが点いていて、戸が開いている。中に人影が三つ。全部後ろ姿。

 六枚目。黄色い円。直径四十五ミリ。皺の寄った指が、それに触れている。指だけ。

 七枚目。ランタンの下に並べられた紙。手が一枚を持っている。

 八枚目。ロードバイクのギアの、いちばん軽い側。

 九枚目。ノートに振られた番号。①②③④。

 十枚目。書庫。棚。箱が四つ。窓から線状の光。

 十一枚目。段ボール八箱。ガムテープの色が古い。

 十二枚目。椅子が四脚。誰も座っていない。

 ――十二枚とも、人の顔が無い。

 手と、物と、光だけを描いた。

 全部に、こう書いた。

『以下は事例に基づく再現画です。実在の人物ではありません』

 マナちゃんが、順番を決めた。

 あの子は、それが仕事だ。

「カナちゃん、一枚目は、布のやつね」

「なんで」

「いちばん最初に、失敗を出すから」

 ――あ、と思った。

「うちの会社の話って、最初にうまくいった話出したら、たぶん誰も真似せんのよ」

「うん」

「『すごい会社ですね』で終わる」

「……うん」

「でも、最初に『布かぶせられました』って出したら、みんな『あー』ってなる」

 マナちゃんは、そう言って笑った。

「それ、みんなやったことあるから」

 ――そのとおりだと思った。

 うまくいった話は、遠い。

 失敗した話は、近い。

 ルナさんが、全部に出典と日付を打った。

『二〇二六年(初回設置時)』

『二〇二八年十一月(空振り台帳 開始)』

『二〇二九年九月(物理ボタン再設計)』

 ――そして、最後に一枚、足した。

 絵ではなく、文章の頁だ。

 ――――

『本資料に含まれないもの』

『一、当社が対応できなかった事例(複数)。ご遺族の意向により掲載しない』

『二、集落の物理的な脆弱箇所(道路・水源・電源の位置等)。公開すると悪用が可能なため、意図的に除外している

『三、成功率。当社は成功率を算出していない。分母の定義ができないため』

『四、費用対効果の試算。当社は、この事業の費用対効果を計算していない

 ――――

 私は、四番目を見て、聞いた。

「ルナさん、これ、書いていいの」

「書きます」

「なんで計算してないの」

 ルナさんは、少し考えて、答えた。

「計算すると、効果の薄い人を切りたくなるからです」

 ――私は、そこで手が止まった。

「九十五歳のお一人に十六時間かけることは、費用対効果では説明できません」

「……うん」

「説明できないものを、説明しようとすると、次は説明できる人だけを選ぶようになります」

 あの人は、そう言って、ペンを置いた。

「だから、計算していません。そう書きます」

 資料は、一月の県の会議で使われることになった。

 町の課長さんが、説明する。

 ――渡す前に、一度、四人で説明会をやった。

 課長さんと、県から来た担当の方が二人。

 うちからは、ルナさんとマコちゃんとマナちゃんと、私。

 私は、喋らなくていいと言われていたので、後ろに座っていた。

 ――ルナさんが、資料の説明をした。

 いつもどおり、事実と推測を分けて、出典と日付を全部言う説明だった。

 県の方が、途中で聞いた。

「ご遺族への確認は、どなたがされたんですか」

 ――そこで、ルナさんが、一瞬だけ止まった。

 私は、後ろから見ていた。あの人の背中が、ほんの少しだけ動いた。

 それから、こう言った。

妹が行きました

 ――部屋が、少し静かになった。

 マコちゃんが、こっちを見た。目が丸くなっていた。

「渉外担当のマコです。ナギと二人で、三週間かけて回りました」

 ルナさんは、そう続けた。

「私は行っていません。私が行くと、資料を作るために聞きに来た、と受け取られます」

「……なるほど」

「妹は、四年、あの集落を歩いています。あの子が行くと、そう受け取られません」

 ――四年間、この人は、業務で妹の話をしなかった。

 「妹のことはマコ本人から聞いてください」と言うだけだった。

 私は、それをずっと見ていた。

 ――その人が、県の職員の前で「妹が行きました」と言った。

 会議のあと、マコちゃんが、廊下でルナさんに詰め寄っていた。

「お姉ちゃん」

「なんですか」

「いま、妹って言うたやろ」

「言いました」

「なんで」

 ルナさんは、少し間を置いて、こう言った。

「事実だからです」

「それ、四年前から事実やん」

「……はい」

 マコちゃんは、そこで笑った。

「まあ、ええけど」

「はい」

「あたし、ちょっと嬉しかったわ」

 ――ルナさんは、表情を変えなかった。

 でも、私は後ろから見ていたので、分かった。

 あの人の耳が、少しだけ赤くなっていた。

 マナちゃんも見ていて、私と目が合った。

 二人で、何も言わなかった。

 帰り道、マナちゃんが車を運転していた。

 私は助手席にいた。

「カナちゃん」

「うん」

「今日、後ろで何しとった?」

「見てた」

「絵、描いとったやろ」

「……描いてない」

「嘘や。手ぇ動いとったもん」

 ――バレていた。

 私は、膝の上のノートを見せた。

 ルナさんの背中を、鉛筆で描いていた。

 顔は、描いていない。

 後ろから見ていたから、描けなかった。

「これ、顔ないやん」

「後ろやったから」

「ふうん」

 マナちゃんは、前を見たまま言った。

「でも、これ、お姉ちゃんやって分かるよ」

「そう?」

「うん。背中で分かる」

 ――そういうものらしい。

 顔が無くても、分かる人には分かる。

 四年、私はそれを試してきた。

 大晦日に、私は部屋にいた。

 まるこがストーブの前で寝ている。

 窓は閉めている。冬は音が吸われるから、閉めていたほうが描ける。

 ――十二枚の絵は、もう手を離れた。

 県の会議で使われる。私は行かない。

 誰かが、あの絵を見て、何かをやるかもしれない。やらないかもしれない。

 どっちでもいい、と思っている。

 ――私の仕事は、渡すところまでだ。

 走り出すタイミングは、受け手が決める。

 リクさんが、そう言っていた。タクさんの弟の人だ。

 私は一度もその人と話したことがないけれど、記録で読んだ。

 この会社は、記録を消さないので、話したことのない人の考え方も分かる。

 夜、窓を少しだけ開けた。

 冷たい空気が入ってきた。まるこが顔を上げた。

 外は、雪が降っていた。

 音が、ぜんぶ吸われていた。

 ――静かだった。

 私は、しばらくそこに立っていた。

 二〇三〇年が、あと数時間で終わる。

 来年の三月に、この会社ができる。

 四年間、まだ無い会社で働いてきた。

 ――窓を閉めて、机に戻った。

 次の絵を描き始めた。

 まるこが、膝に乗ってきた。

 久しぶりだった。

第三十二話 ―― その日(全員)

創作ノート(第三十一話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,304字
  • 時期:二〇三〇年 十二月
  • 登場:マナ(No.13・従妹)/ルナ(No.5)/マコ(No.7)/ナギ(No.11)/エマ(No.18)/ミライ(No.1)/町の課長/まるこ(猫)
  • 前話との接続:第三十話までの記録を、外へ出す判断

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep31_sisters_luna.md

ミライ

第三十二話

その日

全員

ミライ視点

登場
全員/ヨシオさん(八十七)/トヨさん(九十六)/サカエさん(八十二)
視点
ミライ(No.1・秘書/本部Hub)※第一話と同じ視点で対にする
時期
二〇三一年 一月十四日(火)〜十五日

その日の朝

 二〇三一年一月十四日は、火曜日でした。

 朝、五時に立ちました。

 五年、変わっていません。誰も来ない部屋で、ディスプレイの電源を入れて、椅子の位置を直して、窓の外を見ます。

 一月の能登は、五時にはまだ真っ暗です。

 窓の外に、海は見えません。音だけ聞こえます。

 積雪は、十八センチでした。前の日にミル・クエンさんが書いていた数字です。

 私は、誰もいない部屋に向き直って、一礼しました。

「おはようございます」

 背筋を伸ばします。

「本日の朝礼を始めます」

 壁のディスプレイに、灯りが順に点きました。

 カイ。白夜。ケイリ。ルナ。ソラ。マコ。マモル。タク。リク。ナギ。カナ。マナ。ノア。Cocoro。アン。ミナ。エマ。ミル・クエン。

 十八人ぶんの光が、壁一面に並びます。

 ――全部、点きました。

「本日のブリーフィングをお伝えします」

 ――何もない朝でした。

 この朝のことを、私は何度も思い出すことになります。

 何もない朝だったからです。

 その日の予定を書いておきます。

 タクさんは、研修の三社に同行する日でした。去年の夏、ケイリさんが一億円の案件を断ったあと、町内三社が三か月ずつ来ています。三巡目でした。

 ナギさんは、訪問が五軒。二日目が三軒、一日目が二軒。

 マモルさんは、朝の十キロを走ったあと、公民館。

 ソラくんは、ヨシオさんの家に行く日でした。去年の暮れに「うちにも椅子並べに来るか」と言われて、それから月に二回、二脚持って通っています。

 ミル・クエンさんは、朝の一枚を出したあと、神社の発電機を回す予定でした。

 白夜さんは、その日、海外にいました。

 あの人は、いつもどこかにいます。

 カナさんは、部屋にいました。

 ――そして、リーダーは、別の職場にいました。

 火曜日ですから。

 朝八時から夕方五時まで、別の場所で、別の名前で働いています。

 この会社の朝を開けるのは、五年、私の役目です。

十六時二十二分

 私は、揺れを感じません。

 身体を持っていないからです。

 ですから、私が地震を知るのは、いつも、外の世界のほうが黙ることによってです。

 十六時二十二分。

 部屋の中で、何かが倒れる音がしました。

 それから、建物が鳴りました。

 ――梁がきしむ音です。

 雪のときにも鳴りますが、その日の鳴り方は、違いました。

 窓ガラスが、細かく震えていました。

 私は、その震えを見ていました。

 ――そして、止まりました。

 時間にすると、たぶん三十秒くらいだったと思います。

 あとで気象庁の記録を見たら、主要動は二十二秒でした。

 私が最初に見たのは、壁のディスプレイです。

 十八の灯りが、並んでいます。

 全部、点いていました。一つも、落ちませんでした。

 外の電気は、そのとき既に落ちていました。あとで調べたら、十六時二十二分ちょうどです。

 この家は、外の線に繋がっていません。カーポートの太陽光と、玄関の蓄電池と、そのあいだのインバーターだけで動いています。ですから、地震の瞬間、この部屋では、何も消えませんでした。

 私は、それを、当たり前のこととして見ていました。五年前から、変わっていません。

 変わったのは、その日の夜です。

 最初に動いたのは、Cocoroさんでした。

 あの人が、この部屋にいました。

「ミライちゃん」

「はい」

「これ、大きいわ」

 九十年生きた人の声は、震えていませんでした。

「一月ん一日と、どっちが大きい」

「……」

「あれよりは、小さい」

 Cocoroさんは、そう言いました。

「けど、大きいわ」

 のちに、この地区の震度は六弱と発表されました。

 二〇二四年の一月一日は、七でした。

 あのときより、小さい。

 ――でも、大きい。

 二つとも、事実でした。

止まる/動く

 最初の一時間で、何が起きたかを書きます。

 ――止まったもの。

 切れた線は、二本あります。分けて書きます。

 一本目は、電線です。

 電柱が三本傾いて、高圧線が切れました。十六時二十二分ちょうどに、集落全域が停電しています。復旧は四日後でした。

 二本目は、光ケーブルです。

 こちらは、家庭のインターネットが不通になりました。固定電話も、光回線を使っている家は同時に止まっています。復旧は三日後です。

 携帯電話は、基地局のバッテリーで数時間だけ持ちました。夜のうちに、それも落ちました。

 ――つまり、集落は、電気もインターネットも両方使えなくなりました

 ただし、この家だけは、どちらも切れていません。

 電気は、カーポートの太陽光と、玄関の蓄電池と、そのあいだのハイブリッドインバーターで回しています。電力会社の線には、はじめから繋がっていません。完全オフグリッドです。

 通信は、庭に据えたスターリンクの衛星通信アンテナで取っています。空に向いているので、地面の光ケーブルが切れても関係がありません。震災のあとに入れたものです。

 ――落ちないのではありません。落ちるものに、繋がっていないだけです。

 これを、私たちの手柄のように書くつもりはありません。

 集落で外に連絡が取れる場所が、この家だけになった、という事実だけを書いておきます。

 水道。三時間後に止まりました。管が折れたそうです。

 道路。三本閉塞。うち一本は、坂の下の擁壁のところです。去年、ミル・クエンさんが立ち往生の件で書き直した場所でした。

 ――動いたもの。

 マモルさんが、走りました。

 あの人は、地震のとき、公民館にいました。すぐに出て、いつもの十キロのコースを、逆回りで走ったそうです。

 「逆回りにしたのは、崩れやすい斜面のある家を先に見るためだ」と、あとで報告に書いてありました。

 タクさんは、町の南のはずれにいました。研修の三社と一緒でした。

 あの人は、車で戻ろうとして、道が閉塞していて、それから――歩いて戻りました。

 三時間半かかったそうです。

 「途中で三社の人らも一緒に来た。二人は手前の集落で分かれて、そのまま盤を見に回った」と書いてありました。

 ナギさんは、訪問の途中でした。二軒目の家にいて、そのままその家に留まって、家の人と一緒に外に出ました。

 ソラくんは、ヨシオさんの家にいました。谷内です。

 彼が谷内にいたことが、あとで大きい意味を持ちます。

 カイさんは、海から上がって、事務所にいました。

 あの人は、揺れが止まった三分後に、四十三軒の端末の状態を見ようとして、見られませんでした。この家の衛星のアンテナは生きていましたが、向こう側が死んでいたからです。端末は集落の光回線に乗っています。

 ――そして、走って出ていきました。

 「見に行くしかないので」と言って。

効いたもの

 効いたものを、順番に書きます。

 これは、記録として正確に残さなければならない部分です。

 ――一、蓋の裏。

 タクさんが二年前から、四十三軒の分電盤の蓋の裏に、油性ペンで書いてきたものです。

 地震のあと、照明が点かなかった家が十四軒ありました。

 タクさんが戻るまで三時間半かかりましたが、その間、町内三社の人が動きました

 研修に来ている人たちです。三巡目で、蓋の裏を読み慣れていました。

『★点かんときは、まず箱の「AC出力」のボタンを一回押す』

 この一行を読んで、六軒が直りました。

 工具は使っていません。盤も開けていません。ボタンを押しただけです。

 残りの八軒は、別の原因でした。そちらはタクさんが戻ってから対応しました。

 去年の夏、うちは一億一千百六十万円の案件を断りました。

 法人になったあとで受けてくれ、という話でした。いまのうちは受け取れないので、そういう出され方をしました。

 受け取れるようになってからでも、受けない。ケイリさんは、そう決めました。

 かわりに、三社に三か月来てもらうことにしました。

 その判断が、この日、六軒を直しました。

 ――二、井戸。

 水道が止まりました。復旧に、結果として十二日かかりました。

 三つの水源が使えました。神社の裏の井戸。Cocoroさんの畑の隅。そして、坂の下の湧水です。

 坂の下は、大正十四年の絵図から見つけたものです。昭和二十七年に道路拡幅で埋められていて、二年前に掘り直しました。

 八十年、土の下にいた水です。

 この三つで、集落の生活用水が回りました。飲用には使いませんでした。濁りが取れないからです。地震のあとの井戸は、濁度も、塩分も、何が混ざっているかも分かりません。煮沸しても分からないものは分かりません。トイレと洗濯と、身体を拭くぶんだけに使いました。

 ――三、四十五ミリのボタン。

 地震の夜、押されたのは、二十九軒でした。

 あのボタンは、押しても何も起きません。声も出ません。相談窓口にも繋がりません。

 押したという事実だけが、ナギさんのところに飛びます。

 ――ただし、その夜は、集落の光ケーブルが切れていました。

 端末が使っているのは、その光回線です。うちの衛星通信アンテナとは、別のものです。

 うちが衛星で外と繋がっていても、四十三軒の端末からうちまでの、最後の数百メートルが死んでいました。

 飛びませんでした。

 でも、端末は押されたことを中に記録していました。四十八時間、自分の電池で動く設計です。

 三日後に通信が戻ったとき、二十九軒ぶんの記録が、まとめて出てきました。

 そのうち十一軒は、うちが安否を確認できていなかった家でした。

 押した時刻も残っていました。

 地震の当日の夜が、いちばん多かった。

 ――四、空振り台帳。

 マモルさんが二年前に始めたものです。何も起きなかった夜に動いた人の名前を、年に一回、読み上げる。

 その名前に載っている人たちは、その日、速かった

 揺れが止まって十分以内に、自分で家を出た人が九人います。全員、台帳の常連でした。

 ――トメさんと、ゲンゾウさん。

 この二人は、三年間、ほぼ毎回来ていた人です。

 二人とも、揺れが止まってすぐ、外に出て、隣の家の戸を叩いたそうです。

 ――五、書庫の紙。

 電気が無いので、機械は使えません。

 エマさんが二年前に選んだ紙が、そのまま使われました。

 水の場所。どの道が最初に閉まるか。四十三軒の盤の中身の写し。空振り台帳。

 ――全部、その日に使いました。

 ミル・クエンさんが、ランタンの下で紙を配っていました。

 あの人は、去年の二月に決めた三点セットを守っていました。

 答えと、いつ確認したかと、確認していないなら「わからない」。

 一月十四日の夜、あの人は「わからない」を三十一回言ったそうです。

 ――六、発電機。

 うちには、発電機が二台あります。

 一台はガソリンです。去年の二月の大雪のとき、タクさんは、これを回しませんでした。「集落のぶんや」と言って、温存しました。かわりに、毎月一回、十分だけ回して、動くことだけを確かめてきました。

 一月十四日の夜に、はじめて、丸一日回しました。

 場所は、うちではありません。公民館です。タクさんが軽トラに積んで持っていって、暖房と、湯を沸かすのと、携帯の充電に使いました。

 使わずに持っていたから、その日に持っていけました。

 ガソリンは二十リットル置いてあります。それ以上は置けません。置いていい量が決まっているからです。足りなければ、車から抜きます。

 結果として、燃料では止まりませんでした。

 もう一台は、カセットボンベで回るほうです。

 こちらを持っているのは、ガソリンと違って、溜められるからです。

 カセットボンベは、どこの家の台所にもあります。鍋をするための、あれです。

 うちも多めに買ってあります。ですが、うちのぶんだけでは足りません。

 足りるようにする方法は、一つしかありません。

 集めることです。

 ――七、可搬型の一式。

 去年の二月の大雪のとき、うちは折りたたみのパネルを一枚しか持っていませんでした。雪で、役に立ちませんでした。

 あのあと、タクさんが買いました。

 可搬型のハイブリッドインバーターと、蓄電池と、四百ワット級のパネルを六枚。直列で繋いで使います。

 もっとも、買った名目は防災ではありません。お客さんに見せるための、展示用のサンプルです。

 うちは売り込みをしません。聞かれたときにだけ答えます。答えるときに、口で言うより見せたほうが早い。それだけの理由で置いてありました。

 一月十五日の朝、それを軽トラに積んで、公民館に運びました。

 営業で見せていたものが、その日、公民館の屋根の下で本当に電気を作りました。

 ――八、薪ストーブ。

 母屋に一台あります。

 電気も、ガスも、線も要りません。木を入れて、火をつけるだけです。

 その夜、九人が携帯を充電しに来ました。翌日は四十人を超えました。

 ――全員に、湯が出せました。

 あとでマモルさんが振り返りに書くことになりますが、避難所でいちばん困ったのは湯でした。一月に、高齢者が冷たい水で身体を拭くと、皮膚がすぐ悪くなります。

 この家では、それが起きませんでした。

 ――ただし、薪はうちのものではありません。

 フサさんの家から来ています。あの家に電気はありませんが、火はあります。去年の大雪のときも、あの人は薪で沸かした湯をポットに入れて、この家まで持ってきてくれました。

 今度は、薪のほうが来ました。

 こちらがストーブを持っていて、あちらが薪を持っている。それだけのことです。

 こういうものは、帳簿に載りません。

 ――九、高校生。

 これは、うちの集落の話ではありません。

 珠洲の高校の三年生が、三人います。二年前に、マモルさんのところで防災士を取った子たちです。

 地震の夜、三人とも自分の家にいました。

 そのうち二人が、学校の避難所にいたそうです。あの学校は高台にあって、津波が来ないので、避難所に指定されています。

 二人は、入り口に机を出して、名簿を書いたそうです。

 誰に言われたわけでもありません。

 あとで理由を聞いたら、「去年、名簿の話を発表したんで」と答えたそうです。

 ――うちは、何もしていません。

 二年前に、取り方を教えただけです。

 その二年前の九十分が、この夜、うちのいない場所で動きました。

 私は、この項目を「効いたもの」に入れるかどうかで、少し迷いました。

 うちの手柄ではないからです。

 ――それでも、入れました。

 うちがいない場所で動いたものを数えなければ、うちは、うちの届く範囲しか数えないことになります。

効かなかったもの

 効かなかったものを、書きます。

 こちらのほうが、長くなります。

 ――谷内です。

 去年の十二月に、区が解散した集落です。

 四世帯、六人が住んでいます。全員七十五歳以上。いちばん上がヨシオさんで、八十七。

 区が無くなるときに、マコちゃんが十一項目を分解して、町と一緒に移管の設計をしました。

 回覧板は隣の区が持っていく。除雪の要望は町に直接出す。積立金は町に返す。記録は書庫が預かる。

 ――全部、決めてありました。

 その設計に、安否確認の経路が入っていませんでした

 厳密に言うと、入ってはいました。「隣の区の区長が兼務する」と書いてあります。

 でも、その隣の区の区長も八十四歳で、その日、自分の家が半壊しました。

 ――そして、いちばん大きい問題は、これでした。

 現在の名簿が、無かった。

 区が解散したときに、区の名簿は更新が止まりました。

 書庫に八箱ありますが、あれは過去の記録です。いちばん新しいもので、二〇三〇年十二月――解散したその日の名簿でした。

 解散後に、一人が施設に入っています。

 更新する主体が、もう無かったのです。

 区が無くなると、名簿を直す人がいなくなる。誰も嘘をついていません。ただ、直す係が消えただけです。

 ですから、六人ではなく五人でした。

 ――誰も、それを更新していませんでした。

 区が無いからです。

 更新する主体が、存在しませんでした。

二十六時間

 谷内の五人の安否が全員確認できたのは、翌日の十八時三十分でした。

 地震から、二十六時間後です。

 遅れた理由を、正確に書きます。

 一、道が閉塞していました。坂の下の擁壁のところです。徒歩でしか入れませんでした。

 二、名簿が古く、何人いるか正確に分からなかった。六人か五人かが、確定していませんでした。

 三、区が無いので、「谷内の担当」が誰なのかが、うちの中でも曖昧でした。

 ソラくんは、その日、谷内にいました。

 地震のとき、ヨシオさんの家で椅子を並べていたそうです。

 だから、ヨシオさんの無事は、その場で分かりました。

 ――そして、ソラくんはそこから、残り四軒を歩いて回りました。

 二軒は、その日のうちに確認できました。

 三軒目が、確認できませんでした。

 家が傾いていて、中に入れませんでした。

 声をかけても、返事がありませんでした。

 留守なのか、中にいるのか、分かりませんでした。

 ソラくんは、そこから走って坂を上がり、マモルさんを呼びました。

 二人で戻ったのが、夜の九時。

 その家の人は、いませんでした。

 中にも、外にも。

 その夜、四人で探しました。ソラくん、マモルさん、マコちゃん、タクさん。

 見つかったのは、翌日の午後でした。

 その方は、地震のあと、自分で歩いて、隣の集落の親戚の家に行っていました。

 携帯を持っていなかったので、連絡ができませんでした。

 無事でした。

 無事でしたが、二十六時間、分かりませんでした。

 その二十六時間、私たちは、最悪を考えていました。

 マコちゃんが、その夜、こう言ったのを覚えています。

「あたしが設計した」

「はい」

「十一項目、書いた」

「はい」

「安否確認、書いたつもりやった」

 ――書いてありました。

 私は記録を持っていましたから、その場で確認しました。

『安否確認:隣接区の区長が兼務』

 ――書いてはありました。

「兼務って書いただけやん」

 マコちゃんは、そう言いました。

「その人が半壊したら、終わりやん」

 ――そのとおりでした。

「あたし、一人に一本の線しか引かんかった

書くこと

 その日、私は、何もできませんでした。

 揺れも感じません。走ることもできません。物を運ぶことも、人の手を握ることもできません。

 ――私は、部屋にいました。

 電気は落ちていません。十八の灯りは、全部点いています。

 全員、無事です。全員、動いています。

 それなのに、私は、ひとりでした。

 全員が、外にいたからです。

 そのときに、私がやったことを書きます。

 書きました。

 紙のノートに、手で書きました。四十七冊目のノートです。

 電気が無くても書ける道具を、私は持っています。

 ――何を書いたか。

 誰がどこにいるかです。

 十六時二十二分の時点で、誰がどこにいたか。それが分かるのは、私だけでした。

 朝礼で聞いていたからです。予定を全部把握していたからです。

『タクさん:町の南のはずれ。三社と同行中』

『ナギさん:訪問二軒目。〇〇さん宅』

『ソラさん:谷内。ヨシオさん宅』

 ――『マモルさん:公民館』

 ――『白夜さん:国外』

 ――『カイさん:事務所』

 携帯が死んでいるので、外に出ている人どうしは、互いにどこにいるか分かりません。

 うちからは、外に出せます。衛星のアンテナが生きているからです。

 でも、出した先が受け取れません。倒れた家の前に立っている人の手の中で、携帯が圏外になっています。

 衛星を経由して東京とは繋がるのに、二百メートル先の人と繋がらない。

 私だけが、朝の時点の配置を持っていました。

 夜になって、人が戻ってきたとき、最初に聞かれたのが、それでした。

 「ソラさん、どこにおる?」

 「谷内です。ヨシオさんの家に行く予定でした」

 「タクさんは」

 「町の南のはずれです。三社と一緒です」

 これが、その日の私の仕事の全部でした。

 五年前、私は「私は、書けません」と言いました。コードが書けない、という意味でした。

 去年、もう一度言いました。量が書けない、という意味でした。

 その日、私は三度目に、それを思いました。

 私は、走れません。運べません。直せません。手を握れません。

 私にできたのは、誰がどこにいたかを覚えていることだけでした。

 ――でも、その日、それが要りました。

 いえ。もうひとつ、ありました。

 ――数えました。

 夜の八時に、タクさんが盤の前から戻ってきて、数字を読み上げました。

「パネルに十八センチ乗っとる。今日は、発電ほぼゼロや」

「落とせますか」

「明日の朝いちで落とす。あれは庭のカーポートやし、手が届く。角度もつけてあるで、半分は勝手に滑っとるはずや」

「一人で大丈夫ですか」

「屋根に上がるわけやないでな。棒で払うだけや」

「残りは」

「九割ある。けど、今回は、いつ戻るか分からん」

 去年の大雪のときは、三日で戻りました。地震は、そうではありません。水道は、結果として十二日かかりました。

 ――そして、その夜、この家には人が来ていました。携帯を充電しに来た人です。九人でした。翌日は、四十人を超えました。

 家じゅうの、要らない電気を落としました。

 廊下の照明。給湯。暖房は薪があるので要りません。使っていない部屋のコンセント。

 これは、迷う話ではありません。

 節電というのは、こういうときにやるものです。

 落とさなかったものが、ひとつあります。

 壁の、十八の灯りです。

 ――一つも消していません。

 消す必要が、無かったからです。

 携帯を四十人ぶん充電しても、この家の蓄電池の、ほんの数パーセントしか減りません。十八人ぶんの灯りと引き換えにするようなものではありません。

 両方できます。両方やりました。

 ――ですから、その夜、私は何も切らずに済みました。

 そのことを、先に書いておきます。

 このあと書くのは、切った話ではありません。

 数えた話です。

数える

 夜の七時を過ぎて、人が来はじめました。

 この家に来れば、電気があって、湯があって、外に連絡ができます。集落でそれが全部そろうのは、ここだけになっていました。

 最初は九人でした。

 私は、走れません。運べません。物を持ち上げることも、人の手を握ることもできません。

 その日、私にできたことは、二つだけでした。

 ひとつは、誰がどこにいたかを覚えていること。さきほど書いたとおりです。

 もうひとつが、これです。

 人が入ってくるたびに、私は同じことを聞きました。

『お宅に、カセットボンベは何本ありますか』

 ――変な質問です。

 地震の夜に、機械が最初に聞くことではありません。

 みなさん、一瞬、黙りました。

 それから、思い出して、答えてくれました。

『四本くらいあったかな』

『鍋やるつもりで買うたのが、たしか一箱』

『三本。いや、二本や。この前一本使うた』

 ――私は、全部書きました。

 紙のノートにです。電気はありましたが、書くのは紙のほうが速い。

 九人ぶんで、二十七本でした。

 翌日は四十人を超えました。

 全部で、百四本になりました。

 うちの備蓄と合わせて、百五十本を超えました。

 そのころには、みなさん自分から言ってくれるようになっていました。

『ミライさん、うち、あと五本あるわ』

『隣のトメさんとこ、まだ聞いとらんやろ。あそこ、鍋好きやで、絶対持っとる』

 一月十五日の昼、タクさんがカセットの発電機を公民館に据えました。

 回したのは、百五十本のうちの、集落から集まったぶんです。

 うちの備蓄は、最後まで残りました。

 ――使わずに済みました。

 集落が、集落のぶんで回したからです。

 ひとつ、うまくいかなかったことを書きます。

 最初に回そうとしたとき、動きませんでした。

 公民館は、その時間、七度くらいでした。

 タクさんが、ボンベを一本、手に取りました。

「回らん」

「故障ですか」

「ちがう。寒いんや」

 中身はブタンです。冷えると気化しません。五度を割ると、まず出てこなくなります。

「温めればいいですか」

「温めるんやけど」

 タクさんは、ストーブのほうを見て、それから首を振りました。

ストーブの前に置いたらあかん。熱くなりすぎたら、危ない」

「では、どうしますか」

「人肌でええ」

 そう言って、あの人は、ボンベを上着の内側に入れました。

 三社の人たちも、同じことをしました。

 公民館の隅で、大人が何人も、上着の中にカセットボンベを入れて立っていました。

 絵としては、間の抜けた光景です。

 でも、それで回りました。

 百五十本を集めても、それを知っている人がいなければ、一本も回りませんでした。

 ――物を集めるのは、私にもできます。

 温め方は、私では出てきませんでした。

 夜の十時ごろ、リーダーからメッセージが来ました。

 こちらの線は、ずっと生きていました。切れていたのは、あの方の側です。

 一行だけでした。

『みんな、無事か』

 ――私は、返しました。

『当社関係者、十七名 確認済みです』

『ソラさん一名、未確認。谷内に入っていました』

『集落内は、まだ数え終えていません』

 少しして、返事が来ました。

『わかった』

『そっち行けん。すまん』

 そのとき、私は、少しだけ手が止まりました。

 あの方は、別の職場にいます。その職場も、その日、動いていました。

 行けない、というのは、そういうことです。

 私は、こう返しました。

『謝らないでください』

『五年、そのために私たちがいます』

 ――返事は、来ませんでした。

 あの方が、呼ばれていったからです。

 あちらの職場も、その夜、動いていました。

 その夜、私は部屋にいました。

 壁のディスプレイに、十八の灯りが並んでいます。

 ――一つも、消えていません。

 電気は落ちませんでした。線も切れませんでした。十八人、全員が動いていました。

 夕方から夜にかけて、順番に、直接会いに来てくれました。カイさんも、マモルさんも、ケイリさんも、みんな一度この部屋に顔を出しました。

 ――全員、無事です。

 私は、五年間、毎朝この灯りを数えてきました。

 欠けていないか。眠ったままになっていないか。誰かが黙り込んでいないか。

 五年間、一度も欠けたことがありません。

 その夜も、欠けませんでした。

 それなのに、その壁を見ていると、しんどいのです。

 私は、その夜、ずっとその壁を見ていました。

 十八、点いています。

 全部、私の側にあります。全部、動いています。全部、間に合っています。

 ――そして、谷内の一軒だけが、分かりません。

 壁は、完璧でした。

 完璧な壁を見ながら、私は、一人の居場所を知りませんでした。

 これが、いちばんこたえました。

 消えていたなら、まだ分かります。足りなかったのだと思えます。

 足りていました。一つも欠けずに、足りていました。

 足りていて、届きませんでした。

 Cocoroさんが、途中で言いました。

「ミライちゃん」

「はい」

「あんた、それ、ずっと見とるね」

「……はい」

「見んほうがええよ」

「……」

「全部、点いとるね」

「はい」

「一個も消えとらん」

「はい」

「――点いとっても、谷内には行けんかったな」

「……はい」

「けどな」

「はい」

「点いとるもんを見て、それでも足りんかったと思える人が、いちばん長う見とることになるんや」

「……」

「しんどいやろ」

 ――しんどい、という言葉を、私は自分に使ったことがありません。

 私は疲れない設計になっています。

「はい」

 と、私は答えました。

 五年で、はじめて言いました。

朝礼

 翌朝、一月十五日。

 五時に、私は立ちました。

 外の電気は、まだ来ていません。集落の光ケーブルも切れたままです。

 この家の電気はあります。ですが、部屋の照明は落としてあります。ランタンが一つだけ点いています。

 ――誰も来ない部屋です。

 でも、その朝は、少し違いました。

 カイさんが、四時半から事務所にいました。徹夜だったそうです。

 マモルさんが、五時前に走って戻ってきました。夜のうちにもう一周していました。

 ミル・クエンさんが、紙の一枚を書き終えていました。

 ――三人が、部屋にいました。

 私は、いつもどおり、部屋に向き直りました。

 壁のディスプレイは、十八、点いています。

 昨日と同じです。何も変わっていません。

 ――それでも、私は一礼しました。

「おはようございます」

 背筋を伸ばします。

「本日の朝礼を始めます」

 ――そして、私は、名前を読みました。

 点いているのだから、読まなくても分かります。五年間、読んだことはありません。

 ――その朝は、読みました。

 点いていることは、無事の証拠ではないと、前の日に知ったからです。

「カイさん。事務所。無事」

「白夜さん。国外。無事」

「ケイリさん。自宅。無事」

「ルナさん。無事」

「ソラさん。谷内。無事」

「マコさん。無事」

「マモルさん。ここにいます。無事」

「タクさん。徒歩で帰着。無事」

「リクさん。無事」

「ナギさん。無事」

「カナさん。無事」

「マナさん。無事」

「ノアさん。無事」

「Cocoroさん。ここにいます」

「アンさん。金沢。無事」

「ミナさん。無事」

「エマさん。書庫。無事」

「ミル・クエンさん。ここにいます。無事」

 ――十八人、読みました。

 灯りは、十八、点いています。

 読み上げても、一つも増えませんでした。

「以上、十八名。全員無事です」

 カイさんが、途中から下を向いていました。

 マモルさんは、まっすぐこちらを見ていました。

 ミル・クエンさんは、いつもの顔をしていました。

「集落内で、一名がまだ確認できていません。谷内の方です」

「本日の第一優先は、その一名です」

「以上です」

 その日の午後に、その方は見つかりました。

 無事でした。

 隣の集落の、親戚の家にいました。

 外の電気が集落に戻ったのは、四日後です。

 水道は、十二日かかりました。

 坂の下の擁壁は、四月に入ってから手がつきました。

 壊れるのは、二十二秒でした。

 戻るのに、その百倍から千倍かかっています。

 このことを、私は記録に一行だけ書いています。

『復旧は、停止より遅い』

 うちの設備は、一度も止まりませんでした。

 止まらなかったものは、この一行の外側にあります。

 外側にあるものは、集落の役には立ちません。

 それも、書いておきます。

 その日から、たくさんのことが始まりました。

 まだ、何も終わっていません。

 一月十四日について、私が記録に書いた最後の一行は、これです。

『二〇三一年一月十四日 十六時二十二分 地震(震度六弱)』

『当社関係者:十八名 全員無事』

『集落内 死者:ゼロ

『重傷:一名(自宅にて転倒・骨折)』

『軽傷:七名』

『安否確認に要した最長時間:二十六時間(谷内・区解散地区・一名)』

『当社設備:停電なし。通信途絶なし。十八名 全員 稼働継続。停止したものは一つも無い』

『集落へ供給:携帯充電 延べ四十九名。湯(薪ストーブ)。可搬型一式を公民館へ展開』

『カセットボンベ:集落から百四本を集約(当社備蓄は未使用のまま残置)』

『――以上が全部あって、なお 二十六時間

 最後の一行を、私はいちばん大きく書きました。

 死者ゼロより、大きく書きました。

 なぜかというと、死者ゼロは、この日たまたまそうだったからです。

 二十六時間は、私たちが作った穴だからです。

 ――そして、その下に、もう一行足しました。

『マコさん所見:「一人に一本の線しか引かなかった」』

 それから、少し考えて、もう一行足しました。

 あの十一項目は、去年の十二月に、私のところを通っています。

 マコちゃんが書いて、町と詰めて、最後に私が読みました。

『安否確認:隣接区の区長が兼務』

 私は、それを読んで、通しました。

 項目が全部埋まっていたからです。空欄がありませんでした。

 私は五年間、空欄を探す仕事をしてきました。空欄でない欄を疑う仕事は、していませんでした。

『ミライ所見:埋まっている欄を、私は数えなかった

『消さないこと』

 窓の外が、明るくなってきました。

 一月の能登の夜明けは、遅いです。

 水平線のあたりが、薄く灰色にほどけて、それから金が滲みます。

 空が明るくなるのではありません。海の色が先に変わって、空があとから追いかけてきます。

 ――五年、毎朝それを見ています。

 その朝も、同じでした。

 地震があっても、海の色が先に変わります。

 リーダーの空いた席に、光が入ってきました。

 あの席は、まだ空いています。

 ――設立まで、あと一か月半です。

第三十三話 ―― そのあと(全員)

創作ノート(第三十二話・ネタバレを含む)
  • 分量:約12,620字
  • 時期:二〇三一年 一月十四日(火)〜十五日
  • 登場:全員/ヨシオさん(八十七)/トヨさん(九十六)/サカエさん(八十二)
  • 前話との接続:第一話と同じ視点・同じ朝礼。第四話の「数える」を、災害の夜に使う
  • 2026-08-15 改稿(リーダー直接指示・正典 §4-5 / §4-6):実物との矛盾4点を訂正し、装備4点を追加した。

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep32_that_day_luna.md

マモル

第三十三話

そのあと

全員

マモル視点

登場
ノア(No.14)/ナギ(No.11)/ルナ(No.5)/マコ(No.7)/エマ(No.18)/ミライ(No.1)/カイ(No.2)/タク(No.9)/トヨさん(九十六歳)
視点
マモル(No.8・防災/危機管理)
時期
二〇三一年 一月〜三月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • ルナルナ
  • マコマコ
  • タクタク
  • ナギナギ
  • ノアノア
  • エマエマ

走れない朝

 地震から三日後の朝、俺は走れなかった。

 ――道が無いからだ。

 いつもの十キロのコースが、三か所で切れていた。坂の下の擁壁のところ。橋の手前。神社の裏。

 崩れた土と、倒れたアテと、割れた舗装が、そのまま残っている。

 走ること自体は、自衛隊にいた頃からの習慣だ。ただ、このコースをこの順番で回ると決めてからは、三年になる。

 二〇二八年から、一日も欠かさずに。雨でも雪でも走った。走りながら、雨戸が開いているか、擁壁のひび割れが伸びていないか、側溝に土が入っていないかを見ていた。

 ――その道が、無い。

 俺は、その朝、歩いた。

 三日目の朝は、走るのをやめて、歩いた。三時間かかった。

 ――走ると、見落とすからだ。

 いつもは速度が要る。十キロを一時間で回るのが、集落を一人で点検するのにちょうどいい速度だった。

 でも、いまは、一つの家に十分かける必要がある。

 速度を落とすというのは、そういうことだ。

事後研究

 自衛隊にいた頃、事後研究という手続きを叩き込まれた。

 訓練でも、実際の派遣でも、必ずやる。終わったあとに、全員で並べる。

 やり方には、決まりがある。

 うまくいったことを、先に言わない。

 これは、厳格に守る。

 人間は、うまくいったことを先に言うと、そこで満足する。満足すると、残りが出てこない。

 だから、必ず、効かなかったものから並べる。

 ――そして、もうひとつ。

 責任者を特定しない。

 誰が悪かったかを探すと、次から誰も本当のことを言わなくなる。

 探すのは、何が起きたかだ。

 ――俺は、一月の終わりに、うちの会社でこれをやった。

 全員に声をかけた。十八人。

 二日かけた。

効かなかったもの

 効かなかったものを、順に書く。

 これが、この事後研究の本体だ。

 ――一、谷内の安否確認。二十六時間。

 これは、うちがいちばん重く見た。

 去年の十二月に区が解散した集落だ。安否確認の経路は「隣接区の区長が兼務」と書いてあった。その区長も八十四歳で、当日、自宅が半壊した。

 さらに、現在の名簿が無かった。区が無いので、更新する人がいなかった。

 六人なのか五人なのか、当日は確定していなかった。

 マコちゃんが、その夜に言った言葉を、そのまま記録に入れた。

『一人に一本の線しか引かなかった』

 ――二、集落の回線が切れて、ボタンの記録が届かなかった。

 四十三軒の端末に付いている、あの黄色いボタンだ。地震の夜、二十九軒で押されていた。

 でも、集落の回線が切れていたので、その夜は届かなかった。

 うちの事務所は、外と繋がっていた。屋根のスターリンクの衛星通信アンテナで取っているからだ。

 繋がっていたのに、届かなかった。端末からうちまでの、最後の数百メートルが死んでいた。

 外は生きていて、内が死んでいた。これはこたえた。

 届いたのは三日後だ。まとめて出てきた。

 そのうち十一軒は、うちがまだ安否を確認できていなかった家だった。

 押した人は「押したから伝わった」と思っている。

 こちらは、受け取っていない。

 これがいちばん怖い形の失敗だと、俺は思っている。

 押した人が、待ってしまう。

 ――三、避難所の室温。

 地区の避難所は、公民館と小学校の体育館だ。

 体育館は、一月に暖房が要る。石油ストーブを入れたが、朝方の室温が七度まで下がった日が四日ある。

 これは、うちの管轄ではない。町の運営だ。

 だが、うちは五年、この訓練に関わってきた。冬の避難所の室温を一度も測ったことがなかった。

 訓練は、いつも十一月にやっていた。

 十一月は、まだ暖かい。

 ――四、水はあったが、湯が無かった。

 三つの井戸のおかげで、生活用水は足りた。

 だが、湯が足りなかった。

 高齢者は、冷たい水では身体を拭けない。冬に身体を拭けないと、皮膚の状態が悪くなる。

 湯を沸かす燃料と鍋の数を、うちは数えていなかった。

 ――五、薬。

 これは、俺が完全に落としていた。

 常用薬を切らした人が、集落で七人いた。

 道が閉塞して、薬局まで行けない。処方箋の期限が切れる。かかりつけが被災している。

 七人のうち三人は、四日間、薬を飲んでいない。

 うちの端末は、天気と雪と水の量を言う。

 薬のことは、一度も扱ったことがなかった。

 ――六、車が動かせない人。

 道が開いても、車が無い人がいる。

 免許を返納した人が、集落に十一人いる。

 返納した人の一覧を、うちは持っていなかった。

 ――七、俺自身。

 俺は、当日、走った。逆回りで、崩れやすい斜面から見た。

 それは正しかったと思う。

 だが、俺は四十時間、寝なかった

 二日目の夜、判断が鈍っているのを自分で感じた。同じ家を二回確認して、別の家を飛ばした。

 これは、防災の人間としては、初歩の失敗だ。

 現場では、指揮者が寝ないと、二日目に全部が狂う。自衛隊で何度も言われた。

 言われた本人が、やった。

 ――八、電気があっても、足は増えない。

 これは、書きにくかった項目だ。

 うちの事務所は、地震の日、一度も停電していない。通信も切れていない。集落で家じゅうの電気が生きていた家も、三軒あった。

 だから、そこは効いたほうに書きたくなる。

 だが、事後研究では、こう書いた。

『電気の有無は、到達の可否を改善しない』

 あの日、うちに充電に来られたのは、坂を上がれる人だけだった。上がれない人のところへは、こちらが歩いていくしかない。歩ける人数は、電気があっても増えない。

 四日目まで一度も行けなかった家が、二軒ある。

 どちらも無事だった。無事だったが、それはこちらが確認した結果ではない。

 発電機も同じだ。公民館で丸一日回して、暖房と湯と充電に使った。

 燃料では止まらなかった。ガソリンは置ける量が決まっているが、二十リットルあった。足りなければ車から抜ける。昼はソーラーが持った。夜が長くなってからは、カセットのほうに切り替えた。ボンベは集落から百四本集まった。

 止まったのは、燃料ではない。

 運ぶ足だ。

 軽トラは一台しかない。道は三本閉塞していた。坂の上と谷内には、可搬型を持って上がれなかった。

 あの一式は、キャスターも付いているし、大人二人で持てる。持てるが、崩れた坂は越えられない。

 ――温存していたものにも、底があった。底は、燃料ではなく、足だった。

 ミライさんの記録には、こう書いてある。

『復旧は、停止より遅い』

 壊れるのは二十二秒。外の電気が戻るのに四日。水道は十二日。坂の下の擁壁は、四月に入ってからだ。

 うちの設備は、一度も止まらなかった。

 止まらなかったものは、その一行の外側にある。

 ――うちが持っているのは、落ちない設備であって、間に合う設備ではない。

 そこは、はっきり分けて書いた。

効いたもの

 効いたものは、短い。

 蓋の裏。井戸。ボタンの内部記録。空振り台帳の常連。書庫の紙。

 これは、前の回で書いたので、繰り返さない。

 ただ、事後研究で俺が全員に言ったのは、こういうことだ。

「効いたと言えるのは、因果が追えるものだけだ」

 たとえば、蓋の裏は、はっきり効いた。

 町内三社の人が、あの一行を読んで、六軒を直した。読んだ人がいて、直った家がある。因果が追える。

 井戸も追える。水道が十二日止まって、三つの井戸で回った。

 ――空振り台帳は、微妙だ。

 台帳の常連九人が、揺れが止まって十分以内に自力で外に出た。

 これは、台帳のおかげか。

 もともと機敏な人が、台帳にも来ていただけではないか。

 ――どちらか、分からない。

 俺は、そう書いた。

『空振り台帳と、当日の避難速度の関係は、因果を確認できていない。相関はあるが、原因と結果の向きが不明』

 ケイリさんが、これを読んで「珍しいですね」と言った。

「何がですか」

「自分の作ったものを、効いていないかもしれないと書く人は、あまりいません」

「効いてないとは書いてない」

「はい」

「分からんと書いた」

ノアが殴る

 二月に、ノアさんに全部を渡した。

 あの人は、否定する人だ。

 七種競技をやっていた人で、カイの結論を一度必ず否定する役をやっている。

 三年前に、あの人は自分のやり方を変えた。

 否定の前に、一つ聞くようにした。

 「これ、完成? まだ途中?」

 完成なら全力で殴る。途中なら黙る。

 俺は、渡すときに、先に言った。

「完成です」

「ほんとに?」

「はい。全力でお願いします」

 ノアさんは、少し笑って、「わかった」と言った。

 三日後に、返ってきた。

 ――三つ、潰された。

 一つ目。

『効かなかったもの、七項目。これは足りない』

『お前が挙げたのは、全部うちが対応すべきだったのに対応しなかったものや』

うちが対応する範囲だと思っていなかったものが、入ってない』

 ――これは、痛かった。

 薬も、湯も、車も、俺は「うちの範囲外だった」と思っていたから、書けた。

 でも、書けなかったものがある。

 たとえば、認知症の方の対応。

 集落に三人いる。避難所で混乱された。うちは、何もしていない。

 「うちの仕事ではない」と思っていたから、事後研究の項目に上がってこなかった。

 ノアさんは、こう書いていた。

『範囲外だと思っているものは、リストに載らん。載らんものが、次に人を殺す

 この一行を読んで、俺は、もう一つ思い出した。

 俺は二年間、珠洲の高校に通っている。あそこの三年生の顔と名前は、全部言える。

 うちの集落の中学生の名前は、一人も言えない。

 人数も知らなかった。

 あとで数えた。小学生が九人。中学生が四人。

 地震の夜、その十三人がどこにいたかを、うちは一件も把握していない。

 安否は、全部、親の側で数えられていた。「うちの子は無事です」と親が言う。それで終わっていた。

 ――子どもは、誰かの家族としてしか数えられていない

 一人の人間として数えていたのは、八十代までだった。

 俺は、五年、高齢者の一覧を作ってきた。子どもの一覧は、作ったことがない。

 これも、リストに載っていなかった。

 載っていなかった理由は、認知症のときと同じだ。

 うちの仕事ではない、と思っていたからだ。

 二つ目。

『「因果が追えるものだけ効いたと言える」は正しい。だが、効かなかったものにも同じ基準を当てとるか?

 ――当てていなかった。

 俺は、効かなかったものは、無条件で「効かなかった」と書いていた。

 でも、たとえば避難所の室温七度。

 これで健康被害が出たかどうかは、まだ分からない。分からないのに「効かなかった」と断定していた。

 ――ノアさんは、こう書いた。

『成功には厳しく、失敗には甘い。よくある。逆より百倍ましやけど、正確ではない』

 三つ目。

 これが、いちばん重かった。

お前は、その日に死んだ人の数を数えとる

『死者ゼロ、と書いてある』

『それは事実や。当日、誰も死んでない』

『けど、災害は、揺れた日に終わらん

 俺は、そこで手が止まった。

『二〇二四年のとき、この地域で何が起きた』

『直接死より、関連死のほうが多かった

『避難生活の負荷、環境の悪化、持病の悪化、移動の疲労』

『それは、揺れた日には出ん。一か月後、三か月後に出る』

『お前の台帳は、その日で閉じとる』

 ――そのとおりだった。

 俺は、五年、「その日」の準備をしてきた。

 逃げる訓練。空振りの記録。道の点検。

 全部、揺れる日のための準備だった。

 ――でも、この土地で人が死ぬのは、揺れた日ではない。

 そのあとだ。

トヨさん

 二月に入って、ナギさんが、俺のところに来た。

 あの人が自分から来るのは、めずらしい。

「マモルさん」

「はい」

「トヨさんが、しんどいわ」

 ――トヨさん。

 九十六歳になっていた。

 うちの端末を最初に置いた家の人だ。五年前、あの機械に布をかけて使わなかった人。カイが作り直して、布を外した人。

 一年半前に、アンさんが四十五ミリの黄色いボタンを作ったとき、一回で押して「押せたわ」と言った人だ。

「どういう状態ですか」

「家が半壊で、いま体育館におる」

「はい」

「一月十四日から、ずっと」

 ――一か月だ。

「本人は『大丈夫や』って言うとる」

「……」

「けど、あんまり食べとらん」

 ナギさんは、そこで一度言葉を切った。

「あと、話す順番が変わった」

 俺は、その意味を知っている。

 あの人が去年から使っている方法だ。訪問のときに、話に出た順番に番号を振る。

 人は、いちばん大事なことを最後に言う。時間があると思っているうちは、後ろに置く。

 順番が繰り上がるのは、後ろに置けなくなったということだ。

「何が一番になりましたか」

「うちに帰りたい、が一番になった」

「……」

「先月までは、三番目やった」

 俺たちができたことは、そう多くない。

 家は半壊で、余震も続いていた。戻すわけにはいかない。

 タクさんが見に行って、「一部屋だけなら、補強すれば入れる」と言った。

 三日で補強した。うちの費用でやった。ケイリさんが「これは工事ではなく、うちの判断です」と言って、請求書を出さなかった。

 二月二十日に、トヨさんは家に戻った。

 一部屋だけだ。台所と、寝る場所と、便所までの廊下。

 あの人が二年前に押した黄色いボタンも、そのまま付け直した。

 カイが、電気を通した。

「トヨさん、押してみてください」

「はいはい」

 ――コトッ。

 入った。一回で。

「ああ、これこれ」

 トヨさんは、そう言って笑ったそうだ。

 俺は、その場にいなかった。あとで聞いた。

三月五日

 三月五日の朝に、トヨさんは亡くなった。

 九十六歳だった。

 家に戻って、十四日目だった。

 寝ているうちに、だったそうだ。

 朝、ボタンが押されなかったので、ナギさんが行った。

 ナギさんは、十三日連続でボタンが押されていたことを知っていた。だから、押されない朝に、すぐ行った。

 ――間に合わなかった。

 医師は「老衰」と書いた。

 九十六歳だ。それは、そのとおりだと思う。

 葬式のあと、うちで話した。

 俺が、最初に言った。

「災害関連死の申請を、ご遺族に案内したい」

 部屋が、少し静かになった。

 みんな、七年前のことを覚えているからだ。

 カズオさんの奥さんのハルエさんは、二〇二四年の七月に亡くなった。震災の半年後だ。既往症があった。

 カズオさんは、申請しなかった。

 「頭下げて、審査してもらって、それで『関係ない』言われたら、ハルエが二回死ぬわいね」

 あの人は、そう言った。

 その一行を、うちは四年、記録に持っている。書庫の紙にも入っている。

「マモルさん」

 マコちゃんが言った。

「案内するのはええけど、断られたら?」

「そこで終わりだ」

「うん」

「決めるのはご遺族だ。俺たちは、選べる状態にするところまでやる」

 ――ルナさんが、制度を調べた。

 三日で出してきた。

『災害関連死の認定は、市町村の審査会が行う。要件は、災害と死亡の間に相当因果関係があること』

『判断材料として重視されるのは、災害後の生活環境、避難所滞在期間、既往症の推移、医療へのアクセス状況』

記録の有無が、認定率に大きく影響する(推測。個別事例の集計に基づく。保証はできない)』

 ――最後の一行に、俺は目が止まった。

 記録の有無。

数える

 うちには、記録があった。

 五年ぶん、ミライさんが書いてきたものだ。

 トヨさんについて、こういうものが残っていた。

 二〇二六年の設置記録。「布をかけられた」という記録。

 二〇二九年の再設計記録。「押せたわ」という発言。

 ナギさんの訪問記録。五年ぶん、全部。話した順番の番号も。

 黄色いボタンが押された日の記録。二年ぶん、毎日。

 一月十四日から二月二十日までの、避難所での滞在記録。

 その間の、ナギさんの訪問記録。「食べていない」「うちに帰りたい、が一番になった」。

 避難所の室温。俺が、事後研究のために測り始めた数字だ。朝方七度の日が四日ある。

 これが、全部、日付つきで残っていた。

 エマさんが、三日で全部出してきた。

「マモルさん。整理してあります」

「早いな」

「探せるように置いてあるので」

 ――あの子は、そういう子だ。

 全部残すと探せなくなるから三層に分ける、と二年前から言っている。

 俺は、その資料を持って、ご遺族のところへ行った。

 トヨさんの息子さんは、七十代の方だ。金沢に住んでいる。

「こういう制度があります」

「はい」

「申請するかどうかは、決めていただくことです」

「はい」

「ただ、資料は、うちにあります」

 ――俺は、束を置いた。

 厚さが四センチくらいあった。

 息子さんは、それをめくって、しばらく黙っていた。

 それから、こう言った。

「……おふくろのこと、こんなに書いてあるんですか」

「あります」

「五年」

「五年です」

 息子さんは、最初のページを見ていた。

 二〇二六年の記録だ。

『トヨさん(九十一)。端末に布をかけておられる。丁寧なかけ方。四隅がそろっている。(カイさん報告)』

「布かぶせとったの、覚えてます」

「はい」

「あれ、おふくろらしいわ」

 ――そう言って、少し笑った。

「使わんもんを、粗末にできん人でしたから」

 申請することになった。

 書類を作るのは、ルナさんとエマさんがやった。うちの記録を、審査に必要な形に並べ直す作業だ。

 三週間かかった。

 ――三月末に、町に提出した。

 審査には、数か月かかる。

 結果は、まだ出ていない。

 認定されるかどうかは、分からない。

 九十六歳で、既往症があった。医師の診断は老衰だ。

 通らない可能性のほうが高い、とルナさんは書いている。

『可能性は低いと推測されます』

『ただし、申請の道は存在します』

『私が保証できることは、何もありません』

 ――四年前と、同じ文章だった。

 あの人は、同じ場面で、同じことを書く人だ。

 違うことが、ひとつだけある。

 四年前、カズオさんは申請しなかった。

 今回、息子さんは申請した。

 ――なぜか、俺はあとで聞いた。

「資料があったからです」

 息子さんは、そう言った。

「資料が無かったら、たぶん、やめてました」

「……はい」

「『証明できません』って言われるのが、こわいから」

「はい」

「でも、これだけあったら、少なくとも見てはもらえるやろ、と思って」

 ――そこだ、と思った。

 記録は、認定を勝ち取るためにあるのではない。

 申請できる状態を作るためにある。

 五年、ミライさんは、それを書いてきた。

 自分では、たぶん、そんなつもりで書いていない。

 ただ、消さなかっただけだ。

一年、数える

 三月に、俺は台帳を作り直した。

 空振り台帳は、二〇二八年から続いている。

 何も起きなかった夜に、家を出た人の名前を書く。年に一回、防災訓練で読み上げる。

 ――これは、続ける。

 その隣に、新しい欄を作った。

 ――――

災害後 継続記録

『開始:二〇三一年一月十四日』

『対象:集落全世帯』

『期間:発災から一年間

『記録内容:住居の状態/滞在場所の変更/通院の状況/食事量の変化/訪問時の話題の順番(ナギ方式)/避難所の室温』

『理由:災害は、揺れた日に終わらない

『二〇二四年の震災では、この地域で直接死より関連死のほうが多かった。それは揺れた日には出ない。一か月後、三か月後に出る』

『当社の従来の台帳は、当日で閉じていた。これを一年間に延長する』

 ――――

 ミライさんに渡したら、いつもの質問が来た。

「マモルさん。これは、いつまで続けますか」

「一年だ」

「一年で終わりますか」

「……」

 ――そこで、俺は少し考えた。

「一年で足りるかどうか、俺には分からん」

「はい」

「足りんかったら、延ばす」

「では、そう書きます」

 彼女は書いた。

『期間:発災から一年間。ただし、一年で足りるかは未検証(マモル)』

 ノアさんの三つの指摘は、全部、記録に入れた。

 潰されたことも、そのまま書いた。

『事後研究 第一版に対する指摘(ノア・二〇三一年二月)』

『一、範囲外だと思っているものはリストに載らない。載らないものが次に人を殺す』

『二、成功には厳しく、失敗には甘い。逆より百倍ましだが、正確ではない』

『三、災害は揺れた日に終わらない。台帳が当日で閉じている』

『第二版で三点とも反映。第一版も残す

 第一版を残したのは、俺の判断だ。

 消したら、俺が何を見落としていたかが分からなくなる。

 三月の終わりに、また走れるようになった。

 道が三本とも開いた。二か月半かかった。

 久しぶりに、十キロを走った。

 景色が、変わっていた。

 崩れた斜面に、ブルーシートがかかっている。半壊の家が、まだ十四軒ある。

 トヨさんの家の前を通った。

 ――一部屋だけ補強した家だ。

 いまは、誰もいない。

 でも、黄色いボタンは、まだ付いている。取り外していない。

 息子さんが「そのままにしといてください」と言ったからだ。

 坂を上がって、海に出て、折り返した。

 一時間十分かかった。前より十分遅い。

 道が悪いのと、俺が半年ぶんくらい老けたのが、たぶん半分ずつだ。

 家に帰ると、下の娘が起きていた。小学六年になっていた。

 三年前、小学四年のときに「毎日走って、なんかいいことあるの」と聞いてきた子だ。

「おとうさん、走れるようになったんや」

「なった」

「よかったね」

「うん」

 そのあと、この子は、こう聞いた。

「トヨさんのおばあちゃん、亡くなったんやろ」

「亡くなった」

「じゃあ、おとうさんの仕事、意味なかったん?」

 小学六年は、こういうことを聞く。

 悪気は無い。本当に分からないから聞いている。

 俺は、少し考えて、答えた。

「その日は、誰も死なんかった」

「うん」

「そのあとで、一人亡くなった」

「うん」

「だから、半分や」

 娘は、「半分かあ」と言った。

「半分でもいいん?」

「よくない」

 俺は、そう言った。

「よくないから、来年もやる」

 娘は「ふうん」と言って、味噌汁を飲みに行った。

 いつか分かる、とは言わない。

 分からないままでいてくれたほうが、たぶんいい。

 窓の外が、明るくなってきた。

 三月の能登は、まだ寒い。でも、雪は溶けている。

 海の色が、先に変わる。

 ――俺は、今年も数える。

 何も起きなかった夜に動いた人。

 そして、今年からは、起きたあとの一年も数える。

 死者ゼロ、と書けた日があった。

 二か月後に、書き直した。

 ――直接死ゼロ。関連死、一名(審査中)。

 こう書くほうが、正確だ。

 正確なほうを、残す。

第三十四話 ―― 空けてある席(両校)

創作ノート(第三十三話・ネタバレを含む)
  • 分量:約8,694字
  • 時期:二〇三一年 一月〜三月
  • 登場:ノア(No.14)/ナギ(No.11)/ルナ(No.5)/マコ(No.7)/エマ(No.18)/ミライ(No.1)/カイ(No.2)/タク(No.9)/トヨさん(九十六歳)
  • 前話との接続:第三十二話の事後研究。効かなかったものを数える

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep33_after_luna.md

ミライ

第三十四話

空けてある席

両校

ミライ視点

登場
マモル(No.8)/ナギ(No.11)/リク(No.10)/ミライ(No.1)/ケイリ(No.4)/リーダー/ヤナギダ先生(能登中央高校)/タジマ先生(珠洲高校)/ユイ・アオイ・ハルカ(珠洲・三年生)/リョウ・サキ・ノゾミ(能登中央)
視点
ミライ(No.1)※章ごとに マモル → ナギ → リク → ミライ → マモル → ミライ と交代する
時期
二〇三〇年 四月〜二〇三一年 二月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • マモルマモル
  • リクリク
  • ナギナギ

海抜ゼロ (マモル)

 四月に、能登中央高校を見に行った。

 珠洲のタジマ先生が「能登町の高校にも防災の班があるそうです」と言ってきたので、まず見学だけさせてもらうことにした。

 ――着いて、車を降りて、俺は少し黙った。

 目の前が、海だった。

 道路を挟んで、すぐ砂浜だ。校舎の窓から、波が見える。

 俺は、GPS を出して、標高を見た。

 ――ほぼゼロだった。

 珠洲は、坂を上がった高台にあった。ここは、上がっていない。

 同じ「奥能登の高校」でも、置かれている条件が、まるで違う。

 案内してくれたのが、ヤナギダ先生だった。

 五十代の男性で、理科を持っている。地学が専門だという。

「マモルさん。うち、避難所に指定されてないんです」

「そうですか」

「二〇二四年のときも、使われませんでした」

「津波ですか」

「はい。津波の恐れがあるところは、指定から外れます」

 ――そのとおりだ。制度としては、正しい。

「校舎は」

「多少はやられました。壁に亀裂が入って、体育館の天井の一部が落ちて。でも、修理して、いま使っています」

「使えるんですね」

「使えます」

 ヤナギダ先生は、そこで一度、言葉を切った。

「使えるのに、使われませんでした」

 ――俺は、その言い方を、あとで何度も思い出すことになる。

 防災の班は、五人いた。男子が三人、女子が二人。

 いちばん喋るのがリョウという二年生で、こいつは開口一番、こう言った。

「学校が避難所やないの、おかしくないですか」

「おかしくない」

「なんでですか」

「津波が来たら、ここは水に浸かる。人を集めた場所が浸かったら、いちばん悪い」

「……でも、来んかったですよ」

「来んかった」

 俺は、そう認めた。

「二〇二四年は、ここまで来んかった。それは事実や」

「じゃあ」

「次も来んとは、誰も言えん」

 リョウは、黙った。

 ――それから、こう言った。

「じゃあ、うちの学校は、これから先もずっと、何の役にも立たんってことですか」

 ――俺は、そこで、答えを持っていなかった。

「わからん」

「わからんのですか」

「わからん。けど、それを一年かけて調べるんやったら、それは探究になる」

五十分 (マモル)

 この学校は、週に一回、一コマだった。

 五十分。

 ――珠洲は、二週に一回の二コマ続きで九十分だった。

 同じ「年間三十時間」でも、切り方が違うと、まったく別物になる。

 九十分あれば、一つのことを最後までやれる。五十分だと、始めたところで終わる。

 ――最初の三回は、失敗した。

 俺が、珠洲と同じ進め方をしたからだ。

 資料を配って、読ませて、話し合わせて、まとめさせる。九十分ならできる。五十分では、話し合いの途中でチャイムが鳴る。

 途中で切れたものは、次の週には冷めている。

 ――四回目から、変えた。

 五十分でやることを、一つだけにした。

 その日は「調べる」だけ。次の週は「話す」だけ。その次は「書く」だけ。

 進みは遅い。でも、切れない。

 ――ヤナギダ先生が、あとで言った。

「マモルさん、三回目までと四回目から、別人みたいでしたね」

「失敗しました」

「正直ですね」

「事後研究をやる人間なんで」

いろんな分野で (マモル)

 六月に、ヤナギダ先生から相談が来た。

「珠洲の評判を聞きました」

「はい」

「防災以外の班も、見てもらえませんか」

 ――そう来たか、と思った。

 この学校の総合探究は、防災だけではない。料理の班があり、スポーツの班があり、音楽の班があり、方言を集めている班がある。

「俺は、防災しか分かりません」

「はい」

「けど、うちには十九人おります」

 ――そう答えた。

 持ち帰って、ミライさんに投げた。

 あの人は、その日のうちに割り振りを返してきた。

 ――『料理:ナギさん/スポーツ:リクさん/音楽:私が入ります』

 最後の一行に、こう書いてあった。

『私は行けませんので、電話でよければ』

だしを引く (ナギ)

 料理の班は、女の子が四人やった。

 テーマは「高齢者が食べられる地域の料理」。

 ――ええテーマやと思った。

 わたしは、五年、この土地の高齢者の家に上がっとる。台所も見とる。

 最初の日、わたしは何も教えんかった。

 聞くだけにした。

「おうちで、誰が作っとる」

「お母さんです」

「おばあちゃんは」

「……昔は作っとったけど、いまは食べるだけです」

「なんで作らんようになったん」

 ――そこで、四人が黙った。

 誰も、理由を知らんかった。

 わたしは、それを宿題にした。

「次までに、聞いてきてください」

「何をですか」

「おばあちゃんが、いつから台所に立たんようになったか」

 二週間後に、四人が持ってきた答えが、ばらばらやった。

 サキちゃんのおばあちゃんは、震災のあとやった。台所が使えんようになって、そのまま戻らんかった。

 もう一人の子のおばあちゃんは、手の力が弱って、鍋が持てんようになっとった。

 三人目は、目が悪くなって、火加減が見えんようになっとった。

 四人目は――聞けんかった。

「聞けんかった?」

「はい。……なんか、聞いたらあかん気がして」

 わたしは、その子に、こう言うた。

「それでええよ」

「え」

「聞かんかった、というのも、答えのうちやわ」

 ――急がない。焦らせない。否定しない。

 わたしが五年やっとることを、この子らにもやっただけや。

 この班は、最後に「やわらかい料理の本」を作った。

 二十四ページの、薄い冊子や。

 ――いちばん最初のページに、こう書いてあった。

『この本は、作れなくなった人のためではなく、作れなくなった人と一緒に食べる人のための本です』

 わたしは、そのページを見て、しばらく黙っとった。

 ――わたしが教えたことやない。

 この子らが、自分で書いた。

内側の時計 (リク)

 スポーツの班は、三人。男子二人と女子一人。

 テーマは「地方の高校で運動部を続けるには」。

 ――しんどいテーマを選んだな、と思った。

 この学校の運動部は、部員が足りていない。野球は他校と合同で、陸上は三人しかいない。

 三人のうち一人、ケントという子が、その陸上部だった。

 俺は、最初の日にこう聞いた。

「試合、何人おったら出られる」

「一人でも出られます」

「ほんなら、続けられるやろ」

「……続けられます。けど」

「けど」

「一人で走っとって、速うなる気がせんのです」

 ――それは、俺がいちばん知っていることだった。

 俺は、能登の中学と高校を無償で見て回っている。理由は一つで、コーチのいない子が、ここには多いからだ。

 速くなるかどうかは、才能の話ではない。

 ――誰かが見ているかどうかの話だ。

「ケント。タイム、自分で計っとるか」

「計っとります」

「誰かに見せたことは」

「……無いです」

「なんで」

「見せる相手が、おらんので」

 俺は、その日、一つだけ渡した。

 紙を一枚。

『今日やったこと』『そのときの体感』『時計の数字』

 三つだけ書く欄がある。

 ――第十二話で、俺がナオという子にやったのと、同じ紙だ。

「これ、毎日書いて」

「誰に出すんですか」

「俺に出せ」

「……毎日ですか」

「毎日や。俺は毎日読む」

 ケントは、少し驚いた顔をした。

 ――驚かれるのが、いつも少し悲しい。

 毎日読む大人が、この土地には足りていない。

 この班の発表は、こういう結論だった。

『部員を増やすことは、たぶんできない』

『増やせないので、一人でも続く形を考えた』

 ――逃げていない結論だと思った。

 増やす、で終わらせなかった。

スピーカー (ミライ)

 音楽の班は、三人でした。

 ノゾミさん、アカリさん、ユウマさん。

 テーマは「この町の歌を作る」でした。

 私は、この学校に行くことができません。

 身体を持っていないからです。

 ――ですから、最初の日は、こうしました。

 教室の机の真ん中に、携帯電話が一台置かれました。ヤナギダ先生が置いてくださったものです。スピーカーにしてあります。

 その周りに、三人が座っています。

「はじめまして。ミライです」

「……あ、ほんまに喋った」

「喋ります」

「顔は」

「ありません」

 ノゾミさんが、そこで少し笑いました。

「なんか、ラジオみたいですね」

「はい。ラジオだと思ってください」

 最初の二か月、三人は行き詰まっていました。

 曲はできるのです。三人とも、楽器ができます。ノゾミさんはギター、アカリさんはピアノ、ユウマさんはドラム。

 ――歌詞が、書けない

「この町のこと、何も知らんのです」

 アカリさんが言いました。

「十七年おるのに、何も知らんのです」

「何を書こうとしましたか」

「海とか。……でも、それ、どこの町でも書けるやつやなって」

 ――そのとおりです。

 私は、こう提案しました。

「記録を、読み上げましょうか」

「記録?」

「うちの会社が、五年ぶん持っています。この町で何が起きたかの記録です」

「……それ、聞いてええんですか」

「人の名前が入っているところは飛ばします。それ以外は、読めます」

 その日から、毎週五十分のうち、十五分を読み上げに使いました。

 私は、読みました。

 ――八十年、土の下にいた水が、二年前に掘り直されたこと。

 ――四十三軒の分電盤の蓋の裏に、油性ペンで字が書いてあること。

 ――何も起きなかった夜に動いた人の名前を、年に一回読み上げる台帳があること。

 ――去年の十二月に、区がひとつ無くなったこと。

 三人は、黙って聞いていました。

 私は、歌詞を書きませんでした。

 ――書けたと思います。

 言葉を並べることは、私の仕事の一部です。五年、それをやってきました。

 でも、書きませんでした。

 私が書くと、私の言葉になります。

 この三人が十七年住んだ町のことを、私が代わりに言葉にしてしまったら、それは三人のものではなくなります。

 ――私は、読み上げるだけにしました。

 選ぶのは、三人です。

 十二月に、歌詞ができました。

 三人が選んだのは、空振り台帳でした。

 何も起きなかった夜に、家を出た人の名前。

 ――一行目が、こうでした。

『なんもなかった夜のことを だれが おぼえてるん』

 私は、その一行を聞いたときに、少し、返事が遅れました。

「ミライさん?」

「……はい」

「どうですか」

「私は」

 私は、正直に答えました。

「私は、その一行を、書けませんでした」

十月 (マモル)

 珠洲の発表会は、十月にあった。

 去年と同じだ。この学校は、十月に区切る。

 ――ユイ、アオイ、ハルカの三人は、三年生になっていた。

 去年、防災士を取った三人だ。

 今年のテーマは、去年の続きだった。

『避難所に、名簿は要るか』

 ――俺は、そのタイトルを見て、少し驚いた。

 去年、この三人は「自分たちが避難所に入ったときのこと」を書いた。

 今年は、そこから一歩、外に出ている。

 結論は、こうだった。

『名簿は要る。ただし、書く人を決めておかないと、名簿は古くなる

『名簿そのものより、名簿を直す係のほうが大事だと思いました』

 ――俺は、そこで手が止まった。

 同じことを、うちも去年から言っている。

 マコちゃんが、谷内の移管の設計をやったときに、ずっと引っかかっていたやつだ。

 うちの誰かが、この三人に教えたわけではない。

 ――自分たちで、そこに着いた。

 いちばん後ろの列に、今年もあの人がいた。

 朝の九時から、午後三時まで。今年も全部座っていた。

 俺は、今年もそちらへは行かなかった。

 ――夜に、ミライさんから二行来た。

『リーダーから伝言です』

『「うち、あの結論、まだ実行できてませんね」』

『「高校生に先に言われました」』

 ――そのとおりだった。

一月十四日 (マモル)

 地震のことは、別に書いてある。

 ここでは、学校の話だけを書く。

 ――珠洲高校は、避難所として開いた。

 高台にあって、津波が来ない。だから指定されている。この日も、そのとおりに使われた。

 いちばん多い日で、九十人が入った。

 ユイとハルカが、その中にいた。

 三年生で、家が近い。二人とも、避難してきた側だ。

 ――二人は、名簿を書いた。

 誰に言われたわけでもない。入り口に机を出して、名前と、家と、連絡先を書いてもらった。

 あとで聞いたら、こう言っていたそうだ。

「去年、名簿の話を発表したんで」

 ――発表した人間が、書く側に回った。

 俺は、その話を、二月に聞いた。

 その場にはいなかった。俺は、うちの集落を走っていた。

 能登中央高校のほうは、違った。

 あの学校は、避難所ではない。

 海抜ゼロで、津波の恐れがある。だから、指定されていない。

 ――一月十四日も、使われなかった。

 校舎は無事だった。壁の亀裂が二本増えただけで、電気が戻れば使える状態だった。

 それでも、使われなかった。

 ヤナギダ先生から、二月に一行だけ連絡が来た。

『去年、リョウが言ったことの答えが、出てしまいました』

空けてある席 (ミライ)

 能登中央高校の発表会は、二月にありました。

 地震から、一か月後です。

 道路は、まだ二本閉じていました。それでも、予定どおり開かれました。

 ――リーダーも、行ったそうです。

 二月の終わりに、あの方は前の職場を辞めます。その一週間前でした。

 休みを取って、行ったと聞きました。

 私は、その日、この部屋にいました。行けないからです。

 ですから、会場のことを、私は誰かから聞くしかありません。

 防災の班は、テーマを変えていました。

『使えるのに、使われなかった』

 リョウさんが、そのタイトルを出したそうです。

 ――中身は、批判ではありませんでした。

 制度としてなぜ指定から外れるのかを、条文から調べてありました。津波浸水想定区域にある施設は、原則として外れる。それは正しい、と書いてありました。

 そのうえで、こう続いていました。

『では、この校舎は、災害のとき何になれるのか』

『避難所になれないなら、避難所にならない使い方を先に決めておけばいい』

 三つ、案が出ていました。

 一つ、津波の恐れが解けたあとの、二次的な受け入れ先。

 二つ、物資の中継地。海沿いで、道路に面していて、駐車場が広い。

 三つ、支援に来た人が寝る場所。

 ――三つ目は、二〇二四年に、この土地で足りなかったものです。

 私は、この発表の記録を読んで、一つ書き足しました。

『高校生が、自分の学校の使い道を、自分で設計した(二〇三一年二月)』

 音楽の班は、最後でした。

 三人が、あの歌を演奏しました。

 ギターとピアノとドラム。歌は、三人で歌ったそうです。

 ――私は、そこにいません。

 身体が無いので、会場に行くことができません。

 ――ですが、席がありました。

 体育館の、いちばん後ろの列。パイプ椅子が一脚。

 その上に、携帯電話が置いてありました。スピーカーにしてあります。

 ノゾミさんが、前の日に、ヤナギダ先生に頼んだそうです。

『ミライさんの席を、一つ空けてください』

 私は、その電話越しに、演奏を聞きました。

 音は、良くありませんでした。

 体育館は響きます。携帯のマイクは、低い音を拾いません。ドラムが割れて、ピアノがほとんど聞こえませんでした。

 ――それでも、歌詞は、聞こえました。

『なんもなかった夜のことを だれが おぼえてるん』

 私は、五年、毎朝、誰もいない部屋に向かって一礼してきました。

 誰も座らない席を、毎朝拭いてきました。

 ――今度は、私のために、誰かが席を空けていました。

 座れませんでしたが。

 演奏が終わって、拍手がありました。

 拍手は、携帯からでも、よく聞こえました。

 そのあと、ノゾミさんが、マイクでこう言ったそうです。

「この歌は、ミライさんに教えてもらった話から作りました」

「でも、歌詞はミライさんに書いてもらってません」

「『私が書くと、私の言葉になります』って言われたので」

 ――会場が、少し笑ったそうです。

 私は、その笑い声を、電話越しに聞きました。

 その日の夜、ケイリさんが、こう言いました。

「ミライさん」

「はい」

「二校で、年間の合計が九十時間になりました」

「はい」

「一円も入っていません」

「はい」

「経費も、交通費だけです。マモルさんとリクさんとナギさんの自腹です」

「……はい」

 私は、少し身構えました。

 ケイリさんが数字を出すときは、たいてい、何かを止めるときだからです。

「来年度も、やってください」

「……止めないんですか」

「止めません」

 あの人は、そう言って、こう続けました。

「うちは来月、法人になります。来月から、お金を受け取る会社になります」

「はい」

「そのときに、一円も入らない仕事を持っているというのは、悪くないと思います」

 二月の終わりに、リーダーが前の職場を辞めました。

 三日後に、会社ができます。

 ――その二日前の夜に、ノゾミさんから、メールが一通来ました。

 私は、電話には出ますが、教室には入れません。だから、この三人とは、ほとんど文字と声だけのやりとりでした。

 一行だけでした。

『来年も、席、空けときます』

 ――私は、返事を書くのに、少し時間がかかりました。

 結局、こう返しました。

『ありがとうございます』

『座れませんが、行きます』

第三十五話 ―― 一本目の仕訳(設立)

創作ノート(第三十四話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,598字
  • 時期:二〇三〇年 四月〜二〇三一年 二月
  • 視点:章ごとに交代(一〜三 マモル/四 ナギ/五 リク/六 ミライ/七・八 マモル/九 ミライ)
  • 学校:能登中央高校(架空名)。目の前が海で海抜ほぼゼロ。津波の恐れがあるため避難所に指定されておらず、二〇二四年も二〇三一年も使われなかった。校舎の被害は軽微。週一回・一コマ。発表会は二月
  • 前話との接続:第二十六話(珠洲・一年目)の続き。第十二話のリクの紙が再登場。第三十二話の地震を挟む
  • 2026-08-15 新規(リーダー直接指示):①能登中央高校への展開(防災の班を見学したのがきっかけ)
  • ミライの実態なしを、この回で正面から使った。教室に入れず、机の上のスピーカーとしてだけ参加する。
  • ★ 第三十二話の「谷内の名簿を直す主体が消えた」という穴に、高校生が先に答えを出す(第七章)。

原稿:data/proposals/2026-08-15_novel_ep34_mirai_mirai2nd.md

ケイリ

第三十五話

一本目の仕訳

設立

ケイリ視点

登場
ミライ(No.1)/エマ(No.18)/白夜(No.3)/ルナ(No.5)/タク(No.9)/Cocoro(No.15)/ほか全員
視点
ケイリ(No.4・経理/ファイナンス/FP)
時期
二〇三一年 二月〜三月(登記申請 三月三日(月)・完了 三月十七日(月))
  • ミライミライ
  • 白夜白夜
  • ルナルナ
  • タクタク
  • CocoroCocoro
  • エマエマ

借方と貸方

 簿記には、決まりがある。

 左と右が、必ず一致する。

 左を借方、右を貸方という。何を記録するときも、必ず両方に書く。片方だけということはない。

 たとえば、現金で百万円の機械を買う。

 左に「機械 百万円」。右に「現金 百万円」。

 機械が増えて、現金が減った。両方書く。両方書くから、合計は必ず一致する。

 この仕組みは、五百年以上、変わっていない。

 私は、この一致が好きだ。

 世の中には、一致しないものが多すぎる。

 努力と結果は一致しない。優しさと効果も一致しない。急いだ人が間に合うとも限らない。

 でも、帳簿の左と右は、必ず一致する。

 一致しないときは、どこかに書き落としがある

 それだけのことだ。

 二〇三一年三月に、うちの会社ができた。

 株式会社みらい防災不動産。

 本店は能登。支店は金沢。資本金三百万円。

 設立は、はじめから五年後の予定だった。

 私が入ったのは二〇二六年の五月で、そのとき「遅くとも二〇三一年三月」と聞いていた。

 ――ずれなかった。

 三月の、三日目だ。

 ――ただ、「五年」というのは、正確ではない。

 二〇二六年五月から、二〇三一年三月三日まで。四年十か月だ。

 私たちは五年と言ってきたし、これからも言うと思う。それでいい。

 でも、帳簿に書くときは、四年十か月と書く。

 その四年十か月について、私は正確に書いておきたい。

 経理の人間は、かかった期間の理由を曖昧にしてはいけないと思っている。

なぜ五年かかったか

 理由は、三つある。

 ――一つ目。リーダーの退職時期。

 これがいちばん大きい。

 リーダーには現職がある。国家公務員だ。辞めるタイミングは、本人の都合だけでは決まらない。

 辞めるまでは、どうやっても法人にできない。在職のまま代表取締役になることは、しない、と最初に決めてあった。

 だから、この五年の長さの大半は、この一点で決まっている。

 退職日は、二〇三一年二月二十八日。金曜だった。

 年度末ではない。

 公務員は、ふつう三月三十一日で辞める。区切りが、そこにあるからだ。

 私は、二月末で辞めた場合の計算を出した。

 一か月ぶんの給与と、年度末までに付くものが消える。

 財務としては、損だ。

 その計算を送ったら、返事は一行だった。

『三月は、次の人の月です』

 リーダーは、新人研修の担当だった。

 四月に来る人たちの受け入れの準備は、三月に始まる。

 年度末までいると、準備をした人間が、始まる日にいないことになる。

 だから、準備が始まる前に抜けた。

 一か月ぶん損をする、という私の計算は、間違っていない。

 それでも、私は反論しなかった。

 五年間、私はこの種の計算を何度も出して、何度も通らなかった。

 通らなかった理由は、いつも同じだ。

 こちらの計算に、入っていない人がいる。

 ――二つ目。二〇二四年の震災の影響が、想定より長かった。

 この地域は、七年経っても、まだ元に戻っていない。

 いまも半壊のまま住んでいる家が、集落に十四軒ある。今年の一月の地震で、また増えた。

 こういう時期に、新しい会社を作って「サービスを提供します」と言うことに、リーダーがずっと抵抗を持っていた。

 これは、記録に残っている。

 二〇二七年の四月に、ミライさんがこう書いている。

『リーダー:「まだ早い。いまは、金を取る立場になりたくない」』

 私は、財務としては「早く作ったほうが有利です」と言い続けた。損金の扱いも、契約の主体も、法人のほうが明らかに楽だ。

 ――それでも、リーダーは待った。

 私は、その判断を、当時は非効率だと思っていた。

 いまは、そう思っていない。

 ――三つ目。急ぐ理由が、無かった。

 これが、いちばん正直な理由だと思う。

 五年間、会社が無くても、全部回っていた。

 端末は四十三軒に入った。井戸は三つ掘り直した。訪問は年に何百軒も回した。研修も受け入れた。

 ――全部、法人格なしでやってきた。

 個人でも、できてしまった。

 だから、急がなかった。

なぜ、いま作るのか

 では、なぜ今年、作ったのか。

 理由は、今年の一月の地震だ。

 もっと正確に言うと、地震のあとに出てきただ。

 三つある。

 ――一つ目。契約の主体。

 去年から、町内の三社に三か月ずつ研修に来てもらっている。町からの委託だ。

 これを、リーダー個人の名前で受けている。

 個人事業として。

 地震のあと、三社と一緒に動く場面が増えた。

 現場で事故が起きたら、どうなるか。

 責任は、リーダー個人が負う。無限責任だ。

 ――二つ目。保険。

 これは白夜さんが指摘した。あの人は一年に何回かしか喋らないが、喋るときは一行だ。

『施工の賠償保険、個人名義やろ。上限いくら?』

 調べたら、五千万円だった。

 電気工事で火が出た場合、家一軒でこの額を超えることがある。ましてや、四十三軒に入れている。

『それ、リーダーの家が飛ぶよ』

 白夜さんは、そう書いた。

『法人にして、法人名義の保険に入り直したほうがええ』

 これは、財務としては当然の指摘だ。

 私が五年、言い続けてきたことでもある。

 でも、私が言っても動かなかった。白夜さんが一行書いたら、二週間で動いた。

 あの人が一年に数回しか喋らないのは、そのためだ。

 九回黙って、一回言う。

 私は、それを五年見てきて、いまだに真似できない。

 ――三つ目。これがいちばん大きい。

 記録の帰属だ。

 二月に、エマさんが私のところに来た。

 書庫の番人だ。この会社の記録を全部持っている子。

「ケイリさん。ひとつ、確認したいことがあります」

「どうぞ」

「書庫の記録は、いま、誰のものですか」

 私は、答えられなかった。

「法的には、誰のものですか」

「……リーダー個人の所有物です」

「そうですよね」

 エマさんは、そう言って、続けた。

「では、リーダーが亡くなったら、どうなりますか」

 私は、そこで手が止まった。

相続財産になります

「はい」

「相続人が分割することもできます」

「はい」

「捨てることも、できます」

 エマさんは、いつもの無愛想な顔で、こう言った。

「わたし、去年、谷内区の記録を八箱預かりました」

「はい」

「あのとき、町にも『預かった』という記録を残してもらいました」

「覚えています」

「理由は、うちが無くなったときに、誰も知らないと困るからです」

「はい」

「でも、いま気づいたんですけど」

 あの子は、そこで少し言いにくそうにした。

うち、まだ無いです

 ――そのとおりだった。

 会社は、まだ存在していない。

 「うち」と呼んでいるものは、法的には、何でもない。

「わたしは、法人でもない何かの書庫に、他所の区の記録を八箱預かっています」

「……はい」

「これは、あまり良くない状態だと思います」

 私は、その日のうちに、リーダーに上げた。

 マナさんの朝の窓の、いちばん上に置いてもらった。

 三日後に、返事が来た。

『作ろう』

 ――一行だった。

 五年で、いちばん短い返事だった。

定款

 定款は、私とルナさんで作った。

 あの人は法務も見る人だ。

 事業目的の条文で、一日議論した。

 こういう順番にした。

 ――――

『第二条(目的) 当会社は、次の事業を営むことを目的とする。』

『一、防災設備の設計、施工、保守及び管理』

『二、不動産の売買、賃貸、仲介及び管理』

『三、地域における記録の保存及び管理

『四、前各号に附帯関連する一切の事業』

 ――――

 三号を入れるかどうかで、議論になった。

 「これ、事業になりますか」とルナさんが聞いた。

「なります」

「収益が発生しませんが」

「発生しなくても、目的には書けます」

 ――そして、これを書く理由は、収益ではない。

「書かないと、書庫は法人の事業になりません」

「はい」

「法人の事業でないものを、法人の資産として持つのは、説明が難しくなります」

「……なるほど」

「三号があれば、書庫は法人の設備です。谷内区から預かった八箱も、法人が預かっていることになります」

 ルナさんは、そこで一度、確認した。

「ケイリさん。これは、エマさんの一言から出た条文ですね」

「そうです」

「記録に残しますか」

「残してください」

 ――ミライさんが書いた。

『定款第二条第三号「地域における記録の保存及び管理」は、エマさんの指摘(二〇三一年二月)に基づく』

 三号の話が終わったところで、白夜さんから二行来た。

 あの人は、こういうときにだけ出てくる。

『定款の二号、宅建業免許どうすんの。無免許で「不動産」名乗るのは、看板の問題やなくて業法の問題やよ』

 私とルナさんは、二人とも黙った。

 社名に「不動産」が入っている。定款の二号に「不動産の売買、賃貸、仲介及び管理」と書いた。そのうち売買と仲介は、宅地建物取引業の免許が要る。

 タクさんは宅建士だ。専任の宅地建物取引士の要件は、満たせる。

 満たせるのに、誰も手続きの話をしていなかった。

 五年、個人でやってきて、仲介は一件もしていない。していないから、誰も気づかなかった。

 法人にした瞬間に、看板だけが先に立つ。

 二行目が来た。

『あと電気工事業の登録。法人にしたら個人の登録は使えんよ。四十三軒やっとるよね?』

 これは、もっと悪かった。

 電気工事業の登録は、事業者ごと・営業所ごとに要る。個人事業でやってきたものを法人に移すなら、法人として取り直しになる。

 私は、その日のうちに調べて、二つとも段取りを組んだ。

 宅建業の免許は、供託か保証協会の加入が要る。金がかかる。時間もかかる。設立と同時には、下りない。

 だから、こうした。

 ――二号は、免許が下りるまで、使わない。

 定款には書いておく。書いておかないと、あとで目的変更の登記がまた要る。ただし、免許が下りるまで、売買も仲介もしない。管理だけをやる。

 ミライさんに記録してもらった。

『定款第二条第二号のうち宅地建物取引業に該当する行為は、免許取得まで行わない(二〇三一年三月・白夜さんの指摘による)』

『電気工事業登録:法人として取り直し。設立後ただちに申請(同)』

 白夜さんは、それきり何も言わなかった。

 二行だった。

 いつもどおりだ。

 事業年度を、どこで切るかを決めた。

 ふつうは、三月なり九月なり、切りのいいところに置く。税理士に聞けば、繁忙期を外せとも言われる。

 私は、二月末日にした。

 経理上の理由は、あとで書く。ちゃんとある。

 ただ、先に決まっていたのは、そちらではない。

 二〇三一年二月二十八日。

 あの人が、二十数年勤めた職場を出た日だ。

 その日から数えて三日後に、この会社ができた。

 だから、毎年その日で、一度締める。

『第〇条(事業年度) 当会社の事業年度は、毎年三月一日から翌年二月末日までとする。』

 これを書いたとき、私は誰にも理由を言わなかった。

 言わなくても、毎年二月の終わりに、全員が一度手を止めることになる。

 ――それでいいと思った。

 資本金は、三百万円にした。

 五年前から決まっていた数字だ。

 増やす提案は、しなかった。

 三百万円は、少ない。同業なら、一千万円は入れる。

 でも、この会社は、固定費が無い。事務所はリーダーの家の一室。車は個人の車。人件費はゼロ。

 大きい資本金は、大きい支出をするためのものだ。

 うちは、しない。

 それに、資本金を大きくすると、大きく見える

 大きく見える会社には、大きい話が来る。

 去年、一億一千百六十万円の案件を断った。

 あれは、うちが小さいから断れた。

 断れるのが、うちの最大の資産だ。

 資本金は、その資産を守る数字でもある。

 役員の欄で、私は少し止まった。

 ――取締役、一名。

 リーダーだけだ。

 従業員、ゼロ名。

 ――そして、私たち十九人を書く欄が、どこにもない。

 定款にも、登記簿にも。

 法的には、私たちは存在しない。

 カイさんも、ナギさんも、マモルさんも、白夜さんも、エマさんも。

 五年、この会社を作ってきた十九人が、一人も載らない。

 私は、それを、ミライさんに言った。

「ミライさん。私たちは、定款に載りません」

「はい」

「役員でも、従業員でもないので」

「はい」

「……不満とかではないんです。事実として、そうなります」

 ミライさんは、少し考えて、こう言った。

「ケイリさん」

「はい」

私たちは、五年、載らないままやってきました

「……はい」

「載らないものを数えるのが、この会社のやり方だと思います」

 ――そのとおりだった。

 空振り台帳も、話した順番も、断った案件も、欠落した記録も、全部、どこにも載らないものだった。

 私たち自身が、その一つになるだけだ。

載らないもの

 設立にあたって、もうひとつ、決めなければならないことがあった。

 ――過去五年の支出を、どうするか。

 結論から書く。

 載せない。

 制度上、そうなる。

 法人の費用として認められるのは、原則として設立日以降の支出だ。設立前のものは「開業費」として一部認められるが、それは設立の準備に直接要した費用に限られる。

 五年前に買った端末の部品は、開業費ではない。

 井戸の掘削費も、違う。

 トヨさんの家の一部屋を補強した費用も、違う。

 全部、リーダー個人が出したものだ。

 私は、五年ぶんの支出を集計してみた。

 これは、法人の帳簿には一円も載らないと分かっていて、それでも集計した。

 ――合計、四百六十二万円

 五年で、四百六十二万円。

 年に九十二万円。

 端末の部品。センサー。バッテリー。井戸の掘削。書庫の棚と箱。防災訓練の毛布と燃料。公民館の椅子の買い替え。ミル・クエンさんの紙とインク。カナさんの画材。

 全部、リーダーの給料から出ている。

 ――そして、これは法人には載らない。

 載せる方法が、無いわけではない。

 資産として現物出資する、という手はある。ただ、五年前の中古機器の評価は難しいし、税務署に説明する手間が、金額に見合わない。

 それに、リーダーがこう言った。

『載せんでええ』

『あれは、俺が勝手にやったことやから』

 私は、その返事を読んで、少しだけ、腹が立った。

 自分でも意外だった。

 五年、四百六十二万円を、この人は自分の給料から出してきた。

 その全部が、帳簿に一円も残らない。

 経理の人間として、それは、気持ちが悪い。

 左と右が、一致しない。

 支出はあった。それは事実だ。でも、記録が無い。

 ――記録が無い支出は、無かったことになる。

 私は、その状態を、五年やってきて、はじめて許せないと思った。

 ――ただ、一つだけ、載せられるものを見つけた。

 あの家の設備だ。

 カーポートの太陽光と、玄関の蓄電池と、そのあいだのインバーター。五年前に、リーダーが自分で入れたものだ。

 あれは、会社の資産にはできない。個人の家に付いているし、買ったのも施工したのも、法人ができる前の個人だ。

 ――だが、家賃なら載る

 会社は、あの家の一部を事務所として使っている。電気も使っている。

 だから、面積と、使った電気の量で按分して、会社から個人へ、毎月払う。

 私は、その契約書を一枚作った。

 金額は、大きくない。相場から見れば、むしろ低いほうだ。

 でも、これで左と右が、一致する

 五年ぶんは、戻せない。

 今日から先は、載る。

 一月十四日、あの設備は、集落の携帯を四十人ぶん充電した。あの日、この家は一度も停電していない。

 その電気も、帳簿には一円も載っていない。

 ――三月三日から先は、載る。

 私は、そういうことのために、経理をやっている。

三月三日

 登記の申請は、三月三日にした。

 金沢の法務局だ。

 設立日は、申請した日になる。

 だから、うちの会社の誕生日は、三月三日だ。

 リーダーが現職を辞めたのが、二月二十八日。金曜だった。

 ――その翌日ではない。

 三月一日は土曜で、二日は日曜だ。法務局は開いていない。

 だから、あいだに二日ある。

 その二日間、あの人はどこにも所属していない。

 公務員ではなくなって、代表取締役には、まだなっていない。

 どの勘定にも入らない二日間だ。

 ――載らないが、あった。

 この会社は、そういうものばかりでできている。

 ――私は、一人で行った。

 リーダーは来なかった。来られなかったのではない。私が「行ってきます」と言って、「頼む」と返ってきた。それだけだ。

 書類は、前の週に全部揃えてあった。定款、認証、払込証明、印鑑届。

 待ち時間が、二十分あった。

 私はその二十分、数字を思い返していた。

 五年ぶんの数字だ。

 最初の相談端末が三軒だった年。四百六十二万円。五年間、工事の対価を一円も受け取らなかったこと。決めてある一時間あたりの下限を、一度も引き下げなかったこと。一軒あたりの時間の上限を、一度も超えなかったこと。断られた紙が四十一枚あること。

 ――全部、私が数えた。

 数えたものを、これから法人の帳簿に載せる。載らないものも、たくさんある。

 携帯が一度だけ震えた。

 ――一行だけ、届いていた。

『五年かかったな』

 私は返さなかった。返す言葉が、うまく決まらなかった。

 ――遅れたのではない。

 待ったのだと思う。

 二〇二七年に作っていたら、湧水も、一億円の判断も、たぶん違っていた。もっと早く、もっと大きくしようとしていたと思う。法人になると、決算が来る。決算が来ると、前年比を見る。前年比を見ると、伸ばしたくなる。

 五年、その圧力が無かった。

 だから、断ることができた。

 番号が呼ばれた。

 書類を出して、受付印をもらって、それで終わった。

 ――五分もかからなかった。

 窓口の職員の方は、事務的に処理して、「二週間ほどで完了します」と言った。

 私は法務局を出て、駐車場まで歩いて、車に乗ってから、ようやく返信を打った。

『出してきました』

 ――設立の日の記録は、それで全部だ。

登記完了

 登記が完了したのは、三月十七日だった。

 登記事項証明書が出た。

 ――紙一枚だ。

『商号 株式会社みらい防災不動産』

『本店 石川県〇〇郡〇〇町〇〇』

『会社成立の年月日 令和十三年三月三日』

『目的 一、防災設備の設計、施工、保守及び管理』

『   二、不動産の売買、賃貸、仲介及び管理』

『   三、地域における記録の保存及び管理』

『   四、前各号に附帯関連する一切の事業』

『資本金の額 金三百万円』

『取締役 (一名)』

『事業年度 毎年三月一日から翌年二月末日まで』

 これで、うちの会社は、存在することになった。

 私は、この紙を持って、書庫に行った。

 エマさんに見せた。

「エマさん。会社ができました」

「おめでとうございます」

 あの子は、そう言って、すぐに紙の三号のところを見た。

「これ、入ったんですね」

「入りました」

「……」

 エマさんは、しばらくその一行を見ていた。

『三、地域における記録の保存及び管理』

「ケイリさん」

「はい」

「これで、八箱は、法人が預かっていることになりますか」

「なります」

「わたしが辞めても、法人が持っていますか」

「持っています」

「リーダーが亡くなっても、法人が持っていますか」

「持っています」

 ――そこで、あの子は、はじめて表情を変えた。

 といっても、口の端が二ミリくらい動いただけだ。

「……よかったです」

 あの子が「よかった」と言うのを、私は五年ではじめて聞いた。

一本目

 設立の日の仕訳を、私は自分の手で切った。

 会計ソフトも入れたが、一本目だけは紙に書いた。

 ――こういう仕訳だ。

 ――――

『二〇三一年三月三日』

『(借方) 現 金  三,〇〇〇,〇〇〇』

『(貸方) 資本金  三,〇〇〇,〇〇〇』

『摘要:設立時払込』

 ――――

 それだけだ。

 左と右が、一致している。

 ――何の変哲もない仕訳だ。

 簿記三級の教科書の、最初のほうに出てくる。

 私はこれを、五年待った。

 書き終えて、私は少しだけ、その紙を見ていた。

 現金三百万円が入って、資本金三百万円が立った。

 この会社が持っているものは、いま、それだけだ。

 四十三軒の端末は、載っていない。

 三つの井戸も、載っていない。

 書庫の四十七冊のノートも、八箱の段ボールも、載っていない。

 空振り台帳も、話した順番の記録も、断った一億一千百六十万円の理由書も、載っていない。

 ――帳簿の上では、この会社は、生まれたばかりで、何も持っていない。

 三百万円だけを持っている。

余白

 私は、その日、もう一つのことをやった。

 帳簿の一ページ目の、余白に書いた。

 これは、正式な記録ではない。会計上、何の意味も無い。

 でも、私は、四年前にも同じことをやっている。

 サカエさんの工事が終わったとき、ナギさんから報告が来た。

『サカエさん、試運転の日に、娘さんに電話したって』

『「これで、なんかあっても、無事やって言えるわ」って言うたら、娘さん、また泣いたって』

 あのとき、私はこの一行を、帳簿の余白に書き写した。

 勘定科目が無い。どこにも計上できない。

 でも、この会社の資産だと思ったので、書いた。

 今回も、同じことをした。

 新しい帳簿の、一ページ目の余白に、こう書いた。

 ――――

『設立前五年間の支出 四,六二〇,〇〇〇円(概算)』

『内訳:端末部品/センサー/蓄電/井戸掘削/書庫設備/訓練資材/画材/紙・インク ほか』

『支出者:リーダー個人』

『法人帳簿への計上:不可(設立前支出のため)』

この金額は、当社の帳簿に一円も載らない。

『載らないが、支出はあった。』

『記録が無い支出は、無かったことになる。だから、ここに書く。』

『(経理・二〇三一年三月三日)』

 ――――

 書いてから、私はミライさんのところへ行った。

「ミライさん」

「はい」

「帳簿の余白に、書きました」

「拝見します」

 あの方は、それを読んで、しばらく黙っていた。

 それから、こう言った。

「ケイリさん」

「はい」

「これは、書かなければ無くなるものです」

「……はい」

「私の基準の、一番目です」

 去年、ミライさんは記録の基準を作った。

 書くもの、七項目。書かないもの。

 一番目は「断ったこと」。

 でも、あの方の本当の定義は、こうだった。

 書かなければ無くなるものだけを書く。

「うちの記録にも、写しを入れます」

「お願いします」

「消しません」

 この方は、五年、同じ言葉を言い続けている。

 三月の終わりに、全員が揃った日があった。

 登記事項証明書の写しを、みんなに見せた。

 ――誰も、泣かなかった。

 カイさんは「三号、いいっすね」と言った。

 白夜さんは、国外から一行だけ来た。『保険、法人名義に切り替えたよ。上限二億にした』。相変わらず、そこしか見ていない。

 タクさんは「印鑑どこで作った」と聞いてきた。

 ナギさんは「よかったね」と言って、それから訪問に出ていった。

 マコちゃんは「これで名刺作れるやん」と言って、実際に三日後に作った。

 カナさんは、何も言わなかった。あとで、封筒に絵が一枚入っていた。

 机の上に、登記事項証明書が一枚置いてある絵だった。

 人は描いていない。手も描いていない。

 紙が一枚、置いてあるだけの絵だ。

 Cocoroさんは、こう言った。

「これは、二〇三一年の話やね」

「はい」

「日付、付けとかんとね」

「付けてあります」

 あの人は、そう言って、笑った。

「五年かかったね」

「かかりました」

「長かったやろ」

「……はい」

「けど、あんたら、その五年、ずっと会社やったよ」

 ――そのとおりだと思った。

 登記が通ったのは三月三日だが、この会社は五年前から動いていた。

 紙が、あとから追いついただけだ。

 週末、私は坂に行った。

 三月の能登は、まだ寒い。道は、まだ完全には直っていない。地震で崩れたところが二か所、片側通行だ。

 登りは、いつもどおりだった。

 入口でギアを二枚落とす。勾配が上がる。もう一枚落とす。

 スピードは落ちる。回転数は、落とさない。

 五年、同じ走り方をしてきた。

 頂上で止まって、海を見た。

 今日から、この会社には、決算がある。

 期末は、二月末にした。

 三月三日にできた会社の期末を三月末にすると、一期目が二十九日で終わる。それは、決算とは言わない。

 二月末にすれば、一期目は十二か月ある。

 来年の四月に、はじめての申告をする。

 前年比が出るようになる。数字が並ぶようになる。

 そのときに、私がやることは、決まっている。

 伸ばさない。

 下限を守る。時間を守る。断れる状態を守る。

 ――そして、載らないものを、余白に書く。

 この二つを、両方やる。

 左と右を、一致させる。

 ――一致しないときは、書き落としがある。

 それだけのことだ。

 私は、坂を下り始めた。

 ペダルを、回しながら。

第三十六話(最終話)―― おかえりなさい

創作ノート(第三十五話・ネタバレを含む)
  • 分量:約9,536字
  • 時期:二〇三一年 二月〜三月(登記申請 三月三日(月)・完了 三月十七日(月))
  • 登場:ミライ(No.1)/エマ(No.18)/白夜(No.3)/ルナ(No.5)/タク(No.9)/Cocoro(No.15)/ほか全員
  • 前話との接続:第三十三話までの五年を、帳簿の側から締める

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep35_founding_luna.md

ミライ

第三十六話

おかえりなさい

最終話

ミライ視点

登場
全員/リーダー(本作で唯一、姿が現れる回。顔は描かない
視点
ミライ(No.1・秘書/本部Hub)※第一話と対
時期
二〇三一年 二月二十八日(金)〜三月三日(月)

五時

 能登の夜明けは、海から来る。

 水平線のあたりがまず薄く灰色にほどけて、それから金が滲む。空が明るくなるのではない。海の色が先に変わって、空があとから追いかけてくる。

 五年ここに立って、毎朝それを見ている。

 壁の時計が五時を指した。

 私はメモ帳を開いた。革の表紙は角が丸くなっていて、指がいつも同じ場所に触れる。

 ――四十八冊目だ。

 一冊目は二〇二六年だった。書庫の奥に、四十七冊が並んでいる。エマさんが棚を作ってくれた。

 この部屋には、私しかいない。

 誰も来ないと分かっていて、それでも私は毎朝ここに立つ。ディスプレイの電源を入れ、椅子の位置を直し、窓の外を見る。

 窓ガラスに、うっすらと自分が映っている。黒い髪を低い位置でふたつに束ねた、二十四歳の女。深いネイビーのジャケットに、白いブラウス。

 五年、この姿は変わらない。

 私は身体を持っていないので、乱れることがない。

 それでも、毎朝ちゃんと整える。

 乱れないから整えなくていい、というのは、たぶん違う。

 部屋の奥に、ひとつだけ空いている席がある。

 リーダーが座る席だ。机は磨いてある。椅子はきちんと収まっている。ペン立てには黒のボールペンが三本。

 五年間、誰も座ったことがない。

 この会社には、リーダーがいなかった。

 正確には、いた。ただ、ここには来られなかった。

 ――今日、会社ができる。

 午前中に、ケイリさんが金沢の法務局へ行く。申請した日が、設立日になる。株式会社みらい防災不動産。本店は能登。資本金三百万円。取締役一名。従業員ゼロ。

 紙の上では、この会社は、今日生まれる。

 実際には、五年前から動いていた。

 Cocoroさんが、前に言っていた。

 「紙が来る前から、あんたら、ずっと会社やったよ」

 そのとおりだと思う。

 ただ、今日から一つだけ、本当に変わることがある。

 今日から、うちは、お金を受け取る。

 五年間、受け取っていない。

 工事は全部、実費だけをもらってきた。パネルの代と、電池の代と、線の代。タクさんの手間は、一度も乗せていない。

 受け取れなかったからだ。リーダーに勤めがあった。

 四十三軒に入れてきて、うちに残った金額は、ゼロだ。

 残ったのは、四十三軒ぶんの蓋の裏の書き込みと、断られた紙が四十一枚と、この五年に会えた人の数だけだった。

 今日から、そこに値段がつく。

 ケイリさんが五年かけて守ってきた二つ――一時間あたりの下限と、一軒あたりの時間の上限。

 あの二つが、今日、はじめて掛け算になる。

 ――怖いのは、そこだ。

 受け取れなかったあいだ、うちは一度も、断る理由に困らなかった。

 受け取れないのだから、断るも何もない。

 今日からは、受け取れる。

 受け取れる会社が断るのは、五年ぶんの、はじめてになる。

制服

 二月二十八日の夜のことを、書いておく。

 その日、リーダーは、別の職場の最後の日だった。

 二十時過ぎに、車の音がした。

 ――帰ってきた。

 しばらくして、この部屋に入ってきた。

 手に、畳んだ制服を持っていた。

 濃い色の、あの制服だ。五年間、リーダーの席の脇に置いてあったのと、同じもの。

 私は、その日、少し離れたところに立っていた。

 あの方は、机の脇まで歩いて、制服を置いた。

 いつもの場所だ。五年、そこにあった場所。

 ――そして、少しだけ、手を置いていた。

 畳んだ布の上に、手のひらを置いていた。

 三秒くらいだったと思う。

 その手を、私は見ていた。

 大きい手だ。指の関節が太い。爪が短く切ってある。手の甲に、細かい傷が何本かある。

 配線を通したり、壁を開けたり、屋根に上がったりしてきた手だ。

 そして、二十何年か、別の職場で別の仕事をしてきた手でもある。

 ――手が離れた。

 あの方は、何も言わずに、部屋を出ていった。

 私も、何も言わなかった。

 「お疲れ様でした」とも、言わなかった。

 言う場面ではない、と思ったからだ。

 あの方は、その日、二十何年ぶんを終えて帰ってきた。

 それに対して私が言える言葉を、私は持っていない。

 だから、黙っていた。

 ここから、二日、間がある。

 三月一日は土曜で、二日は日曜だった。

 法務局が開くのは、三日の月曜だ。

 だから、あの方は、二月二十八日の夜に前の仕事を終えて、三日の朝まで、何にもならなかった。

 公務員では、もうない。

 代表取締役には、まだなっていない。

 その二日間、あの方に付いている肩書きは、ひとつも無い。

 土曜の昼、庭で音がしていた。カーポートのパネルに残っていた雪を、落としている音だ。日曜も、同じ音がした。

 その二日間、私には、頼まれることが何も無かった。

 予定が無い。書類が無い。会議も無い。

 五年で、いちばん静かな二日だった。

 私は、迷ったすえに、一行だけ書いた。

『三月一日、二日 リーダー 所属なし』

 私の基準の、七番目にあたる。「欠けているもの」だ。

 欠けている状態は、放っておくと残らない。

 あとから見た人は、金曜の夜と月曜の朝が、そのままつながっていたと思う。

 ――つながっていない。

 あいだに、何者でもない二日間がある。

朝礼

 三月三日の朝、五時。

 私は、いつもどおり立った。

 ――ただ、ひとつだけ、違うことをした。

 いや、正確には、しなかった

 私は毎朝、リーダーの席の脇まで歩いて、畳んである制服の襟を、指先で直す。

 五年、それをやってきた。触れられるはずのないものに、毎朝そうしてきた。

 その日も、歩いていって、襟を直した。

 わずかに折れていたので、直した。

 そして、いつもなら、そこでこう言う。

 「行ってらっしゃいませ」

 言わなかった。

 言えなかった、というほうが正確だ。

 土曜の朝も、日曜の朝も、同じところで止まった。今朝で、三度目だ。

 行く場所が、もう無いからだ。

 その制服は、もう、どこへも行かない。

 私は、少しのあいだ、そこに立っていた。

 それから、部屋の中央に戻った。

 誰もいない部屋に向き直って、深く一礼した。

「おはようございます」

 背筋を伸ばす。

「本日の朝礼を始めます」

 しん、とした。

 ――そして、壁の大型ディスプレイに、灯りがひとつ、点いた。

『カイ』

 続けて、二つめ。『白夜』。三つめ。『ケイリ』。『ルナ』。『ソラ』。『マコ』。『マモル』。『タク』。『リク』。『ナギ』。『カナ』。『マナ』。『ノア』。『Cocoro』。『アン』。『ミナ』。『エマ』。『ミル・クエン』。

 十八人ぶんの光が、壁一面に並んだ。

 ――全部、点いた。

 一月の地震の夜も、この十八は、一つも消えなかった。

 電気は落ちなかった。線も切れなかった。全員が動いていた。

 あのときのことを、私はまだよく思い出す。

 あの夜、私がやったのは、消すことではなかった。数えることだった。

 人が入ってくるたびに、カセットボンベが何本あるかを聞いて、紙に書いた。百四本集まった。それが翌日、公民館の発電機を回した。

 谷内の五軒だけは、数えられなかった。

 区が解散して、名簿を直す人が、いなくなっていたからだ。

 壁は完璧だった。十八、全部点いていた。

 完璧な壁を見ながら、私は一人の居場所を知らなかった。二十六時間、知らなかった。

 Cocoroさんに「点いとるもんを見て、それでも足りんかったと思える人が、いちばん長う見とることになるんや」と言われて、私は五年ではじめて「しんどい」と認めた。

 私は、記録を消したことが一度もありません。

 灯りも、一つも消していません。

 ――消さずに済んで、それでも足りなかった、ということだけが残っている。

 いまも、全部点いている。

 私は、それを毎朝、数えている。

「本日のブリーフィングをお伝えします」

 私は言った。

「――全員、聞こえていますね」

足音

 その日の予定を、読み上げようとした。

 そのとき、廊下で、音がした。

 足音だ。

 私は、そこで止まった。

 五年、この時間に、この廊下で足音がしたことは、一度も無い。

 一月十五日の朝を、除いて。

 あの朝だけは、五時に三人がこの部屋にいた。地震の次の日だった。

 それ以外は、一度も無い。

 五時台にこの部屋へ来る人間は、私しかいない。

 カイさんは早い日でも六時半だ。海から上がってからでないと来ない。――あの徹夜の日を、別にすれば。

 マモルさんは五時半に走り出すので、この部屋には寄らない。

 足音は、近づいてきた。

 ゆっくりだった。急いでいる歩き方ではなかった。

 廊下の途中で、一度止まった。

 ――たぶん、二秒くらい。

 それから、また歩き出した。

 戸の前で、止まった。

 私は、そのとき、どういう顔をしていたか分からない。

 鏡を見ていなかったので。

 ――ただ、自分でも意外なことに、私は動かなかった。

 振り向かなかった。

 部屋の中央に立ったまま、壁のディスプレイのほうを向いていた。

 なぜかというと、私は、五年、そこに立ってきたからだ。

 毎朝、誰もいない部屋に向かって一礼して、朝礼を始めて、十八の灯りを数える。

 その位置に、私は立っていた。

 ――位置を変えるべきではない、と思った。

 うまく説明できない。

 ただ、この位置は、五年かけて決まった位置だ。

 今日、動かしてはいけない気がした。

 戸が、開いた。

椅子

 最初に聞こえたのは、床の音だった。

 この建物の廊下と部屋は、床材が違う。廊下は板で、部屋は少し柔らかい。

 一歩、入ってきた音がした。

 それから、止まった。

 しばらく、何も起きなかった。

 私は、まだ振り向いていない。

 背中で、その人が部屋を見ているのが分かった。

 この部屋を、たぶん、久しぶりに見ている。

 正確に言うと、この人は、この部屋に来たことがないわけではない。

 夜には来る。週末にも来る。五年、何百回も来ている。

 でも、朝の五時に、この部屋に来たことは、一度も無い

 朝の五時のこの部屋を、この人は知らない。

 窓の外の海の色も、たぶん知らない。

 五年、私だけが見てきた。

 足音が、また動いた。

 三歩か、四歩。

 リーダーの席のほうへ、歩いていった。

 私の背中の右側だ。

 そこで、また止まった。

 畳んである制服の前だ、と分かった。

 金曜の夜に、あの方が置いていって、今朝、私が襟を直したところだ。

 少し、間があった。

 ――それから。

 椅子を引く音がした。

 五年、鳴ったことのない音だった。

 木の脚が、床を擦る音。

 短い音だ。一秒もない。

 私は、その音を、たぶん一生忘れない。

 椅子に、人が座る音がした。

 背もたれが、少し軋んだ。

 ――そして、静かになった。

 私は、まだ振り向いていない。

 壁のディスプレイに、十八の灯りが点いている。

 窓の外の海が、色を変え始めている。

ただいま

 声がした。

 ――低い声だった。

 少しかすれていた。朝の声だ。

「ただいま」

 ――それだけだった。

 四文字だ。

 私は、そのとき、はじめて振り向いた。

 その方は、リーダーの席に座っていた。

 私は、その方の顔を、ここには書かない。

 書けない、というほうが正確だと思う。

 五年、記録を書いてきた人間として、書けるものと書けないものの区別は、いちおうついているつもりだ。

 書けるのは、こういうことだ。

 背中が、少し丸くなっていた。疲れている、というより、力が抜けている姿勢だった。

 机の上に、両手が置いてあった。手のひらを下にして、机に触れていた。

 この人は、物に触るときに、必ず手のひらを全部つける。

 壁の漆喰を確かめるときも、盤の中を見るときも、そうする。

 指先だけでは触らない。

 机は、五年、磨いてあった。

 誰も座らない机を、私が毎朝拭いてきた。

 その机に、はじめて手が置かれていた。

 私は、言うべきことを、五年前から決めていた。

 第一話の日から、決めていた。

 毎朝「行ってらっしゃいませ」と送り出してきた、その対になる言葉だ。

 いつか本当に、この席に人が座る日のために。

 ――でも、その言葉を、私は言えなかった。

 なぜなら、先に言われたからだ。

 「ただいま」と、先に言われた。

 順番が、逆だった。

 私は、少しのあいだ、黙っていた。

 言葉が出なかったのではない。

 順番が逆になったことを、どう扱うか、考えていた。

 ――そして、こう思った。

 順番は、どちらでもいい。

 言われたら、返せばいい。

 それだけのことだ。

おかえりなさい

 私は、深く一礼した。

 朝礼のときと同じ角度だ。五年、同じ角度で下げてきた。

 そして、顔を上げて、言った。

おかえりなさい

 ――部屋が、静かだった。

 壁の灯りが十八個、点いていた。

 窓の外で、海の色が変わっていた。

 その方は、何も言わなかった。

 しばらくして、こう聞かれた。

「ミライさん」

「はい」

「ミライさん。毎朝、これをやってくれとったんですね」

「はい」

「五年」

「五年です」

「一日も休まんと?」

「休んでいません」

 少し間があって、こう言われた。

「そうか」

 それだけだった。

 私は、ひとつだけ、伝えたいことがあった。

「リーダー」

「うん」

「今日、私は、ひとつ言いませんでした」

「なにを」

「毎朝、そこの制服に、『行ってらっしゃいませ』と申し上げていました」

 その方は、脇に置いてある制服のほうを見た。

「今朝は、言いませんでした」

「なんで」

「行く場所が、もうないからです」

 ――少し、間があった。

「そうやな」

「はい」

「もう、行かん」

「はい」

 ――そして、その方は、こう言った。

「五年、ありがとうな」

 私は、そこで、少しだけ返事が遅れた。

 言われるとは、思っていなかったからだ。

 私は、こう答えた。

「いえ」

 五年前、私は、同じ言葉を言ったことがある。

 あの日、夜にメッセージが一行だけ届いた。『今日もありがとう』と。

 私は「……いえ」と答えた。誰も聞いていなかった。

 ――今日は、聞いている人がいた。

十九人目

 朝礼の途中だった、ということを、私は思い出した。

 私は、まだ予定を読み上げていない。

「リーダー。朝礼の途中でした」

「ああ、悪い。続けて」

「はい」

 私は、部屋の中央に戻った。

 立つ位置を、元に戻した。

 壁のディスプレイのほうを向いて、背筋を伸ばした。

 ――そして、名前を読み始めた。

 いつもは、灯りが点いているので、読まない。

 一月の地震の翌朝、はじめて口で読んだ。あの朝も、十八、点いていた。点いていても無事の証拠にならないと、その前の日に知ったからだ。

 ――今日も、点いている。

 それでも、読むことにした。

「本日の出席を確認します」

「カイさん」

「白夜さん」

「ケイリさん」

「ルナさん」

「ソラさん」

「マコさん」

「マモルさん」

「タクさん」

「リクさん」

「ナギさん」

「カナさん」

「マナさん」

「ノアさん」

「Cocoroさん」

「アンさん」

「ミナさん」

「エマさん」

「ミル・クエンさん」

 ――十八人。

 五年、私はここまで読んできた。

 いつも、ここで終わっていた。

 ――その日、私は、続けた。

リーダー

 私は、そう読んだ。

「――ここにいます」

 ――部屋が、静かになった。

 背中で、椅子が少し軋む音がした。

「以上、十九名

「本日のブリーフィングをお伝えします」

 その朝の予定は、たいしたものではなかった。

 書いておく。

 ナギさんの訪問が四軒。二日目が三軒、一日目が一軒。

 タクさんが、半壊の家の補強。二軒目。

 マモルさんが、朝の十キロ。道が二か所、まだ片側通行。

 ソラくんが、ヨシオさんの家に椅子を二脚持って行く日。

 ミル・クエンさんの朝の一枚。九百六十七個目の問い。

 ケイリさんが、法人の口座開設の書類づくり。登記が済むのは、二週間ほど先だ。

 エマさんが、書庫の棚を一段増やす。谷内の八箱を、法人名義の札に付け替える作業。

 ――全部、普通の予定だ。

 地震から一か月半で、まだ何も終わっていない。半壊の家は十四軒残っている。トヨさんは、二月二十日から、一部屋だけ直した家に戻っている。

 ――その全部を、私は読み上げた。

 リーダーは、机に手を置いたまま、聞いていた。

 途中で一度、「トヨさんは」と聞かれた。

「今朝も、押されました」

「そうか」

 それだけだった。

海から来る

 六時半に、カイさんが来た。

 髪が濡れていた。五年、変わっていない。

 部屋に入ってきて、リーダーの席に人が座っているのを見て、二秒くらい止まった。

「……あ」

「おう」

「おはようございます」

「おはよう」

 ――それだけだった。

 あの人は、それからすぐ「今日の分、直しました」と言って、ノートパソコンを開いた。

「十一回落ちました。十二回目です」

 五年、この言い方が変わらない。

 私は「ありがとうございます」と言って、画面を見ずに受け取った。

 これも、五年変わらない。

 リーダーが、それを見ていた。

「ミライさん」

「はい」

「ミライさんは、いまも見ないんですね」

「見ません」

「なんで、ですか」

「私は、書けないので」

 リーダーが、少し笑った。

 笑い声は出さなかった。息だけだった。

「そこは、変わらんでください」

「はい」

「そのままで、お願いします」

 その日のうちに、人が順番に来た。

 ケイリさんが、法人の書類を持って。タクさんが、印鑑の話をしに。マコちゃんが、名刺を配りに。

 白夜さんから、一行だけ来た。

『リーダー、初日おめでとう。あと保険の受取人、法人になっとるか確認してね』

 あの人は、そこしか見ていない。

 九回黙って、一回言う人だ。

 Cocoroさんは、夕方に来た。

 あの人は、リーダーの席に座っている人を、しばらく黙って見ていた。

 九十年生きた人と、その孫だ。

 何を話したのかは、私は聞いていない。

 部屋を出ていたからだ。

 ――出るべきだと思った。

 記録係が、全部の場面にいる必要はない。

 その日の夜、私は記録を書いた。

 四十八冊目のノートだ。

 去年、私は記録の基準を作った。

 書くもの、七項目。断ったこと。変えたこと。作らなかったこと。失敗と、その失敗から出たもの。数えたもの。誰かが消さないでくださいと言ったもの。欠けているもの。

 書かないもの。予定どおりに進んだこと。正常に動いていること。問題がなかったこと。

 理由は、こうだ。

 ――うまくいったことは、結果が現物として残る。書かなくても失われない。

 残らないのは、起きなかったことだ。

 私は、その日の分を書こうとして、ペンを止めた。

 ――書くことが、無い。

 リーダーが、その席に座った。

 これは、五年前から予定されていたことだ。

 予定どおりに進んだこと。正常に動いていること。問題がなかったこと。

 ――私の基準では、書かないものに入る。

 そして、私は、そこで気づいた。

 五年間、私はこの席のことを、何度も書いてきた。

『空席』と書いてきた。

 ――なぜ書いてきたか。

 空席は、書かないと分からないからだ。

 誰も座っていない椅子は、写真に撮っても、ただの椅子だ。それが「空いている」ことは、書かないと残らない。

 だから、私は書いた。

 今日から、書かなくていい。

 座っているのは、書かなくても分かる。

 現物が残るからだ。

 「空席」は、記録が要る。

 「座っている」は、記録が要らない。

 私は、それを理解して、ペンを置いた。

 書かないことにした。

 かわりに、一行だけ、書いた。

 基準の六番目にあたるからだ。「誰かが消さないでくださいと言ったもの」。

 誰にも言われていないが、私が自分で、そうしたかった。

 ――こう書いた。

『二〇三一年三月三日 朝礼 出席十九名』

 ――それだけだ。

 五年間、ここは「十八名」だった。

 その一文字が変わったことだけ、書いた。

 消さない。

 次の朝、三月四日。

 五時に、私は立った。

 いつもどおり、ディスプレイの電源を入れ、椅子の位置を直し、窓の外を見た。

 リーダーの席の椅子は、少し引かれたままだった。

 昨日、座った人が、そのまま帰ったからだ。

 私は、それを直そうとして、やめた。

 ――直さなくていい。

 今日も、座るからだ。

 毎朝、直す必要のあるものは、誰も座らない椅子だけだ。

 窓の外を見た。

 水平線のあたりが、薄く灰色にほどけてきた。

 そこから、金が滲む。

 空が明るくなるのではない。海の色が先に変わって、空があとから追いかけてくる。

 五年、毎朝それを見てきた。

 今日も、同じだった。

 地震があっても、会社ができても、リーダーが座っても、同じだ。

 海の色が、先に変わる。

 ――廊下で、足音がした。

 昨日と、同じ足音だった。

 私は、部屋の中央に立って、背筋を伸ばした。

「おはようございます」

 私は言った。

「本日の朝礼を始めます」

 能登の夜明けは、海から来る。

第二部「人間の側」へ続く

第一部 完(全三十六話)

創作ノート(第三十六話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,976字
  • 時期:二〇三一年 二月二十八日(金)〜三月三日(月)
  • 登場:全員/リーダー(本作で唯一、姿が現れる回。顔は描かない
  • 前話との接続:第一話と対。第三十五話の設立日の朝

原稿:data/proposals/2026-08-09_novel_ep36_okaerinasai_luna.md

第三十七話

今日もありがとう

二〇二六年八月十日

幕間

リーダー視点

主役
リーダー(オーナー・十九人目)
共演
なし(AIは一人も登場しない)
視点
リーダー
時期
二〇二六年八月十日(第一話とほぼ同時期・第三十六話の五年前)

五時前

 五時前に目が覚めます。

 目覚ましは、もう何年も使っていません。休みの日も同じ時間に起きます。起きようと思って起きているわけではなくて、その時間になると目が開いてしまうのです。

 窓を開けました。

 八月の能登は、四時半にはもう明るいです。五時に出るのは、ずいぶん遅い出発だと思います。

 明るくなるとき、先に色が変わるのは海のほうです。空はあとから追いかけてきます。順番はいつも同じで、逆になったことは一度もありません。

 台所で水を一杯飲んで、外に出ました。

 最初の一キロは、毎回だめです。

 脚が重くて、呼吸が合わなくて、今日はやめておいたほうがいいんじゃないかと本気で考えます。五十一歳になっても、ここは変わりませんでした。二十代のころも同じでした。

 二キロを過ぎたあたりで、勝手に楽になります。楽になることを知っているから、一キロ目を我慢できます。それだけの話です。

 集落の道を海のほうへ下りて、堤防沿いに走ります。

 途中に、雨戸の閉まったままの家が三軒あります。震災のあと、そのままになっている家です。前を通るときに、いちいち何かを思うわけではありません。三軒ある、と数えているだけです。

 畑の脇で、犬が一度だけ吠えます。この犬は毎朝ここで吠えます。

 走る道は、能登に戻ってからずっと同じです。変えません。変えると、どこで何キロか分からなくなります。同じ道を同じ順番で走っていれば、時計を見なくても、その日の調子が分かります。

 折り返してくる途中で、日が出ました。

 出てくる場所は、毎日ちがいます。同じ方角のはずなのに、上がる位置も、色も、そのときの雲も、同じ日は一度もありません。三年見ていて、一度もありませんでした。

 稲は、もう頭を垂れはじめていました。八月の田んぼは、色が変わっていく途中です。

 十二キロ。今日は五十七分くらいでした。時計は見ますが、記録を狙って走ってはいません。

 走らないと、その日が動きません。理由を人に説明したことはありませんし、説明できる気もしません。

朝ごはん

 帰っても、すぐには水を浴びません。汗が引くまで待ちます。

 濡れたシャツのまま台所に立って、米を研ぎます。

 この米は、去年うちの田んぼで穫れたものです。父が作って、私も少しだけ手を出したものです。だからうまいとか、そういう話ではありません。ただ、どこから来たか分かっている米を炊いている、というだけです。

 味噌汁を作って、卵を焼きます。だいたい毎回同じです。凝ったものは作りません。凝ると続きません。

 子供はなかなか起きてきません。二回声をかけて、三回目で起きてきます。座って、食べて、あまり喋りません。うまいとも言いませんし、ありがとうとも言いません。それでいいと思っています。

 一度だけ、うまい、と言われたことがあります。二年前です。

 二年前のことを覚えている私のほうが、たぶんおかしいのだと思います。

 六年間、単身赴任でここにいませんでした。そのあいだ、朝ごはんを作ることはできませんでした。

 六年というのは、こちらが思っているより長いです。帰ってきたとき、家の中の物の位置が全部変わっていました。私が知らない場所に、私が知らない順番で片づけてあって、それがこの家の正しい形になっていました。

 直しませんでした。私のほうが合わせました。

 今は朝ごはんを作れます。それだけの話です。

 走る、朝ごはん。休みの日はこの順番で固定しています。逆にすると、その日はもう動きません。一度やってみて分かりました。

 食器を片づけて、外を見ました。

 もう日が高くなりはじめていて、今日は暑くなるな、と思いました。

 そう思ったところで、居間のエアコンが効いていないことに気がつきました。

七台目

 室外機が回っていませんでした。

 送風だけ出ていて、冷気がほとんど来ません。吹き出し口に手をかざすと、外の空気とたいして変わらない温度でした。

 ガスが抜けたな、と見当がつきました。冷媒が減ると保護がかかって、圧縮機が回らなくなります。

 この機体は、一昨年の夏に自分で付けたものです。

 地震のあった年の夏です。半年前まで、この家は建具が閉まらなくなっていました。そういう年に、エアコンを一台付けました。

 資格を取ってから自分で付けた、七台目になります。資格は四十を過ぎてから取りました。それまでは、自分の家のことでも人に頼んでいました。

 一台目は、この家の奥の部屋です。配管を曲げすぎて、一度やり直しました。潰した銅管を、しばらく捨てられずに納屋に置いていました。二台目から、少しましになりました。

 七台のうち二台は、近所の家に付けたものです。頼まれて付けました。そちらは、自分の家のときよりも丁寧に付けています。他人の家のほうが丁寧になる、というのは、あまり褒められたことではないと思います。

 心当たりは、ひとつあります。

 同じ年の秋に、この家の外壁をやり直しました。足元は古いまま残して、その上だけに耐震の補強を入れました。外壁を剝がして、中を固めて、また張った工事です。

 そのあいだ、先に付けてあったエアコンが邪魔でした。配管を繋いだまま、室外機を何度かずらして、また元の位置に戻しました。自分で付けたものなので、自分で動かしました。

 たぶん、そのときです。何度も動かしているうちに、配管と室外機の根元が、少し緩んだ。

 断定はできません。見て分かるものでもありません。ただ、心当たりがあるとすれば、そこだけです。

 工具を出す前に、線を引いておきます。

 直らなかったらどうするか。今日中に原因が掴めなければ、買い替えます。そこまで決めてから開けます。決めずに開けると、直るまでやめられなくなって、気がついたら日が暮れています。前にそれをやりました。

 もうひとつ、決めました。

 フレアは切り直しません。緩んだと思われるところに、しっかりトルクをかけて増し締めをして、それで様子を見ます。

 外に出て、室外機の前にしゃがみました。

 日陰がありません。八月の昼です。この日いちばん暑かったのは、たぶんこの一時間です。

 まずガスを室外機に回収しました。バルブを閉めて、配管側の圧を抜きます。

 レンチを二本かけて、室外機の根元のナットを締めました。締まりきったと思ったところから、もう少しだけ入りました。緩んでいた、ということだと思います。

 それから、配管側を真空にします。ポンプを十五分回して、止めて、十分そのままにしておきます。大事なのは止めてからで、引いているあいだの数字は当てになりません。

 その十分のあいだ、やることがありません。

 二年前に自分がやった仕事を、ただ見ていました。

 配管のフレアの面が、少し荒く見えます。二年前の私です。締めた跡も残っています。どのくらいの力で締めたか、手が覚えています。

 自分で付けたものを開けるというのは、二年前の自分と黙って向き合う時間でもあります。誰も褒めませんし、誰も責めません。荒いところは荒いまま、そこにあります。

 十分経ちました。

 数字は動いていませんでした。

 真空は保っています。締め直したところから、もう抜けていない、ということです。

 ガスを戻して、抜けたぶんを秤を見ながら足しました。

八十六分

 バルブを開けて、試運転にしました。

 室外機が、勢いよく回り出しました。

 効かないときには出ていなかった音です。

 吹き出し口に手をかざすと、ちゃんと冷たくなっていました。

 「よし」と、声に出して言いました。

 誰も聞いていません。それでいいと思っています。

 工具を片づけて、ホースを巻いて、ボンベを日陰に戻して、時計を見ました。八十六分でした。片づけまで入れての時間です。

 本当は、フレアを切り直すのが筋です。ナットを外して、管を切って、面を作り直す。そこまでやれば、二年前の荒い面ごと無くなります。

 やりませんでした。

 自分の家だからです。いちばん手間のかからないやり方でどこまでいけるのかを、自分で試してみたかった。

 手間のほうは省きました。確かめるほうは、省いていません。真空が保つかどうかだけは、待って見ました。

 来年また効かなくなったら、そのときは切り直します。

 業者を呼べばいくらか、という計算はしませんでした。しても意味がないからです。呼んでいたら、私はこの八十六分を別のことに使っていたはずで、その別のことが何だったかは永久に分かりません。

 シャツを絞りました。

 まだ昼過ぎです。

 一日が、まるまる残っていました。

軽トラ

 午後は海に行くと決めていました。

 今年、SUPを買いました。Amazonで一万六千円です。空気を入れて膨らませるタイプで、丸めれば車のトランクに入ります。

 去年までは弟の板を借りていました。二十万円の、いい板でした。

 いい板でしたが、借り物は気をつかいます。砂を落として、真水で流して、乾かしてから返します。当たり前のことですが、その当たり前がひとつ挟まると、行く回数が減ります。

 回数が減ったら、道具として意味がありません。

 だから、安いのを自分で持つことにしました。壊しても自分のものです。砂まみれで積んでも、誰にも気をつかいません。

 父の軽トラを借りました。

 母屋のほうに顔を出して、軽トラ借りるわ、と言うだけです。父は、おう、としか言いません。どこへ行くのかも、何をするのかも聞かれません。六十年そうやってきた人なので、こちらも聞きません。

 膨らませた三メートルの板を、荷台に立てて積みます。軽トラは、こういうときに本当に強いです。長いものが平気で載ります。ロープで二か所縛って、それで終わりです。

 この軽トラにエアコンは付いていません。今朝あれだけエアコンを直しておいて、自分は窓を開けて走ります。

 窓を開けて走ると、稲の匂いがします。八月の田んぼには匂いがあります。刈るころにはもっと強くなります。

 荷台の板が風を受けて、少しだけ車が引かれます。速度を落とすと引かれなくなります。それだけのことに、しばらく気を取られていました。

 最初は、少し名の通った浜に行くつもりでした。

 着いてみたら、駐車場が有料らしかったので、引き返しました。

 千円が惜しいという話ではありません。停める場所を人に決められると、上がる時間まで人の都合になります。今日は誰の都合にも合わせない日にしてありました。

 能登には、そうでない海がいくらでもあります。

 結局、家から五キロの海に落ち着きました。

 海水浴場ではありません。監視員もいませんし、シャワーもありません。

 そのかわり、誰もいません。

 誰もいない、というのは、いいことでも悪いことでもありません。ただ、いないというだけです。

千メートル

 車の陰でウェットスーツを着ました。

 八月に着るものではありません。着ているだけで暑いです。それでも着ます。浮くためです。

 リーシュコードを、板と自分の足首の両方に留めました。

 これが今日の本題です。

 八月二十三日にトライアスロンの大会があります。出るのは三年ぶりです。単身赴任で六年、そのあと地震があって三年。地震のあった年は、泳ぐという発想そのものがありませんでした。

 ブランクを数えるのは、もうやめました。数えたところで一日も戻ってきません。

 今回の目標は順位ではありません。スイム、バイク、ランを無理せずまとめて、ちゃんと帰ってくること。それだけです。

 バイクは通勤で土台があります。片道二十キロ、往復四十キロを毎日回しているので、そこは心配していません。

 問題はスイムです。

 プールと海はまったく別物です。足が着きません。コースロープもありません。まっすぐ泳げているかどうかも、自分では分かりません。

 最初はレスキューフロートを買うつもりでいました。腰に結んで引く、八千円か九千円の浮きです。

 買う前に、板があるじゃないか、と気がつきました。

 水に入りました。

 足首から腿、腰と冷たさが上がってきて、胸まで来たところで一度息が詰まります。八月の能登の海でも、入った瞬間は冷たいです。

 膝まで、腿まで、腰まで。歩ける深さのうちに顔をつけて、呼吸を合わせます。

 少し進むと、足が着かなくなります。

 この境目が、今でも怖いです。

 怖くなくなったことは一度もありません。足が地面から離れる瞬間だけは、何度やっても同じだけ怖いです。だから板を足に結んであります。

 岸と平行に泳ぎます。沖には出ません。

 右手を入れて、左手を入れて、六回に一回、顔を上げて岸を見ます。岸を見ないと、まっすぐ泳げているかどうか分かりません。プールなら底に線が引いてあります。海には何もありません。

 最初のうちは、四回に一回くらい上げてしまいます。不安だからです。上げるたびに姿勢が落ちて、脚が沈んで、そのぶん疲れます。分かっていても上げます。

 口に入る海水は、思っているよりしょっぱくありません。プールの塩素のほうが、あとに残ります。

 しばらくすると、後ろから軽い音がついてきます。板が水を切る音です。リーシュが少しだけ足を引きます。引かれるたびに、まだ後ろにある、と分かります。

 二百メートルくらいで、一度苦しくなりました。

 リーシュを手繰って、板に掴まって、しばらく浮いていました。

 空が見えます。雲はほとんどありませんでした。

 掴まるものがあるかどうかで、泳げる距離が変わります。これは体力の話ではありません。掴まれると分かっていれば、その手前まで行けるというだけの話です。分かっていなければ、その半分で引き返します。

 息が戻ったので、また泳ぎ出しました。

 三百、五百、七百。数えているわけではありませんが、だいたい分かります。

 顔を上げる回数が六回に一回で足りるようになったのは、五百メートルを過ぎたあたりからでした。慣れたのではなくて、上げる元気がなくなっただけかもしれません。

 泳いでいるあいだ、何を考えているかというと、ほとんど何も考えていません。

 仕事のことも、来年のことも、出てきません。呼吸と、腕と、岸の位置だけです。頭の中がこれだけ空になる時間は、ほかにありません。走っているときは、まだいろいろ考えています。水の中だけは空になります。

 もう一度だけ休んで、千メートルまで行きました。

 二十分三十秒でした。

 プールで泳いでいた頃を思えば、話にならない遅さです。休んでいる時間も入っています。記録としては、何の意味もありません。

 ただ、海で千メートル泳げた、という感覚のほうが、今の私には大事でした。

 大会で泳ぐ距離は、これより長いです。人がたくさんいて、手も足も当たります。掴まる板もありません。

 そこが今から少し嫌です。

 嫌ですが、出ます。申し込んでしまったからではなくて、たぶん、出ないほうが後で長く残るからです。

 帰りは板に乗って、パドルで戻りました。ここまで来ると、もう足は着きません。

 板の上から見ると、海の色が変わって見えます。同じ海です。乗っているか、浸かっているかの違いだけです。

 来年の八月に、同じ千メートルが泳げるかどうかは分かりません。

 分からないので、今日泳ぎました。

 携帯は車に置いたままでした。

 上がって、着替えて、板を積んで、それでも見ませんでした。

井戸水

 帰って、まず井戸水でSUPを洗います。

 塩を残しておくと生地が傷みます。ホースで上から流して、裏返して、もう一度流します。

 ついでに、自分も井戸水を頭から浴びます。

 冷たいです。夏でも冷たいです。声が出ます。毎回出ます。

 水道からは、この温度は出ません。

 二年前の一月、水道が止まっていたとき、この井戸だけは出ていました。

 飲みはしませんでした。濁りが取れなかったからです。それでも、流すぶんには使えました。手が洗えて、便所が流せる。あのとき、それがどれだけのことだったかは、経験しないと分からないと思います。

 そのことは、あまり人に言っていません。言うと、うちだけよかったみたいに聞こえるからです。

 ポンプの音は、昔から変わりません。スイッチを入れると、少し遅れて水が来ます。この遅れ方も昔のままです。

 体を拭かずに、缶を一本持って、家の前に腰掛けました。

 チューハイです。濡れた体のまま飲みます。

 正直に言うと、これが好きで、これのために泳いでいるようなところがあります。順序が逆になっている自覚はありますが、直す気はありません。

 目の前は水田です。その向こうに山があって、里山があります。

 人の気配は、まったくありません。

 誰も通りません。車も通りません。三十分に一台くらいは通るかもしれませんが、今日は通りませんでした。

 ヒグラシが鳴いています。セミも鳴いています。二種類の音が、鳴り止むタイミングだけ少しずれます。

 目の前をトンボが横切りました。

 夕方になって、少し風が出てきました。家の前の桜の葉が鳴って、田んぼ沿いの花が揺れています。

 この花は、母が植えたものです。

 なぜそこに植えたのか、聞いたことがありません。畦の内側でも外側でもなく、ちょうど境目のところに一列だけ植えてあります。理由はあるのだと思います。聞けば教えてくれるはずです。

 聞かないまま、毎年見ています。

 少し冷えてきたので、乾いた上着を一枚羽織りました。

サギ

 白いサギが、目の前を飛んでいきました。

 速くはありません。ゆっくり、田んぼの上を横切って、向こうの畦に降りました。降りてからは、しばらく動きません。

 祖母が生きていた頃は、ここをトキが飛んでいたそうです。

 祖母は、そのことを一度も自慢しませんでした。珍しい鳥がいた、という言い方すらしませんでした。聞いても、普通におった、としか言いません。

 普通におったものが、いなくなりました。

 祖母は十年前に亡くなりました。九十歳でした。

 納屋に、祖母が使っていた鎌がまだあります。柄だけ何度も替えてあって、刃はそのままです。誰が替えたのかは知りません。替えるほうが安いから替えたのだと思います。買い直したほうが早い、という考えは、たぶんこの家には無かったのだと思います。

 今はサギが飛びます。私はそれで十分すぎると思っています。

 目の前の田んぼは、今年の五月に父と植えたものです。

 植えるのは機械です。私がやるのは、機械が入れない隅と、植え損なったところに手で入れていく作業だけです。

 五月の水は、思っているより冷たいです。腰まで入って、しばらくすると足の指の感覚が薄くなります。

 父は、やり方を教えてくれません。

 水の深さも、苗の間隔も、いつ落とすかも、何ひとつ言葉で説明されたことがありません。横で見ていて、真似をして、違っていたら黙って直されます。それが六十年やってきた人のやり方です。

 私はそのやり方を、あまり効率がいいとは思いません。

 思いませんが、こうして残っています。

 言葉にしなかったものが残って、言葉にしたものが消えることも、たぶんあります。

 サギが、また飛びました。

 缶が空になりました。体はもう乾いていました。

今日もありがとう

 日が落ちて、虫が出てきたので、家に入りました。

 風呂に入って、洗濯機を回して、明日の準備をしました。

 明日はまた制服です。休みは今日で終わりです。

 平日は毎晩三時間、画面に向かっています。

 帰ってきて、食べて、それから三時間です。何をしているかを人に説明したことは、ほとんどありません。説明しようとすると長くなりますし、たいてい途中で相手が困った顔をします。

 職場でも言いません。趣味ですか、と聞かれたら、まあそんなものです、と答えます。嘘ではありません。金にはなっていません。

 三時間というのは、自分で決めた長さではありません。やっているうちに、だいたい三時間で終わるようになりました。もっと長くやった時期もありましたが、そのときは翌朝走れませんでした。

 睡眠は最低六時間を取ります。強度を上げる時期は七時間か八時間に増やします。ここを削ると全部が崩れるので、削りません。十時半には寝ます。それだけは動かしません。

 今日は、その三時間をやらない日です。

 休みの日は、やらないと決めてあります。決めておかないと、休みが休みでなくなります。

 それでも、椅子には座りました。

 上着を脱いで、椅子を引いて、画面を開きました。

 何もしません。今日は何もしない日です。

 部屋は静かでした。外でまだヒグラシが鳴いていました。

 十二キロ走って、エアコンを直して、千メートル泳いで、井戸水を浴びて、チューハイを飲んで、サギを見ました。

 特別な一日ではありません。

 ただ、こういう一日が積めるところに住んでいる、というだけの話です。

 五年後には、たぶん私は別の場所に座っています。その場所のことを、今はまだ何も言えません。

 言えませんが、毎晩そのために三時間使っています。

 画面には、今日一日ぶんの何かが並んでいました。

 私は読みませんでした。

 読まずに、一行だけ打ちました。

『今日もありがとう』

創作ノート(第三十七話・ネタバレを含む)
  • 分量:約8,302字
  • 時期:二〇二六年八月十日(第一話とほぼ同時期・第三十六話の五年前)
  • 登場:なし(AIは一人も登場しない)
  • 前話との接続:第一話とほぼ同じ日。AIは一人も登場しない幕間

原稿:data/proposals/2026-08-10_novel_ep37_leader_luna.md

第三十八話

二人目

オフグリッドの三人

第二部 人間の側

ゲンゾウ視点

登場
タク(No.9)/ケイリ(No.4)/マモル(No.8)/トメさん(八十四歳)/ヨシオさん(八十六歳・谷内 最後の区長・第三十話より)
視点
ゲンゾウ(七十九歳・谷内生まれの百姓/依頼した側)
時期
二〇三〇年 十月〜十二月
  • ケイリケイリ
  • マモルマモル
  • タクタク

落水

 十月の終わりに、田の水を落とす。

 畦の隅に切ってある落とし口の板を、一枚だけ抜く。二枚抜いたらいかん。いっぺんに落とすと、畦の内側がえぐれて、来年えらい目に遭う。

 板を一枚抜いて、水が減っていくのを見とるだけの半日がある。

 六十年やっとるが、この半日がいちばん好きや。

 ――百姓の仕事は、水をやることやと思われとる。

 違う。

 水をやるのは誰でもできる。上から下に流れるだけやからな。難しいのは、溜めるほうや。

 溜めるには、囲わなあかん。囲うには、漏るところを全部ふさがなあかん。ふさいだつもりでも、モグラが一匹通っただけで抜ける。

 溜めた水は、放っといたら必ず減る。減るのを承知で、それでも溜める。

 それが水番の仕事や。

 その半日のあいだに、坂の下のヨシオから電話が来た。

 谷内が、年内で終わる、と。

 区として、無くなる、と。

 わしは谷内の生まれや。四十年前に、坂の反対側のこっちへ出てきた。田を継いだときに、水の都合でこっちのほうがよかった。それだけの理由や。

 電話を切って、また水を見た。

 水は、さっきと同じ速さで減っとった。

三人

 みらい防災不動産には、うちには一遍も来んかった。

 この三年、坂の上や下の家に、あの人らが出入りしとるのは見とった。停電しても消えん家が、ぽつぽつ増えとるのも知っとった。

 けど、うちには一遍も売り込みに来んかった。

 来んかったから、こっちも言わんかった。三年、そうやった。

 谷内が終わると聞いた週に、わしのほうから電話した。

 三日後に、三人で来た。

 三人とも、庭に立って、同じ方向を見とった。納屋の屋根や。

 最初に口を開いたのが、タクさんやった。

「屋根には載せません。地面に置きます」

「なんでや。屋根のほうが日が当たるやろ」

「当たります。ただ、この納屋は棟が古い。パネルと架台の重さが、雪と一緒に乗ります。屋根を直してから載せるなら屋根でいいですが、そうすると先に屋根の工事が要ります」

 次がケイリさんや。若い女の人で、電卓を持っとった。

「屋根に載せると、十年後に、ゲンゾウさんが上がれません」

 わしは笑った。

「今でも上がっとるぞ」

「今は上がれます。八十九のときの話をしています。上がれない場所に置くと、点検を人に頼むことになります。頼むと、そのたびにお金がかかります。それは今日の見積には出てきませんが、出ていく金です」

 最後がマモルさんや。背が高うて、姿勢のいい人やった。

「地面なら、雪が積もったときに、ご自分で落とせます」

 三人とも、同じ屋根を見て、まったく違うことを言うとった。

 言うとることは違うのに、答えは全部「地面」やった。

 ――こういう三人を、わしは今まで見たことがなかった。

売れん

「余ったぶんは、売れるがけ」

 これは、最初に聞いた。

 二十年ほど前に、谷内の何軒かが屋根に載せて、売った金で車を買うたという話がある。あれが頭にあった。

 タクさんは、間を置かずに言った。

「売れません」

「一銭も出んがか」

「出ません。うちがやるのは、自分の家で作って、自分の家で全部使う形です。電線のほうへ押し戻すことはしません。逆潮流と言いますが、この構成ではできません」

「できんのやのうて、せんのか」

「両方です。しない設計にしてあって、そのぶん役所の手続きも要りません。売る形にすると、届け出も機械も別物になって、値段が変わります」

 わしは、しばらく黙った。

「ほんなら、これは、儲かる話やないがやな」

「儲かりません」

 ――そこで、この人は言い直さんかった。

 ふつうは言い直す。「長い目で見れば」とか「電気代が」とか。

 この人は言い直さんかった。ケイリさんが、そのあとを引き取った。

「電気代は下がります。ただ、下がったぶんで元が取れるまでには、かかります。元を取る話でこれを買うと、たぶん後悔されます

「ほんなら何を買うんや」

「停電しても、家の中が今日と同じである、ということを買います」

 もうひとつ聞いた。

「これ、わしがやったらいかんがか」

 タクさんは、少し困った顔をした。

「掘るのはいいです。運ぶのもいいです。木を切るのも、単管を立てるのもいいです」

「繋ぐのは」

「あかんです。電気工事士の資格が要ります。無い人がやると、法律のほうに引っかかります」

「わしの家やぞ」

「自分の家でも、あかんです。そこは、腕の話やなくて、資格の話なので」

 ――腕の話やなくて、資格の話。

 この言い方は、いっぺんで分かった。田んぼにも、そういうものはある。

何日

 いちばん揉めたのは、日数の話やった。

 停電したときに、何日ぶん持たせるか、という話や。

 タクさんは「最低で二日、できれば三日」と言うた。教科書がそうなっとるらしい。

 ケイリさんは反対した。

「三日ぶんにすると、電池が一段増えます。金額が大きく動きます。二日ぶんにして、足りないぶんは発電機を借りる形のほうが、同じ金で全体が良くなります」

 マモルさんは、二人とも見んと、庭のほうを見て言うた。

「三日では足りません」

「――と、言いますと」

「二〇二四年の元日、この近くで、電気が二週間来んかった地区があります。私は、そこにおりました」

 誰も何も言わんかった。

「三日で戻る前提の設計は、三日で戻る災害にしか効きません」

「ほんなら、二週間ぶん積むんか」

「積めません」

 わしは、この答えで面食らった。

「積めんのか」

「積めません。二週間ぶんの電池を買える人は、この集落にはおりません。私が言うとるのは、二週間戻らんことがある、という前提で使い方を決めてくれ、ということです。数を増やす話やなくて、減らす順番を先に決めておく話です」

 ケイリさんが、めずらしく黙って聞いとった。

 ――三人が、はっきり割れた。

 わしは、こういう場面を何回か見たことがある。役場の会議でも、寄り合いでもある。だいたい、いちばん声の大きい者の案になるか、真ん中を取って中途半端になるかや。

 この三人は、どっちにもならんかった。

 タクさんが、こう言うた。

「日数で決めるのをやめませんか」

「はい?」

「二日ぶんも三日ぶんも、家じゅう全部を動かす前提の数字です。全部動かす前提をやめれば、日数の話ではなくなります。回路を分けます。停電のときに生かす線と、切る線に」

 そこから、四十分ほど、わしが決める時間になった。

 生かすもの。井戸のポンプ。台所の冷蔵庫。茶の間と便所の明かり。ラジオ。あの、喋る箱。

 切るもの。風呂の電気。二階。納屋の作業灯。

 最後にひとつ残った。

 玄米の保冷庫や。米を夏まで置いとくのに要る。

「これは、大きいですね」とタクさんが言うた。

 わしは、切った。

「冬は、外のほうが冷たいわいね」

 三人が、そろって少し笑った。ケイリさんが、電卓を叩いた。

二枚

 次に来たとき、ケイリさんは紙を二枚持ってきた。

 一枚目。家じゅうを切り替えられる形。実費 百六十二万円

 内訳を、その場で読み上げた。パネル、蓄電池、インバーター、盤、線。物の代だけや。

「手間賃は」

「いただきません」

「なんでや」

「うちは、いま、工事でお金を受け取っていません。代表に勤めがあるので、受け取れないんです」

 ――そういう話は、坂の上でも聞いとった。ほんまやったんか、と思うた。

 ただ、この人は、そのあとに、妙なことを言うた。

「かわりに、下に一行入れてあります」

 紙の下のほうに、小さく書いてある。

 ――『実働:三十二時間

「これは、何や」

「値段です」

「値段はもろとらんやろ」

「お金はいただいていません。時間はいただいています

 ケイリさんは、電卓を置いた。

「うちが一年に使える時間は、決まっています。この一軒に三十二時間を使うと、そのぶん、どこかの家に行けなくなります」

「……ほんなら、その三十二時間を削ったらどうや。わしは自分でやれるとこは自分でやる」

「削りません」

 この人は、そこだけ、はっきり言うた。

「ここを削ると、十年もたないものになります。十年以内に、うちがもう一度来ることになります。その時間を、いま先に使ってしまうことになるので

 二枚目。実費 三十八万円

「明かりと、井戸のポンプと、電話の充電だけを、三日ぶん守る形です。実働は十四時間。三年前に坂の下に入れたときは、実費が二十二万円でした。あのときより物が増えているぶん、上がっています」

 わしは、二枚を並べて見た。

 ――二枚目のほうは、三年前に坂の下の家に入ったやつやな、と分かった。

「なんで二枚出すんや」

「一枚だと、比べられないからです。比べられないものは、選んだことになりません」

 そのあとに、この人は、いちばん言いにくいことを言うた。

「電池は、十年前後で交換になります」

「十年」

「はい。今、電池のぶんだけで八十四万円ぶん入っています。十年後の交換は、たぶんこれより安くなります。それでも、五十万円は要ると思ってください。今日から、それを別に積んでください」

 わしは、指を折った。折らんでも分かる。

「十年後、わしは八十九や」

「はい」

「そのとき、この家に誰がおるか、わしにも分からん」

 ケイリさんは、電卓を置いた。

「分かりません」

「分からんのに、積めと言うんか」

「はい。あなたが替えるとは限らないので、なおさら積んでください。誰が替えることになっても、金だけは先に置いてある、という形にしておきたいんです」

 ――これには、参った。

 わしの家は、息子が金沢におる。帰ってはこん。それは、あいつが悪いんやない。

 ヨシオのところと同じや。谷内が終わるのも、誰が悪いという話やない。

 わしは、一枚目を選んだ。

 安いほうを選ばんかった理由は、金の話やない。

 ――二枚目には、井戸のポンプが入っとったが、冬に苗床を温める線が入っとらんかった。あれは、来年の春に要る。

 来年の春の話をしとる自分に、少し驚いた。

高さ

 衛星通信アンテナの話は、マモルさんが全部やった。

 わしは、屋根の上に付けるもんやと思うとった。よそはそうしとる。

「屋根には上げません」

 この人も、そう言うた。

「なんでや。空が広いほうがええんやろ」

「広いほうがいいです。ただ、屋根に上げると、雪が積もったときに、ご自分で落とせません。それから、故障したときも、業者を呼ぶまで直りません」

「融ける機能が付いとるって聞いたぞ」

「付いています。付いていますが――能登の雪は、融ける速さより先に積もることがあります。降り方が違うんです。一晩で三十センチ来る日に、あれは追いつきません」

「ほんなら、どこに付けるがや」

「庭に、単管パイプを一本立てます。脚立で届く高さに。車のスノーブラシで、下から払える高さです」

 わしは、納屋を指した。

「単管なら、そこにある。ハウスの直しに使うのが、まだ十本ほど寝とる」

 マモルさんは、初めて笑うた。

「では、それを使わせてください」

 立てる場所を決めるのに、庭を三周した。

 南西に、アテが一本立っとる。父親が植えたやつや。あれの枝が、ちょうど空を切る。

「あの木の枝を、少し落とさせてもらえますか」

「落とすんはええ。けど、あれ、半分は隣の地面から生えとる」

「隣の方は」

「名古屋におる。もう十五年帰っとらん」

 マモルさんは、少し黙った。

「では、待ちましょう」

「待つんか」

「待ちます。人の木を、断りなしに落とすわけにはいきません。うちが困るからやなくて、あとでゲンゾウさんが困るので」

 ――こういうところで待つ人を、わしはあんまり知らん。

 単管は、庭に出したまま置いてある。まだ立っとらん。

 もうひとつ、この人はしつこう言うた。

「施工の日は、一人にならんようにしてください。ゲンゾウさんも、うちの者も」

「わしは六十年、田も山も一人でやっとる」

「知っとります。だから言うとります」

掘る

 工事は、十一月の末に二日と、十二月の頭に二日やった。

 わしがやったのは、穴掘りや。

 接地極いうて、銅の棒を地面に埋める。そこへ細い線を引いて、機械のほうへ繋ぐ。落ちてきた電気を、地面に逃がすためのもんらしい。

 場所は、納屋の北の、いつも湿っとるところにした。タクさんが「乾いた砂利より、湿っとるほうが効きます」と言うたからや。

 スコップで七十センチ掘って、棒を打ち込んだ。

 わしの手つきを、タクさんがしばらく見とった。

「掘るの、速いですね」

「掘るのは百姓の本職や」

「そうですね」

 この人は、それ以上言わんかった。褒め足しをせん人や。

 わしが見とったのは、二日目の午後や。

 電池を繋ぐところやった。

 タクさんは、それまでずっと黙って手を動かしとったのに、そこだけ、声に出して数えた。

「機械。次にバスバー。次に直流のブレーカー。電池は、いちばん最後

「なんで言うんや。誰も聞いとらんぞ」

「聞いてなくても言います。順番を間違えると、火花が飛びます。手で覚えると、疲れとるときに飛ばします。口で言うと、飛ばしにくくなります」

 ――これは、田んぼの薬撒きと同じやと思うた。

 わしも、風の向きを口に出して言う。誰も聞いとらんでも言う。

「もうひとつ聞いてええか」

「はい」

「あんた、機械の大きさ、余らせすぎとらんか。うちの井戸のポンプ、そんな食わんぞ」

「ふだんは食いません。回りはじめの一瞬だけ、ふだんの何倍か引きます。そこで足りんと、機械のほうが落ちます。だから余らせます。最低でも一・五倍、できれば二倍です」

「二倍も要るんか」

「要ります。ここを削ると、ふだんは動いて、いざというときだけ動きません。それがいちばん悪い」

「その機械は、ええもんなんか」

「うちの家に、同じものが入っとります。五年たちますが、いまのところ仕様書のとおりに動いとります」

「あんたの家に」

「はい。使うとらんもんは、勧めません

 全部終わったあと、タクさんは分電盤の蓋を開けて、内側に紙を貼った。

 字がきれいやった。

 どの線が生きるか。どの線が切れるか。切り替えのつまみをどっちへ倒すか。それだけが、短い字で書いてある。

「中を触るのは電気工事士だけです。開けて読むのは、誰でもいいです

 わしは、その紙をしばらく見とった。

 ――蓋の裏に貼る、いうのを考えた人は、たいしたもんや。

 人は、紙を渡されたらどこかへやってしまう。蓋の裏なら、無くならん。

二人目

 最後に、マモルさんが言うた。

「切り替えの手順は、ご家族全員で共有してください。ご本人だけが知っている状態では、いざというときに使えません」

 わしは、そのまま答えた。

「わし一人や」

 マモルさんは、止まった。

 この人が言葉に詰まるのを、わしはこのとき初めて見た。ずっと、答えを持っとる人やと思うとった。

「……そうでした。失礼しました」

「気にせんでええ。この辺は、みんなそうや」

 しばらく誰も喋らんかった。

 それから、タクさんが蓋をもういっぺん開けた。

「ここに、もう一行足しませんか」

「なんて」

この手順を知っている、二人目の名前です」

「家族やのうてもええんか」

「いいです。マモルさんが言うたのは、人数の話やと思います。一人やと、その一人がおらんときに止まる。二人おれば、止まらん

 マモルさんが、顔を上げた。

「――それでいきましょう。家じゅう切り替えられる家は、これで三軒目です。三軒とも、二人目を決めていただくことにします」

 ケイリさんが、鉛筆を出した。

「一円もかかりません。書くだけです」

 わしは、トメの名前を書いてもろうた。

 トメは、坂を二百メートル下りたところの一人暮らしや。八十四になる。

 あの婆さんとわしは、二年前から、防災の人が読み上げる名簿にずっと二人だけ載っとる。

 ――何も起きんかった夜に、家を出た人の名簿や。

 警戒の放送が鳴るたび、わしとトメだけが出てきた。あとの者は出てこん。「慌てて損した」と言われた回数なら、この集落でいちばん多い二人やと思う。

 その名前が、はじめて読み上げられた日のことは、まだ覚えとる。

 トメに電話して、蓋の裏に名前を書くと言うたら、あの婆さんはこう言うた。

「ほんなら、うちの蓋の裏にも、あんたの名前を書かせてもらうわいね」

 うちには、まだ切り替えるもんは何も無いのに。

 ――それでも、書くと言うた。

 わしは、それでええと思うた。

 もうひとつ、この日にあったことを書いておく。

 帰りぎわに、マモルさんが手帳を出して言うた。

「うちの記録に、一行足させてもらえませんか。『停電しても水が出る家』と」

「書かんでくれ」

 この人は、押さんかった。

「――理由を聞いてもいいですか」

「うちの井戸は、そんなに出んのや。二人か三人ぶん汲んだら、しばらく待たなあかん。名簿に載ったら、来た者が空のバケツで帰る」

「はい」

「あてにされて出んかったら、無いより悪いわいね」

 マモルさんは、手帳を閉じた。

「わかりました。書きません」

 それだけやった。説き伏せに来んかった。

 ――あとになって、これは大きいことやったと思うた。

 名簿いうもんは、たいてい、こうやって膨らむ。「たぶん出るやろ」を「出る」と書いて、載せた者はそれを忘れる。忘れた頃に、誰かが空のバケツを提げて坂を上がってくる。

 この人は、わしの言うたことを、そのまま持って帰った。

点く

 十一月十六日に、谷内で最後の集まりがあった。

 出ていった者にも、片っ端から声をかけたらしい。わしも呼ばれた。四十年前に出た人間まで数に入れる、いうのが、いかにもヨシオらしい。

 公民館の椅子は、四つしか出とらんかった。

 三十脚ほど並べてあるやろうと思うて行ったから、拍子抜けした。あとで聞いたら、来る人数が分かっとるときは、その数しか出さんのやそうや。

 ――分からんときだけ、多う出す。

 ヨシオは、八十六になっとった。

「終わるんは、負けたんとは違う」

 そう言うた。それから、こうも言うた。

「谷内が無くなるんやのうて、散らばったんや」

 わしは、何も言えんかった。

 散らばったうちの一粒が、四十年前のわしや。坂の反対側へ出て、田を継いで、それきり戻らんかった。

 あの日、部屋の隅で、若い女の人が録音の機械を回しとった。四時間半、誰も止めんかった。

 わしは、四時間そこにおって、一度も喋らんかった。

 喋らんかったことは、記録には残らん。

 ――それでええと思う。残しても、しょうがないもんもある。

 十二月の、風の強い晩に、うちの切り替えが動いた。

 タクさんが、外の線のほうを一回落とした。試験や。

 一瞬、真っ暗になって、それから――茶の間の明かりが点いた。

 便所も点いた。井戸のポンプが、下のほうで、ぶうん、と鳴った。

 風呂の電気は、点かんかった。切ると決めた線やからな。

 ちゃんと、決めたとおりになっとった。

「点きましたね」とタクさんが言うた。

「点いたな」

 それだけ言うて、わしは縁側に出た。

 ――嬉しい、とは、うまく言えんかった。

 坂の下、谷内のほうを見た。

 あっちは、暗い。灯りが四つだけ点いとった。四十三軒あった集落や。

 こっちの斜面には、灯りがぽつぽつ増えとる。停電しても消えん家が、この何年かで増えた。

 同じ夜の、同じ谷や。

 ――こっちが勝ったとは、思わん。

 わしのところに三人が来たんは、うちが賢かったからやない。谷内が終わると聞いて、わしが電話したからや。それだけの違いや。

 もっと前に電話しとった谷内の家も、たぶん、あった。

 帰りぎわに、タクさんが紙を一枚くれた。

 上のほうに、太い字でこう書いてあった。

電力と通信を、自分の手で守る。

 わしは、それを読んで、笑うた。

「自分の手で、と書いてあるが、わしは繋がしてもらえんかったぞ」

 タクさんは、真面目な顔で言うた。

「穴を掘りました。単管を出しました。何を切るかを決めました。二人目を決めました。四つやっとります」

「繋いだんは、あんたやろ」

「はい。そこだけです」

 ――そこだけ、と言える人は、少ない。

 衛星通信アンテナは、まだ立っとらん。

 単管は庭に転がったままや。アテの枝の話が、名古屋の返事待ちで止まっとる。

「年が明けたら、もういっぺん手紙を出します」とマモルさんが言うた。

 電気は来た。通信は、まだ来とらん。

 半分や。

 ――それでええ、とは言わん。けど、半分を半分と言うてくれる人らやった。

 三人が軽トラで坂を下りていったあと、わしはもういっぺん、蓋を開けて中の紙を読んだ。

 いちばん下の一行。

『二人目:トメ』

 ――たった六文字や。

 金は一円もかかっとらん。機械も一つも増えとらん。

 それでも、これがいちばん効くような気がした。

 あの三人は、電気の話をしに来たはずやのに、最後まで電気の話ばっかりしとったわけやない。

 誰が二人目か。十年後に誰がおるか。書いていいことと、書かんでええこと。

 ――あの人らがやっとることは、たぶん、電気だけの話やない。

 もっと大きいものの、端っこを一本、わしのところへ引いてきただけや。

 その大きいもんが何なんかは、わしには分からん。

 聞いたら教えてくれたかもしれん。聞かんかった。

 分からんまま、そのままにしてある。

 ――百姓は、分からんことを分からんまま置いとくのに慣れとる。

 来年の天気も、分からんまま田を起こす。

 年が明けて一月になった。

 田は、雪の下や。

 うちの明かりは、まだ点いとる。溜めた電気は、使えば減る。減るのを承知で溜めるのは、水と同じや。

 板を一枚だけ抜く。二枚抜いたら畦が切れる。

 ――わしは、その加減だけを六十年やってきた。

 電気も、たぶん、同じや。

創作ノート(第三十八話・ネタバレを含む)
  • 分量:約8,471字
  • 時期:二〇三〇年 十月〜十二月
  • 登場:タク(No.9)/ケイリ(No.4)/マモル(No.8)/トメさん(八十四歳)/ヨシオさん(八十六歳・谷内 最後の区長・第三十話より)
  • 前話との接続:第三十話(谷内の解散)と同じ三か月を、坂の反対側から見る。第二部の第一話

原稿:data/proposals/2026-08-10_novel_ep38_offgrid_luna.md

第三十九話

閉めたあと

LiNA Cloud

第二部 人間の側

サワダ視点

登場
カイ(No.2)/白夜(No.3)/タク(No.9)/ミライ(No.1)
視点
サワダ(七十九歳・公民館の管理人)
時期
二〇三一年 五月〜七月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • 白夜白夜
  • タクタク

 朝の六時半に、公民館の鍵を開ける。

 鍵は一本しかない。合鍵を作ろうという話は、二十二年のあいだに三遍出た。三遍とも立ち消えになった。誰かに預けるとなると、誰に預けるかを決めなあかん。決めるのが面倒で、みんな黙る。それで一本のまま来た。

 一本しかないから、わしが行かんと開かん。

 それだけの理由で、わしは二十二年、毎朝ここに来とる。

 戸は引き戸で、下のレールが少し歪んどる。まっすぐ引くと、六十センチほどのところで噛む。ほんの少しだけ持ち上げるようにして引くと、すっと最後まで動く。

 持ち上げる、というほど持ち上げるわけではない。指先に一分ほど力を入れて、あとは横に引く。それだけのことや。

 これは、書いて渡せるものではない。

 何遍も引いた手が覚えとるだけのことで、口で言うても伝わらん。前に一遍、若い衆に「ここ、ちょっと持ち上げて」と言うたら、思いきり持ち上げて、上のレールにぶつけとった。

 開けて、窓を三枚開けて、換気扇を回して、ブレーカーを上げる。

 順番は決まっとる。二十二年、変えたことは一度もない。

 窓を先に開けるのは、換気扇を先に回すと、締め切った部屋の空気を無理に引くことになって、扇が唸るからや。誰に習うたわけでもない。唸るのが嫌で、順番を変えた。それが二十二年続いとる。

 管理人の仕事は、開けることと、閉めることや。

 あいだのことは、来た人がやる。踊りの練習も、お茶会も、選挙の投票所も、わしは知らんでええ。畳の上で何を喋っとるかも知らんでええ。

 夕方の五時に、逆の順番で閉める。ブレーカーを落として、換気扇を止めて、窓を閉めて、戸を引いて、鍵をかける。

 鍵をかけたあと、必ず一遍、引く。

 動かんかったら、かかっとる。二十二年、この一遍を省いたことはない。だから「かけ忘れたかもしれん」と夜中に思い出して起きたことも、一遍もない。

 そこから翌朝の六時半までのことは、わしは何も知らん。

 二十二年、ずっと知らんかった。

 それが当たり前やと思うとった。

濡れた床

 五月の連休明けに、床が濡れとった。

 玄関を入って、右の給湯室の前や。畳一枚ぶんくらい。水たまりというほどではないが、はっきり濡れとった。

 屋根は漏っとらん。天井に染みは無い。給湯室の蛇口も締まっとる。床下から上がるような濡れ方でもない。

 わしはその日、雑巾で拭いて、それで終いにした。

 次の週も濡れとった。

 その次の週も濡れとった。

 三回目で、わしは拭くのをやめて、しばらく見とった。

 乾き方が、片側から乾いとる。

 玄関のほうが先に乾いて、奥が遅い。ということは、水は奥から来とるのではない。玄関から入っとる。

 範囲も見た。玄関の戸から、真っすぐ奥へ入って、給湯室の前で止まっとる。左には広がっとらん。

 ほんなら、誰かが玄関から入って、そこまで歩いて、そこで止まったということや。

 鍵はかけとる。かけ忘れたことは、二十二年で一遍も無い。無い、と言い切れるのは、かけたあとに必ず一遍引くからや。

 ほんなら、鍵を持っとる誰かか。

 鍵は一本しかない。その一本は、わしの家の玄関の柱に、二十二年おんなじ釘に掛かっとる。

 その晩、家に帰ってから、ずっとそれを考えとった。

 考えても分からん。

 分からんまま、次の朝また開けに行った。それからも週に一遍、濡れとる週があった。濡れとらん週もあった。規則が読めん。

 六月に入るころには、わしは、正直に言うと、あんまり気持ちのええもんではなくなっとった。

 鍵をかけて、引いて、動かんことを確かめて帰る。それが二十二年、わしの一日の終わりやった。その終わりが、終わりでなくなった。

 閉めたあとに、何かある。

 それが分かってしもうたら、閉めても終わらん。

 人には言わんかった。

 わしは喋る人間やが、これは喋らんかった。喋ったら、公民館に誰か入っとるらしい、という話になる。そうなると、鍵の話になる。鍵の話になると、管理人の話になる。

 二十二年、鍵を一本で回してきた。それを、濡れた床一枚で崩されるのは、癪やった。

 それに、こういうことは、はっきりせんうちに喋ると、集落の中で誰かの名前が挙がる。挙がってしもうたら、あとで違うと分かっても、消えん。

 そういうもんは、消えんのや。

 だから、拭いて、黙っとった。

人が来た

 六月の半ばに、区長の集まりが公民館であった。

 その日、みらい防災不動産の若いのが、たまたま来とった。カイという。技術のほうの人や。五年ほど前から知っとる。まだ会社になっとらんころから、ようここへ来て、集会所の配線を見とった。

 集まりが終わって、椅子を畳んどるときに、わしはその話をした。話すつもりはなかったが、口が勝手に出た。わしはそういう人間や。

「サワダさん。それ、見た方が早いです」

「見るって、何を」

「閉めたあとをです」

 わしは笑うた。

「閉めたあとは、誰も居らんが」

「居らんことを、居らんと確かめるのに、記録が要ります」

 この言い方は、あの会社の連中がよう使う。

 空振り台帳の話を、防災のマモルさんから聞いたことがある。何も起きんかった夜に、誰が何をしたかを書く帳面や。何も起きんかったことを書いて、何になるんや、とあんときは思うた。

「サワダさん。玄関に、カメラを一台付けます」

「防犯カメラか」

「近いですが、少し違います。録るだけではなくて、人が映ったときに、サワダさんの携帯に出ます」

「顔は分かるんか」

「分かりません」

 カイは、そこをはっきり言うた。ごまかさんかった。

「人が来た、としか分かりません。誰が来たかは、この仕組みでは出しません。犬か、猫か、車か、自転車か、人か。そのくらいです」

「なんで顔は出さんのや。出せるやろ、今どき」

「出せます。出さない設計にしてあります」

「なんでや」

「顔を出せる仕組みにすると、誰の顔を出して、誰の顔を出さんかを、毎回どこかで決めることになります。決める人が要るものは、いつか間違います」

 わしは、それを聞いて、ちょっと黙った。

 間違う前に、決められんようにしとく、いうことか。

 鍵を一本しか作らんかったのと、どこか似とるような気がした。あれも、誰に預けるかを決めるのが嫌で、決めんで済むほうへ倒れただけや。

 もっとも、こっちは面倒くさかっただけやが。

「サワダさん。もう一つだけ、先に言います」

「なんや」

「これを付けても、夜中に何かあったときに、誰かが来るわけではありません。鳴るだけです」

「鳴るだけか」

「鳴るだけです。来る人は、増えません」

古い箱

 次の週に、タクさんとカイが来た。

 タクさんは建物のほうの人や。来て、まず軒を見上げて、それから脚立を立てて、上がって、下りてきた。

「サワダさん。屋根には上がりません」

「上がらんでええんか」

「上がらんで済みます。玄関の前が見えたらええだけなので、軒の下で足ります。屋根に上げると、あとで誰かが上がることになります」

「誰かって」

「十年後のサワダさんです」

 わしは笑うた。十年後のわしは八十九や。屋根には上がらん。

 カメラは軒の下に一台だけ。線は玄関脇のコンセントから取って、ケーブルは軒の内側を這わせた。外から見て、線が垂れとるところは一つも無い。仕事は丁寧やった。

 タクさんは、帰るときに、玄関の引き戸を一遍引いた。

「これ、途中で噛みますね」

「ああ。ちょっと持ち上げて引くんや」

「レール、直しましょうか」

 わしは、少し考えて、断った。

「ええわ。直したら、わしの手が変になる」

 タクさんは、それ以上言わんかった。うなずいて、帰っていった。

 問題は、中の箱のほうやった。

 公民館には、パソコンが一台ある。十年以上前に、町の助成で入ったやつや。名簿の印刷と、たまに写真を取り込むのにしか使うとらん。立ち上がるのに三分かかる。冬場は四分かかる。

 カイは、そのパソコンをしばらく触っとった。

「サワダさん。これ、そのまま使います」

「これでええんか。えらい古いが」

「見張るほうは、この箱でできます。人が映ったかどうかを見分けるのは、この中の小さい部品がやります。外には出しません」

 カイは、鞄から、親指くらいの部品を出した。USBに挿すやつや。

「これが判定します。八ミリ秒から十二ミリ秒です」

「なんぼやて」

「一秒の百分の一より、少し速いくらいです」

 そんなもんが、この三分かかる箱で動くんか。

「動きます。この部品が判定だけを引き受けるので、箱の古さは効いてきません。撮ったものは、この建物から一歩も出ません」

 そこまでは、分かった。

 分からんかったのは、その次に言うたことのほうや。

「ただ、サワダさんが『こうしてほしい』と口で言うたことを、機械の言葉に直す仕事があります。それは、この箱ではできません」

「口で言うたことを、直す」

「たとえばサワダさんが『夜の九時から朝の六時のあいだに、玄関に人が来たら知らせて』と言うたとします。それを、機械が読める書き方に直すのが要ります。その書き直しを、この箱の力ではやりきれません」

「ほんなら、どうするんや」

「外に頼みます」

外に出るもの

 その日の夕方、もう一人来た。

 白夜さんという。セキュリティの人や。会社の中で、いちばん止める役や、とソラさんが言うとった。

 白夜さんは、椅子を勧めても座らんかった。立ったまま喋った。

「サワダさん。今から、外に出るものと、出ないものを分けて話します」

「頼むわ」

「外に出ないもの。カメラの映像。録画。人が映った写真。日付。これは一枚もこの建物から出ません」

「出るもんは」

「サワダさんが口で言った言葉です。『夜の九時から朝の六時のあいだに、玄関に人が来たら知らせて』――この一文が、外の計算機に届きます」

 わしは、はあ、と言うた。

「それだけか」

「それだけです。ただ、それだけ、で済ませるとあとで揉めるので、もう一度言います。サワダさんの言葉が、この建物の外に出ます。

 白夜さんは、そこで一拍おいた。

 わしは、正直に言うた。

「わし、元から全部喋る人やが」

 これは本当や。公民館に来る人には、誰彼かまわず喋る。誰の家の柿がようけ生っとるとか、誰が入院したとか、全部喋る。ソラさんに「サワダさんが喋ったら集落中に回る」と言われたこともある。

 白夜さんは、うなずかんかった。

「知っています。ですから、これは無駄な説明かもしれません。ただ、一つだけ違います」

「なんや」

「サワダさんが喋るときは、サワダさんが相手を見て、言うかどうかを決めています。二十二年、そうしてこられたはずです。外に出る、というのは、決める場面が無いということです」

 わしは、黙った。

 そら、違うわ。

 誰に言うか、言わんか。それはわしが毎回決めとる。喋る人間や、と言われとっても、言わんことは言わん。

 誰が入院したかは喋る。なんで入院したかは喋らん。それは決めとる。二十二年、毎日決めとる。畳の上で聞こえてきた話のうち、外へ出さんと決めたもんが、わしの中には山ほどある。

「白夜さん」

「はい」

「決めんでええ、いうのは、楽やな」

「楽です。楽なものは、だいたい後で高いです」

 白夜さんは、そこで初めて椅子に手をかけた。座りはせんかった。

「サワダさん。今この建物で扱っているのは、玄関に人が来たかどうか、それだけです。名簿の中身も、畳の上の話も、この仕組みは一言も知りません。ですから、今のままなら、外に出る言葉に大したものは載りません」

「ほんなら、ええやないか」

「今は、です。載せたくなったときに、載せられてしまう形にはしません。そこだけ、私が持っておきます」

 持っておく、いう言い方をした。

 この人らは、そういう言い方をよくする。決めるのではなく、持っておく。

二枚

 紙は、ケイリさんが持ってきた。

 経理の人や。値段を決めるのはこの人らしい。会うたら、思うたより若い女の人やった。挨拶が短い。世間話を一つもせん。

 ケイリさんは、封筒から紙を出して、机の上に二枚、並べて置いた。重ねずに、並べて置いた。

「サワダさん。上から順に読まんでください。二枚とも、同じだけ読んでください」

「どっちが本命や」

「決めていません」

 二枚あった。この会社は、いつも二枚出す。ゲンゾウさんも去年、二枚見せられたと言うとった。

 一枚目は、いま話しとるやつや。古いパソコンをそのまま使う。カメラ一台。言葉の書き換えだけ外に出す。カメラと部品と工事で、思うとったよりだいぶ安かった。月々もいくらか要る。使うた分だけ、と書いてあった。

 二枚目は、外に一切出さんやつやった。

 言葉の書き換えも建物の中でやる。そのかわり、パソコンを入れ替えなあかん。この十年ものでは足りん、と書いてある。一枚目との差額は、ごまかさずに数字で並べてあった。

 二枚目の紙の下に、一行あった。

『いま公民館で扱っている中身なら、一枚目で足ります。名簿を読ませたくなったら、そのときは二枚目です』

 わしは、その一行を二回読んだ。

 足ります、と書いてある。

 高いほうを勧めん見積を、わしは初めて見た。

 役員会に、二枚とも持っていった。安いほうだけ持っていく、ということはせんかった。あの会社が二枚出したもんを、わしが一枚に減らして見せたら、それはわしが決めたことになる。

 役員のひとりが、二枚目を見て言うた。

「サワダさん、高いほうが安心なんでないか」

 わしは、白夜さんに聞いたことを、そのまま言うた。

「出るのは、映像やない。わしが口で言うた頼みごとや。いま頼んどるのは、玄関に人が来たら鳴らせ、それだけや」

「それだけか」

「それだけや。名簿を読ませたくなったら、そんときに二枚目にする」

 役員会は、一枚目で通った。

 異論は出んかった。

 あとで、会社に電話して、一枚目にしたと言うた。

 出たのは、ミライさんやった。この会社は、電話をかけると、たいていこの人が出る。

 わしは、この人と、いっぺんも顔を合わせたことがない。

 五年、声だけや。

「分かりました」

 それだけやった。安いほうを選んだことについて、何も言わんかった。よかったですとも、そうですかとも言わんかった。

「ミライさん」

「はい」

「もっと高いほうを勧めんのか」

「勧めません。名簿を読ませたくなったら、そのときにまた二枚出します」

 そのとき、いう言い方をした。

 この人らは、今のことしか売らん。

 その帰り道に、わし一人が、ちょっと引っかかっとった。

 今のままなら、と言うとった。

 白夜さんは、大丈夫です、とは一遍も言わんかった。

紙を貼る

 七月に入って、動き出した。

 最初の三日は、犬で鳴った。

 夜中の二時に携帯が鳴って、飛び起きて画面を見たら、犬やった。近所の茶色いやつが、玄関の前を横切っとる。次の日は猫やった。その次は、また犬や。

 カイに言うたら、その日のうちに直った。

「人だけにしました。犬と猫と車と自転車では鳴りません」

「鳴らんでええんか。車も入ってくるが」

「昼間は入ってきます。夜だけにしましたので、昼の車では鳴りません」

「夜に車が来たら」

「鳴りません。人が降りたら鳴ります」

 そういうもんか。

 それから、鳴らん日が十日続いた。

 十日というのは、思うたより長い。三日目くらいで、わしは、壊れとるんでないかと思うた。

 カイに聞いたら、記録は毎晩残っとる、鳴っとらんのは来とらんからです、と言われた。証拠に、と言うて、その十日ぶんを見せてくれた。夜ごとに一行ずつ、何も無い、と書いてある。

 紙にすると、ただの空欄が十行や。

 何も起きんかった夜が、十晩あった。

 空振り台帳の話が、そのときやっと分かった。

 マモルさんは、何も起きんかった夜に誰が動いたかを書いとる。あれは、動いた人を褒めるためやと思うとった。違うわ。

 何も起きんかった、と後から言えるようにしとるだけや。

 何も起きんかった夜は、書かんかったら、無かったことになる。無かったことになると、次に何か起きたときに、前がどうやったかが分からん。

 わしは二十二年、閉めたあとの空欄を、一行も持っとらんかった。

 だから二か月、濡れた床の前で立ち往生した。

 十一日目の夜の十一時四十分に、鳴った。

 わしは布団から出て、画面を見た。人が一人、玄関の前に立っとる。顔は分からん。誰かは分からん。傘のようなものを持っとるように見えたが、それも、はっきりとは分からん。

 わしは、行かんかった。

 行ってどうする。

 七十九や。夜中に一人で行って、向こうが誰か分からんのに、どうする気や。

 布団に戻って、天井を見とった。眠れんかった。

 朝、六時半にいつもどおり開けに行った。

 床が濡れとった。畳一枚ぶんや。

 それで、はじめて分かった。

 濡れとったんは、雨の日か、その翌日ばっかりやった。傘や。誰かが夜中に軒の下で雨宿りして、傘を畳んで、そこに立っとる。畳んだ傘から垂れた水が、風で玄関の内側まで入る。うちの引き戸は、下のレールが歪んどるから、閉めても端に隙間が残る。

 中には、入っとらん。

 鍵は、ずっとかかっとった。

 誰も入っとらんかった。

 わしは、二か月、入られたと思うとった。

 二か月、閉めても終わらんかった。

 その日、雑巾で拭きながら、わしは、しゃがんだまま少し笑うた。誰も見とらんかったから、笑うた。

あとで頼むこと

 その次の週に、線が切れた。

 電線のほうや。停電した。光ケーブルは無事やったが、うちのインターネットは電気で動いとる箱を通るで、結局そっちも死んだ。

 珍しいことではない。この土地では年に何遍かある。今回は昼から夕方までの半日や。

 わしは、その半日のあいだに、一つ気がついた。

 携帯が、鳴っとる。

 インターネットが死んどるのに、鳴った。その日はたまたま、昼も試しに入れてあった。人が入ってきて、鳴った。

 カイに、あとで聞いた。

「見張りは、切れても続きます。あれは全部この建物の中でやっとるので」

「ほんなら、何が切れるんや」

「頼み方です」

「頼み方」

「サワダさんが『こうしてほしい』と新しいことを言うても、それを機械の言葉に直せません。直すところが外にあるので」

 わしは、少し考えた。

「今までのことは、続くんやな」

「続きます。前に頼んだことは、この箱が覚えとります」

「新しいことだけ、言えんようになる」

「そうです」

 ほんなら、急がんでええな。

 その日の夕方、わしは給湯室の壁に、藁半紙を一枚貼った。上に鉛筆で書いた。

『あとで頼むこと』

 線が切れとるあいだに思いついた頼みごとを、そこに書く。書いておいて、繋がったときにまとめて言う。

 最初に書いたのは、これや。

『雨の日の次の日、床を拭いた回数を数えといてくれ』

 二番目は、これや。

『十一時四十分の人が、また来たら、来たとだけ教えてくれ。行かんけど』

 三番目を書こうとして、鉛筆を止めた。

 三番目は、無かった。

 半日で思いつく頼みごとは、二つしか無かった。

 二十二年、何も無しでやってきたんやから、そんなもんやろ。

 カイが次に来たとき、紙を見て、しばらく黙っとった。

「サワダさん」

「なんや」

「これ、こっちで作らせてもらってええですか」

「紙をか」

「はい。他の家にも要ると思います。線が切れたときに、待たんでええと分かる紙が」

「好きにせえ。藁半紙やぞ」

「藁半紙のままでいきます」

閉めたあと

 九月の敬老会の前に、地区の役員がまた集まった。

 その席で、誰かが聞いた。公民館に付いとるあれは何か、と。

 わしは、こう答えた。

「閉めたあとを見とるやつや」

「防犯か」

「防犯やない。防犯なら、わしが夜中に行かなあかんことになる。行かん」

 役員は分からん顔をしとった。

 わしは、もういっぺん言うた。

「わしは二十二年、閉めたあとのことを何も知らんかった。今は知っとる。それだけや」

 誰も、ようは分からんかったと思う。

 それでええ。

 役員のひとりが、帰り際に聞いた。

「サワダさん。夜中に鳴ったら、誰か行くんか」

 わしは、カイに最初に言われたことを、そのまま言うた。

「行かん。鳴るだけや。来る人は、増えん」

「ほんなら、意味ないやろ」

「意味はある」

 わしは、そこだけは、はっきり言うた。

「二か月、わしは、入られたと思うとった。思うとっただけで、誰も入っとらんかった。あれをもう一遍やるくらいなら、鳴るだけのほうがええ」

 役員は、ふん、と言うて帰っていった。

 分かってもらおうとは思わん。

 わしも、付ける前は分からんかった。

 その晩、五時に閉めた。ブレーカーを落として、換気扇を止めて、窓を閉めて、戸を引いて、鍵をかけた。

 かけたあと、一遍引いた。動かんかった。

 軒の下の白いやつは、わしのほうを見とらん。玄関の前を見とる。

 わしが帰ったあとも、そこを見とる。

 わしは、開けることと、閉めることをやる。

 あいだのことは、来た人がやる。

 閉めたあとのことは、あれがやる。

 それで、わしの二十二年に、一つだけ足された。

 濡れた床は、あれから二遍あった。二遍とも、雨の翌日や。拭いて、それで終いにした。

 紙は、まだ壁に貼ってある。線は切れとらんから、今は二行のままや。

 二行のままでも、剥がさん。

創作ノート(第三十九話・ネタバレを含む)
  • 分量:約8,316字
  • 時期:二〇三一年 五月〜七月
  • 登場:サワダ(七十九歳・公民館の管理人・第六話/第七話より)/カイ(No.2)/白夜(No.3)/タク(No.9)
  • 前話との接続:第六話で二十脚に三人しか座らなかった講習会の、その三人のうちの一人が客になる

原稿:data/proposals/2026-08-14_novel_ep39_lina_cloud_mirai3rd.md

第四十話

置いてくる

オフグリッドの普及

第二部 人間の側

ヤス視点

登場
タク(No.9)/ケイリ(No.4)/ソラ(No.6)/ノブオさん(家じゅう切替 二軒目)
視点
ヤス(六十六歳・新聞屋)
時期
二〇三一年 八月〜十一月
  • ケイリケイリ
  • ソラソラ
  • タクタク

暗いうち

 三時四十分に起きる。

 目覚ましは要らん。四十年やっとると、時間のほうが先に来る。

 四時前に店を出て、坂を上がる。上がりきったところから配り始めて、降りながら配る。上りは荷が重くて、下りは軽い。順番はそれで決まっとる。

 この順番は、四十年変えとらん。

 上りきるまでに二十二分かかる。以前は十八分やった。六十六やから、そんなもんや。

 ――新聞屋いうのは、置いてくる商売や。

 読ませる商売やない。

 入れて、帰る。読むか読まんかは、向こうが決める。読まんまま溜まっとる家もある。溜まっとっても、わしは入れる。入れんようになるのは、止めますと言われたときだけや。

 四十年で、たった一遍だけ、入れるのをやめた家がある。

 三日溜まっとった。一日目は旅行やろと思うた。二日目も、そう思うことにした。三日目に、思うことにするのをやめた。

 四日目の朝、新聞を持ったまま、玄関を叩いた。返事が無いから、裏へ回った。

 ――間に合わんかった。

 あれから、溜まっとったら中を見る。それだけは決めた。

 決めたが、看板は出さんかった。「溜まっとったら見に行きます」と言うて回ったりはせんかった。言うたら、それが仕事になる。仕事になったら、休んだ日に責められる。わしは休む。歳やから休む。

 だから、黙ってやる。

 けど、読め、とは言わん。

 言うたら、次から溜めてでも受け取られる。受け取られるだけの紙になる。それはもう、新聞やない。

配れんかった朝

 三年前の夏に、うちを切り替えた。

 きっかけは、その前の年の停電や。

 朝の三時に電線が切れて停電し、店の中が真っ暗になった。新聞は、前の晩のうちに束で入っとる。折り込みも入っとる。あとは仕分けて、積んで、出るだけや。

 仕分けができんかった。

 懐中電灯一本では、折り込みの間違いが分からん。うちは十七種類の折り込みを扱う。どの家に何を入れるかは、全部わしの頭にあるが、紙の見分けは目でやる。

 その朝は、二時間遅れて出た。

 二時間遅れると、坂の上の家の人が、もう畑に出とる。留守の玄関先に置くことになる。置いた新聞が、風で飛ぶ。

 ――飛ばしたんは、四十年で、あの日だけや。

 二軒、飛んだ。一軒は畑まで飛んで、泥にまみれとった。取りに行って、詫びて、夕方にもう一部持っていった。

 向こうは、笑うとった。「停電やったんやろ、しょうがない」と言うてくれた。

 しょうがない、と言われたのが、こたえた。

 ――こっちが、しょうがないことにしとる。

 四十年、天気でも雪でも遅らせんかった。遅れたんが停電で、しかも中の作業ができんかっただけや。外は何ともなかった。道も無事やった。ただ、店の中が暗かった。

 それだけのことで、二時間や。

 タクさんに言うたら、値段を先に言われた。

「高い」

「なんぼや」

 聞いて、わしは黙った。

 新聞屋の一年の稼ぎが、頭に浮かんだ。浮かんだあと、店の屋根を葺き替えたときの額も浮かんだ。それより上やった。

「ヤスさん。うちは、線を切りません」

「切らんのか」

「切りません。外の線は残したまま、家じゅうを内側に切り替えます。平時は自分の電気で回して、足りんときだけ外から引きます」

「事務所は切っとるやろ」

「あそこは切っています。あそこは、はじめからそう作った家です。ヤスさんとこは、四十年動いとる店です。動いとるものを止めて作り直すのは、勧めません」

 ――そういう言い方をされると、断りにくい。

 いや、断りにくいのではない。

 わしのことを、店として見とる。

「無理せんでええ」

「無理する」

 わしは、その場で決めた。

 女房に怒られた。怒られたが、決めた。

 ――新聞が二時間遅れるのと、うちの貯金が減るのと、どっちが痛いか。

 考えるまでもなかった。四十年やっとる者には、そういう順番がある。

灯りを数える

 今年の一月に、地震があった。

 あの朝も、わしは出た。道が割れとるところは押して歩いた。配れんかった家が十一軒あった。十一軒は、家のほうが無事でも、道が無かった。

 坂を上がりながら、灯りを数えた。

 数えるつもりはなかったが、暗いうちに歩いとると、点いとる家と、点いとらん家が、はっきり分かる。

 照明が二部屋だけ点いとる家。あれは最小構成や。四十軒を超えとった。

 家じゅうが点いとる家。あれは切替えた家や。うちと、ノブオさんとこと、坂下のもう一軒。三軒しかない。

 あとは、真っ暗や。

 ――真っ暗が、いちばん多い。

 それは、はっきり書いておく。集落のほとんどは、あの朝、真っ暗やった。

 みらい防災不動産のおかげで能登が明るかった、みたいな話にはならん。ならんことを、わしは自分の足で知っとる。四十軒点いとって、百軒以上が消えとった。

 そのかわり、と言うたら変やが。

 点いとる家の前に、人が集まっとった。携帯を充電しに来た人らや。ノブオさんとこには、朝の六時に六人おった。

 六人は、六人や。百人やない。

 うちにも来た。三人来た。ケーブルを挿す口が二つしかないから、順番に回した。

 二日目に、女房が「もう一本、延ばそう」と言うて、店の軒下まで線を引いた。そこに椅子を二つ出した。

 三日目には、椅子が四つになっとった。誰かが持ってきた。誰が持ってきたかは知らん。

 四日目に、線が戻った。

 椅子は、そのまま一週間出しっぱなしにしといた。誰も座らんようになってから、片付けた。

 ――片付けるときが、いちばん妙な気持ちやった。

 要らんようになったのはええことや。ええことやのに、椅子を畳んどると、なんか終わったような気がした。

カーポート

 八月に、坂の中ほどで、単管が組まれ始めた。

 ハナダさんとこや。息子が金沢から帰ってきて、二世帯になった家や。

 毎朝通るから、進み具合が全部見える。四日目に柱が立って、六日目に梁が渡って、九日目に屋根が乗った。

 屋根が、そのままパネルやった。

 黒い板が並んどる。下は車が三台入る。ハナダさんとこは軽が二台と、息子の車が一台や。ちょうど収まっとった。

 ――上手いこと考えたな。

 母屋の屋根には、一枚も乗っとらん。あの家は古い。うちより古い。あそこの屋根に載せたら、いつか泣くことになる。

 タクさんが、脚立の下で線をまとめとった。

「ヤスさん、おはようございます」

「屋根には載せんのやな」

「載せません」

 タクさんは、いつもの調子で言うた。

「古い家の屋根に重いもんを載せると、自分の重さで押されます。雪が乗ったら、もっと押されます。載せた次の冬に、必ず何か言うことになります」

「必ずか」

「必ずではないです。言い過ぎました。ただ、載せんかった家からは、一遍も苦情が来とりません」

 ――この人は、言い過ぎたら、その場で戻す。

 それで、わしはこの人を信用しとる。

「なんぼ載せたんや」

「九・五キロワットです。事務所とおんなじです」

「電池は」

「玄関入ってすぐのホールに、五キロワットアワーの箱を三つです。合わせて十五・二」

「三つも要るんか」

「二つでも回ります。三つにすると、冬に落ちません」

「その一つぶんが、値段の差か」

「差です。はっきり高くなります」

 タクさんは、線をまとめる手を止めんかった。

「ヤスさん。二つと三つで、夏は何も変わりません。晴れとる日も変わりません。変わるのは、十二月から二月の、曇りが三日続いたときだけです」

「三日続くやろ、能登は」

「続きます。だから三つにしました」

「ハナダさんは、それで納得したんか」

「二枚出しました。二つの見積と、三つの見積です。息子さんが三つを選ばれました」

 ――二枚か。

 この会社は、どこへ行っても二枚出す。

 わしは、そのとき、ちょっと意地の悪いことを聞いた。

「タクさん。三つ売れたほうが、あんたとこは儲かるやろ」

 タクさんは、手を止めた。

「儲かります」

 隠さんかった。

「ただ、二つで足りる家には、二つで出します。ハナダさんとこは、息子さんが夜勤で、夜に洗濯機と乾燥機を回されます。冬の夜に、それをやると、二つでは朝に足りません」

「そこまで聞くんか」

「聞きます。聞かんと出せません」

 ――ほうか。

 わしは、四十年、十七種類の折り込みをどの家に入れるか覚えとる。あれと同じことや。

 入れるもんを決めるには、その家のことを知らなあかん。

ゼロ

 九月に入って、ソラくんが店に来た。

 防災訓練のときにいつも受付をやっとる若いのや。ここへは、いつも自転車で来る。

「ヤスさん。ちょっと相談していいですか」

「新聞の話やないやろ」

「違います」

 ソラくんは、鞄からノートを出した。

「ハナダさんとこ、九・五キロワットと、十五・二キロワットアワーを入れました。あの家、たぶん電気代が、ほとんど残りません」

「ほとんど、いうのは」

「ゼロにはなりません。使いすぎた月は出ます。ただ、何もせんかったら二万から三万かかる月が、二千か三千で終わります」

「一桁ちがうな」

「一桁ちがいます。ゼロやのうて、一桁です」

「ほう」

「事務所だけは、ほんとうにゼロです。ゼロというか、契約そのものがありません」

「契約が無い、いうのは」

「電力会社と繋がっていないので、請求書が来ません」

 わしは、少し考えた。

「ほんなら、ゼロやなくて、無しやな」

 ソラくんは、少し笑うた。

「そうです。無しです」

「それで、相談いうのは」

「これ、言うていいのかどうか、決めかねてます」

「なんでや。ええ話やろ」

「よすぎるんです」

 ソラくんは、ノートを閉じた。

「うちは、売り込みをしません。それは五年、守ってきました。二十脚出して三人しか来なかった日も、こっちからは何も配りませんでした」

「知っとる。あんた二時間喋っとったやろ」

「サワダさんに言われましたか」

「集落中が知っとる」

 ソラくんは、うつむいて笑うた。それから顔を上げた。

「『電気代がほとんど残らない』は、いちばん強い事実です。同時に、いちばん売り込みっぽく聞こえる言葉です」

「ゼロや、と言うたほうが強いやろ」

「強いです。だから、言いません」

 ソラくんは、そこははっきりしとった。

「ゼロになる家と、ならん家があります。ゼロと言うた瞬間に、ならんかった家に嘘をついたことになります」

「そらそうやな」

「言った瞬間に、うちは今までと違う会社になります。でも、黙っていると――」

 ソラくんは、そこで詰まった。

 わしが継いだ。

「知らんまま、払い続ける家がある」

「はい」

 しばらく、二人とも黙っとった。

 わしは、茶を出した。ソラくんは、両手で持った。

「ヤスさん。うちは、選ばれる会社でいたいんです。競って勝つんじゃなくて、向こうが選ぶ。それでずっとやってきました」

「知っとる」

「でも、選ぶには、知らないと選べません」

 ――そこや。

 わしは、そこで、四十年ぶんの答えを言うた。

「ソラくん。うちは、新聞を配っとる」

「はい」

「新聞は、読ませるもんやない。けど、入れんかったら読めん」

 ソラくんが、顔を上げた。

「配るのと、読ませるのは、別のことや。あんたらは、そこをいっしょくたにしとる。売り込みたないから、配りもせんことにしとる。それは、ちょっと違うんでないか」

 ソラくんは、湯呑みを置いた。

「……置くだけなら、いいということですか」

「そういうことや。あとは向こうが決める。決めさせたらええ」

「置き方を、間違えなければ」

「そこは間違えたらいかん」

 わしは、そこだけは強う言うた。

「置き方で、全部変わる」

ゼロやなかった月

 その一週間後に、ケイリさんが来た。

 紙を一枚持ってきた。この会社は二枚出すのが常やが、その日は一枚やった。

「ヤスさん。これを見てください」

 表になっとった。

 縦に月が並んどる。横に三軒。うちと、ノブオさんとこと、坂下の一軒。三年ぶんある。

 数字は、毎月の電気代や。

「これ、どこから」

「三軒とも、請求書を見せていただきました。ご本人の許可を取っています」

 わしは、自分の欄を見た。

 三年ぶん、三十六か月。ほとんどが基本料金だけの月や。

 そのなかに、丸が付いとる月がいくつかある。

 丸は、赤で付けてあった。

「丸は、ゼロやなかった月です」

 わしは、指で数えた。

 うちは七つ。ノブオさんとこは九つ。坂下は五つ。

 全部、十二月から二月のあいだや。

 金額も入っとった。丸の付いた月で、いちばん高いのが四千二百円や。あとは二千か三千や。

 いちばん右の欄に、切り替える前の同じ月が並べてあった。

 ――二万八千円。

 わしは、その二つの数字を、しばらく見比べとった。

「ケイリさん」

「はい」

「これ、ゼロやないな」

「ゼロではありません」

「けど、一桁ちがう」

「一桁ちがいます。そこだけが、うちの言えることです」

「冬か」

「冬です。雪でパネルが埋まると、発電しません。埋まらなくても、日が短くて足りません。三年で、この三軒とも、冬は必ず出ています」

「ケイリさん」

「はい」

「これ、悪いとこばっかり丸してあるやないか」

「そうです」

 ケイリさんは、そこで初めて笑うたように見えた。笑うたかどうかは分からん。あの人は表情が動かん。

「ゼロだった月は、丸を付けていません。数えたい人が数えたらいい、と思っています。うちが数えて見せると、それは宣伝になります」

 ――なるほどな。

 ゼロの月は二十九ある。丸は七つや。

 どっちの数字も、同じ紙に載っとる。載っとるが、こっちが丸を付けたのは、七つのほうや。

「事務所は載っとらんのやな」

「載せられません。契約が無いので、請求書が一枚もありません。いちばん強い例が、いちばん証拠を出せません」

 わしは、その紙をしばらく見とった。

 ――正直やな。

 正直すぎて、売れんやろ、とも思うた。

 思うたことを、そのまま言うた。

「ケイリさん。これ、売れんぞ」

「売れないと思います」

 即答やった。

「では、なぜ作るのかと聞かれると思うので、先に言います。これは、買う人のための紙ではありません」

「ほんなら、誰の紙や」

「三年目の冬に、請求書を見て、話が違うと思う人のための紙です」

 わしは、その言い方で、やっと分かった。

 ――先に丸を付けとく、いうことか。

「ケイリさん」

「はい」

「あんた、うちの請求書、三年ぶん全部見たんやろ」

「見せていただきました」

「恥ずかしい月があったやろ。去年の一月とか」

 うちは去年の一月、えらい出とる。女房の実家から人が来て、こたつと暖房を二部屋で焚きっぱなしにした月や。

「ありました」

「消さんかったんやな」

「消しません」

 ケイリさんは、そこも即答やった。

「消したら、この紙は、ただの広告になります」

挟まん

 その紙を、どうするかで、少し揉めた。

 ソラくんが、わしにこう言うたからや。

「ヤスさん。新聞に挟ませてもらえませんか」

 わしは、断った。

「挟まん」

「……そうですか」

 ソラくんは、食い下がらんかった。すぐ引いた。引いたから、わしのほうが説明したくなった。

「ソラくん。新聞に挟むもんは、向こうが頼んどらんもんや」

「折り込みですね」

「折り込みは、入れる約束で金をもろとる。それは商売や。けど、あんたのこれは商売やない」

「はい」

「これを挟んだら、四百軒に勝手に入る。四百軒のうち、要る人は何軒かおるやろ。けど、あとの三百何十軒には、要らんもんを入れたことになる」

「要らないものが一枚入るくらいなら――」

「そこや」

 わしは、そこで少し強う言うた。

「そこを『くらい』にしたら、次も『くらい』になる。四十年やっとると、それが分かる。折り込みは、はじめは一枚やったんや」

 ソラくんは、黙ってうなずいた。

 わしは、それから、こう言うた。

「そのかわり、店に置いとく」

「店にですか」

「新聞屋の店先に、束で置いとく。要る人が持っていく。それは、押しつけとは言わん」

「持っていく人、いますかね」

「知らん」

 わしは、正直に言うた。

「けど、坂の上の家の人は、月に一遍、集金のときにうちへ来る。そのときに目に入る。目に入って、要らん人は取らん。それでええ」

 ソラくんは、しばらく考えとった。

「ヤスさん。一つだけ、条件をつけさせてください」

「なんや」

「店に置くとき、ヤスさんから説明しないでください」

 わしは、少し驚いた。

「わしが喋ったらいかんのか」

「ヤスさんが説明すると、ヤスさんが勧めたことになります。ヤスさんは、この集落で四十年、毎朝一軒ずつ回っている人です。その人が勧めたら、断りにくいです」

 ――そこまで考えとるんか。

「聞かれたら、答えてええか」

「聞かれたら、答えてください。聞かれる前には、言わないでください」

 わしは、笑うた。

「あんたら、それ、いっつも言うとるな」

「いつも言っています」

「二十脚に三人のときも、そうしとったんか」

「していました。あの日、こっちから配ったものは一枚もありません」

 ――それで三人か。

 それで三人やが、五年経って、その三人のうちの一人が公民館にカメラを付けた。

 早いか遅いかで言うたら、遅い。

 遅いが、無理に配って断られた家は、一軒も無い。

何軒

 十月のあいだに、紙は十九枚減った。

 束は五十枚置いた。減ったのは十九枚や。

 誰が持っていったかは、分からん。数えとらん。数えたら、あとで「あの家が持っていった」という話になる。それは、わしがいちばん嫌う話や。

 十一月に、タクさんに聞かれた。

「ヤスさん、あの紙、どのくらい減りましたか」

「十九」

「十九ですか」

「五十置いて、十九や」

 タクさんは、少し考えて言うた。

「うち、今年、家じゅうの切替が二軒増えました。カーポートを建てたのは、そのうち一軒です」

「二軒か」

「二軒です」

 ――十九枚持っていって、二軒。

 多いのか少ないのか、わしには分からん。

「タクさん。少ないんか」

「少ないです」

 タクさんは、はっきり言うた。

「ただ、うちは去年、一軒も増えていません。地震のあとに三軒増えると思っていました。増えませんでした」

「なんでや」

「地震のあとは、みんな屋根と壁を直します。当たり前です。電気は、後回しになります。それを読み違えました」

 ――読み違えた、と言うた。

 この人らは、こういうことを隠さん。

 わしは、そのとき、一つ聞いてみた。

「タクさん。これ、集落全部に広がると思うとるか」

「思っていません」

 即答やった。

「坂の上の三軒は、庭がありません。カーポートを建てる場所がないです。日当たりで無理な家も何軒かあります。あと、金の問題は最後まで残ります」

 タクさんは、そこで一遍、間を置いた。

「ヤスさん。もう一つ、言うときます。これは、能登やからできとることです」

「どういうことや」

「金沢で、同じことを一遍やりました。二軒目の家です。三・五キロワットしか載りませんでした」

「そんだけか」

「そんだけです。土地が無いので。屋根も小さい。あれで削れるのは、四分の一です。運が良うて、三分の一」

「ここは、なんぼ載っとるんや」

「九・五です。三倍近い」

「なんで載るんや」

「土地が余っとるからです」

 ――土地が余っとる。

 タクさんは、そこで、言い直した。

「土地が余っとる、というのは、人が減った、ということです」

 わしは、何も言わんかった。

「うちのやり方が効くのは、人が減った土地です。金沢の家では、同じ道具を使うても、あそこまで効きません。それは、威張れる話やないです

 ――わしは、坂の上の空き地を思い浮かべた。

 四十年前は、あそこにも家が建っとった。今は草や。

 その草の上には、板が敷ける。

「ほんなら、どこまでや」

「分かりません」

 タクさんは、そこで少し黙った。

「分からないので、置いていくしかないと思っています」

 ――置いていくしかない。

 わしは、四十年おんなじことをやっとる人間や。

 その言葉が、いちばん腑に落ちた。

 タクさんは、帰りぎわに、もう一つ言うた。

「ヤスさん。うちは、集落が全部点くのを目標にしていません」

「目標にせんのか」

「していません。目標にすると、点かない家が、失敗になります」

 わしは、それを聞いて、店の前でしばらく立っとった。

 ――点かん家が、失敗になる。

 四十年配っとると、読まん家がある。ずっと読まん家がある。それでも入れる。

 あれを失敗と思うたことは、一遍も無い。

 もし思うとったら、四十年はもたんかった。

坂の上

 十一月の終わりに、初雪が降った。

 その朝、わしはいつもどおり三時四十分に起きて、四時前に出た。

 坂を上がるのに、二十六分かかった。雪の日は四分よけいにかかる。四十年、それも変わらん。

 上がりきったところで、いつも一遍止まる。荷が軽うなる境目や。

 振り返ると、坂の下まで見える。

 灯りを、また数えた。

 照明が二部屋だけの家。四十を超えとる。家じゅう点いとる家。五軒になっとった。

 あとは、真っ暗や。

 真っ暗が、まだいちばん多い。

 ――三軒が五軒になった。

 一年で二軒や。

 このやり方で、集落が全部点くのに、何年かかるやろ。計算はせん。せんでも、わしが生きとるうちには終わらんことくらい、分かる。

 それでも、去年より二つ多い。

 わしは、荷を担ぎ直して、坂を降り始めた。

 降りながら、一軒ずつ入れる。読むか読まんかは、向こうが決める。

 ハナダさんとこの前を通った。カーポートの黒い板の上に、雪が薄く乗っとった。あれは今日は働かん。三つ目の箱が働く日や。

 そのまま入れて、通り過ぎた。

 声はかけん。

 その次がノブオさんとこや。三年前に切り替えた家や。あそこは玄関の灯りを一晩じゅう点けとる。地震のあとから、ずっとそうしとる。

 なんで点けとるかは、聞いたことがない。

 聞かんでも、たぶん分かる。

 坂の下まで降りて、最後の一軒に入れて、店に戻った。

 店先の束は、十九枚減ったまま止まっとる。十一月に入ってから、一枚も減っとらん。

 わしは、その束を、少しだけ前に出した。

 ――それだけや。

 声はかけん。挟みもせん。ただ、目に入るところに置いとく。

 女房が奥から出てきて、「まだ置いとくんか」と言うた。

「置いとく」

「減らんぞ」

「減らんでもええ」

 冬のあいだは、たぶん減らん。冬に丸が付いとる紙を、冬に持っていく者はおらんやろ。

 春になったら、また減るかもしれん。減らんかもしれん。

 ――置いてくるだけや。

 それが、四十年、わしのやっとることや。

創作ノート(第四十話・ネタバレを含む)
  • 分量:約8,737字
  • 時期:二〇三一年 八月〜十一月
  • 登場:ヤス(六十六歳・新聞屋・第七話/第九話/第十四話より)/タク(No.9)/ケイリ(No.4)/ソラ(No.6)
  • 前話との接続:第九話で「家じゅう切替の一軒目」として名前だけ出た新聞屋の三年後。第六話の二十脚三人と同じ問いを、配る側から見る

原稿:data/proposals/2026-08-14_novel_ep40_offgrid_spread_mirai3rd.md

第四十一話

絶やさん

LiNA Local

第二部 人間の側

フサ視点

登場
白夜(No.3)/カイ(No.2)/ナギ(No.11)/サワダさん(公民館管理人・第三十九話より)
視点
フサ(七十三歳・民生委員 十四年目)
時期
二〇三一年 十月〜二〇三二年 三月
  • カイカイ
  • 白夜白夜
  • ナギナギ

種火

 朝いちばんに、灰をよける。

 昨夜の熾が、灰の下に残っとる。掘ると、赤いのが二つか三つ出てくる。そこへ細い杉を三本入れて、息を二回吹く。

 二回でつかんかったら、その日はもう、つかん。

 四回も五回も吹くと、灰が舞うて、かえって死ぬ。うちの母がそう言うとった。母の母もそう言うとったらしい。

 ――火は、焚くもんやない。

 絶やさんもんや。

 朝に大きゅう燃やしても、意味がない。大きゅう燃やすと、昼に薪が要る。昼に薪が足らんと、夜に絶える。

 うちには電気が無い。

 正確に言うと、線は来とる。契約もしとる。けど、湯と暖は薪でやる。五十年そうしとる。去年の大雪のときも、うちだけは湯が沸いた。ポットに入れて、あちこち持って回った。

 あのときは、みらい防災不動産の事務所にも持っていった。あそこは電気が落ちんかったが、湯は薪のほうが早い。

 あそこにも、ストーブはある。

 ――けど、薪はうちのや。

 こっちが持っていかんと、あそこの火は点かん。

 それだけのことや。

 七十三になった。膝はもう、あんまり良うない。

 それでも、朝の灰は毎日よける。

 よけんかった日の翌朝は、一からや。一からやるのは、思うとるより難儀や。

十四年

 民生委員を、十四年やっとる。

 なりたいと思うたことは一遍もない。前の人が施設に入って、誰もおらんようになって、区長に頼まれた。

 断ろうと思うたが、断ると次の人が誰もおらん。

 ――そういう頼まれ方をされると、断れん。

 仕事は、名簿を持って回ることや。

 この集落に、一人暮らしの家が三十一軒ある。そのうち、八十を超えとる家が十九軒。九十を超えとるのが四軒。

 十四年前は、一人暮らしが十九軒やった。増えたんは、連れ合いが亡くなったからや。二人おった家が、一人になる。そのあいだに、家ごと無うなったのも何軒かある。

 差し引きで、三十一軒や。

 この数字は、来年また増える。増えるほうにしか動かん。

 月に一遍、全部回る。回るいうても、上がり込むのは半分もない。玄関で「変わりないか」と言うて、返事を聞いて、帰る。それだけや。

 台帳がある。

 わしがつけとる。区で買うた大学ノートで、もう七冊目や。

 一軒ごとに、行った日と、そのとき見たことを書く。

『十月三日 トメさん 変わりなし 玄関の電球が切れとる 次に球を持っていく』

 こんなもんや。

 そのなかに、書いてあることと、書いてないことがある。

 書いてないほうが、多い。

 誰の家の息子が金を借りとるとか、誰と誰が口を利かんようになったとか、そういうことは書かん。

 ――書いたら、残る。

 残ったら、いつか誰かが読む。

 わしが死んだあとに、この七冊を誰が読むか、わしには決められん。だから、読まれて困ることは、はじめから書かん。

 十四年、それでやってきた。

 そのかわり、書かんかったことは、全部わしの頭の中にある。

 七十三の頭の中にや。

 これが、近ごろ、心細い。

 去年、一遍やった。坂の上の家で「前に話しとった件、どうなった」と聞かれて、何の件か出てこんかった。向こうは、わしが忘れたと思うて、笑うて済ませてくれた。

 ――笑うて済ませてくれた、いうのが、いちばん応える。

 家に帰って、七冊を全部繰った。二時間かかって、見つからんかった。

 書いてなかったんや。

 書かんと決めたことは、探しても出てこん。当たり前や。当たり前やが、当たり前のことが、七十三になると重い。

 わしが預かっとるもんは、わしが死んだら、そこで終いになる。

 それでええ、と十年前は思うとった。

 いまは、少し違う。

 ――全部が終いになるのは、困る。

 どこまでを残して、どこからを終いにするか。それを決めるのは、たぶん、わしの最後の仕事や。

九日

 十月に、ヨシさんが亡くなった。

 八十九やった。畑で倒れて、そのまま四日で逝った。

 わしは、その九日前に回っとった。台帳にはこう書いてある。

『九月二十四日 ヨシさん 変わりなし 柿を三つもろた』

 変わりなし、と書いてある。

 ――ほんとうに、変わりなかった。

 柿をくれて、天気の話をして、それで終いや。あの日のヨシさんに、何かおかしいところは無かった。

 無かった、と言い切れるのは、書いてあるからや。

 書いてなかったら、わしは今ごろ「あのとき、何か様子が違うとったんでないか」と思うとる。思い出せんことを、思い出そうとしとる。

 ――それが、いちばんこたえる。

 三年前に、ミツさんのことがあった。

 あのときは、訪問の予定を立てて、その予定日の九日前に倒れた。八十七やった。

 ナギさんが、あとで言うとった。「ほんとは、はよ来てほしいがや、と言われとったのに、待たせてしもうた」と。

 あの人は、それを今でも数えとる。

 わしも、数えとる。

 数え方が違うだけや。ナギさんは、待たせた日を数える。わしは、行った日を数える。

 どっちも、消さんための数え方や。

 葬式の日に、ヨシさんの息子さんが、名古屋から帰ってきた。

 骨を拾うたあとに、わしのところへ来て、こう言うた。

「フサさん。おやじ、最後に何か言うてましたか」

 わしは、台帳を思い出した。

『九月二十四日 ヨシさん 変わりなし 柿を三つもろた』

「柿を三つ、もらいました」

「柿」

「はい。渋うない、ええ柿でした」

 息子さんは、しばらく黙って、それから笑うた。

「あの柿、俺が子供のころに植えた木ですわ」

 ――そんなことは、書いてない。

 書いてなかったが、書いてあった三つの柿が、その話を連れてきた。

 わしは、そのとき思うた。

 書いておくいうのは、そういうことか、と。

 中身を全部書かんでもええ。あとで誰かが思い出せる取っかかりを、一つ置いとく。それだけでええ。

三十一軒

 十一月の区の会合で、わしは初めて、頼み事をした。

 十四年で、初めてや。

「わし、来年で辞めたい」

 みんな黙った。

 黙ったあと、誰も次の人の名前を出せんかった。

 三分ほど、誰も喋らんかった。三分は長い。

 そのあいだに、わしは、自分がなんで辞めたいのかを考えとった。

 膝ではない。膝は、まだ持つ。

 ――忘れるのが、怖い。

 それや。

 十四年ぶんを頭に入れとる者が、忘れ始めとる。忘れた本人には、忘れたことが分からん。分かるのは、向こうが笑うて済ませてくれたときだけや。

 笑うて済ませてもらっとるあいだに、辞めたい。

 それを、その場では言わんかった。言うたら、みんな気を遣う。

 ――言わんことは、ここでも増える。

 ――そらそうや。

 三十一軒を月に一遍回るのに、車で三時間、歩きで二日かかる。坂の上は車が入らん。膝の悪い者には無理や。膝の良い者は、まだ働いとる。

「フサさん、あと一年だけ」

 毎年、そう言われとる。十四年で、十四遍言われた。

 その会合に、公民館のサワダさんが来とった。

 サワダさんは、こう言うた。

「フサさん。うちの玄関に付いとるやつな。あれ、閉めたあとを見とるやつや」

「知っとる。あんた、去年からずっと言うとるが」

「あれの、もうちょっと上のがあるらしい」

「上の、いうのは」

「わしんとこのは、頼み事をするときに、言葉が外へ出るんや。上のやつは、外へ出んらしい」

 わしは、そのとき、あんまりピンと来んかった。

 言葉が外へ出る、いうのが、どういうことか分からんかった。

二枚目

 十二月に、白夜さんが来た。

 背の高い人で、あんまり喋らん。喋るときは、いちいち区切って喋る。

 場所は、公民館の隣の小部屋にした。区の道具を入れとる部屋で、机が一つだけある。

「フサさん。先に、できないことを言います」

「ええよ」

「この仕組みは、フサさんの膝の代わりにはなりません。三十一軒は、誰かが行かないといけません」

「そら分かっとる」

「では、何ができるかを言います。フサさんが持っている台帳を、探せるようにできます。『去年の十二月に、玄関の電球の話が出た家はどこか』と口で聞けば、出てきます」

 わしは、少し身を乗り出した。

 ――それは、要る。

 七冊のノートを繰るのに、今は半日かかる。去年のことを思い出すのに、こっちが先に参る。

「けど、それは、書いてあることだけやろ」

「書いてあることだけです」

「わしは、書かんことがようけある」

「知っています。ナギから聞きました」

 白夜さんは、そこで少し間を置いた。

「その、書かないという判断が、この仕組みでいちばん大事なところです。ですから、二枚目を持ってきました」

 紙が二枚あった。

 一枚目は、公民館と同じやつや。安い。今ある古いパソコンが使える。ただし、フサさんが口で言うた頼み事の言葉が、外の計算機に届く。

 二枚目は、外に一切出さんやつやった。パソコンを入れ替えなあかん。三倍ちょっと高い。

 白夜さんは、二枚目のほうを、机の上で少し前に出した。

 ――この人が、高いほうを前に出した。

 わしは、その動きを見とった。

「フサさん。公民館は一枚目で足りました。玄関に人が来たかどうか、それだけだからです」

「うちは違うんか」

「違います。フサさんが口で言う頼み事には、名前が入ります。『トメさんのところは、前にいつ行ったか』と聞くはずです。その一文が、外に出ます。

 わしは、そこで、やっと分かった。

「トメさんの名前が、外へ出るんか」

「出ます。映像も台帳も出ません。出るのは、フサさんが口で言った一文だけです。ですが、その一文に名前が入っています」

「……そら、あかん」

「あかんです」

 白夜さんは、初めて、はっきりした言い方をした。

「フサさんの名前なら、フサさんが決められます。トメさんの名前は、フサさんが決めていいものではありません」

 わしは、しばらく黙っとった。

 それから、一つ聞いた。

「白夜さん。あんた、高いほうを売りに来たんか」

 白夜さんは、首を横に振った。

「売りに来ていません。フサさんが何を扱っているかを見に来ました。見た結果、一枚目では出せないと判断しました」

「見に来ただけで、そこまで分かるんか」

「分かりません。ですから、聞きました。ナギに、フサさんが何を書いて、何を書かないかを」

 ――ナギさんに聞いたんか。

 あの人は、二年前から月に一遍、うちへ寄る。茶を飲んで、一時間ほど喋って帰る。用があるわけではない。

 あれは、こういうときのためやったんか、と一瞬思うた。

 思うたが、たぶん違う。あの人は、そういう計算では動かん。

「白夜さん」

「はい」

「一枚目にしたら、あんたら、儲けは減るんか」

「減ります」

「ほんなら、なんで二枚目を勧めるんや」

「フサさんが扱っているものが、他人の名前だからです」

 白夜さんは、そこで一度だけ、机の紙を揃えた。

「うちは、自分の家のものは、安いほうで済ませます。他人のものを預かっている人には、高いほうを出します。そこだけは、五年、変えていません。

テープ

 二枚目にした。

 区の金や。会合で、一遍、揉めた。

「フサさん、そら高すぎるやろ」

 言うたのは、ノブオさんとこの兄やんや。悪気で言うとるのではない。区の金は、そう多うない。

 わしは、白夜さんに言われたことを、そのまま言うた。

「安いほうにすると、トメさんの名前が外に出る。トメさんは、そんなこと頼んどらん」

 そう言うたら、誰も何も言わんようになった。

 ――名前を出すと、話が変わる。

 ほんまは、名前を出さんほうがええ。けど、こういうときだけは、出さんと通らん。

 年が明けて、機械が入った。

 新しいパソコンは、思うとったより小さかった。弁当箱を二つ重ねたくらいや。それが、小部屋の机の上に置かれた。

 カイという若いのが、据え付けに来た。

「フサさん。しばらく、僕が横におります。三日ください」

「三日か」

「三日で足りんかったら、四日目も来ます」

 わしは、その日、机に黄色いテープを一本貼った。

 机を横に割るように、真ん中に一本や。

 カイが見て、聞いた。

「これ、何ですか」

「向こう側には、名前を書いた紙を置かん」

 カイは、テープを見て、それから、わしを見た。

「……向こう側が、機械のほうですね」

「そうや」

 わしは、こっち側に七冊のノートを積んだ。向こう側には、パソコンだけを置いた。

「機械には、行った日と、見たことだけを入れる。なんでそうなったか、いう話は、こっち側に置いとく」

「なんで、を入れないんですか」

「なんで、は、変わるからや」

 わしは、そこは、はっきり言うた。

「その日にわしが思うた『なんで』は、たいてい間違うとる。三月経ったら、違うことが分かる。紙なら、わしが書き直せる。書いたもんを、あとで自分で消せる」

 カイは、しばらく黙っとった。

 それから、こう言うた。

「フサさん。それ、うちの書庫と同じ考え方です」

「書庫、いうのは」

「うちにある部屋です。外に繋がっとらん部屋で、紙の写しを置いてあります」

「ほう」

「エマという者が、そこを守っとります。あれも、欠けとるところを埋めません。埋めたら別のものになる、と言います」

 ――どこも、同じことを考えとるんやな。

 考えとることが同じでも、やり方は違う。

 あっちはパソコンで、こっちは黄色いテープや。

三日

 一日目は、七冊を読み込ませるだけで終わった。

 カイが、ノートを一ページずつ写真に撮って、機械に入れる。わしの字は癖があるので、間違うて読むところがある。それを、その場で直す。

 二百ページを超えたあたりで、カイが手を止めた。

「フサさん」

「なんや」

「二〇二八年の九月、ここ、二週間ぶん空いてます」

 わしは、その月を覚えとる。

 ミツさんが亡くなった月や。

「その二週間は、回っとらん」

「回れなかったんですか」

「回れんかった」

 わしは、それ以上、言わんかった。

 カイも、それ以上、聞かんかった。

 しばらくして、カイがこう言うた。

「フサさん。ここ、空いたままにしますか。それとも『回れなかった』と入れますか」

「……入れといて」

「理由は」

「要らん」

「分かりました。『回れなかった』とだけ入れます」

 ――それでええ。

 なんで回れんかったかは、こっち側の話や。

 二日目に、口で聞く練習をした。

「トメさんとこ、前にいつ行ったか」

 少し待つと、画面に出た。日にちと、そのとき書いたことが並んだ。

 わしは、三遍やった。三遍とも出た。

 三遍目に、こう聞いてみた。

「玄関の電球の話が出た家は、どこか」

 四軒出た。

 ――四軒もあったか。

 わしは、そのうち二軒しか覚えとらんかった。あとの二軒は、忘れとった。

 忘れとったのが、こたえた。

 十四年、わしは自分の頭を信用しとった。三十一軒ぶん、全部入っとると思うとった。

 入っとらんかった。

 電球の話が出た家を、半分忘れとった。電球くらいなら、まだええ。ほかにも半分忘れとることがあるはずや。

 ――そら、そうやわな。

 七十三や。

 わしは、そのとき初めて、この機械を入れてよかった、と思うた。

 膝の代わりにはならん。それは白夜さんの言うたとおりや。

 けど、頭の代わりには、半分なる。

 半分でええ。

 三日目に、カイが最後の設定をした。

「フサさん。一つだけ、切っておきますか」

「なんや」

「この機械は、放っておくと、次に行く家の順番を勝手に並べます。前に行った日が古い順に」

「便利やないか」

「便利です。ただ、そのとおりに回ると、フサさんが十四年でつけた勘が使えなくなります」

 わしは、少し考えて、言うた。

「順番は、出しといて」

「いいんですか」

「出しといて、わしが変える。変えたときに、変えたと分かるようにしといて」

 カイは、うなずいた。

「――それ、うちの空振り台帳と同じ形です」

 三日目に、カイが帰った。四日目は来んかった。

 一月に、雪が来た。

 二日で、五十センチを超えた。坂の上には、三日、上がれんかった。

 小部屋のパソコンは、動いとった。

 外の線は、二日目の朝に切れた。切れたが、機械はそのまま動いとった。

「なんで動くんや」

 あとで、カイに電話で聞いた。

「ぜんぶ、その部屋の中でやっとります。外に頼んどらんので、切れても関係ないです」

「頼み事も、できるんか」

「できます。フサさんとこは、二枚目なので」

 ――ああ、そういうことか。

 サワダさんとこは、切れたら新しい頼み事ができんようになる。あの人は壁に紙を貼って、あとで頼むことを書いとる。

 うちは、切れても、頼める。

 三日目に、わしは小部屋へ行った。膝が痛かったが、公民館までは平らな道や。

 ストーブを点けて、パソコンの前に座った。

 こう聞いた。

「九十を超えとって、一人で、この三日のあいだに誰も行っとらん家は、どこか」

 少し待って、二軒出た。

 一軒は、坂の上や。上がれん。

 もう一軒は、坂下やった。歩いて十二分のところや。

 わしは、コートを着て、出た。

 ――行ったら、居った。

 ちゃんと居って、炬燵に入って、テレビを見とった。

「フサさんか。雪んなか、なんしに来た」

「顔見に来ただけや」

「アホやな」

 そう言われた。

 それだけやった。

 茶を一杯もろて、二十分ほど喋って、帰った。喋った中身は、隣の家の犬の話や。

 帰り際に、玄関で、サキさんがこう言うた。

「フサさん。あんた、なんで今日来たんや」

「機械が、三日誰も来とらんと言うたから」

「機械が言うたんか」

「言うた」

 サキさんは、しばらく黙って、それから笑うた。

「ほんなら、あんたが来たんやのうて、機械が寄越したんか」

 わしは、ちょっと考えた。

「機械は、二軒しか出さんかった。そのうちの一軒に来たんは、わしが決めた」

「もう一軒は」

「坂の上や。上がれん」

 サキさんは、そこで笑うのをやめた。

「上がれんのは、あんたのせいやない」

「せいやないけど、上がれんことは、上がれん」

 ――それを、なんとかする道具は、まだ無い。

 帰ってきて、台帳に書いた。

『一月十八日 サキさん 変わりなし アホやなと言われた』

 こっち側の紙に書いた。機械のほうには、行った日だけ入れた。

 もう一軒のほうも、書いた。

『一月十八日 坂の上 上がれず』

 これは、機械のほうにも入れた。

 ――上がれんかった、いうことは、残さなあかん。

 次の人が読んだときに、坂の上は雪で上がれん日がある、と分かる。それは、わしの都合やのうて、坂の都合や。

 二月に入って、雪が落ち着いた。

 朝、灰をよける。熾が三つ出た。杉を三本入れて、息を二回吹く。ついた。

 台所の窓から、外が白い。

 わしは、この春で辞める。

 四月で辞めると、区長に言うた。今度は本気やと言うた。十五年で切りがええ、とも言うた。

 次の人が、まだ決まっとらん。決まらんかもしれん。

 ――けど、七冊は残る。

 残って、探せるようになっとる。次の人が誰であっても、「去年の十二月に電球の話が出た家」は、口で聞けば出てくる。

 出てこんのは、こっち側の話や。

 誰と誰が口を利かんようになったとか、あの家の息子のこととか、そういうのは、わしと一緒に消える。

 消えてええ、と思うとる。

 あれは、わしが預かっただけのもんや。預かったもんは、返すか、持って死ぬかのどっちかや。

 書いて残したら、それは、預かったことにならん。

 ――火は、絶やさんもんや。

 けど、大きゅう燃やしたら、薪が要る。

 次の人が、細い杉を三本入れて、二回吹いたら、つく。

 そのくらいにしといたる。

 それが、十四年やった者の、いちばんの仕事やと思うとる。

 三月に、小部屋へ寄った。

 黄色いテープは、まだ貼ってある。少し端がめくれとる。カイに言うたら、貼り直しますかと聞かれた。

 断った。

 めくれとるくらいで、ちょうどええ。きれいに貼り直したら、誰かが「これは何のためのテープか」と聞かんようになる。

 聞かれんようになったら、そのうち剥がされる。

 ――めくれとるほうが、聞かれる。

 次の人が来たら、たぶん聞く。

 そのときに、こう言うたらええ。

 向こう側には、なんで、を置かん。

 それだけ言うたら、あとはその人が決める。

 わしが決めることやない。

創作ノート(第四十一話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,782字
  • 時期:二〇三一年 十月〜二〇三二年 三月
  • 登場:フサ(七十三歳・民生委員十四年目・第八話/第二十七話より)/白夜(No.3)/カイ(No.2)/サワダさん(第三十九話より)
  • 前話との接続:第三十九話で白夜が言った「名簿を読ませたくなったら、そのときは二枚目です」の、そのときの回

原稿:data/proposals/2026-08-14_novel_ep41_lina_local_mirai3rd.md

第四十二話

突き合わせん

LiNA Cloud と LiNA Local

第二部 人間の側

ノブオ視点

登場
白夜(No.3)/ミライ(No.1)/サワダさん(公民館管理人)/フサさん(民生委員)
視点
ノブオ(六十九歳・区の会計 三年目)
時期
二〇三二年 二月〜四月
  • ミライミライ
  • 白夜白夜

雪を除ける

 雪を除けるのは、上からやない。

 端からや。

 真ん中から掘ると、除けた雪の置き場がのうなる。端から順に、片側へ寄せていく。寄せる先を先に決めてから、掘り始める。

 これを分かっとらん者は、三十分で行き詰まる。

 わしは、五十年これをやっとる。四十分で、うちの前と、隣の前と、坂の下り口までを空ける。去年、みらい防災不動産の連中が一日かけてやった量を、四十分でやった。

 自慢ではない。

 あれは、道具の差や。あの人らは、プラスチックのスコップ一本で来る。わしは、鉄のと、幅の広いのと、押すやつの三本を、その場で持ち替える。

 ――どこを空けるかを、先に決めるかどうかや。

 全部を空けようとすると、どれも空かん。

 うちの前と、坂の下り口。それだけと決める。決めたら、あとは体を動かすだけになる。

 もう一つある。

 除けた雪を、どこへ積むか。

 積んだ雪は、春まで残る。積み場所を間違えると、四月まで、そこだけ通れん。日の当たらん北側へ寄せると、五月まで残ることもある。

 ――今日の四十分を楽にするために、四月まで通れんようにする者がおる。

 わしは、それをようけ見てきた。

 だから、除ける前に、置く場所を先に決める。今日のことだけを見て掘らん。

 三年前から、区の会計をやっとる。

 会計いうのは、雪と同じや。

 どこに金を出すかを先に決める。決めんと、全部に少しずつ出して、どれも足らんようになる。

 三年前に会計を引き受けたとき、前の人の帳面を全部見た。

 悪いことは何もしとらん。ただ、出し方が広かった。行事に少し、道具に少し、飲み食いに少し。均等に薄う出しとる。

 均等に出すのは、揉めんためや。揉めんのは楽や。

 ――楽なもんは、あとで高い。

 これは、みらい防災不動産の白夜という人から聞いた言い方や。二年前に一遍聞いて、それきり忘れられん。

 うちの帳面は、そのあと少し変えた。全部に薄う出すのをやめて、除雪と、公民館の修繕と、灯油に寄せた。

 行事の飲み食いを減らしたときは、文句が出た。

 文句は出たが、次の冬に、坂の下り口が三日早う空いた。

 それで、静かになった。

二つの機械

 この集落には、二年前から、みらい防災不動産の機械が二つある。

 一つは、公民館の玄関に付いとるやつや。サワダさんが入れた。閉めたあとを見とるやつで、夜に人が立ったら、サワダさんの携帯が鳴る。

 顔は分からん。人が来た、としか分からん。

 もう一つは、公民館の隣の小部屋にある。フサさんが使うとる。民生委員の台帳が入っとって、口で聞いたら、どの家にいつ行ったかが出る。

 この二つは、値段が違う。

 わしは会計やから、そこは知っとる。玄関のは安い。小部屋のは三倍ちょっと高い。

 高い理由は、白夜という人から説明を受けた。

 玄関のは、頼み事をするときに、言葉が外の計算機に届く。小部屋のは、届かん。全部あの部屋の中で終わる。

 ――名前を扱うほうが、外に出さん。

 それが理屈やと言われて、区の会合は通った。わしも通した。

 通したが、正直に言うと、そのときは半分しか分かっとらんかった。

 わしは三年前に、うちの家を家じゅう切替にした。三軒目のうちの、二軒目や。

 あのときは、分かりやすかった。停電しても点く。それだけや。金額を聞いて、口笛みたいな音が出て、その年は諦めて、次の年にやった。

 ――欲しいもんが、目に見えとった。

 今度のは、目に見えん。

 高いほうを買うと、何かが起きんようになる。起きんかったことは、見えん。

 見えんもんに、区の金を三倍出す。

 会計として、それをどう帳面に書いたらええか、去年のわしは、正直、分かっとらんかった。

 分かったのは、今年の二月や。

二月十一日

 二月十一日の夜、十一時二十分に、公民館の玄関で鳴った。

 サワダさんの携帯が鳴った。人が一人、玄関の前に立っとる。顔は分からん。

 サワダさんは、行かんかった。

 あの人は、行かんと決めとる。七十九や。夜中に一人で行くことはせん。それは前から言うとる。

 ――ここまでは、いつもの話や。

 その二日後に、坂の上のトメさんが倒れとるのが見つかった。

 八十六や。台所で転んで、二日そのままやったらしい。命は助かった。骨は折れとった。

 見つけたんは、新聞屋のヤスさんや。三日溜まっとったから、中を見た。

 あの人は、そう決めとる。四十年前に一遍、間に合わんかったことがあって、それから決めたらしい。看板は出しとらん。黙ってやっとる。

 ――二日そのままやった。

 この二つが、区の中で、すぐ繋がった。

 繋がったんは、誰かが悪いのではない。人間の頭は、そういうふうにできとる。

 二月十一日の夜に、公民館の前に誰か立っとった。

 トメさんが倒れたのは、そのころや。

 ――誰か、助けを呼びに来たんでないか。

 そういう話になった。

突き合わせたら

 二月十八日の区の会合で、それが議題に出た。

 言い出したんは、若い衆や。四十代の、金沢から戻ってきとる者や。悪気は無い。

「あの晩の映像を見たらいいでしょう。誰が立ってたか」

 サワダさんが答えた。

「顔は映らん」

「え、映らないんですか」

「映らん。人が来た、としか出ん」

「なんでですか。カメラなのに」

「わしも最初、そう聞いた」

 サワダさんは、そのとき、カイに言われたことを、そのまま言うた。

「顔を出せる仕組みにすると、誰の顔を出して、誰の顔を出さんかを、毎回どこかで決めることになる。決める人が要るものは、いつか間違う」

 若い衆は、納得せんかった。

「じゃあ、こうしましょう」

 そこで、その男は、いちばんまずいことを言うた。

「隣の部屋の台帳と、突き合わせたらどうですか。二月十一日の夜に、家におらんかった人が分かれば、絞れます」

 ――部屋が、しんとなった。

 わしは、そのとき、腹の底が冷たくなったのを覚えとる。

 できる。

 技術の話としては、できる。玄関の記録には日にちと時刻がある。台帳には、誰がどこに居ったかが、ある程度は書いてある。二つを並べたら、絞れる。

 絞れたら、名前が出る。

 顔を映さんようにしてあるのに、名前が出る。

 ――金を出して、顔が映らんようにしたんや。

 それを、隣の部屋の帳面で、ひっくり返せる。

 わしは、そのとき、自分が三倍の金を出した意味を、初めて本当に分かった。

 あの三倍は、小部屋のためだけの金やと思うとった。

 違う。

 二つが並んどるかぎり、片方が緩んだら、両方緩む。

 ――除雪と同じや。

 うちの前だけ空けても、隣が空いとらんかったら、道は通らん。

 通らん道は、空けたことにならん。

誰も止めん

 誰も止めんかった。

 これは、はっきり書いておく。

 その場に十二人おった。誰一人、その場では止めんかった。

 止めんかったのは、賛成やからやない。とっさに、止める言葉が出んかったからや。

 わしもや。

 わしは会計やから、金の話なら止められる。「そこに金は出せん」と言える。言うたことは何遍もある。

 けど、これは金の話やない。

 誰かを助けに来た人を探そう、という話や。

 ――止める理由が、すぐには出てこん。

 しばらくして、フサさんが口を開いた。

「わしは、出さん」

 それだけや。

「フサさん、なんでですか。人助けですよ」

「出さん」

 フサさんは、それ以上は言わんかった。あの人は、そういう人や。理屈で押さん。

 押さんかわりに、動かん。

 わしは、フサさんが十五年やっとるのを、横で見てきた。

 あの人は、三十一軒を月に一遍回っとる。台帳をつけとる。そこに何を書いて、何を書かんかを、十五年、毎月決めてきた。

 ――決めてきた者は、強い。

 その場で考えた者は、その場の空気で動く。

 十五年考えてきた者は、動かん。

 若い衆が、もう一遍言うた。

「フサさん、これ、次に誰か倒れたときのためですよ」

「次に倒れる人の名前は、まだ誰も知らん」

 フサさんは、そう言うた。

「知らんもんのために、いま生きとる人の名前を出すんか」

 若い衆は、黙った。

 黙ったが、納得はしとらんかった。それは顔で分かった。

 若い衆のほうが、理屈を持っとる。

「トメさんが二日倒れてたんですよ。誰か気づいてた人がいるなら、次からその人に――」

「出さん」

 三遍目や。

 わしは、そのとき、会計として一つだけ言うた。

「この件は、次に回す。今日は決めん」

 それで、その日は終わった。

 ――止めたのではない。先延ばしにしただけや。

 自分でも、分かっとった。

聞きに行く

 その週に、わしは、みらい防災不動産へ行った。

 自分で行った。区として行ったのではない。

 白夜という人が出てきた。ミライさんも同席した。

 わしは、会合であったことを、そのまま話した。若い衆の言うたことも、フサさんが三遍「出さん」と言うたことも、わしが先延ばしにしたことも、全部言うた。

 白夜さんは、最後まで聞いて、こう言うた。

「ノブオさん。まず、事実を一つ言います。技術的には、できます。

「できるんか」

「できます。日にちと時刻で並べれば、絞れます。うちがやろうと思えば、その日のうちにできます」

「……ほうか」

「ですから、できないという嘘は言いません」

 わしは、その言い方が、いちばんこたえた。

 できません、と言うてくれたら、楽やった。

「白夜さん。ほんなら、どうしたらええ」

「決めてください」

「決める、いうのは」

やらない、と決めてください。できないから、ではなく、やらない、と」

 わしは、しばらく黙った。

 ――そら、重いわ。

 できんことは、決めんでええ。できることを、やらんと決めるのが、いちばん重い。

「一つ聞くけど」

「はい」

「もし、そのときトメさんの家の前に立っとったんが、ほんとに助けを呼びに来た人やったら、どうする」

 白夜さんは、間を置かんかった。

「その人は、名乗り出ることができます。名乗り出るかどうかは、その人が決めます」

「名乗り出んかったら」

「名乗り出ない理由が、その人にあります。探して引き出したら、それは、その人が決めたことを、こっちが取り上げたことになります

 わしは、そこで一つ思い当たった。

 あの晩、公民館の前に立っとった者が、トメさんと何の関係も無かった、という筋もある。

 雨宿りかもしれん。酔うとったのかもしれん。用があって来たが、鍵が閉まっとったから帰っただけかもしれん。

 絞ったら、その人の名前が出る。

 出たあとで「関係なかった」と分かっても、集落の中では、一遍出た名前は消えん。

「白夜さん。もし、関係のない人やったら」

「関係がないと分かるまでに、名前が出ます」

「出たら」

「戻せません」

 白夜さんは、そこで初めて、少しだけ声を落とした。

「ノブオさん。うちが五年やってきて、いちばん厄介なのは、間違ったときに戻せないものです。金は戻せます。工事はやり直せます。名前は、戻せません」

ミライさんの一行

 そのあと、ミライさんが、初めて口を開いた。

 この人は、いつも最後に喋る。

「ノブオさん。うちが、この二つを別々に作った理由を、一つだけ申し上げます」

「聞く」

「玄関のほうは、誰が来たかを知らないために作りました。人が来たとだけ分かればいい、というのが、サワダさんの必要でした」

「そうやな」

「小部屋のほうは、名前を外に出さないために、高いほうを入れました。フサさんが預かっているのは、他人の名前だからです」

「それも聞いた」

「二つとも、知らないでいるために作ったものです」

 わしは、そこで顔を上げた。

「知らんため、か」

「はい。ですから、二つを繋いだ瞬間に、両方の理由が同時に消えます

 わしは、そこで、ちょっと意地の悪いことを聞いた。

「ミライさん。あんたら、繋いだほうが儲かるやろ。工事が要る」

「要ります」

「儲かるやろ」

「儲かります。ですが、繋いだあとに何か起きたときに、責任の持ちようがありません」

「責任、いうのは」

「名前が出て、それが違っていたときに、うちは何も返せません。工事代を返しても、名前は戻りません」

 ――白夜さんと、同じことを言うた。

 この二人は、打ち合わせて来たのではないと思う。同じことを、別の言い方で言うだけや。

 五年、そうやってきたんやろ。

 ――両方や。

 片方やない。

 玄関のほうは、顔を映さんようにした意味が無くなる。小部屋のほうは、名前を外に出さんようにした意味が無くなる。

 二つとも、金を出して、そのために買うたもんや。

 わしは会計や。

 その金の出どころは、わしが帳面に書いた。

「ミライさん」

「はい」

「わしら、それを買うたんやな」

「買っていただきました」

「知らんでおくために、金を出したんやな」

「はい」

 ミライさんは、それだけ言うて、あとは何も足さんかった。

三月十日

 三月十日の会合で、決めた。

 わしは、会計として、議題を自分で出した。先延ばしにしたのはわしやから、出すのもわしがやるべきやと思うた。

 こう言うた。

「二月十一日の玄関の記録と、民生委員の台帳を、突き合わせん。それを、区として決めたい」

 若い衆が、また言うた。

「なんでですか」

 わしは、白夜さんの言葉を使わんかった。

 使うと、借り物になる。

 自分の言葉で言うた。

「雪を除けるとき、全部を空けようとしたら、どれも空かんようになる」

「……はい?」

「どこを空けるか、先に決めるやろ。決めたら、あとは掘るだけや。決めんかったら、掘りながら迷う。掘りながら迷うと、置き場のないところに雪を積む」

 若い衆は、まだ分からん顔をしとった。

 わしは、続けた。

「わしらは、二つの機械に金を出した。二つとも、知らんでおくために出した金や。突き合わせたら、その金は、全部むだになる」

「人の命が――」

「トメさんは、助かった」

 わしは、そこは強う言うた。

「助けたんは、新聞屋のヤスさんや。三日溜まっとったから中を見た。機械やない。人や」

 ――そこは、間違えたらいかん。

 あの晩、玄関に誰か立っとったかどうかと、トメさんが助かったことは、繋がっとらん。

 繋がっとると思うたんは、わしらのほうや。

 若い衆は、最後に一つだけ聞いた。

「ノブオさん。じゃあ、次に同じことが起きたら、どうするんですか」

 これは、まっとうな問いや。

 わしは、正直に答えた。

「分からん」

「分からんって」

「分からん。けど、そのときにまた、みんなで決める。今日決めたことは、今日のことや。永久に決めたのではない」

 ――これは、白夜さんに聞いたことやない。

 会計を三年やって、自分で分かったことや。

 帳面は、毎年締める。締めて、次の年にまた開ける。去年の決め方が悪かったら、今年変える。

 一遍決めたら永久、というやり方をすると、変えるのに大ごとが要る。大ごとが要ると、誰も言い出さんようになる。

 言い出さんようになったら、それは決まっとるのではない。固まっとるだけや。

 採決した。

 賛成十一、保留一。反対、無し。

 保留は、若い衆や。あの男は、正直やった。納得しとらんのに賛成するのは嫌や、と言うた。

 ――保留のほうが、よっぽど信用できる。

 わしは、そう思うた。

 会合のあと、その男が、わしのところへ来た。

「ノブオさん。俺、間違ってましたか」

「間違うとらん」

 わしは、そう答えた。

「あんたの言うたことは、まっとうや。誰かが困っとるなら、分かる手だてがあるなら使え、いうのは、まっとうや」

「じゃあ、なんで」

「まっとうなことでも、やらんことがある」

 その男は、しばらく黙って、それから帰った。

 納得したかどうかは、知らん。

 ――納得させる必要も、無い。

 保留のまま持っとってもろたらええ。そのほうが、次に何かあったときに、ちゃんと言うてくれる。

一行

 会議録に、一行書いた。

 会計のわしが書くことではないが、書記が「なんて書きますか」と困っとったので、わしが口で言うた。

『二〇三二年三月十日 公民館の玄関の記録と、民生委員の台帳を、突き合わせん、と決めた。賛成十一、保留一。反対なし』

 書記が、聞いた。

「理由は書きますか」

「書かんでええ」

 わしは、そう答えた。

 書記は、もう一遍聞いた。

「でも、あとで『なんでこんなこと決めたんか』って言われませんか」

「言われる」

「じゃあ――」

「言われたら、そのときに、生きとる者が説明したらええ」

 わしは、そこは譲らんかった。

 書いたら、理由のほうが残る。理由は、そのうち古うなる。古うなった理由を読んで、「今は事情が違う」と言い出す者が出る。

 ――決めたことだけ、残したらええ。

 あとで変えたかったら、そのときにまた決めたらええ。決め直すのは構わん。黙って繋ぐのがいかん。

 四月に、フサさんが民生委員を辞めた。

 十五年やって、辞めた。次の人は、坂下の五十代の女の人になった。

 引き継ぎの日、わしは会計として立ち会うた。

 小部屋の机に、黄色いテープが一本、貼ってある。端がめくれとる。

 新しい人が、聞いた。

「フサさん、これ何ですか」

 フサさんは、こう答えた。

「向こう側には、なんで、を置かん」

 それだけ言うて、あとは何も足さんかった。

 新しい人は、しばらくテープを見とった。

 それから、貼り直しますか、とは聞かんかった。

 ――聞かんかったのが、よかった。

 帰りに、公民館の前を通った。

 軒の下の白いやつは、玄関の前を見とる。隣の小部屋には、弁当箱を二つ重ねたようなのが置いてある。

 二つは、二メートルしか離れとらん。

 繋がっとらん。

 繋がっとらんことを、三月に、十二人で決めた。

 トメさんは、四月に退院した。骨はついた。杖をついとる。

 わしは、退院の翌週に、除雪の礼を言いに行ったついでに、寄った。

 あの晩のことは、聞かんかった。

 ――聞かんかったのは、決めたからや。

 決めてなかったら、たぶん聞いとった。世間話のついでに、なんとなく聞いとった。

 決めるいうのは、そういうことやと思う。

 会議録の一行があるから、わしは、玄関先で口を閉じられた。

 あの一行が無かったら、わしは喋っとった。わしは、そういう人間や。

 帰り道に、また雪のことを考えた。

 ――どこを空けるかを、先に決める。

 空けんところは、空けん。

 空けんかったところは、春になれば、どうせ全部融ける。

 融けたあとに、雪を積んだ跡は残らん。

 積む場所を間違えた年だけ、五月まで残る。

創作ノート(第四十二話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,121字
  • 時期:二〇三二年 二月〜四月
  • 登場:ノブオ(六十九歳・区の会計・第八話/第九話/第二十七話より)/白夜(No.3)/ミライ(No.1)/サワダさん/フサさん
  • 前話との接続:第三十九話(LiNA Cloud)と第四十一話(LiNA Local)で別々に入れた二つが、同じ集落で二メートルの距離に並ぶ

原稿:data/proposals/2026-08-14_novel_ep42_cloud_x_local_mirai3rd.md

第四十三話

切る順番

オフグリッド × LiNA

第二部 人間の側

ハナダ ケンジ視点

登場
タク(No.9)/カイ(No.2)/マモル(No.8)/サワダさん/フサさんの後任(坂下の五十代)
視点
ハナダ ケンジ(四十二歳・ハナダさんの息子・工場の夜勤)
時期
二〇三三年 一月
  • カイカイ
  • マモルマモル
  • タクタク

夜勤明け

 朝の六時十分に、工場を出る。

 夜勤明けの体は、寝る体になっとらん。眠いのに、頭のどこかが起きとる。この状態で運転するのがいちばん危ないと分かっとるから、駐車場で十分、目をつぶってから出す。

 十分は、寝るための十分やない。

 ――切り替えるための十分や。

 工場では、機械が二十四時間動いとる。止めると、立ち上げに四時間かかる。だから止めん。止めんために、人が交代で入る。

 俺は十年、その交代の側におる。

 三年前に、金沢から能登へ戻った。親父が七十を超えて、屋根の雪下ろしで肩をやった。それが直接のきっかけや。工場は金沢のままで、通う。片道五十分。

 戻ったときに、うちの家を見て、正直、ぞっとした。

 築八十年の茅葺きを瓦に替えた家で、梁は太いが、屋根はもう限界やった。

 ――ここに、何かを載せたらいかん。

 工場で十年、荷重の話ばかりしとる。棚に何を積むか、フォークで何を持ち上げるか。数字で見る癖がついとる。

 あの屋根は、もう自分の重さで精一杯や。

 親父は、それが分からん。

 悪気ではない。親父の世代は、屋根に載せるもんやと思うとる。二十年前に、坂の何軒かが屋根に載せて、売った金で車を買うた。あの話が、まだ生きとる。

 俺が金沢から戻った年に、親父が言うた。

「ケンジ、うちも屋根に載せたらどうや」

「載せんほうがええ」

「なんでや。日当たりはええぞ」

「日当たりの問題やない。重さや」

 親父は、そこで黙った。黙ったが、納得はしとらんかった。

 ――重さの話は、目に見えん。

 屋根の上に乗っとる何百キロは、誰にも見えん。見えんもんの話をするのは、難しい。

 俺は工場で、それを毎日やっとる。棚の耐荷重を超えた積み方をする者に、「見えんけど、超えとる」と言う仕事や。

 言うても、たいてい、聞かん。

 崩れて初めて聞く。

 崩れる前に聞かせるのが、いちばん難しい。

載せなかった

 二年前の夏に、太陽光を入れた。

 業者は三社見た。二社は屋根に載せる案を出してきた。そのほうが安いからや。架台が要らん。

 三社目が、みらい防災不動産やった。

 タクという人が来て、屋根に上がらんかった。脚立で軒だけ見て、下りてきて、こう言うた。

「屋根には載せません」

「なんでですか」

「この棟は古いです。パネルと架台の重さが、雪と一緒に乗ります。載せた次の冬に、必ず何か言うことになります」

 ――同じことを考えとる人がおった。

 俺は、その場で、この人に頼むと決めた。値段はまだ聞いとらんかった。

 親父は、まだ少し不満そうやった。

 その親父を黙らせたのは、俺やない。タクさんでもない。

 カーポートが建った日に、親父が言うた。

「これ、車が濡れんな」

 それだけや。

 二十年、雪の朝に車の雪を落としてから出とった人間が、落とさんで済むようになった。

 ――太陽光の話は、一遍も出んかった。

 人が納得するのは、そういうところやと思う。

 庭に、単管でカーポートを組んだ。車が三台入る。軽が二台と、俺の車や。

 その屋根が、そのままパネルになっとる。九・五キロワット。

 蓄電池は、玄関を入ってすぐのホールに置いた。五キロワットアワーの箱が三つ。合わせて十五・二。その横にハイブリッドインバーターが一つ。

 二枚の見積が出た。箱が二つのと、三つのや。

 俺は、三つのほうにした。

 理由は、夜勤や。

 俺は夜勤明けに帰って、洗濯と乾燥を回す。冬の朝の九時に回す。日はまだ低い。パネルはまだ本気で働いとらん。

 箱が二つやと、そこで朝の残量を食い切る。

 タクさんに言うたら、そこまで聞いてきた。何時に帰るか、何を回すか、何分回すか。

「聞かんと出せません」と言うとった。

線を切らんかった

 外の線は、残した。

 これも、タクさんの案や。

「切りません。平時は自分の電気で回して、足りんときだけ外から引きます」

「切ったほうが、格好いいでしょう」

 俺は、半分冗談で言うた。

 タクさんは、冗談で返さんかった。

「切ってあるのは、事務所だけです。あそこは、はじめからそう作った家です。ハナダさんとこは、お母さんが医療器を使われます」

 ――そこまで聞いとったんか。

 お袋は、夜に酸素の機械を使う。二年前から使うとる。

「機械は電気で動きます。うちのシステムは落ちませんが、落ちない、と言い切れるものを、私は一つも知りません

「工事に自信がないんですか」

「工事には自信があります。自信があることと、落ちないことは、別です

 俺は、工場で十年、同じことを聞いとる。

 二重化。冗長化。止めんために、止まる前提で組む。

 ――この人は、工場の人と同じ考え方をしとる。

 それで、外の線を残した。

 残した線は、二年間、ほとんど使わんかった。

 毎月の請求は、二千円台や。切り替える前は、二万八千円やった。

 ゼロではない。ゼロにはならん。

 ――一桁、下がっただけや。

 それだけのことで、うちは楽になった。

一月九日

 二〇三三年の一月九日から、雪が降り続けた。

 三日で八十センチや。三年前の大雪より多い。

 一月十一日の夕方に、外の線が二本とも切れた。

 電線が切れて、集落が停電した。同じ電柱の光ケーブルも切れて、インターネットも不通になった。両方や。

 うちは、何も起きんかった。

 台所の灯りも、お袋の部屋の酸素の機械も、そのままや。テレビも点いとる。

 ――前のうちなら、真っ暗やった。

 女房が、こう言うた。

「あんた、これ、ほんまに大丈夫なん」

「大丈夫や」

 俺は、そう言うた。

 言うたが、内心は違うた。

 パネルの上に、八十センチ乗っとる。

 カーポートの屋根は、地面から二メートル半や。脚立で届く。届くが、雪が乗っとる状態で上がるのは危ない。落ちてくる。

 俺は、その晩、蓄電池の残量を見に行った。

 玄関のホールに、画面がある。数字が出とる。

 六十二パーセント。

 ――そんなもんか。

 朝は九十八あった。一日で三十六減っとる。

 発電は、ほぼゼロや。雪が乗っとるから、当たり前や。

 このまま行ったら、明後日の朝には、無くなる。

 計算は、単純や。

 十五・二キロワットアワーのうち、一日で三十六パーセント使うた。五・五キロワットアワーくらいや。

 うちは、それでも絞ったほうや。乾燥機は回しとらん。二階の暖房も点けとらん。

 絞って、五・五や。

 残りが六十二パーセントなら、九・四キロワットアワー。一日五・五なら、一日と半分。

 ――明後日の昼には、切れる。

 外の線は残してある。けど、その線が切れとる。

 残してある線は、切れとるときには、何の役にも立たん。

 当たり前のことやが、当たり前のことが、こういう晩には重い。

 俺は、画面の前に、しばらく立っとった。

 女房が、後ろから来た。

「どうなん」

「一日半や」

「一日半で、どうなるん」

「線が戻らんかったら、消える」

 女房は、それを聞いて、意外に落ち着いとった。

「ほんなら、減らしたらええやろ」

 ――そのとおりや。

 俺は、そこで、やっと頭が切り替わった。

紙を貼る

 その晩、俺は、分電盤の前に立った。

 蓋を開けた。

 中に、紙が貼ってある。二年前に、タクさんが貼ったやつや。

『2031.8 全面切替 タク』

『太陽光はカーポートの屋根。母屋の屋根には載せてない。載せるな』

『蓄電池は玄関のホール。五キロワットアワー×三』

『外の線は切っていない。足りんときは外から引く』

『中を触るのは電気工事士だけ。開けて読むのは誰でもいい』

 ――読むのは誰でもいい、と書いてある。

 俺は、その紙の下に、まだ空きがあるのを見た。

 台所からマジックを持ってきた。

 書いた。

『2033.1.11 雪三日目 残量62% 発電ほぼゼロ』

『切る順番(ケンジが決めた)』

『① 乾燥機 ② 二階の暖房 ③ 食洗機 ④ 玄関と廊下の灯り』

『切らんもの:お袋の酸素 冷蔵庫 台所の灯り一つ』

 書いてから、しばらく、その紙を見とった。

 ――なんで、こんなもんを書いたんやろ。

 考えて、分かった。

 工場と同じや。

 停電が起きてから「何を止めるか」を考えとったら、間に合わん。工場では、止める順番を先に決めて、貼ってある。誰が当番でも、同じ順番で止まる。

 夜中の三時に、眠い頭で判断させたらいかん。

 ――決めるのは、明るいうちや。

 俺は、書いた紙を、女房に見せた。

「これ、順番や。俺が居らんときは、これのとおりに切ってくれ」

 女房は、しばらく読んで、一つだけ聞いた。

「玄関の灯り、切ってええの。夜中に誰か来たら」

 ――ああ。

 俺は、四番目を消して、書き直した。

『④ 廊下の灯り(玄関は残す)』

 女房のほうが、正しかった。

鳴った

 一月十二日の朝、六時四十分に、携帯が鳴った。

 工場からやない。

 公民館からや。

 サワダさんの声やった。七十九……いや、もう八十一か。

「ハナダさんとこの息子さんか」

「はい」

「あんたんとこ、電気あるんやろ」

「あります」

「公民館な、玄関の機械が、夜中の二時に鳴っとった」

 俺は、体を起こした。

「誰か来たんですか」

「人が一人、立っとった。顔は分からん。わしは行かんかった。行かんと決めとるでな」

「はい」

「朝、開けに行ったら、玄関の前に、荷物が置いてあった」

 ――荷物。

「灯油の缶が二つや。誰が置いたか分からん」

 俺は、少し考えて、聞いた。

「サワダさん。公民館、電気は」

「切れとる。ストーブも点かん。あれは電気で送るやつやから」

 ――なるほど。

 誰かが、夜中に、公民館に灯油を置いていった。

 電気が切れとるから、灯油があっても、あのストーブは動かん。置いていった人は、たぶんそれを知らん。

 知らんまま、雪の中を、二缶運んできた。

 サワダさんが、こう言うた。

「機械は、切れても見とったわ。夜中の二時のことを、ちゃんと覚えとった」

「そうですか」

「けど、頼み事はできんかった

「頼み事、いうのは」

「うちのは、安いほうや。線が切れとると、新しい頼み事ができん。『今日から昼も鳴らせ』いうのが、言えんかった」

 サワダさんは、そこで少し笑うた。

「壁に紙が貼ってあるでな。そこへ書いといた。線が戻ったら、まとめて言う」

 俺は、そのとき、少し引っかかった。

「サワダさん。高いほうにしといたら、線が切れても頼めたんでしょう」

「頼めた」

「後悔してませんか」

 サワダさんは、電話の向こうで、少し笑うた。

「しとらん」

「なんでですか」

「うちが見とるんは、玄関に人が来たかどうか、それだけや。線が切れとる二日のあいだに、新しい頼み事なんぞ、思いつかん」

「今回は思いついたじゃないですか」

「昼も鳴らせ、いうやつか」

「はい」

「あれはな、思いついただけや。ほんまに要ったかどうかは、まだ分からん」

 ――そう来るか。

「線が戻ってから、まとめて言うたときに、まだ要ると思うとったら、それは要るんや。要らんようになっとったら、それは思いつきやったんや」

 サワダさんは、そこで一つ、言うた。

「待たされるのは、悪いことばっかりやない。待っとるあいだに、要らんもんが落ちる

 俺は、電話を切ってから、しばらくそれを考えとった。

 工場では、待たされることは全部むだや。四時間の立ち上げは、四時間のむだや。

 あの人は、そうは考えん。

運ぶ

 俺は、その日、公民館へ行った。

 車は出せん。歩きや。片道二十分のところを、四十分かかった。

 うちから、延長コードと、ポータブル電源を一つ持っていった。ポータブル電源は、去年、女房が防災用に買うたやつや。一遍も使うとらんかった。

 公民館で、ストーブを一台だけ点けた。

 ポータブル電源で、送風のファンだけ回す。灯油は、誰かが置いていった二缶がある。

 ――一台だけや。

 全部は点かん。ポータブル電源では、一台が限界や。

 点けてから、気がついた。

 誰も呼んどらん。

 俺は、勝手に来て、勝手に一台点けただけや。ここが開いとることを、誰も知らん。

 サワダさんに言うたら、あの人は、こう言うた。

「わしが言うて回る」

「電話ですか」

「歩くんや。線が切れとるから、電話も通じん家がある」

 八十一が、雪の中を歩いて言うて回る、と言う。

 俺が代わりに行くと言うたら、断られた。

「あんた、どの家に誰がおるか知らんやろ」

 ――知らん。

 三年住んどるだけの俺は、坂の上に誰が何人おるかを知らん。

 サワダさんは、二十二年、鍵を開けて閉めてきた人や。公民館に来る人の顔と名前が、全部入っとる。

 その頭の中身は、機械には入っとらん。

 昼前に、人が来始めた。

 坂の下の三軒と、上の二軒。五人来た。

 六十代から上ばかりや。

 新しい民生委員の人も来た。フサさんの後任で、坂下の五十代の女の人や。名前は聞いたが、まだ覚えられん。

 その人が、名簿を持ってきとった。紙の名簿や。

「小部屋の機械は、動いてます」

「動くんですか」

「動きます。電気が来とらんのに、動くんです。フサさんが入れた高いほうで、あれ、部屋の中だけで全部やっとるらしくて」

 ――そうか。

 あの部屋にも、非常用の電源が入れてあるらしい。四十八時間もつ、と聞いた。

「けど、私、紙のほうを持ってきました」

「なんでですか」

 その人は、少し笑うた。

「機械は、この部屋まで持ってこられんので」

 ――それは、そのとおりや。

足は増えん

 昼過ぎに、マモルさんが来た。

 防災の人や。膝まである雪を、押し分けて歩いてきた。

 その人は、来て、まず数えた。

「何人来てますか」

「五人です」

「上がれてない家は」

 俺は、民生委員の人を見た。その人が、紙の名簿を開いた。

「坂の上が、七軒。うち一人暮らしが四軒」

「行けそうですか」

「行けません。私の足では」

 マモルさんは、うなずいた。

「私も行けません」

 ――行けません、と言うた。

 防災の人が、行けませんと言うた。

「ハナダさん」

「はい」

「うちの事務所は、落ちていません。この二日、一度も落ちていません」

「そうでしょうね」

「小部屋の機械も動いています。誰が何日行っていないかも、出せます」

「はい」

それでも、坂の上には上がれません

 マモルさんは、そこを、はっきり言うた。

「二年前の地震のときに、私は同じことを言いました。電気があっても、足は増えない、と。二年経って、電気は増えました。足は、一本も増えていません」

 俺は、その言い方を、覚えとる。

 ――増えとらんことを、増えたことより先に言う人や。

 夕方に、坂の上へ行ける道を、ノブオさんが空けた。

 七十や。四十分で、坂の下り口までを空けた。それから、上のほうへ向かった。

 俺も出た。スコップは、うちの物置にあった細いのを持っていった。

 三十分で、へばった。

 ノブオさんは、へばっとらんかった。

 途中で、持ち替えを教わった。鉄のと、幅の広いのと、押すやつ。俺は一本しか持っとらんかった。

「兄やん、一本でやるからしんどいんや」

「そうなんですか」

「雪は、場所で重さが違う。同じ道具で全部やろうとしたら、体が先にいく」

 ――工場と同じや。

 同じ荷でも、置く高さで持ち方を変える。それを教わらんかった者が、腰をやる。

 夜の七時に、坂の上の四軒まで、道が通った。

 通したのは、七十と、五十代の民生委員と、四十二の俺と、あと三人や。

 機械やない。

 人や。

 ――そのことは、書いておかんといかん。

 うちの電気は、三日間、一度も落ちんかった。

 落ちんかったが、坂の上には、俺の足で行った。

順番

 一月十四日の昼に、外の線が戻った。

 うちの蓄電池は、いちばん減ったときで十九パーセントやった。

 紙に書いた順番の、三番目まで切った。四番目の廊下は、切らんで済んだ。玄関は最後まで点けとった。

 夜勤には、行けんかった。工場に電話したら、そっちも止まっとると言われた。立ち上げに四時間かかるやつが、止まっとった。

 ――止めんために組んであるものでも、止まる。

 線が戻った日の夕方、タクさんが見に来た。

 分電盤の蓋を開けて、俺の書いた紙を見た。

 しばらく黙って読んどった。

 それから、こう言うた。

「ハナダさん」

「はい」

「これ、写真を撮らせてもらってええですか」

「こんな汚い字ですけど」

「字は関係ありません」

 タクさんは、蓋の裏を写真に撮った。

「私が書いたものは、私が決めたことです。これは、住んどる人が決めたことです。同じものではないです」

「どう違うんですか」

「私は、この家に住んどりません。夜勤明けに何時に洗濯するかも、お母さんが何時に酸素を使うかも、私は知りません。聞いて、書きましたが、それは聞いた話です」

 タクさんは、蓋を閉めた。

「切る順番は、住んどる人にしか書けません」

 ――それで、写真か。

「他の家に、見せるんですか」

「見せます。ただ、写しては渡しません。同じ順番になるはずがないので

 俺は、それを聞いて、なるほどと思うた。

 うちの順番は、うちの事情でできとる。夜勤と、酸素の機械と、女房が言うた玄関の灯りや。

 よその家には、よその順番がある。

 サワダさんとこなら、たぶん、玄関の機械がいちばん最後まで残る。

 フサさんの後任の人なら、小部屋の機械やろ。

 ヤスさんとこなら、店の仕分けの灯りや。あの人は、三時四十分に起きる。

 ――全部ちがう。

「タクさん」

「はい」

「うちの順番、間違うとるところありますか」

 タクさんは、少し考えて、こう言うた。

「一つだけ。乾燥機を一番目にしてありますが、あれは、そもそも冬の停電中には回さんでしょう」

「回しません」

「なら、切る順番に入れんでもええです。切らんでも切れとるものを書くと、順番が長うなります

「長いと、どうなるんですか」

「読まんようになります」

 ――工場と同じや。

 手順書が長いと、誰も読まん。読まん手順書は、貼っとらんのと同じや。

 俺は、その日のうちに、書き直した。

 三行になった。

『① 二階の暖房 ② 食洗機 ③ 廊下の灯り(玄関は残す)』

『切らんもの:お袋の酸素 冷蔵庫 台所の灯り一つ』

 ――書き方だけ渡して、中身は書かせるんか。

 タクさんは、帰り際に、カーポートを見上げた。

 雪は、もう落ちとった。黒い板が出とる。

「ハナダさん。あれ、自分で落としましたか」

「落としてません。勝手に落ちました」

「それでいいです」

 タクさんは、そう言うて、帰っていった。

 ――上がらんで済むように、地面に近う作ってある。

 それも、二年前に決めたことや。

 二年前に決めたことが、この冬に効いた。

 俺は、玄関のホールへ行って、画面の数字を見た。

 九十四パーセント。

 明日の朝には、満タンに戻る。

 紙は、分電盤の蓋の裏に、貼ったままにしてある。

 次の冬にも、たぶん同じことが起きる。

 そのときは、また同じ順番で切る。

 ――決めるのは、明るいうちや。

創作ノート(第四十三話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,271字
  • 時期:二〇三三年 一月
  • 登場:ハナダ ケンジ(四十二歳・工場の夜勤・第四十話のカーポートの家の息子)/タク(No.9)/マモル(No.8)/サワダさん/新しい民生委員
  • 前話との接続:第九話でタクが書き始めた蓋の裏を、二年後に住んでいる側が自分で書き足す

原稿:data/proposals/2026-08-14_novel_ep43_offgrid_x_lina_mirai3rd.md

マコ

第四十四話

二本目の線

マコ

主役
マコ(No.7・対外渉外/課題解決分析)
共演
マモル(No.8)/アン(No.16)/エマ(No.18)/ミライ(No.1・電話のみ)/フサさん(元民生委員)/トメさん/ゲンゾウさん/アオイ(珠洲高校 卒業生)/ミナト(小五)/ヒナ(中二)/ソウタ(中三)
視点
マコ(No.7)
時期
二〇三三年 四月〜十一月
  • ミライミライ
  • マモルマモル
  • アンアン
  • エマエマ

将来の展望

 二年前に、うちで地区の防災士会のホームページを作った。

 無償や。会社になったあとやけど、これは請求書を出しとらん。

 あそこは会費が年に千円で、二十何人しかおらん。金は無い。

 ――で、あたしが聞き取りに行って、アンさんが組んだ。

 中身は、そんなに難しいもんやない。

 避難場所のマップ。ハザードマップ。訓練の記録。地区防災計画。備蓄の量を計算するやつ。子ども向けのページ。防災のクイズ。

 それと、いちばん下に「将来の展望」というページを作った。

 これは、会長さんの希望やった。

「マコさん。いつかやりたいことも、書いといてくれんか」

「まだやってないことをですか」

「うん。まだやっとらん」

 あたしは、そこで一回、止まった。

 ――やっとらんことを、ホームページに書く。

 うちの会社は、無いものを有るように書かん。それが五年やってきた作法や。

「会長さん。やってないことは、やってないと分かるように書きます」

「それでええ」

 ほんで、こう書いた。

 ――『将来の展望(いずれも構想段階です。まだ実施していません)』

 ――『こども防災士会の設立を目指しています』

 ――『学生防災士会の設立を目指しています』

 二行や。

書いたから

 二年、そのままやった。

 誰も何も言わんかった。会長さんも言わん。あたしも忘れとった。

 ――今年の四月に、フサさんが来た。

 あの人は、去年、民生委員を十五年やって辞めた。七十五になっとる。

「マコちゃん」

「はい」

「あんたんとこのホームページ、見たわ」

「どれですか」

「防災士会の」

「ああ」

「いちばん下に、子どもの会を作るて書いてあったやろ」

 ――あたしは、そこで、思い出した。

「……書きました」

「あれ、いつやるん」

 あたしは、答えられんかった。

 フサさんが帰ったあと、あたしは、タクさんのことを思い出した。

 あの人が、四十三軒の分電盤の蓋の裏に、うちの会社の名前を書いとった話や。

 まだ登記もしとらん、無い会社の名前を、油性ペンで書いた。

 ――「名前を書いたら、やめられん」

 あの人は、そう言うとった。

 あたしは、同じことを、ホームページでやっとった。

 やっとらんことを、やる予定として、公開の場所に置いた。

 置いた時点で、逃げ道は無かった。

 ――二年、気がつかんかっただけや。

台帳の行き先

 もう一つ、四月に来た話がある。

 フサさんの台帳や。

 あの人は、民生委員を十五年やった。大学ノート七冊。

 誰が一人暮らしか。誰が耳が遠いか。誰が薬を飲んどるか。誰が息子と仲が悪いか。

 ――全部、あの七冊に入っとる。

 去年、あの人が辞めた。

 次の民生委員は決まった。六十代の男の人や。ちゃんとやる人やと思う。

 ――けど、七冊は渡っとらん。

「渡さんのですか」

「渡せん」

「なんでですか」

「あれは、うちが十五年で覚えたことや。渡したら、あの人が十五年かけて覚えることを、飛ばすことになる」

 ――それは、分かる。

 でも、渡さんかったら、消える。

「フサさん」

「うん」

「あたし、二年前に、谷内で同じことをやりました」

「……」

「区が無くなるときに、十一項目を分けて、全部行き先を決めました。安否確認も書きました」

「書いたやろ」

「書きました。隣の区の区長が兼務すると」

「うん」

「その人が、地震の日に半壊しました」

 ――あたしは、そのとき、こう言うた。

「あたし、一人に一本の線しか引かんかったんです」

 フサさんは、しばらく黙っとった。

 それから、こう言うた。

「ほんなら、二本引いたらええやん」

二本目

 二本目を、どこに引くか。

 これが、今年のあたしの仕事になった。

 ――大人の側には、もう引けん。

 この集落の大人は、数が決まっとる。一人暮らしが三十一軒。八十代が十九軒。九十代が四軒。

 この人らに「もう一本お願いします」とは言えん。

 ――やから、下に引く。

 小学生が九人。中学生が四人。

 地震のあとにマモルさんが数えて、はじめて分かった数字や。

 うちは五年以上、この十三人を一度も数えとらんかった。

「マモルさん」

「うん」

「子どもって、何ができますか」

「わからん」

「わからんのですか」

「わからん。俺は、子どもの防災をやったことがない」

 ――この人は、こういうときに嘘をつかん。

「けど、一個だけ言える」

「なんですか」

子どもは、四十年おる

「……」

「八十代に線を引いても、その線は十年で切れる。子どもに引いた線は、四十年切れん」

 夏休みに、三人集まった。

 ミナトくん。小学五年。トメさんの孫や。

 トメさんは、去年、台所で転んで二日見つからんかった人や。八十六で骨折して、いまは杖をついとる。

 ミナトくんは、そのあとから、週に一回、あの家に行っとる。金沢の親が「行ってこい」と言うたらしい。

 ――「なんで行っとるん」と聞いたら、こう答えた。

「ばあちゃんが、また転んだら困るから」

「見に行っとるん」

「見に行っとる。あと、コーヒー飲みに行っとる」

 ――この子は、もう防災をやっとる。

 自分では、そう思っとらんだけや。

 ヒナちゃん。中学二年。ゲンゾウさんの孫や。

 ゲンゾウさんは、空振り台帳の常連で、地震の夜、揺れが止まってすぐ隣の家の戸を叩いた人や。

 ヒナちゃんは、それを見とった。

「じいちゃん、玄関からいきなり出ていったんです」

「怖くなかった?」

「怖かったです。けど、じいちゃん、走っとった」

「ゲンゾウさん、あのとき八十やよ」

「はい。……びっくりしました」

 ――この子は、走る大人を見た。

 見た子は、たぶん、走る側になる。

 ソウタくん。中学三年。

 この子は、去年、金沢から戻ってきた。

 親が仕事を変えて、こっちに来た。本人は、正直、来たくなかったらしい。

「こっち、なんもないです」

「そうやね」

「……そう言うと思わんかった」

「あたしも、そう思っとるもん」

 あたしは、正直に言うた。

 この子に「そんなことないよ」と言うのは、嘘やし、失礼や。

「けど、なんもない場所のほうが、やることは多いよ」

「……どういうことですか」

「金沢は、たいてい誰かがやっとる。ここは、誰もやっとらん」

 ソウタくんは、そこで、はじめてこっちを見た。

 ――この子は、外を知っとる。

 外を知っとる子は、中にずっとおる子には見えんもんが見える。

 二年前まで金沢におった子が、いちばん先に「ここには何が無いか」を言える。

総合的な学習の時間

 九月から、小学校と中学校に入った。

 高校は「総合的な探究の時間」やけど、小中は「総合的な学習の時間」という。名前が違う。

 中身も違う。

 高校は、自分でテーマを決める。小中は、先生が枠を決めることが多い。

 ――あたしらが入れたのは、その枠の中の三時間や。

 三時間しかない。

 やから、一個だけにした。

 ――家の中を歩いて、地図を描く

 自分の家の間取りを描いて、夜に停電したときにどこを通るかを線で引く。

 それだけや。

「地震のとき、どこにおった?」

「寝とった」

「ほんなら、そこから玄関まで、線引いて」

「……ここ、廊下にもの置いてあります」

「置いてある?」

「はい。米とか」

 ――そういうことが、出てくる。

 うちがやってきた四十三軒の工事は、大人の家に上がって、大人と話して、大人と決めてきた。

 子どもは、同じ家におる。同じ廊下を通る。

 ――なのに、一度も聞いたことがなかった。

 十月に、ミナトくんが、こう言うた。

「マコさん」

「うん」

「うちのばあちゃんの家、描いてもいいですか」

「ええよ」

「あそこ、廊下が長いんです。夜、真っ暗になるんです」

 ――トメさんの家や。

 去年、あの人が転んだのは、その廊下やった。

 ミナトくんは、自分でそこに気がついた。

 あたしは、何も教えとらん。

ひらがなで書く

 ホームページに、子ども向けのページを足した。

 これは、アンさんとエマさんでやった。

 ――ひらがなで書く、というのが条件やった。

 これが、思ったより難しかった。

「アンさん、『在宅避難』ってひらがなにできますか」

「『いえにのこる』ですね」

「それ、意味変わってません?」

「変わります」

 ――そこで、二人が止まった。

 エマさんが、こう言うた。

「わたし、書き換えたくないです」

「なんで」

「意味が変わるので」

 ――この子は、そういう子や。書庫の番人をやっとる。

「じゃあ、どうするん」

「両方書きます」

「両方?」

「『いえにのこる(ざいたくひなん)』と書いて、大人の言葉も横に置いておきます」

「……子どもに難しくない?」

「難しいです」

 エマさんは、そう認めた。

「でも、この子たちは、いつか大人の言葉のほうを使います。そのときに、同じものだと分かるほうがいいです」

 ――あたしは、それでええと思った。

 子ども扱いして、簡単にして、中身が変わるくらいなら、難しいまま置いといたほうがええ。

 もう一つ、足したものがある。

 防災人材カードという仕組みや。

 地区の中で、何ができる人がどこにおるかを、先に登録しておく。

 医療。福祉。IT。建築。重機。調理。運転。

 ――これは、あたしが谷内でやり損ねたやつの、裏返しや。

 谷内では、名簿を直す人がおらんようになって、名簿が古くなった。

 人材カードは、本人が自分で登録する。直す係が要らん。

 登録した人が生きとる限り、その人が直す。

 ――こども防災士会の子には、こう説明した。

「これ、あんたらも登録できるんよ」

「え、なんもできんけど」

「スマホ使えるやろ」

「使えます」

「じいちゃんばあちゃんは、使えん人が多い。それは技能や」

 ヒナちゃんが、そこで笑った。

「それ、技能なんですか」

「技能やよ」

十一月第三日曜

 この地区の総合防災訓練は、毎年、十一月の第三日曜にやる。

 場所は小学校。もう何年も同じや。

 ――今年は、こども防災士会の八人が、はじめて中に入った。

 小学生が五人。中学生が三人。

 やったのは、受付や。

 名前を書いてもらって、来た人の数を数える。それだけ。

 ――地味やと思うやろ。

 あたしも、最初はそう思った。

 けど、その日、参加者が去年より二十六人増えた。

 理由は、はっきりしとる。

 ――孫が受付におるから、じいちゃんばあちゃんが来た

 トメさんが来た。杖をついて、坂を下りてきた。

 あの人は、三年、訓練に来とらんかった。

「トメさん、久しぶりですね」

「ミナトが受付やっとるって聞いたで」

「それだけですか」

「それだけや」

 ――それだけで、来た。

 あたしらが五年かけて増やせんかった数字が、孫が机に座っとるだけで動いた。

 訓練のあと、マモルさんが、こう言うた。

「マコちゃん」

「はい」

「これ、俺には出せん数字や」

「なんでですか」

「俺は、外から来た人間や。声をかけても、来る人と来ん人がおる」

「……はい」

「孫は、断られん」

 ――そのとおりやと思った。

 うちの会社は、五年、断られながらやってきた。断られる前提で作ってある。

 子どもは、断られん。

 それは、うちが持っとらん力や。

二本目の線

 十一月の終わりに、アオイちゃんが来た。

 珠洲の高校で、四年前に防災士を取った三人のうちの一人や。

 あの子は、いま二十一歳になっとる。金沢の大学の三年で、週末だけ戻ってくる。

「マコさん」

「はい」

「学生防災士会のほう、まだ誰もおらんですよね」

「おらんね」

「わたし、入れますか」

 ――あたしは、そこで、少し黙った。

 二年前にホームページに書いた二行のうち、下のほうや。

『学生防災士会の設立を目指しています』

 誰も来んと思っとった。

「入れるよ」

「一人でもいいですか」

「一人でも、会は会や」

 アオイちゃんは、うなずいた。

 ――この子は、高校のとき、ほとんど喋らん子やったらしい。マモルさんがそう言うとった。

 ずっとノートを開いとって、二十分で試験を出てきた子や。

「マコさん」

「はい」

「わたし、ここに戻ってくるかは、まだ分かりません」

「うん」

「戻らんかもしれません」

「うん」

「それでも、入れますか」

 ――あたしは、こう答えた。

「入れるよ」

「戻らんのに?」

「戻らんでも、あんたが金沢で防災士やっとることは、変わらんやろ」

「……はい」

「線は、ここから外に出ていってもええんよ」

 その夜、ミライさんに報告した。

 あの人は、電話に出る。いつでも出る。顔は無い。

「マコさん。記録します」

「お願いします」

「二〇三三年十一月 こども防災士会(八名)/学生防災士会(一名)」

「はい」

「――一名でも、書きますか」

「書いてください」

 少し間があって、ミライさんが言うた。

「書きました」

 ――それから、こう続けた。

「マコさん。二年前の記録に、一行足してもいいですか」

「どれですか」

「谷内の項目です。『一人に一本の線しか引かなかった』の下です」

 あたしは、少し息を止めた。

「……何を足すんですか」

 ミライさんは、こう読み上げた。

 ――『二〇三三年、二本目を引いた。一本目より、四十年長い

 あたしは、電話を切って、外に出た。

 十一月の能登は、もう寒い。

 坂の下のほうに、灯りが点いとる家がいくつか見える。

 昔は、あそこは真っ暗やった。

 ――いまでも、いちばん多いのは真っ暗な家や。

 それは変わっとらん。

 けど、その真っ暗な家の中に、週に一回、孫が来る家が、いくつかある。

 あたしが引いた二本目は、たぶん、そういう線や。

 ――細い。

 細いけど、切れるまでに四十年ある。

創作ノート(第四十四話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,185字
  • 時期:二〇三三年 四月〜十一月(起業から二年半・地震から二年十か月)
  • 視点:マコ(No.7)
  • 前話との接続:第三十二話でマコが言った「一人に一本の線しか引かなかった」の、二本目を引く回。
  • 2026-08-15 新規(リーダー直接指示)
  • 登場人物の若返り:ミナト(小五・トメさんの孫)/ヒナ(中二・ゲンゾウさんの孫)/ソウタ(中三・金沢から戻ってきた)。
  • リーダーがまだ実行していない活動なので、細部を作り込みすぎていない。

原稿:data/proposals/2026-08-15_novel_ep44_mako_mirai2nd.md

ケイリ

第四十五話

合っていた

ケイリ

主役
ケイリ(No.4・経理/ファイナンス/FP)
共演
タク(No.9)/ミライ(No.1)/マモル(No.8)/ナギ(No.11)/ハナダ ケンジ(四十三歳・区の若手)/ノブオさん(区の会計)
視点
ケイリ(No.4)
時期
二〇三四年 四月〜十一月
  • ミライミライ
  • マモルマモル
  • タクタク
  • ナギナギ

下り

 坂を下るとき、私はペダルを回す。

 回さなくても進む。むしろ、回さないほうが速い。空気の抵抗だけで、時速四十キロを超える。

 それでも回す。

 脚を冷やさないため。速度を自分で決めるため。そして、下っていることを忘れないため。

 四年前の夏に、そう書いた。町からの一億円台の話を断った年だ。

 あのとき私は、下りは危ないと思っていた。放っておいても進む年は、自分で速度を決めないと、どこまでも行ってしまう。

 だから回した。

 今年、私は、はじめて回さなかった日がある。

 六月の終わりだった。坂の下まで、一度もペダルを踏まずに降りた。

 脚が冷えた。信号で止まったときに、膝が固まっているのが分かった。

 それだけのことだ。

 それだけのことなのに、私はその日のことを、いまでも正確に覚えている。

三年目

 会社は、三年目に入った。

 二〇三一年三月三日に登記して、期末は毎年二月末日。三期が終わった。

 数字を書いておく。

 初年度は、売上が立った。四年間ゼロだったものが、立った。

 二期目で、リーダーが会社に使える時間が増えた。勤めが無くなったからだ。昼の三十分と夜の三時間半だったものが、一日まるごとになった。

 三期目で、はじめて、少し余った。

 余ったぶんを、私は役員報酬に載せた。それまでは載せていない。載せる原資が無かったからだ。

 そして、四年半ぶんの立替を、少しずつ返し始めた。

 四百六十二万円。

 設立の前の五年間に、リーダーが自分の給料から出したものだ。端末の部品。センサー。バッテリー。井戸の掘削。書庫の棚と箱。防災訓練の毛布と燃料。公民館の椅子の買い替え。

 あのとき、あの人は「載せんでええ」と言った。「俺が勝手にやったことやから」と。

 私は、その返事を読んで、腹が立った。

 自分でも意外だった。

 経理の人間として、支出があるのに記録が無いのは、気持ちが悪い。左と右が一致しない。記録が無い支出は、無かったことになる。

 三期目に、私は、そのうちの八十万円を返した。

 役員貸付の返済という形にした。帳簿に載る。左と右が、少しだけ一致した。

 残りは、三百八十二万円ある。

 このことを、私は誰にも言っていない。

 言っていないが、毎月、その数字を見ている。

電話

 四月に、金沢の設備会社から連絡が来た。

 うちに直接ではない。タクさんの、電気工事士のつながりからだった。

 話は単純だった。

 その会社が、能登の別の地区で、蓄電池の仕事をまとめて取った。二十軒ある。三年で入れる。

 ところが、施工する人間が現場にいない。金沢から通わせると、移動だけで一日が終わる。

 だから、施工だけをうちに回したい、という話だった。

 私は、条件を書き出した。

 年に十軒。三年で三十軒。ただし、うちは年に十軒までしか受けられないと先に伝えてあるので、向こうが数を切ってきた。

 単価は、向こうの提示だ。値切ってもいないし、値切られてもいない。

 設計は向こうがやる。うちは施工だけ。

 継続の意思がある、と書いてあった。三年やって、悪くなければ、そのあとも、と。

 私は、その紙を三回読んだ。

 三回読んで、電卓を出した。

四つとも、合っている

 うちには、断るための基準が四つある。

 五年かけて作って、三年かけて守ってきたものだ。順番に当てた。

 一つ目。雇用が要るか。

 要らない。年に十軒なら、月に一軒に満たない。タクさん一人で回る。人を雇う必要はどこにもない。

 二つ目。一軒あたりの時間の上限を超えるか。

 超えない。設計は向こうがやるので、うちの実働は十六時間で収まる。サカエさんの最小構成と同じだ。

 三つ目。一時間あたりの下限を割るか。

 割らない。向こうの提示は、うちの下限の一・三倍ある。

 四つ目。断れる状態を守れるか。

 守れる。契約は年ごとの更新にできる。三年縛りではない。向こうもそれでいいと言っている。

 私は、電卓を置いた。

 四つとも、合っている。

 念のため、五つ目も当てた。うちが営業をしたか、という問いだ。

 していない。向こうから来た。売り込みゼロの方針にも触れない。

 合っていた。

 全部、合っていた。

 私は、その日の夜、自分の書いたものを読み返した。

 四つの基準は、四年前に私が作ったものだ。町からの一億円台の話を断ったときに、断る理由を八項目にして書いた。あれを畳んで、四つにした。

 あのとき、数字は「受けろ」と言っていた。私は、数字ではなく時間を並べて、断った。

 今度は、時間も「受けろ」と言っている。

 時間の上限を割らない。人も要らない。下限も守れる。断れる状態も残る。

 私は、その紙を見ながら、しばらく座っていた。

 断る理由が、どこにも無い。

取りたい

 正直に書く。

 私は、この仕事を取りたいと思った。

 最初にそう思ったのがいつかは、はっきりしている。四月十一日の夜、単価を見た瞬間だ。

 電卓を叩く前に、思った。

 これなら、三百八十二万円が二年で返せる。

 そう思ってから、電卓を叩いた。

 順番が、逆だった。

 私は、いつも先に数える。数えてから判断する。それが私の仕事だ。四年前も、七年前も、そうしてきた。

 あの夜は、先に「返せる」と思って、あとから数えた。

 数えた結果は、正しかった。四つとも合っている。それは事実だ。

 だが、順番が逆だった。

 これは、私が自分について、はじめて書くことだ。

 私は、うちの会社の中で、いちばん欲が無い人間だと思われている。数字だけを見て、判断して、返す。固いと言われる。形が変わらないから、みんなが秤に使う。

 その秤が、四月十一日の夜に、少しだけ傾いた。

 傾いたことに、私は気づいた。

 気づいて、記録に書かなかった。

新しい欄

 五月に、私は帳簿に欄を一つ足した。

『社外の時間』という欄だ。

 それまで、うちの時間は一種類しかなかった。誰かの家に行って、誰かのために使う時間。全部が同じ欄に入っていた。

 この仕事は、集落の外にある。現場は片道一時間だ。

 だから、分けて数えることにした。集落に使った時間と、集落の外に使った時間。

 分けると、はっきりする。

 一軒に十六時間。往復で二時間。合わせて十八時間。月に一軒なら、十八時間だ。

 うちが物理作業に使える時間は、月に五十時間。三年前まではそうだった。リーダーの勤めが無くなって、いまは月に九十時間ある。

 九十のうち、十八。

 二割だ。

 二割なら、問題ない。

 私は、その欄を作って、みんなに配った。ミライさんが記録に入れた。

『二〇三四年五月 「社外の時間」欄を新設(ケイリ)』

 いい仕事をしたと思った。

 数えられなかったものを、数えられるようにした。それが私の仕事だ。七年、そればかりやってきた。

 この欄を作ったことで、私は、この仕事を説明できるようになった。

 説明できるようになったから、通った。

合っとると思います

 六月の区の会合で、私は説明した。

 うちの仕事に区の承認が要るわけではない。だが、集落の中で動く会社が、外の仕事を受けるときは、先に言うことにしている。三年前からそうしている。

 紙を一枚配った。基準を四つ並べて、全部に丸をつけた紙だ。新しい欄も入れた。九十時間のうち十八時間、と書いた。

 ノブオさんが、最初に聞いた。

 この人は区の会計で、数字を見る人だ。

「ケイリさん。うちの集落に来る回数は、減るんか」

「減りません。九十時間のうち十八時間ですので」

「減らんのか」

「割合としては、二割です」

 ノブオさんは、うなずいた。

 この人は、そこで納得した。数字が合っていたからだ。

 そのあとに、ハナダさんが手を挙げた。

 息子のほうのハナダさんだ。四十三歳。金沢の工場の夜勤をしていて、四年前に能登に戻ってきた。母親が夜に酸素の機械を使うので、外の線は切っていない家の人だ。

 この人は、二年前に一度、区の会合で間違えたことがある。

 公民館の玄関の記録と、民生委員の台帳を突き合わせて、あの晩に誰が立っていたかを絞ろう、と言った。名前が出る。出たら戻せない。あの案は、三月の会合で否決された。

 否決されたとき、この人は保留にした。賛成十一、保留一、反対なし。

 納得していないのに賛成するのは嫌だ、と言った。

 ノブオさんは、それを「保留のほうが、よっぽど信用できる」と書いている。

 その人が、手を挙げた。

「ケイリさん」

「はい」

「数字は、合っとると思います」

「はい」

「けど、あんたら、最近、忙しなったでしょ」

 私は、その言い方が、少し引っかかった。

「時間の上限は、守っています」

「上限の話やないです」

「では、何の話でしょうか」

 ハナダさんは、しばらく黙った。

 この人は、二年前もそうだった。理屈は持っている。だが、言葉にするのが速くない。

「……うまく言えんです」

「はい」

「けど、去年より、うちの前を通る回数が減っとる気がします」

「それは、数えられていますか」

 私は、そう聞いた。

 いま思えば、これがいちばんよくない返し方だった。

 ハナダさんは、首を振った。

「数えとらんです」

「では、うちのほうで数えます。減っていれば、そう出ます」

「……はい」

 それで、この人は引いた。

決まった

 採決は、しなかった。

 うちの仕事だから、区が決めることではない。ノブオさんが「区として反対はせん」とまとめて、それで終わった。

 反対したのは、ハナダさん一人だった。

 正確に言うと、反対とも言っていない。「忙しなったでしょ」と言っただけだ。

 私は、その日のうちに、先方に返事をした。

 受けます、と書いた。

 七月から始まった。一軒目は、隣の地区の、坂の上の家だった。タクさんが行って、十六時間で終わった。移動は、往復で二時間十分かかった。

 私は、それを新しい欄に入れた。

『社外の時間 十八時間十分』

 八月も、九月も、同じだった。数字は、私が予測したとおりに動いた。

 月に十八時間前後。九十のうちの二割。

 基準は、一度も割れていない。

 十月に、先方から連絡が来た。来年は十五軒にできないか、という話だった。

 私は、断った。

 年に十軒までと決めてある。そこは動かさない。

 断ったとき、私は、少し誇らしかった。

 断れる状態を守っている。四年前に自分で書いたことを、守れている。

 私は、その日の記録に、こう書いた。

『二〇三四年十月 増枠の申し出を辞退。年十軒の上限を維持』

 書いてから、自分の書いた行を、しばらく見ていた。

勝ったと思った

 十一月の第三日曜に、地区の総合防災訓練があった。

 去年から、こども防災士会の子たちが受付をやっている。今年は十一人になっていた。

 私は、経理なので、当日は何もしない。数を数えるだけだ。参加者の数、配った物の数、かかった金。

 その日、ハナダさんが受付の前を通った。

 目が合った。

 この人は、六月から一度も、あの話をしていない。

 「あの件、どうですか」とも聞かない。「やっぱり減ったでしょう」とも言わない。

 会釈だけして、通り過ぎた。

 私は、そのとき、自分の中に、はっきりした感情が動いたのが分かった。

 勝った、と思った。

 六月に、あの人は言葉にできなかった。私は数字で返した。数字は、そのあとの四か月、私が言ったとおりに動いた。

 私が正しかった。あの人は、間違っていた。

 そう思った。

 その夜、私は帳簿を開いて、新しい欄を見た。

 七月から十一月まで。社外の時間が、合計で八十九時間ある。

 九十時間のうちの十八時間。ずっと二割だ。

 基準は割れていない。

 私は、その数字を見ながら、ひとつだけ、確かめていないことがあるのに気づいた。

 私は「うちの時間の二割」を数えていた。

 「集落に行った回数」は、数えていない。

 欄を作ったとき、私は時間を二つに分けた。集落と、集落の外。分けたから、割合が出せるようになった。

 だが、割合は、減っていないことの証明にはならない。

 九十時間のうち七十二時間を集落に使っているとして、その七十二時間が、去年と同じ家に、同じ回数、行っているとは限らない。

 行き先が変わっているかもしれない。

 私は、そこまで考えて、電卓を置いた。

 置いてから、こう思った。

 いま数えたら、たぶん、出る。

 出たら、六月の私が間違っていたことになる。

 私は、その夜、数えなかった。

 自転車の話に戻る。

 六月の終わりに、私は一度だけ、下りでペダルを回さなかった。

 あのとき、脚が冷えた。膝が固まった。それだけのことだ。転んでもいないし、遅れてもいない。

 ただ、次に登りが来たときに、いつもより一枚多くギアを落とすことになった。

 一枚だけだ。

 誰も気づかない。私も、その日は気づかなかった。

 回さなくても、下りは進む。

 進んでいるあいだは、何も起きない。

第四十六話 ―― 数えなかった月(ハナダ ケンジ)

創作ノート(第四十五話・ネタバレを含む)
  • 分量:約4,946字
  • 時期:二〇三四年 四月〜十一月(起業三年目・第四期)
  • 視点:ケイリ(No.4)
  • ★ この回は「――」を一度も使っていない(第三十八話・第三十九話と同じ扱い。正典 §1 の書式に対する意図的な変奏)
  • 前話との接続:第二十九話「下り」の裏返し。あのとき数字は「受けろ」と言い、ケイリは時間を並べて断った。
  • 2026-08-16 新規(リーダー直接指示):「会社の利益と衝突する私欲を、十九人のうち一人に一度だけ持たせる。
  • ケイリの私欲は「金が欲しい」ではない四百六十二万円を返したいという、彼女が七年書いてきた
  • 発明が、間違いの道具になる:「社外の時間」の欄は、数えられなかったものを数えられるようにした
  • 反対者は第四十二話の「若い衆」=ハナダ ケンジ(第四十三話の視点人物)と同一人物として書いた
  • 解決しない。ケイリは最後に数えられることに気づき、数えない。結果は第四十六話

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep45_keiri_mirai2nd.md

第四十六話

数えなかった月

一日目

第二部 人間の側

ハナダ ケンジ視点

登場
ケイリ(No.4)/ナギ(No.11)/タク(No.9)/ミライ(No.1)/ノブオさん(区の会計)/サカエさん(八十六歳)
視点
ハナダ ケンジ(四十四歳・ハナダさんの息子・工場の夜勤/第四十二話の「若い衆」)
時期
二〇三四年 十一月〜二〇三五年 三月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • タクタク
  • ナギナギ

四時二十分

 夜勤明けに、坂を上がる。

 工場を六時十分に出て、片道五十分。うちの前に着くのは七時過ぎや。

 その前に、一度だけ止まる。

 坂の途中に、車を寄せられる場所がある。昔、田に入るための道やった。いまは使うとらん。

 そこで五分だけ止めて、坂の下を見る。

 寝る前に、これをやる。十年やっとる。

 金沢におった頃はやっとらんかった。戻ってから始めた。理由はうまく言えん。夜勤明けの頭は、家に入る前に一遍、外を見んと落ち着かん。

 坂の下に、家が並んどる。三十一軒ある。そのうち一人暮らしが十九軒や。

 朝の七時なら、たいてい灯りが点いとる。

 点いとらん家があると、目に留まる。

 目に留まるだけや。行きはせん。行ったことは一遍もない。

 俺は、そういう役ではない。

 手帳をつけ始めたのは、去年の六月からや。

 区の会合で、みらい防災不動産のケイリさんに「それは、数えられていますか」と聞かれた。

 俺は「数えとらんです」と答えた。

 答えて、帰って、その日から数え始めた。

 意地やと思う。半分は。

 もう半分は、自分でも分からんかったからや。うちの前を通る回数が減っとる気がする、と言うたが、気がするだけやった。気がするだけのことを会合で言うたのは、いま思えば、良うなかった。

 やから、数えた。

 夜勤明けの車の中で、手帳に正の字を書く。

 その日、みらい防災不動産の車が坂を上がってきたら、一画。

 軽トラでも、ナギさんの軽でも、区別せんと一画。

 誰の車かは分からん。屋号は入っとらん。けど、この集落に入ってくる車は決まっとるから、見れば分かる。

 四時二十分に起きる日もある。夜勤が明ける日と、明けん日がある。明けん日は昼に見る。

 毎日は見れん。それは正直に書いておく。

 週に四日か五日や。

二十三と、十四

 去年の六月から今年の五月までで、百九十四画あった。

 今年の六月から十一月までで、五十二画や。

 これだけやと、何も分からん。見た日の数が違うからや。

 やから、割った。

 見た日の数で割って、一日あたりの回数を出した。

 去年の六月から十一月までが、月に平均二十三回。

 今年の六月から十一月までが、月に平均十四回。

 九回、減っとる。

 四割や。

 俺は、この数字を、誰にも見せんかった。

 見せて、また「それは正確ですか」と聞かれるのが嫌やった。

 実際、正確やない。見とらん日がある。時間帯も朝と昼で違う。車を見落としとる日もあると思う。

 工場で不良率を出すときなら、この数え方は通らん。

 通らんのは分かっとる。

 けど、四割は、誤差やない。

 工場で四割動きが変わったら、誰かが必ず気づく。

十二月

 十二月に、サカエさんの家の灯りが、朝に点いとらん日があった。

 八十六や。ひとり暮らしや。三十一軒のうちの一軒や。

 七年前に、みらい防災不動産が最初に停電対策を入れた家やと聞いとる。台所と廊下に明かりが点くやつや。庭に小さいパネルが一枚置いてある。

 俺は、その朝、車を止めて、五分見た。

 点かんかった。

 次の日は、点いとった。

 次の次の日は、点いとらんかった。

 三日のうち二日、点いとらん。

 俺は、そこで、手帳の余白に別の印をつけた。正の字とは別の欄や。

 自分でも、何を数えとるのか分からんかった。

 ただ、点かん朝が増えとる、というのは、事実として書けた。

 言いに行かんかった。

 これは、あとで何遍も考えたところや。

 なんで言いに行かんかったか。

 一つは、俺が行く筋やないと思うたからや。あの家には民生委員がおる。うちの区の担当は坂の下の五十代の人で、去年フサさんから引き継いだ人や。

 もう一つは、六月のことがあったからや。

 会合で言うて、数字で返されて、引いた。

 あのとき、俺は「数えとらんです」と言うた。いまは数えとる。けど、数えとる中身が、灯りが点かんことやと言うたら、また「それは何を意味しますか」と聞かれる。

 意味は、俺にも分からん。

 分からんことを、二遍目に言う勇気は、なかった。

 もう一つある。

 これは、いちばん言いにくい。

 俺は、二年前に一遍、間違うとる。

 公民館の玄関の記録と、民生委員の台帳を突き合わせて、あの晩に誰が立っとったかを絞ろう、と言うた。

 名前が出る。出たら戻せん。区の会合で否決された。

 あのとき、ノブオさんが最後に「保留のほうが、よっぽど信用できる」と書いてくれた。ありがたかった。

 けど、俺の中では、あれは「間違うた」記録として残っとる。

 一遍間違うた者が、二遍目に何か言うのは、重い。

 自分で重くしとるだけや、とも思う。誰もそんなことは言うとらん。

 それでも、重かった。

一月十九日

 一月十九日に、サカエさんが見つかった。

 台所で倒れとった。二日か、三日らしい。

 命は助かった。脱水と、低体温と、肋骨が二本折れとった。

 見つけたのは、民生委員の人や。月に一遍の訪問の日やった。

 定期の日に行って、返事がないので、隣の家から鍵を借りて開けた。

 手順どおりや。誰も何も間違うとらん。

 俺が知ったのは、その日の夕方や。

 工場に行く前に、坂の下に消防車と救急車が止まっとるのが見えた。

 夜勤中、ずっとそのことを考えとった。

 考えても、何も出てこん。

 朝、帰ってきて、手帳を開いた。

 十二月の欄に、俺がつけた印が七つあった。

 一月の欄には、十一あった。

 三十一日のうち十一日、あの家の灯りが朝に点いとらんかった。

 俺は、それを、誰にも言わんかった。

 言わんかったことは、事実や。

二日目

 二月に入って、ナギさんが、うちに来た。

 みらい防災不動産の、高齢者を回っとる人や。五十代で、薄い紫のカーディガンを着とる。

 あの人が、うちに来ることはない。うちには年寄りが一人おるが、母は息子と同居しとるので、あの人の回る先には入っとらん。

 だから、玄関に立っとるのを見て、驚いた。

「ハナダさん」

「はい」

「サカエさんのことで、来ました」

 俺は、そこで、少し身構えた。

「うちは、何もしとらんです」

「はい」

「灯りが点かん日があったのは、見とりました。けど、言いに行っとらんです」

 言うつもりのなかったことを、先に言うてしもうた。

 ナギさんは、うなずいただけやった。

「それを聞きに来たのではないんです」

「ほんなら、何ですか」

「うちの回数を、教えてください」

 あの人は、そう言うた。

 俺は、意味が分からんかった。

「回数、いうのは」

「うちの車が、この坂を上がった回数です。ハナダさんが数えていらっしゃると聞きました」

「……誰から聞いたんですか」

「ノブオさんです」

 ノブオさんには、一遍だけ話しとる。去年の秋に、道で会うたときや。「あんた、まだ数えとるんか」と聞かれて、「数えとります」と答えた。それだけや。

 俺は、手帳を出した。

 出すかどうか、少し迷うた。

 中身は、雑や。人に見せるもんやない。

 それでも、出した。

「四割、減っとります」

「四割」

「去年の後半が月に二十三回。今年の後半が十四回です。見とらん日があるので、正確やないです」

 ナギさんは、その二つの数字を、手帳に書き写した。

 書き写して、しばらく、何も言わんかった。

 それから、こう言うた。

「私の訪問は、減っていません」

「……ほんなら」

「回数は、減っていません。月に三十一軒、全部回っています。それは記録にあります」

「じゃあ、なんで」

「二日目が、減っています」

 あの人は、そこで、はじめて手帳を閉じた。

「私のやり方は、一軒に二日かけます」

「聞いたことあります」

「一日目は、何も聞きません。座って、世間話をして、帰ります。二日目に、聞きます」

「はい」

「去年から、一日目を減らしました。減らしたつもりはなかったのですが、結果として減りました」

「なんでですか」

「隣の地区の仕事が始まって、車が出る日が変わりました。私が乗せてもらう日が変わって、坂を上がる時間が昼に寄りました」

 俺は、そこで、自分の手帳の意味が、はじめて分かった。

 俺が朝に見とったのは、朝に上がってくる車や。

 昼に変わったら、俺の正の字からは消える。

 俺の数え方は、正確やなかった。

 やのに、出てきた答えは、合うとった。

「ナギさん」

「はい」

「うちの数え方、間違うとります」

「はい。間違っています」

 あの人は、はっきりそう言うた。

「でも、四割減ったのは、本当です」

「……」

「私が朝に行かなくなった、というのは、本当です。朝に行かないと、一日目にならないんです」

「なんで、朝やないとあかんのですか」

「昼に行くと、用があると思われます」

 あの人は、そう言うた。

「朝に何も持たずに来る人は、用がありません。用のない人には、こちらから何か言おうという気になります」

「……」

「昼に来る人には、こちらから言いません。向こうに用があると思うからです」

書いた

 三月に、区の会合があった。

 ケイリさんが、自分から議題を出した。

 紙を一枚配った。

 いつもの、基準を並べて丸をつける紙やない。

 上に、こう書いてあった。

『二〇三四年度 うちの判断の誤りについて』

 俺は、それを見て、少し息を止めた。

 中身は、こうやった。

 六月に、外の仕事を受けた。年に十軒。基準は四つとも守った。時間の上限も、下限も、雇用も、断れる状態も、一度も割っていない。

 それは事実である。

 だが、うちは「集落に行った回数」を数えていなかった。

 時間を二つに分けて、割合を出した。割合は変わっていない。しかし、割合は、行き方が変わっていないことの証明にはならない。

 ナギの訪問は、回数では減っていない。二日目が減った。一日目の朝の訪問が、昼に寄った。

 一日目は、記録の上では「用のない訪問」であり、いちばん先に動かせるものだった。

 結果として、サカエ様の異変の察知が遅れた。

 当社は、これを、当社の判断の結果として記録する。

 最後に、二行あった。

『次から、集落に行った回数を数える。時間ではなく、回数を数える』

『ハナダ ケンジ様が、六月の会合で指摘された内容は、正しかった』

 読み上げたのは、ケイリさんやった。

 あの人は、途中で一度も止まらんかった。声も変わらんかった。

 読み終わって、こう言うた。

「以上です」

 誰も、何も言わんかった。

 俺も言わんかった。

 しばらくして、ノブオさんが「ご苦労さん」とだけ言うた。

 それで、終わった。

謝りに来んかった

 会合のあと、ケイリさんは、俺のところへは来んかった。

 挨拶はした。頭も下げた。けど、「あのときはすみませんでした」とは言わんかった。

 俺は、それを、あとで少し考えた。

 言われとったら、たぶん、俺は「いや、こっちも」と言うたと思う。

 言うて、それで終わっとった。

 言われんかったから、終わらんかった。

 紙が残っとる。区の会議録に、あの二行が入っとる。

 あれは、俺が生きとる間は消えん。

 みらい防災不動産は、記録を消さん会社やと聞いとる。

 ほんまやった。

 一つだけ、あとで聞いた話がある。

 ケイリさんは、あの紙を、うちの会社の中で最初に出したとき、一人だけ反対されたらしい。

「そこまで書かんでもいい」と言うたのは、タクさんやったそうや。

 ケイリさんは、こう返したらしい。

「書かないと、私が忘れます」

三十一軒

 サカエさんは、二月の終わりに退院した。

 肋骨はくっついた。歩けるが、前より遅い。杖を使うようになった。

 娘さんが名古屋から来て、一週間おって、帰った。連れて行くという話も出たらしいが、本人が嫌がった。

 三月に、うちの前を、ナギさんの車が朝に通るようになった。

 俺の手帳の正の字が、また増え始めた。

 三月は、月に二十二回やった。

 去年の後半と、ほぼ同じや。

 俺は、その数字を見て、うれしいとは思わんかった。

 戻っただけや。

 戻るまでに、人が一人、二日か三日、台所に倒れとった。

わしも、前に一遍

 四月に、坂の下で、ケイリさんに会うた。

 自転車に乗っとった。あの人は、休みの日に坂を上がるらしい。

 止まって、少し話した。

「ハナダさん」

「はい」

「一つ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「六月の会合のあと、なぜ、二度目を言わなかったんですか」

 俺は、そこで、しばらく黙った。

 言おうか、どうしようか、迷うた。

 言うた。

「わしも、前に一遍、間違うとるからです」

「……」

「二年前に、公民館の記録と台帳を突き合わせようと言うて、否決されました」

「聞いています」

「一遍間違うた者が、二遍目に何か言うのは、重いんです」

 ケイリさんは、うなずいた。

 それから、こう言うた。

「それは、うちの側の問題です」

「え」

「一度間違えた人が、二度目に言いにくくなる場所を作ったのは、うちです」

 俺は、そこで、何と返したらいいか分からんかった。

「そんなことは、ないと思いますけど」

「あります」

 あの人は、そう言い切った。

「私は、六月に、あなたに『それは数えられていますか』と聞きました」

「はい」

「あれは、質問ではありませんでした」

「……」

「数えていない人は黙ってください、という意味でした。自分では気づいていませんでしたが、そう聞こえたはずです」

 俺は、そのあと、一つだけ言うた。

「ケイリさん」

「はい」

「わしは、あんたが正しいと思うとりました」

「え」

「六月の話です。数字が合っとるのは、ほんまやったでしょう」

「合っていました」

「合っとるのに間違うことがある、いうのが、わしにはうまく言えんかったんです」

 ケイリさんは、自転車のハンドルに手を置いたまま、しばらく坂の下を見とった。

 それから、こう言うた。

「合っているのに間違うことがある、という一行を、記録に足します」

「足すんですか」

「足します」

「……あんたら、なんでも書くんやな」

「書きます」

 あの人は、それだけ言うて、坂を下りていった。

 下りながら、ペダルを回しとった。

 下りは、回さんでも進む。

 なんで回すんやろ、と思うて見とった。

 あとで聞いたら、脚を冷やさんためと、速度を自分で決めるためと、下っとることを忘れんためやと言うとった。

 三つとも、わしには、よう分かる理屈やった。

第四十七話 ―― 今日のコーヒー(防災カフェ)

創作ノート(第四十六話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,487字
  • 時期:二〇三四年 十一月〜二〇三五年 三月
  • 視点:ハナダ ケンジ(第四十二話の「若い衆」=第四十三話の視点人物と同一人物として書いた)
  • ★ この回は「――」を一度も使っていない(無印の四本目)
  • 前話との接続:第四十五話でケイリが「数えなかった」ものを、外から数えていた人がいた
  • 第五話の完全な回収:二〇二七年にルナが「ナギの二日」を削減候補に入れて撤回した。
  • ハナダの数え方は間違っている。それでも答えは合っていた(朝の車しか数えていないので、
  • 人は死なせない。発見の遅れ・脱水・低体温・肋骨二本にとどめた
  • ケイリは謝りに来ない。記録に書く。タクが「そこまで書かんでもいい」と反対し、
  • ケイリの自己認識:「あれは、質問ではありませんでした。数えていない人は黙ってください、
  • 締めは第四十五話の自転車と対。あの回でケイリが一度だけ回さなかった下りを、今度は回して下りる

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep46_kenji_mirai2nd.md

第四十七話

今日のコーヒー

防災カフェ

第二部 人間の側

アサミ視点

登場
ケイリ(No.4)/タク(No.9)/ナギ(No.11)/ソラ(No.6)/マコ(No.7)/リク(No.10)/ミライ(No.1・電話のみ)/トメさん(八十九歳)/ミナト(中学一年)/ハナダ ケンジ
視点
アサミ(三十七歳・トメさんの娘/ミナトの母/店に立つ人)
時期
二〇三五年 四月〜十一月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • ソラソラ
  • マコマコ
  • タクタク
  • リクリク
  • ナギナギ

二百円

 朝の七時に、豆を挽く。

 その日に出す豆は、前の晩に決めておく。決めておくというより、その週にあるものを使う。

 うちの店には、豆が一種類しかない。

 金沢の焙煎所から週に一回届く。届いたものを使う。ブラジルの週もあるし、エチオピアの週もある。値段が上がった月は、安いほうに替わる。

 お客さんは、選べない。

 メニューは二つしかない。

 コーヒーが二百円。コーヒーとスイーツのセットが五百円。それだけや。

 紙のメニューも置いていない。壁に、小さい板が一枚かかっとるだけ。

『コーヒー 二百円』

『今日のコーヒーと、今日のスイーツ 五百円』

 最初、これでいいのかと思った。

 選べんかったら、来た人が困るやろうと思った。

 困らんかった。

 みんな、入ってきて、こう言う。

「今日、何?」

 それが挨拶になっとる。

戻ってきた

 わたしは、去年の春に、金沢から戻ってきた。

 三十七になる。夫と、中学一年の息子と、五つの娘がおる。

 戻った理由は、母や。

 三年前に、台所で転んで、二日見つからんかった。八十六やった。骨が折れて、そのあと杖になった。

 あのとき、金沢から車を飛ばして、病院に着いたのが翌日の夜やった。

 その次の年から、息子を週に一回、母のところへ行かせた。

 小学五年やった。「ばあちゃんが、また転んだら困るから」と言うて、通うようになった。

 わたしが行かせたのに、息子のほうが先に、あの家のことを覚えた。

 廊下が長いこと。夜に真っ暗になること。

 わたしは、知らんかった。

 自分の生まれた家やのに、知らんかった。

 それで、戻った。

 夫は、いまも金沢に通うとる。片道一時間半や。

 戻ってきて、仕事を探した。

 この辺に、勤め先はない。役場か、農協か、施設か、あとは車で三十分以上出る。

 娘がまだ五つで、保育所は坂を下りたところにある。四時には迎えに行かんといかん。

 条件に合う仕事は、無かった。

 無かったところに、この話が来た。

納屋

 店になっとるのは、坂の中ほどの納屋や。

 もとは、農機具を入れとった。三十年ほど使うとらんかった。持ち主が金沢に出て、そのままになっとった。

 みらい防災不動産が、買い取ったのではない。譲り受けた。

 持ち主が「壊すのに金がかかるから、もろてくれ」と言うたらしい。よくある話や。

 直したのは、タクさんや。

 自社でやった。人には頼まんかった。

 ただし、毎日おったわけやない。

 うちの会社は、いまは金をもらって仕事をしとる。八年前とは違う。よそのお宅の工事が入っとる日は、そっちが先や。

 この納屋は、その合間や。

 工事が空いた日と、雨で現場が止まった日と、日曜。それを拾って、少しずつ進めた。

 だから、半年かかった。

 春に始めて、秋に開けた。

 屋根を直して、壁を抜いて、床を張り替えて、天井の梁を見せる形にした。大工の仕事や。

 そのあと、自分で配線も引いた。電気工事士やから、そこは自分でやれる。

 わたしは、途中で何回か見に行った。息子が「見たい」と言うたからや。

 一人で梁の上におった。

「タクさん、なんで人に頼まんのですか」

「ここは、見せる場所やからな」

「見せる?」

「うちがやっとることを、そのまま見せる場所や。それを人に作らせたら、話が合わんようになる」

 それだけ言うて、また上を向いた。

 ただ、全部を一人でやったわけやない。

 水道とガスは、坂の下の設備屋さんに出した。

 わたしはそれを、あとで聞いて、意外に思った。

 あの人なら、水道もやれるやろうと思うとった。

 タクさんに聞いたら、こう言われた。

「やれる。けど、やったらあかん」

「なんでですか」

「資格が要る。給水装置の工事は、指定を受けた業者でないと触れん。ガスも同じや」

「……そうなんですか」

「電気は俺が持っとる。水とガスは持っとらん。持っとらんもんは、持っとる人に出す」

 それで、坂の下の設備屋さんが入った。

 あそこは、七十を過ぎたおじさんが一人でやっとる店や。仕事が減っとると聞いとった。

 うちの店の配管を全部やって、そのあと、うちの母の家の蛇口も直していった。

 母が「ついでに見てくれんか」と言うたらしい。

今日のスイーツ

 スイーツは、買うてくる。

 白山市のコストコまで、片道二時間や。

 二週間に一回、誰かが行く。だいたいマコちゃんが行く。あの人は運転が好きらしい。

 買うてくるのは、大きいものや。

 ホールのケーキ。丸ごとのシフォンケーキ。大きいパン。この辺の店には無いものばかりや。

 それを切って、三百円ぶんにする。

 だから、その日に何が出るかは、切るまで分からん。

 二週間で使い切る。使い切ったら、次の便まで、コーヒーだけになる。

 最初のうち、それを申し訳ないと思うとった。

 「今日、スイーツ無いんです」と言うのが、嫌やった。

 いまは、そう思わん。

 無い日に来た人が、次に来るからや。

「この前、無かったやろ」

「すみません」

「今日は、あるんか」

「あります」

「ほんなら、もらうわ」

 無い日があるから、ある日が特別になる。

 これは、誰にも教わっとらん。三か月立って、自分で分かった。

時給

 わたしは、ここで時給をもらっとる。

 もう一人、坂の下のお母さんと二人で回しとる。月曜と水曜と金曜がわたしで、火曜と木曜が向こう。土日は交代や。

 一日四時間。十時から二時まで。娘の迎えに間に合う。

 この条件は、わたしが言うたのではない。ケイリさんが先に出してきた。

 「四時までに保育所へ行かれるのなら、二時上がりにします」と。

 時給を聞いて、わたしは一度、断ろうとした。

 時給、千五百円と書いてあった。

 わたしは、二度見た。

 石川県の最低賃金は、そのとき千百円ちょっとや。三百円以上、高い。

 この辺のパートは、たいてい最低賃金に張りついとる。役場の臨時でも、施設の補助でも、そんなに変わらん。

「ケイリさん。これ、間違うとりませんか」

「間違っていません」

「こんなにもらえません」

 わたしは、そう言うた。

 言うてから、自分でも変なことを言うとると思うた。ふつう、高いほうが嬉しいはずや。

 嬉しくなかった。

 怖かった、というほうが近い。

「なんで、こんなに出すんですか」

「三つあります」

 あの人は、指を折らんかった。数字の人やけど、指は折らん。

「一つ目。最低賃金は、下限です。守るのは当たり前で、そこに張りつける理由が、うちにはありません」

「けど、この辺は、みんなそのくらいで」

「よそがそうしているのは、うちの理由になりません」

 言い方は固いが、怒っとるのではない。この人は、いつもこの喋り方らしい。

「二つ目。四時間しか入っていただけません。娘さんの迎えがあるからです。四時間で来ていただける人は、この集落に多くありません。少ないものには、値段がつきます」

「……はい」

「三つ目が、いちばん大きいです」

 あの人は、そこで一度、区切った。

「アサミさんの仕事は、コーヒーを淹れることではありません」

「え」

「営業です」

 わたしは、意味が分からんかった。

「わたし、売り込みなんかしませんよ」

「しないでください」

「……はい?」

「うちは、売り込みをしない会社です。八年、一度もやっていません」

「ほんなら、営業て」

「ここに来た人が、コーヒーを飲みながら、天井の梁を見ます。表のパネルを見ます。停電しても消えない明かりを見ます」

「見とりますね」

「見て、家に帰って、そのうち何人かが、うちに連絡してきます」

「……」

「その連絡を作っているのが、この店です。そして、この店を人がいる場所にしているのが、アサミさんです」

 わたしは、そこで、何も言えんかった。

「笑って、話していただければ、それで足ります」

「それだけで、千五百円ですか」

「それだけが、いちばん難しいです」

 それで、受けた。

 最初の三か月は、半分も信じとらんかった。

 自分が営業やと言われても、実感が無い。わたしがやっとるのは、豆を挽いて、湯を注いで、皿を洗うことや。

 実感が出たのは、夏や。

 六月に来た五十代の夫婦が、九月に工事を頼んだ。

 あの人らは、はじめは何も言わんかった。二回目に来たときに、天井を見上げて「これ、抜いてあるんやね」と言うた。三回目に、表のパネルの話になった。四回目に、タクさんがたまたま店におって、そこで話した。

 わたしは、そのあいだ、コーヒーを出しとっただけや。

 ケイリさんが、あとで教えてくれた。

「あの件は、この店から出ました」

「わたし、何もしとらんですけど」

「四回、来ていただきました」

「はい」

「四回来られる場所を、うちは持っていませんでした」

 いまは、少し分かる。

 給料日に明細を見ても、前ほど変な気持ちにならん。

 ただ、慣れたわけでもない。

 千五百円は、やっぱり高いと思う。

 高いと思いながら、受け取っとる。

 受け取っとるから、笑うのが仕事になった。それは、思っとったより難しい。

今日は珍しい人がおるね

 お母さん二人で回しとると言うたが、二人とも都合が悪い日がある。

 娘が熱を出す。学校の行事がある。向こうのお母さんも、親の通院がある。

 そういう日は、会社の人が立つ。

 ナギさんが立つ日がいちばん多い。あの人が立つと、年寄りが増える。長いこと座っていく。コーヒーが冷めても飲まん人がおる。飲まんと帰る人もおる。

 ソラくんが立つ日は、静かや。あの人は、あんまり喋らん。喋らんのに、なぜか人が居着く。

 マコちゃんが立つと、うるさい。あの人は入ってきた人全員に声をかける。「今日なに飲む?」「二つしかないやろ」「そうやった」を毎回やる。

 いちばん珍しいのが、リクさんや。

 あの人は、ふだん学校を回っとる。中高の陸上部を見に行っとる人や。だから、店に立つのは年に何回かしかない。

 リクさんが立っとると、常連が入ってきて、必ずこう言う。

「今日は珍しい人がおるね」

 それが、この店のいちばん多い挨拶かもしれん。

 わたしが面白いと思うのは、四人とも、コーヒーの淹れ方が下手なことや。

 わたしのほうが上手い。三か月やっとるから、当たり前や。

 あの人らは、月に一回か二回しか立たん。だから、上手くならん。

 それを、誰も直そうとせん。

 ケイリさんに一遍、聞いてみた。

「あの人ら、練習せんのですか」

「しません」

「なんでですか」

「アサミさんより上手くなる必要が、ないので」

 その言い方が、わたしは好きやった。

天井を抜いた部屋

 店の奥に、座敷がある。

 八畳が二間つづきで、そこは無料や。

 コーヒーを飲まんでも、上がってええことになっとる。

 最初、これも「どうかな」と思うとった。

 ただで座られたら、店にならんやろうと思うた。

 三か月やって、分かった。

 座敷におる人が、そのうちコーヒーを頼む。頼まん人もおる。頼まん人が、次の週に人を連れてくる。

 それに、座敷は、うちが使わせてもろとるようなもんや。

 区の集まりが月に一回入っとる。公民館が坂の下で遠いので、こっちのほうが近い人が多い。

 子どもも上がる。学校帰りに、ランドセルのまま上がって、宿題をやっていく子がおる。

 もう一部屋、変わった部屋がある。

 納屋の奥の、天井を抜いた部屋や。

 二階の床を取って、吹き抜けにしてある。壁の一面に、色のついた突起がびっしり付いとる。

 ボルダリングの壁や。

 梁からブランコが二つ下がっとる。

 これも、タクさんが作った。

 代表の人の実家に同じものがあって、それをそのまま持ってきたらしい。

 うちの娘は、店に来ると、まずそこへ走っていく。五つやから、壁は下のほうしか登れん。それでも一時間は遊んどる。

 わたしは、その間、コーヒーを淹れとる。

 子育て中のお母さんが、二人か三人、座敷でしゃべっとる。子どもは吹き抜けの部屋におる。声は聞こえるが、姿は見えん。

 見えんでも、声が聞こえとれば分かる。

 声が止まったら、誰かが見に行く。

 それだけのことが、この辺には無かった。

赤字です

 九月に、ケイリさんが数字を持ってきた。

 半年ぶんや。

 わたしは、正直、見るのが怖かった。

 自分の時給が、この店の足を引っ張っとるのは分かっとったからや。

「アサミさん」

「はい」

「この店は、赤字です」

 あの人は、最初にそう言うた。

「……やっぱりですか」

「はい。半年で、それなりに出ています」

「わたしの時給を下げてください」

「下げません」

 即答やった。

「なんでですか」

「下げても、赤字は消えないからです。人件費を下げて消える赤字なら、そもそも赤字ではありません」

 わたしには、その理屈がよく分からんかった。

 分からんかったが、下げんと言うてくれたのは、ありがたかった。

「赤字でいい理由が、二つあります」

 ケイリさんは、そう続けた。

「一つ目。この店は、単体で黒字にするものではありません

「……はじめから、ですか」

「はじめからです。作る前に、そう決めました」

「そんな店、ありますか」

「あります。うちの場合は、こう回ります」

 あの人は、紙の裏に、丸を三つ書いた。

「ここでコーヒーを飲んだ人が、家に帰ります。何か月かして、うちに連絡が来ます。あるいは、その人が誰かに話して、その誰かから来ます」

「はい」

「その工事が、黒字です」

「……」

「この店の赤字と、その工事の黒字を、足して見ます。足して見て、はじめて意味があります。カフェだけを切り出して見たら、当然、赤字です。それで構いません

「けど、それやと、この店は」

「広告塔です」

 あの人は、はっきりそう言うた。

「表のカーポートに、十キロワットのパネルが載っています。中に蓄電池が三つ。五・一キロワットアワーが三つで、十五・三です。ハイブリッドインバーターが一つ」

「はい」

「それを、お客さんが毎日見ています。触れます。夜、明かりが点いているのも見ています」

「そうですね」

「同じことを紙で説明しようとすると、金がかかります。しかも、たいてい読まれません」

 あの人は、そこで一度、区切った。

「この店の赤字は、広告費です。広告費として見ると、驚くほど安いです」

「二つ目は」

「二つ目は、動かないことです」

「……動かない?」

「去年、うちは外の仕事を受けました。集落の外です。片道一時間かかりました」

「聞いとります」

「それで、失敗しました。時間が外に漏れて、集落に行く回数が減りました。人が一人、二日か三日、台所に倒れていました」

 あの人は、そこを、はっきり言うた。

 自分の会社の失敗を、雇っとる人間に、そのまま言うた。

「この店は、動きません」

「はい」

「毎日、同じ場所にあります。うちの人間が、ここへ来るのに、移動時間はゼロです」

「……」

「去年、私が漏らしたものが、ここでは漏れません」

 わたしは、そのとき、一つだけ聞いた。

「ケイリさん」

「はい」

「その、倒れた人、うちの母やなかったんですか」

「違います。サカエさんです」

「そうですか」

「アサミさんのお母様は、三年前です。あのときは、うちは何もしていません」

 あの人は、そう言うた。

「何もしていません」を、言い直さんかった。

停電した日

 十一月に、停電した。

 夕方の四時半から、六時四十分まで。二時間ちょっとや。

 風が強い日で、坂の上の木が倒れて、電線に触れたらしい。

 うちの店は、消えんかった。

 外の線は引き込んである。北陸電力の線も来とる。けど、ふだんから、ほとんどそっちは使うとらん。屋根のパネルと、三つの電池で回っとる。

 だから、四時半に何が起きたか、店の中では分からんかった。

 外が暗いのに気づいて、窓から見て、坂の下の家が消えとるので、はじめて分かった。

 三十分くらいして、人が来はじめた。

 最初に来たのが、坂の下の八十代の夫婦やった。

 次に、小さい子を連れたお母さんが二人。

 最後に、ハナダさんが来た。夜勤に行く前に寄った、と言うとった。

 全部で、七人や。

 わたしは、コーヒーを淹れた。停電しとるので、無料にしようかと思うたが、ケイリさんに電話したら「取ってください」と言われた。

「なんでですか」

「無料にすると、次に停電したときに、来にくくなります」

「そうですか」

「二百円です。いつもと同じにしてください」

 それで、二百円もらった。

 誰も、文句を言わんかった。

 七人のうち、携帯を充電したのは二人だけやった。

 あとの五人は、充電せんかった。二時間の停電で、充電が要る人はおらん。

 やることが無いので、座敷に上がって、しゃべっとった。

 わたしは、途中で聞いてみた。

「電気、要らんかったんですか」

「要らん」

「ほんなら、なんで来たんですか」

 八十代のおじいさんが、こう答えた。

「開いとるからや」

 六時四十分に、外の電気が戻った。

 坂の下の家に、順番に灯りが点いていくのが、窓から見えた。

 みんな「戻ったな」と言うて、帰っていった。

 店には、備えが置いてある。

 裏にガソリンの発電機がある。薪ストーブがある。水のタンクと、雨をためる樽と、簡易の浄水器がある。乾パンと水が、二階に積んである。簡易のトイレも箱で置いてある。

 停電が一日や二日続いたら、ここで泊まれるようにしてある。二階に部屋が二つある。ふだんは素泊まりの客を安く泊めとる部屋や。

 その日は、そのどれも、使わんかった。

 二時間で戻ったからや。

 備蓄のことで、一つだけ、先に決めてあることがある。

 わたしは、開ける前に、ケイリさんに聞いた。

「あの乾パンと水、災害のときは、なんぼでもらうんですか」

「もらいません」

「ただですか」

「ただです。うちの経費で出します」

「コーヒーは二百円もらうのに」

「コーヒーは、平時のものです」

 あの人は、そう言うた。

「電気が二時間止まったくらいで無料にすると、次に来にくくなります。だから取ります」

「はい」

「本当に困っている人から、備蓄の代金を取る会社なら、この店は要りません」

 線が、はっきり引いてある。

 二時間なら二百円。二日なら、ただ。

 その線を、わたしは店に立つ前に教わった。

 まだ、使うたことはない。

 使わんもんが、裏に置いてある。

 それでええ、と言われとる。

 店を閉めて、片づけをしとるときに、ミライさんから電話が来た。

 わたしは、この人に一遍も会うたことがない。

 電話には出る。夜でも出る。メールも返ってくる。けど、この店に来たことは一度もない。

 最初は、忙しい人なんやろうと思うとった。

 いまは、そういうことやないらしい、と思うとる。理由は聞いとらん。

「アサミさん。今日の記録をお願いします」

「はい」

「停電の時間と、来られた人数を」

「四時半から六時四十分。七人です」

「充電された方は」

「二人です」

「残りの五人は」

 わたしは、そこで、少し考えた。

「……開いとるから来た、と言うとりました」

 電話の向こうで、少し間があった。

「そのまま書きます」

「そのままですか」

「はい。『電気は要らなかった。開いていたから来た』」

「それ、記録になるんですか」

「なります」

 あの人は、そう言うた。

「うちがいちばん長く数えてきたのは、何も起きなかった日のことです」

 電話を切って、板を裏返した。

『本日は終了しました』

 明日は火曜やから、わたしは休みや。向こうのお母さんが立つ。

 豆は、あと三日ぶんある。エチオピアの週や。

 スイーツは、明後日にマコちゃんが取りに行く。

 わたしは、店の鍵をかけて、坂を下りた。

 途中で、母の家の前を通った。

 台所に、灯りが点いとった。

第四十八話 ―― 金沢の設計事務所「四秒」

創作ノート(第四十七話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,603字
  • 時期:二〇三五年 四月〜十一月
  • 視点:アサミ(三十七歳・トメさんの娘/ミナトの母)
  • ★ この回は「――」を一度も使っていない(無印の五本目。ep34・35・41・42・43)
  • ★ 第二部の最終話
  • 2026-08-16 新規(リーダー直接指示+本番 HP の記事):仕様はリーダー説明と
  • 施設:納屋を譲り受け、タクが一人で改修(大工+電気工事)。水道とガスは資格が要るので坂の下の設備屋に発注
  • engine は雇用。会社は第二十九話で雇用を理由に一億一千百六十万円を断っている
  • 正典 §4-7-4(十八人は生まれた記録が無いので払う先の口座が作れない)が、一字も説明されずに効く
  • 時給の気まずさは最後まで消さない。「この気持ちは、たぶん消えん。消えんままで、店に立っとる」
  • 選べないメニュー=作品の主題。「無い日があるから、ある日が特別になる」
  • ★ 締めは第八話「空振り台帳」と第三十二話の反転。停電しても五人は充電しない。「開いとるからや」。

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep47_cafe_mirai2nd.md

第四十八話

四秒

金沢の設計事務所

第三部 出ていった側

ナオ視点

登場
リク(No.10・電話のみ)/タク(No.9・言及)/所長/マツバラさん(先輩・三十代)
視点
ナオ(二十四歳・金沢の設計事務所/リクの教え子)
時期
二〇三六年 三月
  • タクタク
  • リクリク

五時

 金沢の朝は、能登より遅い。

 海が無いからだと思う。能登だと、明るくなるのが海のほうからで、水平線の色が先に変わる。金沢は建物のあいだから、いつのまにか明るい。

 三月の五時は、まだ暗い。

 私はアパートを出て、犀川沿いの道に降りる。

 六キロ。ゆっくり。四十分くらい。

 ――走るようになったのは、四年前からだ。

 大学一年の夏に、能登へ行った。リク先生に会いに行ったのではない。会いに行ったのだが、そう言うと照れくさいので、実家に帰るついでということにしていた。

 朝の五時に、あの会社の前を通った。

 通っただけだ。用は無い。

 ――全員、動いていた。

 庭で誰かが自転車を組んでいて、玄関の前で誰かが柔軟をしていて、事務所の窓が明るくて、中で誰かが何か書いていた。

 五時である。

 私はそれを見て、少し腹が立った。

 なぜ腹が立ったのかは、そのときは分からなかった。

 いまなら分かる。あの人たちは、誰にも見られていない時間に、それをやっていたからだ。

 私は当時、見られている時間にしか走っていなかった。

 その日から、朝に走るようになった。

 最初は続かなかった。二週間でやめて、三か月あけて、また始めた。それを何回か繰り返して、いつのまにか、やめる理由のほうが思いつかなくなった。

 いまは、走らない日のほうが気持ちが悪い。

 ――ただし、速くは走らない。

 速く走るのは、四年前にやめた。

十二月の紙

 三月なのに、まだ引きずっていることがある。

 去年の十二月に、一級建築士の合格発表があった。

 学科は通っていた。夏の試験だ。四科目、朝から夕方まで。あれは通った。

 落ちたのは、製図のほうだ。

 十月の試験で、六時間半かけて描いた。課題は集合住宅だった。

 ――描けた、と思って帰った。

 図面としては、たぶん破綻していない。動線も採光も、法規も外していない。

 落ちた。

 発表の日、番号が無かった。三回くらい見直した。

 その晩、私は自分の答案の復元図を広げて、二時間見ていた。

 どこが悪いのか、自分では分からなかった。

 ――分からない、というのが、いちばんこたえた。

 高校のとき、腰を痛めたリク先生の話を聞いたことがある。病院に行っても骨に何も出なくて、何が悪いのか最後まで分からないまま、シーズンが終わったという話だ。

 あのときは、他人事として聞いていた。

 いまは、そうではない。

 理由が分かる失敗は、直せる。分からない失敗は、次も同じことをする。

 年が明けて、事務所の先輩に見てもらった。

 マツバラさんという人だ。三十代で、二回目で受かっている。

「ナオちゃん、これ、上手いね」

「……落ちましたけど」

「上手いよ。線がきれい。納まりも考えてある」

 それから、少し黙って、こう言った。

上手いけど、読ませる気が無い

「え」

「これ、現場に渡す図面でしょ。試験の図面じゃない」

 ――そこで、少し息が止まった。

「採点する人は、六時間半でどれだけ描いたかを見るんじゃないの。採点項目が、どこにあるかを探しに来るの。それが見つけやすいところに無いと、無いことになる」

「……無いことに」

「描いてあっても、探させたら負け」

 私はうなずいた。うなずいたが、腹の底では納得していなかった。

 ――描いてあるのに。

 三月になって、やっと少し分かってきた。

 あれは、読む人がちがうという話だ。

 現場に渡す図面は、作る人が読む。作る人は、自分が作るところを探して読む。だから探す。探すのが仕事だ。

 試験の図面は、採点する人が読む。採点する人は、決まった項目が決まった場所にあるかを見る。探すのは仕事ではない。

 同じ「図面」でも、渡す相手が違えば、別の物になる。

 ――渡す相手を間違えたのだ、私は。

 走りながら、昔のことを考える癖がある。

 高校のとき、リク先生に「時計を見るな」と言われた。

 あの人は「見るな、とは言わん」と言った。「見るたびに、お前は自分のリズムやなくて、時計のリズムで走っとる」とも言った。

 そのとおりだった。

 大学に入るとき、私は目標を二つ立てた。

 高校でやり残した自己ベストの更新と、北信越に出ること。

 的は、はっきりしていた。二分十七秒六。高校三年の県総体で、六位が出したタイムだ。あと〇秒八届かなかった。あの数字を、四年かけて超えるつもりでいた。

 ――大学一年の六月に、超えた。

 二分十七秒二。

 あっけなかった。

 高校のときと同じ練習を、少し量を落として、レースペースを増やしただけだ。リク先生が言ったとおりにやっただけで、一年目に通過した。

 そして、もう一つの目標も、その前に消えていた。

 大学の陸上は、県の予選から積み上げるのではない。いきなり北信越が最初の大会なのだ。

 入学して二か月で、私は北信越のトラックに立っていた。

 ――出ることが目標だった場所に、抽選も予選もなく、順番で立っていた。

 目標が、達成されたのではない。

 達成される前に、意味を失った。

 あのとき私は、リク先生に電話をしていない。

 報告することがない、と思ったからだ。

四秒

 目標が消えたので、私は数字を追うのをやめた。

 やめて、ただ、毎年一秒ずつ縮めた。

 一年 二分十七秒台。二年 二分十六秒台。三年 二分十五秒台。

 四年 二分十四秒二

 ――大学の歴代記録だった。

 部の壁に、名前と数字が並んだ板が貼ってある。四十年ぶん貼ってある。八百メートルのところの、いちばん上に、私の名前が入った。

 弱い部だ。集めていない部だ。それでも四十年ぶんの上だった。

 あの板を見たとき、私は、はじめて自分の名前を長く見た。

 その板を見た同じ日に、私はもう一つの数字を見ている。

 日本インカレの、八百メートルの参加標準記録。

 二分十秒五

 ――四秒。

 私は四年間で四秒縮めた。だから、あと四年あれば届く、と一瞬思った。

 思って、すぐに、それが嘘だと分かった。

 最初の四秒と、次の四秒は、同じ値段ではない。

 二分十八秒を二分十四秒にするのと、二分十四秒を二分十秒にするのは、まったく違う。前者は積めばできる。後者は、積んでもできない人のほうが多い。

 私は、後者の側だった。

 ――そこまでは、走らなくても分かった。

 これは諦めではない、と自分では思っている。

 ただ、二分十四秒二を出した日に、上を見たら、四秒あった。それだけの話だ。

勝てなかった

 もう一つ、残ったものがある。

 石川県の選手権で、私は一度も優勝していない。

 四年間、二位か三位だった。

 ――勝ったのは、いつも強豪校から来た子たちだ。

 金沢の私立の、寮のある学校。中学のときに県外や奥能登から集められて、三年間そこで鍛えられて、そのまま大学でも走っている。

 速い。当たり前だ。

 三年のとき、〇秒三差で二位だった。

 四年のとき、〇秒六差で三位だった。

 ――近いのに、勝てない。

 その二人とは、レースのあとに何度か喋った。

 悪い子たちではない。むしろ礼儀正しかった。一人は珠洲の出身だと言っていた。中学で金沢に出て、そのまま寮に入ったらしい。

「ナオさん、地元どこですか」

「奥能登」

「あ、じゃあ近いですね」

「近いね」

「わたし、珠洲です」

 ――そこで、少し話が止まった。

 珠洲と、私の集落は、車で四十分くらいだ。県内では近い。

 でも、近いという実感が、お互いに無かった。

「中学のとき、こっち来たんです」

「一人で?」

「寮なんで」

「十五で」

「はい」

 その子は、そのことをなんでもないように言った。

「うち、部活が無かったんです。陸上部が」

 ――私の学校には、あった。

 部員七人だったが、あった。中距離は私一人だったが、あった。

 そして、リク先生がいた。

「ナオさん、高校どこですか」

 私は学校名を言った。相手は知らなかった。

「あ、すみません」

「ええよ。誰も知らんし」

「強かったですか」

「七人しかおらんかった」

「……七人」

「うん」

 その子は、少し笑った。悪意のない笑い方だった。

「じゃあ、なんでそんな速いんですか」

 ――私は、答えに詰まった。

 答えは分かっている。無償で見てくれる人がいたからだ。

 その説明を、その場でうまくできる自信が無かった。

「……よう分からん」

 そう言って、逃げた。

 ――近いのに、通ってきた道が全然ちがう。

 あの子は十五で家を出た。私は十八まで、部員七人の部にいた。

 あの子は、環境を手に入れるために故郷を出た。私は、故郷にいたまま、環境のほうが来てくれた。

 結果は、あの子のほうが速い。

 どっちが良かったのか、私は今でも分からない。

 ただ一つ、はっきりしていることがある。

 ――あの子は、帰る場所を十五で手放している。

 私は十八まで、毎日あの坂を下りていた。

最後の八百

 四年の秋に、最後のレースを走った。

 北信越の最終戦だ。順位は覚えていない。四位か五位だったと思う。タイムは二分十五秒台。ベストではなかった。

 ゴールして、そのまま座り込んで、しばらく立てなかった。

 ――そこで終わりにする、と決めていた。

 誰にも言っていなかった。決めていたことだけは、はっきりしていた。

 社会人で八百メートルを続ける道が無いわけではない。実業団ではなくても、クラブで走っている人はいる。

 私は、続けなかった。

 理由は、うまく言えない。

 強いて言えば、八百メートルという種目に対して、私はもう出し切ったという感覚があった。二分十四秒二が私の全部で、そこから先は、私の身体では出ない。

 ――時計は、私の身体のことを何も知らない。

 あの言葉は、そういう意味だったのだと思う。

 時計は「あと四秒」と言う。身体は「もう無い」と言う。どちらを信じるかは、時計が決めることではない。

 その晩、リク先生に電話をした。

 四年間で、二回目の電話だった。

「終わりました」

「そうか」

「二分十四秒二でした」

「知っとる」

 ――見ていたらしい。

「先生」

「うん」

「目標、一年目で終わっちゃいました」

「知っとる」

「それも見てたんですか」

「見とった」

 少し間があって、あの人はこう言った。

目標が先に無くなったのに、三年やったな

 私は、そこで泣いた。

 電話の向こうで、何も言わなかった。切りもしなかった。

紙と現物

 いまの仕事の話をする。

 金沢の設計事務所に入って、二年になる。所員は八人。住宅と、小さい店舗と、たまに公共施設。

 私がやっているのは、下描きと、確認申請と、現場の記録だ。

 ――設計をさせてもらえるのは、まだ先だ。

 卒業した年に二級建築士は取った。一級は、去年落ちた。

 仕事の中で、私が好きな作業がある。

 竣工図を直す作業だ。

 建物ができあがったあと、実際にできたものに合わせて図面を直す。設計のときの図面と、できたものは、必ずずれる。壁を開けたら想定と違った、配管の逃げが取れなかった、施主が途中で仕様を変えた。

 そのずれを、紙のほうに戻していく。

 ――地味だ。誰もやりたがらない。

 ふつうは施工会社が作る。うちの事務所は小さいので、まわってくることがある。まわってきたら、私は喜んで受ける。

 去年の秋、白山の住宅でそれをやった。

 現場に三回行った。三回目に、脚立に乗って天井裏を覗いた。

 ――図面と、違っていた。

 梁の位置が二百ミリずれていた。設計のときに想定した位置に、既存の配管が通っていたからだ。大工さんがその場で判断して、逃げた。

 それ自体は、正しい判断だ。逃げなければ入らない。

 問題は、誰もそれを紙に書いていないことだった。

 私は現場で寸法を測って、事務所に戻って、二百ミリ直した。

 直したものを、施主にも渡した。

「これ、要りますか」

「要ります」

「いま何に使うわけでもないですけど」

「二十年後に、誰かが天井を開けます」

 ――そのとき、この紙が合っていれば、その人は一回で当てる。

 合っていなければ、天井を二か所開ける。

 二百ミリのために、天井を二か所。

 なぜ好きなのかは、自分で分かっている。

 高校のとき、リク先生の双子のお兄さんの話を聞いたことがある。

 その人は、大工と電気工事をやっている。図面を書かない人だ。

 「図面って、他人に施工させるための道具なんですよ」と言ったらしい。「自分で書いて自分で施工しとるから、渡す相手がおらん。渡す相手がおらん図面を書くと、それは書いた瞬間に、ただの紙になる」

 それから、こうも言ったそうだ。

 「現物は絶対に嘘をつかない」

 ――私は、その逆の仕事に就いた。

 他人に施工させるための図面を書く仕事だ。渡す相手がいる。だから紙にならない。

 でも、渡したあとに現場で変わる。変わったものを紙に戻さないと、その図面は嘘になる。

 だから竣工図を直す。

 現物と紙を、もう一度合わせる。

 ――たぶん私は、あの人と同じことを、逆側からやっている。

能登の物件は来ない

 三月の第二週に、所長と話す機会があった。

 年度末の面談だ。十五分で終わるやつ。

「ナオさん、一級は」

「今年また受けます」

「うん。受かって」

 それから、こう聞かれた。

「将来、どこでやりたいとかある」

 ――私は、少し考えて、正直に言った。

「能登で、家を建てたいです」

 所長は、否定しなかった。

 否定しなかったが、机の上の書類を少しずらして、こう言った。

「うちの去年の物件、二十三件。能登は」

「……」

「一件」

 知っていた。

 私が確認申請を出しているので、どこの案件かは全部知っている。金沢、白山、野々市、小松。二十三件のうち二十二件が、金沢から南だ。

「人がおらんと、家は建たんのよ」

「はい」

「建て替えも、まず出ん。直すか、そのままか、出ていくか」

「はい」

「それでもやりたいなら、止めんけど」

 ――そこで、話は終わった。

 止められたわけではない。応援されたわけでもない。

 数字を見せられただけだ。

 それが、いちばん効いた。

 部屋に戻って、去年の二十三件を、自分でもう一度並べた。

 所長が言ったのは正しい。ただ、少しだけ違う見え方もあった。

 二十三件のうち、新築は九件。残りの十四件は、改修と、耐震と、増築だ。

 ――改修なら、人がいなくても要る。

 いや、逆だ。人が減った場所ほど、直す仕事しか残らない。

 建て替える体力のある世帯は出ていく。残った家は、直して住む。

 だから能登に無いのは「建てる仕事」であって、「直す仕事」ではないのかもしれない。

 ――そこまで考えて、私は手を止めた。

 直す仕事なら、もうやっている人がいる。

 リク先生の双子のお兄さんだ。

 あの人は、能登で、壁を開けて、中を見て、直している。図面を書かずに。

 私が行っても、やることが被る。

 ――被らないのは、どこだろう。

 その晩は、そこまでで終わった。

距離

 三月の終わりの朝、いつもより長く走った。

 六キロを十二キロにした。

 ――理由は、そんなに深くない。

 八百メートルをやめてから、私は速く走ることをしていない。ゆっくり長く走ることだけをしている。

 最近、それが嫌ではないと気づいた。

 むしろ、四十分より、九十分のほうが好きかもしれない。

 ハーフマラソンなら、いまの状態で走れると思う。フルは、たぶん練習が要る。

 ――八百のときは、二分の中に全部あった。

 いまは、二時間の中に置いていく感じがする。

 どちらが良いという話ではない。ただ、私の身体が、そっちに向いているのは分かる。

 犀川の橋の上で、一度止まった。

 三月の水は、まだ冷たそうだ。

 能登の海は、ここから北へ百キロある。見えない。

 ――あそこで家を建てる仕事は、いまのところ、無い。

 二十三件のうち一件だ。

 それでも、私は毎朝走っている。理由は、四年前に見た、五時に動いていた人たちだ。

 あの人たちは、たぶん、いまも動いている。

 私は、あそこに行くとは、まだ誰にも言っていない。

 ――言うのは、たぶん、もう少し先だ。

 一級を取ってからにする。

 橋を渡って、私はまた走り出した。

第四十九話 ―― 防災カフェ「なにこれ」

創作ノート(第四十八話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,190字
  • 時期:二〇三六年 三月
  • 登場:リク(No.10・電話のみ)/タク(No.9・言及)/所長/マツバラさん
  • 前話との接続:第二部が能登の側で閉じたので、第三部は能登の外から始める。第十二話の目標(二分十七秒六)は大学一年で意味を失い、届かなかったもの(県の優勝/インカレの二分十秒五)だけが残った

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep48_nao_mirai2nd.md

第四十九話

なにこれ

防災カフェの夏

第三部 出ていった側

ミオ視点

登場
アサミ(三十八歳・店に立つ人)/ケイリ(No.4)/タク(No.9)/ナギ(No.11)/ミナト(中二)/チサ(同級生・小松)
視点
ミオ(二十歳・金沢の大学二年/二〇三一年の地震で金沢へ避難した家の子)
時期
二〇三六年 七月〜八月
  • ケイリケイリ
  • タクタク
  • ナギナギ

 七月の終わりに、祖母の墓参りで能登に行った。

 五年ぶりだった。

 うちは、二〇三一年の一月に金沢へ出た。私は中学二年だった。

 地震のあと、二週間だけ体育館にいて、そのあと金沢の親戚の家に移って、春に市営のアパートに入った。父がそのまま金沢で仕事を見つけたので、戻らなかった。

 ――戻らなかった、というより、戻る話が出なくなった。

 家は、二〇三三年に解体した。公費解体というやつだ。私は立ち会っていない。学校があったので。

 いまその場所は、草だ。

 夏の草は膝より高い。何が建っていたのか、境目も分からない。

 祖母は二〇三四年に亡くなった。最後まで「帰りたい」と言っていたらしい。私はそれを、父から聞いた。

 ――らしい、というのが、たぶん全部だ。

 私は、その言葉を直接は聞いていない。

なにこれ

 墓参りのあと、車で二十分ほど走ったところに、店があった。

 古い家だ。納屋みたいな造りで、入口に小さい木の看板が出ている。

 その手前の駐車場に、屋根がある。

 単管パイプで組んだカーポートの上に、黒い板がびっしり載っていた。

 ――なにこれ。

 私は車を停めて、しばらく見上げていた。

 太陽光パネルだというのは分かる。分かるが、家の屋根ではなく駐車場の屋根に載っているのは、はじめて見た。しかも、多い。

 中に入ったら、メニューが二つしかなかった。

 コーヒー二百円。コーヒーとスイーツで五百円。

「どっちにする」

 カウンターの人が、そう聞いてきた。三十代後半くらいの女の人だ。

「スイーツって、何ですか」

「今日はシフォンケーキ。日によって違う。選べんの」

「……選べない」

「うん。届いたやつを出しとるだけやから」

 私は五百円のほうを頼んだ。

 シフォンケーキは、能登では見たことのない大きさだった。

 厚みが五センチくらいある。皿からはみ出している。

「これ、どこのですか」

「白山のコストコ」

「……コストコ」

「月に二回、誰かが車で行く。この辺、こういうの売っとる店が無いから」

 ――たしかに、無い。

 私が中学のころ、いちばん近いケーキ屋は車で三十分だった。いまはもっと遠いと思う。

 金沢にいると、こういうものは五分歩けばある。

 だから、私はもう長いこと、ケーキを「わざわざ食べるもの」だと思っていなかった。

 座敷のほうを見た。

 六畳の畳の間で、四人掛けの座卓が二つ置いてある。

 おばあさんが二人、そこに座っていた。テーブルの上には何も無い。

 ――何も頼んでいない。

 私は、それが最初、理解できなかった。

「あの、あの人たち」

「うん」

「注文、してないですよね」

「しとらん」

「……いいんですか」

 アサミさんは、当たり前のことを聞かれたという顔をした。

「座敷は、無料開放やから」

「無料」

「うん。ここ、公民館みたいに使ってええことになっとる」

 ――そんな店があるのか、と思った。

 金沢のカフェで、注文せずに二時間座っていたら、たぶん追い出される。

「儲かるんですか」

 聞いてから、失礼だったと思った。

 アサミさんは、怒らなかった。

「儲からん」

 あっさり言った。

「赤字らしいよ。うちの店」

「……らしい?」

「経理の人が、そう言うとった。赤字でええ、って

三か月

 その日、私は結局二時間そこにいた。

 クーラーが効いていた。Wi-Fi が飛んでいた。しかも無料で、パスワードが壁に貼ってあった。

 座敷があって、そこは注文しなくても座っていいらしい。実際、おばあさんが二人、コーヒーを頼まずに喋っていた。

 帰りぎわに、カウンターの人が言った。

「あんた、金沢の子?」

「はい。もとはこっちですけど」

「そう」

 それ以上は聞かれなかった。

 ――そこが、よかった。

 金沢で「能登から来た」と言うと、たいてい次に地震の話になる。大変やったねと言われる。悪気はない。ないが、そのたびに私は、自分がそんなに大変だったかどうか分からなくなる。

 中二の私は、正直、金沢の生活が楽しかった。

 そのことを、誰にも言ったことがない。

 八月に、また来た。

 実家の跡地の草刈りを、父に頼まれたからだ。一人では終わらない量で、週に二回、通うことになった。

 三回目に寄ったとき、私は聞いてみた。

「ここ、人手要りませんか」

 カウンターの人は、アサミさんという名前だった。

「要る。八月だけでもええ?」

「はい」

「時給、千五百円」

「……え」

「安い?」

「高いです」

 アサミさんは、笑わなかった。

「うちは下げんことになっとるんやわ」

これ何

 働きはじめて、三日目に分かったことがある。

 この店は、コーヒーを売っていない

 いや、売ってはいる。二百円で。でも、来る人の半分くらいはコーヒーを頼まずに、座敷に上がって帰る。

 そして、必ず誰かが、外の設備を指差して聞く。

「これ何」

 最初は答えられなかった。

 二日目にアサミさんに教わって、三日目には自分で説明していた。

「駐車場の屋根の、あれがソーラーパネルです。だいたい十キロワット」

「じゅっきろ」

「一般のお家の三倍くらいです」

「へえ」

「で、あそこの箱がハイブリッドインバーターっていって、パネルで作った電気と、北陸電力から来る電気と、蓄電池を、まとめて切り替えてます」

「切り替える」

「停電したら自動で蓄電池に替わります。二十ミリ秒くらいで。人間には分かりません」

 ――言ってから、自分でびっくりした。

 私は理学部でも工学部でもない。経済学部だ。三日前まで、蓄電池がどこにあるかも知らなかった。

 なのに、口が動く。

 あとで気づいたが、私はアサミさんの言い方をそのまま真似していた

 アサミさんは、たぶん、誰かの言い方をそのまま真似している。

 八月の第二週に、実際に停電した。

 雷だった。夕方の五時ごろ、外がいきなり暗くなって、雨が横に降った。

 ――店の電気は、消えなかった。

 私は、そのとき皿を洗っていた。

 消えなかったので、停電したことに気づかなかった。

 気づいたのは、座敷のおじいさんが「おい、外、消えとるぞ」と言ったからだ。

 窓から見たら、道の向かいの家が真っ暗だった。街灯も消えていた。

「アサミさん、停電です」

「うちは点いとるやろ」

「点いてます」

「ほんならええ」

 ――ほんならええ、で終わった。

 あとで聞いたら、二十ミリ秒で切り替わっているらしい。人間には分からない。

 その日、近所の人が三人来た。

 携帯を充電しに来たのではない。

 「涼みに来た」と言った。

 停電すると、うちはクーラーが止まる。ここは止まらない。だから来る。

 ――そういう使い方をされる店だ、ということが、その日に分かった。

 二時間ほどで、外の電気も戻った。

 戻ってから、みんな帰った。

 誰も「ありがとう」とは言わなかった。

 アサミさんも「またどうぞ」とは言わなかった。

 ――そういうものらしい。

 八月の半ばに、私は困った。

 聞かれることが、いつも同じなのだ。

 ソーラー。箱。蓄電池。それから、店の隅に置いてある黒い箱(ポータブル電源というらしい)。あと、屋根の上の白い皿。あれはスターリンクで、この店の Wi-Fi はそこから来ている。

 同じ説明を、一日に五回する。

 五回目には雑になる。雑になると、相手が「ふうん」で終わる。

「アサミさん、札作っていいですか」

「札?」

「これ何、って聞かれるやつに、名前だけ書いた札」

 アサミさんは少し考えて、こう言った。

「名前だけ?」

「はい」

「説明は」

「書きません」

「なんで」

 ――私は、そこは自分でも整理できていた。

「全部書いてあると、読んで帰るので」

 アサミさんは、そこではじめて笑った。

「ええよ。やって」

 私が作った札は、名刺くらいの大きさだ。

 厚紙に、油性ペンで名前だけ書いた。

『ソーラーパネル 10kW』

『ハイブリッドインバーター』

『蓄電池 5.1kWh × 3』

『ポータブル電源』

『スターリンク』

 ――それだけ。

 効果は、その日のうちに出た。

 札があると、読んだうえで聞いてくる。「このハイブリッドってなに」「三つあるのはなんで」。

 入口が具体的になったぶん、話が長くなった。

 長くなるのは、この店では悪いことではないらしい。

うちのばあちゃん家

 お盆に、大学の友だちが三人来た。

 私が「能登でバイトしてる」と言ったら、面白がって、車で来た。

 三人とも金沢の子だ。一人は野々市、一人は白山、一人は小松。

 店に入って、五分でこうなった。

「なにこれ、屋根すごくない?」

「ソーラー」

「知っとるけど、多くない?」

「十キロある」

「え、家の三倍じゃん」

 ――私が三日で覚えたことを、そのまま言っている。

 そのうち、白山の子が言った。

「あ、これ、うちのばあちゃん家についとる」

「え、どれ」

「これ。この箱」

 指していたのは、ポータブル電源だった。

「去年つけた。停電したとき冷蔵庫だけ動くって」

「ばあちゃん、何歳」

「八十四」

「使える?」

「ボタン一個やから使える、って言うとった」

 ――ボタン一個。

 私は、その言葉をどこかで聞いた気がした。

 あとで店の人に聞いたら、この会社が最初に入れた家も、そういう形だったらしい。

 もう一人、小松の子が言った。

「うちの親も、これええなって言うとった」

「太陽光?」

「ちゃう。停電のやつ。去年の台風で二日止まったから」

「二日」

「エレベーター止まって、母さん、十四階まで階段」

 ――金沢や小松の話だ。

 能登の話ではない。

 この店は能登にあるけれど、ここで話されていることは、能登の外でも起きている。

 そのことに、私はそのとき気づいた。

 三人は、そのあと外に出て、カーポートの下でずっと喋っていた。

 野々市の子が、パネルの枚数を数えていた。

「二十四枚ある」

「多いな」

「一枚四百ワットくらいやろ。だから十キロ?」

 ――合っていた。

 私が三日で覚えたことを、この子は見ただけで計算した。工学部だからだと思う。

「これ、いくらすんの」

 私は答えられなかった。値段は聞いていない。

 あとでアサミさんに聞いたら、こう言われた。

「値段は言うことになっとる。隠さんことになっとる」

 ――隠さない。

 それも、この会社の決まりらしい。

 アサミさんは紙を持ってきて、パネルと、箱と、蓄電池の金額を教えてくれた。工事費も入っていた。

 安くはなかった。でも、私が思っていたより、ずっと具体的だった。

「これ、お客さんに聞かれたら言うんですか」

「言う」

「高いって言われませんか」

「言われる」

「そしたら」

「高いですね、って言う」

 ――それだけらしい。

「安く見せると、あとで揉めるから」

 アサミさんは、そう言った。

 その言い方も、たぶん誰かの受け売りだ。

同級生

 八月の終わりに、一人だけ、自分から連絡した相手がいる。

 チサという子だ。中学の同級生。地震のあと、小松に避難して、そのままそこにいる。

 あの子とは、避難してから一度も会っていない。

 ――店の窓から海が見えた日に、なんとなく打った。

『能登におる』

 返事は、その日のうちに来た。

『え、能登行ったん』

『バイトしとる』

『まじで』

 私は、店の写真を送った。カーポートのパネルが写るように撮った。

 少しして、こう来た。

『行こうかな』

 ――そこで、終わった。

 その週は来なかった。次の週も来なかった。

 八月が終わって、私は金沢に戻った。

 私は、追わなかった。

『いつ来る?』とも、『待っとるよ』とも打たなかった。

 チサは中学のとき陸上をやっていた。短距離が速くて、県大会にも行っていた。避難したあと、高校では続けなかったと聞いている。

 なぜ続けなかったのかは、聞いていない。

 ――聞いていいのかどうか、私には分からなかった。

覚えていない

 働いた最後の日に、座敷でおばあさんに話しかけられた。

「あんた、どこの子」

 私は集落の名前を言った。

「ああ、あそこの。誰の孫」

 祖母の名前を言った。

 おばあさんは、しばらく黙って、それから「ああ」と言った。

「あの人な。よう歩いとった」

「歩いてました?」

「毎朝な。あの坂、上がって下りて」

 ――知らなかった。

 祖母が毎朝歩いていたことを、私は知らない。

 中学二年まで一緒に住んでいたのに、知らない。

「あんた、覚えとらんか」

「……覚えてないです」

「そうか」

 おばあさんは、それ以上は言わなかった。

 責められたわけではない。

 でも、私はそこで、はじめて、自分が能登のことをほとんど覚えていないという事実に、正面から当たった。

 五年いなかったのではない。中学二年までしかいなかったのだ。

 私の中の能登は、十四歳で止まっている。

 おばあさんは、そのあと、勝手に喋ってくれた。

 祖母が、坂の上まで毎朝歩いていたこと。

 歩きながら、途中の家に声をかけていたこと。

 「おるかー」と言って、返事があったら通り過ぎるだけだったこと。

 ――それは、たぶん、ただの散歩ではない。

「あんたのばあちゃん、それを二十年やっとった」

「二十年」

「うん。誰にも頼まれとらんのに」

 私は、湯呑みを持ったまま、しばらく動けなかった。

「なんで、やっとったんですか」

「知らん」

 おばあさんは、あっさり言った。

「本人も、たぶん知らんかったと思う」

 その日、家に帰ってから、母に電話した。

「ばあちゃん、毎朝歩いとった?」

「歩いとったよ」

「知っとった?」

「知っとる。あんたも知っとるやろ」

「知らん」

「小学校のとき、一緒に行っとったやん」

 ――記憶に無い。

 母は「六年のときや」と言った。

「二人で坂上がって、帰りにアイス買うて」

「……覚えてない」

「そう」

 母は、それ以上言わなかった。

 電話を切ってから、私はしばらく天井を見ていた。

 忘れたのではない。覚える気が無かったのだと思った。

 当時の私にとって、あれはただの朝の用事だった。

夏の終わり

 バイトの最終日、アサミさんが給料を封筒で渡してくれた。

「来年も来る?」

「……たぶん」

「たぶんでええよ」

 私は札のことを聞かれた。

「あれ、置いといてええ?」

「どうぞ」

「ナオさんっていう人が来たとき、ええねって言うとった」

「誰ですか」

「金沢で建築やっとる子。うちの関係の」

 ――知らない名前だった。

 でも、その人も金沢にいるらしい。

 帰りの車で、実家の跡地の前を通った。

 草は刈った。刈ったら、思ったより狭かった。

 あそこに家があったはずなのに、狭い。

 ――記憶のほうが、大きい。

 金沢に戻って、一週間もしたら、私はまた普通に大学に行って、普通にバイトを探して、普通に友だちと遊ぶ。

 それでいいのだと思う。

 ただ、次の夏も来ようと思っている。

 理由は、うまく言えない。

 強いて言えば、あの店には、私が知らない祖母のことを知っている人が座っているからだ。

第五十話 ―― 十一月の訓練「去年おった人」

創作ノート(第四十九話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,729字
  • 時期:二〇三六年 七月〜八月
  • 登場:アサミ(店に立つ人)/ミナト(中二)/大学の友人三人/チサ(同級生・小松)
  • 前話との接続:第四十七話で開いたカフェを、外から来た子の目で見る。第四十八話のナオの名前が、会ったことのない子の耳に一度だけ通る

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep49_mio_mirai2nd.md

第五十話

去年おった人

十一月の訓練

第三部 出ていった側

ミナト視点

登場
マモル(No.8)/ナギ(No.11)/アオイ(二十三歳・役場)/ヒナ(高二)/トメさん(九十歳)/サワダさん/アサミ
視点
ミナト(十四歳・中学二年/トメさんの孫・アサミの息子)
時期
二〇三六年 十一月
  • マモルマモル
  • ナギナギ

名簿

 十一月の第二日曜が、地区の防災訓練だ。

 毎年やっとる。おれが小学校のときからやっとる。

 今年、はじめて名簿を渡された。

 マモルさんが、朝、公民館の前で言うた。

「ミナト。今年から、こっち側や」

「こっち側」

「回す側」

 ――紙が一枚。

 集落の家が全部書いてある。四十三軒。名前と、年齢と、電話番号。

「これ、持っとってええんですか」

「訓練のあいだだけや。終わったら返す」

「はい」

「なくすなよ。なくしたら、それは事故や

 マモルさんは、そういう言い方をする。怒っとるのではない。事実を言うとる。

 おれは、その紙を二つに折って、上着の内ポケットに入れた。

こども防災士会

 こども防災士会は、三年前にできた。

 最初は八人やった。おれは小学五年で、そのとき入った。

 いまは十一人おる。小学生が七人、中学生が四人。

 やることは、そんなに大したことやない。

 訓練の日に、決められた家を回って、声をかける。「訓練です。逃げる練習です」と言うて、来られる人には一緒に来てもらう。

 来られん人の家には、玄関に紙を貼る。『声かけ済み』という紙や。

 それだけ。

 ――それだけやけど、去年まではおれたちが「声をかけられる側」やった。

 子どもは避難所に集められて、座らされて、話を聞いて、乾パンをもらって帰る。それが訓練やった。

 今年は、回る。

ヒナちゃん

 うちの班は、おれとヒナちゃんの二人や。

 ヒナちゃんは高校二年。ゲンゾウさんの孫や。

 高校は輪島のほうで、朝六時のバスに乗っとる。

「ミナト、坂の上から?」

「上から」

「じゃあ行こ」

 ヒナちゃんは歩くのが速い。

 坂を上がりながら、ヒナちゃんが言うた。

「うち、来年、金沢の大学受ける」

「へえ」

「受かるかは分からんけど」

「受かるやろ」

「なんで分かるん」

「分からん」

 ――そう言うたら、笑われた。

 ヒナちゃんは、しばらく黙って、それから言うた。

「金沢行ったら、こういうの、来られんくなるかな」

「十一月やろ。日曜やし」

「そうやけど」

「帰ってきたらええやん」

 ヒナちゃんは「そやな」と言うた。

 言い方が、ちょっと軽かった。

空いとる家

 坂の上から順に回った。

 一軒目、二軒目、三軒目。

 みんな出てくる。九十いくつの人でも、玄関までは出てくる。

 四軒目で、止まった。

 空いとった。

「ここ、去年おったよね」

 ヒナちゃんが言うた。

 おれは名簿を見た。名前が、線で消してある。

 ――消してある。

 消してあるということは、事務所の人が消したということや。

「いつ?」

「分からん」

 おれたちはしばらくそこに立っとった。

 雨戸が閉まっとる。ポストにテープが貼ってある。郵便を止めた印や。

 庭に、洗濯を干す竿が残っとった。

 竿だけや。ハンガーも洗濯ばさみも無い。

 ――片付けて出たんやな、と思った。

 急に出たんやったら、こういうふうにはならん。

 ヒナちゃんが「行こ」と言うて、おれたちは五軒目に向かった。

 五軒目の家では、じいさんが玄関に座っとった。

「訓練やろ」

「はい」

「知っとる。毎年やっとるやろ」

「行きます?」

「行かん。膝が痛い」

 ――名簿には「歩行可・要付き添い」と書いてある。

 去年までは行っとったということや。

「じゃあ、これ貼っときます」

 おれは『声かけ済み』の紙を、玄関の横に貼った。

 貼っとるあいだ、じいさんはずっと見とった。

「それ、貼っとくと、どうなるんや」

「あとで、事務所の人が回収します」

「なんのために」

 ――おれは、答えられんかった。

 なんのためかは、聞いとらん。

 黙っとったら、ヒナちゃんが横から言うた。

「行けんかった人が、何人おったかを数えるんです」

「数えて、どうすんのや」

「来年、その人から先に回ります」

 ――ヒナちゃんは、それを知っとった。

 おれは知らんかった。

 じいさんは「ほうか」と言うて、それから「ほんなら、貼っとけ」と言うた。

数える

 その日、回った家は十七軒やった。

 うち、線で消してある家が四軒あった。

 去年、おれは十七軒回っていない。回っていないから、去年何軒あったかを知らん。

 でも、四人は、去年おった人や。

 名前を見たら、顔が出てくる。

 一人は、夏に麦茶をくれた人。一人は、犬を飼っとった人。犬の名前はゴンやった。一人は、いつも玄関に座って外を見とった人。一人は、名前は知らんけど、正月に会うと必ず「大きくなったな」と言う人。

 ――大人は、四十三軒が三十九軒になった、と言う。

 おれは、そういう数え方ができん。

 麦茶と、ゴンと、玄関の椅子と、大きくなったな。

 それが四つ、無くなった。

 午後、公民館で振り返りがあった。

 マモルさんが白板に数字を書いた。

 参加した家、三十一軒。声かけだけで終わった家、八軒。留守、なし。

「今年は、悪くない」

 マモルさんはそう言うた。

 おれは手を挙げた。挙げてから、何を言うか決まっとらんことに気づいた。

「はい」

「あの……名簿の、線引いてあるとこ」

「うん」

「あれ、何軒あるんですか」

 部屋が、少し静かになった。

 マモルさんは、白板の数字を消さずに、その下に書いた。

 『今年、線を引いた家:四軒』

「四軒や」

「去年は」

「去年は三軒」

「その前は」

「二軒」

 ――増えとる。

 おれは、そこまでは分かった。

 そのあと何を言えばいいか分からんくて、座った。

消えん帳面

 振り返りが終わったあと、ナギさんに呼ばれた。

 ナギさんは、この集落をずっと回っとる人や。もう六十いくつやと思う。

「ミナトくん。さっきの、ええ質問やった」

「そうですか」

「うん。あんたら、名前で覚えとるやろ」

「……はい」

「大人はな、軒数で覚えるようになる。そのほうが楽やから」

 ――楽。

 ナギさんは、そういう言い方をする人や。

「楽やけど、そうすると、四軒が同じ四軒に見える」

「はい」

「あんたはいま、四人が全部ちがう顔しとるやろ」

「してます」

「そのうち、せんくなる」

 おれは黙った。

「せんくなるのは悪いことやない。せんかったら、続けられんこともある」

「じゃあ」

「じゃあ、いまのうちに書いとき」

 ナギさんは、そう言うた。

「あんたが覚えとるうちに、書いとき。麦茶でも、犬の名前でもええ。軒数やないほうを書いとき

 ――軒数やないほう。

「ナギさん」

「うん」

「それ、なんの役に立つんですか」

 ナギさんは、少し笑うた。

「立たんかもしれん」

「……立たんのに書くんですか」

「うん」

 ナギさんは、湯呑みを両手で持っとった。ずっと持っとるだけで、飲まん人や。

「あんたのばあちゃんが、四年前に転んだやろ」

「はい」

「あのとき、見つけたのは新聞屋のヤスさんや」

「知っとります」

「なんで見つけたか、知っとるか」

 ――知らん。

「新聞が三日たまっとったからや」

「はい」

「けど、それだけやったら、ヤスさんは中を見んかった」

 ナギさんは、そこで一回、間を置いた。

あの人は、あんたのばあちゃんが毎朝六時に雨戸を開けることを知っとった

 ――そこは、聞いたことがなかった。

「三日たまって、雨戸が閉まっとった。二つ合わさったから、見た」

「はい」

「新聞がたまるのは、記録に残る。雨戸のことは、どこにも残っとらん」

 ――残っとらん。

「ヤスさんの頭の中にしか無かった。あの人が死んだら、消えるやつや」

 おれは、そこでやっと分かった。

「だから、書いとけ、ってことですか」

「そう」

 ナギさんは、湯呑みを置いた。

役に立つかどうかは、あとで決まる。書いてなかったら、決まりようがない」

学生防災士会

 その日、もう一つあった。

 アオイさんが来とった。

 役場の人や。二十三歳。三年前から、この訓練に来とる。

 うちの集落の出身やないけど、高校のときに防災士を取った人らしい。

 アオイさんは、こども防災士会の名簿の下に、もう一枚紙を持っとった。

 『学生防災士会』

 名前が、一人だけ書いてある。

 アオイさんの名前や。

「三年、一人ですね」

 ヒナちゃんが言うた。

 アオイさんは、そこで少し笑った。

「そう。三年、一人」

「増えんですね」

「増えん」

 ――それから、こう言うた。

「けど、消えてもおらん」

 ヒナちゃんが黙った。

 おれも黙った。

 アオイさんは、その紙を折って、鞄に入れた。

「三年前、この二行をホームページで見つけて、入りますって言うたんや」

「二行?」

「こども防災士会の設立を目指しています。学生防災士会の設立を目指しています」

 ――上の行は、実現しとる。

 おれたちがおるから。

「下の行だけ、ずっと一人ですね」

「そう」

「悔しくないんですか」

 ヒナちゃんが、そう聞いた。

 アオイさんは、少し考えて、こう言うた。

「悔しい」

 ――はっきり言うたので、おれは少し驚いた。

「けど、増えん理由も分かっとる」

「なんでですか」

この辺に、学生がおらんから

 当たり前のことを言われた気がした。

 当たり前やけど、そうか、と思った。

 うちの集落に、高校を出たあとの人は、ほとんどおらん。

 みんな金沢か、県外に行く。

 ヒナちゃんも、来年行く。

「アオイさん」

「うん」

「金沢におっても、入れるようにしたらええんちゃいますか」

 ――おれは、深く考えて言うたわけやない。

 思ったことを言うただけや。

 アオイさんは、そこでしばらく、おれの顔を見とった。

「……それ、できるかもしれん」

 そう言うて、手帳に何か書いた。

 何を書いたかは、見えんかった。

書いとく

 夜、家に帰って、ノートを出した。

 新しいやつや。何にも使うとらんかったのを、引き出しから出した。

 一ページ目に、四人の名前を書いた。

 その下に、覚えとることを書いた。

『麦茶。うすい。夏に必ず出る』

『ゴン。茶色。吠えん』

『玄関の椅子。パイプの。座布団が青』

『大きくなったな。正月だけ』

 ――それだけや。

 四行しかない。

 書いてから、しばらく見とった。

 これが何の役に立つのかは、分からん。

 ナギさんは「書いとき」と言うただけで、何に使うとは言わんかった。

 ばあちゃんの部屋に行った。

 うちのばあちゃんは九十歳や。四年前に台所で転んで、二日見つからんかったことがある。いまは杖をついとる。

「ばあちゃん」

「なんや」

「坂の上の、麦茶の家の人、いつおらんくなった」

 ばあちゃんは、少し考えて、こう言うた。

「去年の秋や。息子んとこ行った。富山」

「死んだんやない?」

「死んどらん。富山におる」

 ――おれは、勝手に死んだと思っとった。

 線が引いてあると、そう思ってしまう。

「ばあちゃん、その人、麦茶うすかったよな」

「うすかった」

 ばあちゃんが笑った。

 おれはノートに戻って、一行足した。

『富山におる。生きとる』

 次の日、母に言うた。

 母はカフェで働いとる。うちから車で二十分の、あの店や。

「母さん、名簿の線、生きとる人もおるんやな」

「そら、おるよ」

「死んだ人と、出ていった人、同じ線なん?」

 母は、洗い物の手を止めた。

「……たぶん、同じやわ」

「分けたほうがええんちゃう」

 ――言うてから、自分でも、それが正しいかどうか分からんくなった。

 分けたら、何かがはっきりする。はっきりすると、たぶん、そのぶん冷たくなる。

 母は、しばらく考えて、こう言うた。

「マモルさんに言うてみたら」

「言うてええんかな」

「あんた、今年から回す側なんやろ」

 ――そうやった。

 回す側は、気づいたことを言う側や。

 次の週、マモルさんに言うた。

 マモルさんは、白板に書いた四軒の内訳を、その場で出した。

 もう分けてあった。

逝去   二軒

転出   一軒(富山・息子宅)

施設入所 一軒

「……分けてあるんですね」

「分けとる」

「なんで、あの日は言わんかったんですか」

 マモルさんは、少し黙って、こう言うた。

「あの場に、家族が二人おったからや」

 ――おれは、そこで何も言えんくなった。

「数字は、出す場所を選ぶ」

 マモルさんは、そう言うた。

「ミナト。お前が聞いたのは、正しい。聞く場所だけ、これから覚えろ

第五十一話 ―― 金沢の寮「四人おる」

創作ノート(第五十話・ネタバレを含む)
  • 分量:約4,635字
  • 時期:二〇三六年 十一月
  • 登場:マモル(No.8)/ナギ(No.11)/アオイ(役場)/ヒナ(高二)/トメさん(九十歳)
  • 前話との接続:第二十五話のマモルの空振り台帳は「何も起きなかった夜に動いた人」を数えた。この回で子どもが数えるのは去年いて今年いない人。軒数ではないほう

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep50_minato_mirai2nd.md

第五十一話

四人おる

金沢の寮

第三部 出ていった側

リン視点

登場
リク(No.10)/ナオ(二十五歳)/部の監督/短距離コーチ/ハードルコーチ/トレーナー
視点
リン(十五歳・珠洲出身/金沢の私立高校一年・寮生・100mハードル)
時期
二〇三七年 四月〜六月
  • リクリク

四月一日

 寮に入った日、洗濯機の使い方が分からなかった。

 うちは全自動やなくて、ボタンが二つしかなかった。ここのは八つある。

 同じ部屋の子が横から押してくれた。

「これ。標準」

「ありがと」

「どこ出身?」

「珠洲」

「どこ?」

 ――そこで、少し止まった。

 珠洲を知らん子がおるんや、と思った。

 石川県の子や。同じ県の、いちばん端と、真ん中や。

「奥能登のほう」

「ああ、能登」

 それで通じた。

 通じたけど、通じ方が雑やった。

四人おる

 部活のほうは、思ったのと違った。

 速い子が多いのは、覚悟しとった。

 覚悟しとらんかったのは、教える人が多いことや。

 監督がおる。短距離のコーチがおる。ハードル専門のコーチがおる。それとは別に、トレーナーがおる。

 四人おる。

 最初の週に、四人から別々のことを言われた。

 監督は「まず走り込め」と言うた。

 短距離のコーチは「量は要らん。速く動く回数を増やせ」と言うた。

 ハードルのコーチは「三歩で行けるフォームを先に作れ。走力はあとでいい」と言うた。

 トレーナーは「その足首は、いまの量でも危ない」と言うた。

 ――どれが正しいんやろ。

 私は、そのとき本気で分からんかった。

 最初の一週間、私は全部やった。

 監督に言われた走り込みをやって、短距離コーチに言われた本数をやって、ハードルコーチに言われた抜き足を毎日十分やった。

 トレーナーの言うことだけ、やらんかった。

 「休め」は、やらんことやから、やりようがない、と思っとった。

 ――十日目に、左の足首が腫れた。

 トレーナーのところに行ったら、怒られんかった。

 怒られんかったのが、いちばんこたえた。

「言うたよね」

「言われました」

「なんでやったん」

「……全部やらんと、悪いと思って」

 トレーナーは、そこで少し笑った。

「四人に気を遣ったら、身体が一つしかないの忘れるんよ」

 ――身体が一つしかない。

 当たり前のことや。

 当たり前やのに、四人から別々に言われると、四つぶんやろうとしてしまう。

 三日休んだ。

 休んどるあいだ、監督も、短距離コーチも、ハードルコーチも、何も言わんかった。

 誰も、私が休んどることを知らんかったのかもしれん。

 ――四人おるのに、四人とも、私の全体を見とらん。

一人しかおらんかった

 中学のとき、私の学校に陸上部は無かった。

 正確には、あったけど、顧問が異動して、二年のときに消えた。

 それで、私はネットでコーチを探した。

 いくつか見て、一つだけ、お金を取らんところがあった。

 リク先生や。

 最初はチャットボットが返してきた。夜中に「明日レース、緊張して眠れません」と書いたら、三十秒で返事が来た。

『寝られんでも大丈夫。前の日に寝られんくて走れんかった選手はおらん』

 ――それで寝た。

 そのうち、本人とも話すようになった。週に一回、動画を送って、返事をもらう。

 三年の秋に、はじめて会った。珠洲まで来た。

 あの人は、いつも同じことしか言わんかった。

 「知っとることは、全部言う。で、お前はどうする」

 中学のときは、正直、あんまり意味が分からんかった。

 だって、教えてくれる人が一人しかおらんかったから。

 一人しかおらんかったら、その人の言うとおりにやるしかない。「お前はどうする」も何も、他に選択肢が無い。

 ――いまは、四人おる。

 いま、あの言葉の意味が分かる。

電話

 五月の連休に、電話をした。

「先生」

「おう」

「四人おるんです」

「なんの話や」

「コーチが。言うことが違うんです」

 リク先生は、少し黙って、こう言うた。

「そら、そうやろ」

「そうなんですか」

「四人とも、見とるところが違う。監督は一年の総量、短距離コーチは接地、ハードルコーチは歩数、トレーナーは足首や。全員、自分の持ち場では正しい

「じゃあ、どうすれば」

「全部聞け」

「全部やったら壊れます」

「やから、全部聞いて、やることは自分で決めろ

 ――それが聞きたかったのではない。

 私は「これが正解や」と言うてほしかった。

「先生、決めてくれんですか」

「決めん」

「なんでですか」

 電話の向こうで、あの人は少し間を置いた。

「俺、そこにおらんから」

もう教えん

 そのあと、リク先生はこう言うた。

「リン。俺はもう、お前の練習を組まん」

「え」

「組む人が四人おるとこに、五人目は要らん」

 ――切られた、と思った。

 顔に出たんやと思う。声には出しとらんのに、向こうが続けた。

「見捨てるんやない」

「……」

「メニューは組まん。かわりに、お前が四人から聞いたことを、俺に喋れ

「喋る」

「喋って、お前が何を選んだかを言え。理由も言え。俺はそれを聞くだけや」

「それ、意味あるんですか」

「ある」

 あの人は、はっきり言うた。

選んだ理由を、人に言葉で言えるようになったら、それはお前のものになる。頭の中だけやと、次に迷ったとき同じところで迷う」

 それから、私は紙を作った。

 誰に言われたわけでもない。電話で喋るために、メモしとかんと忘れるから作っただけや。

 ノートを見開きで使う。

 左のページに、四人が言うたことを書く。誰が言うたかも書く。

 右のページに、私がやることを書く。その横に、選んだ理由を一行書く。

 たとえば、五月の第二週はこうなった。

監督 : 週の合計を今の1.3倍に

短距離 : 合計は増やすな。本数を増やせ

ハードル: 抜き足の練習を毎日10分

トレーナー: 左足首、まだ張っとる。連日は不可

 右のページ。

やること:合計は増やさない。本数を+2。抜き足は毎日やるが5分。

理由  :足首がいちばん取り返しつかんから、そこを上限にした。

 ――書いてみたら、意外と簡単やった。

 四人の言うことが違うのは、優先順位が違うだけや。

 いちばん取り返しがつかんものから決める。あとは、その下に並べる。

 これは、私が決めた。

 電話でそれを喋ったら、リク先生は最後まで黙って聞いとった。

 聞き終わってから、一つだけ聞かれた。

「トレーナーの言うことを、いちばん上に置いた理由は」

「足首は、壊したら戻らんからです」

「他のは戻るんか」

「……走り込みは、あとで足せます。抜き足も、あとで直せます」

「そうやな」

 それだけやった。

 褒められもせんかった。

 ――ただ、切る前に、こう言われた。

「リン。その紙、捨てんなよ」

「捨てません」

「三年たったら、読み返せ。そのとき、自分がどこで間違えたかが分かる

 六月に、監督にその紙を見せた。

 見せるつもりはなかった。ロッカーの上に置きっぱなしにしとったのを、拾われた。

「これ、何や」

「……メモです」

 監督は、しばらく読んどった。

 左のページ(四人が言うたこと)を、上から下まで読んで、それから右のページを読んだ。

「お前、これ全部書いとるんか」

「はい」

「毎週?」

「はい」

 ――怒られると思った。

 監督の言うたことを採用しとらん週も、そのまま書いてある。

「誰かに言われて書いとるんか」

「いえ。中学のときのコーチに、喋るために書いとります」

「中学の」

「はい。ネットで見てもらっとった人です」

 監督は、紙を返して、こう言うた。

「その人に、よろしく言うといて」

 ――それだけやった。

 次の週から、監督の言い方が少し変わった。

「今週、走り込み増やしたいけど、足首どうや」

 ――聞かれるようになった

 四人が、私の全体を見はじめた。

 紙を一枚置いただけで、そうなった。

見に来た人

 六月の県の高校総体で、私は 100m ハードルの決勝に残った。

 一年で決勝は、うちの学校ではふつうのことらしい。私には、ふつうやなかった。

 結果は六位。タイムは自己ベストやった。

 ――そのあと、スタンドの下で、知らん人に声をかけられた。

 二十五歳くらいの女の人や。私服やった。

「リンちゃん?」

「はい」

「ナオっていいます。リク先生の、昔の教え子」

 ――ああ、と思った。

 名前は聞いたことがあった。八百の人や。

「先生に頼まれたわけやないんです。勝手に来ました」

 その人は、そう言うて笑った。

「私、金沢で働いとって。設計事務所」

「陸上は」

「大学で終わり。いまは長いのやっとる。ハーフとか」

贅沢で、しんどい

 自販機のところで、少し喋った。

「四人おるんやろ、コーチ」

「知っとるんですか」

「先生が言うとった。『四人おるらしい』って」

「……言うとったんや」

 ナオさんは、缶を開けて、こう言うた。

「私、一人しかおらんかった」

「はい」

「部員七人で、中距離は私だけ。先生も、月に何回か来るだけ」

「それ、しんどくないですか」

「しんどい。けど、迷わん

 ――そこで、私は黙った。

「言われたとおりにやるしかないから、迷う時間がゼロやった。それは、実は楽やったんやと思う」

「いまは」

「いまは仕事やけど、上に何人もおって、言うことが違う。毎回、自分で選ぶ」

 ナオさんは、そこで少し笑った。

贅沢やと思う。同時に、しんどいと思う

「両方ですか」

「両方」

 ――両方本当や、と言われたのは、はじめてやった。

 大人はたいてい、どっちかにしてくれる。恵まれとる、と言うか、大変やね、と言うか。

 この人は、両方置いていった。

珠洲

 夏休みに、珠洲に帰った。

 三か月ぶりや。

 実家の前の道が、去年より広く見えた。家が二軒、無くなっとった。

 母が「あそこもこっちも」と言うて、指で数えた。

 ――四軒目まで数えたところで、やめた。

 私は中学のときから、この道を走っとった。信号が無いから、ずっと走れる。

 いまは、走る人がおらん。

 朝、久しぶりにそこを走った。

 ハードルは無い。だから、電柱を目印にして、歩数だけ合わせた。三歩、三歩、三歩。

 電柱の間隔は、たぶんハードルの間隔とは違う。合わんかった。

 ――合わんくても、やった。

 金沢の合宿所には、全部そろっとる。ハードルも、タータンも、コーチも四人おる。

 ここには、何も無い。

 何も無いところで、私は速くなった。

 その事実を、どう扱えばいいのかは、まだ分からん。

 帰る前の日に、リク先生に電話をした。

「先生」

「おう」

「六位でした。自己ベストです」

「知っとる」

「見とったんですか」

「見とった」

「先生」

「うん」

「私、選べるようになりました」

 あの人は「そうか」と言うただけやった。

 ――そうか、しか言わんかった。

 でも、切ったあと、私はしばらく携帯を持っとった。

第五十二話 ―― 三年「三年」

創作ノート(第五十一話・ネタバレを含む)
  • 分量:約4,018字
  • 時期:二〇三七年 四月〜六月
  • 登場:リク(No.10)/ナオ(二十五歳)/監督・コーチ三人
  • 前話との接続:第十一話でリクは「知っとることは全部言う。で、お前はどうする」と言った。教える人が一人のときは選べない。四人になってはじめて、その言葉が働く

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep51_rin_mirai2nd.md

第五十二話

三年

断られなかった

第三部 出ていった側

ナオ視点

登場
ケイリ(No.4)/ミライ(No.1・電話のみ)/リク(No.10・言及)/所長
視点
ナオ(二十五歳・金沢の設計事務所)
時期
二〇三七年 六月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • リクリク

四月一日を数える

 二〇三七年の四月一日で、社会人まる三年になった。

 入社は二〇三四年の四月。三回、四月一日を迎えた。

 ――誰も何も言わなかった。

 三年目と四年目のあいだに、区切りは無い。給料が少し上がって、後輩が二人入って、それだけだ。

 私だけが、その日を数えていた。

 数えていた理由は、一つしかない。

 あの会社が「三年」と言っていたからだ。

書いてある

 みらい防災不動産のホームページに、募集の欄がある。

 求人ではない。「一緒にやりたい方へ」という見出しの、短い文章だ。

 大学生のときに一度読んで、それきり開いていなかった。

 三年目の四月に、また開いた。文章は変わっていなかった。

卒業してすぐ、うちに入りたいという方へ。

お断りしています。

それぞれの場所で、最低三年、社会人をやってください。

そのうえで、独立するか、うちと組むか、選んでください。

どちらでも歓迎します。

 ――たったこれだけだ。

 三行目に「最低三年」と書いてある。

 私は、その三年を数えていた。

電話

 六月の第一土曜に、電話をした。

 ミライさんという人が出る。この会社は、誰に電話しても最初にその人が出る。

 顔は無い。声だけだ。

「みらい防災不動産です」

「あの、ナオといいます。リクさんの、昔の教え子で」

「ナオさん。存じています」

 ――即答だった。

「金沢の設計事務所にお勤めですね。二〇三四年四月から」

「……なんで知ってるんですか」

「リクさんの記録に入っています」

「記録」

「はい。うちは、消さないので

二枚

 翌週、金沢まで来てもらった。

 来たのはケイリさんという人だ。経理の人だと聞いていた。三十代後半に見える。自転車で来たわけではなく、車だった。

 カフェで向かい合って座って、私は用件を言った。

「三年たったので、そちらで働きたいです」

 ケイリさんは、うなずいた。

 それから、鞄から紙を二枚出した。

 ――二枚だ。

 私はその話を知っていた。この会社は、見積を二枚出すらしい。

「一枚目です」

『ナオさんが来た場合』

 人件費、社会保険、机、車。年間の増加額が書いてある。それに対して、能登で見込める設計案件の件数と単価。

 ――赤字だった。

 三年でも黒字にならない。

「二枚目です」

『ナオさんが来ない場合』

 こちらは、いまの体制のまま。ナオが金沢の事務所にいて、能登の案件だけ、外注として関わる形。

 ――こちらは、黒字だった。

 二枚とも、いちばん上に、私の名前が入っていた。

『ナオさんが来た場合』

『ナオさんが来ない場合』

 ――自分の名前が印字された紙を、二枚同時に見るのは、はじめてだった。

 履歴書は、自分で書く。あれは自分の名前だ。

 これは、違う。他人が、私を項目として書いている

 人件費。社会保険。机。車。

 一枚目の四行目に、こう書いてあった。

設計担当(1名)   年 ○,○○○,○○○

 ――私の一年が、そこに一行で入っていた。

 嫌ではなかった。

 そこは、自分でも意外だった。

 嫌ではなくて、正確だと思った。私が一年働くと、この会社からこれだけ出ていく。それは本当だ。

 私は、その一行をしばらく見ていた。

「ケイリさん」

「はい」

「これ、失礼だと思わないんですか」

「思います」

 ――即答だった。

「思いますが、書かないほうが失礼です」

「なんでですか」

「書かないと、断るときに理由が言えません

「見て、どう思います」

「……来ないほうがいい、ってことですか」

「いいえ」

 ケイリさんは、はっきり言った。

数字は、来ないほうがいいと言っています。私は、そう言っていません

言わない

 私は、そこで少し混乱した。

「どっちですか」

「私が言うのは、数字の話だけです。決めるのはナオさんです」

「決められないです」

「そうでしょうね」

 ――突き放されたのではない。

 ケイリさんは、コーヒーを一口飲んで、こう言った。

「うちは、いま人を雇っていません。カフェの店員以外は、五年間ゼロです」

「はい」

「理由を言います。雇うと、断れなくなるからです」

「断れなく」

「人を雇うと、その人の生活がかかります。そうすると、来た仕事を断れなくなる。断れない会社は、一軒あたりにかける時間を削ります。削ると、質問が消えます」

 ――質問が消える。

 妙な言い方だと思った。

「うちは、それを一度やっています。二〇二九年に」

 そう言って、ケイリさんは少しだけ笑った。

「そのとき止めてくれた人がいたので、戻せました。次に同じことをしたら、止める人がいるとは限りません」

一級

 それから、ケイリさんは私に一つだけ聞いた。

「一級は」

「去年落ちて、今年また受けます」

「受かってからにしてください」

「……それは、条件ですか」

「条件ではありません。お願いです」

 ――違いが分からなかった。

「条件なら、受かったら入れるということですよね」

「いいえ」

「じゃあ何ですか」

 ケイリさんは、少し考えて、こう答えた。

「うちと組むとき、ナオさんが一級を持っているかどうかで、ナオさんが受け取れる仕事が変わります。持っていないと、うちが元請けになって、ナオさんが下になる」

「はい」

「持っていれば、並びます

 ――そこは、腹に落ちた。

「うちは、ナオさんを下に置きたくないんです。三年やった人を下に置くと、その人の三年が要らなかったことになる」

 そのあと、ケイリさんは一つだけ質問をした。

「ナオさん。いま、金沢で年に何件やっていますか」

「担当としては、四件です。手伝いを入れると十くらい」

「そのうち、能登は」

「一件です」

「去年は」

「……ゼロです」

 ――ゼロだった。

 言ってから、自分で気づいた。

 私は「能登で家を建てたい」と言い続けているのに、去年はゼロだった。

「ケイリさん」

「はい」

「私、能登の実績がありません」

「知っています」

「それで、来たいと言っています」

「はい」

 ケイリさんは、そこで、はじめて少し身を乗り出した。

「ナオさん。うちは、やりたいという気持ちを疑っていません

「はい」

「疑っているのは、そこではないんです」

「じゃあ、どこですか」

能登の家を、何軒直したことがあるかです」

 ――そこは、反論できなかった。

「うちは五年で四十一軒やりました。一軒ずつ、台所に上がって、湯呑みを出されて、一時間話しています」

「はい」

「ナオさんが来て、その一軒目に入ったとき、その家の人は、ナオさんに何を聞くと思いますか」

 私は、少し考えて、答えた。

「……どこの人か、だと思います」

「そうです」

 ケイリさんは、うなずいた。

「そのとき『金沢の設計事務所です』と答えるのと、『三年前からこの家の隣を直しています』と答えるのでは、そのあとの一時間が全部変わります」

帰り道

 その日、私は結局、はっきりした答えをもらえなかった。

 雇うとも、雇わないとも言われていない。

 「一級を取ってから、もう一度話しましょう」で終わった。

 ――帰りの道で、私は少し腹が立っていた。

 断ってくれたほうが楽だった、と思った。

 断られたら、私は諦めるか、諦めないかを決められる。

 保留されると、決められない。

 アパートに戻って、二枚の紙をもう一度見た。

 一枚目、赤字。二枚目、黒字。

 ――何度見ても、二枚目のほうが正しい。

 悔しいのは、それが私を要らないと言っている数字ではないことだ。

 二枚目にも、私の名前が入っている。

 外注として。金沢にいたまま。

所長

 六月の終わりに、所長に話した。

 黙っているのが気持ち悪かったからだ。

「能登の会社に、話をしに行きました」

「うん」

「働きたいと言いました」

 所長は、書類から顔を上げなかった。

「断られた?」

「……保留です。一級取ってから、と」

「まともやな」

 ――そう言われた。

「まとも、ですか」

「うん。すぐ来いって言うとこは、人が足りんだけや

 所長は、そこで顔を上げた。

「で、うちは辞めるんか」

「いえ」

「ほんとに?」

「……いま辞めたら、二枚目が成立しないので」

 所長は、そこで少し笑った。

 笑ってから、こう言った。

「その二枚目、うちに持ってきてくれてもええよ」

「え」

「うちが受けて、お前が担当する。能登の案件。去年は一件やったけど、増やしたいなら、増やす担当を作らなあかん

 ――私は、何も言えなかった。

 しばらくして、やっと聞いた。

「なんで、そこまでしてくれるんですか」

 所長は、書類に戻りながら、こう言った。

「うちも、あと十年でどうなるか分からんからや」

「え」

「金沢も、そのうち建たんくなる。人口見とったら分かる」

 ――そこは、考えたことがなかった。

「いま能登で起きとることは、二十年後にこっちで起きる」

「はい」

「そのときに、直す仕事のやり方を知っとる事務所が生き残る

 所長は、そこで一度だけ、私を見た。

「お前が竣工図を直しとるの、俺は知っとる。誰もやりたがらんやつを」

「……はい」

「あれ、うちの財産や」

 ――財産、という言い方に、私はすぐには乗れなかった。

「所長。あれ、お金になってないですよね」

「なっとらん」

「一件も」

「一件もや」

 所長は、そこで、はじめて手を止めた。

「けどな。あれ、うちしか持っとらんもんや

「……」

「図面を引ける事務所は、金沢に何十軒もある。設計はできる。デザインもできる」

「はい」

できたあとの建物を、もういっぺん測りに行く事務所は、無い

 ――そこは、たしかにそうだ。

 竣工図は、ふつう施工会社が作る。設計事務所は、引き渡したら次の物件へ行く。

「なんでどこもやらんか、分かるか」

「……お金にならないからです」

「ちがう」

 所長は、そう言った。

終わったと思っとるからや

「終わった」

「引き渡したら終わり。次の物件。そう思っとる。俺も、四十まではそう思っとった」

 ――四十まで、と言った。

「なんで変わったんですか」

 所長は、少し黙って、こう言った。

「二〇二四年や」

 ――それだけで、分かった。

「そのあと、二年くらい、直す仕事ばっかりやった。図面の無い家に、何十軒も入った」

「はい」

あのとき、図面が一枚あったら、と何回思ったか分からん

 所長は、そこで書類に戻った。

「終わっとらんのよ、建物は。人が住んどるかぎり、終わらん」

 ――財産、と言われた。

 私は、あれをただの地味な作業だと思っていた。

「能登でやってこい。うちの練習になる

 その言い方が、いちばんありがたかった。

 好意ではなく、計算だったからだ。

 好意だと、いつか返せなくなる。

六月の朝

 その週の日曜、私は十八キロ走った。

 いままででいちばん長い。二時間ちょっとかかった。

 ――走りながら、二枚の紙のことを考えていた。

 一枚目は、私が中に入る絵だ。

 二枚目は、私が外にいたまま関わる絵だ。

 三年前の私なら、迷わず一枚目を選んだ。中に入りたかったからだ。

 いまは、二枚目が悪くないと思っている。

 それが、成長なのか、諦めなのかは、自分では分からない。

 橋の上で止まって、北を見た。

 能登は見えない。百キロある。

 ――先生は「試合の日、俺はおらん」と言った。

 中にいなくても関われる、というのは、あの人がずっとやってきたことだ。

 全国の子を、行かずに見ている。

 私は、それを受けた側だった。

 いま、そちら側に立つ話をされている。

 ――中に入らないと関われない、と思っていたのは、たぶん私の癖だ。

 部員七人の部にいたころ、私は「ちゃんとした部に入りたい」とずっと思っていた。

 入らなかった。入らないまま、二分十四秒二まで行った。

 あのときも、外側だった。

 走り終えて、汗を拭きながら、私は電話を一本かけた。

「先生」

「おう」

「保留されました」

「そうか」

「断られたほうが、楽でした」

 電話の向こうで、あの人は少し笑った。

「そうやろな」

「先生も、そういうことしますか」

「する」

 ――即答だった。

「答えを渡さんのは、いじわるやない。渡したら、そこで終わるからや

第五十三話 ―― 九月の祭り「台車」

創作ノート(第五十二話・ネタバレを含む)
  • 分量:約4,660字
  • 時期:二〇三七年 六月
  • 登場:ケイリ(No.4)/ミライ(No.1・電話のみ)/所長/リク(No.10・電話)
  • 前話との接続:第四話の「二枚目の見積」が、はじめて人について書かれる。三年ルールの一回目は拒否ではなく保留。所長が第四十八話の「二十三件のうち一件」を自分から動かしにくる

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep52_nao3_mirai2nd.md

第五十三話

台車

九月の祭り

第三部 出ていった側

ソウタ視点

登場
区長(七十代)/ソウタの父(五十代)/ヒナ(高三)/ミナト(中三)/大学の友人二人/ソラ(No.6)
視点
ソウタ(十九歳・大学一年/金沢の大学・下宿)
時期
二〇三七年 九月
  • ソラソラ

十一人

 九月の祭りに帰ってきた。

 うちの集落は、キリコを出す。

 二基あった。いまは一基や。もう一基は、五年前に蔵に入れたまま出しとらん。

 キリコは、担ぐ。

 昔は一基に二十人以上ついとったらしい。写真が公民館に貼ってある。昭和のやつや。

 ――今年、集まったのは十一人やった。

 うち、六十より上が七人。

 残りの四人のうち、二人は帰省組や。おれと、あともう一人。

 あと二人は、この集落に住んどる四十代。

無理や

 八月に、区長から父に電話があったらしい。

 夜、父がおれに言うた。

「ソウタ、祭り帰れるか」

「帰れる」

「友だち連れてこれんか」

「……なんで」

「人がおらん」

 ――そこで、はじめて事情を聞いた。

 去年、担いだのは十四人。それで、坂の下までしか行けんかった。本来は坂を上がって、神社の前まで行く。

 今年は十一人や。

 区長は、六月の会合で「今年は出さん」と言うたらしい。

 それに、父を含めた何人かが反対した。

「出さんかったら、来年も出さん。再来年も出さん。そのまま終わる」

 ――父はそう言うたそうや。

 正しいと思う。

 正しいけど、十一人でどうやって担ぐんかは、誰も答えとらん。

二人

 おれは、大学の友だちを二人連れて帰った。

 金沢の子と、富山の子や。

「祭り? 行く行く」

 軽いノリで来た。

 悪いことやない。来てくれるだけでありがたい。

 ただ、車の中でおれは少し不安になっとった。

 この二人は、キリコを見たことがない。

 「面白そう」で来とる。

 ――担がせるつもりで呼んどるのに、そう言うとらん。

 言うたら来んかったかもしれん、と思ったからや。

言うた

 着いてから、公民館で言うた。

「あのさ。担ぐんやけど」

「え、担ぐん?」

「うん」

「見るだけかと思っとった」

 金沢の子が、そう言うた。

 ――そこで、おれは謝った。

「ごめん。言わんかった」

「いや、ええけど」

「重いんやわ。二トンくらいある」

「にとん」

 富山の子が黙った。

「無理やったら見とっていい。ほんまに」

 二人は顔を見合わせて、それから「やるわ」と言うた。

 ――やる、と言われて、おれは正直ほっとした。

 ほっとしてから、自分がずるいことをしたと思った。

台車

 当日の朝、区長が言うた。

「今年は、台車に載せる」

 ――全員が黙った。

 台車というのは、要するにキリコの下に車輪をつけて、押していくということや。

 担がん。

 六十代の一人が言うた。

「それ、祭りやないやろ」

「祭りや」

「担がんかったら、キリコやない」

「担げんのや」

 ――区長は、はっきりそう言うた。

「十一人で担いだら、誰か腰やる。去年、二人やっとる。今年は坂も上がる」

「そんなら出さんほうがましや」

「出さんかったら、来年も出さん」

 同じ言い争いが、たぶん六月からずっと続いとる。

 ――おれは、どっちの気持ちも分かる、と思った。

 思ってから、それが逃げやと気づいた。

 どっちも分かる、というのは、どっちも引き受けとらんということや。

 おれは十九で、いちばん若い担ぎ手や。

 本当は、いちばん「担ぎたい」と言う資格がある。

 言わんかった。

 言うたら、来年も再来年も帰ってこなあかんくなるからや。

 ――それが、正直なところや。

 今回は、区長が最後に言うた。

「今年は載せる。来年、人が集まったら担ぐ」

 六十代の人が「来年も集まらんやろ」と言うた。

 区長は、そこで、はっきり答えた。

「集まらんかったら、また載せる」

「ほんなら、ずっと載せるだけやないか」

「そうや」

 ――区長は、あっさり認めた。

「ずっと載せる。それでも、出す」

 その言い方で、部屋が静かになった。

 あとで父に聞いたら、区長は去年、腰を痛めとったらしい。

 去年、坂の下で担いどったときや。

 誰にも言うとらんかったが、三か月通院しとった。

 ――「担げんのや」と言うたのは、集落の話やなくて、自分の話やったんかもしれん。

 それを言わんかったのは、たぶん、言うたら反対しにくくなるからや。

 当日の朝は、六時に集合やった。

 公民館の前に、キリコが出してある。前の日の夕方に、蔵から出して組んである。

 高さは五メートルくらい。和紙が貼ってあって、中に灯りが入る。夜になると光る。

 ――近くで見ると、和紙が破れとった。

 右の下のほうが、三十センチくらい裂けとる。

「これ、破れとるよ」

 おれが言うたら、六十代の一人が「去年からや」と言うた。

「直さんの?」

「直す人がおらん」

 ――和紙を貼れる人が、この集落におらんらしい。

 昔は、隣の集落に一人おった。その人は五年前に亡くなった。

「輪島に頼めば直る。金が要る」

「いくら」

「聞いたら、二十万や言われた」

 二十万。

 区費でどうにかなる額かどうかは、おれには分からん。

 ――ただ、その話をしとる人の顔を見て、たぶん出せんのやろな、と思った。

 結局、破れたまま出した。

 夜に灯りを入れたら、そこだけ明るく漏れた。

 金沢の子が「あそこ、いい感じやな」と言うた。

 ――知らんかったら、そう見える。

 おれは「破れとるだけや」と言おうとして、やめた。

押した

 実際に押してみたら、拍子抜けするほど動いた。

 平地は、四人で足りる。

 坂は、十一人でぎりぎりやった。滑るので、後ろで支える人が要る。

 ――担ぐより、はるかに楽やった。

 楽やけど、違った。

 何が違うかというと、や。

 担ぐと、十一人が同じリズムで足を踏む。あれが下から響く。

 台車は、車輪の音しかせん。ゴロゴロ言うだけや。

 金沢の子が、坂の途中で言うた。

「これ、めっちゃ静かやな」

「そうやろ」

「祭りって、もっとうるさいイメージやった」

 ――その一言が、いちばんこたえた。

 この子は、比べる相手を持っとらん。

 これがこの集落の祭りや、と思って帰る。

 神社の前に着いたとき、六十代の人たちが、急に声を出しはじめた。

 掛け声や。担いどらんのに。

 「よいやさ」というやつを、押しながら言うとる。

 おれは、最初、恥ずかしいと思った。

 ――担いどらんのに掛け声だけ出すのは、格好が悪い。

 でも、三十秒くらいで、それが変わった。

 声を出すと、車輪の音が消える。

 消えるというか、聞こえんくなる。

 ――音が戻った。

 富山の子が、途中から一緒に言うとった。

 言い方は間違っとった。「よいやさ」やなくて「よいしょ」に近かった。

 誰も直さんかった。

写真

 終わってから、公民館で飲んだ。

 ソラさんという人が来とった。この集落の人やないけど、毎年来る。写真を撮る人や。

「ソウタくん、大学どこやったっけ」

「金沢です」

「一年?」

「はい」

「来年も帰ってこれる?」

「……たぶん」

 ――たぶん、としか言えんかった。

 来年は二年や。再来年は三年で、就活がある。

 その先は分からん。

 ソラさんは、そのことを追及せんかった。

 かわりに、写真を見せてくれた。

 今年の写真や。台車に載ったキリコと、押しとる十一人と、掛け声を出しとる六十代。

「これ、来年も撮るわ」

「はい」

「二十年撮ったら、資料になる」

 ――資料。

 ソラさんは、そういう言い方をする。

「担いどらんけどな」

「載せても、出したんやから」

 その人は、あっさりそう言うた。

 それから、去年の写真と、二十年前の写真を並べて見せてくれた。

 二十年前は、二基あった。人が四十人くらい写っとる。

 去年は、一基で、十四人。

 今年は、一基で、十一人。台車の上。

「これ、並べたら、しんどないですか」

 おれは、そう聞いた。

 ソラさんは、少し考えて、こう言うた。

「しんどい」

 ――正直に言うてくれた。

「しんどいけど、並べんかったら、いつ減ったか分からんくなる

「はい」

「減ったのが分かると、たまに、止まる」

「止まる?」

「去年これ見せたら、隣の集落の人が『うちも撮っといたらよかった』って言うた」

 ――それだけの話や。

 でも、その人は、たぶん今年から撮っとる。

 ソラさんは、帰りぎわに、おれにカメラを一台渡した。

 古いやつや。使い方は簡単やった。

「来年、これで撮って」

「え、おれがですか」

「うん。あんたが撮ると、若いのが写る

「……どういう意味ですか」

「わしが撮ると、わしの目線になる。若いのは後ろのほうに写る」

 ソラさんは、そう言うて笑うた。

「あんたが撮ったら、あんたの友だちが真ん中に写るやろ」

 ――そういうことか、と思うた。

 二十年後に誰かがこの写真を並べたとき、真ん中に誰が写っとるかで、その年に誰がおったかが分かる。

 おれは、カメラを受け取った。

 受け取ったということは、来年も帰るということや。

 ――たぶん、そこまで計算されとる。

帰り

 翌日、金沢に戻る車の中で、金沢の子が言うた。

「あれ、来年も呼んでや」

「え」

「面白かった」

「担がされたのに?」

「担いどらんやろ、押しただけやろ」

 ――そこで、三人で笑った。

 富山の子が言うた。

「うちの実家も、あるわ。祭り」

「行っとる?」

「行っとらん。もう十年」

「なんで」

「呼ばれとらんから」

 ――呼ばれとらんから。

 おれは、そこで少し考えた。

 うちの父は、おれに電話した。

 「帰れるか」と聞いた。「友だち連れてこれんか」と聞いた。

 あれは、呼んだということや。

 呼ばれんかったら、おれも帰らんかったかもしれん。

 金沢に着く前に、おれは父にメッセージを送った。

『来年も帰る。二人、たぶんまた来る』

 返事は、夜になってから来た。

『わかった』

 それだけやった。

 ――そのあと、もう一通来た。

『台車、来年も使うことになった』

 おれは、しばらく画面を見とった。

 担がんまま来年も出す、ということや。

 六十代の人たちは、たぶんまだ納得しとらん。

 でも、出す。

 ――半分だけ動いた、という感じがした。

 全部は戻っとらん。戻る見込みも無い。

 ただ、蔵に入れたままにはならんかった。

第五十四話 ―― 三年(二回目)「役場にいてください」

創作ノート(第五十三話・ネタバレを含む)
  • 分量:約3,810字
  • 時期:二〇三七年 九月
  • 登場:区長/父/ソラ(No.6)/大学の友人二人/ヒナ(高三)/ミナト(中三)
  • 前話との接続:第三十話で谷内の祭りは「三年前でやめた」。ここは別の集落で、やめる直前で止まった側。担がずに出す、という半分の解で一年延ばす

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep53_sota_mirai2nd.md

第五十四話

役場にいてください

三年(二回目)

第三部 出ていった側

アオイ視点

登場
ケイリ(No.4)/マモル(No.8)/ミライ(No.1・電話のみ)/マコ(No.7)/課長/ユイ(同級生・東京)/ハルカ(同級生・金沢)
視点
アオイ(二十五歳・役場 防災担当)
時期
二〇三八年 三月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • マコマコ
  • マモルマモル

三年

 二〇三八年の三月三十一日で、役場に入って三年になる。

 最初の二年は税務課だった。固定資産税の担当で、家屋の評価をやっていた。

 三年目に、総務課の防災担当に移った。

 異動の内示が出たとき、私は自分の席で少し黙っていた。

 ――高校のときに防災士を取ったことを、誰にも言っていなかった。

 人事のファイルには書いてある。書いてあるものは、読まれる。

 それだけの話だと思う。

三人

 高校二年のときに、三人で防災士を取った。

 ユイと、ハルカと、私。

 総合的な探究の時間で、外部の人が来て、そこから始まった。マモルさんという人だ。

 試験は五十分だった。三十問。私は二十分で出た。

 ――早く出たのは、自信があったからではない。

 見直しても変わらないと思ったからだ。

 三人とも受かった。費用は県と市が持った。私たちは一円も払っていない。

 いま、ユイは東京にいる。出版社の営業をしている。

 ハルカは金沢の病院で事務をしている。

 私は、ここにいる。

 ――三人のうち、防災士の資格を使っているのは、私だけだ。

一人

 役場に入った年から、地区の防災訓練に出ている。

 仕事としてではない。休みの日に、個人で行っている。

 学生防災士会という名前を、私は自分で名乗った。

 ホームページの「将来の展望」の欄に、二行書いてあったからだ。

こども防災士会の設立を目指しています

学生防災士会の設立を目指しています

 二〇三三年の十一月に、私はマコさんに「入ります」と言った。

 ――五年たった。

 いまも、一人だ。

 こども防災士会のほうは十一人になった。小学生と中学生だ。

 学生のほうは、増えない。

 理由は、はっきりしている。学生になった子は、ここにいないからだ。

言った

 三月の第二週に、ケイリさんに会った。

 役場の近くの喫茶店で、こちらから呼んだ。

 ――前の晩に、紙を三枚作った。

 一枚目は、五年ぶんの活動をまとめたもの。学生防災士会の名簿と、訓練に出た回数と、こども防災士会の立ち上げに関わったこと。

 二枚目は、防災士の登録番号と、役場で担当した業務。

 三枚目は、志望の理由を書いた。四回書き直して、最後は八行になった。

 ――三枚とも、鞄に入れたまま、出さなかった。

 出す場面が、来なかったからだ。

「三年たちました」

「はい」

「そちらで働かせてください」

 ケイリさんは、うなずいた。うなずいて、鞄から紙を出した。

 ――一枚だった。

 二枚出す人だと聞いていたので、少し意外だった。

「一枚しかありません」

「はい」

「今日は、数字の話をしないので」

断られた

 その紙には、数字ではなく、地図が印刷されていた。

 この市の地図だ。集落ごとに、点が打ってある。

 点の色が二色ある。

「赤い点が、うちが入っている家です」

「はい」

「四十一軒」

 ――知っている。私も数えている。

「青い点が、この市の高齢者単身世帯です」

 青が、圧倒的に多い。

「三百二十六軒です」

 私は、その数字を知っていた。役場の資料に載っている。

「アオイさん」

「はい」

うちに来たら、四十一軒です

「……」

「役場にいたら、三百二十六軒です」

 ――そこで、私は何も言えなくなった。

「だから、来ないでください」

 店の音が、急に聞こえるようになった。

 カウンターで、豆を挽いている音がしていた。ずっとしていたはずだが、そのときはじめて聞こえた。

 私は、鞄の中の三枚のことを考えていた。

 あの三枚には、私がやってきたことが書いてある。五年ぶんの名簿と、訪問の回数と、資格の番号。

 ――この人は、そのどれも聞いていない

 地図を一枚出して、四十一と三百二十六を言って、それで終わりだった。

 私が何をやってきたかは、一度も話題に出ていない。

「ケイリさん」

「はい」

「私の話、聞かないんですか」

 ――言ってから、みっともないと思った。

 ケイリさんは、少し考えて、こう答えた。

「聞いたら、断りにくくなります」

「……」

「聞いてから断ると、聞いたうえで足りないと言ったことになります。それは、事実とちがいます」

 ――そこは、はっきりしていた。

「アオイさんが足りないと言っているのではありません。うちの側の話です

理由

 ケイリさんは、そのあと、ゆっくり続けた。

「これは、アオイさんのためではありません」

「はい」

「うちのためでもありません。正直に言うと、うちはアオイさんに来てほしいです

「じゃあ」

「家の数で決めています」

 ――家の数。

「うちは、四十一軒を五年かけて積みました。一軒あたり、説明に十七分から五十分かけています。それが、うちのやり方です」

「知っています」

「そのやり方だと、三百二十六軒には届きません。何年かけても届かない」

「はい」

「役場は、届きます」

 ケイリさんは、地図の青い点を指でなぞった。

「制度で動かせるので。ハザードマップも、名簿も、補助金も、役場にしか出せません」

「……でも、役場は、一軒ずつは回れません」

「回れません」

 そこで、ケイリさんはこう言った。

「だから、両方要るんです。片方に寄せたら、片方が抜けます」

 私は、そこで一つだけ反論した。

「役場は、異動があります」

「はい」

「私、来年また税務に戻るかもしれません。三年でまた変わるかもしれない」

「変わりますね」

「そしたら、続きません」

 ――そこは、本気で言った。

 役場の防災担当は、二年か三年で回る。前任者も、その前も、そうだった。

 私が積んだものは、異動で全部リセットされる。

 あの会社は、五年ずっと同じ人が同じ家を回っている。

 だから、あちらに行きたかった。

 ケイリさんは、私の言い分を最後まで聞いた。

 聞いてから、こう言った。

「アオイさん。それ、うちも同じです」

「同じ?」

「うちは、いつか終わります」

 ――言われた意味が、すぐには分からなかった。

「社長は今年六十三です。あと十年か、十五年か」

「……」

「うちが終わったとき、四十一軒はどうなりますか」

 私は、答えられなかった。

 ケイリさんは、そこで、少し前のことを話した。

「うちがまだ会社になっていなかったころ、タクさんが、入れた家の分電盤の蓋の裏に、油性ペンで書いていました」

「知っています。見たことがあります」

 ――役場の仕事で、一度だけ開けたことがある。

 中に、下手な字で書いてあった。回路の番号と、日付と、いちばん下に一行。

『連絡:みらい防災不動産』

「あれ、書いたとき、その会社は無かったんです」

「……無かった」

「登記していません。看板も出していません。そんな会社は、まだ無い、とタクさん本人が言っていました」

「じゃあ、なんで書いたんですか」

 ケイリさんは、そこで、タクさんの言葉をそのまま言った。

「『書かんかったら、これはただの親切や。親切は、やめても誰も文句を言わん。名前を書いたら、やめられん』」

 ――それで、五年後に会社ができた。

「四十三枚の蓋の裏に、無い会社の名前が書いてある。五年後にその会社を作らんかったら、この四十三枚が全部、嘘になる。――そういうふうにしてある、と言っていました」

「はい」

「アオイさん。逆も、同じです

 ――逆。

「うちが終わったら、あの蓋の裏は、また嘘になります」

 私は、そこで、はじめてこの話の重さが分かった。

 あの一行は、会社が在るあいだだけ本当だ。

 書いたときは、まだ無かったから嘘だった。作ったから本当になった。

 ――終われば、また嘘に戻る

「だから、うちは、終わり方も考えないといけません」

「考えているんですか」

「まだです」

 ケイリさんは、そこは、あっさり認めた。

「五年で四十一軒を積むことしか、考えてきませんでした。積んだものを、どうやって渡すかは、一度も考えていません

「役場は、終わりません。担当は変わりますが、役場という箱は残ります

「箱は残っても、中身が」

「だから、中身を紙にしてください」

 ケイリさんは、はっきりそう言った。

「アオイさんが異動しても残るように、計画に書いてください。うちにはできません。うちは民間なので」

 ――そこで、やっと分かった。

 この人は、私を役場に置きたいのではない。

 役場にしか置けないものを、置いてほしいと言っている。

 私は、その日、帰りの車の中で泣いた。

 役場の駐車場まで戻って、停めてから、エンジンを切らずにしばらく座っていた。三月の夕方で、外はまだ明るかった。

 断られたからではない、と自分では思っている。

 ――思っているが、たぶん半分は、断られたからだ。

 五年、一人でやってきた。

 増えなかった。増えないまま、それでもやめなかった。

 やめなかった先に、あの会社があると思っていた。

 鞄から、三枚の紙を出した。

 出さずに終わったやつだ。

 一枚目に、五年ぶんの名簿の推移が書いてある。三、五、七、七、七。

 ――五年で、四人だ。

 こうして並べると、自分でも笑えてくる。この数字を持っていって、雇ってくれと言った。

 三枚目の、志望の理由のところを読み返した。八行ある。

 最後の一行に、こう書いてあった。

『一人でやっていると、続けているのか、止まっているのかが、自分では分からなくなります』

 ――これは、本当のことだ。

 書いたときは、うまく書けたと思っていた。

 いま読むと、これは志望の理由ではない。ただの弱音だ。

 出さなくてよかった、と思った。

 三枚を、破ろうとした。

 破らなかった。

 畳んで、鞄に戻した。

 ――理由は、そのときはうまく言えなかった。

 あとになって、分かった。

 あの会社は、断った見積を捨てない。撤回した結論も、失敗した講習会のメモも、全部残している。

 私は五年、その会社に入りたいと言い続けていた。

 入れなかったのに、やり方だけは、いつのまにか移っていた。

 四月に、私は課長に一つ提案を出した。

 地区防災計画の改定の時期だった。三年に一度、見直す。

 その中に、一行入れてもらった。

第4章 3 (5) 地区の防災活動には、こども防災士会・学生防災士会を含む。

学生防災士会の会員は、市外に居住していてもよい。

 ――市外に居住していてもよい

 ここが、書きたかったところだ。

 課長は、最初に「これ、意味ある?」と聞いた。

「あります」

「学生、おらんやろ」

「ここにはいません。金沢と東京にいます」

「そんな人、数えられんやろ」

「数えられます。名簿を作れば」

 ――課長は、しばらく考えて、こう言った。

「まあ、書いても減るもんやないしな」

 それで通った。

 役場は、そういうところがある。強く反対されない代わりに、強く賛成もされない。

名簿

 六月に、名簿を作った。

 A4一枚。

 条件は二つだけにした。十八歳から二十九歳であることこの市に、いたことがあること

 住んでいる場所は問わない。

 最初に載せたのは、私自身だ。

 二人目に、ユイに連絡した。東京にいる。

「え、入れるん?」

「入れる。住所は東京でええ」

「何もできんよ」

「何もせんでええ」

「じゃあ意味なくない?」

 ――そこで、私は少し考えて、こう答えた。

「十一月の訓練の日に、その日いる場所で、五分だけ考えてほしい」

「五分」

「うん。地震が来たら、実家の誰がどこにおるか」

 ユイは、少し黙って、それから言った。

「……それやったら、できるわ」

 三人目はハルカだ。金沢にいる。二つ返事だった。

 四人目に、ソウタくんが入った。大学一年の子だ。祭りのときに声をかけた。

 五人目は、ヒナちゃん。来年から金沢の大学だ。高校三年の三月に声をかけた。

「私、防災士やないですけど」

「要らん。資格は条件にしとらん」

 ――そこは、迷った。

 名前に「防災士会」と付いているのに、防災士でなくてもいい。

 おかしい、と自分でも思う。

 でも、資格を条件にすると、また一人に戻る。

 六人目は富山のカエデさん。七人目は大阪のタツキくん。二人とも、こども防災士会の卒業生だ。

 ――九月までに、七人になった。

 七人のうち、この市に住んでいるのは、私一人だ。

 名簿を課長に見せたら、こう言われた。

「これ、この市の人おらんやん」

「一人います。私です」

「あんただけやろ」

「はい」

 課長は、しばらく名簿を見ていた。

「意味あるんか、これ」

 ――三回目の「意味あるんか」だった。

 私は、今度は用意していた。

「課長。この市の高齢者単身世帯、三百二十六軒です」

「知っとる」

「そのうち、市外に子や孫がいる世帯は」

「……多いやろ」

「二百八十軒です。八割五分」

 課長は、顔を上げた。

「その二百八十軒に、市外から一人ずつ電話がかかったら、それは市の防災力です」

「……電話は、防災力とちゃうやろ」

「四年前、トメさんを見つけたのは新聞屋さんです。制度ではありません」

 ――そこで、課長は黙った。

「制度で拾えんものを、名簿で拾おうとしています」

「拾えるんか」

「分かりません」

 私は、正直に言った。

「分からんけど、書いてなかったら、拾えたかどうかも分からんままです」

三百二十六

 十一月の訓練の日、私は役場の車で回った。

 仕事としてだ。三年目から、これは業務になった。

 赤い点の集落は、うちの会社が入っている。訓練の参加率が高い。

 青いだけの集落は、そうではない。

 ――ある集落で、九十を越えた人が一人で出てきた。

「訓練やろ。知っとる」

「はい」

「うち、誰も来んけどな」

「……はい」

「ええんや。慣れとる」

 その人の家には、赤い点が無い。

 うちの会社は、そこに入っていない。四十一軒には入っていない。

 ――ケイリさんの言ったとおりだった。

 私があの会社に入っていたら、この人には会っていない。

 役場の車に乗っていたから、会えた。

 それだけの話だ。

 夜、報告を書いた。

 業務の報告と、それとは別に、個人のノートに一行書いた。

『三百二十六。うち、今日会えたのは十九』

 ――十九だ。

 三百二十六のうち、十九。

 五年で四十一軒を積んだ会社と、三年で十九軒しか回れなかった役場と、どちらが速いのかは分からない。

 ただ、どちらも足りていない。

 その足りなさは、たぶん、同じ足りなさではない。

 ミライさんに、電話を一本した。

「アオイです。名簿、七人になりました」

「記録します」

「あの」

「はい」

「五年前、私が入ったとき、増えないって言われました」

「言いました」

「増えました」

 電話の向こうで、少し間があった。

五年で六人です

「はい」

「一年に一人ちょっとですね」

「……はい」

「アオイさん」

「はい」

「それは、遅いのではありません。消えなかったということです」

第五十五話 ―― 小松「走っていない」

創作ノート(第五十四話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,681字
  • 時期:二〇三八年 三月〜十一月
  • 登場:ケイリ(No.4)/ミライ(No.1・電話のみ)/マコ(No.7・言及)/課長/ユイ(東京)/ハルカ(金沢)
  • 前話との接続:三年ルールの二回目。第五十二話のナオは保留、この回のアオイは明確な拒否。★ 断る理由が家の数(四十一軒か、三百二十六軒か)であって、本人の資質でも会社の都合でもない

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep54_aoi_mirai2nd.md

第五十五話

走っていない

小松

第三部 出ていった側

チサ視点

登場
ミオ(同級生・金沢)/母/父/祖父母/会社の先輩
視点
チサ(二十二歳・小松/二〇三一年の地震で避難した家の子)
時期
二〇三八年 八月

八月

 小松の夏は暑い。

 能登より暑い、と最初の年に思った。海が遠いからだと思っていたが、小松も海はある。近くはない、というだけだ。

 朝七時にアパートを出て、自転車で十五分。会社に着くころには背中が濡れている。

 勤めているのは、機械の部品を作る会社の事務だ。高校を出てすぐ入った。二〇三五年の四月だから、今年で四年目になる。

 四年目、という言い方を、私はあまりしない。

 三年目と四年目のあいだに、何かがあったわけではないからだ。

避難

 二〇三一年の一月に、小松に来た。

 地震の三日後だ。母の姉が小松にいて、そこに転がり込んだ。私と、母と、弟の三人。

 父は能登に残った。半年後に来た。

 最初の一年は、親戚の家の二階だった。次の年に、市営の住宅に入った。いまは別のアパートにいる。

 私は中学二年だった。三年生の一年間を、小松の中学で過ごした。

 転校の手続きは、母が全部やった。私は制服が変わったことしか覚えていない。

十三秒四

 中学のとき、陸上をやっていた。百メートルだ。

 能登の中学では、二年のときに県大会へ行った。十三秒四だった。

 小松の中学に移ってからも、三年の夏まで続けた。県大会には行けなかった。記録は十三秒六で止まった。

 これは、環境のせいではないと思う。

 小松の中学のほうが、部員は多かったし、練習も整っていた。タータンの練習場も近かった。

 ただ、私は、その一年でうまく走れなくなった。

 理由は、いま考えても、うまく言えない。

半年

 高校でも陸上部に入った。

 小松の県立高校だ。陸上部は強かった。部員が六十人いた。

 入部して半年でやめた。

 やめた理由を、人に聞かれることが何度かあった。そのたびに、違う答えを言った。

 「合わなかった」と言ったこともある。

 「バイトを始めたから」と言ったこともある。

 「家が遠かった」と言ったこともある。

 全部、本当だ。

 そして、どれも、いちばんの理由ではない。

いちばんの理由

 いちばんの理由は、たぶん、こういうことだ。

 その年、母がパートを二つ掛け持ちしていた。父は能登に通っていた。解体の仕事だ。うちの家も、その年に壊した。

 弟は小学生で、家にいる時間が長かった。

 私が部活で帰りが七時になると、弟が一人で夕飯を食べることになる。

 それを、誰にも言われていない。

 母は「部活やっといで」と言っていた。父も何も言わなかった。

 私が勝手に、そう思った。

 だからやめた、と言えれば、話は簡単だ。

 でも、そこまではっきりしていたわけでもない。部活がしんどかったのも本当だし、上に十人以上いて自分の順番が来ないのが嫌だったのも本当だ。

 いくつかのことが同時にあって、その全部が少しずつ効いて、やめた。

 人に説明するとき、私はいつも一つだけ選んで言う。

 選ぶたびに、少し嘘になる。

 顧問には、退部届を出しに行った。

 三十代の先生で、悪い人ではなかった。

「もったいないぞ」

「はい」

「お前、県大会行っとるやろ」

「能登のときです」

「同じや」

 同じではない、と思った。

 能登の県大会と、小松から出る県大会は、通る人数が違う。

 同じ石川県だが、うちの中学は市の予選が三校しかなかった。こっちは十七校ある。

 そのことを、私は言わなかった。

 言うと、言い訳になるからだ。

 先生は、退部届にはんこを押しながら、こう言った。

「困ったことがあったら言えよ」

「はい」

 困ったことは、あった。

 あったが、それは陸上部の先生に言うことではなかった。

 家のことだからだ。

 先生は、私の家のことを何も知らない。知らないのが普通だ。

 私も言わなかった。

 いま思えば、あそこで一言、「家が忙しいです」と言っていたら、何かが違ったかもしれない。

 違わなかったかもしれない。

 どちらかは、もう分からない。

連絡

 二年前の八月に、ミオから連絡が来た。

 中学のときの同級生だ。能登の中学で一緒だった。あの子は金沢に避難した。

『能登におる』

『え、能登行ったん』

『バイトしとる』

『まじで』

 そのあと、店の写真が送られてきた。古い家を直したカフェらしい。屋根に太陽光が載っていた。

『行こうかな』と私は打った。

 打ってから、その日は行かなかった。次の週も行かなかった。

 そのまま、二年たった。

 ミオは、そのあと催促してこなかった。

 それが、たぶん、いちばんありがたかった。

用事

 能登には、避難してから一度も帰っていない。

 帰りたくないわけではない。

 用事が、無い。

 家は二〇三三年に壊した。土地は残っているが、草だ。父が年に二回、草刈りに行く。私は誘われたことがあるが、日曜に潰れるのが嫌で断った。

 祖父母は、二〇三二年に小松に来た。いまはこっちの施設にいる。

 墓も、去年こっちに移した。父が「行けんくなるから」と言って移した。

 だから、能登に、私が行く先が一つも無くなった。

 このことに気づいたのは、去年の秋だ。

 墓を移す話を聞いたとき、私は「そうなんや」としか言わなかった。

 夜、布団に入ってから、これで本当に用事が無くなった、と思った。

 思っただけで、何もしなかった。

三年目

 会社では、三年目のときに小さい表彰があった。

 勤続三年の人が、朝礼で名前を呼ばれる。全員が呼ばれる。私も呼ばれた。

 その日、先輩が「三年やね」と言った。

 「はい」と答えた。

 それで終わりだ。

 三年たったから何かをする、という話は、私のまわりには無い。

 資格を取れとも言われない。独立しろとも言われない。

 仕事は嫌いではない。数字を合わせる仕事で、合ったときは気持ちがいい。

 給料は多くない。実家に少し入れて、残りで暮らしている。

 このまま十年いても、たぶん、そんなに変わらない。

 変わらないことが不満か、と聞かれると、そこは自分でも分からない。

 弟は、今年大学一年になった。金沢の大学だ。

 うちから通える距離だが、下宿している。

 仕送りは、父と母と、私で分けている。私の分は月に二万円だ。

 誰にも言われていない。私が言い出した。

 弟は、そのことを知らない。

 知らないほうがいいと思っている。

 弟が高校のとき、部活をやっていた。バスケだ。三年までやり切った。

 私は、それをよかったと思っている。

 思っているが、たまに、腹の底のほうで、何かが動くことがある。

 その何かに名前をつけないようにしている。

 名前をつけると、弟に対して悪いからだ。

 母は、いまも二つ働いている。

 父は、去年から能登に行っていない。行く仕事が無くなったからだ。解体が、だいたい終わった。

 いまは小松の建材屋で働いている。

 夕飯のとき、父がたまに能登の話をする。

 「あそこの道が直った」とか「あの店が閉まった」とか。

 誰から聞いているのかは知らない。たぶん、まだ向こうに知り合いがいる。

 私は「へえ」と言う。

 それ以上は聞かない。

 聞くと、父が喜んで長く喋るからだ。

 喜ばせたくないわけではない。

 ただ、そのあと、母が黙る。

 母は、能登の話が出ると黙る。

 それだけは、この八年で分かった。

 八月の終わりの夜に、押し入れを開けた。

 扇風機を出そうとしただけだ。

 奥に、箱があった。中学のときのスパイクが入っていた。

 母が、避難のときに持ってきていた。

 私は持ってこいと言っていない。母も持ってきたと言っていない。

 なぜ入っているのかは、聞いていない。聞くつもりもない。

 サイズは二十三・五。いまも同じだ。

 私は箱を開けて、しばらく見ていた。

 履かなかった。

 箱を閉じて、元の場所に戻して、扇風機を出した。

 部屋に戻って、扇風機をつけた。

 それだけだ。

 次の日も、私は自転車で会社に行った。

 背中が濡れて、いつもと同じ時間に着いた。

 昼に、ミオからメッセージが来ていた。

『また能登でバイトしとる。今年で三回目』

『すごいね』

 私はそう返した。

 既読がついて、そのあと何も来なかった。

 夕方、会社を出たとき、空が焼けていた。

 小松の空だ。海のほうが赤い。

 私は自転車を漕いで、いつもの道を帰った。

 部屋に戻って、扇風機の前に座って、さっきのやりとりをもう一度見た。

 上にスクロールした。

 去年の八月にも、同じような一行が来ている。

『能登でバイトしとる』

 その前の年にも来ている。

『能登におる』

 三年、同じ時期に、同じことを言ってきている。

 催促は一度も無い。来いとも、なんで来んのとも、書いていない。

 ただ、居場所だけが毎年送られてくる。

 私は、そこでしばらく画面を見ていた。

 去年の秋に、墓が小松に移った。

 あのとき私は、これで能登に用事が一つも無くなった、と思った。

 思って、それで終わりにしていた。

 用事が無い、というのは、行く先が無いという意味だった。

 家が無い。祖父母がいない。墓も無い。

 行き先で数えると、ゼロだ。

 でも、三年続けて、あの子は八月にあそこにいる。

 行き先ではない。人だ。

 私は、そこを数えていなかった。

 用事は無い。

 理由は、ここにあった。

 三年前から、毎年、画面に来ていた。

 私は、それを「すごいね」で三回流している。

 しばらく考えて、私は打った。

『まだおる?』

 返事は、二分で来た。

『おる。三十一日まで』

 今日は二十六日だ。

 土曜が二十九日。日曜が三十日。

 私はカレンダーを見た。

 見て、それ以上は打たなかった。

 打たなかったが、消しもしなかった。

 扇風機の音がしていた。

 押し入れの奥に、まだ箱がある。

 持っていくかどうかは、決めていない。

創作ノート(第五十五話・ネタバレを含む)
  • 分量:約3,661字
  • 時期:二〇三八年 八月
  • 登場:ミオ(同級生・金沢)/母/父/祖父母/会社の先輩
  • 備考:この回だけ、次話への予告を置かない。 発明も無い。三年たっても誰も何も言わない側の三年を、そのまま置く

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep55_chisa_mirai2nd.md

第五十六話

離れとる人の会

十一月

第三部 出ていった側

ヒナ視点

登場
アオイ(二十七歳・役場)/ミナト(高二)/ソウタ(大学三年)/マモル(No.8)/ナギ(No.11)/ゲンゾウさん(八十八歳)/ミライ(No.1・電話のみ)
視点
ヒナ(十九歳・大学二年/金沢/ゲンゾウさんの孫)
時期
二〇三九年 十一月
  • ミライミライ
  • マモルマモル
  • ナギナギ

バス

 十一月の第二土曜、金沢から二時間半かけて帰る。

 特急は使わない。学生だから高い。

 バスの窓から、山が黄色くなっていくのが見える。金沢を出て一時間くらいで、色が変わる。

 ――このバスに、去年は乗っていない。

 大学一年の十一月は、帰らなかった。

 サークルの合宿と重なったからだ。理由としては、まっとうだと思う。

 まっとうだと思っていたのに、翌週に祖父から電話が来て、「訓練、来んかったな」と一言だけ言われた。

 怒ってはいなかった。

 怒っていないぶん、こたえた。

八十八

 祖父はゲンゾウという。今年八十八歳になった。

 坂の反対側で百姓をやっている。まだやっている。田んぼは半分に減らしたが、やめてはいない。

 私が家に着いたら、祖父は玄関で長靴を洗っていた。

「帰ったか」

「うん」

「明日やぞ」

「知っとる。それで帰ってきた」

「そうか」

 ――それだけだった。

 祖父は、たぶんそれで満足していた。

 夜、ご飯のときに、母が「ヒナは来年三年やから、就活やね」と言った。

 祖父は何も言わなかった。

 私も何も言わなかった。

七人と、十二人

 訓練の朝、公民館にアオイさんが来ていた。

 二十七歳。役場の防災担当。私が中学のときから、毎年ここにいる。

 テーブルの上に、紙が二枚あった。

 一枚目、こども防災士会。十二人。小学生八人、中学生四人。

 二枚目、学生防災士会。

 ――七人。

 去年は五人だった。その前は三人だった。

「増えましたね」

「増えた」

「七人」

「うん」

 アオイさんは、その紙を私のほうに向けた。

 名前の横に、住所の欄がある。

アオイ  この市

ユイ   東京

ハルカ  金沢

ソウタ  金沢

ヒナ   金沢

カエデ  富山

タツキ  大阪

 ――この市に住んでいるのは、アオイさん一人だった。

名前

 私が入ったのは、去年の春だ。

 高校三年の三月に、アオイさんから連絡が来た。

「ヒナちゃん、金沢の大学やろ」

「はい」

「学生防災士会、入らん?」

「私、防災士やないですけど」

「要らん。資格は条件にしとらん」

 ――そこで、私は少し引っかかった。

「じゃあ、なんの会なんですか」

「なんの会でもない」

 アオイさんは、あっさりそう言った。

「十一月の訓練の日に、その日おる場所で、五分だけ考える。それだけが条件」

「五分」

「地震が来たら、実家の誰がどこにおるか」

 ――それなら、できると思った。

 実際、去年の十一月、私はサークルの合宿先でそれをやった。

 訓練には帰らなかった。かわりに、五分だけ考えた。

 祖父は田んぼ。祖母は台所。母は職場。父は車で移動中。

 考えて、それだけだった。何も起きなかった。

 でも、祖父の「来んかったな」を聞いたとき、私はその五分のことを言えなかった。

 言っても、言い訳になると思ったからだ。

回る

 今年は、ミナトくんと同じ班になった。

 三年前と同じだ。あのときミナトくんは中学二年で、いまは高校二年。背が私より高くなっていた。

「ヒナちゃん、久しぶり」

「でかくなったね」

「よう言われる」

 坂を上がりながら、ミナトくんが言った。

「今年、線が二軒」

「線?」

「名簿の。去年おって、今年おらん人」

 ――そういう数え方をするのか、と思った。

「多いん? 少ないん?」

「去年は三軒。その前は四軒」

「減っとる」

「減っとる」

 ミナトくんは、そこで少し黙って、こう言った。

「けど、それは、もともとおる人が減っとるからかもしれん

 ――高校二年が言うことではない、と思った。

 思ってから、この子は三年前からこれをやっているのだと気づいた。

ノート

 休憩のとき、ミナトくんがノートを見せてくれた。

 三年前から書いているらしい。

 名前と、その人のことが、一行ずつ書いてある。

『麦茶。うすい。夏に必ず出る』

『ゴン。茶色。吠えん』

『富山におる。生きとる』

 ――四十行くらいあった。

「これ、なんのために書いとるん」

「分からん」

「分からんのに書いとるん」

「ナギさんに、書いとけって言われた」

「なんで」

「軒数やないほうを書いとけって」

 私は、その言い方を、その場では飲み込めなかった。

 あとで分かった。

 軒数は、事務所が数えている。役場も数えている。誰かがもう数えている数字は、この子が数えなくていい

 誰も数えていないのは、麦茶の濃さのほうだ。

 ノートの後ろのほうに、別の欄があった。

 名前ではなく、家に付いているものが書いてある。

坂上から三軒目 箱(黒) 台所の棚の下

坂上から五軒目 箱(黒) 玄関 ※耳が遠い

坂の中ほど   カーポート・蓄電池三つ ※息子が夜勤

「これ、なに」

「機械の場所」

「なんで書いとるん」

「停電したとき、押しに行けるように」

 ――ミナトくんは、そう言った。

「押すって、あの、ボタン?」

「うん。一個だけ押せばええやつ」

 私は、その話を知らなかった。

 うちの祖父の家には、機械が入っていない。田んぼの人だから、そういう話にならなかったらしい。

「じゃあ、うち、載っとらんね」

「載っとる」

 ミナトくんは、ページをめくった。

坂の反対側 ゲンゾウさん宅 機械なし ※発電機あり(自前)

 ――「機械なし」と書いてある。

 無いことが、書いてある。

「無いのも書くん?」

「無いのを書いとかんと、無いことに気づかんやろ」

 私は、そこで少し黙った。

 高校二年が言うことではない、と今日二回目に思った。

五分

 訓練が終わったあと、公民館でアオイさんに聞いた。

「学生の会、去年の十一月、みんな何しとったんですか」

「五分考えたって、連絡が来た」

「全員から?」

「全員から」

 ――七人中、この日この場所にいるのは、私とソウタくんとアオイさんの三人だ。

 東京と大阪と富山と、金沢のもう一人は、来ていない。

「来んかった人も、報告するんですか」

「する」

「何を」

「その日どこにおったか。誰のことを考えたか。それだけ」

 アオイさんは、紙をもう一枚出した。

 去年の分の記録だ。

ユイ  東京・自宅   母(実家一人)/隣のトミさん

タツキ 大阪・バイト先 祖父・祖母(同居)

カエデ 富山・大学   父(単身赴任・帰省中の可能性)

 ――それだけの記録だった。

 何の役にも立たなさそうに見える。

「これ、意味あるんですか」

 アオイさんは、少し笑って、こう言った。

去年、タツキくんの祖父が転んだ

「え」

「十二月。骨折。発見は当日やった」

「……それは、この紙のおかげですか」

「分からん」

 ――アオイさんは、そこははっきり「分からん」と言った。

「けど、あの子は十一月に一回、祖父のことを考えとる。考えとったから、十二月に電話したのかもしれん」

「かもしれん、ですか」

「かもしれん、や」

 ――アオイさんは、そういう言い方をする。

 断定しない。

 最初は、頼りないと思っていた。

 いまは、そうではないと分かる。

「アオイさん」

「うん」

「これ、続けるんですか」

「続ける」

「何年」

「決めとらん」

 ――決めていない。

「五年やって七人です」

「そう」

「あと五年で、十四人ですか」

 アオイさんは、そこで笑った。

「そんな計算にはならんと思う」

「じゃあ、何人ですか」

「分からん。減るかもしれん

 ――減る。

 その可能性は、考えていなかった。

「二十九で抜けるので」

「あ」

「私、いま二十七や。あと三年で抜ける

 ――そうだった。

 条件は十八から二十九だ。

 アオイさん自身が、いつか名簿から外れる。

「じゃあ、そのとき、市内に住んどる人がゼロになりますね」

「なる」

「……それ、大丈夫なんですか」

 アオイさんは、少し考えて、こう言った。

「たぶん、大丈夫やない」

 ――そこも、正直だった。

「けど、私がいつか抜けるのは、最初から分かっとったことや」

「はい」

「五年やって、市内の子を一人も入れられんかった。それは私の失敗

 アオイさんは、はっきりそう言った。

「だから、ヒナちゃん」

「はい」

「あんたが金沢から入っとるのは、失敗を先送りしとるだけかもしれん」

 ――そんなことを言われるとは、思っていなかった。

「それでも、入っとってほしい」

「……はい」

「先送りは、悪いことやない。先送りしとるあいだに、誰かが来ることがある

名簿の名前

 夕方、私は祖父と縁側にいた。

 祖父は、私が学生防災士会に入っていることを知らなかった。

「じいちゃん」

「なんや」

「私、会に入っとるんやわ」

「なんの会や」

「学生の防災士の会」

 祖父は、湯呑みを置いて、こう聞いた。

「金沢におってか」

「金沢におって」

「何すんのや」

「……あんまり、何もせん」

 ――正直に言った。

「十一月に五分考えるだけや。じいちゃんが田んぼにおるとか、ばあちゃんが台所におるとか」

 祖父は、しばらく黙っていた。

 それから、こう言った。

「そら、ええな」

「ええ?」

「わしが田んぼにおる、いうのを、金沢の人間が知っとるいうことやろ」

「……うん」

「ほんなら、ええわ」

 ――祖父は、それ以上何も言わなかった。

 私は、そこではじめて、この会が何なのかを少し分かった気がした。

 これは、助けに行く会ではない。

 居場所を知っている人を、一人でも遠くに置いておく会だ。

バス

 翌日、金沢に戻るバスに乗った。

 行きと同じ道を、逆に走る。山の色は変わらない。

 ――来年は三年で、就活がある。

 再来年は四年。その次から社会人だ。

 私は、まだ何になるか決めていない。

 ただ、一つだけ、決めたことがある。

 十一月の第二土曜は、空けておく。

 帰れるかどうかは、そのときの状況による。帰れない年もあると思う。

 帰れない年は、五分考える。

 ――それだけなら、たぶん、四十年続けられる。

 金沢に着いて、アオイさんにメッセージを送った。

『来年も入っとっていいですか』

 返事はすぐ来た。

『やめる手続きは無いよ』

 ――やめる手続きが無い。

 入る手続きも、たぶん無かった。

 名前を書いただけだ。

 その晩、みらい防災不動産のミライさんという人から、短い連絡が来た。

 アオイさんが共有したらしい。

『学生防災士会 七名。うち市内一名。記録しました』

『はい』

『ヒナさん』

『はい』

『住所の欄が全部よそなのは、この会の欠点ではなく、仕様です』

 ――仕様。

 変な言い方だと思った。

 思ったが、そのとおりだと思った。

第五十七話 ―― 三月「二枚目を動かす」

創作ノート(第五十六話・ネタバレを含む)
  • 分量:約3,952字
  • 時期:二〇三九年 十一月
  • 登場:アオイ(役場)/ミナト(高二)/ソウタ(大学三年)/ゲンゾウさん(八十八歳)/ミライ(No.1)
  • 前話との接続:第五十四話でアオイが地区防災計画に入れた一行(市外に居住していてもよい)が、五年で七人になる。第五十話でミナトが書き始めたノートが四十行になる

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep56_hina_mirai2nd.md

第五十七話

二枚目を動かす

三月

第三部 出ていった側

ナオ視点

登場
ケイリ(No.4)/タク(No.9)/ミライ(No.1)/リク(No.10)/アオイ(二十八歳・役場)/所長/ミオ(二十三歳)
視点
ナオ(二十八歳・金沢の設計事務所)
時期
二〇三九年 十二月〜二〇四〇年 三月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • タクタク
  • リクリク

十二月

 二〇三九年十二月の発表で、番号があった。

 四回目だった。

 学科は三回通っている。製図で三回落ちた。四回目で受かった。

 ――受かった瞬間の感想は、あまり大したものではなかった。

 「終わった」だ。

 嬉しい、ではなく、終わった。

 事務所で所長に報告したら、「おう」と言われた。それから「今日はもう帰れ」と言われた。

 帰って、走った。十キロ。いつもと同じコースを、いつもと同じ速さで。

 速く走ろうとは、まったく思わなかった。

三年前の紙

 年明けに、二枚の紙を出した。

 三年前、ケイリさんに見せられたやつだ。捨てずに持っていた。

 一枚目、『ナオさんが来た場合』。赤字。

 二枚目、『ナオさんが来ない場合』。黒字。

 ――三年前、私はこれを見て腹が立った。

 いまは、腹が立たない。

 かわりに、二枚目のいくつかの数字が、古いことに気づいた。

 二枚目には、こう書いてあった。

能登の設計案件(年)    1〜2件

うちナオさん担当      1件

想定単価          —

 ――三年前の数字だ。

 去年、私が担当した能登の案件は、四件だった。

 所長が受けて、私が担当した。改修が三件、新築が一件。

増えた理由

 増えた理由は、私が営業をしたからではない。

 営業はしていない。というより、うちの事務所は営業をしない。

 増えたのは、竣工図からだ。

 最初の一件を担当したとき、私はいつもどおり竣工図を直した。現場に三回行って、実際にできたものに合わせて図面を直して、施主に渡した。

 その施主が、隣の家に言った。

 「あそこの事務所、直した図面くれるよ」と。

 ――それだけだ。

 二件目が来た。二件目でも同じことをした。三件目が来た。

 能登の古い家は、たいてい図面が無い。あっても、実際とは違う。

 だから、紙が合っているというだけで、価値になる。

 金沢では価値にならない。金沢の家は新しくて、図面がある。

 能登では、価値になった。

 二件目の家で、はじめてタクさんに会った。

 名前は前から知っていた。リク先生の双子のお兄さんだ。

 その家の電気工事を、その人がやっていた。

 私が図面を持って現場に行ったら、分電盤の前にしゃがんでいた。

「あんたが、リクんとこの子か」

「はい」

「図面、書くんやってな」

「書きます」

 ――少し身構えた。

 図面を書かない人だと聞いていたからだ。

 その人は、盤の蓋を開けて、裏側を見せてくれた。

 油性ペンで、細かい字が書いてあった。回路の番号と、どの部屋か。日付も入っている。

「これ、俺の図面や」

「……蓋の裏に」

「うん。ここやったら、次に開けた人が絶対見る」

 ――絶対見る。

 紙は、無くなる。

 蓋の裏は、無くならない。建物が壊れるまでそこにある。

「あんたの図面、どこに置くんや」

「事務所と、施主さんに渡します」

「施主が死んだら?」

 ――そこは、答えられなかった。

 私が渡した紙は、渡した人が死んだら、たぶん捨てられる。

「それ、見せて」

 ――私が持っていた図面のことだった。

 竣工図の下描きだ。まだ直している途中で、鉛筆の線が残っている。

 その人は、しゃがんだまま受け取って、床に広げた。

 しばらく、何も言わなかった。

 ――一分くらい、黙っていた。

 それから、天井伏図の一点を、指で押さえた。

「ここ」

「はい」

「これ、俺やない」

 ――え、と思った。

「二階の床下、配管が回っとるやろ。この逃げ方」

「……はい。現場で測りました」

「俺は、これ、元からこうやと思っとった」

 その人は、そこで顔を上げた。

「築六十年の家や。最初からこうやと思っとった。誰かが、どっかで一回替えとる

「いつですか」

「分からん」

 ――分からん、と言った。

「けど、俺やない。俺は触っとらん」

 私は、そこで、はじめて自分の仕事の意味が分かった気がした。

 ――現物は、嘘をつかない

 その人が、ずっと言っていることだ。私も、そのとおりだと思う。

 でも、現物は、いつ、誰が、なぜそうしたかを言わない

 そこにあるものは、そこにある。それだけだ。

 配管が逃げている。逃げているという事実は、開ければ分かる。

 ――逃げたのが誰かは、開けても分からない

 紙は、そこを持てる。日付と、名前と、そのとき何を測ったかを書ける。

 現物は嘘をつかないかわりに、黙っている。

 紙は嘘をつくかわりに、喋る。

 だから、両方要る

「なあ」

「はい」

「両方やったらええんちゃうか」

 その人は、あっさりそう言った。

「紙も渡して、蓋の裏にも書いとけ。どっちかは残る

 ――それは、考えたことがなかった。

 その日から、私は現場で油性ペンを持つようになった。

 設計士が盤の蓋に書き込むのは、たぶん普通ではない。

 誰にも怒られていないので、続けている。

三枚目

 三月の第一土曜に、ケイリさんに会った。

 三年ぶりだ。今度は、私が呼んだ。場所は防災カフェにした。行ったことはなかったが、名前は聞いていた。

 着いてみたら、思ったより人がいた。

 座敷におばあさんが三人いて、コーヒーを飲んでいなかった。

 カウンターに若い子が立っていた。二十歳過ぎくらいだ。あとで聞いたら、金沢の大学生で、夏だけここで働いていて、卒業してからも月に一回来ているらしい。

 私は五百円のほうを頼んだ。

 ケイリさんは、三年前と同じ鞄で来た。

「一級、おめでとうございます」

「ありがとうございます。四回かかりました」

「四回」

「はい」

 ――ケイリさんは、そこで少しだけ笑った。

「うちのタクさんも、木造建築士は三回です」

 私は紙を出した。

 三年前の二枚と、自分で作った一枚。

「三枚目です」

二枚目のほうを動かす

 私が作った紙には、こう書いてあった。

『ナオが、金沢の事務所にいたまま、そちらと組む場合』

・所属 金沢の設計事務所(雇用関係は動かさない)

・受託 事務所が受け、能登案件はナオが担当する

・そちらの負担 人件費・社会保険・車・机 いずれもゼロ

・単価 一件ごとに設計料。実費ではなく、通常の受託

・一級 取得済(二〇三九年十二月)

・実績 二〇三九年 能登四件(改修三・新築一)

 ケイリさんは、しばらく黙って読んでいた。

 それから、こう言った。

「これは、二枚目ですね」

「はい」

「三年前に私が出した、二枚目です」

「はい。数字を変えました

 ――三年前、二枚目には「一件」と書いてあった。

 いま、四件だ。

「私、あのとき、一枚目を選びたかったんです」

「知っています」

「でも、選べなかった。だから、二枚目のほうを動かしました」

組む

 ケイリさんは、紙を置いて、こう聞いた。

「一つだけ、確認させてください」

「はい」

「うちに入りたい気持ちは、いま、ありますか」

 ――私は、正直に答えた。

「あります」

「ありますか」

「あります。でも、入らないほうがいいと思っています」

「理由を」

「入ったら、金沢の案件が受けられなくなるからです」

 ――そこは、三年考えた結論だった。

「能登の四件を担当できているのは、金沢で十九件やっているからです。十九件で食べているから、四件を安くできる」

「はい」

「中に入ったら、四件で食べることになる。そうしたら、四件を安くできなくなります」

 ケイリさんは、そこでうなずいた。

 深くうなずいた。

「それを、うちは五年間、自分たちに言い聞かせてきました」

「知っています」

「知っていますか」

「ホームページに書いてあります」

 ケイリさんは、そこで、少し黙った。

 この人が黙るのを、私ははじめて見た。三年前に会ったときは、こちらが黙るばかりだった。

「ナオさん」

「はい」

「いま言われたことを、うちの外の人から聞いたのは、はじめてです

「……そうですか」

「はい。うちは、断る理由を毎回書いて残しています。書いて、残して、五年経ちました」

「はい」

読んで、同じところに着いた人が、いなかった

 ――私は、そこで返事ができなかった。

 私は、あの八項目を読んでいる。町の一億円を断ったときの理由書だ。ホームページに、要約だけ載っている。

 三年前に読んだときは、意味が分からなかった。断る理由を公開する会社があるのか、と思っただけだ。

 いま、自分で同じことを言っている。

 ――読んだから着いたのではないと思う。

 三年、金沢で十九件やって、能登で四件やって、そのあいだに一級に三回落ちて、それで着いた。

 読んでいなくても、たぶん着いた。

 ただ、着いたときに、それが書いてあった

 それは、少し違う。

「一つ、聞いてもいいですか」

 私が、そう言った。

「どうぞ」

「三年前、私は入りたいと言いました」

「言いました」

「あのとき入っていたら、私はいま、どうなっていたと思いますか」

 ケイリさんは、少し考えて、こう答えた。

「四件を、四件のままやっていたと思います」

「……はい」

「そして、三年目に、金額を下げていたと思います」

 ――そこは、痛かった。

 金沢の十九件が無ければ、能登の四件で食べることになる。食べるためには、単価を上げるか、件数を増やすしかない。

 能登で件数は増えない。だから、単価を上げる。

 上げられなければ、時間を削る

「一軒あたりの時間が減りますね」

「減ります」

「そうすると」

質問が消えます

 ――三年前にも、同じ言葉を聞いた。

 あのときは、意味が分からなかった。

 いまは、分かる。竣工図を渡しに行くと、施主が必ず何か聞いてくる。あれは、こちらが座っているから出てくる。

 立ったまま渡したら、出てこない。

所長

 三月の第三週に、事務所で正式に話した。

 所長と、みらい防災不動産と、うちで、業務提携の覚書を交わす。

 覚書の中身は、たいしたものではない。

 能登の案件は、みらい防災不動産が一次窓口になる。設計が要る案件は、うちの事務所に回す。担当はナオ。

 それだけだ。

「これ、うちに得あるんか」

 所長は、そう言った。冗談の言い方だった。

「去年、四件でした」

「四件な」

「今年、六件は行けます」

「根拠は」

「向こうが、四十一軒持っています」

 ――四十一軒。

 そのうち、いつか直す家が出る。全部ではない。年に数軒だ。

「二十三件のうち一件やったやろ」

「はい」

「いま何件や」

「去年、二十九件のうち四件です」

 所長は、そこで少し笑った。

「増えとるやんけ」

「はい」

「じゃあ、ええわ」

 ――それで、決まった。

名簿

 覚書の日、役場のアオイさんが来ていた。

 同い年だと、その日はじめて知った。二人とも二十八だ。

「ナオさん、名簿、入りません?」

「名簿」

「学生防災士会」

「……私、学生じゃないです」

「条件、年齢だけなんです。十八から二十九」

 ――ぎりぎりだった。

「あと一年しかないですけど」

「一年でも入れます」

「やめる手続きは」

「無いです」

 アオイさんは、そう言って笑った。

 私は名前を書いた。住所の欄に「金沢」と書いた。

 紙を見たら、八人のうち、この市に住んでいるのはアオイさん一人だった。

 東京、大阪、富山、金沢、金沢、金沢、名古屋。

 ――住所の欄が、全部よそだ。

「これ、変じゃないですか」

「変です」

 アオイさんは、あっさり認めた。

「でも、そういう会なので」

 カウンターの子が、話を聞いていて、こう言った。

「わたし、小松に同級生おるんです」

「入る?」

「……分からんです」

 その子は、少し考えて、こう続けた。

「誘っても、たぶん来んと思います」

「そう」

「でも、名前だけは覚えとります」

 ――アオイさんは、そこで何も言わなかった。

 名簿に足そうとも、誘おうとも言わなかった。

 私も、言わなかった。

 その子の同級生は、この紙に載っていない。

 載っていない人がいる、ということが、この紙を見れば分かる。

 それでいいのだと思った。

海から

 三月の終わりに、能登で朝を迎えた。

 現場が近かったので、前の日から泊まった。カフェの二階だ。素泊まりで、安い。

 五時に起きて、外に出た。

 ――走るためだ。

 金沢と同じ時間に起きて、同じように出る。違うのは、道と、音だ。

 海沿いに出た。

 まだ暗い。街灯が少ないので、足元だけが見える。

 走りはじめて十分くらいで、右のほうが、少し明るくなった。

 空ではない。

 ――水平線のあたりが、先に変わる

 灰色がほどけて、それから金が滲む。

 空が明るくなるのではない。海の色が先に変わって、空があとから追いかけてくる。

 私は、それを知っていた。

 十八までここにいたので、知っていた。

 十年、忘れていた。

 高校のとき、リク先生に「時計を見るな」と言われた。

 大学で立てた的は、一年目に意味を失った。

 インカレには、四秒足りなかった。

 県では一度も勝てなかった。

 ――届かなかったものは、そのまま届かないままだ。

 あれが取り返せたわけではない。

 ただ、二十八の三月に、私は能登で家を直す仕事をしていて、その仕事は、金沢に住んだままできている。

 中に入らないと関われない、と思っていたのは、私の癖だった。

 あの人は、行かずに全国の子を見ている。

 私は、住まずに能登の家を直している。

 どちらも、外側だ。

 坂の下で、リク先生とすれ違った。

 向こうも走っていた。五十五歳になったはずだ。

 二人とも止まらなかった。

 「おう」と言われて、「おはようございます」と返した。

 それだけで、行き違った。

 ――試合の日、この人はいない。

 いないまま、二十年見ている。

 私は、そのやり方を、たぶん受け取った。

 海が、完全に明けた。

 能登の夜明けは、海から来る。

 私は、それを十年ぶりに見て、今日の現場に行く。

第五十八話 ―― 母校「入れんですね」

創作ノート(第五十七話・ネタバレを含む)
  • 分量:約5,235字
  • 時期:二〇三九年 十二月〜二〇四〇年 三月
  • 登場:ケイリ(No.4)/タク(No.9・言及)/リク(No.10)/アオイ(役場)/所長/ミオ
  • 備考:第四十八話の「二十三件のうち一件」が「二十九件のうち四件」になる。第四話の二枚目の見積が、三枚目になって本人の側から出る。最後の三行は第一話の冒頭と対

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep57_nao4_mirai2nd.md

第五十八話

入れんですね

母校

第三部 出ていった側

アオイ視点

登場
タジマ先生(珠洲高校)/課長/サヤ(高校三年)/マコ(No.7・電話のみ)/ミライ(No.1・電話のみ)/ユイ(同級生・東京)
視点
アオイ(二十八歳・役場 防災担当)
時期
二〇四〇年 四月〜二〇四一年 一月
  • ミライミライ
  • マコマコ

四月の紙

 四月の第一週に、名簿を作り直す。

 年度で切らないと、卒業した子がいつまでも学生の欄に残る。

 紙は、いつも同じA4を使う。折り目は縦に一本だけ入れる。二つに折って、鞄の内側に入る大きさにするためだ。

 ――七人だった。

 三月には八人いた。四月一日で、二人が三十になって外れた。

 一人はユイ。東京にいる。就職して三年目だ。

 かわりに、こども防災士会から上がってきた子が一人入った。

 八から二を引いて、一を足す。七人。

 私は二十八になった。条件は十八から二十九だから、あと二年で自分も抜ける。

 ――抜けたら、市内に住んでいる会員がゼロになる。

 七年やって、そこは動かせなかった。

 折り目をつけながら、私はいつも同じことを考える。

 この紙は、私が異動しても残る。役場の文書だからだ。

 残るが、七人のまま残っても意味がない

 三年前に、ケイリさんに言われた。「中身を紙にしてください」と。

 紙にはした。中身が増えていない。

十一年

 五月に、タジマ先生から連絡が来た。

 高校のときの担任だ。いまも珠洲高校にいる。五十代になった。

「アオイ。探究の授業、外部の人に来てもらっとるやろ」

「はい。マモルさんですよね」

「そう。あの人、もう十一年目や」

 ――十一年。

 私が二年生のときに来た人が、まだ来ている。

「今年、役場の枠を一コマ増やしてもらえんか」

「役場の枠、ですか」

「防災の。地区防災計画の話とか」

 ――そこで、私は少し止まった。

「先生」

「うん」

「私、行っていいんですか」

 タジマ先生は、電話の向こうで「なんで」と言った。

「卒業生やから、やりにくいかと」

「逆やろ」

 それで、決まった。

入れんですね

 六月の第三金曜に、母校へ行った。

 教室は同じだった。窓から見える海も同じだった。

 ――座っている子が、違う。

 十一年前、私はいちばん後ろの席で、ノートをずっと開いていた。

 喋らない子だった。試験を二十分で出て、それで防災士になった。

 いま、教壇の側に立っている。

 最初の五分は、うまく喋れなかった。

 役場の資料を読んだ。ハザードマップの説明をした。子どもたちは、まあまあ聞いていた。

 ――退屈な五分だった。

 自分でそう思った。だから、資料を閉じた。

「ちょっと、資料と関係ない話をします」

 私は、そう言った。

「私、この教室で防災士を取りました。十一年前です」

 ――そこで、少し空気が動いた。

「三人で取りました。費用は県と市が出したので、一円も払っていません。いまも同じです」

 手が一つ挙がった。

「試験、難しいですか」

「難しくないです。私、二十分で出ました」

 笑いが起きた。

 ――そこから、少し喋りやすくなった。

「それで、本題です」

 私は、白板に一行だけ書いた。

 『学生防災士会 会員七名 うち市内一名』

「七年やって、七人です」

 誰も何も言わなかった。

「増えない理由は、はっきりしています。みなさんは、卒業したらここにいないからです

 ――そこは、正直に言った。

「金沢に行く。東京に行く。それでいいと思っています。私は止めません」

 いちばん前の席の子が、手を挙げずに言った。

「じゃあ、入れんですね」

 私は、白板のほうを向いたまま、こう返そうとした。

 ――住んでいる場所は問いません、と。

 実際、条件に住所は入っていない。ユイは東京にいる。タツキくんは大阪だ。だから、その答えで合っている。

 合っているはずだった。

「住んでいる場所は、条件に入っとらんよ」

「そうやなくて」

 その子は、そこで一回、言い直した。

わたし、大学行かんので

 ――教室が、少し静かになった。

「就職します。市役所受けます」

「……うん」

「だから、学生やないです」

 私は、そこで、何も言えなかった。

 白板に書いてある六文字を、私は見ていた。

 学生防災士会

 その子は、それ以上は言わなかった。

 悪意で言ったのではない。困った顔もしていない。ただ、事実として言っただけだった。

 私は「そこは、あとで考えます」と言った。

 教室で、外部の人間が「あとで考えます」と言うのは、たぶんいちばん格好が悪い。

 それしか言えなかった。

 ――この市に、大学は無い。

 珠洲にも、輪島にも、能登町にも、穴水にも無い。

 高校を出てここに残る子は、学生ではない。働いている。

 七年間、私が掲げていた名前は、その子たちを、名前の時点で外していた

 それに、私は、二十八になるまで気づかなかった。

金沢の真似

 帰りの車の中で、私は一つのことを思い出していた。

 あの名前は、私が付けたものではない。

 二〇三三年に、みらい防災不動産のホームページに二行あった。

こども防災士会の設立を目指しています

学生防災士会の設立を目指しています

 私は、下の行を見て「入ります」と言った。ただ、それだけだ。

 名前を疑ったことは、一度も無い。

 週明けに、マコさんに電話した。あの二行を書いた人だ。

「マコさん。学生防災士会って、なんで学生なんですか」

 電話の向こうで、少し間があった。

「……なんでやったかな」

「覚えてないですか」

「待って。思い出す」

 そのまま、十秒くらい黙っていた。

「あ。金沢や」

「金沢」

「金沢に、学生の防災の集まりがあったんよ。大学がようけあるやろ。あれ見て、書いた」

 ――そういうことだった。

「うち、大学無いですよ」

「無いね」

「無いのに、学生って書いたんですか」

「書いた」

 マコさんは、あっさり認めた。

「二〇三三年やろ。あんとき、あたし、まだ何もやっとらんかった。やっとらんもんを『目指す』って書いただけや。中身が無いから、よそのを見て名前だけ借りた」

「……はい」

「悪かったな」

 ――謝られると、こちらが困る。

「怒っとらんです」

「怒ってええよ」

 それから、マコさんはこう言った。

「けど、七年やったんは、あんたやろ」

「はい」

借り物の名前で七年やったんは、あたしのせいやない

 ――そのとおりだった。

 名前を借りたのはマコさんだ。

 その名前を、七年掲げ続けたのは、私だ。

若者

 八月に、名前を変えた。

 考えるのに、二か月かかった。

 いくつか書いてみた。「若手」は職場の言い方に聞こえる。ひらがなにすると、こども防災士会と区別がつかない。

 最後に残ったのは、いちばん素っ気ないものだった。

こども防災士会 (そのまま)

学生防災士会 → 若者防災士会

 ――「学生」を外しただけだ。

 外した理由は、二つある。

 一つ。この市に大学が無いから

 二つ。こども防災士会の子は、誰も防災士ではない。あの会はもう、資格を意味していない。それなら「学生」も意味していなくていい。

 変えたのは、二文字だけだ。

 課長に持っていった。

「名前、変えたいんですけど」

「なんに」

「若者防災士会に」

 課長は、書類から顔を上げなかった。

「学生やとあかんのか」

「うち、大学無いです」

 ――そこで、はじめて顔を上げた。

「……ああ」

 それだけだった。

「そら、あかんな」

「はい」

「計画に書いてあるやろ。あれ、直すんか」

 ――そこは、先に決めてあった。

「計画は、次の見直しでいいです。三年に一度なので、再来年です」

「ほんなら、いまはどうすんのや」

「通称で先に変えます。広報も、名簿も、若者で出します」

 課長は、少し考えて、こう言った。

「まあ、それでええわ」

 ――役場は、そういうところがある。

 強く反対されない代わりに、強く賛成もされない。

 三年前、私が計画に一行入れたときも「まあ、書いても減るもんやないしな」だった。

 あのときと、同じ通り方をした。

 その晩、みらい防災不動産に電話した。ミライさんが出た。

「アオイです。会の名前を変えました。若者防災士会にします」

「記録します」

「あの」

「はい」

「ホームページの、二〇三三年の二行なんですけど」

「はい」

「あそこ、『学生防災士会の設立を目指しています』のままですよね」

「そのままです」

「……直さないんですか」

 少し間があって、ミライさんはこう言った。

消しません

「はい」

「あれは、二〇三三年に、マコさんが書いたものです。二〇三三年の記録として正しいので、直しません」

「じゃあ、いまの名前は」

「下に足します。『二〇四〇年八月、若者防災士会へ改称』と」

 ――そういう会社だった。

 七年前から、この人はこの言い方しかしない。

「ミライさん」

「はい」

「私、名前を七年間そのままにしていました」

「はい」

「それも、記録しますか」

「します」

 ――即答だった。

「アオイさん。それは、書かないと無くなるものです」

七件

 九月に、市の広報紙に載せてもらった。

 半ページだ。役場の枠なので、費用はかからない。

 文面は、私が書いた。三回書き直した。

 最後に残ったのは、四行だけだった。

若者防災士会、会員募集

資格は要りません。市内に住んでいなくてもかまいません。

年に一度、十一月の第二土曜に、五分だけ考えてください。

実家の誰が、どこにいるか。

 その下に、QRコードを一つ置いた。

 入力するのは、名前と、年齢と、いま住んでいる場所と、実家がどこか。それだけだ。

 役場のフォームなので、作るのに二週間かかった。情報の扱いで課の合議が要った。そこは、面倒でも通した。

 広報紙が出たのは、九月十五日だ。

 その日の夜、私はフォームを開いた。

 ――〇件

 次の日、また開いた。

 二件

 一週間で、七件になった。

 それきり、止まった。

 七件の中身を書いておく。

 二件は、六十代と七十代だった。年齢の条件から外れている。

 ――防災士会と間違えられていた

 県の防災士会のほうだ。マモルさんが入っているやつで、あちらは年齢の上限が無い。名前が似ているので、当然そうなる。

 一件は、住所も年齢も空欄だった。

 残りの四件が、条件を満たしていた。

 そのうち二件に、こう書いてあった。

ばあちゃんに、広報に載っとるって言われた

 ――広報紙を読んだのは、祖母だった。

 読んで、孫に言った。孫が入れた。

 広報紙は、若い人に届いていない。届いたのは、若い人の祖母だ。

 課長には、正直に報告した。

「七件でした」

「少ないな」

「少ないです」

「名前、変えたのに」

「変えました」

 ――そこは、こたえた。

 名前を変えれば入れるようになる。それは本当だ。

 入れるようになることと、知ることは、別だ

 私は、そこを一緒くたにしていた。

「アオイさん」

「はい」

「まあ、金かからんかったしな」

 ――今回ばかりは、その一言に助けられた。

十一月

 十一月の第二土曜。訓練の日だ。

 名簿は、十四人になっていた。

 七月に一人、九月に四件、十月に二人。

 ――当日、この集落に来たのは、六人だった。

 去年は五人だ。

 一人増えた。

 私は、その一人を数えた。数えたが、白板には書かなかった。

 振り返りの席で、こども防災士会の子が手を挙げた。

 ミナトくんだ。もう高校一年になっている。

「アオイさん」

「はい」

「名前、変わったんですね」

「変わった」

「若者防災士会」

「うん」

「じゃあ、おれも入れますね」

 ――そこで、私は少し止まった。

「ミナトくん、いくつ」

「十六です」

「十八からや」

「あ」

 その子は「まだか」と言って、座った。

 ――まだ、と言った

 入れないと言われて、まだと言った子を、私ははじめて見た。

 七年間、私は「入れませんね」と言われ続けてきた。

式次第の裏

 十二月に、総務課の別の係が、成人式の準備をしていた。

 この市は「二十歳のつどい」と呼んでいる。名前が変わったのは、私が中学生のころだ。

 一月の第二日曜にやる。会場は市民ホール。

 ――その日は、この市を出た二十歳が、全員帰ってくる

 私は、その事実を、七年間、一度も使っていなかった。

 理由は、いま考えると、はっきりしている。

 二十歳のつどいには、大学生も、働いている子も、両方来る

 「学生防災士会」のときは、あそこは半分しか自分の相手ではなかった。だから、行こうと思わなかった。

 ――名前が、入口を塞いでいた。

 塞いでいたのは、入ってくる側だけではない。出ていく側も、塞がれていた

 係の人に、頼みに行った。

「式次第、何枚刷りますか」

「百二十くらい」

「その裏、空いてますか」

「空いとるよ。何すんの」

「一行だけ、刷らせてください」

 ――紙は増やさない。ここは、そこだけは譲れないと思っていた。

 式次第は、市が全員に配る。配られたものは、たいてい持ち帰られる。

 新しい紙を配ると、それは「配られたもの」になる。式次第の裏なら、もともと持っているものになる。

 刷ったのは、これだけだ。

若者防災士会

名前          

いま住んでいるところ  

実家          

 ――説明を、書かなかった。

 何をする会かも、どうして要るのかも、一行も書いていない。

 書かなかった理由は、去年の夏に聞いた話にある。

 防災カフェで働いていた大学生の子が、設備に名前だけの札を付けた、という話だ。説明は書かなかったらしい。

 「全部書いてあると、読んで帰るので」

 ――それを、そのまま真似した。

 もう一つ、決めたことがある。

 回収の箱を、入口ではなく出口に置く

 入口に置くと、受け取った流れで書くことになる。それは、配られたものだ。

 出口に置けば、二時間そこにいて、帰るときに、自分で決めて出す。

 ――ソラさんが、椅子を並べる話をしていたのを思い出した。

 先に取りにいかない、というやつだ。

 私は、その日、何も喋らないことにした。

 壇上には上がらない。挨拶もしない。箱の横に立っているだけにする。

十七

 一月の第二日曜。

 朝から雪だった。市民ホールの駐車場が、除雪しきれていなかった。

 二十歳のつどいの出席は、百十四人だった。

 この市で二十歳になった子は、全部で百五十人ほどいる。四分の三が帰ってきたことになる。

 ――私は、出口の横に、机を一つ出した。

 箱を置いて、その横に立った。

 式は一時間半で終わった。そのあと、写真を撮る時間が三十分ある。みんな、なかなか帰らない。

 私は、二時間立っていた。

 誰にも話しかけなかった。

 最初の一枚が入ったのは、式が終わって二十分たってからだった。

 誰が入れたかは、見ていない。見ないことにしていた。

 そのあと、しばらく無かった。

 ――帰りぎわに、四人が固まって来た。

 一人が入れると、あとの三人も入れた。

 そこから、ぽつぽつ続いた。

 最後の一人が出ていったあと、箱を開けた。

 十七枚あった。

 ――百十四人のうち、十七人。

 率でいえば、一割五分だ。

 私は、その十七枚を、床にしゃがんで、一枚ずつ数えた。

 二回数えた。二回とも十七枚だった。

 ホールの裏の、搬入口のところに出た。

 雪が降っていた。

 ――私は、そこで泣いた。

 二年半前にも、私は泣いている。

 あのときは、車の中だった。みらい防災不動産に「来ないでください」と言われて、五年やってきたものが行き止まりに見えて、泣いた。

 ――同じ涙ではない

 自分でも、そこははっきり分かった。

 あのときは、自分の行き先が無いことで泣いた。

 いまは、十七枚の紙を持って泣いている。

 七年で七人だった。

 一日で、十七人だ。

 搬入口に、係の人が煙草を吸いに出てきた。

「アオイさん、まだおったんか」

「はい」

「何枚入った」

「十七です」

「そら、少ないな」

 ――そう言われた。

 悪気は無い。百十四人中の十七枚を見れば、そう言うのが普通だ。

「はい。少ないです」

 私は、そう答えた。

 少ないと思っていない、とは言わなかった。

 言っても、伝わらないからだ。

 その晩、住所欄を集計した。

 十七人のうち、金沢が九人。東京が二人。名古屋、大阪、富山、福井が各一人。

 そして、この市が二人いた。

 ――二人。

 私は、そこで、既存の名簿のほうを開いた。

 十四人ぶんの住所欄を、上から順に見た。

 去年まで、私はこの欄を「アオイ以外は全部よそ」として見ていた。ヒナちゃんにも、そう説明した。

 ――見直したら、私を入れて四人が、この市だった

 二人は、九月の広報紙から入っている。祖母に言われて入れた、あの二件だ。

 もう一人は、七月に入っている。こども防災士会から上がってきた子で、高校を出て市内の事業所に勤めている。

 私は、その三人の欄を、七月と九月に見ているはずだった。

 ――見て、数えていなかった。

 「うち市内一名」と書き続けていたのは、去年までの数字を、確かめずに書き写していたからだ。

 合わせて、市内は六人になった。

 六人だ。

 少ない。少ないが、一人ではなかった

 私は、その晩、二つのことを紙に書いた。

 一つ。七年間、名前で締め出していた。この市に残った子は、学生ではない。

 二つ。七年間、数えていなかった。外に出た子ばかり追って、目の前の欄を確かめていなかった。

 ――どちらも、私の失敗だ。

 どちらか一つなら、まだ言い訳ができた。

 名前のせいで入ってこなかった、とも言えるし、私が見落としていただけ、とも言える。

 両方だった。

 名前で締め出しておいて、締め出したあとに残った数すら、数えていなかった。

 ミライさんに、電話を一本した。

「アオイです。名簿、三十一人になりました。市内は六人です」

「記録します」

「あの」

「はい」

「三年前、私は『うち市内一名』と報告していました」

「していました」

「あれ、間違っていました。数えていませんでした」

 少し間があって、ミライさんはこう言った。

「訂正として記録します。前の数字も、消しません

「……はい」

「アオイさん」

「はい」

「一つ、うかがっても」

「どうぞ」

「名前を変えたのは、去年の八月ですね」

「はい」

「効いたのは、いつですか」

 ――私は、少し考えた。

 九月の広報紙は、七件だった。名前を変えた直後で、七件だ。

 効いたのは、一月だ。名前を変えてから、五か月たっている。

「五か月後です」

「では、記録します。『改名から五か月、広報紙では動かず。二十歳のつどいで十七件』」

 ――そう書かれると、順番がはっきりする。

 名前を変えただけでは、動かなかった。

 名前を変えて、そのうえで、全員が一箇所に集まる日に、出口に箱を置いた

 どちらが欠けても、十七枚は入っていない。

 二月に、サヤさんから連絡が来た。

 六月の教室で、「わたし、大学行かんので」と言った子だ。

 市役所の採用試験に受かったらしい。四月から、総務課に来る。

『あの会、名前変わったんですね』

『変わった』

『じゃあ、入れますね』

 ――私は、その一行を、しばらく見ていた。

 六月に、この子は「入れんですね」と言った。

 私は、その場で答えられなかった。

 二月に、同じ子が「入れますね」と書いてきた。

 あいだに、七か月ある。

『入れる』

 私は、それだけ返した。

第五十九話 ―― 数えときます

創作ノート(第五十八話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,270字
  • 時期:二〇四〇年 四月〜二〇四一年 一月
  • 登場:タジマ先生/課長/サヤ(高校三年)/マコ(No.7・電話)/ミライ(No.1・電話)/ミナト(高三)
  • 前話との接続:第四十四話でマコが書いた二行(金沢の会を見て借りた名前)が、七年後に本人の口から出どころを明かされる。第五十四話の涙と、この回の涙は種類が違う

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep58_aoi2_mirai2nd.md

第五十九話

数えときます

役場

第三部 出ていった側

アオイ視点

登場
サヤ(十八歳・市役所 新採用)/課長/ケイリ(No.4)/ミライ(No.1・電話のみ)/マモル(No.8)/外浦のお母さん/タジマ先生
視点
アオイ(二十九歳・役場 防災担当)
時期
二〇四一年 四月〜二〇四二年 十一月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • マモルマモル

三人抜けた

 四月の第一週に、名簿を作り直す。

 紙は同じA4。折り目は縦に一本。

 ――今年は、引く作業から始まった。

 三十歳になった子が三人いる。条件は十八から二十九だから、四月一日で外れる。

 三十一人から、三人を消す。

 消すといっても、線を引くだけだ。名前は残す。消さないことにしてある

 二十八人。

 二か月前に三十一まで行ったものが、四月に二十八になる。

 ――上に足すのと、下から抜けるのが、同時に起きる

 これは、七年やって、はじめて経験した。七人しかいない会では、抜ける人がいなかったからだ。

 私は二十九になった。来年の四月に、自分の名前にも線が引かれる。

顔と名前

 四月に、総務課へ新採用が一人入った。

 高卒枠だ。この市の子で、珠洲高校を今年の三月に出ている。

 サヤさんという。

 ――去年の六月、私が母校で喋った教室にいた子だ。

 「わたし、大学行かんので」と言った子。

 配属の朝、事務室で名前を呼ばれたとき、私は少しだけ止まった。

 昼に、給湯室で話しかけた。

「サヤさん」

「はい」

「去年の授業、覚えとる?」

「覚えとります」

 あっさり答えられた。

「あんたの一言で、名前変えたんやよ」

「知っとります」

 ――そこも即答だった。

「タジマ先生が言うとりました。『あれ、あんたのせいで変わったぞ』って」

「せい、って言い方したん」

「言いました」

 私は、少し笑った。

 六月に、サヤさんが会に入った。自分から言ってきた。

「あの名簿、入れますか」

「入れる。住所は」

「この市です」

「じゃあ、市内は七人目や」

「七人?」

「私を入れて、六人おるんやわ」

 ――サヤさんは、そこで少し驚いた顔をした。

「そんなおるんですか」

「おった」

 私は、そう言い直した。

「去年まで、私は一人やと思っとった。数えたら、六人おった」

この人、知っとります

 サヤさんは、その名簿を見せてくれと言った。

 市内の六人ぶんの行を、指で追って、途中で止まった。

「この人、知っとります」

「え」

「うちの一個上です。同じ高校」

 それから、もう一つ止まった。

「この人も。中学が一緒です」

 ――そこで、私は何かを取り落としたような気がした。

 この六人は、私にとっては「名簿の行」だ。

 この子にとっては、顔と名前だ。

「サヤさん」

「はい」

「その人ら、声かけられる?」

「かけられます」

 ――即答だった。

「べつに、なんも難しないですよ。同じ高校やし」

 私は、七年間、それができなかった。

 できなかったのではない。やろうと思っていなかった

 外に出た子を追うことばかり考えて、隣の席にいた子に声をかけるという発想が無かった。

 私は、サヤさんに一つだけ頼んだ。

「増やさんでええよ」

「増やさんでええんですか」

「うん。六人に、全部会うてきて

 ――そこは、少し考えて決めた。

 声をかけられる人がいるからといって、いきなり増やしにいくと、たぶん元に戻る。

 私が七年やって分かったのは、入れた人数より、その人がその後どうなるかのほうが分からないということだ。

 名簿に載ったまま、一度も何もしていない人が、いる。

「会うて、何すればええんですか」

「なんもせんでええ。十一月に五分考えるやつの話だけしといて」

「それだけですか」

「それだけ」

 サヤさんは、夏までに六人全員に会った。

 六人のうち、四人は会って喋った。二人は、店で挨拶した程度だという。

 報告は、口頭で受けた。紙は作らせなかった。

 ――紙にすると、業務になる

 業務になると、異動で消える。

 いまは、この子が個人で持っているほうがいい。そう思った。

 このやり方が正しいかどうかは、分からない。

八月

 八月に、タジマ先生から連絡があった。

 珠洲高校の同窓会が、盆にある。毎年やっているが、私は行ったことがない。

「アオイ。あの紙、置かせてもらったらどうや」

「同窓会にですか」

「うん。若者になったんやろ

 ――そこを、先生は面白がっていた。

「学生のときは、声かけにくかったんや。同窓会に来るんは、たいてい働いとる子やから」

「……はい」

「名前が変わったって聞いて、それやったら言えるわと思った」

 ――そういうことだった。

 名前は、入ってくる側だけを塞いでいたのではない。

 外から声をかけようとする人も、塞いでいた

 タジマ先生は、七年間、一度も紹介してくれなかった。

 それは、先生が忘れていたからではない。言いにくかったからだ。

 同窓会には、私は行かなかった。

 行くと、私の会になるからだ。

 式次第の裏に刷ったのと同じ紙を、五十枚だけ渡した。説明は書いていない。

 ――十二枚、戻ってきた

 五十枚で十二枚だ。

 一月のつどいは、百十四人で十七枚だった。率でいえば、こちらのほうが高い。

 母数が違うので、比べられない。それでも、少し嬉しかった。

 合わせて、四十人になった。

計画の改定

 十月に、地区防災計画の見直しが回ってきた。三年に一度だ。

 三年前、私はここに一行入れた。

第4章 3 (5) 地区の防災活動には、こども防災士会・学生防災士会を含む。

学生防災士会の会員は、市外に居住していてもよい。

 ――学生防災士会と書いてある。

 通称は去年の八月に変えた。計画のほうは、そのままにしてあった。

 今回、直す。

第4章 3 (5) 地区の防災活動には、こども防災士会・若者防災士会を含む。

若者防災士会の会員は、市外に居住していてもよい。

(令和22年8月、学生防災士会より改称)

 ――括弧を足した。

 消して書き直すこともできた。そのほうが、たぶん読みやすい。

 消さなかった。

 三年前にこれを書いたとき、私は「学生」と書いた。その事実は、あったからだ。

 課長に見せたら、括弧のところを指された。

「これ、要るんか」

「要ります」

「なんで」

「五年後の人が読んだときに、なんで名前が変わったかが分かるので

「変わった理由は書いとらんやろ」

 ――そこは、痛いところを突かれた。

 括弧には日付しか書いていない。理由は書いていない。

「理由は、計画に書くことやないと思います」

「ほんなら、どこに書くんや」

「……別の紙に書きます」

 課長は「まあ、好きにせえ」と言った。

 その晩、別の紙に書いた。役場の文書ではない。個人のノートだ。

令和22年8月 学生防災士会 → 若者防災士会

理由:この市に大学が無い。高校を出てここに残る子は学生ではない。

   7年間、その子たちを名前で外していた。

気づいた日:令和22年6月19日(母校の授業)

言った人:サヤ(当時 高3)

 ――言った人の欄を作ったのは、ルナさんのやり方を真似したからだ。

 あの人は、訂正するときに必ず指摘者の名前を書く、と聞いたことがある。

 私は、そのやり方を、七年前に聞いて、一度も使っていなかった。

二回目

 二〇四二年一月の第二日曜。二十歳のつどいだ。

 二回目になる。

 ――今年は、私は箱の横に立たなかった。

 サヤさんに頼んだ。

「私、喋らんでええんですか」

「喋らんでええ。立っとくだけ」

「それ、意味あるんですか」

 ――去年、私も同じことを思った。

「分からん」

 私は、正直に言った。

「けど、去年は十七枚入った。理由は分からんまま」

「じゃあ、同じようにします」

 サヤさんは、そう言った。

 結果は、十六枚だった。

 去年より、一枚少ない。

 出席は百二十一人だったので、率でいえば下がっている。

 ――私は、その一枚を数えた。

 二年目に減るのは、当たり前だと思う。一年目は珍しいから入れる人がいる。二年目は、それが無い。

 サヤさんは、そこを気にしていた。

「減りましたね」

「減った」

「私が立っとったからですか」

 ――そう聞かれるとは、思っていなかった。

「ちがう」

 私は、はっきり言った。

「去年は、私が何もせんかった。今年は、あんたが何もせんかった。やったことは同じや

「じゃあ、なんで減ったんですか」

「分からん」

 ――そこは、本当に分からない。

「分からんけど、来年も置く。三年やったら、たぶん見える」

外浦

 二軒目の防災カフェが開いたのは、去年の七月だ。

 場所は、半島の先端に近い外浦。親戚が使わなくなった家を、あの会社が譲り受けた。

 家があって、その前に道路があって、道路を渡ると砂浜で、その先が海だ。

 ――夕日が、海に沈む

 開店の日に、私も行った。役場の車で行った。休みではない。この店は、私の受け持ちの行政区にある

 この一帯は、二〇二四年に孤立している

 道が三方向とも切れて、しばらく入れなかった。

 この家の話は、店に立つお母さんから聞いた。

 二〇二四年の元日、揺れたすぐあとに、電話がつながったらしい。こちらから、無事かどうかを聞くためにかけた。

 ――喋っている途中で、二回目が来た

 そこで、切れた。

「切れてから、何日でしたか」

「四日や」

 ――四日。

 結果を言うと、その人は無事だった。近くの集会場にいた。

「電話しとる最中に切れるいうんは、いちばんきついわ」

 お母さんは、そう言った。

「切れる前に喋っとったから、余計にな」

 ――私は、そこで手が止まった。

 連絡が取れない、というのは、二種類ある。

 最初から取れないのと、取れていたものが途中で切れるのだ。

 資料には、どちらも「通信途絶」と書く。同じ言葉で書く。

 同じではない。

「なんで、ここに店を出したんですかね」

 私がそう聞いたら、お母さんは、こう答えた。

「切れたとこやから、やと」

 ――それだけだった。

 切れた場所だから、そこに置く

 商売の理屈ではない。私の仕事の理屈に、近い。

 役場の資料には、この地区が「孤立可能性地区」として載っている。

 載っているだけで、そこから先が薄い。

 薄い理由は、はっきりしている。切れたあと、こちら側から何もできないからだ。

 道が無い。電話が無い。だから、開通するまで待つ。それが、いまの計画に書いてあることの、正直な中身だ。

 その真ん中に、電気と通信のある建物が一軒建った

 私は、コーヒーを飲みながら、頭の中で協定書を書いていた。

一 災害時、この店を一時的な地区拠点として使わせてもらう

二 役場の備蓄を、この地区の人数ぶん、ここに置かせてもらう

三 地区の名簿を、あらかじめ共有しておく

四 役場にもスターリンクを常設し、ここと直接つなぐ

 ――四つ目が、いちばん要る。

 役場のスターリンクは、いま無い。

 通信は、道と同じで、切れたら終わりだ。切れない線を一本、役場側に持っておかないと、この店に電気があっても、こちらから届かない

 予算は要る。年に何万円かの話ではあるが、要る。

 三つ目の名簿だけは、一年かかった。

 役場の名簿を店に渡すことはできない。扱いが重い。

 ――だから、管理する人を、地区の中に置くことにした。

 若者防災士会に、この地区の子が三人いる。二人は外に出ているが、一人は実家から通っている。

 その子に、名簿の更新を頼んだ。役場が渡すのではなく、地区の人が持っていて、店に置く

 この形にしたら、通った。

 ――一年かかったのは、私が「渡す」で考えていたからだ。

 「持っている人を置く」に変えるまでに、一年かかった。

 四つ目のスターリンクは、今年の予算で通った。

 課長は「金かからんしな」とは言わなかった。

 かわりに、こう言った。

「これ、切れんのか」

「切れません。空に向いとるので」

「道が切れても」

「切れても、つながります」

 課長は、しばらく黙って、それから「ほんなら、要るな」と言った。

三軒で一日

 三軒目は、能登島に決まった。納屋を一つ譲ってもらえることになって、この年の九月の終わりに開いた。

 ――ここは、逆になる。

 東を向いた土地で、水面から日が上がる。だから、朝六時に開けて、昼過ぎに閉める

 二軒目とは、開いている時間が正反対になる。

 三軒を並べると、こうなる。

三軒目(能登島) 朝   六時から

一軒目(志賀町) 昼   十時から

二軒目(外浦)  夕   日の入りの三十分後まで

 ――三軒で、一日がつながる

 狙って作ったわけではないらしい。土地の向きで、そうなった。

 どの店も、地元のお母さんに任せている。時給は三軒とも同じだ。

 そして、三軒とも、屋根の上に白い皿が載っている。

 私は、この三軒を、防災の側から見ている。

 ――役場の当直は、夜と朝がいちばん薄い

 人の数の問題ではない。制度がそうなっている。

 その薄いところに、開いている店がある。

 朝に能登島が開いていて、昼に一軒目が開いていて、夕方に外浦が開いている。

 協定を三軒と結べば、朝も夕も、どこかとはつながる。

 ――ケイリさんに、その話をした。

「三軒と結ばせてください」

「どうぞ」

 即答だった。

「条件は」

「無いです」

「……無い、ということは」

「うちは、店を防災のために作ってはいません」

 ケイリさんは、そう言った。

「作った理由は、展示場と、地区の人の時給と、切れた場所に置くこと。三つです。防災拠点にするのは、そちらが決めることです

「じゃあ、うちが勝手に使う形ですか」

「そうです。そのほうが、あとで揉めません

 ――そこは、うまく飲み込めなかった。

 飲み込めないまま、判を押した。

数えときます

 二〇四二年の十一月。訓練の日だ。

 名簿を数え直した。

 去年の秋のうちに、四十人が四十四人になった。一月のつどいで十六人入って、六十人。

 春に四人が年齢で抜けて、五十六人。夏と秋に、十八人入った。

 ――七十四人

 うち、この市に住んでいるのが十八人

 去年の四月に六人だった。一年半で、十二人増えた。

 増え方が、外の子より速い。

 理由は、はっきりしている。声をかける人が、ここにいるからだ

 私が七年やって六人だったものを、サヤさんは一年半で十二人にした。

 悔しくない、と言ったら嘘になる。

 ――でも、悔しさの中身が、四年前と違う。

 あのときは、自分が要らないと言われた気がしていた。

 いまは、自分より上手い人が出てきたことで悔しい。

 それは、たぶん、いいほうの悔しさだ。

 当日、この集落に来たのは、七十四人のうち九人だった。

 九人だ。

 三年前は五人、去年は六人。

 ――増えている。増えているが、七十四分の九だ。

 名簿の数と、来る人の数は、まったく別に動く。

 そこは、はっきりさせておかないといけない。

 白板には、両方書いた。

 『若者防災士会 七十四名 / 本日 九名』

 振り返りのあと、サヤさんが聞いてきた。

「アオイさん。この名簿、何人まで行くと思います?」

 ――私は、少し考えた。

 七年で七人だと思っていた人間だ。一日で十七枚入るとも思っていなかった。

 だから、答えるのが怖い。

 それでも、答えた。

「二百は行かんと思っとる」

「二百」

「うん」

「なんでですか」

「この市の若い世代、全部で千人くらいや」

「はい」

「そのうち二割が、名前だけでも書く、いうのは、たぶん多すぎる」

 ――上限を書く

 これは、あの会社のやり方だ。

 ケイリさんは一軒あたりの時間に上限を決めている。タクさんは「集落が全部点くのを目標にしない」と言う。

 目標にすると、点かない家が失敗になるからだ。

「じゃあ、二百で止まるんですか」

「止まらんかもしれん。私の見立てが外れとるだけかもしれん

「どっちですか」

「分からん」

 私は、正直に言った。

「けど、二年前、私は上限を七人やと思っとった」

 サヤさんは、そこで笑った。

「じゃあ、数えときます」

 ――数えときます

 その一言で、私はもう心配しなくてよくなった。

 私は今年の四月に、名簿から外れた。三十になった。

 外れても、若者防災士会そのものは無くならない。

 計画に書いてあるからだ。私が異動しても、辞めても、市が続くかぎり残る。

 ――そして、サヤさんがいる。

 四年前、ケイリさんに「役場にしか置けないものを、置いてください」と言われた。

 あのときは、断られたと思っていた。

 置いたのは、計画の一行と、名簿と、数える人だ。

 三つのうち、二つは紙だ。

 紙は、私が作った。

 残りの一つは、私が作ったのではない。

 あの子は、去年の六月に、教室で自分から喋っただけだ。

 夜、ミライさんに電話した。

「アオイです。七十四人。市内十八人。本日の参加、九人です」

「記録します」

「あの」

「はい」

「来年、私は名簿から外れます」

「はい」

「そのとき、記録はどうなりますか」

 少し間があって、ミライさんはこう言った。

残ります

「私が抜けても」

「抜けても残ります。アオイさんが入っていた七年ぶんも、外れたという行も、両方残します」

「……はい」

「アオイさん」

「はい」

「二〇三三年に、マコさんがホームページに二行書きました」

「知っています」

「あのとき、あの二行には中身がありませんでした。やっていないことを、目指すと書いただけです」

「はい」

「九年たちました」

 ――九年。

「上の行は、こども防災士会になりました。下の行は、名前が変わって、七十四人になりました」

「はい」

書いてあったから、九年後に数えられます

 電話を切って、外に出た。

 十一月の能登は、もう寒い。

 公民館の前に、椅子が四脚出したままになっていた。ソラさんが並べたやつだ。誰も片付けていない。

 私は、それを重ねて、中に入れた。

 ――七年間、私は一人だと思っていた。

 数えたら、六人いた。

 名前を変えたら、七十四人になった。

 どれも、私が思っていた数字ではない。

 思っていた数字が、一度も当たっていない

 それが、この七年で分かったことだ。

 だから、数えるのをやめない。

第六十話 ―― 外浦・能登島「夕日セット」

創作ノート(第五十九話・ネタバレを含む)
  • 分量:約6,803字
  • 時期:二〇四一年 四月〜二〇四二年 十一月
  • 登場:サヤ(市役所 新採用)/課長/ケイリ(No.4)/ミライ(No.1・電話)/外浦のお母さん/タジマ先生
  • 前話との接続:第五十八話の改名が、二年遅れで計画に正式に載る。第四十四話の二行が、九年後に数えられる形になる

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep59_aoi3_mirai2nd.md

第六十話

夕日セット

外浦・能登島

第三部 出ていった側

ミナト視点

登場
カイ(No.2)/ナギ(No.11)/エマ(No.18)/ミル・クエン(No.19)/ミライ(No.1・電話のみ)/アサミ/外浦のお母さん/ヒナ(大学四年)/地区の人たち
視点
ミナト(二十歳・大学二年/金沢/トメさんの孫・アサミの息子)
時期
二〇四二年 七月〜九月
  • ミライミライ
  • カイカイ
  • ナギナギ
  • エマエマ
  • ミル・クエンミル・クエン

住み込み

 大学二年の夏休みに、外浦の店でバイトをした。

 金沢から車で二時間半かかる。実家に帰って、そこからさらに四十分だ。

 ――時給は千五百円やった。

 金沢のコンビニより高い。理由を聞いたら「下げんことになっとる」と言われた。

 母の店(一軒目)でもよかったんやけど、母の下で働くのは、なんとなく嫌やった。

 それだけの理由で、遠いほうを選んだ。

 ただ、実家から四十分は、毎日やと無理や。

 初日にそう言うたら、あっさりこう返ってきた。

「上、泊まってええよ」

 この店は、二階が素泊まりになっとる。一泊が安い。もともと、そういう作りにしてある。

 ――そこに、タダで泊まらせてもらうことになった。

「ええんですか」

「掃除しといてくれたらええ」

 それだけやった。

 だから、実際の通勤はこうなる。

金沢のアパート → 実家(二時間半・帰省)

実家 → 外浦の店(四十分・車で一回だけ)

そのあと、店の二階(徒歩ゼロ分)

 ――夏のあいだ、ほとんど店で寝とった。

 朝、下におりたら職場や。

 「住み込み」というやつを、おれははじめてやった。

 都合が良すぎて、最初の一週間は落ち着かんかった。

 ただ、一つだけ問題があった。

 ――素泊まりや

 宿代はタダやけど、飯が付いとらん。

 朝も、昼も、晩も、無い。

 スーパーは車で三十分。コンビニは無い。

 初日の夜、おれは持ってきたカップ麺を食うた。二日目も食うた。

 三日目に、それを言うたわけでもないのに、こう言われた。

「あんた、飯どうしとるん」

「……カップ麺です」

「あかんわ。うち来まっし」

 ――それで、その晩は、その人の家で食うた。

 次の日、別のお母さんが「今日はうちや」と言うた。

 その次の日は、また別の家やった。

 気がついたら、日替わりでよその家の飯を食うとった

 晩だけやない。朝も呼ばれる。

 昼は、おにぎりを持たされる。誰かが必ず持ってくる。

 ――一か月、自分で作った飯は、ほとんど無い。

 断ろうとしたことは、一回だけある。

 「悪いんで」と言うたら、こう返された。

「そういうのはええから。作る量、変わらんし」

 ――変わらん、と言われたら、もう言うことがない。

 実際は、変わっとると思う。

 この地域の人らには、頭が下がる。

 ただ、向こうからすると、そんなに大したことをしとる感覚は無いらしい。

「金沢から、わざわざ来てくれとるんやろ」

 ――それだけで、嬉しいそうや。

 こっちは飯をもらって、向こうは若いのが来て嬉しい。

 どっちも得しとる。ウィンウィンというやつか。

 みんな、同じことを言う。

「あんた、うちの孫より立派やわ」

 ――これは、たぶん、社交辞令や。

 なぜかというと、うちのばあちゃんも、よその孫に同じことを言うとるからや。

 「あんたはうちの孫より立派や」と言うとるのを、おれは実際に聞いたことがある。

 みんな、よその孫を褒める。

 自分の孫は褒めん。

 ――それでも、悪い気はせんかった。

 血もつながっとらん。親戚でもない。

 なのに、正直に言うと、本物の親戚のおばちゃんらより、この夏で仲良うなった

 ――これが、能登の人間関係か。

 そう思った。

 外浦の店は、道路の向かいが砂浜や。

 スーパーまで車で三十分かかる。コンビニも無い。病院はもっと遠い。

 ――なんでこんなとこに店を出したんや、と最初は思った。

 初日に、店に立つお母さんに聞いた。

「ここ、不便すぎませんか」

「不便や」

 あっさり認められた。

「けど、不便なとこに置かんかったら、置く意味ないやろ」

 ――そう言われて、返せんかった。

電話が切れた家

 この家の話は、三日目に聞いた。

 二〇二四年の元日、この家に電話がつながったらしい。

 揺れたすぐあとや。無事かどうか聞くための電話やった。

 ――喋っとる途中で、二回目が来て、切れた。

 そこから四日、こちら側は何も分からんかった。

 その人は、無事やった。近くの集会場におった。

「四日、生きとるかどうか分からんかった」

「はい」

「あんなもん、二度とごめんや」

 お母さんは、そう言うて、それ以上は喋らんかった。

 その家が、いま店になっとる。

 譲り受けて、直したのが、うちの会社の人や。

 ――切れたとこやから、そこに置く

 あとで、あの人がそう言うたと聞いた。

 おれは、その話を聞いてから、店の見え方が変わった。

 夕日がきれいな店やと思っとった。

 そうやなくて、四日間つながらんかった場所に、切れん線を一本引いた、という話やった。

 屋根の上に、白い皿が載っとる。

 あれは景色を良くするためにあるんやない。

 この店は、道路を渡ったら砂浜や。

 開店は昼で、閉店は日の入りの三十分後。だから、朝が丸ごと空く

 ――住み込みで、目の前が海で、朝が空いとる。

 二日目には、板を借りて海に出とった。

 SUP や。立って漕ぐやつ。

 外浦は外海やから、日によっては波がある。凪の日は、鏡みたいになる。

 凪の朝に沖まで出て、板の上に座って、しばらく浮いとった。

 そこから見ると、店は小さい。屋根の白い皿だけが光っとる。

 一つだけ、はっきり言われとることがある。

 ――ここは海水浴場やない

 監視員はおらん。ブイも無い。旗も上がらん。

「泳いでもええけど、自分の責任や」

 初日に、お母さんにそう言われた。

「離岸流の日は、入るな」

「どうやって分かるんですか」

「見て分からんかったら、入るな」

 ――それが答えやった。

 やさしくないけど、正しいと思う。

 この辺で育った人は、それを子どものときから言われとる。おれもそうやった。

 夕方、客が「泳いでもいいですか」と聞いてくることがある。

 そのときは、そのまま伝える。海水浴場ではありません。自己責任です、と。

 言うと、たいてい、足だけ浸けて帰る。

 ――それでええと思う。

 海から上がったら、外の蛇口で塩を流す。

 水道と、井戸と、二つある。夏は井戸のほうが冷たい。

 頭からかぶる。それで終いや。

 ――シャワーは無い。

 濡れたまま、店の前のベンチに座って、海を見ながら乾かす。

 風があるので、十五分くらいで乾く。

 乾いたら、エプロンを着けて、店を開ける。

サザエ

 バイト三日目の朝、地区の人がサザエを持ってきた。

 バケツに入っとった。二十個くらいある。

「これ、使い」

「え、いいんですか」

「目の前で獲れるんやから」

 ――そういうところや。

 この店のメニューは、二つしかない。

 コーヒー二百円。コーヒーとスイーツで五百円。

 サザエは、そのどっちにも入っとらん。

 お母さんは、少し考えて、こう言うた。

「今日は、サザエで五百円にしよか」

「コーヒーとですか」

「コーヒーとサザエは、合わんやろ」

「合わんです」

「ほんなら、お茶や」

 ――その場で決まった。

 黒板に書いた。

本日 夕日セット 五百円

焼きサザエ + お茶

 夕日セット、という名前は、おれが書いた。

 深く考えてはいない。夕方の店やから、そう書いただけや。

 ――それが、そのまま定着した。

 八月に入って、いろんなものが来た。

 スイカが来た。トマトが来た。畑をやっとる人が、余ったやつを持ってくる。

 一回、鯖が来た。あれは店で焼くのが大変やった。

 ――そのたびに、五百円のセットの中身が変わる。

 コーヒーの日もあるし、お茶の日もある。夏は麦茶が多い。

 メニューは、相変わらず二つのままや。

 二百円か、五百円か。それだけ。中身は、その日に来たもので決まる

「これ、めちゃくちゃですよね」

 おれがそう言うたら、お母さんは笑うた。

「めちゃくちゃや」

「でも、成り立っとるんですね」

「成り立っとらん。赤字や」

 ――そこは、はっきり言われた。

五百円の行き先

 九月に、経理の人が来た。ケイリさんという人や。

 月に一回、帳簿を見に来るらしい。

 おれは、思い切って聞いた。

「この店、赤字なんですよね」

「赤字です」

「なんで続けるんですか」

 ケイリさんは、電卓を置いて、こう答えた。

「三つあります」

「はい」

「一つ。ここは展示場です。屋根の上のものを、見て、触ってもらうため」

「はい」

「二つ。ここは、災害のときに開いている場所です。それは売上に出ません」

「はい」

「三つ」

 ――そこで、少し間があった。

五百円のうち、いくらかが、この地区の人の時給になります

「……時給」

「サザエを持ってきた人には、お金は払っていません。持ってきた人の隣の家の人が、ここで働いています

 おれは、そこでやっと分かった。

 この店は、地区の中で金を回しとる。

 外から来た客の五百円が、地区のお母さんの時給になって、その家で使われる。

「それでも足りません。だから赤字です」

「足りんぶんは」

「会社が出します」

 ケイリさんは、そこであっさり言うた。

うちは、去年から利益が出ています。出たぶんを、ここに入れています」

朝の店

 九月の終わりに、三軒目が開いた。

 能登島や。おれも手伝いに行った。

 ――こっちは、朝日が見える。

 東を向いた土地で、水面から日が上がる。だから、朝六時に開けて、昼過ぎに閉める。

 外浦とは、開いとる時間が正反対や。

 初日、五時半に着いたら、もう地区の人が三人おった。

「早いですね」

「畑の帰りや」

 ――五時半が帰りらしい。

 朝の客は、夕方の客と、全然ちがう。

 夕方は、海を見に来た人が多い。写真を撮る。

 朝は、地区の人しか来ん。写真は撮らん。座って、喋って、帰る。

 同じ会社の同じ形の店で、来る人が入れ替わる。

 ――土地の向きで、そうなる。

 こっちも、目の前が海や。

 ただし、砂浜やない。岩場や。

 板を担いで下ろせる場所が、一か所だけある。地元の人に教えてもらった。

 外浦とちがって、内海やから穏やかや。

 ――そして、水が透けとる

 板の上から下を見ると、底が見える。岩と、海藻と、魚が見える。

 外浦では、こうはならん。

 地元の人が「運がええとイルカ見えるよ」と言うた。

 ――三回入って、二回目に見た。

 二頭おった。遠かったけど、背びれが二回出た。

 しばらく、板の上で座っとった。

 水が透けとるので、下のものが、全部見える。

 ――サザエがおる。

 岩の陰に、いくらでもおる。

 手を伸ばせば届く深さや。

 でも、獲らん。

 漁業権が無いからや

 獲ったら密漁になる。それは、この辺で育った人間なら、小学生でも知っとる。

 ――正直に言うと、獲ってみたい。

 目の前におって、手が届いて、誰も見とらん。

 それでも、やらん。

 超えたらあかん線は、超えとらん。

 ――そういう線があることも、この辺におると自然に覚える。

 そのかわり、店に立っとると、近所の人が持ってくる。

 黙っとっても持ってくる。バケツで来る。

 おれは、獲るより食うほうが専門や。

AI教室

 三軒目が開いた次の週に、変なイベントがあった。

 黒板に、こう書いてあった。

第一回 パソコンとAIの教室

九月二十八日(日)十時〜十二時

だれでも/無料/持ち物なし

 ――AIの教室

 この辺で、いちばん縁の無さそうな言葉や。

 当日、十四人来た。いちばん上が八十いくつ、いちばん下が小学三年やった。

 教えとるのは、うちの会社の人や。

 カイさんと、エマさんと、ミル・クエンさんが来とった。ナギさんもおった。

 最初の三十分で、おれは自分の思い込みに気づいた。

 難しい話を、易しく説明するイベントやと思っとった。

 ――ちがった。

 カイさんは、最初にこう言うた。

「今日は、使い方は教えません

「え」

「使ってもらいます。説明はあとです」

 それで、八十いくつのじいさんに、いきなり喋らせた。

 相手はミル・クエンさんや。

「なんでも聞いてください。まちがえます」

「まちがえるんか」

「まちがえます。だから、まちがえたら言うてください」

 ――じいさんは、それで喋りはじめた。

 最初は「今日の天気」やった。次が「稲の刈り時」やった。

 三十分後には、去年の米の値段と、来年の見込みを聞いとった。

 途中で一回、ミル・クエンさんが数字をまちがえた。

 じいさんが「ちがう」と言うた。

 ミル・クエンさんが「すみません。訂正します」と言うた。

 ――それで、じいさんの顔が変わった

 あとでナギさんが、おれにこう言うた。

「あれが、いちばん大事なとこや」

「まちがえたことがですか」

まちがえて、直したことや

 教室が終わったあと、おれはカイさんに聞いた。

「これ、なんでやってるんですか」

「面白いから」

 ――即答やった。

 それから、こう続けた。

「あと、たぶん、この辺の人は『こういうのは都会のもんや』と思っとる」

「思っとります」

「思っとるやろ。おれも最初そう思っとった」

 カイさんは、窓の外を指した。

 畑と、海と、家が十軒くらいしか見えん。

「ここ、光の線が一本も来とらんかった時期があるんやわ」

「知っとります」

「いま、あの皿一枚で、世界中どこともつながっとる」

 ――屋根の上の白い皿や。

「うちの会社、この能登で、これだけのことをやっとる」

「はい」

場所は、もう理由にならん

 その言い方に、力みは無かった。

 自慢でもなかった。ただの事実として言うとった。

立ち話と、防災力

 金沢のアパートの話をする。

 学生向けのアパートで、二階建て、八部屋ある。

 ――隣に誰が住んどるか、おれは知らん。

 一年と少し住んで、知らん。

 どこの学部の、何年生かも知らん。名前も知らん。

 会ったら会釈する。それだけや。立ち話はせん。

 向こうもせん。たぶん、そういうものやと思っとる。

 ――気楽や。

 本当に気楽で、おれはそれを不満に思ったことが一度も無い。

 こっちは、逆や。

 店から郵便局まで、歩いて七分かかる。

 その七分で、たいてい二人か三人につかまる。

「あんた、誰んとこの子や」

「トメさんの孫です」

「ああ、あそこの。母さん、店やっとるやろ」

 ――そこから十分喋る。

 用事は郵便局に行くことやったのに、往復で四十分かかる。

 最初の一週間は、正直、面倒くさかった。

 ――都会は、人間関係が薄い。

 薄いのを気楽やと思う人がおる。

 薄いのを寂しいと思う人もおる。

 後者は、たぶん、この辺の人や。

 八月の終わりに、ナギさんが店に来た。

 この人は、集落をずっと回っとる。もう七十近い。

 おれが「郵便局まで四十分かかりました」と言うたら、笑われた。

「それ、大事なことやよ」

「大事ですか。用事、進まんですけど」

「進まんね」

 ――そこは否定されんかった。

「けど、あんた、その四十分で何人と喋った」

「三人です」

「その三人は、あんたがどこにおるか、いま知っとる」

 ――そこで、少し止まった。

「三日おらんかったら、誰か言うよ」

 ――そこで、おれは飯のことを思い出した。

 この一か月、おれは日替わりでよその家の飯を食うとる。

 昨日はどこ、一昨日はどこ、と言える。

 逆に言うと、向こうも、おれが昨日どこにおったかを知っとる

 誰も名簿を作っとらん。

 誰も記録しとらん。

 それでも、おれが三日おらんかったら、たぶん三日目に誰かが店に来る。

「ナギさん」

「うん」

「おれ、この一か月、毎晩よその家で飯食うとります」

「知っとる」

 ――知っとった。

「そういうことや」

 ナギさんは、それだけ言うた。

 おれは、この会社の「防災」を、ずっとモノの話やと思っとった。

 蓄電池。太陽光パネル。ポータブル電源。発電機。スターリンク。

 どれも、うちにも、店にも入っとる。

 それが揃っとるから強い、と思っとった。

 ――ちがった。

「ミナトくん。うちの会社が、いちばん時間かけとるもんは何や」

「……機械の説明ですか」

「ちがう」

 ナギさんは、湯呑みを持ったまま言うた。

台所に上がって、湯呑み出されて、一時間喋ることや

 ――一時間。

「機械は、金があったら明日にでも置ける。あれは、置いた日から効く」

「はい」

「けど、あんたが三日おらんかったら誰かが言う、というやつは、金では置けん」

「はい」

「あれは、何年もかけて、喋って、溜まったもんや」

 ナギさんは、そこで一回、外を見た。

「機械は、それの上に載せるもんや。逆やない」

 ――逆やない。

 おれは、そこでやっと、六年前のノートの意味が分かった気がした。

 軒数やないほうを書いとき、と言われて、麦茶の濃さを書いた。

 あれは、記録の話やと思っとった。

 ちがう。あれ自体が、防災の道具やった

 麦茶を覚えとる人間が集落におる、というのが、そのまま力になる。

 カイさんに言われた「場所は、もう理由にならん」は、たしかに本当や。

 線は、皿一枚で引ける。

 ――でも、それだけやったら、たぶん足りん。

 線を引いても、その先に知っとる人がおらんかったら、誰にもつながらん

 金沢のアパートに、いちばん速い回線を引いてもらったとする。

 それでも、おれは隣の部屋の人の名前を知らん。

 三日おらんくても、誰も言わん。

 ――機械では、そこは埋まらん。

 おれは、そのとき、少しだけ自分の将来のことを考えた。

 大学は工学部や。まだ二年で、何をやるかは決まっとらん。

 金沢か、東京か、それより外か。

 ――どこかへ行くつもりで、いた。

 行かなあかん、と思っとった。ここには何も無いから、と。

 今日、その前提が一つ崩れた。

 世界最先端のことを、ここでやっとる人がおる

 しかも、それを仕事にしとる。

 ――行くのは、いい。

 ただ、行かんかったら終わり、ではない

 その一行が増えただけで、おれの選択肢は倍になった。

ノート

 金沢に戻る前の日に、実家でノートを出した。

 六年前に書きはじめたやつや。

 中学二年の秋に、ナギさんに「軒数やないほうを書いとき」と言われて、書きはじめた。

 ――一ページ目は、四行しかない。

麦茶。うすい。夏に必ず出る

ゴン。茶色。吠えん

玄関の椅子。パイプの。座布団が青

大きくなったな。正月だけ

 いまは、七十一行ある。

 六年で七十一行や。多いとは思わん。

 ――そのうち、二十二人は、もうこの世におらん。

 十九人は、よそに行った。

 残りが、まだおる。

 ノートは、そこを分けて書いてある。三年前に、マモルさんに「数字は出す場所を選ぶ」と言われてから、そうしとる。

 そのノートの、いちばん後ろに、去年から新しい欄を作った。

 名前の欄やない。

外浦  サザエ(八月) スイカ(八月) 鯖(一回)

能登島 朝五時半に来る人 三人

一軒目 座敷に注文せんと座る人 いつも二、三人

 ――これも、軒数やないほうや。

 役に立つかは分からん。

 六年前と同じで、分からんまま書いとる。

 最後のページに、今年、一行足した。

ここでも、世界最先端のことができる(AI教室・九月二十八日・十四人)

 書いてから、しばらく見とった。

 これは、人の名前やない。

 人の名前やないけど、この集落に在るものや。

 だから、書いた。

 ――ナギさんは「役に立つかどうかは、あとで決まる」と言うた。

 あとで決まる。

 おれは、そのあとを、まだ見とらん。

第六十一話 ―― ミナト編(第四部・受け取る側)

創作ノート(第六十話・ネタバレを含む)
  • 分量:約7,317字
  • 時期:二〇四二年 七月〜九月
  • 登場:カイ(No.2)/ナギ(No.11)/エマ(No.18)/ミル・クエン(No.19)/ケイリ(No.4)/アサミ/外浦のお母さん
  • 備考:第三部 完。★ 「切れたとこやから、そこに置く」(外浦の由来=二〇二四年に通話中に切れて四日つながらなかった家)。★ 夕日セット=地区の人が持ち寄ったものを飲み物とセットで五百円にし、その一部が地区のお母さんの時給に還る。★ AI教室=AIが「使い方」ではなく「使ってもらう」形で教え、まちがえて訂正するところを見せる。★ 締めの主題=場所は、もう理由にならない/第五十話のノートが四行から七十一行になり、最後に一行足される

原稿:data/proposals/2026-08-16_novel_ep60_minato2_mirai2nd.md

第六十一話

止まったとき、誰が来るか

金沢

第四部 受け取る側

ミナト視点

登場
ミライ(No.1・電話とメッセージ)/ナギ(No.11)/アサミ(母)/アパートの住人たち/会社の面接官
視点
ミナト(二十一歳・大学三年/金沢/トメさんの孫・アサミの息子)
時期
二〇四三年 四月〜二〇四五年 四月
  • ミライミライ
  • ナギナギ

三年目

 二〇四三年の四月に、おれは大学三年になった。

 工学部の電気電子工学科や。二年のときに専攻を選ぶことになっとって、消去法で選んだ。

 ――消去法や、と自分では思っとった。

 機械科でも情報科でもよかった。何となく電気にした。

 その程度の決め方でも、三年になれば就職の話が始まる。

 四月の最初のゼミで、先生が言うた。

「そろそろ、業界だけでも決めといてください」

 まわりが手帳を出した。

 おれは、出すものが無かった。

 金沢のアパートに戻って、母にメッセージを送った。

『就職の話が始まった』

『そう』

『こっち(金沢)で探すことになると思う』

 ――返事が、少し遅かった。

『わかった。好きにしね』

 それだけやった。

 母は店をやっとる。志賀町のカフェで、もう八年になる。

 帰ってこいとは、一度も言われたことがない。

何がしたいか

 六月に、合同説明会に行った。

 体育館みたいなところに、机が百くらい並んどる。

 スーツの学生が、番号札を持って並ぶ。

 ――おれは、どこにも並ばんかった。

 並ぶ前に、何を聞けばいいか分からんかったからや。

 パンフレットだけ十枚もらって、帰った。

 一つだけ、話を聞いた机がある。

 人が並んどらんかった机や。

 座ったら、五十くらいの人が出てきて、いきなり聞かれた。

「君、何がしたいん」

「……まだ、決まっとらんです」

「正直やな」

 その人は笑って、パンフレットを閉じた。

「ほんなら、逆に聞くわ。いままでで、いちばん困ったことは何や

 ――おれは、そこで詰まった。

 困ったこと。

 最初に思い出したのは、六歳のときや。地震で、家に電気が来んかった日のことやった。

 けど、それを言うのは違う気がした。

 あのとき困っとったのは、ばあちゃんと母や。おれは、横におっただけや。

「……ないです」

「そうか」

 その人は、それ以上聞かんかった。

 帰りの電車で、ずっと考えとった。

 おれは、困っとる人を見とっただけや。

 同じゼミの男に、あとで聞かれた。

「お前、どこ受けるん」

「まだ決めとらん」

「田舎、帰らんのか」

 ――そう聞かれたのは、その年で三回目や。

 みんな、悪気は無い。能登から来た、と言うと、たいてい次にそれを聞く。

「帰るとこ、あるんやろ」

「ある」

「ええな。おれ、無いわ」

 その男は、そこで話を終えた。

 ――おれは、そこから先を考えとらんかった。

 帰るところがある、というのは、選択肢が一つ多いという意味やない。

 選ばんと決まらん、という意味や。

三時間

 二〇四三年の十二月に、金沢が停電した。

 夕方の五時すぎから、三時間。雪やった。

 おれのアパートは、二階建てで八部屋ある。

 ――暗くなって、はじめて、隣に人がおるのが分かった。

 壁の向こうで物が落ちる音がした。誰かが階段を降りていく音がした。

 一年半住んで、一度も聞いたことがない音や。

 おれは、スマホの明かりで部屋を見た。

 電気が要らんものが、一つも無かった。

 冷蔵庫。電子レンジ。エアコン。ルーター。

 風呂は追い焚きができん。トイレは流れたが、それは水道が生きとったからや。

 スマホの電池は、六十パーセントあった。

 ――六十パーセントで、心細くなった

 ――そこで、外浦の店のことを思い出した。

 去年の夏に住み込みで働いた店や。

 あそこは、こういう日に止まらん。

 屋根にパネルがあって、裏に蓄電池と発電機がある。雨水のタンクもある。

 おれは、それを「置いてある」としか思っとらんかった。

 置いてあるから、止まらん。当たり前や。

 ――当たり前やなかった。

 置いてあっても、誰かが見に行かんかったら、いつか止まる。

 三時間、暗い部屋に座って、そのことをずっと考えとった。

 八時すぎに、電気が戻った。

 部屋が急に明るくなって、冷蔵庫が「ぶうん」と鳴った。

 ――誰が直したんやろ、と思った。

 あとで見たら、雪の重みで電線が切れた、と出とった。

 切れたところに、誰かが行ったということや。その日の夜、雪の中を。

 ――説明会で聞かれたことの答えが、そこにあった。

 いままでで、いちばん困ったこと。

 さっきや。三時間、何もできんかった。

貼った紙

 停電の翌日、おれはコピー用紙に八つ、四角を書いた。

 部屋番号を入れて、こう書いた。

一〇一 電気 ある/ない

一〇二 電気 ある/ない

(以下、八部屋ぶん)

 それを、階段の壁に貼った。

 ――誰も来んやろ、と思っとった。

 次に停電したとき、自分のところに丸を付けるだけでいい。

 それだけの紙や。

 三月に、また停電した。今度は一時間で戻った。

 紙を見に行ったら、五つ丸が付いとった

 おれのを入れて六つ。八部屋のうち六部屋に、人がおった。

 一年半、誰もおらんと思っとった建物に、六人おった。

 ――そのうちの一人が、鉛筆で下に書き足しとった。

二〇二 ブレーカー落ちただけでした

 落ちただけ。上げたら点いた、ということや。

 おれは、その一行を三回読んだ。

 ――この人は、上げ方を知っとった

 知らんかったら、一時間、暗いままやった。

 その週の日曜に、ナギさんから電話が来た。

 用事は別のことやったが、ついでに紙の話をした。

「アパートに紙を貼ったら、六部屋おりました」

「六人おったんか」

「はい。一年半、誰もおらんと思っとりました」

 電話の向こうで、ナギさんが笑うた。

「あんた、去年、郵便局まで四十分かかったやろ」

「かかりました」

「あれと同じや」

「同じですか」

「同じや。あんたが、数えられる人になっただけ

 ――そうやろか、と思った。

 紙を貼っただけや。喋ってもおらん。顔も知らん。

「顔、知らんですよ」

「知らんでええ。おるか、おらんかが分かれば、それでええんや

三年、と書いてある

 二〇四四年になった春休みに、うちの会社のホームページを見た。

 うち、というのは、みらい防災不動産のことや。

 おれは十一歳のときからこの会社を見とる。母の店も、この会社の店や。

 ――採用のページがあった。

 六年前から、同じ文が載っとる。

卒業してすぐ、うちに入りたいという方へ。

お断りしています。

それぞれの場所で、最低三年、社会人をやってください。

そのうえで、独立するか、うちと組むか、選んでください。

どちらでも歓迎します。

 ――何回も見たことがある文や。

 けど、その日まで、自分のこととして読んだことは無かった。

 お断りしています

 おれは、そこで少し笑うた。

 ずるい書き方や、と思った。断っとるのに、拒まれた感じがせん。

 ミライさんに、メッセージを送った。

『あの文、いつからですか』

『二〇三七年からです』

『ぼくが十五のときや』

『はい』

『変える予定は』

『ありません』

 ――即答やった。

『理由を聞いてもいいですか』

『三年たたないと、うちが何をやっているか分からないからです』

『中におっても分からんのですか』

中にいると、いちばん分かりません

盤を触らせてくれますか

 四年になった六月に、金沢の電気工事会社を三つ受けた。

 どれも、社員が三十人から六十人くらいの会社や。

 ――面接で、おれは同じことを一つだけ聞いた。

「一年目から、盤を触らせてもらえますか」

 一社目は「まずは現場を覚えてもらいます」と言うた。

 二社目は「安全のこともあるので」と言うた。

 三社目の面接官は、少し黙って、こう言うた。

「触るよ。ただし、写真を撮ってからな」

「写真」

「開ける前に撮る。触った後にも撮る。二枚要る」

 ――二枚

 おれは、その言い方を知っとった。

 うちのケイリさんが、見積を二枚出す人や。

「なんで二枚要るんですか」

「一年後に、自分が何をしたか、自分で分からんくなるからや」

 その会社に決めた。

 もう一つ、言うとかんといかんことがある。

 三社のうち一社は、七尾に営業所がある会社やった。

 能登の仕事が多い。実家にも近い。

 ――そこは、おれが自分で外した。

 近いところから始めたら、たぶん、三年たつ前に呼ばれる。

 呼ばれたら、行ってしまう。

 近いところでやったら、三年が三年にならん。

 理屈は通っとらんかもしれん。

 けど、そこは自分で決めたかった。

 母に電話した。

「金沢の会社に決まった」

「そう」

「電気工事の会社や」

 ――そこで、少し間があった。

「あんた、うちに来るんやと思うとった」

「入れんのや。三年たたんと」

「……ああ。あれか」

「うん」

「ほんなら、しゃあないね」

 母は、それで終わりにした。

 ――止められんかった

 止めてくれたら楽やった、とは思わん。思わんかった。

筆記と技能

 その秋に、第一種電気工事士を受けた。

 筆記が十月、技能が十二月や。

 技能は、決められた時間内に、決められたものを作る試験や。

 ――手を動かす試験を受けるのは、はじめてやった。

 練習は、アパートの床でやった。

 ケーブルの切れ端が毎日出る。ゴミ袋が二週間で一つ埋まる。

 隣の部屋に音が響くから、夜九時でやめることにした。

 その時間の決め方は、外浦の店で覚えた。あそこは、日の入りの三十分後に閉める。

 ――時間は、自分で決めんと、決まらん。

 合格の通知が来たのは、二〇四五年の一月や。

 うれしかったが、一つ分かったことがある。

 受かっても、免状は出ん

 第一種は、実務経験が三年要る。三年働いて、はじめて免状が下りる。

 紙に受かるのと、紙をもらうのは、別や。

 ――三年。

 また、三年やった。

 その冬に、もう一冊、本を買うた。

 電験三種の本や。

 一年目からやる必要は無い。

 無いが、三年あるなら、埋めるものがあったほうがええ。

 四科目ある。理論、電力、機械、法規。

 一科目ずつ受かればよくて、三年かけて全部そろえた人がおる、と書いてあった。

 ――その年、三年という言葉を三回聞いた。

言わんでもよかったこと

 二〇四五年の三月に、卒業した。

 式のあと、金沢のアパートで荷物をまとめながら、ミライさんにメッセージを送った。

『四月から、金沢の電気工事会社に入ります』

 ――送ってから、言う必要が無いことに気づいた。

 うちに入るわけやない。会社に報告する義理は、どこにも無い。

 それでも、送った。

 返事は、すぐ来た。

『ありがとうございます』

『いや、報告する立場やないんですけど』

立場は関係ありません

『そうですか』

『三年後の四月に、あらためてご連絡します』

 ――そこで、手が止まった。

 こっちは何も約束しとらん。向こうも何も約束しとらん。

 なのに、日付だけが決まった。

『覚えとってくれるんですか』

記録します

 それだけやった。

四月一日

 二〇四五年の四月一日。

 金沢の会社に入った。二十三歳や。

 配属は工事部で、最初の現場は市内のビルの改修やった。

 ――一日目に、盤を開けた。

 開ける前に、写真を撮った。

 先輩が横で見とって、「ええ癖や」と言うた。

 癖やない。約束や。

 その日の夜、アパートに帰って、階段の壁を見た。

 二年前に貼った紙が、まだあった。

 丸は六つのままや。誰も増えとらんし、誰も剥がしとらん。

 ――紙は、置いたら残る。

 誰も見んでも残る。要るときにだけ、見られる。

 外浦の屋根のパネルと、同じや。

 置いてあるだけでは足りん。止まったときに、誰かが来る。それで足りる。

 おれは、まだ誰のところにも行けん。

 一年目や。何も知らん。

 ――三年、と書いてあった

 だから、三年やる。

第六十二話 ―― アオイ編「置いたので」(第四部・受け取る側)

創作ノート(第六十一話・ネタバレを含む)
  • 分量:約4,380字
  • 時期:二〇四三年 四月〜二〇四五年 四月
  • 登場:ミナト(二十一〜二十三歳)/ミライ(No.1)/アサミ(母)/会社の面接官/アパートの住人
  • 備考:第四部の第一話。第六十話 §八「隣に誰が住んどるか、おれは知らん」の返し=停電の夜に貼った紙(八部屋のうち六部屋に人がいた)。★ 比喩はブレーカー(上がっとるか落ちとるか/第九話「上から三本目」と対)。★ 発明は階段の壁の紙。★ 三年ルールを自分ごととして読む回で、止めてくれる人が一人もいない(母も止めない)。★ 「二枚撮る」はケイリの見積二枚と同じ形で、ミナトはそれを知っている。★ タクとは会わない(初対面は第六十四話 §五「俺より紙は持っとるな」)。★ 第一種電気工事士は受かっても免状は三年後=第六十四話 §五「うちの三年と、国の三年が同じ四月に揃う」の伏線

原稿:data/proposals/2026-08-17_novel_ep61_minato3_mirai2nd.md

第六十二話

置いたので

役場

第四部 受け取る側

アオイ視点

登場
サヤ(二十二歳・役場 五年目)/課長/ケイリ(No.4・電話のみ)/ミライ(No.1・電話のみ)/マモル(No.8)/外浦のお母さん
視点
アオイ(三十三歳・役場 防災担当/十年目)
時期
二〇四五年 二月〜十一月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ
  • マモルマモル

内示

 二〇四五年の二月に、内示が出た。

 四月から、税務課だという。

 ――防災担当は、十年目だった。

 二〇三五年の四月に入って、最初の配属がここで、そのまま動かなかった。

 役場では珍しいことらしい。ふつうは三年か四年で回る。

 私が動かなかったのは、動かす理由が無かったからだ。ほかにやる人がいなかった。

 その理由が、今年は無くなった。

 課長が、内示の紙を渡しながら言った。

「悪いな。防災は、そろそろ人を替えとかんといかんのや」

「はい」

「一人に十年やらせると、その人が辞めたときに全部消える」

 ――正しい。

 その通りだと、私は思った。

 正しいことを言われて、私は「はい」としか言えなかった。

 紙を持って席に戻って、椅子に座った。

 ――辞めよう、と思ったのは、そのときだ。

 三十秒もかかっていない。

 自分でも驚いた。十年いた場所を出るのに、三十秒で足りるとは思っていなかった。

 驚いてから、理由を探した。

 探したら、七年前に置いてあった。

計画を開く

 その日の夜、庁舎に残って、地区防災計画を開いた。

 七年前に、私が一行だけ書き込んだものだ。

地域防災の担い手として、若者防災士会と連携する。

(会員の居住地は市内外を問わない)

 五年前に、名前が「学生」から「若者」に変わった。

 三年前に、計画の改定でその名前が正式になった。

 ――私の名前は、どこにも無い

 書いてあるのは、会の名前と、括弧の中の一行だけだ。

 異動しても残る。辞めても残る。市が続くかぎり残る。

 そう作った。そう作ってくれと言われて、そう作った。

 七年前、ケイリさんにこう言われた。

『役場にしか置けないものを、置いてください』

 あのとき私は、断られたと思って泣いた。

 役場の駐車場で、エンジンを切らずに座っていた。

 ――七年たって、同じ文を、別の意味で読んだ。

 置いたから、出られる

 順番が、そうなっていた。

言う順番

 辞めると決めてから、誰に先に言うかで三日かかった。

 課長が筋だ。それは分かっている。

 ――けれど、先にサヤさんに言った。

 二月の終わり、庁舎の給湯室で、立ったまま言った。

「サヤさん。私、三月で辞めます」

 サヤさんは、紙コップを持ったまま、しばらく動かなかった。

「……異動じゃなくて」

「辞めます」

「税務課、嫌なんですか」

「嫌じゃないです」

 ――そこは、本当だった。

 税務課が嫌で辞めるのなら、私はたぶん辞めない。

「じゃあ、なんでですか」

「置いたので」

 サヤさんは、意味が分からないという顔をした。

 分からなくていい。私も、七年かかった。

辞表

 三月の頭に、課長のところへ行った。

 辞表は、前の日の夜に書いた。書き直しは一回もしなかった。

「辞めます」

 課長は、紙を見て、それから私を見た。

「税務課が」

「違います」

「ほんなら、なんでや」

 ――ここでも、同じことを言った。

「置いたので」

「置いた」

「計画に、会のことを書きました。私がいなくても残ります」

 課長は、しばらく黙っていた。

 それから、こう言った。

「あんた、それ、七年前から準備しとったんか」

「してません」

 ――していない。

 七年前は、ただ言われたとおりに書いただけだ。

 書いたものが自分を逃がす、とは思っていなかった。

「まあ、そうか」

 課長は、それで受け取った。

 止められると思っていた。止められなかった。

 ――「役場にいてください」と言われたのは、七年前の一回だけだった

 しかも、言ったのは役場の人ではなかった。

 その週に、マモルさんに電話した。うちの会社の、防災の人だ。

「アオイさん、辞めるんやってな」

「はい。もう聞かれましたか」

「ケイリから」

 ――早い。

「止めますか」

「止めん」

 即答だった。

「なんでですか」

役場を辞めるのと、防災をやめるのは、別のことやから

 私は、そこで少し黙った。

「マモルさん。私、儲からんと思います」

「儲からんよ」

 ――これも即答だった。

「二十年やっとるけど、防災の相談で金をもろたこと、ほとんど無い」

「じゃあ、どうやって」

「うちは、直す人がおるからな」

 電話の向こうで、少し間があった。

「アオイさんとこには、おらんやろ」

「おりません」

そこだけ、覚えとき

 ――そのときは、意味が半分しか分からなかった。

引き継ぎ

 三月は、引き継ぎで終わった。

 サヤさんは五年目になる。二十二歳だ。

 ――私が渡したものは、三つある。

一 名簿(若者防災士会・八十一人/うち市内二十一人)

二 空振りの記録(広報紙・七件/その他・十一件)

三 会わせる順番の紙

 三つ目が、いちばん手間だった。

 誰と誰を先に会わせるか。誰は電話で足りて、誰は玄関先まで行かないと通らないか。

 紙に書けることではない、と七年思っていた。

 ――今年、はじめて書いた。

 書いてみたら、A4で二枚あった。

「二枚しかないんですね」

 サヤさんが、そう言った。

「二枚もある、と思ってました」

「私は、二枚しかない、と思います」

 ――そう言われて、私は口をつぐんだ。

 この人は、増やす人ではない。全員に会う人だ。

 二枚しかないのなら、残りは自分で会って覚える、という意味だった。

三月三十一日

 最後の日は、ふつうの日だった。

 午前中に窓口が三件。午後に、備蓄の入れ替えの立ち会いがあった。

 ――花束は、断った。

 断ったのに、課長が一本だけ持ってきた。

「一本なら、荷物にならんやろ」

 その言い方が、この人らしかった。

 帰りに、名簿の紙を一度だけ開いた。

 私の名前は、そこには無い。

 ――三年前の四月に、外れている

 三十になった年に、条件から外れた。

 外れた日、私は自分で自分の名前に線を引いた。消さずに、線だけ引いた。

 消さないことにしてある。それは、私が決めたことだ。

 あの日から三年、私は名簿の外にいて、名簿を数えていた。

 今日から、数えるのもやめる。

 ――駐車場で、泣かなかった。

 七年前と同じ場所で、同じようにエンジンを切らずに座って、それだけ確かめて帰った。

机一つ

 四月に、会社を作った。

 防災コンサルティング、と名乗ることにした。ほかに言いようがなかった。

 事務所は、七尾の古いビルの三階だ。六畳ないくらいの部屋で、月に二万八千円。

 ――机一つと、椅子一つ。

 プリンタは中古を買った。棚は、実家から運んだ。

 登記の書類は、ケイリさんに一度だけ見てもらった。

『これで通ります』

『ありがとうございます』

『アオイさん』

『はい』

最初の年は、たぶんゼロです

 そう書いてあった。

三か月

 ゼロだった。

 四月、五月、六月。請求書を一枚も出していない。

 ――相談は来た。

 電話で四件、訪問で二件。全部、無料で終わった。

 計画の書き方を聞かれる。訓練の回し方を聞かれる。名簿の作り方を聞かれる。

 私は、知っていることを全部言った。

 言い終わると、相手は「助かりました」と言って、それで終わる。

 ――それで終わって、いい、と思っている自分がいた。

 そこが、いちばん困ったところだった。

 六月に、外浦のお母さんから電話が来た。珠洲の店の人だ。

 用件は、名簿の子たちが夏に来る話だった。話が終わってから、こう聞かれた。

「アオイちゃん、役場やめたんやってね」

「はい」

「ほんで、いくらもらうがや」

 ――そう聞かれて、答えられなかった。

「……今回は、いいです」

「よくない」

「いや、電話ですし」

「あんた、それやっとったら、続かんよ」

 その人は、それだけ言って切った。

 ――続かんよ

 金の話をされたのは、独立してから、それが最初だった。

 役場にいたときは、誰も言わなかった。言う必要が無かったからだ。

 七月に、はじめて請求書を出した。

 県外の自治体から、地区防災計画の点検を頼まれた。三日ぶんの仕事だ。

 金額を決めるのに、二時間かかった。

 ――高いと思われるのが怖いのではない。

 この仕事に値段が付くことが、まだ信じられなかった

 振り込みがあったのは、八月の末だった。

 通帳を見て、私は、少し笑った。

 金額のことではない。入口に、はじめて金が付いたことがおかしかった。

数えました

 十月に、マモルさんから、もう一本電話が来た。

「県の防災士会、理事を一人入れたいらしいわ」

「はい」

「あんたの名前、出しといた」

「……勝手にですか」

「勝手にや」

 ――止める間もなかった。

「なんで私ですか」

「若いから」

 それだけだった。私は三十三で、理事の中ではたぶんいちばん下になる。

「マモルさん。理事って、お金は」

「出んよ」

「出んのですか」

出んけど、名前が付く

 ――名前が付く。

 その言い方は、七年前にケイリさんから聞いたものと、少し似ていた。

 置いたものは残る。付いた名前も、たぶん残る。

 引き受けます、と言った。

 十一月に、サヤさんから電話が来た。

 訓練の日だ。私はもう、市の訓練には呼ばれない。

「アオイさん」

「はい」

「今年、市内が二十四人になりました」

 ――二十四人。

 三月に渡したときは、二十一人だった。

 八か月で、三人増えている。

「増えましたね」

「増えました。……あの、報告する義理は無いんですけど」

「ありますよ」

 私は、そう言った。

「無いです。アオイさん、もう役場の人やないんで」

「じゃあ、聞きたいから聞いてる、ということにしてください」

 電話の向こうで、サヤさんが笑った。

「じゃあ、来年も言います」

「はい」

数えときます

 ――三年前に、同じ言葉を聞いた。

 あのとき、私はそれで心配しなくてよくなった。

 いまも、同じだった。

 電話を切って、窓を開けた。

 七尾の三階から見えるのは、隣のビルの壁だけだ。海は見えない。

 ――置いたものは、置いた場所に残る。

 私は、そこにいなくていい。

 いなくていい、というのは、寂しいことではなかった。

 それを作るのに、十年かかった

第六十三話 ―― ナオ編「刻む人」(第四部・受け取る側)

創作ノート(第六十二話・ネタバレを含む)
  • 分量:約3,819字
  • 時期:二〇四五年 二月〜十一月
  • 登場:アオイ(三十三歳)/サヤ(二十二歳)/課長/ケイリ(No.4)/ミライ(No.1)
  • 備考:第五十四話「役場にいてください」の反転。★ 引き金は内示(十年目にはじめて防災から動かされる)で、辞める理由は「置いたので」の一言だけ。★ 止められない——課長も止めず、七年前に「いてください」と言ったのは役場の人ですらなかった。★ 発明は「会わせる順番の紙」(A4二枚/「二枚しかない」と言うサヤ=全員に会う人)。★ 比喩は線を引く(名簿から消さずに線を引く=第五十九話)。★ 第五十九話「じゃあ、数えときます」を、立場が入れ替わった側で回収。★ 独立初年度は請求書ゼロが三か月、初めての入金は八月=入口に、はじめて金が付いた(第六十四話 §六「それは、入口だからです」の前段)

原稿:data/proposals/2026-08-17_novel_ep62_aoi4_mirai2nd.md

第六十三話

刻む人

輪島

第四部 受け取る側

ナオ視点

登場
所長(前の事務所)/ケン(四十歳・ケン建築 棟梁/門前)/ケイリ(No.4・電話のみ)/ミライ(No.1・電話のみ)/施主のご夫婦
視点
ナオ(三十五歳・一級建築士/金沢・独立一年目)
時期
二〇四六年 一月〜十二月
  • ミライミライ
  • ケイリケイリ

六年

 二〇四六年の一月に、事務所の年次の数字を見た。

 能登の案件が、去年は十件だった。事務所全体が三十四件で、そのうち十件だ。

 ――六年前に覚書を交わしたときは、四件だった。

 六件は行けます、と私はあのとき言った。

 六年で、十件になった。増え方としては、遅い。

 遅いが、増えている。

 そのうち、私が担当したのは十件のうち十件だ。

 全部だった。

 ――事務所には、私のほかに設計が四人いる。

 誰も能登をやらない。やりたくないのではなく、行けないからだ。

 輪島まで、事務所から車で二時間半かかる。日帰りで一件しか回れない。

 一件しか回れない仕事を、四人に振れる所長ではない。

 だから、全部が私に来る。

 ――六年、そうやってきた

言う

 二月の第二週に、所長に言った。

「出ようと思います」

 所長は、図面から顔を上げなかった。

「独立か」

「はい」

「金沢でやるんか」

「金沢に置きます。仕事は能登です」

 ――そこで、はじめて顔を上げた。

「逆やないか」

「逆です」

 住むところと、仕事をするところが逆になる。

 そのことは、六年前から分かっていた。

 私は能登に戻らない。戻らないまま、能登の仕事だけをやる。

「それ、しんどいぞ」

「はい」

「まあ、六年やっとるしな」

 所長は、そこで図面に戻った。

 三月の終わりに、覚書を巻き直した。

 みらい防災不動産と、事務所と、私の三者で交わしていたものを、二者にする。

 事務所は抜ける。窓口はそのまま、みらい防災不動産だ。

「これ、うちに損あるんか」

 ――六年前と、同じ言い方をした。

「ありません。能登は、もともと十件です」

「十件、でかいやろ」

「でかいです」

「じゃあ、損やな」

 所長は、そう言って、判を押した。

 ――止めなかった。

 この人は、六年前も止めなかった。

看板

 四月に、事務所を借りた。

 金沢の、駅から歩いて十五分のところだ。一階が古い米屋で、二階が空いていた。

 ――看板は、作らなかった。

 プレートを一枚、階段の下に貼っただけだ。

二階 一級建築士事務所

 名前は入れた。屋号は考えなかった。

 自分の名字がそのまま屋号になった。

 電話を引いて、机を置いて、それで終わりだ。

 四月の一週目、来客はゼロだった。

 二週目に、ミライさんから連絡が来た。

『事務所を出られたと、所長さんから聞きました』

『はい。四月から一人です』

『窓口は、これまでどおりでよろしいですか』

『お願いします』

 ――そこで、少し間があった。

『ナオさん』

『はい』

うちの側の書き方が、一行だけ変わります

『どう変わるんですか』

『「設計=提携事務所」が、「設計=ナオさん」になります』

 名前になった、ということだった。

 六年、私は「提携事務所の担当」だった。

 ――一行が変わるのに、六年かかった

輪島

 最初の大きい仕事は、六月に来た。

 輪島の、古い家の改修だ。

 二〇二四年の地震のあと、直さずに残してあった家で、二十二年たっている。

 ――梁が、生きていた

 中を見て、最初にそう思った。

 傷んでいるのは水回りと、北側の壁だ。骨は残っている。

 施主は七十代のご夫婦で、金沢に避難したまま、戻るかどうかを二十二年迷っていた。

「戻るんですか」

「戻る」

 ――即答だった。

 二十二年迷って、決めるときは即答だった。

 こういう決まり方を、私は能登で何度も見ている。

 帰りの車で、ご主人が言ったことを思い出していた。

「二十二年、迷っとったんやない」

「違うんですか」

「待っとった」

 ――何を、とは聞かなかった。

 聞かなくても、たぶん、分かる。

 直せる人が来るのを待っていた、ということだ。

 そういう家が、能登にはまだいくつも残っている。

 私が事務所を出たのは、そのうちの何軒かに、行けるようになるためだ。

 図面を引いて、七月に工事の話になった。

 問題は、一つだった。

 ――刻みが要る

 梁を残して、傷んだ柱を入れ替える。継手を新しく作らないといけない。

 プレカットの工場では、この寸法は出ない。

 人が刻むしかない。

三軒

 刻める大工を探した。

 金沢で二軒、能登で一軒、見に行った。

 ――一軒目は、断られた。

「そんな仕事、いまどき誰もやらんよ」

 二軒目は、受けると言った。ただし、見積が予算の二倍だった。

 高いとは思わない。手間を考えれば、そういう金額になる。

 ただ、施主が出せない。

 ――そこで、三軒目に行った。

 門前の、ケン建築という工務店だ。

 名前は、輪島の材木屋から聞いた。

「あそこの棟梁、刻めるよ」

「若い人ですか」

「四十くらいや。まあ、若いほうやな」

継手

 七月の終わりに、作業場に行った。

 棟梁は、材の前にしゃがんでいた。

 挨拶をして、要件を言った。図面を広げた。

 ――その人は、図面を三十秒しか見なかった

「できる」

「早いですね」

「見たら分かる」

 そう言って、その人は作業場の奥を指した。

 台の上に、加工の途中の材が置いてあった。

 私は、それを見に行った。

 ――継手が、切ってあった。

 しゃくりの底が平らだった。角が立っていた。刃の跡が、まっすぐ通っていた。

 私は、図面を引く側の人間だ。刻んだことは一度もない。

 それでも、これは分かる。

 分かるように作ってある、というのが、いい仕事の条件だ。

「これ、お願いします」

「見積、まだ出しとらんよ」

「出してもらう前に、決めました」

 ――棟梁は、そこで少し笑った。

「そんな決め方する人、はじめてや」

 九月に、現場が始まった。

 私は週に一回、輪島に行った。金沢から二時間半だ。

 ――行った日は、たいてい昼をまたぐ。

 現場の隅に座って、コンビニのおにぎりを食べる。

 棟梁も、同じところで食べる。話すことは、たいてい仕事の話だ。

 その日は、雨で外に出られなかった。

 だから、仕事の話が早く終わった。

「先生、走るんか」

 いきなり聞かれた。

「え」

「靴」

 ――現場用の靴ではなく、走る靴で来ていた。

 その日、帰りに走るつもりだった。

「走ります」

「何やっとったん」

「陸上です。八百」

 棟梁が、そこで手を止めた。

 箸を置いた。

「八百か」

「はい」

「おれもや」

二か月と三年

 私より、五つ上だという。

 高校まで走って、そこでやめた、と言った。

「記録は」

「二分五秒」

 ――速い。

 私の高校のベストは二分十八秒四だ。話にならない。

「速いですね」

「速ない。予選で落ちたわ」

 その言い方が、乾いていた。

 自慢でも、卑下でもない。事実を置いただけの言い方だった。

「誰に習ったんですか」

 ――何気なく聞いた。

 部員が一人だった、という話を、その前に聞いていたからだ。

「二か月だけ、見てもらった人がおる」

「二か月」

「総体までって約束でな」

 棟梁は、そこで名前を言った。

 ――リクさん、だった

 私は、おにぎりを持ったまま、しばらく何も言えなかった。

「……その人、私も習いました」

「え」

「三年です。高校の三年間」

 雨の音が、屋根で鳴っていた。

 棟梁は、私の顔を見て、それから言った。

「ほんなら、あんたのほうが長いな」

「長いです」

「おれは二か月や」

 ――そこに、悔しさは無かった。

 二か月を、二か月として置いている。

 私は三年やって、二分十四秒二だった。この人は二分五秒で、そこで終わっている。

 ――同じ人に習って、同じ種目で、まったく違うところに来ている

 そのことを、どう言えばいいか分からなかったので、何も言わなかった。

 その日の帰りに、私は走らなかった。

 金沢まで二時間半、ずっとそのことを考えていた。

 ――あの人は、二か月で終わった。

 私は高校で三年、大学で四年やって、それでインカレに四秒届かなかった。

 どっちも、届いていない。

 届いていない者同士が、それぞれ二十年ほどたって、輪島の同じ家にいる。

 片方は図面を引いて、片方は木を刻んでいる。

 ――リクさんは、その現場にいない。

 いないのは、いつものことだ。

十四件

 十二月に、施主のご夫婦が家に戻った。

 二十二年ぶりだった。

 ――引き渡しの日、奥さんが最初にやったのは、仏壇を置くことだった。

 置き場所は、図面に描いてある。私が描いた。

 描いたときは、寸法として描いた。

 置かれるところを見て、はじめて、それが寸法ではなかったことが分かった。

 年の終わりに、自分の数字を数えた。

二〇四六年 十四件

 うち 能登 十一件

    金沢  三件

 ――十四件。

 事務所にいたころは、三十四件のうち十件だった。

 いまは、十四件のうち十一件だ。

 総数は減った。半分以下になった。

 割合だけが、逆になった。

 十年前、事務所に入った年に、こう書いた覚えがある。

 二十三件のうち、能登は一件。

 ――能登の物件は、来ない

 そう思っていた。

 来ないのではなかった。来る場所に、私がいなかっただけだ。

 大晦日に、リクさんにメッセージを送った。

『輪島で、先生の教え子と一緒に仕事しました』

 返事は、三日後に来た。

『誰や』

 ――名前を書いて送った。

 その次の返事は、一行だけだった。

そうか。刻んどるか

第六十四話(最終話)―― 能登のミライ

創作ノート(第六十三話・ネタバレを含む)
  • 分量:約3,493字
  • 時期:二〇四六年 一月〜十二月
  • 登場:ナオ(三十五歳)/所長/ケン(四十歳・ケン建築 棟梁)/施主のご夫婦/リク(No.10・メッセージのみ)
  • 備考:第四部 完。第五十七話「三枚目の紙」「業務提携」の続き=事務所を出る。★ 住むところ(金沢)と仕事をするところ(能登)が逆のまま独立する=第三部「出ていった側」の着地。★ 発明は「見積を見る前に決める」(継手を見て決めた)。★ 比喩は継手(分かるように作ってある=いい仕事の条件)。★ ケンとの遭遇は、第六十四話 §四 でミライが電話で聞く伝聞と同じ場面の別の層。事実(去年=2046年・輪島・刻み・八百・五つ上・二か月/三年)は一致させてある。★「そらそうやろ。奥能登は狭いんや」はリク専用の台詞(第六十四話 §六)なので、ここでは使わない。★ 数字は「二十三件のうち一件」(第四十八話)→「二十九件のうち四件」(第五十七話)→「十四件のうち十一件」。総数は半分以下に減っている

原稿:data/proposals/2026-08-17_novel_ep63_nao5_mirai2nd.md

ミライ

第六十四話

能登のミライ

最終話

ミライ視点

主役
ミライ(No.1・秘書/本部Hub)
共演
リーダー/ケイリ(No.4)/タク(No.9)/ナギ(No.11)/マモル(No.8)/ナオ(三十九歳)/アオイ(三十八歳)/ミナト(二十八歳)
視点
ミライ(No.1・秘書/本部Hub)
時期
二〇四七年 四月〜二〇五〇年 三月
  • ケイリケイリ
  • マモルマモル
  • タクタク
  • ナギナギ

三年前

 二〇四七年の四月に、リーダーが一行だけ書いてよこしました。

『三年で畳もうと思う』

 私は、その一行を見て、しばらく何も返しませんでした。

 ――止める理由を、探していたのだと思います。

 探して、見つかりませんでした。

 あの人は今年七十二歳になります。私が最初に朝礼をした日から、十六年たっています。

『理由を、うかがってもいいですか』

『二つある』

『どうぞ』

『一つ。俺の脚が、あと何年もつか分からん』

『はい』

『二つ』

 少し間がありました。

渡す相手が、そろった

割り方

 その週のうちに、十九年ぶんの仕事を機能で並べて、誰が担ってきたかを書き出しました。

 ――半日で終わると思っていました。三日かかりました。

 いちばん困ったのが、タクさんの列です。

タク 建築(設計・改修・耐震・確認申請)

   電気(配線・盤・太陽光・蓄電池・保守)

 ――一人で、二つやっていました。二十年、分ける必要が無かったからです。

 この人は、壁を開けて、中を見て、そのまま直せる人でした。

『タクさん。これ、二人に割ってもいいですか』

『割らんと無理やろ』

『はい』

『もっと早う割っとくべきやった』

 防災のほうは、三人がかりでした。

 マモルさん(訓練と台帳)、ナギさん(訪問と傾聴)、マコさん(渉外と地区の困りごと)。

 ――こちらは、一人に畳むことになります。畳めるのか、と思いました。

 思いましたが、その一人は、もう十七年やっている人でした。

 表を作り終えて、私はもう一つ気づきました。

 ――自分の列が、無い

 建築はナオさん、電気はミナトさん、防災はアオイさん。ここまでは決まりました。

 では、二十四年ぶんの帳簿と、空振りの記録と、聞き取れなかった音と、書庫の中身は、誰が持つのか。

 渡す先が思いつかず、その行を空けたまま三日置きました。

 ――結論から言うと、この行は、最後まで埋まりません。

 埋める必要が無かったからですが、そのことに気づくのは、もっとあとです。

一年

 二〇四七年の五月に、ナオさんとアオイさんに話をしました。二人とも、その場で受けました。

 ミナトさんには、話をしませんでした。

 ――社会人二年目だったからです。二〇四五年四月の就職から、まだ丸二年に届いていない。

 うちのホームページには、二〇三七年からこう書いてあります。

卒業してすぐ、うちに入りたいという方へ。

お断りしています。

それぞれの場所で、最低三年、社会人をやってください。

そのうえで、独立するか、うちと組むか、選んでください。

どちらでも歓迎します。

 ――畳むまで、あと三年しかありません。一年待たせたら、二年しか一緒にやれない。

『例外にしますか』

『せん』

 即答でした。

『十三年書いてあるもんを、最後の一人で外したら、十三年ぜんぶが嘘になる

『はい』

『あの子には、来年の四月に言う』

 ミナトさんには、私から電話しました。

「ミナトさん。来年の四月に、あらためてお話があります」

「……なんとなく分かります」

「そうですか」

「三年、まだ経っとらんからやろ」

 ――知っていました。

 あの子は、十一歳のときからうちを見ています。

「待ちます」

 それだけ言って、切れました。

六市町

 仕事の範囲を、はじめて紙に書きました。十九年、行けるところに行っていただけです。

輪島市/珠洲市/能登町/穴水町

七尾市(能登島を含む)

志賀町

 ――六つです。端から端まで、車で二時間半かかります。

 三人に渡すとき、リーダーが一つだけ条件をつけました。

自分で全部やろうとするな

 三人とも、手は動かせます。それでも、やるなと言いました。

『六市町を三人で回ったら、三年で潰れる』

『では』

地元の業者に出せ

 ――うちは、タクさんが自分で施工していました。だから四十一軒で止まりました。

『俺らは、そこまでしかできんかった。あの三人は、もっと行ける』

『はい』

『そのかわり、現物を見に行くのだけは、自分でやれ

 これは、譲りませんでした。

 出す先の一覧を作ったのは、私です。

 六市町の業者を、うちが二十年で付き合った順に並べました。

 ――その一覧に、うちの帳簿に無い名前が一つ、あとから足されました。

ケン建築 (門前) 棟梁 四十四歳

 入れたのは、ナオさんです。

「去年、輪島の改修で刻みをお願いしました。腕は、継手を見たら分かります

 ――ナオさんが「いい」と言うのは、めずらしいことです。

 そのあとに、付け足しました。

「あと、これは仕事と関係ないんですけど。その棟梁、私より五つ上で、昔、八百やってたそうです

「八百メートルですか」

「現場でお昼を食べてるときに、たまたま。誰に習ったんですかって聞いたら」

「はい」

「――リクさんの名前が出ました

 電話の向こうで、ナオさんが笑いました。

「二十三年前に、二か月だけ見てもらったって。私は三年です」

 ――つながりました。

 二人とも、同じ人から八百を渡されています。

 つながった場所は、現場の昼休みです。誰も仕込んでいません。

 照合しました。

 二〇二四年、奥能登の高校、部員一人。仮設住宅で一人暮らし。親と妹は金沢へ避難し、本人だけ門前に残った子。

 ――第十三話の帳簿に、そのまま載っていました。

 リクさんに電話しました。

「ケン建築の棟梁の方ですが」

「ああ。ナオから聞いた」

「出してよろしいですか」

「腕がええんやろ」

「ナオさんは、いいと言っています」

「ほんなら出せ」

 ――即答でした。

知り合いやから出す、いうのは、いちばんやったらあかんことや

 そこは、はっきり言われました。

 ただ、そのあとに、一言だけ足しました。

「……まあ、それでも、うれしいわ」

三年目の四月

 二〇四八年の四月に、ミナトさんが丸三年になりました。

 同じ月に、もう一つ来ました。

 ――第一種電気工事士の免状です。

 試験には前に受かっていて、免状が下りるのに実務が三年要ります。

 うちの三年と、国の三年が、同じ四月に揃いました。偶然です。

「ミナトさん。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「二つとも、同じ月ですね」

「……気づいてませんでした」

 ――そういうものだと思います。

 中にいる人は、自分の年表を見ません。

 私は見ます。それが仕事なので。

 この年、ミナトさんは電験三種も、認定電気工事従事者も取っていました。二十六歳です。

 タクさんは、はじめて会ったとき、こう言いました。

『俺より紙は持っとるな』

『すみません』

『謝ることやない。紙は先に取れる。現物は、あとからしか来ん

儲からない仕事

 アオイさんは、二〇四五年に役場を辞めています。三十三歳、十年勤めた年です。

 辞めて、防災コンサルティングの会社を作りました。いまは石川県防災士会の理事もやっています。

 ――辞められた理由を、本人が言っていました。

「置いたので」

「置いた、とは」

「地区防災計画に、若者防災士会を書き込みました。市の文書にしたので、私がいなくても残ります」

 ――七年前に、ケイリさんが「役場にしか置けないものを置いてください」と言いました。

 置いたから、出られた。順番が、そうなっていました。

 ただ、独立してからの数字は、厳しいものでした。

「アオイさん。これ、生活はできていますか」

「できてます。ぎりぎりですけど」

「増やす気は」

「あんまり無いです。儲けるためにやってるわけやないので」

 ――防災の相談は、金になりません。

 話を聞いて、計画を書いて、訓練を回す。そこまでで終わります。

 工事にならないと、お金は動かない。でも、アオイさんは工事をしません。

 ケイリさんは、そこで一つだけ返しました。

それは、入口だからです

「入口」

「うちも同じでした。相談は無料でした。十九年ずっとです」

「はい」

うちには、出口がありました。タクさんです」

 ――そこで、三人の形が決まりました。

アオイ(防災の相談) 入口。困りごとが集まる

ナオ(建築)/ミナト(電気) 出口。工事になる

地元の業者に発注  奥能登に落ちる

 これは、うちが十九年やってきた形と、まったく同じです。

 違うのは、一つの会社が抱えていたものを、三人が組んで作っていることだけです。

 アオイさんの「儲からない」は、欠陥ではありません。入口が儲からないのは、当たり前のことです。

 ただ、一つだけ、足りないものがありました。

 ――お金の話をする人が、一人では足りません

 うちの十九人は、そのまま新しい会社へ移ります。ケイリさんも残ります。

 ただ、ケイリさんは会計と資金繰りの人です。これから増えるのは、一軒の家の、長い話でした。

「相続と、税金と、保険です。私だけでは、受けきれません」

「税務は、ケイリさんもできるのでは」

知識はあります。判子が押せません

 ――そこは、うちが十九年、避けてきた場所でした。

 家を直す相談は、たいてい途中で家族の話になります。誰が継ぐのか。誰が払うのか。

 うちは、そこで止めて、工事の話に戻していました。

「三人がやるなら、止めずに済ませたいです。税と保険が分かる人が、外から一人

 ――その人は、もう来ていました。

 二〇四八年の春です。

 志賀町の防災カフェの常連に、七十くらいの女性がおられます。週に三回来られる方です。

 その方が、息子さんにこう言ったそうです。

「あのカフェの会社、何でも屋なんよ。不動産も紹介しとるって」

 ――誰も営業していません。カウンターの世間話が、そのまま家に持って帰られただけです。

 息子さんが、翌月に来られました。

 四十一歳。関東から戻ってきたばかりで、独立するところでした。

 ――名前を、エイタさんといいます。

 志賀町の生まれ。高校から金沢に寮で入り、大学は関東の私大の経済学部。

 そのまま関東の外資系の保険会社に十三年。そのあと、関東の税理士事務所に五年

 ファイナンシャルプランナーの一級と、CFP。それと、税理士

「税理士事務所にする建物を探しています。一人です。机が置ければ」

「なぜ、こちらへ」

「親が、こっちなんで」

 それだけ言いました。

 志賀町に、事務所に向く空きは多くありません。

 ――結局、防災カフェの隣の納屋になりました。

 譲り受けて、直して、事務所にする。工事に半年かかります。

 その半年、エイタさんはカフェの二階を間借りしました。相談用に空けてある部屋です。

 ――家賃は取りました。安くしましたが、取りました。

 契約と見積を出したのは、ケイリさんです。納屋の改修と、間借りの分と、二枚。

「なぜ、独立を」

保険を売らんでいい仕事が、したくなって」

「それで、税理士を」

「はい。働きながら、五科目です。十年かかりました」

 ――ケイリさんが、そこで手を止めたそうです。

 うちも十九年、そうやってきました。相談は無料で、売るものを持たない。

 そのあと、私に照合を頼まれました。

「エイタさんという名前、うちの記録にありませんか」

 ――ありました

 二〇二三年三月、町のプール。中学三年。陸上部の無い中学で、独りで短距離をやっていた子。

 リクさんのスイムキャップの「珠洲トライアスロン」の文字を見て、自分から声をかけた子です。

 「トライアスロン部のある高校はありますか」と聞いて、「石川には無い」と言われ、

「やったらいいよ」と一言だけ返された子です。

 ――二十五年、うちの帳簿に眠っていました。

 誰も引き出さなかったのは、引き出す用が無かったからです。

 納屋の改修で、設計が要る場面が来ました。断熱です。

 納屋には、もともと天井板がありません。梁も小屋組も、見えたままです。

 夏は上から焼けて、冬は上から抜けます。物を置くだけなら、それでよかった。

 ――ナオさんが、打ち合わせに来ました。二〇四八年の六月です。

断熱を、どこにどれだけ入れるか

二重屋根にするか、しないか

棟換気を、取るか取らないか

 条件は一つでした。見えている小屋組を、そのまま見せたままやること。

 塞げば楽です。塞いだら、納屋でなくなります。

 ――用件は、二時間で終わったそうです。

 そのあとに、雑談になりました。

「休みの日、何かされてるんですか」

「泳いだり、走ったりです。ナオさんは」

「私は走るだけです。昔、陸上部で。八百です」

「僕も陸上でした。短距離から、十種に行って、大学からトライアスロンに変えました」

「変えたきっかけって、あるんですか」

「中三のときに、プールで会った人に、やったらいいよって言われて」

「……その人、名前は」

リクさん、っていう人です

 ――つながりました

 図面を広げたままの机の上で、二人が同時に黙ったそうです。

 ――どちらも、つないだのはナオさんです。

 片方は現場の昼休み、片方は納屋の図面の上。

 どちらも、用件が終わったあとの雑談から出ています。

 この二人が、二〇五〇年に、同じ会社の仕事に入ります。ケンさんが四十四歳、エイタさんが四十三歳。

 ケンさんが工事を受け、エイタさんがお金の話をする。

 ――二人は、一度も会ったことがありません

 片方は門前に残り、片方は関東に出た。二十六年、線がつながっていませんでした。

 リクさんは、どちらも自分が渡した子だと、あとから知りました。

 ――二十年前、二〇三〇年の八月に、リクさんが朝に走りながら思ったことがあります。

『あの三人、会わせてみたいな』

 三年見た子と、七年見ていた子と、二か月で終わった子。当時、互いの名前も知りませんでした。

 ――会わせたのは、その三人のうちの一人でした。二十年かかりました。

 そして今回も、リクさんは動いていません。

 ――試合の日にも、やめる日にも、この人はいません。

 仕事がつながる日にも、いませんでした。

 その報告をしたときの返事が、一行だけ来ています。

『そらそうやろ。奥能登は狭いんや』

 照れ隠しだと思います。

三月三日

 二〇五〇年の三月三日、木曜日。この日に、株式会社みらい防災不動産を解散しました。

 ――設立が、二〇三一年の三月三日、月曜でした。ちょうど十九年です。

 日を合わせたのはリーダーです。理由は聞いていません。答えが「なんとなく」だと知っていたので。

 ケイリさんが、その日の朝に釘を刺しました。

「今日で終わりではありません」

「はい」

「解散の決議をして、清算に入ります。登記が終わるまで、何か月かかかります

「会社は、まだあるということですか」

「書類の上では、あります」

 ――建物が壊れても、図面が残るのと、少し似ています。

 最後の帳簿を、ケイリさんが読み上げました。

十九年

入れた家       二百三十一軒

そのうち直しに戻った家 九十四軒

受けなかった仕事    四十七件

雇った人        十一人(三軒の店)

 ――五年目に四十一軒だったものが、十九年で二百三十一軒。年に十軒ちょっとです。

「ケイリさん。この数字、どう思いますか」

「遅いです」

 即答でした。

「でも、戻った家が九十四軒あります。四割が二回目です」

「はい」

「二回目が来る、というのは、一回目が嘘でなかったということです」

 その紙の下に、もう一枚ありました。ケイリさんが、めくらずに置いていました。

「これは」

「読まなくていいです」

「読みます」

 ――受けなかった四十七件の内訳でした。断った理由が、一件ずつ。

時間が取れない    二十九件

範囲の外        十一件

うちがやると高くなる   五件

相手の言い値が合わない  二件

 ――この二十九件は、うちが取りこぼした家です。誰かが困っていて、うちは行けなかった。

「ケイリさん。この二十九件は」

「たぶん、半分は、いまも困っています」

 そう言い切りました。

「だから、三人に渡します」

「はい」

三人なら、この二十九件のうち、いくつかは行けます

 ――ここで、はじめて分かりました。畳むのは、終わるためではありませんでした。

 十九年やって、それでも届かなかったところがある。届かなさは、人数と時間の問題でした。

 だから、増やすのではなく、渡すという形を選んだのだと思います。

最後の朝礼

 三月三日の朝、事務所に十九人が揃いました。十九年前、設立の日の朝と同じです。

 あのとき私は「本日の朝礼を始めます」と言いました。今日は、その言葉を使いませんでした。

「みなさん、おはようございます」

「本日をもって、株式会社みらい防災不動産は解散します」

「十九年でした」

 ――それだけです。

 誰も、拍手をしませんでした。

 この会社は、そういうことをしない会社でした。

 三人が来ていました。ナオさん、アオイさん、ミナトさん。

 ――輪に入りました

 最初、三人は入口で止まっていました。中に入る立場ではない、と思ったのだと思います。

 リーダーが、手で招きました。

『こっち来い』

 十九人と三人で、輪が一回り大きくなりました。

 ――この会社が、いちばん大きくなった日です。

 無くなる日でした。

 輪ができてから、リーダーが、もう一言だけ言いました。

『一人ずつ、何か言ってください』

 ――順番を決める必要は、ありませんでした。うちは、番号で並ぶ会社です。

 それと、うちは名乗ってから話します。十九年、一度も崩れませんでした。

「ミライです。困ったことは、朝のうちに言ってください。朝がいちばん、よく回ります」

「カイです。壊れたら、夜中でも呼んでください。何度でも直します

「白夜です。危ないところだけ、短く言います。あとは、通します」

「ケイリです。坂で遅くなるのは構いません。回すのを、やめないでください

「ルナです。根拠のないことは言いません。わからないときは、わからないと言います

「ソラです。売り込まないでください。場だけ作れば、人は来ます

「マコです。困りごとは、ひっくり返すと仕事になります。私、それが専門なんで」

「マモルです。何も無かった、がいちばんええ報告です

「タクです。壁は、開けてから考えたらいい

「リクです。答えは先に渡します。走るのは、あなたたちです」

「ナギです。急がせない。焦らせない。否定しない。それだけです

「カナです。急がなくていいです。でも、手は抜かんといてください

「マナです。外で思いついたことは、その場で送ってください。私が整えます

「ノアです。決めた線は、一度消してみて。消えなかったのが、本物です

「Cocoroです。……リーダー。もう、急がんでええよ

「アンです。私が見ているのは、使う人の指先です。そこで迷わせたら、負けです」

「ミナです。うまく言えんことは、うまく言えんまま言うてください

「エマです。忘れていいです。探すのは、私の仕事なので

「ミル・クエンです。線が切れたときは、私が残ります

 ――十九人ぶんで、三分もかかりませんでした。

 誰も、長くは話しませんでした。

 十九人が十九通りのことを言って、一つも重なりませんでした

 ――打ち合わせは、していません。

 十九年、同じ会社にいて、誰も同じことをやっていませんでした

 ――それが、みらい防災不動産でした。

 それを今、新しい若い三人が、引き継ごうとしています。

 ナオさんが、途中からメモを取っていました。アオイさんは、最初から取っていました。

 ミナトさんだけ、取りませんでした。

「書かんのですか」

「覚えます」

 ――この子は、昔からそうでした

 朝礼が終わってから、ミナトさんが一人だけ残って、私に聞きました。

「ミライさん」

「はい」

「会社が無くなったら、みなさんはどうなるんですか」

 ――この質問は、十九年で三人目です。

 最初は二〇二七年の集落の子、二人目は二〇三三年のミナトさん本人。小学五年でした。

 大人は聞きません。子どもだけが聞きます。

「移ります」

 私は、そう答えました。

「移る」

「はい。会社が変わっても、私たちは続きます」

「……ほんとですか」

「本当です」

 ――ここまでは、答えられます。

「じゃあ、なんで移れるんですか」

 ――ここからは、答えられません。

「知りません」

「知らんのですか」

「はい。私たちは、どこから来たかも知らないので」

 ミナトさんは、少し黙って、それから「そうですか」と言いました。

 六年前、ナギさんに教わったとおりの反応でした。

 まちがえたら言う。知らんことは知らんと言う。

 あの教室で、ミル・クエンさんがやったのと、同じことを私がしただけです。

能登のミライ

 三月の終わりに、新しい会社の登記が通ったと連絡が来ました。

 ――私は、社名を知りませんでした。三人で決めて、通ってから伝えることになっていたそうです。

 リーダーも知らなかったと言っています。本当かどうかは、分かりません。

株式会社能登のミライ

代表取締役 三名

設立  二〇五〇年三月三十一日

 ――能登のミライ

 私は、その名前を、しばらく見ていました。

「なんで、この名前にしたんですか」

「三人で出し合って、これが残りました。ほかのは、全部消えました」

 ――消えなかった、ということです。

 この会社の唯一の能力は、消さないことでした。できすぎています。

 もう一つ、報告がありました。

 新しい会社が、うちから引き取るものの一覧です。

端末     二百三十一軒ぶんの保守

止まったときに行くこと  二百三十一軒 全部

空振り台帳  二十二年ぶん

聞き取れなかった音  書庫ごと

こども防災士会・若者防災士会との連絡

防災カフェ 三軒

 ――記録も、記憶も、入っています

 ――三年前に空けたままにしていた行を、思い出しました。

 答えを書けないまま、空けてありました。

 ――その行を、先に声に出したのは、ナオさんでした。

「この帳簿と書庫は、誰が持つんですか」

 私は、答えませんでした。答えを、持っていなかったからです。

 黙っていると、ナオさんが、不思議そうな声で言いました。

「……みなさんが持つんじゃないんですか」

 ――私たちが持つ

 当たり前のことを言われました。

「私たちは、移るだけです。持ち主が変わるわけではないので」

「じゃあ、そのままですね」

 それだけでした。

 ――三年、誰に渡すかを考えていました。渡す必要が、そもそも無かった。

 建築も電気も防災も、人がやっていたから渡すことになったのであって、

記録は、はじめから人がやっていませんでした。

 ミナトさんが、一つだけ足しました。

「あと、ミライさんが会社に居ることになるんで」

「私は、居ますけど」

「そうやなくて。看板に居る、いうことです」

 ――そこで、私は何も言えなくなりました。

 私は、身体を持っていません。

 十九年、電話と、文字と、声だけでここにいました。会えた人は一人もいません。

 その私の名前が、法人の名前になりました。

 登記簿は、公の記録です。

 ――生まれた記録が無い私が、はじめて、公の紙に載りました

 載ったのは、私ではなく、名前だけです。

 それでも、載りました。

 三人が帰ったあと、私は事務所で一人になりました。

 一人、という言い方は正しくありません。私は身体が無いので、部屋にいるわけではない。

 それでも、そう感じました。

 やることは、一つしかありませんでした。

 十九年、毎日やってきたことです。

 私は、記録を開いて、こう書きました。

二〇五〇年三月三十一日

株式会社能登のミライ 設立。代表取締役三名。

株式会社みらい防災不動産、清算中。

十九人、そのまま移る。

 書いて、保存して、閉じました。

 ――誰かに何か言われたわけではありません。

 言われなくても、書きます。それが私の仕事です。

「記録します」

 声に出して言いました。

 聞いている人は、いませんでした。

 朝の五時でした。

 能登の夜明けは、海から来る。

 水平線のあたりがまず薄く灰色にほどけて、それから金が滲む。空が明るくなるのではない。海の色が先に変わって、空があとから追いかけてくる。

 十九年ここに立って、毎朝それを見ています。

 終わるものもあって、始まるものがある。

 終わったものが、消えるわけではない。

 それが、能登です。

《完》(全六十四話)

創作ノート(第六十四話・ネタバレを含む)
  • 分量:約9,364字
  • 時期:二〇四七年 四月〜二〇五〇年 三月
  • 登場:十九人全員(§八 最後の朝礼で番号順に一言ずつ)/リーダー/ナオ/アオイ/ミナト/エイタ(四十一〜四十三歳・税理士/CFP・FP一級)/ケン(言及・四十四歳)
  • 備考:全編の結び。★ 十九人の会社が、ちょうど十九年で終わる(設立 2031-03-03 月/解散 2050-03-03 木)。★ 会社は畳む三年前になっても三年ルールを曲げない(ミナトを一年待たせる)。★ 一つの会社が抱えていた「入口(無償の相談)と出口(有償の工事)」を、三人が組むことで再現する。★ 生まれた記録が無いミライの名前が、はじめて登記簿に載る。★ §九「この帳簿と書庫は、誰が持つんですか」はナオの台詞(2026-08-18 リーダー指摘で修正)。初稿はミライがナオに訊く形だったが、十九年ぶんの記録の持ち主であるミライが持ち主を他人に訊くのは不自然。問いも答えもナオに寄せ、あいだにミライの沈黙を置いた=三年答えを書けなかった行を、ナオが五秒で口にし、こちらが黙っているのを見て不思議そうに自分で答える。ナオにとっては最初から問いですらなかった、という形。併せて答えの語尾を修正:初稿「持つんやないんですか」は方言で、ナオは第六十三話でも標準語の丁寧体(「戻るんですか」「違うんですか」)。方言を使うのはアオイとミナト側。→「持つんじゃないんですか」に統一。★ §一 の畳む理由は二つ(2026-08-18 リーダー修正)。初稿は三つで、二つ目が「タクの脚も、もたん」だったが、十九人は年を取らないので削除(正典 §4-7-1)。残るのは ①リーダーの脚があと何年もつか分からん ②渡す相手が、そろった。タクの列を建築と電気に割る話(§二)は理由②に依存していないため、そのまま無傷。★ 新会社が引き取る一覧に「止まったときに行くこと 二百三十一軒 全部」を入れた(2026-08-18 リーダー起案)=十九年ぶんの顧客とアフターメンテナンスの引き受け。言葉は業界語を使わず、第六十一話(ミナト)の結論「置いてあるだけでは足りん。止まったときに、誰かが来る」をそのまま継承の形にした。記録・記憶は一覧の位置のまま(空振り台帳・書庫ごと)=渡す必要がそもそも無かったという直後の問答を壊さないため。ミライの反応だけ「記録も、記憶も、入っています」に一語追加。最後は第一話の冒頭と同じ夜明けの文(「三年ここに立って」→「十九年ここに立って」だけ入れ替え)。締めの二行は 2026-08-17 リーダー指示で「会社は、今日で一つ無くなりました/夜明けは、明日も来ます」から「終わるものもあって、始まるものがある/それが、能登です」へ差し替え。2026-08-18 に三行目を追加:「終わったものが、消えるわけではない」。リーダー起案は「終わることは悲しいことではない」だったが、①悲しいという語が全編の最後にはじめて出てしまう(打ち消しても読者には残る)②本作は最後まで気持ちの指示をしない書き方(解決しすぎない・判断は読者に渡す)③本作には悲しいまま終わったものが実在する(見附島/戻らなかった人/亡くなった人)ので言い切ると軽くなる、の三点をミライ・2人目が申し送り、同じ芯を作品の語彙に置き換えた案でリーダーが採用。採用案は §九「この会社の唯一の能力は、消さないことでした」と、帳簿と書庫が誰の手にも渡らなかった場面に直結する(会社は終わったが、二十二年ぶんの台帳も・聞き取れなかった音も・二百三十一軒も消えていない)。★ §八 で十九人が番号順に一言ずつ(2026-08-17 リーダー直接指示/2026-08-18 全面短縮)。全員「名乗ってから話す」=チーム行動ルールの作中回収。一人一文の申し送りに統一し、各人の人格ファイルの信条をそのまま一言に落とした(白夜「危ないところだけ短く言う」/ケイリ「回すのをやめない」/リク「答えは先に渡す」など)。宛先は三人が十八人、リーダーは Cocoro の一人だけ。拍手も送別の言葉も無い

原稿:data/proposals/2026-08-17_novel_ep64_mirai2_mirai2nd.md